ラストスパート!

5月26日(土)、5月27日(日)

この週末は何をしていたかというと、研究室移転のための準備作業である!

いよいよ、研究室移転のためのタイムリミットが近づいてきた。

学生アルバイトを募集したところ、土曜日は4人、日曜日は5人が来てくれた。2日とも、午後1時から夕方までの作業である。

一人では、まったく作業がはかどらないが、やはり手伝ってくれる人がいると、かなりはかどる。

「先生、これはどうしますか?」と、常にその場の判断を求められるので、それが、片づけには功を奏するようである。

とくに懸案となっていた机まわりも、だいぶスッキリしてきた。

いろいろなものも出てくる。

12年前、「新進気鋭の研究者」として地元の新聞にとりあげられたときの記事が出てきた。

「ワッカイですねえ、先生」新聞記事を見た学生たちが口をそろえて言う。

そうか、やはり12年もたつと年をとるわけだ。それに、12年前は「気鋭」だったんだねえ…。今なんてもう…。

机の上を整理していると、あるリーフレットがまとまって出てきた。

「ちょっとちょっと、みんな来てごらん」私は5人の学生を集めた。

「この、1号と、3号と、5号を、よーく見てごらん」

私は、先日発見した事実を話しはじめた。

「…ね?どう思います?」と私。

「ヒドイと思います」

「こんなことになっているなんて、知りませんでした!」

まあ、当然の反応だろう。

…と、そんなことをやっているから、片づけがなかなか進まないのだ!

だが、2日間、学生に手伝ってもらったおかげで、9割がた、片づけは終わった!

ただいまのところ、ダンボール箱にして約210箱!

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謎のオカベさん

謎のタカダさん

5月25日(金)

往復100㎞の逆襲」と題して、夕方にこぶぎさんやKさんのいる「前の職場」に電撃訪問をした話を書こうと思ったが、すでにこぶぎさんがコメント欄で電光石火のごとくそのときの顛末を書いてしまっているではないか!すっかり先手を打たれてしまった。

まあ、例によって夜の12時近くまでこぶぎさんとKさんと3人で「ガスト会議」をして、コメント欄にあるような話をしていたわけだが、…あ、今日はガストではなく、トンカツ屋だった…、ともかく片道50㎞の道を往復して、帰宅したのが午前1時である。結論、「往復100㎞の友情」は、楽しいけれどかなり疲れる。

うーむ。先手を打たれてしまったので、コメント欄に書かれた内容と別のことを書かなければならない。何を書いたらよいものか…。

先日、研究室の移転準備のために部屋の片づけをしていると、ホッチキスで綴じた、1冊の分厚い冊子が出てきた。

10年ほど前に、前の職場の同僚のOさんが、学生を連れて韓国に実習に行った際に作った、「旅のしおり」である。この時、私と、私の妻、そしてこぶぎさんも同行したのである。

Oさんは、学生を引率して韓国に実習に行くたびに、分厚い「旅のしおり」を作っていた。そこには、実習中の行動計画やその移動方法、さらには見学先の詳細なガイドや、韓国語の基礎知識など、実習に関わるありとあらゆる情報が集成されていた。持っていくのが億劫になるくらい、詳細をきわめた「旅のしおり」である。

しかし、たいていの場合それは、およそ現実的な計画とはいえなかった。Oさんが机上で立てた計画は、無理がありすぎて、計画通りに行ったためしがなかったのである。…いや、正確に言えば、非現実的な計画に現実を無理やり合わせようとして、最終的にはみんながヘトヘトになる。

今から10年ほど前のその旅も、まさにOさんによる「机上の空論の計画」にふりまわされた旅だったのである。

「旅のしおり」のことを、今日の「ガスト会議」でこぶぎさんやKさんに話すと、

「よくとってあったねえ」とこぶぎさんが驚いた。

「こぶぎさんは持ってないの?」

「もう捨てちゃったよ。とっておけばよかった」

こぶぎさんとKさんと私で、Oさんの思い出話に花が咲く。

Kさんは、Oさんの韓国実習に同行したことはなかったのだが、話を逐一Oさんから聞いていて、Oさんの企画した旅がいかにタイヘンなものであるかを、よく知っていた。

さて、この旅の思い出話をしているうちに、こぶぎさんと私と私の妻のほかに、もう1人、外部の参加者がいたことを思い出した。

オカベさん、という謎のオジサンである。

私たちが博多港からフェリーで釜山に着くと、リュックサック一つ背負ったオジサンが待っていて、「やあ」と私たちに挨拶した。

どうやらOさんの知り合いらしかったが、Oさんはその人を、「オカベさんです」と紹介するだけで、オカベさんがどんな人なのか、自分とはどういう関係なのか、などを、まるで説明しない。

オカベさん自身も、自分のことをまったく語らない。

ただ私たちと一緒に旅行して、とりとめのない会話をするばかりである。さらに不思議なことに、唯一の知り合いであるはずのOさんとも、さほど会話をしていないのである。

実習の初日から最終日まで、ずーっと一緒だったのだが、結局、オカベさんが何者なのか、よくわからなかった。

そして最終日、私たちが福岡に渡るビートル(高速船)に乗るために釜山港に到着すると、「それじゃあ」と言って、オカベさんはどこかに去っていった。

オカベさんは、いったい何者だったのだろう?

帰国後、いつしか私たちのあいだでは、その人のことを「謎のオカベさん」と呼ぶようになった。

「話していて、久々に謎のオカベさんのことを思い出しましたよ」と私。

「提案なんだけどさあ」とこぶぎさん。「もし今後、2人のうちのどちらかが韓国に学生を連れていく機会があったとしたら、もう一方が『謎のオカベさん』みたいな感じで、突然現れて、なんの説明もなく一緒に旅をして、最終日の空港あたりで「じゃあ」と言って去っていく、てのはどう?」

「いいですねえ」

「学生たちは、『誰あのオジサン?』って不思議に思うだろうけど、一切説明をしないで一緒に旅をする、というわけだ」

「今度は我々のどちらかが『謎のオカベさん』になるんですね!」

「そう!」

これくらいのことだったら、近いうちに実現しそうな気がする。

そしてもし私が学生を引率して韓国に行く機会があったとしたら…、

Oさんに負けないくらいの、分厚い「旅のしおり」を作ってやろう。

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空の下の作業、開始

5月24日(木)

夕方6時過ぎ、「丘の上の作業場」に行く。

今日から、念願の「空の下の作業」である!

記録によれば、「丘の上の作業場」で「空の下の作業」がはじまったのが昨年の5月17日だから、ほぼ1年が経過したことになる。

久しぶりの「空の下の作業」なので、心なしかウキウキする。世話人代表のKさんも、いつになくウキウキしている様子だった。

目の前に座ったのが、今年度から作業に加わった1年生のYさん。東京の洗足池の出身なので、Kさんが「洗足池さん」とあだ名をつけた。

Kさんが、Yさんに言う。

「オジサン2人に囲まれて、やりにくいでしょ」

「そんなことありませんよ」

「このオジサン」Kさんは私のことをさしていった。「こう見えて、昔は切れ者だったんですよ」Kさんは相変わらず私のことをからかう。

「ほんとですか」

「それが今じゃあ、こうしてハケを片手にせっせと砂を落としているんですから、人生なんて、わからないものです」と私。一同は爆笑した。

そこに一人の女子学生が通りかかった。

「何をやっているんです?」興味深そうに私たちの作業をのぞきこんだ。

「津波で砂をかぶってしまった書類を、こうしてハケで掃除しているんです」とKさん。「どうです?やってみませんか?」

「私にもできますか?」

「もちろんです」

聞くと、やはりこの大学の1年生だという。一ノ関の出身だということで、Kさんは彼女に「一ノ関さん」とあだ名をつけた。

飛び入り参加の学生も加わり、いつになくにぎやかな作業場である。

これも、「空の下の作業」のせいだろう。

丘の上に吹く心地よい風は、去年の今ごろに吹いた風と、少しも変わらなかった。

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まじめな話をしている横で

5月23日(水)

朝イチの授業が終わって研究室に戻ると、4年生のN君がやってきた。

「学生研究室の中にあるものを、耐震工事のためにすべて引き上げなければならないんですが、学園祭で使った看板、どうしましょうか」

Photo2 そういえば、学生がふだん使っている研究室も、来月からはじまる耐震工事のために使えなくなるのだった。そこには、昨年、一昨年の学園祭で使った、私のイラストが描かれた看板が保管されていた。

「捨てるのはしのびないから、ひとまず私が預かるよ」

「わかりました。では持ってきます」

しばらくして、4年生のCさんが、私の研究室に看板を持ってくれた。私はそれを、研究室の中に置いておいた。

さて、夕方。

気の重い会議が終わり、研究室に戻ると、しばらくして、「まじめで仕事のできるN先生」がいらっしゃった。

「ちょっと、さっきの会議の件で、重要な話が」

N先生は私の研究室に入り、職場の将来に関わる重要な話をされた。

私も、当然のことながら、それに対してまじめに受け答えをする。

しかし途中で、例の看板が置いてあることを思い出した。

Photo1 しかも、いま目の前でまじめな話をしているN先生のちょうど視界に入る位置に、それらの看板が置いてあるではないか!

そのことに気づいてからというもの、気になって気になって仕方がない。

心なしか、N先生も、その看板の方をチラッチラッと見ているような気がする。

私の顔がデフォルメされたイラストの看板が置いてあるのを見て、まじめなN先生は、どう思っているのだろう?

(こいつ、自分のキャラクターグッズ作ってるのかよ!キ~モチ~ワル~イ)

と思っているんじゃないだろうか、とか、

(こいつ、どんだけ自分のことが好きなんだ?!キ~モチ~ワル~イ)

と思っているんじゃないだろうか、とか、そんな妄想が頭をめぐりだした。

「いえ、これはですね、その…、学生が学園祭のときに作った看板でありまして、捨てるのがしのびなくて預かっているだけなのです」

と、喉元まで出かかったのだが、職場の将来を左右するほどのまじめな話をしている最中に、唐突にそんなことを言うこともできない。そんなことを言ったら、かえって「自意識過剰」と思われるに違いない。それに、そもそもN先生がこの看板のことをまったく気にしていない可能性もあるし。

「…ということで、そんな感じで進めましょう」

「そうですね。そうしましょう」

ひととおり話が終わり、N先生は、研究室を出ていかれた。

嗚呼、N先生は絶対、「こいつとはもうまじめな話ができない」と思って呆れて出ていかれたんだな、と、私はうなだれた。

こういうとき、軽く死にたくなるね。

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名探偵になれず

名探偵は誰か?

5月21日(月)

事務室に行くと、職員のNさんが私に言った。

例の鍵、M先生のものではありませんでした…」

「3F 資料室」と書かれた落とし物の鍵は、私が最初に推理した、甲学のM先生のものではなかったのだ。

私はその場で大きくうなだれた。

「結局私もハズしましたか…」これが当たれば私も名探偵!などと自信満々だっただけに、何とも恥ずかしい。

最後の頼みの綱であるM先生でもないとすると、もはや打つ手はない。

…いや、一つだけ手があるぞ!

「そうだ!この鍵を持って、3階の資料室を開けてみましょう。その資料室にある資料を見れば、どの専門分野の先生が使っていたものかがわかるはずです。その上で、鍵を落とした先生を推理すればいいんだ!」ひらめいた、といわんばかりに私は叫んだ。

「なるほど」とNさん。

「どうしてこんな簡単なことに最初から気づかなかったんだろう…」私は自分の推理の浅はかさを悔やんだ。

さっそく、鍵を持って3階に行き、「資料室」を開けてみた。

「なるほど、この部屋は、丙学と戊学が共同で使用している部屋のようですね」資料室に残されている文献から、丙学と戊学の共同使用の資料室であることは明白だった。

「戊学のN先生とF先生は、2人とも鍵の持ち主であることを明確に否定しているから、戊学の先生であるはずはない。丙学は、A先生は否定されたけれども、丙学の他の先生にはまだ確認していませんよね」

「ええ、そうです」

「丙学には、A先生の他に…、そうだ!O先生がいらっしゃる。鍵の持ち主は、O先生の可能性がありますよ!」

「そういえば、まだO先生には鍵のことをうかがっておりませんでした」

「もうこうなったら、O先生しか考えられません。これでもしO先生でなかったら私、自殺します!」これまでことごとく推理をはずしてきた私ももう、やぶれかぶれである。

「何もそこまで思いつめなくても…」

「とにかく、O先生に聞いてみましょう」

ちょうど運のよいことに、そこにO先生が通りかかった。

「O先生!この鍵に見覚えありませんかっ!!!」私はO先生に鍵を見せた。

「何です?藪から棒に」

O先生はそういうと、鍵をしげしげと見た。

「…こんな鍵、知りません」

「えええぇぇぇぇぇっ!!!知らないんですか?」

「だいいち、僕はこの資料室とやらに入ったこともありません」

「で、でも…この資料室には丙学に関する文献が保管されているんですよ」

「でも、知らないものは知らないんですよ」

うーむ、どういうことだ??わけがわからない。

「ほかに丙学を教えている先生って、いらっしゃいましたっけ?」

「I先生ですね」

「I先生!?」

そうか、もうひとり、I先生がいらっしゃったか…。まったくノーマークだった。

「すいません。お騒がせしました」私はO先生にお詫びした。

O先生が去ったあと、私はNさんに言った。

「結局、またハズしてしまいました…」

「気になさることありませんよ。みなさんハズしていらっしゃいますし…。とりあえず、あとでI先生に連絡をとってみます」

慰めともつかない言葉をいただき、研究室に戻った。

はたして鍵の持ち主はI先生なのか?

…もう、どうでもよくなってきた。

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初潜入!音楽練習スタジオ

5月19日(土)、20日(日)

木曜日の授業のあと、ロックバンドのサークルに入っている3年生のAさんに、

アルトサックスの練習をしたいんだが、どこかいい練習場所がないだろうか」

とたずねると、

「大学の近くに、音楽練習スタジオがあるでしょう。そこにたしか、個人用の練習室があったと思いますよ」という。

職場近くの音楽スタジオは、私も毎日、通勤途中に横を通っていたので、よく知っていた。

しかしあそこは、ロックバンドの若者たちが使う練習スタジオだしなあ。私のようなオッサンが利用してよいものか。

とりあえず、電話で聞いてみることにした。

「あのう、アルトサックスを練習しても大丈夫でしょうか」

「大丈夫ですよ」

「一人で音出しをするだけなんですが」

「ええ、大丈夫です。お時間はいかがしますか。1時間単位で予約することができます」

1時間では短いかな、と思ったが、初めてなので「じゃあ、1時間でお願いします」と、予約した。

まるで映画「Shall we ダンス?」の役所広司みたいな心境である。

さて19日(土)。

練習スタジオの建物に初めて潜入すると、中は完全な「ロックンロール」である!

やれロックバンドのライブのポスターだの、「バンドメンバー募集」のチラシだの、といったものが壁いっぱいに貼ってある。

受付には、「ロックンロール」な若者がいた。

「いらっしゃいませ」

「予約していた者ですけど」

どうみても、私は完全に「場違いな人間」である。

「こちらです」

Photo 個人練習室に案内された。何となく、一人でカラオケボックスに入るような心境で、どうにも気恥ずかしい。

練習室に入り、さっそくアルトサックスを吹き始める。

周りを気にする必要がないので、気兼ねなく大きな音で練習を始めた。

だが30分もすると、唇に限界が来た。

(こりゃあ、1時間くらいでちょうどよかったな…)

1時間がたったので、練習室を出て、受付に行くと、さっきと同じ「ロック」な若者がいた。

「あのう…明日も予約したいんですが…」

「大丈夫ですよ。今日と同じ部屋をおさえておきます。時間は?」

「1時間でお願いします」

「かしこまりました」

というわけで、20日(日)。再び音楽スタジオで1時間ほど練習した。

不思議なもので、昨日よりも確実に上達しているのが、自分でもわかる。唇の疲労も、昨日よりひどくはない。

練習を続けさえすれば、まだ何とかなるかもしれない、と確信した。

Photo_2 しかしながら問題は、私の楽器である。

なにしろ、15年近くも吹いていないのである。しかも、高校時代に買って以来、いまだかつて、修理に出したことすらないのだ。

童謡「クラリネットをこわしちゃった」ではないが、「出ない音」もあるのである。

この楽器をはじめて手にしたのは15歳の時だから…、今から28年も前だ!つまり28歳。人間にたとえると…何歳くらいなのだろう?

1時間の練習を終え、練習スタジオの隣にある楽器屋さんに、アルトサックスを持っていって、見てもらうことにした。

狭い店なのだが、若い女性店員が4人ほど、所狭しと机に座っている。

「あのう、楽器を見てもらいたいんですが…」

「修理でしょうか?」

「いえその…こわれた、というわけではないんですが、もう15年近くも使っていなくて、音も出しづらい感じがするので、見てもらおうと」

「かしこまりました。ちょっと拝見させていただきます」

楽器を見てもらっているあいだ、店内を見渡すと、なんと、ナベサダ(渡辺貞夫)さんの写真が貼ってあるではないか。

ここの店長、ひょっとして、ナベサダさんのファンなのだろうか、と想像した。

「お待たせいたしました。だいぶ、楽器が傷んでおりますね」

「やはりそうですか」

「この機会に、修理された方がいいと思います」

「このまま吹き続けてはダメですか?」

「ええ、無理に音を出そうとするあまり、ヘンなクセがついてしまいます」

「修理すると、やはり吹きやすくなりますか?」

「そりゃあ、もう」

ということで、修理をお願いすることにした。28年間もほったらかしにしていたのだから、無理もない。

楽器が戻ってくるのは、約2週間後である。

それまで、アルトサックスとはしばしのお別れである。

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名探偵は誰か?

5月18日(金)

先週のことだったか。

職場の事務室に行くと、職員のNさんが私に言った。

「あのう、…この鍵に見覚えはありませんか」

見ると、部屋の鍵である。鍵には小さなラベルが貼ってあって、そこに「3F 資料室」と書いてある。

「どなたかが落とされたようなんです」

「3階の資料室の鍵ですね」

「はい」

「私が関わっている資料室は4階ですからねえ。私の管理している鍵ではありませんねえ」

「そうですか…では、どなたのか、心当たりはありませんか?」

資料室は、専門分野ごとにわかれて、建物の各所に分置されている。3階には資料室がいくつかあり、たんに「3F 資料室」だけでは、どの専門分野の資料室かは、わからないのである。

「そういえば、この資料室は、近々耐震補強工事のために移転しなければいけない部屋ではありませんか?」と私。

「ああ、そうかも知れません」

「移転の準備で部屋を使用したときに、落とされたのかも知れませんね」

「なるほど」

そこで私は思い出した。

「ひょっとしたら、甲学のM先生がお持ちになっていた鍵ではありませんか?そういえば数日前、3階の資料室をM先生が片づけておられたようですよ」

「きっとそうかも知れません。ありがとうございます。あとでM先生に聞いてみます」

Nさんは安堵の表情を浮かべた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ…」私は、また別のことを思い出した。

「そういえば、乙学のT先生も、数日前に3階の資料室を片づけておられました。T先生の可能性もありますね」

そこへ、同じ乙学を専攻しているS先生が通りかかった。

「S先生、たしか、乙学の資料室は3階にありましたよね」

「うーん、あったかなあ。あったかも知れない」

「その部屋、T先生が管理されていませんでしたか?」

「あ、そうそう。思い出した。たしかTさんが管理されていた」

「耐震工事のために移転しなければならないでしょう」

「そうそう。あの部屋のことは、Tさんにすべて任せているんだった」

「すると、この鍵は、T先生が持っていたものの可能性があるわけですよね」

私は鍵を、S先生に見せた。

「たしかにそうだ。Tさんが持っていた鍵かも知れないね」

「じゃあ、T先生の鍵の可能性が高いですね。あとでT先生に聞いてみます」一部始終を聞いていた職員のNさんは言った。

さて、それから数日がたった、今日。

事務室に行くと、Nさんが話しかけてきた。

「あのう、先日の鍵の話なんですが…」

「あの鍵、どうなりました?」私も少し気になっていたのだった。

「T先生の鍵ではなかったようです」

「そうでしたか」

「でも、そのあとが不思議なんです」

「どうしたんです?」

「T先生は、『この鍵には心当たりがある。丙学のA先生か、丁学のK先生が管理されている鍵ではないか』とおっしゃったんです」

「ほう」

「で、お二人の先生に確認してみたら、お二人とも、この鍵は自分のものではない、とおっしゃったんです」

「また違ったんですか」

「ええ。でもそればかりじゃありません。今度は、自分の鍵ではないとおっしゃったK先生が、『この鍵は戊学のN先生が管理している鍵に間違いない』とおっしゃるんです」

「ほう。どうしてまたそう断言したんでしょうね」

「『3F 資料室』の筆跡は、どうみてもN先生のものだ、と、K先生がおっしゃったんです」

「なるほど」

「K先生は、『もし僕の推理が当たったら、僕はこの職場の名探偵だな』などとおっしゃって」

k先生らしい言い方だ、と思った。

「でも、N先生にうかがったところ、『そんな鍵は知らない』と…」

結局、心当たりの人を「芋づる式」に聞いていっても、誰もその鍵については知らない、というのである。

「聞く先生、聞く先生、みなさん『違う』とおっしゃるんです」

「乙学のT先生、丙学のA先生、丁学のK先生、戊学のN先生…。皆さん、自分の鍵ではないとおっしゃるわけですね…。ミステリーですねえ。いったい誰の鍵なんでしょう」と私。

「それより不思議なのは」Nさんが続けた。「お聞きした先生が、『自分の鍵ではない』と言ったあと、その鍵の持ち主を推理されることなんです。それも、かなり確信を持って『○○先生に違いない』と」

「ほう」

「でも、それがことごとくハズレるんです」

私は苦笑した。そもそも自分の推理も間違っていたからである。

「学問なんて、そんなもんなんですよ」と私。「自信をもって仮説を立てるけれども、実はたいした根拠がないのに結論を出したりしているんです」

「研究者の先生方は、たった一つの鍵にも、好奇心を持たれるんですねえ」Nさんはヘンに感心していた。

私はそのとき、ハタと思い出した。

「そういえば、甲学のM先生には聞いてみましたか?」

「あ!そういえば忘れていました」

私は最初に、甲学のM先生の可能性をあげたのだった。しかしその直後、乙学のT先生の名前があがり、同じ乙学のS先生の意見に流されて、T先生ではないか、ということになったのである。

「そうでした!M先生の可能性もあったんですよね。あとで聞いてみます」

さて、私は研究室に戻ったが、その後も鍵の持ち主が気になって気になって仕方がない。

夕方、ふたたび事務室に行った。

「あのう、…鍵の持ち主、わかりました?」私はNさんに聞いた。

「いえ、M先生と連絡がとれなくて、まだ聞いてないです」

「そうですか」

「さっき、こちらに丁学のK先生もいらっしゃいました」

「ほう」

「『鍵の持ち主、わかった?』とお聞きになったので、『N先生ではありませんでした』と申し上げたら、うなだれて帰っていかれました」

やはりK先生も、自分の推理の結果を気にしていたのだろう。

「これで、この職場で名探偵になる可能性があるのは、あとは私だけだ、ということですね」

「そうですね」

さてさて、鍵の持ち主は、はたして甲学のM先生なのか?

…ということで、ひと言でいえば「鍵の持ち主が見つからない」というお話しでございました。

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「寝床」の旦那かっ!

5月16日(水)

今年のひそかな夢は、10月の学園祭で、1曲でいいからバンドをしたがえてアルトサックスを演奏することである!

だがいま困っているのは、練習場所とバンドのメンバーが見つからないことである。

先週の水曜日、研究室にやって来た3年生のNさんに聞いてみることにした。Nさんは吹奏楽団に所属している。

「あのう…、例えば、例えばだよ」

「何です?」

「いつも、夕方に吹奏楽団が個人練習しているスペースあるよね」

「ええ、あります」

「そこで、私のような者が混じって楽器の練習をしたとしたら、ヘンだろうか」

「そりゃあ、ヘンですよ。『何このオジサン』みたいな」

オジサンって…。

Nさんに一蹴されたので、吹奏楽団のメンバーに混じって練習することを断念した。

先週の土曜日(13日)、何もする気力が起きなかったので、アルトサックスが練習できる場所を探しに、車でロケハンを敢行することにした。といっても、家の近所である。

中学校わきのグランド、山のふもとにある公園、近くを流れる川の河原などを見てまわるが、どこも、音を出すには迷惑がかかりそうなところばかりである。昔はよく河原で練習したものだが、いま住んでいるところの近くを流れる川は、週末になるとバーベキューをする家族連れで賑わったりしているので、どうにも恥ずかしい。

(困ったなあ)

結局、適当な練習場所を見つけられなかった。

次に、バンドのメンバーを見つけることである。こちらの方がはるかに難しい。

いま、ロックバンドのサークルの顧問をしているから、サークルの学生にお願いして手伝ってもらおうか、という考えがよぎったが、同時に、「寝床」という落語を思い出した。

大家の旦那が、義太夫が好きで、暇さえあれば誰かに語りたがるが、これが下手で下手で聞くに堪えない。長屋の店子(たなこ)たちも、近所の人たちも、下手な義太夫を誰も聴きたがらず、仮病をつかってなんとか旦那の義太夫から逃げようとするのである。

私のアルトサックスも、落語の「寝床」に出てくる旦那の義太夫のようなものかも知れない。

「バンドやろうぜ!」とでも言おうものなら、「やっかいなオッサンに関わりたくない」と、学生たちは蜘蛛の子を散らすように、逃げ出すだろうなあ。

そう思うと、もう一歩も足を踏み出せない。

うーむ。どなたかいい知恵を持っている方はいらっしゃいませんか。

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映画的余韻・金田一映画篇

5月14日(月)

映画「悪霊島」を見返してみた。

横溝正史のおどろおどろしい世界観をビートルズで煮しめたことはさておきですよ。

…いや、さておかないぞ。

企画会議で、

「設定は1960年代後半だし、…どうだろう。ビートルズ世代にうったえかける意味で、ビートルズの音楽を使う、というのは」

「いいですね!グッドアイデアですよ!金田一耕助にビートルズ…。斬新じゃないですか!金田一耕助をヒッピーに見立てるんですね!」

みたいな会話が、したり顔で行われていたかと思うと、ちょっと脱力するなあ。

とはいえ、当時中学1年生だった私はまんまとその戦略にのせられ、ビートルズの音楽が頭から離れなくなったわけであるから、結果的には成功したんだろう。

それよりも、映画「悪霊島」の演出がなじめなかった理由が、わかった。

それは、「心の声」をセリフにしているからである!

周囲に誰もいないのにもかかわらず、

「おや、これは○○ではないか。おかしいなあ。何でこんなところに、こんなものがあるんだろう?」

みたいな独り言を言っているシーンがあって、それがいかにも、とってつけたような説明口調のセリフなのだ。

ふだんの生活で、そんな独り言なんぞ言わないだろ!と思ってしまうと、もうその時点で、映画にはのめり込めなくなってしまう。

あと、金田一耕助(加賀丈史)が、磯川警部(室田日出男)から電話を受けるシーン。

「そうですか…。死因は墜落死だけじゃない。その前に首を絞められた形跡がある…。」

磯川警部の言ったことを、電話口で復唱するのである。これもまた、説明口調のセリフで、リアリティがない。

演出をしている時点で、そのリアリティのなさに、気づかなかったのだろうか?

それとも、それを承知で、あえて説明口調のセリフを入れたのか?

どちらにしても、私にとっては残念な演出である。

そう思うと、市川昆監督による初期の金田一映画はよかった。

Tdv2747d とくに、映画「悪魔の手毬歌」のラストシーンは、日本の映画史上に残る名シーンである!

事件が解決し、駅のホームで金田一耕助(石坂浩二)が磯川警部(若山富三郎)と別れる場面。

金田一耕助が磯川警部に「あるセリフ」を言ったあと、汽車が走り出す。

走り去る汽車のデッキに立つ金田一耕助は、駅のホームで見送る磯川警部に2回ほど、実直に頭を下げる。

この、2回頭を下げるのがいいんだよなあ。

うーむ。思い出すだけで涙が出てくる。

オープニングのタイトルバックで、金田一耕助が沼のほとりを歩いている映像も、見ているだけでゾクゾクする。

そしてそこに流れる村井邦彦作曲の「哀しみのバラード」。

それだけで、もうその世界観にのめり込んでしまう。

映画の本質とはやはり、「映画的余韻」なのだ。

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1980年とビートルズ

5月13日(日)

やるべきことはたくさんあるのに、週末にひとりでぼんやりと過ごしていると、結局なーんにもせずに終わってしまう。軽く死にたくなるなあ。

そんなことはともかく。

NHK少年ドラマシリーズ 家族天気図」は、やはりいま見てもすばらしい名作である。1970年代末~80年代初頭の家族像を、これほどリアルに描いたドラマを、私は知らない。1980年当時、小学生だった人、中学生だった人、高校生だった人、大学生だった人、そして親だった人、すべてに見てほしいドラマである!1980年の家庭って、こんな感じだったのだ。

いま見ると、土屋嘉男と小林千登勢の「悩める親」に感情移入してしまうのは、私がその世代になったからだろう。ちなみにこのドラマのなかのエピソードの1つには、あの宮口精二が「人のいい老人」役で出ていて、土屋嘉男と楽しそうに会話をしている。映画「七人の侍」ファンにはたまらないシーンだぞ!

そして特筆すべきは、末っ子役を演じた斎藤ゆかりである。当時有名な子役だった斎藤こず恵の実の妹だそうで、私が子どものころよく見ていた「ケンちゃんシリーズ」というドラマにも、ケンちゃんの妹役で出ていた。その後、あまり見なくなり、いまは俳優業を引退しているらしい。

Img_720234_28565237_9 だがいまこのドラマを見ると、その達者な演技には舌を巻く。わかる人にだけわかってもらえればよいが、韓国のシットコム「明日に向かってハイキック」に出ていた天才子役・ソ・シネを彷彿とさせる。

ソ・シネの天才子役ぶりは、いま日本にいるどの子役も、おそらくはかなわないものだろう。だが、日本にもかつて、斎藤ゆかりのような天才子役がいたのである。

さて、「家族天気図」の全編に流れていた、ポール・マッカートニーの音楽(DVD版では、著作権の関係から音楽は差しかえられている)で思い出したが。

B00018gxv6 私がビートルズの曲をはじめて「ちゃんと」聴いたのは、1981年に公開された映画「悪霊島」(監督:篠田正浩)の挿入歌だった「LET IT BE」だったと思う。

金田一耕助の映画をきっかけにビートルズを聴く、というのが、いかにも私らしい。

1960年代末の瀬戸内の島を舞台にした映画「悪霊島」は、ビートルズ世代のヒッピーの青年(古尾谷雅人)を登場させたり、金田一耕助(加賀丈史)じだいを、当時の若者の象徴であったヒッピーになぞらえたりするなど、1960年代に青春をすごした「ビートルズ世代」へのオマージュみたいな映画だった。それだけに、いわゆる「金田一もの」としては、かなり異色の出来で、きっと金田一ファンにとっては、好き嫌いが分かれる作品であろう。

しかし私のように、この映画を見て、内容よりもビートルズの音楽が強く印象に残った人も多かったろうから、興行的には成功したのではないだろうか。

公開の前年、すなわち1980年12月8日にジョン・レノンが暗殺されており、映画はそのことを伝えるニュースからはじまる。つまり、本編にビートルズの曲を使用することになった背景に、ジョン・レノンの暗殺事件があったことは想像に難くない。

だが不可解なのは、映画で実際に使われた曲は、ジョン・レノンの曲ではなく、ポール・マッカートニーの「LET IT BE」であった、ということである。これには、首をかしげざるをえない。

ちなみに、「家族天気図」の第1回が放映されたのが、1980年12月22日。ジョン・レノン暗殺事件の直後である。だがドラマの音楽にポール・マッカートニーの曲を使用することは以前から決まっていたはずであり、ジョン・レノンの事件とは無関係であったと考えられる。

ではなぜこの時期、ポール・マッカートニーだったのか?

1980年1月、日本で公演を行う予定で来日したポール・マッカートニーは、成田空港で大麻取締法違反で現行犯逮捕される。このとき、日本での公演は、すべて中止になったのである。この事件は、スネークマンショーによってギャグにされており、私も後年、スネークマンショーのアルバムによって知ることになる。

ビートルズが解散して10年がたち、ポール・マッカートニー来日公演が幻に終わった1980年は、日本においてビートルズを回顧するまたとない年となった。それに加え、同じ年の年末にはジョン・レノンの暗殺事件が起こったのである。

1960年代に青春時代を送った人にとって、1980年という年は、ビートルズこそが思い出されるべき存在だったのだろうか。

当時小学校6年生だった私には、よくわからない。ただ想像するのみである。

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