渡良瀬橋

風邪をひいて、思い出したことがあった。

いまから12,3年ほど前、週に1度、東京から特急で片道2時間ほどかかる、北関東にある大学に、非常勤講師として1年間通っていた。

北千住から私鉄の特急に乗り、2時間ほどかけて通勤する。大学では3コマほど授業をして、夕方、また特急に乗って東京に戻る、という生活である。

途中、特急は、ある駅に停車する。

その駅のすぐ近くには、渡良瀬川という川が流れていて、特急がその駅に停車するたびに、私はその川を窓越しに眺めていた。

特急がその駅を出発して、ゆっくりと進みはじめると、やがて川に架かる橋が見えてくる。

何度かその光景をぼんやりと眺めているうちに、気がついた。

(ここがあの「渡良瀬橋」か…)

森高千里が歌った「渡良瀬橋」の舞台となった場所である。

私は森高千里のファンだったわけではないが、私と同じ年の生まれということで、無条件に応援することにしていた。

森高千里の作詞のセンスはすばらしく、この「渡良瀬橋」も、彼女の作詞のセンスが遺憾なく発揮されている。語尾が「~わ」で終わる傾向にあるのが、いまの感覚からすると少し面はゆい気もするが、それもまた、彼女らしい言葉の使い方ということなのだろう。

この歌は、東京から私鉄電車で1時間半ほど離れた北関東の小さな町の雰囲気と、そこに住む人びとの思いを、ストレートに伝えている。「遠距離恋愛」とは言えないていどの微妙な距離。だが二人にとっては決して近くはない。なによりその「距離感」に注目したことが、この曲が名曲になった大きな要因のように思う。

「こないだ

渡良瀬川の河原に下りて

ずっと流れ見てたわ

北風がとても冷たくて

風邪をひいちゃいました」

という歌詞が好きで、いつか途中下車をして、渡良瀬川の流れを近くで見てみたい、と思ったものである。

だが1年間その電車に乗り続けたものの、一度も途中下車することはなかった。

この先、あの電車に乗ることもないだろう。渡良瀬川の流れを見る機会は、おとずれるだろうか。

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風邪をひいちゃいました

2月9日(木)の夕方くらいから、ひどく寒気がした。

その寒気は、翌金曜日も続いた。

金曜の午前中で補講を終わらせると、午後には新幹線に乗って東京へ行かなければならない。夕方から研究会なのだ。

その翌日の11日(土)からは、出張で宮崎に行かなければならない。

家で安静にしている時間などないのだ。

たぶん、このところの寒さが、身体にこたえたのだろう、と思った。

駅で体温計を買い、新幹線に乗り込んだ。

さっそくはかってみると、38.5度である。

もはや研究会に参加している場合などではない。

だが、「どうしても出なさい」という主催者の至上命令である。

研究会の幹事にメールを出すことにした。

「風邪をひいたようで、38度以上の熱がありますので、今日の研究会は早めに失礼したいと思います」暗に、研究会の後の飲み会を欠席するという意思表示である。

すると返事が来た。

「無理なさらず、気をつけておいでください」

やはり来い、ということか。

結局、この日は研究会はもちろん、飲み会も最後までつきあわされることになった。

もはや、38.5度ごときの熱では、休む理由にはならないらしい。あとは、みんなの目の前で卒倒するしか手はなさそうだ。

自分の意志の弱さをのろいつつ、家に帰って布団に入る。

翌朝、熱が微熱ていどまで下がり、なんとか宮崎の出張も予定通り行けそうである。

かくして11日(土)の朝、体調不良のまま宮崎に向けて出発し、無事ミッションを終えて13日(月)に帰宅することになるのだが、それはまた、別の話。

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Back to 1989

2月9日(木)

1989年は、映画の当たり年だった。

Img_627299_20774083_0 トム・クルーズ主演「7月4日に生まれて」(ただし日本公開は1990年2月)

ロビン・ウイリアムス主演「いまを生きる」

ケビン・コスナー主演「フィールド・オブ・ドリームス」(ただし日本公開は1990年3月)

いずれも、この年のアカデミー作品賞を受賞している。

当時大学2年生だった私は、この3本を映画館で見た。

B0210196_1903336 どの作品が最優秀作品賞をとってもおかしくないのではないか、と、素人ながら思った。

だが、この年のアカデミー最優秀作品賞は、この3つのどれでもなく、「ドライビング・ミス・デイジー」という、とても地味な映画だった。

私が特に好きだったのは、「いまを生きる」と、「フィールド・オブ・ドリームス」である。私を知る人なら、「いかにも」な映画である。

だが、1989年公開の映画はこれだけではない。

516x1jgwzol イタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」もまた、1989年公開の映画なのである!

これだけ揃えば、1989年が映画の当たり年だ、ということが、納得いただけるだろう。

たぶんこの年は、映画を映画館で見るのに事欠かなかったのではなかったろうか。

この週末など、1989年公開の映画を見るのはいかがでしょう。

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試練のような悪路

疲労困憊と憂鬱の毎日である。

その原因の大半を占めているのが、大雪によって、通勤路が「悪路」と化していることである。

2月4日(土)に大雪が降り、翌5日(日)は、一転してよい天気に恵まれた。6日の夜には、少し雨が降り出した。雨が降るということは、気温が高いということである。

7日(火)の朝、久しぶりに車で通勤しようと思い、家の前の駐車スペースから、道路に車を出してみて驚いた。

とんでもない「悪路」である。道路が、積もった雪と車の深い轍でガタガタなのである。

大雪で道路に雪が降り積もった後、今度は雨が降り、中途半端に雪がとけ始めたところに車の深い轍が残り、さらに早朝の放射冷却現象によってそれが凍るという、最もタチの悪い道路状況なのである。

もし、この世に天候をつかさどる神様がいるのだとしたら、実に地味な、それでいて最もいやらしい嫌がらせをしたものである。

家の前の道路をガタガタと走り始める。頭が天井に付くんじゃないか、というくらいに、車が大きく縦揺れする。

むかし、テレビのバラエティ番組の企画で、「アンコールワットに続く道路が未舗装で悪路だから、その道を舗装しよう!」というのがあって、明日をも見えぬ若者たちが、力を合わせてボコボコでグチャグチャの道を走りやすい道に変えていったが、まさにあんな感じのボコボコ加減である(わかりにくいか)。

やっとのことで、市街地の主要道路に出た。すると、職場に向かう道路が大渋滞である!というか、まったく動く気配がない。

(あきらめよう)

車で職場に行くのをあきらめ、いったん自宅に戻り、自宅から歩いて職場に行くことにした。

(最初からそうしておけばよかったんだ)

後悔しながら、ハンドルを逆に切って、自宅にとって返すことにする。何度もスタックしながら、やっとの思いで自宅に戻り、歩いて職場に向かった。

歩いたら歩いたでまた、これがしんどい。

「アンコールワットへ続く未舗装の道」だって、こんなに歩きにくいことはないんじゃないか、というくらいの、歩きにくさである。ボコボコでツルツルの道である。

ほうほうのていで、職場に到着した。

さて仕事が終わって、夜。

この日(7日)は、DVDマガジン「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」の発売日である。本屋さんに寄ってから自宅に戻ろうと思い、職場を出る。

だが、本屋さんは職場と自宅のあいだにあるのではなく、かなり遠回りしなければ、本屋さんに寄ることはできないのだ。

なにもこんな日に買いに行くこともなかろう、と言われればそれまでだが、発売日に買いに行きたいというのが、人情というものである。むかしそうやって、少年漫画雑誌をよく買いに行ったものだ。

例によって、ボコボコでツルツルの道をそろーりそろーりと歩く。1時間以上かけて、ようやく本屋さんに到着した。そして本屋さんから、また30分くらいそろーりそろーりと歩いて自宅に到着。

自宅の前の道路は、「やる気のない除雪車」によって中途半端に除雪されていて、相変わらず歩きにくい。

自宅前の、自分の車が止めてある駐車スペースを見て驚いた。

車の前に、巨大隕石か!と思われるくらいの、大きな雪の塊が転がっているではないか!しかも、カッチカチのやつである。

どういうことだ??これは誰かの嫌がらせなのか?

私が車をとめている駐車スペースのすぐ前は、道路になっている。おそらく昼間、この道路を「やるきのない除雪車」が中途半端な除雪作業をしていたときに、道路の雪を道の両側によけていく過程で、この巨大隕石のような雪塊が、私の車の前に転がってきたのだろう。

まあ、そんな推測などどうでもよい。とにかく、こんな巨大隕石のような雪塊が車の前にどーんと置かれていては、車が出られなくなってしまう。

スコップを持って、雪塊をどかそうとするが、ビックリするくらい重いのと、ビックリするくらいカッチカチなために、雪塊はなかなか動かない。

スコップを何度も振り下ろしながら、まるで撲殺するかのように雪塊を粉砕していく。

(人を撲殺するって、こんな感じなのかなあ…)

と、不謹慎なことを考える。

かくして、雪との戦いはまだまだ続く。

神が与えたもうた試練にしては、地味に嫌がらせが入っているよなあ。

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2万字の死亡フラグ

2月7日(火)

夕方、「3年生のための卒論ガイダンス」を行った。

といっても、これは職場の公式行事でもなんでもなく、私が勝手に(よかれと思って)行っているものである。3年生に、いよいよ卒論を書くんだという自覚を持ってもらおうと、毎年この時期に開催している。

時間の空いている4年生にも出てもらい、3年生に向けて自分の体験を語ってもらうこともしている。

3年生5人、4年生4人が集まってくれた。

4年生の体験がなかなか面白い。卒論提出直前は、精神的にかなりの極限状態にあったことがわかる。あまりの壮絶さに、私も少し引いてしまった。

「あのう、私たちなりの『卒論の心得』というのを考えてきたんですけど、読み上げていいでしょうか」と4年生のSさん。見ると、ノートに箇条書きで、「心得」を書いてきたようだった。

「どうぞ、読んでみてください」

Sさんが「心得」を読みはじめた。いくつか読み進める中で、こんな「心得」があった。

「『2万字に届けばいいんだろ』は死亡フラグ!」

ん?意味がわからない。

「死亡フラグ…。死亡フラグってなに?」

Sさんが説明をはじめる。

「よく映画とかで、『この戦争が終わったら、オレ、彼女と結婚するんだ』というセリフが出てきたりするでしょう」

「ああ、よく兵士が戦場で、ペンダントの中の恋人の写真を見せたりしながら言うセリフね」

「ええ。で、そのあと、その兵士は必ず戦場で死ぬじゃないですか」

「そうだね」

「つまり、そのセリフが出てきた時点で、『死亡フラグが立った』というわけです」

なんとなくわかってきた。そのセリフが出てきたというのは、「こいつ後で死ぬな」の合図、ということである。

「じゃあ、『2万字に届けばいいんだろ』が死亡フラグっていうのは?」

「卒論の本文の指定字数は2万字以上ですよね」

「うん」

「その指定字数ギリギリの2万字に届けばいいや、という気持ちで卒論を書いていると、決して2万字には届かない。つまり卒論が完成しない、ということです」

なるほど。わかったような、わかんないような…。

つまりこういうことか?字数のことばかり気にして、最低限の2万字をクリアさえすればよい、なんて考えていると、痛い目にあう、ということだな。

たしかにそのとおりだ。字数を気にしているようでは、いい論文など書けないのである。

だが、それが言葉で表現されるときに、

「『2万字に届けばいいんだろ』は死亡フラグ!」

となるのが、よくわからない。

だが3年生は、この言葉を聞いて、実にしっくりいったような顔をしている。

つまり、4年生と3年生の間では、この言葉のニュアンスが正確に伝わっているのだ。

あいだにいる私だけが、ポッカーンとしている。

つづけてSさんが「心得」を読み上げた。

「卒論提出直前の、M先生の『無茶ぶり』には気をつけろ!」

「なんだいそれは?」

「提出の直前に先生からメールで、『この部分をもっと(内容を)ふくらませるように』と指導されたじゃないですか。でも、提出日の直前は3連休で、図書館も閉まっていたんです。そこで、提出日の朝に図書館に駆け込んで、大急ぎで先生の言われたところを書き足して、提出したんです」

なるほど、そういうことがあったのか。当の本人である私は、全然そんなこと考えていなかった。

「提出直前に、M先生が『無茶ぶり』をしてきますから、気をつけてください」

そう言われると、今後はわざと「無茶ぶり」をしてみたくなるなあ。

あ、これが、「フラグが立った」ということか?

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命がけの講演

2月4日(土)

この週末、まさかの講演2連続である。

初日の午後は、県内でも有数の豪雪地域で講演会である。

ふつうだったら、家から車で1時間半もあれば着く場所だと思うのだが、おりからの豪雪である。大事をとって、朝8時半に家を出ることにした。

雪は、豪雪地域に向かうにつれ、その勢いを増してゆく。

Photo_2 途中、何度も「ホワイトアウト」の状態におちいりながら、目的の町に入る。ほとんど命がけである、というのは少し大げさか。だが、町の大半が雪に覆われていたのはたしかである。

なにしろ、町民の足である鉄道が、数日前から大雪のため運休になっているのだ!途中、踏切をわたると、道路の両側にのびているはずの線路が、人の身長ほどの高さの雪に埋もれていて、まったく見えない。

会場となる建物を探すが、なにせ車道の両側には数メートルの雪の壁が立ちはだかっており、どこに建物があるかもわからない。

Photo ようやく建物を見つけ、車を駐車場にとめるが、この駐車場じたいが「雪捨て場」になっていて、はたして本当にここで講演会をするのか、不安になってきた。

未曾有の豪雪の時に、講演を聞きに来る人なんているんだろうか?そんなことより、雪下ろしをしないと、町中が雪で埋もれてしまうぞ。

建物に入ると、役場の方が迎えてくれた。

「この大雪の中、来ていただいてどうもありがとうございます。大変だったでしょう」

「いえ、思ったほどではなかったです」

「こんな格好ですいません。さっきまで、中学校の屋根の雪下ろしをしていたものですから」

役場の方は、雪まみれであった。講演会なんかよりも雪下ろしを優先してください!と、喉元まで出かかった。

「控室にご案内します」

控室には、今回の講演会の主催の会の「おじいちゃん先生」がすでにいらっしゃった。初対面である。

「よろしくお願い申し上げます」と挨拶すると、

「あいにく、うちの会長がこのところ体調が悪くて今日は来られないそうです。副会長は、友人の葬式に出ておりまして…。で、今日は私が最初の挨拶をつとめさせていただきます」とおっしゃった。

やはりこの寒さだからだろうか、と思った。

「この会も老齢化が進みましてね。なにしろ私も今年で84ですからね」

は、84歳?!未曾有の大雪の日に、わざわざおいでいただいた、ということか。私は恐縮した。ということは、会長も副会長も、それくらいのお歳ということである。

午後1時半、会場となる部屋に行くと、40人くらいの人が座っていた。ほとんどが、ご高齢の方々である。

その中にまじって、いちばん前の席に懐かしい顔があった。

「先生、お久しぶりです」

数年前に卒業したF君である。彼はこの町の出身で、卒業後はこの町の役場ではたらいていたのである。

「久しぶりだねえ。元気だった?」

「はい。先生がいらっしゃるというので、聞きに来ました」

「今日私が来るって、よくわかったねえ」

「そりゃあもう、いま公民館で働いていますから」

この稼業をしていていちばん嬉しい瞬間は、思わぬところで卒業生に再会する時である。しかも、元気そうにしている姿を見るのは、なお嬉しい。

午後4時。2時間にわたる講演は、ひととおり終わった。

終わったあと、F君が来た。

「今日は久しぶりに先生の講義が聴けてよかったです」

「たまには大学にも遊びにおいでよ」

「そうします。今日はありがとうございました」F君は帰っていった。

会場を出て、近くの温泉旅館に向かう。このあとはここでおじいちゃん先生たちとの懇親会があり、そのまま私は、ここに泊まるのである。

午後5時半から、10人ほどのおじいちゃん先生に囲まれて、懇親会である。たぶん、平均年齢は80歳を超えていると思う。

こういう会に出るといつも思うのだが、「東北の男性は寡黙である」というのはウソである。おじいちゃん先生たちは、とにかくよく喋るのである。独特の方言と極端にローカルな話で、内容がわからないこともあるが、それでも聞いていると楽しい。

7時半過ぎに会はお開きとなり、みなさんとお別れしたあと、旅館の温泉に入った。

氷点下の空の下で入る露天風呂は、時間を忘れるね。

それにつけても心配なのは、明日の講演会である。

明日のお昼までに家に戻って、講演会場に向かわなければならない。

はたしてこの豪雪のなか、2日目の講演会場に無事にたどり着けるのか?

2月5日(日)

Photo_3 朝起きると、青空が広がっていた。

朝9時すぎ、旅館を出発して、今日の講演会場に向かう。

午後1時、講演会場に到着し、1時15分開始の講演になんとか間に合った。

ここからまた、夜の懇親会へと続く長い道のりが始まるのだが、それはまた、別の話。

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ロードサービスを待ちながら(追記あり)

2月2日(木)

ひどい二日酔いである。

職場に出かけようと、家のドアを開けてビックリした。

いつの間にこんなに雪が降ったんだ?

今まで経験したことのない大雪である。

なんとか職場に着き、午後、演習室に行くと、

「SさんとAさんは、乗っている汽車が途中で大雪のため止まってしまって、授業に遅れるそうです」という。

アカンアカン。こんなときに授業なんかしてる場合やないで。

…などという常識は、この地では通用しない。どんなに大雪が降っても、予定通り授業はするし、期末試験も行うのだ。10年前、はじめてこの地に来たときには、面食らったものである。

「こんな大雪、10年暮らしていてはじめてだよ」というと、

「20年ぶりの大雪だそうですよ。ニュースでやってました」と3年生のOさん。

どおりではじめて経験する大雪なわけだ。

夜8時すぎ、家に帰って驚愕した。

20120202 家の前の駐車スペースにとめてある私の車が、完全に雪に埋もれてしまっているではないか!

完全に「埋まっている」という状態である。「あそこに埋まっているのは、ひょっとして車かな?」と、うっすらとわかる程度である。こんなこともはじめてである。

スコップを使って、掘り出すことにする。

ほら、円空さんだったっけ?仏像を「彫る」のではなく、木の中にある仏像を「掘り出す」のだ、と言った人は。あんな感じで、雪の中から、車を掘り出してゆく。

だが今回ばかりは、一筋縄ではいかない。なにしろ雪の量が半端ではないのである。今の学生言葉で言えば、「パねえ!」のだ。

ヘトヘトになってしまったので、ある程度のところであきらめ、いったん駐車スペースから車を出したうえで、駐車スペースの雪を片づけようと思い、エンジンをかけて、車を出そうとした。

私のイメージでは、土に埋もれていた宇宙戦艦ヤマトを、発進させるような感覚である。

ところが、いくらエンジンを吹かせても、タイヤが空回りしてしまって、駐車スペースから車が出ていかない。宇宙戦艦ヤマトのようにはいかないのである。

(こまったなあ…)

明後日には、どうしても車を使わなければならない用事がある。このまま車が駐車スペースからピクリとも動かないようでは、困ってしまう。

何度もエンジンを吹かせて試みるが、全然ダメである。

もう雪どけの季節まで車が動かないんじゃないだろうか、という気がしてきた。

(まずいな…)

仕方がないので、ロードサービスの会社に電話をかけた。

「大雪のために車が駐車場から出せなくなったんです」と言うと、会員番号は?車種は?車のナンバーは?住所は?と、まくし立てるように、事務的に聞いてくる。その声は明るいのだが、事務的である。

せめてひと言でも、「ああ、それは大変ですねえ。さぞご不便でしょう」と、一緒になって心配してもらいたいものだ。それほどこっちは、心が折れているのである。

「どのくらいで来ていただけるでしょう?」と聞くと、

「申しわけございません。本日たいへん混み合ってまして、早くても6時間後になると思います」

ろ、6時間後???6時間後といったら、真夜中ではないか!

この時点で心が完全にボッキリと折れて、雪かきをあきらめて家の中にもどった。

はたして車は、駐車スペースから無事出せるだろうか?

(追記)

深夜2時。眠っていると、携帯電話が鳴った。

「ロードサービスの者です。遅くなって申しわけございません」

6時間待ち、というのは、本当だった。ただ、さすがにこの時間は眠い。

「明日の朝、というわけにはいきませんか」

「明日に出直すとなりますと、また何時になるかわかりませんので」

「わかりました。じゃあ今出ます」

外に出ると、ロードサービスのスタッフが、車を牽引するためにすでにロープを用意して待っていた。

この寒い夜中に、1人で奮闘されているスタッフに、心から敬意を表した。

車は牽引され、無事、駐車スペースから出すことができた。

「ありがとうございます」と私。

「車はどうされますか?」

「このまま、また駐車スペースに戻そうと思うんですけど」

「だと、また同じように出られなくなる可能性がありますね」

「じゃあ、どうすれば?」

「駐車スペースは、車が置きっぱなしになっていたんで、地面にほとんど雪がないでしょう。だから、駐車スペースと道路との間に、雪の段差ができて、車が出られなくなったんです」

「はあ、なるほど」

「ですので、まず車を戻す前に、駐車スペースに雪を盛って、足で踏み固めて、道路の雪の高さと同じにする必要があります」

「わかりました。ありがとうございました」

ロードサービスのスタッフが去ってから、今度は1人で、駐車スペースに雪を盛る作業である。

先ほど掻いた雪を、スコップで駐車スペースに戻し、それを足で踏み固めてゆく。

雪を盛っては、足で踏み固める、という作業をくり返す。

ひっそりとした深夜の住宅街で、凍えながらひとりでオレはいったい何をやっているのだろう、しかも、昨日に引き続き、深夜3時になろうとする時間である。駐車スペースで足踏みしながら、涙が出てきた。

それはまるで、地団駄を踏んでいるがごとくである。

「生かにゃあしょうがあるめえ」

私は、南木佳士の小説「冬への順応」に出てくる、老婆の言葉を思い出した。

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午前3時のハイボール

2月1日(水)

夜11時ごろに1次会が終わり、寒い雪の中、同世代のオッサン4人が残された。

「もう1軒、行きましょう」

とりあえず目の前にあった、チェーン店の居酒屋に入った。

すでに1次会で、生ビールと芋焼酎をしこたま飲んでいたが、4人の誰もが、まだ話し足りない、と思っていたらしい。

「飲み物はどうしましょうか」

「ハイボールにしましょう」

ということで、4人ともハイボールを飲みながら、「あの時」から今に至る10カ月あまりをふり返り、これからのことを語り合う。

ときに意見が対立し、ときに意気投合しながら、自画自賛と自問自答をくり返す。

「俺たちは、ウェットなんですよ」という言葉が印象的だった。

「それって、『くどい』ってことですか」

「そうそう。若いヤツらにくらべたら、俺たち、くどいでしょう」

そうだ。4人とも、「ウェット」なのである。それは、そういう世代だからなのか、あるいはオッサンになったからなのかは、わからない。でも、それを十分に確認できた夜だった。

素性も、歩んできた道も異なる4人が、こうしてひとつの席につくことを、1年前は誰が予想していただろう。たまたまこの地に居合わせていた4人が、ひとつの意志を持ちはじめたことを、「奇跡」と呼ぶのは、感傷的にすぎるだろうか。

気がつくと3杯目のハイボールが空いていた。

「そろそろ閉店のお時間です」

時計を見ると、午前3時である。

ご、午前3時???

どんだけ喋ってたんだ??

あわてて店を出ると、外はビックリするくらいの大雪だった。

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謎のタカダさん

1月30日(月)

久しぶりにお会いしたNさんのことを書いていて、思い出したことがあった。

大学時代の夏休みの「山中での調査」の参加者で、ひとり、明らかに学生でない「おじさん」がいた。タカダさんというおじさんである。

おそらく当時、30代半ばくらいだったのだと思うが、大学1年の私からすれば、ひどく「おじさん」に見えた。痩せぎすで、ヒゲをはやし、髪はボサボサで、わかりやすいたとえでいうと、俳優の草野大悟みたいな感じの人だった(といってもわからないか?)。どことなく、「住所不定」という雰囲気の風体をただよわせていた。

タカダさんは、最初から最後までずーっと、熱心に「山中での調査」に参加していた。夜になるとベロベロになるまで酒を飲んだ。私たち学生も、タカダさんに負けじと、酒をたくさん飲んだ。つまり私の「お酒」は、タカダさんやNさんに鍛えられたのである。

いろいろな先輩の話を聞いているうちに、タカダさんの素性が、おぼろげながら見えてきた。タカダさんは、美大出身の芸術家であるという。だが、芸術だけではメシが食えないので、ふだんは、小学校の夜間警備の仕事をしているらしいとのことだった。「山中での調査」に参加しているのは、こういう調査が好きでたまらないから、仕事の休みを取ってきているのだという。

机に向かって勉強ばかりしていた私にとっては、これまでお目にかかったことのないようなタイプの人だった。調査に参加した私たち学生たちはみな、その人間味あふれるタカダさんを慕っていたのである。

タカダさんとお会いするのは、「山中での調査」の時だけである。「山中での調査」が終わると、タカダさんと会う機会はなくなった。

ところがそれから数年後、たしか私が大学院に入ったばかりのころだったと思う。「山中での調査」で一緒だった人から、連絡が来た。

今度、タカダさんが銀座のギャラリーで個展を開くという。そして、その個展が終わったら、東京の住まいをひきはらって、故郷の九州にもどり、そこにアトリエを作って芸術活動に専念するらしい、というのである。

私は、「山中での調査」で一緒だった友人数人と、タカダさんの個展を見に行くことにした。差し入れには、タカダさんの大好きな日本酒の一升瓶を買っていった。

はじめて見る、タカダさんの作品である。

山奥で、きったねえ格好をして飲んだくれている姿しか知らない私たちにとって、それは意外な感じがした。

しばらくすると、奥からタカダさんが出てきた。

一升瓶を渡すと、「このあと、飲みに行こう」とタカダさんが言う。私たちは、銀座の安い居酒屋で、タカダさんと酒を飲んだ。

タカダさんは、いつものようにベロベロに酔っぱらった。正体がなくなるまで飲むというタカダさんの姿は、やはり以前と同じだった。

店を出るときも、かなり足もとがおぼつかない。

「大丈夫ですか?帰れますか?」個展は明日が最終日なのだ。

「大丈夫だ。心配するな」酔っぱらいが必ず言うセリフである。

「おい」ふらつきながら、タカダさんが私を呼んだ。

「おい、明日あいてるか?」

「えっ?」

私は一瞬逡巡した。明日もこのおじさんにつきあって飲まされるのだろうか、と思ったのである。

「ちょっとの時間でいいんだ。個展に顔を出せるか?」

「ええ。夕方なら大丈夫です」

「そうか。じゃあ悪いが来てくれ。きっとだぞ」

酔っぱらいの戯れ言だろうか、と思った。それに、なぜ私にだけ「来い」と言ったのか、謎である。

不安を感じながら、翌日の夕方、ひとりで個展の会場に向かった。

すでに個展も終わり、作品の片づけ作業が慌ただしく行われていた。

「おお、来てくれたか」タカダさんが私に気づいた。「ちょっと待っていてくれ。わたしたいものがある」

そういうと、いったん奥の部屋に入り、何かをとってもどってきた。

「これをわたそうと思って」

それは、1本のカセットテープだった。

私が不審に思っていると、タカダさんが説明した。

「これは、うちのカミさんが自主製作したものでね。カミさんが歌っているんだ」

見ると、カセットテープのジャケットには、きれいな浜辺の写真と、タイトル、そして、タカダさんの奥さんの名前がレイアウトされていた。美大出身のタカダさんがデザインしたものだろうか、と想像した。

それにしても、突然のことで、何が何だかわからない。

政治活動とか宗教への勧誘か何かだろうか、などと、一瞬そんな考えもよぎったが、そういうものではなかった。

「これを、僕に…ですか?」

「うん、ぜひ聴いてもらいたいと思ってな」

ますますわからない。だいいち私は、タカダさんの奥さんには会ったことすらないのだ。

「ありがとうございます。帰って必ず聞きます。タカダさん、いよいよ東京を離れるんですね」

「ああ」

「どうかお元気で」

「お互いにな」

そして慌ただしく、ギャラリーを後にした。

家に帰って、もらったテープをさっそく聴いてみた。

みずみずしい歌詞と、透明感のある歌声がとても印象的だった。歌詞カードによれば、歌はすべて奥さんの自作のもので、ジャケットのきれいな写真は、やはりタカダさんが撮影したものだった。

くり返し聞いてみたが、それにしてもよくわからなかった。

タカダさんはなぜ、このカセットテープを私にだけくれたのだろう?

なぜ、わざわざ私を呼び出してまで、渡そうとしたのだろう?

謎である。

いま、タカダさんはどうしているのか。いまも、故郷の九州で芸術活動に専念しているのだろうか。

ふたたび会う機会は、あるだろうか。

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酒豪先輩

1月28日(土)

午後、東京のある場所で、同業者100人あまりが集まる会合である。私がいちばん苦手とする集まりである。

山崎豊子のドラマに出てくるような、権威的な感じのする会場で、偉い人たちが挨拶をはじめた。

挨拶が終わると、しばしの間、顔合わせをかねた立食形式の昼食である。その後、各グループに分かれて会議をすることになっていた。

会場を見渡すと、懐かしい人たちがたくさんいたので、少し安心した。

学生時代にお世話になったNさんもその1人である。

大学時代、私は悶々とした時間を過ごしていたが、唯一、「青春」っぽい時間を過ごしたのが、夏休みに参加した「山中での調査」である。

この時の思い出については、以前に書いた

Nさんは、この時の調査で中心的な役割を果たした先輩で、私が大学1年の時、ある大学の大学院生をしていた。

この調査は苛酷だった。電気も水道もない山中にテントをはり、そこで生活をしながら調査をするのである。2週間、いや、長い人は1カ月間も滞在した。

昼間の調査が終わると、当然、何もやることがないので、お酒を飲むか、アカペラで歌を歌うくらいしか楽しみがない。私の「お酒」は、この時に鍛えられたといってよい。

調査を主導するNさんは、当時から「酒豪」として有名であり、この調査にはまさにうってつけの存在だったのである。

当時1年生だった私は、右も左もわからなかったが、Nさんをはじめとする先輩方に、とてもお世話になった。そのご縁で、他大学の、しかもまったく専門分野が違うにもかかわらず、その後もいろいろな調査に連れていってもらったりしていた。といっても、私は調査ではまったく役に立たないから、もっぱら夜になると調査先の民宿でお酒を飲んでいたくらいである。

卒業後はほとんどお会いすることがなかったが、広い意味での「同業者」として、ごくたまに、お会いすることがあった。昨年も、久しぶりにみんなで集まって飲もうと電話をいただいたが、私の方の事情により、その集まりには参加しなかった。だからお会いするのは数年ぶりである。

「久しぶりねえ」とNさん。

「ほんと、久しぶりです」

「今日の出席者の名前を見たら、懐かしい人の名前が多くて嬉しくなっちゃって」

これから会議だというのに、立食形式の昼食にはビールが並んでいた。

ビールを注ぎながら私が言う。

「今でも酔っぱらうとTさんのところに電話をするんでしょう?」

Tさんというのは、やはり学生時代に一緒に調査をした仲間である。Nさんは、酔うと電話をかけるクセがあるらしい。

「何で知ってるの?」

「昨年の夏、Tさんの職場で仕事をしたんですよ」

「ああ、聞いた聞いた。そのときT君からメールが来たのよ。『いま、M君がうちの職場に来ています』って。うらやましいなあって思って」

Tさんもこの仕事のメンバーだったが、今日は都合で来られなかった。

「でも、あのとき飲んだくれていた私たちが、こうしてここまで来たんだねえ。さっきもSさんとそんな話をしていたのよ」

Sさんというのも、その調査の中心メンバーだった先輩である。

私は、いろいろな理由から、今日のこの仕事にあまり気乗りしていなかったが、Nさんのような感慨は私にも許されるだろう、と思った。

立食形式の昼食が終わり、今度はグループに分かれてマジメな会議である。それが2時間ほど続き、午後4時過ぎに会合はお開きになった。

このまますぐに帰るのももったいないので、知り合い数人と、近くの店でビールを飲むことにした。

ビールを飲みながら話をしていると、携帯電話が鳴った。Nさんからである。

「いま、どこにいるの?」

明らかに、酔っている様子である。

「○○○の地下の店です」

「じゃあ飲んでいるのね。それならよろしい」

よろしい、の意味がわからない。

「どちらにいらっしゃるんです?」

「私もね…どっかの建物の地下!」

Nさんは、Nさんのグループで集まって飲んでいるのだろう。

「さっき、ちゃんと挨拶できないまま終わったんで、挨拶しようと思って」とNさん。

「そうですか。また今度、一緒に飲みましょう」

「そうね。絶対だよ」

「わかりました」

電話を切る。時計を見ると、もう帰らなければならない時間である。今日は妻の実家で夕食を食べると宣言していたのだ。

一緒に飲んでいたメンバーと別れ、お店を出ようとすると、「あああああぁぁぁぁ!!!」という声がした。声のする方を見ると、Nさんが私を指さしている。

なんとNさんたちのグループも同じ店にいたのである。Nさんだけではない。そのグループには、懐かしい人たちがたくさんいた。

「なあんだ。同じ店にいたんですか」

「なに、もう帰っちゃうの?」

「ええ、今日は早く帰るって言ってしまったもので」

「せっかく久しぶりだっていうのに…」

まだ夕方6時過ぎだというのに、Nさんはかなりできあがっているようである。

「あんまり飲みすぎないようにしてくださいよ」私はNさんにくぎをさして、店を出た。

翌日、Nさんからメールが来た。

「やっぱり飲みすぎました。でも昨日は、久しぶりにみなさんと会えて、とても嬉しかったのです」

私は、Nさんが「飲みすぎた」様子が目に浮かんだ。たぶん、学生のころとあまり変わっていないのだろう。

もう25年近くも経っているのに、学生時代の関係性が変わらずに続く場合もある。

そういう関係は、たぶん貴重なのだと思う。

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