入学から就活まで

前回の記事で村木厚子さんのことを書いたが、最近出版された村木厚子さんの著書『公務員という仕事』(2020年7月、ちくまプリマー新書)という本がおすすめである。

とくに、公務員を目指す大学生のテキストとして、これ以上によい本はないと思う。

試みに、本書の「おわりに」で書かれているメッセージを引用する。

「①新しい仕事をするチャンスがあったら引き受けましょう。

これは、自分の大学時代の恩師から教えられたことです。その人の職業的なキャパシティーというのは、専門性・経験の深さと間口の広さの掛け算で決まる。だから、自分の専門性、得意分野を伸ばすことは大事だが、同時に、ほんの少しでもいいから、まったく違う分野を経験してみると、それは、掛け算で効いてくるというのです。だから、新しいこと、苦手なことへのチャレンジは大きなチャンスなのです。

②昇進のオファーがあったら受けましょう

昇進は階段を上ることととてもよく似ています。階段を上ると、背が伸びたわけでもないのに、下の段にいたときには背伸びをしたり跳び上がったりしなければ見えなかったものが自然に見えるようになります。オファーがあったということは、客観的に見て実力がついているということ。自信をもって、オファーを受けましょう。

③ネットワークを作りましょう

仕事はうまくいくこともいかないこともあります。先が見えないこともしょっちゅうです。そんなときに、同じように仕事に取り組む仲間や、経験豊かな先輩とのネットワークがあれば、たくさんアドバイスがもらえます。自分の仕事と全く違う異業種の人に新しい視点をもらったり、みんな同じように悩むんだと連帯感を持ったりというのもうれしいことです。

④家族・家庭を大切にしましょう

これまでの日本社会は、「滅私奉公」などといった言葉にも象徴されているように、職場では家庭のことはあまり見せない、残業も、転勤もいつでもOKといった仕事優先の姿勢が賛美される傾向がありました。しかし、家族・家庭は安定した職業生活の基盤ですし、「仕事」と「家庭」という二つの軸を持つことで、ものの見方が多様になったり、気分転換を上手にできたりします。これからは家族・家庭を大切にしている人が職場でも尊敬されるようにしたいですね。」

この4つは、いちいちうなずくことばかりである。若い人向けの言葉なのだが、すべていまの僕にもあてはまる。つまり、いくつになっても、この4つは大事だということなのだろう。若者だけでなく、中堅やベテランも読むべき本である。

ついでに(といっては失礼だが)もう1冊、おすすめの本は、武田砂鉄『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版、2020年7月)である。こちらの方は、実はまだ読み始めたばかりなのだが、僕はこの本を読んで、忸怩たる思いがする。

教員稼業をしていた頃、大学に入学したての学生を対象にした授業「スタートアップセミナー」を担当したとき、人の文章をわかりやすく要約する技術であるとか、自分の考えをわかりやすくプレゼンする技術とか、そういうことばかり教えていた。

しかし本当は、大学というところは、わかりにくいことを勉強するところなのだ。わかりやすいことはよいことばかりではない、ということを学ぶ場のはずである。

その意味で、本来は大学に入ったら、「世の中はわかりやすいことばかりではない」「わかりやすいことには、落とし穴がある」といったこと学ぶ必要があるのだ。だがいつの頃からか、「わかりやすいことは善」という考え方が、大学教育を支配するようになってしまった。

だからいまの僕だったら、大学に入学したての学生を対象にした授業では武田砂鉄『わかりやすさの罪』をテキストにし、就活をしている学生を対象にした授業では村木厚子『公務員という仕事』をテキストにするだろう。ま、そういう機会はこの先永遠に訪れることはないだろうけれど。

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犬笛のようなもの

ちょっと前に、あるオンラインの打ち合わせで、村木厚子さんとご一緒することになった。

2009年6月、厚労省の局長だった村木厚子さんが身に覚えのない罪で大阪地検特捜部に逮捕され、不当勾留という信じがたい仕打ちをされたが、その後裁判で無罪が確定し、厚労省に復帰して最終的には事務次官になったことは、記憶に新しい。

そのときは5~6人のこぢんまりとした打ち合わせだったのだが、僕自身は直接村木さんとお話ししたわけでなく、もっぱらほかの人たちが村木さんにいろいろと質問していた。僕は黙ってそのやりとりを聞いていただけなのだが、村木さんのお話がとても明快でわかりやすく、じつに素敵な方だという印象を持った。

そんなわけで、僕は村木厚子さんのファンになったのだが、昨日たまたまテレビをつけると、NHK-BSの「アナザーストーリー」という番組で、村木さんの不当逮捕についてのドキュメンタリーを放送していた。

番組の後半の方に、映画監督の周防正行さんが登場した。周防さんは、映画「それでもボクはやってない」で、刑事司法のゆがんだ現状を丹念な取材に基づいて描いた。それがきっかけで、村木さんの事件をきっかけに進められることになった刑事司法改革の委員に抜擢される。そしてその顛末を、周防さんは「それでもボクは会議で闘う」(岩波書店、2015年)にまとめた。

この本の内容については、すでに書いたことがあるので、そちらを参照のこと。

今回書きたいのは、村木厚子さんのことでも、周防監督の本のことでもない。周防監督の映画「それでもボクはやってない」についてである。

周防監督の映画は基本的には好きなのだが、僕はこの映画を見ていない。

それは、「この映画って、功罪両面あるよね」という妻の言葉になるほどと思ったからである。

この映画は、痴漢のえん罪についての映画である。

何の罪もない一市民が、痴漢の容疑者として逮捕され、不当な取り調べを受けて裁判にかかる、というストーリー。

現在の刑事司法の不当なやり方に対する告発的な映画だ、というのはよくわかる。

そこを問題にしたいのではなく、この映画が、「痴漢のえん罪」をテーマにしたことが引っかかるのである。

たしかに痴漢のえん罪という事案は存在する。だが、実際に痴漢の被害にあった事件にくらべると、痴漢のえん罪というのは、おそらくごくわずかである。

にもかかわらず、おそらく、この映画をきっかけに、痴漢のえん罪というのが社会問題化し、テレビのワイドショーなんかでも大きく取り上げられた。

その結果、痴漢を訴えた側が加害者である、という本末転倒な論調が生まれたのである。

いやいやいや、実際には痴漢の被害の方が断然多いのだ。痴漢のえん罪が社会問題化したために、男性を不当に陥れるために痴漢を訴える女性があたかも多いような空気ができてしまった。

これは、痴漢を訴えることに対して萎縮させてしまうことにもつながる。

ま、映画監督としては、ふつうの人が突然不当に逮捕されて不当な取り調べを受ける、もっとも身近な事例として、痴漢のえん罪という題材を選んだのだろうけれど、「でも、これが女性監督だったら、この題材にはしないよね」と妻。たしかにその通りである。

そんなわけで僕は、複雑な思いをもって、いまだにこの映画を見ることができていないのである。

…それで思い出したことがあった。

以前にいた職場で、ハラスメント防止対策の担当をしていたとき、どのようにしたらハラスメントに対して問題意識を高めてくれるだろうか、と考え、社内の全員に、大規模なアンケート調査をすることを考えて、提案した。当時仕えていた副社長に提案すると、ぜひやりましょうということになり、僕はアンケート項目を作り、自分の部局で、このアンケートについての説明をすることにした。

そのアンケートには、「ひょっとしたらこれ、ハラスメントじゃないかな」といった、ふだん言いたくても言えないようなことも、自由記述で書いてもらうような仕掛けを作った。つまり「寝たふりした子を起こす」ことをしよう、と思ったのである。そうすることで、ハラスメントに対する意識を高めることがこのアンケートの目的だった。

僕が自分の所属する部局で、そうしたアンケートのねらいを説明すると、当時その部局の管理職をしていたある同僚が、

「学生が教員を陥れようとしてありもしないハラスメントを書き込む可能性があるので、こうしたアンケートはいかがなものか」

といって、難色を示したのである。

僕はそのとき、非常にモヤモヤしたものを感じたのだが、あとになって、痴漢のえん罪が社会問題化したときに、そうか、これは痴漢のえん罪を恐れる論理と同じなんだな、と思った。実際のところハラスメントの事案が多いことは不問に付し、ひたすら、偽のハラスメントが起こることへの警戒感のみを主張する。典型的な「論理のすり替え」である。

その頃から、その管理職の同僚には違和感を抱くようになったのだが、その後も、僕がいろいろと相談しに行くと、同様の対応をされたことが何度か続き、

(う~む。この人に何を話してもダメだな)

と確信し、僕はその人と決別したのである。

すでにその人は定年退職され、別の職場に移られたそうだが、もうそんな年月が経ってしまったのかと、僕はある感慨をもって、このことを思い出したのであった。

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シューベルトの子守歌

8月4日(火)

この2日ほど、例の海外のプロジェクトの申請書に忙殺された。「七人の侍」よろしく、交渉の末、メンバーを7人集め、申請書をなんとか書き上げ、ようやく自分の手を離れた。

三谷幸喜の映画『ラヂオの時間』で、素人の書いたラジオドラマの台本を、たった10分間でまるっきり書き換えるという、敏腕放送作家の「バッキーさん」という人物が登場するが、依頼されてから4日で申請書を仕上げた僕のいまの気分は、さしずめバッキーさんである。

そんなことはともかく。

帰ってからは、また寝付きの悪い娘を寝かしつけなければならない。

パターンは昨日と同じ。

朝から働きづめの妻が寝落ちしてしまうと、2歳4か月の娘は、別の部屋で電気を消して息を潜めている僕のところにやって来て、

「だっこして」

という。

また始まった。今日は何回続くのだろう。

抱っこしては布団に寝かせる、という動作を2回繰り返したが、やはり娘は眠れないようである。

こういうとき、実は秘策がある。

それは、「子守歌を歌う!」ということである!

あのねえ。子守歌といっても、バカにしてはいけませんよ。子守歌は人類が長年かけて作り出した「智慧」なのだ。

子守歌を歌ってごらん。ウソのように子どもが寝てしまうから。

僕が選んだ子守歌は、「シューベルトの子守歌」!

「ね~むれ~ ね~むれ~ は~は~の~む~ね~に

ね~むれ~ ね~むれ~ は~は~の~て~に」

この8小節を繰り返し繰り返し抱っこしている娘の耳元で歌う。

歌詞なんかつけずに、鼻歌だけでいい。

するとあら不思議、娘はストンと眠りに落ちてしまうのである。まるで眠り薬が効いたみたいに。

娘がまだ生後数か月の頃に、抱っこしながら寝かしつけるときに、ためしにこの歌を歌っていたら、たちどころに寝てしまったので、その成功体験が、いまも僕にこの歌を歌わしめているのである。

なぜシューベルトの子守歌にしたかというと、この国には、

「ね~んね~ん ころ~り~よ おこ~ろ~り~よ~」

という有名な子守歌があるのだが、これはメロディーに起伏がありすぎて、繰り返し歌おうとすると、歌ってる方が疲れちゃう。

それにくらべると、シューベルトの子守歌は、メロディーがどちらかといえば単純なので、エンドレスで歌っても苦にならないのだ。

ま、子守歌を歌うと子どもは必ずすぐ寝る、ということでもないのだが、かなりの確率で、早く眠りに落ちることは断言できる。

子守歌こそ、人類の叡智である。

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ようかいしりとり

8月3日(月)

午前中は在宅で、気が重い仕事に関するメールを何人かに出したり、書類を書いたりした。

午後は、車で1時間半ほどかかる病院で、定期の検査である。

かかりつけの病院が、車で片道1時間半ほどかかる(それも首都高を使って)ところにあり、そこでしかるべき検査をするというのは、なかなかに体力を消耗する。まったく、体力がないと病院に通えない。

これだけで僕はすっかり疲弊するのだが、帰ると今度は、2歳4か月の娘が待っている。

娘は寝付きが悪い。おそらく家族の中でいちばん寝付きが悪いのではないだろうか。

こちらとしては、とにかく早く寝かせようと、テレビを消したり部屋中の電気を消したりしするのだが、いっこうに寝る気配がない。

妻は朝から休みなく働いているので、「いの一番」に寝てしまうのだが、横で寝ようとする娘は、どうも眠れないらしい。

僕はといえば、別の部屋で明かりを消してベッドに横たわって、娘が寝てくれるのをじっと息を潜めて待っているのだが、娘は、妻がぐっすり寝ていることがわかると、僕のところにやってきて、

小声で

「だっこして」

という。抱っこをしないと寝てくれないのだ。

僕はベッドから起き上がって、娘を抱っこして、頃合いを見て、布団に寝かせる。

それでもまだ眠れないらしく、少し経ってまた僕のところに来て、

「だっこして」

という。

これが数回繰り返される。

若い人ならばたいしたことがないのかもしれないが、50を過ぎた僕にはけっこう体力的にキツい。

抱っこをしては布団に寝かせる、という動作を何度も繰り返し、ようやく眠ってくれるのである。最近は、夜11時半とか12時までかかることが多い。

その頃には僕もすっかり疲れてしまって、そのままぐったりと眠ってしまう。

ひどいときには、娘を寝かしつける前に、自分が先に眠ってしまうこともある。

なのでこのブログを書くのも、最近はとてもしんどいのだ。ほとんど眠りながら書いているといってもよい。

さて、最近、娘がはまっている歌が、「おかあさんといっしょ」でたまに歌われる「ようかいしりとり」である。

作詞がおくはらゆめ、作曲が種ともこ。種ともこですよ!

種ともこといえば、僕が20代の頃、シンガーソングライターとして活躍していたんじゃなかったかなあ。「おかあさんといっしょ」には、種ともこが作曲した名曲がけっこうある。「ようかいしりとり」もそのひとつである。

曲もすばらしいが、詞もまたなかなか凝っている。1番の歌詞のしりとり部分が、

「ろくろっくび→びんごうがみ→みつめこぞう→うみぼうず→ずんべらぼう→うまつき→きつねび→びじんさま→まくらがえし→しらぬい→いったんもめん。ん?まけた~!」

2番の歌詞のしりとり部分が、

「ざしきわらし→しちほだ→だいだらぼっち→ちょうちんおばけ→けらけらおんな→なきばばあ→あまのじゃく→くらげのひのたま→まめたぬき→きむないぬ→ぬらりひょん。ん?まけた~!」

である。

これ、大人だって覚えるの難しいぞ。第一、妖怪の名前を見て、その姿がすべて想像できるかというと、全然自信がない。つまり、イメージのまったく浮かばない名前がけっこうあるのである。

ましてや娘は、一つ一つの妖怪の姿を思い浮かべながら歌っているわけではない。聞いたままを覚えて、それを何度も歌っているのである。

しかし、名前を正確に発音することができないものが多くて、「びじんさま」をなぜか必ず「おじいさま」と言ったり、「だいだらぼっち」を「だいだらごっち」、「なきばばあ」を「なきままあ」、「あまのじゃく」を「あまこじゃく」、「まめたぬき」を「まめまむき」と、微妙に間違えて発音するところがかわいらしい。

そのうち、1番と2番がごっちゃになって、

「ろくろっくび→びんごうがみ→うみぼうず→ずんべらぼう→うまつき→きつねび→おじいさま→まめまむき→きむないぬ→ぬらりひょん。ん?まけた~!」

と、「みつめこぞう」が省略されたり、途中から2番の歌詞に移ってしまったりと、記憶があやふやになっていく。これもまたおもしろい。

この歌もまた、そのうちにちゃんとした歌い方になっていくだろうから、それ以前の未完成な歌い方を、忘れないうちに書きとどめておく。

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文章便利屋稼業

8月1日(土)

先週の金曜、ある方から、ある申請書を提出しなければならないのだがそのためには第三者の推薦書が必要なので、書いてほしいという依頼が来た。書類の最終締め切りは、8月10日消印有効なので、あまり時間がない。しかも、推薦書はメールに添付して送ればいいというものではなく、捺印した原本を提出するようにと、その要項には書いてある。

以前、お世話になった方なので、書くことは全然やぶさかではないのだが、申請書の内容を考えると、僕が書くのはお門違いなのではないだろうかといささか疑問を抱きつつ、まあそこはプロですから、申請の趣旨に合わせてすぐに書いて出すことにした。推薦書を書くこと自体は、「前の職場」でもさんざん経験があるので、別に苦にならない。その日のうちに書いて、翌日、捺印したものを郵送してその方のもとに届けた。

そして今日は、以前に一度だけお仕事したことのある方から、メールが来た。知り合いの海外の方が、その国からお金をもらってあるプロジェクトを実施することを計画しているのだが、そのプロジェクトの日本パートの代表者になってくれないか、ついては申請書の日本パートの部分を書いてくれないだろうか、という内容だった。

よくよく聞いてみると、昨晩遅く、海外の方からその方のもとに、いきなりプロジェクト計画の話が来て、申請書の締め切りも迫っているし、慌ててどうしようかということになり、僕の顔が浮かんで、僕に依頼のメールをよこしたのだという。

締め切りを聞いてみると、「8月10日までに、翻訳した上で、そのプロジェクト代表者の海外の方に送らなければいけない」という。あと10日しかないではないか。

その申請書には、日本パートが行うべき計画やチームのメンバーの名前とその役割、などを書く必要があって、つまりは計画やメンバーの人選などもこちらで行わなければいけないようである。

うーむ。この短い間で、それを完成させるのは至難の業である。人選にしたって、本人に内諾をもらった上でないと申請書には書けない。

厳しい審査があるそうなので、このプロジェクトが本当に採用されるのかどうかはわからないのだが、そもそも、自分がこのプロジェクトに参加するのは、物理的にも精神的にも不可能に近い。

しかし、である。

その方からいただいたメールは、かなり悲壮感が漂っていた。いきなり海外の方からこんな間際になって、日本チームを作って申請書を完成させろという無茶な依頼、というより命令が来たのである。その方からすれば、わらをもつかむ思いなのだろう。

メールをいただいたあとでお電話でお話ししたのだが、その方は、こんな無謀なお願いを一度しかお会いしたことがない方にお願いするのはまことに失礼きわまりないことは重々わかっているのですが…どうか前向きにご検討を、と、たいへん恐縮した様子でお話しになる。

まあ、海外の方が、ギリギリになって無謀な依頼をしてくることは、僕も何度も経験していることだから、それ自体は驚かないのだが、問題は、僕がそれにふさわしい人物かどうかである。きっと海外の方は失望するのではないだろうか。

だが、いろいろと聞いてみると、なかなか断れるような状況ではなく、仕方ない、申請書を書くしかないかなあと思い始めているところである。

こんなふうに、かなりタイトなスケジュールで、人の目にほとんど触れない文章を書く、という機会が、実はかなり多い。というか、今までそんなことばかりやってきた。文章便利屋などという需要があれば、すぐにでも起業したいくらいである。

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地震・水害・感染症

7月30日(木)

車で1時間半かけて病院に行く日である。

朝、自宅を出ようとすると、スマホの緊急地震速報がけたたましく鳴り響いた。

(これは大きな地震かな…)

と身構えたが、揺れが全くなかった。

ホッとして、車で1時間半かけて病院に出かけた。

病院に着くと、中の待合スペースではかなりの人々が密集している。

そればかりではない。総合受付にいる医療事務の人や、その奥でさまざまな作業をしている看護師さんのところを見ると、やはりかなりの人々が密集している。

(こりゃあ、ソーシャルディスタンスどころではないな…)

これだけの患者に対応しなくてはいけないので、仕方がないのだろう。

長時間待ったあげく、診察自体は数分で終了した。

さて、昨日は、「前の勤務地」「前の前の勤務地」のあたりが、大雨の影響で未曾有の水害に見舞われた。

「前の勤務地」時代の仲間たちが、被害の状況について、昨日から猛烈な勢いで情報交換を進めている。

僕も、昨年12月に訪れた場所のことが気になって、そのときにお世話になった方に連絡をとってみたりした。

「前の勤務地」だけでなく、その隣の県も、未曾有の水害に見舞われた。僕が長年お世話になっている事務所の方に連絡をとり、当地の状況と、近況をうかがったりした。

どちらもまた訪れたい場所なのだが、感染症の影響でおいそれと訪れるわけにも行かないのが、歯がゆくて仕方がない。

この日、都内の感染者数は367人と、これまでで最多になり、全国の感染者数も1200人を超えた。

明日は、最速の新幹線で2時間15分ほどかかる県から出張に来られる方と都内で打ち合わせの予定だったが、昨日からの感染拡大の状況に鑑み、明日の出張は見合わせるとの連絡があった。

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千本おばけ

7月28日(火)

昨日、今日と、オニのように忙しくて、帰宅したのが夜9時前。

娘はとっくにお風呂に入って、すでにパジャマに着替えているのだが、僕が帰宅して、お風呂に入ろうとすると、

「一緒に入る!」

といって、パジャマを脱いでスッポンポンになって、もういっぺん、お風呂に入ってくれた。

(うーむ、やっぱりパパとお風呂に入るのが楽しいんだな)

と悦に入ったのだが、今日、帰宅すると、

「パパとお風呂入る?」

「入らない」

「入らないの?」

「パパどーぞ」

と塩対応。

たんに気分の問題だったんだな。

それはともかく。

昨日のお風呂で、やたらと歌っていたのが、「おばけなんてないさ」という歌。

「おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ

ねぼけたひとが

みまちがえたのさ

だけどちょっとだけどちょっと

ぼくだってこわいな

おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ」

これを繰り返し繰り返し口を大きく開けて歌うのである。というか一緒に歌わされるのだ。

どうも最近はこの歌がブームらしい。数日前までは「だんご三兄弟」だったのだが。

で、今日は一緒にお風呂には入らなかったのだが、僕がお風呂から出たら、またしても「おばけなんてないさ」地獄である。

「おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ

ねぼけたひとが

みまちがえたのさ

だけどちょっとだけどちょっと

ぼくだってこわいな

おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ~」

おしま~い、と思ったら、

「もっか~い」

と言って、また最初から一緒に歌わされる。

「おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ

ねぼけたひとが

みまちがえたのさ

だけどちょっとだけどちょっと

ぼくだってこわいな

おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ」

「もっか~い」

「おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ

ねぼけたひとが

みまちがえたのさ

だけどちょっとだけどちょっと

ぼくだってこわいな

おばけなんてないさ

おばけなんてうそさ」

「もっか~い」

「おばけなんて…」

これが延々と続く。

まるで鬼コーチの千本ノックのごとくである。しかも、口を大きく開けて歌わないと怒られるのである。

ま、こっちも、くたびれるまで歌わせて、早く寝かしつけようという一心で、何度も歌うのだが、逆にこっちが疲れて眠たくなってしまう。

今日のTBSラジオ「たまむすび」で町山智浩さんが、「子どもは2歳の頃がいちばんたいへん」と言っていたが、そのことをいま、実感している。

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リモート三昧

東京サンシャインボーイズの昔の傑作舞台「ショー・マスト・ゴー・オン」の中で、女役を演じる男優と新人脚本家による、こんなやりとりがあった。

「先生よ~。今度俺のためにホン書いてくれよ」

「たとえばどんなのがいいんです?」

「『おんなねずみ小僧』みたいなやつ。たとえば、『おんな旗本退屈男』とか」

「『おんな旗本退屈男』って、女なんですか、男なんですか?」

「じゃあ、『おんな八百屋お七』ってのはどうです?」

「『八百屋お七』ってのはもともと女なんじゃないですか?」

みたいなやりとり。

これになぞらえれば、「オンラインオフ会」って、オンなのかオフなのかよくわからないが、我ながらよい命名である。

4連休のうちの前半2日は、リモート三昧だった。

23日(木)は、オンライン研究会だった。オンライン研究会自体は、2回目の体験である。

実際にやってみると、対面で行うのと、ほとんど大差がないことに気づく。スライドなんかも、画面共有すれば鮮明に見られるので、対面の研究会よりもむしろ見やすい。

なにより、会場を確保したり、配付資料を人数分用意したり、みたいな面倒くさい準備も不要なのでかえって楽である。

24日(金)も、オンライン会議やらオンライン打ち合わせやらオンラインオフ会やらで、ほぼ丸一日、リモート漬けだった。

オンライン会議は、わざわざ重い荷物を持って都内に出向いて…みたいな面倒なプロセスが必要ないし、対面とほぼ変わらない意見交換ができるので、もうリモートでいいんじゃねえの?という思いを強くする。

オンラインオフ会も、長距離を移動して会いに行く、というプロセスは楽しめないものの、考え方を変えれば移動の負担を考えずに会うことができるので、やはりこれも新鮮な体験だった。

お笑いタレントの事務所であるASH&Dコーポレーションというところに所属する「阿佐ヶ谷姉妹」「ザ・ギース」「ラブレターズ」という3組のお笑い芸人が、YouTubeで「東京リモートコントメン」というコントライブを配信していたので、見てみたのだが、これがなかなか面白かった。

ASH&Dコーポレーションって、もともと大竹まこと、斉木しげる、きたろうの「シティーボーイズ」が所属する事務所だったのだが、今では芸人やタレントの数も増えて、とくにコントに強い芸能事務所といったイメージを築きつつある。

僕がこのライブを面白いと思ったところは、今までのような劇場の舞台でやるコントをそのまま配信する、というのではなく、設定をそもそもリモートにする、という点だった。

「ラブレターズ」は、コロナ禍で卒業式ができなかった学校が、リモートで卒業式をやることになった、という設定で、画面上では校長先生と答辞を読む生徒との間でボケとツッコミが繰り広げられる、というコントであった。

「ザ・ギース」は、やはりコロナ禍で直接不動産屋さんに行けないお客さんが、オンラインを通じて不動産屋さんに部屋探しを相談する、という設定で、やはりオンライン上の画面でボケとツッコミが繰り広げられる。

つまり、リモートそのものを設定としたコントなのである。うーむ、わかりにくかったかな。説明が下手ですみません。

とにかく、リモートという制約の中で、コントのあり方も変わってくるのだな、ということが実感できるようなライブだった。

そう考えれば、会議だって研究会だって飲み会だって、リモートの可能性をもっと追求すれば、面白くなるのかもしれない、と僕は強く思ったのである。

そう、僕たちは変わらなければいけないのだ。

だがしかし、一方で「変わりたくない」という考えの人が大勢いることも、また事実である。

対面で話した方が、誤解も生じないし、信頼関係も生まれるのだ、だから俺はリモートなんて信用できない、という意見ももっともなのだが、話の通じない人は、対面であろうとリモートであろうと、話の通じない人であることには変わりない、ということもまた事実である。

容易には結論の出ない問題だけれど、もう少しリモートの力を信じてみよう、リモートでできることはリモートでいいんじゃね?というのが、この二日間のリモート三昧での結論である。

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カオスを呼ぶ人

7月22日(水)

いままでの人生の中で、「カオス」を呼び込むタイプの人を、何人か目の当たりにしてきた。

仕事をやっていくうちに、どんどんとカオスに巻き込まれていく人、といったらよいか。あるいは、その人の個性が引き起こしている事態なのかもしれない。

いまやっている、あるプロジェクトが、なかなかカオスになりつつある。

そのプロジェクトの代表者は、とてつもなく壮大な計画を立てて、その計画を実行するために、多くの優秀なメンバーを集めて、アイデアを出し合ってもらうことにした。

優秀なメンバーばかりだから、どんどんとアイデアが出てきて、壮大な計画は、さらに微に入り細を穿ち、複雑で手間のかかる作業を伴うようになっていく。

優秀なメンバーたちは、一方で、自己主張が強い。このプロジェクトを成功させるには、絶対にこのことが必要だ、とか、あれをやった方がよい、とか、いろいろな意見を代表者に言ってくる。

そのたびにその代表者は、人がいいもんだから、できるだけ意見と組み入れて、当初の計画をさらに複雑なものにしていく。

「船頭多くしてなんとやら」である。

これだけ複雑で壮大な(無謀な?)計画が、はたして実行可能なのか、このプロジェクトの末端にいる僕としても、いまからひやひやしているのである。

代表者は、それだけでなく、それ以外の仕事でも、いろいろと突発的なアクシデントに巻き込まれたりして、そのたびにそれにかかりっきりになって、泥沼にはまってしまう。

いやいやいや、そんなことなんか横に置いといて、いま大事なのは、プロジェクトのほうでしょう!と言いたいところなのだが、やはり性分なのだろう。というか、常に目の前のカオスと闘っているのだ。

で、そういったことについて悩んでいるのかと思ったら、そうでもなく、プロジェクトの壮大な計画の変更がいかに大変だったか、とか、巻き込まれたアクシデントがいかに面倒なことだったかを嬉々として僕に話すと、大笑いして帰っていくのである。もちろん僕も、大笑いする。

…と、ここまでの説明、わかりにくかったかな?周りにこういう人がいれば、わかってくれると思うのだが。

こういうタイプの人、以前にも僕の近くにいたなあと記憶をたどったら、「前の前の職場」の同僚だった、OQさんという人だった。もう亡くなって14年になるんだね。

OQさんについては、このブログで何度もふれているので、気になる方は過去にさかのぼって読んでほしい。

同じ同僚だった方が、OQさんについて、こんな思い出を語っている。毎年韓国に学生を引率していたOQさんについての思い出である。

「旅行案を練っている時のOQ先生は、実に嬉しそうでした。まず、インターネットから見学先の情報を編集して分厚いしおりを作り、そのしおりを私に見せてくれます。この段階ですでに緻密な旅程が組まれているのですが、それから旅程が変わるたびにしおりを改訂、旅程を変更したいとや苦心の跡を事細かに説明して、終わると満足して戻ってゆかれました。これがなんと五~六回続くのですから、私の仕事部屋にしおりの改訂版が山積みに、なんてことも。改訂が進むほどに旅程がさらに緻密に、実現不可能になっていくようでした」(一部改変)

もちろん僕も、この場面に立ち会っていた者の一人なので、このときの様子をありありと思い出すことができる。

いま僕が直面していることは、これとまったく同じことだ、と思った。「旅行案」を「プロジェクトの計画」に置き換えれば、いま私が体験していることそのままである。

そして僕は気づいたのだ。

壮大で緻密な計画を立てれば立てるほど、カオスの世界にはまっていく人、しかしそれを厭わずに、嬉々として語る人。

僕はそういう人を傍で見つめながら、その人のもつ価値観に影響を受けてきたのだ、と。

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オンラインコミュニケーション

7月19日(日)

午後、オンラインの会議である。気が重い。

会議の趣旨は、僕の書いたものに対し、複数の人がコメントを言う、というもので、早い話が僕の文章にダメ出しをする会である。

以前に、あらかじめ各人のコメントを書面でもらったことがあって、その中には、お会いしたことのない方も何人か含まれていた。

要はそのコメントにもとづいて、僕の書いたものを修正するわけだが、お一人、お会いしたことのない方のコメントが、かなりキツい調子で書かれていた。

(何もそんな書き方をしなくてもよいのに…)

と落ち込んで、しばらく自分の文章を修正する気になれなかったほどである。

それでも気持ちを切り替えてなんとか修正をして提出した。

で、今度は、実際にオンライン会議をして各人のコメントを聴くことになったのである。

あらかじめ出席者の名前をみたところ、かなりキツいコメントを書いた方が出席することになっているようで、

(また、強い調子でダメ出しされるのだろうか…)

と戦々恐々としていた。

さて、その方に、オンライン会議で初めてお会いしたことになったのだが、僕が想像していたよりも、はるかに言葉に気をつけながら発言されていた。

もちろん、その方の主張は一貫したものだし、言葉の端々に、その方の「偏屈さ」みたいなものが垣間見られたのだが、結果的に書面に書かれていたことと同じようなコメントであったとしても、実際にお話をうかがったほうが、

(なるほど、この方がおっしゃっていたことは、そういうことだったのか…)

と、はるかに納得がいったのである。

もっとも、だからといって、その方のダメ出しに応えられるような修正を、僕自身ができるかどうかはわからないのだが。

メールや書面よりもオンライン、オンラインよりも対面、のほうが、コミュニケーションの手段として優れているというのは、ある意味で真実であろう。

しかしそれでは、いつまでたっても「働き方改革」なんてできないなあ、とも思ってしまい、悩ましいところである。

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