人物評

11月30日(水)

クッソ忙しくて書くことが何もない。

このところ、イベントの準備のために、初対面の人に挨拶に行ったり電話をしたりすることが多い。その多くは、いきなり連絡するのではなく、事前にその人を知る知り合いから連絡してもらって、あらかたの趣旨を先方にあらかじめ説明しておいてもらった上でこちらから連絡する。その方が、スムーズに事が運ぶことが多いのである。もちろん、それが通じないケースもあるが。

先日お会いした方の話でいうと、仲介の労を執ってもらったその知り合いからは、「もちろん良い人なのですが、少々「くせ」のある人物で、何でもすぐにツーカーで進むというよりは、手順を踏んで進めるのが無難と思います」というアドバイスをうかがった。で、実際にお電話したりお会いしたりすると、その知り合いが言ったとおり、「たしかに良い人だが、少々クセがある方」だとわかり、言われたとおりに丁寧に話を進めていった結果、おかげさまで交渉がまとまったのである。

今日、お電話でお話しした人のケースでは、やはり仲介の労をとってもらった知り合いから、「メールを使われず、携帯電話でしかコミュニケーションをとれないので、ご連絡を取るのが面倒なのですが、それ以外はあまり面倒ではありません」とあり、たしかにメールに慣れてしまった身としては、電話をするのは億劫だなあ、と思いつつ電話をした。なかなか繋がらず、何回目かになってようやく繋がった。やはり電話はめんどうだ、と思ったのだが、お話ししてみると、たしかにその知り合いが言うように、ぜんぜん面倒な方ではなく、交渉もスムーズにいった。不思議なことに、一度電話は繋がってからは、タイミングが合ってきたのか、電話で数回やりとりすることができ、僕もいつの間にか、その人と電話をすることが楽しみになってきたくらいである。それほど折り目正しい人だったのである。

この二つのケースは、まったく別の知り合いによるアドバイスなのだが、いずれも的確な人物評で、僕は実に助かったのである。

人は、実際に会ったときに、相手の持っている細かなニュアンスを無意識のうちに感じ取るのかも知れない。そしてそれを上手に言語化できれば、対人間のトラブルというのは、たいていの場合、防げるのではないだろうか、と感じたのである。

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出張あれこれ

11月29日(火)

昨晩遅く、出張から戻った。

少し前、仕事関係でつきあいのある人からのメールに、「その日は職場の用務で京都に出張なのです」とかなんとか返信したら、

「京都に出張ですか、いまだと秋が感じられていい季節ですね。僕も何週後かに、「同業者祭り」が京都を会場にして久しぶりに対面で行われることになり、いまから楽しみです。きっと(京都在住の)○○さんが美味しいお店を紹介してくれることでしょう」

と返信が来て、いささか複雑な気持ちになった。

1年に1度行われる「同業者祭り」というのは、言ってみれば同窓会みたいなもので、毎年会場が違う県になったりするので、参加するほうは楽しくて気楽である。つまらなかったら会場を出て観光してもよいし、夜には懇親会がある。このご時世で懇親会が無理な場合は、仲良したちで美味しいお店に行って、地元の美味しいものを食べながらああでもないこうでもないと楽しいおしゃべりをする。もちろん孤独のグルメもまたよい。

僕はもう長いこと「同業者祭り」には参加していないが、本業の仕事の出張が多くなり、それ以外にあえて「同業者祭り」のために出張することがめんどうになったのである。

今年、京都へは何度通ったかわからないが、平日に日帰りとか1泊とか、ほとんどとんぼ返りで、しかも用務先の建物の中に籠もって一日中作業をする、みたいな感じだから、満喫などできないし、食事も往復の新幹線の中で弁当を食べるとか、とても美味しい店に行くなどという余裕はない。しかしなぜか、京都に行く、というと、うらやましがられるのである。

実際、用務先まで行くのに路線バスを使ったりすると、あまりの混雑ぶりに閉口したりする。いかに混まない路線を使って移動するか、ということが、最大の課題になる。なぜなら、用務先での作業の体力を温存しなければならないからである。

用務先では、肉体的にも疲れるが、精神的にも気を遣って疲れる。とくにこちらからアポを取ってお会いする場合は、手土産を持っていくのは常識だが、それに加えて先方の規約にしたがった対応をとらなければならない。あるところでは、建物の入り口のところで身分証を提示して、中に入ってさらに受付担当のところで身分証を預け、それと引き換えにバッジをもらう。つまり身分証が人質となり、その作業部屋の中に軟禁されるのである。用務が終わると、バッジを返すのと引き換えに、身分証を返してもらう。身分証を人質のように預けるというのは、あまり気持ちのよいものではないが、郷に入っては郷に従え、である。とにかく先方に失礼のないように用務を行うことに最大限の注意を払うのである。

「同業者祭り」は、そんなことにはならない。大勢の人たちに、久しぶりの挨拶をして、仲のいい人の近くに座って、ちょっとした知的興奮を味わい、終わってからは仲のいい人たちといっしょに美味しい食事とともに談笑する。ま、僕はとくに仲のいい同業者がいないこともあり、同業者祭りに出たところでとくになんの感慨もないので、むしろ初めてお目にかかる人に気を遣いながら用務を行う方が、性に合っているのかも知れない。

せっかくだから、京都にいる古い友人と会ってみようかなという気もするが、こっちはたいていは平日に来ているし、この世代になると忙しくてそれどころではないというのがお互いさまだから、「まあなんとかやっているのだろう。こっちもこっちでなんとかやっている」と思うことにして、とんぼ返りする。ま、出張とは本来、そういうものなのだろう。

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からすまおいけ

11月27日(日)

地下鉄に乗り、「烏丸御池」という駅を通り過ぎる。

若いころ、というほどでもないのだが、むかしはけっこう烏丸御池の近くに宿をとることがあり、そこから三条通を三条京阪の駅のあたりまで歩くのがなかなか楽しかった。

あるとき僕は、地下鉄の「からすまおいけ、からすまおいけです」という自動アナウンスを聞いて、長年僕が思い込んでいた「からすまおいけ」のイントネーションとまったく違うことに、驚いた。長らく僕は、「からすまおいけ」のイントネーションが間違っていたのである。

大阪府の池田市の「いけだ」を、「わさび」と同じイントネーションで言うのだ、というのを知ったときくらいの、ショックである。

これが、どう間違っていて、どれが正しいのか、文章で言い表すのは難しいな、どうしたら伝わるだろう、と地下鉄に乗りながらずっと考えていた。そこで、はたと気づいた。

僕は長らく、「からすまおいけ」を「きたがわけいこ(北川景子)」と同じイントネーションで言っていた。しかし、正解は違う。

「みやざきあおい(宮崎あおい)」と同じイントネーションで言うのが正しい。

これはすごい発見だ!と思ったのだが、わかってくれる人はいるだろうか。

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ストレンジワールドとすずめの戸締まり

11月26日(土)

この週は、4歳の娘と二人で、映画館で2本の映画を観た。23日の祝日にディズニー映画「ストレンジワールド」、26日の土曜日に新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」である。娘とまる一日、二人で過ごすという日は、映画館に行って映画を観ると、時間が持つのである。

ひとつはディズニー映画だし、もう一つは日本のアニメ映画だし、どちらのジャンルもテレビ放送から録画して繰り返し観ている経験をしているから、全然問題ないだろうと思って観に行ったのだが、これがなかなかたいへんだった。

どちらの映画も、映画のはじめのほうから、「パパ、恐い…」と言い出したのである。

あまり書くとネタバレと言われそうだから書かないが、どちらの映画も、序盤の段階から、「ニョロッとしてもの」が出てくるのである。どうもそれが恐いらしい。いままでそんなことはあまりなかったのだが、この2つの映画に関しては、映画を観ている途中で、

「パパ、おしっこ」

と言い出した。

「映画を観る前におしっこしたでしょ!」

「でも、おしっこ」

といって聞かない。

恐くておしっこが漏れそうになったのか、あるいは恐い場面を観たくないという防衛本能がトイレに行かせようとするのか、だと思うのだが、いずれにしても、映画の途中で席を立ってトイレに連れて行く羽目になった。おかげで、なぜあの人が、あんな感じになっちゃったのか、という肝心な部分を、見逃すことになる。

今後は、恐い場面が訪れると尿意をもよおすという娘の悪いクセをなんとかしなければならない。

それはともかく、「ストレンジワールド」は、大人の僕が観ても、1回ではその世界観を完全に理解することは難しかったし、「すずめの戸締まり」も、その世界観に圧倒されはしたが、これを一度観ただけでその内容を受け止めるのは至難の業である。ま、ストーリーが追えなくても、何かしらの場面は娘の心の中に残っただろう。

2つの映画は、対比するようなものでは全然ないが、「ストレンジワールド」は父と息子の絆を確認する物語で、「すずめの戸締まり」は母と娘の「喪失」の物語で、対照的である。とりわけ後者は、主人公の「すずめ」が4歳だった頃に母親への喪失感を抱くという場面がくり返し登場し、ちょうど4歳の娘を持つ親にとっては、涙なしには観ることができない。うちの娘は、何かを感じとっただろうか。

後者については、つい最近観た「天間荘の三姉妹」もそうだったが、11年前のあの出来事が映画の主題となる、しかもかなりリアルにあの時の出来事を思い起こさせる仕掛けになっているのは、そろそろ、そういうことを映画としてとりあげてもよいだろう、という時期になったということなのだろうか。しかし、あの出来事に巻き込まれた当事者たちにとっては、まだちゃんと向き合うことができないのではないかと、なかなか複雑な気持ちになる。

おっと、あやうくネタバレしそうになった。関係ない話を書こう。

全然知らないある人のツイートで、「2人がフェリーに乗り込むところは『転校生』のオマージュ、愛媛の道路で大量のみかんが転がってくるところは『天国にいちばん近い島』のオマージュだろう。やっぱり新海誠監督は大林映画が大好き」とあるのを見つけ、なるほどそうだ、と思った。

そういえば、『天国にいちばん近い島』にそんな場面があったな、と思い出して見返してみると、ミカンではなく、大量の椰子の実がトラックから転がってくる場面があって、なるほどそっくりだと思った。

そのことがきっかけになり、『天国にいちばん近い島』全編を見直してみたのだが、同じ原田知世主演作品でも、ぼくはあの名作『時をかける少女』よりも『天国にいちばん近い島』のほうが好きかも知れない。映画全体が、劇伴を含めて古きよきハリウッド映画へのオマージュになっていて、たぶんこれは大林監督の完全な趣味だろう。脇を固める赤座美代子、泉谷しげる、乙羽信子、小林稔侍、松尾嘉代、峰岸徹、室田日出男といった俳優陣の演技もすばらしい。

剣持亘の脚本もすばらしい。剣持亘は尾道三部作の脚本などを手がけているが、どうも寡作の人だったようで、大林映画の脚本をもっと書いてもらいたかったと思う。

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スダを比較する

11月25日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

イベントの準備が、アクセルを踏んでも進んでいない感じのスランプ状態に陥っている。つまりはクッソ忙しいのだが、唯一の楽しみは、職場への行き帰りの長時間に、ポッドキャストを聴くことである。

韓国語で「スダ」という言葉がある。おしゃべりとか、無駄話、という意味である。「駄弁る」と言う言葉がいちばんしっくりくるように思うのだが、「駄弁る」は死語なのか?

最近聴いているのは、自分と同世代、つまりギリギリバブル世代の二人が「スダ」をするポッドキャスト番組と、「ゆとりっこ世代」の二人が「スダ」をするポッドキャスト番組である。

二つの番組に共通しているのは、番組のリスナーを「リスナー」とはいわず、独特の呼び方をしていることと、どちらの番組も熱狂的なファン、いわゆるヘビーリスナーがいるということである。

両者を比較してみると、面白いことに気づく。

ゆとりっこ世代の二人のスダは、お互いの言ったことを決して否定しない。「わかる」とか「たしかに」という言葉を連発しながら、話題を重ねていく。話し方も、かなりゆったりとしていて心地よい。

一方で、ギリギリバブル世代の二人のスダは、一種のプロレスである。もちろん、根底に強い信頼関係があるからこそできるのだろうが、言葉の応酬がすさまじい。そしてずいぶん早口である。それに、ゆとりっこ世代のスダを聴いた後であらためて聴いてみると、話題やたとえが古い。2000年問題、あったよねえとか、いまの若い人はまったく知らないだろう。

全共闘世代、バブル世代、ロスジェネ世代、ゆとり世代、Z世代など、いろいろな世代があるが、各世代の「スダ」の特徴を分析した新書を書けば売れるかも知れない。書こうとは思わないけど。

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エンドロール

11月24日(木)

イベントの準備がのっぴきならない状況になり、気持ちが殺伐としてきている。こういうときこそ、心に余裕を持たなければならない。

昨日の祝日は、4歳の娘と二人で終日いっしょに過ごしたのだが、そういうときは、映画館に映画を観に行けば有意義に過ごすことができる。

いまだったら、さしずめ新海誠監督の『すずめの戸締まり』なのだろうが、バカみたいに混んでいる。猫も杓子も、というやつである。

こうなったら観てやるもんか!と思っていたところ、ちょうどこの日、ディズニーアニメの『ストレンジワールド』の封切り日だったので、そちらを観に行くことにした。

映画の感想は措くとして、僕が注目したのは、最後のエンドロールの部分である。

どんだけの人数で作ってるんだよ!と言いたくなるくらい、長いエンドロールである。

これが日本映画だったら、この半分くらいの人数じゃなかろうか。誰か、エンドロールに出てくる映画にかかわった人の人数の日米比較をやってくれないかなあ。

いや、映画だけではなく、ドラマならどうだろう?

日米比較だけではない。日本の中でも、たとえば30年前のドラマにかかわった人の数と、いまのドラマにかかわっている人の数も、だいぶ違うんじゃなかろうか。予算が減らされている現在は、当然、限られた人数でドラマを制作しているはずである。

こんなことばかり最近気になっているのは、いま準備しているイベントで、実際に手を動かして準備しているイベントのスタッフは、わずか数名だからである。僕を含めて2,3名である、といってよい。もちろん、多くの人の協力はあるのだが、それをとりまとめる作業の負担が、思いのほか大きい。

そもそも世界的なマーケットを持ち、最高級のクオリティーで作られるディズニー映画と、こちらのひっそりしたイベントとは、くらべる方が間違っているのだが、せめてあと一人でも二人でも、下支えしてくれるスタッフがいれば、仕事はそれだけでもかなりの余裕ができるのにと、最近は映画のエンドロールを見るたびに、そんなことを思うのである。

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傾聴の旅

11月22日(火)

2日間の出張は、スケジュールをギッチギチに詰めていたわけではないのだけれど、倦怠感がひどく、しかも薬の副作用なのか、両足の裏側が炎症を起こし、歩くとかなり痛い。とくに砂利道を歩くと、ツボを刺激されるような痛さである。思いのほか体力と気力を奪われた。

今回まわったのは、2日間で3カ所だが、応対していただいた方は、いずれも初対面だったが、みなさんとてもいい方ばかりだった。というより、いま準備しているイベントのために協力のお願いの挨拶にうかがうと、いい人ばかりなのである。

ひとつだけ例をあげると、昨日は国宝のお寺を管理しているご住職にご挨拶にうかがった。仲介していただいた方からは、その住職はいい方なのだけれど多少クセのある方なので、丁寧に事を進めていった方がよいというアドバイスを受けた。実際にお会いすると、たしかにクセがあると言えなくもないが、こちらが誠実にこのたびの訪問の趣旨を説明すると、とてもよい対応をしていただき、1時間半ほど雑談することになった。

国宝といっても、規模としてはそれほど大きくないお寺で、そのご住職ひとりが管理されていると知った。なので、自分はこのお寺を預かってからは、泊まりがけの旅に出たことがない、どこに行くのも日帰りである、なぜなら、自分がいない間にお寺にもしものことがあったらたいへんだから。家族や警察や消防には、「今日は1日外出しますので、何かありましたらすぐに連絡下さい」と前もって伝えるのだという。つまりふだんは、よほどのことがない限り、お寺の庫裏にいらっしゃってお寺を守っている、というわけである。

そんな話、めったに聞けるものではない。住職と差し向かいでお話を聞くことで、初めて聞けることである。

僕はひょっとして、初対面の人とお話をすることが、苦にならないのかも知れない。というか、たぶんいろいろな人のお話を聞くことが好きなのだ。こうして、いろいろなところをめぐって、いろいろなお仕事をされている方にお話を聞くのが、性に合っているのかも知れない。

ただ、こうした裏話はなかなか文章にできないので、舞台裏を語るトークライブなどできたら面白いかな、とも思う。ま、需要がないからやらないけど。

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新大阪再会

11月20日(日)

明日は午前から関西で用務があるので、日曜日に用務先と同じ市内に前泊することになった。

いま大阪府内に住んでいる高校時代の友人・コバヤシに連絡をとってみたところ、せっかく日曜日に関西方面に来るなら、会おうということになった。たしかに、平日に関西に滞在しても、コバヤシは仕事なので会うことは難しい。

コバヤシと会うのは何年ぶりかと調べてみると、2018年6月に生まれたばかりの娘の顔を見にわが家にやってきて以来だと思うから、4年半ぶりくらいである。

問題は、どこで会うか、である。

僕が滞在する用務先と、コバヤシの住んでいるところとでは、同じ関西といっても、ちょっと離れている。最初はその中間くらいの場所を指定されたのだが、新幹線から降りて、在来線に乗り換えて途中下車して、また用務先のホテルに向かうというのは、荷物も重いし、かなりしんどい。かといって、いっぺん用務先のホテルにチェックインして、そこから在来線で30分以上かけて移動するというのも、これまたしんどい。加えて、昨日の土曜日はひどく具合が悪くて、コバヤシに会う体力が残っているか心配になった。

何かいい方法はないものか、と調べてみると、1日に4本だけ、新大阪駅から用務先のホテルの最寄りの駅まで直通の電車が走っていることがわかった。これならば、新幹線を降りて在来線に乗り換えて途中下車する、という手間が省ける。新幹線を降りて新大阪駅で会えば、そのままその在来線の直通電車に乗って用務先の最寄りのホテルまで直行できる、というわけである。

ということで、新大阪で待ち合わせて会うことにした。

約3時間、ああでもない、こうでもない、と話をしたのだが、とくに来年開催予定のイベントの準備で大変だ、という話をすると、コバヤシは大笑いしながら、

「人間というものはいくつになっても変わらないものだな。おまえを見ているとつくづくそう思う」

と、いつもと同様の結論を繰り返した。面白そうだと思って自分が言い出した企画を実現しようとして、最終的にはそのことに苦しめられる、というのが、高校時代からの僕の性分のようだ。

いろいろと話してくうちに、僕自身は何の趣味もないのだが、趣味人、それも「知られざる趣味人」に出会うのが好きなのだ、ということが自分でもわかってきた。

「だから俺とつきあいが続いているんだな」とコバヤシ。

たしかにそうだ。趣味人のコバヤシは、いままで僕の知らない趣味をいろいろと教えてくれた。

コバヤシとは、性格も、趣味嗜好も、おそらくは思想信条も、かなり異なるのだが、それでも長続きしているのは、そういうことなのだろう。

「最近は、みんなで集まることよりも、会いたい人に会いに行く、という方がおもしろくってね」

「終活みたいなこと言うなよ」

50歳を過ぎたら、若い頃に張り巡らされた人生の伏線の回収がはじまる。あながち終活という言葉も、間違ってはいない。

もちろん、「また会おう」と言って別れた。

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10年前の話

11月18日(金)

数日前、公共放送のある地方局から、取材の依頼が来た。ある特集番組を、来年の春に放送する予定で準備を進めているのだが、そのために、10年前の話をしてほしいという依頼である。実際にカメラの前でインタビューすることになるかはわからないが、まずは「情報取材」をさせてほしいのだという。10年前の話をたどっていったら、おそらくインターネットか何かで僕の名前が引っかかったのだろう。

なるほど、取材の前の下取材のことを「情報取材」というのだな。お笑い芸人でいえば、オーディションというやつであろう。その「情報取材」でうまくディレクターのイメージにハマれば、晴れて本番の取材をする、ということなのだろう。

「思い出話みたいになってしまいますが、それでもいいですか?」

「かまいません」

10年前の俺の思い出話なんぞ、何の役に立つのか?ま、どうせ俺の話なんぞ、採用されないに決まっている。

で、今日の夕方、その担当ディレクターによるZoomでの「情報取材」に応じることにした。

別にカメラがまわっているわけでもないし、そのディレクターとは初対面だから、10年前の話の発端から順を追って話し始めると、

「あのう…そこのくだりはいらないです。その後どうなったのか、という話からお願いします」

おそらく、僕の話が長くなりそうだ、ということを、ディレクターが察知したのだろう。

せっかく説明してやってるのに、と、一瞬カチンときたが、たしかに俺の話もクドかったと反省し、その続きの話から始めた。

話していくうちに、10年前の出来事がどんどん思い出されてくる。なぜ自分は、そのときにそのようなことを考え、そのような行動をとったのか?そしてそのとき自分がどう感じたのか、そしていまどんなことを考えているのか、を一気に話した。

「…聴き入ってしまいました」とディレクター。「思い出話とはいいながら、まるで昨日のことのように覚えていらっしゃいますね」

「そんなことはありません」

昨日のことは忘れるが10年前のことは覚えているというのは一種の老化現象ですよ、と喉元まで出かかった。

「また後日、あらためてお話を聞くことができますか?」

なんだ?2次面接があるのか?

「お話といっても、この程度の思い出話以上のことは語れませんよ」

「いや、いままでボンヤリとしていたことがすっきりとわかった気がします。ちょっと今日の話、こちらの方で整理させていただいて、またお話をうかがえればと」

「そうですか」

ディレクターは、自分の頭の中で、番組のできあがりのイメージを必死に組み立てているようだった。僕の話ははたしてディレクターのイメージする番組の中に、パズルのピースのようにはめ込むことができるだろうか?よくわからない。

「会って話が聞きたいと思う人とこうしてお会いできてよかったです」

ほんとかよ、と思いながら、Zoomによる「情報取材」はひとまず終了した。

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カメラマンの生態

11月16日(水)

今週はクソ忙しい、というか、来年のイベントまでこんな感じで終わりなき仕事が続くのかと思うと、ノイローゼになりそうだ。

今日は朝から一日、プロのカメラマンと仕事である。これまで何度か一緒に仕事をしているが、若くてとてもまじめな青年である。当然のことながら、撮影に関するこだわりは並大抵のものではない。こちらとしては、基本的にまる一日、写場に籠もっての仕事なので、これが身体にこたえる。

僕は彼にどうしても聞きたいことがあった。

「この前、皆既月食がありましたよね。写真は撮りましたか?」

「いいえ、ただボーッと見ていただけでした」

ええええぇぇぇっ!!!

そこはふつう、撮るんじゃねえの?プロのカメラマンだぜ??

「そうか、写真、撮ればよかったですねえ。気づきませんでした」と。

皆既月食なんて、そうめったに起こるものではない。僕だって、スマホを駆使して撮影にチャレンジしたのだ。ここがカメラマンの腕の見せ所じゃねえの?

そんな話をしていたら、ある人が、

「撮りたいものではなかったんじゃないんですか?」

と言った。

「どういうことです?」

「カメラマンだからといって、どんなものでも撮りたいわけじゃなく、おそらく撮りたいものが人それぞれ違うわけです」

「ほう」

「たとえば、その若いカメラマンは、写場に籠もって静物写真を撮るのが好きだけれども、風景写真にはあまり興味ない、という可能性もあるのではないですか」

「なるほど」

「私の知っている別のカメラマンは、写場に籠もって静物写真を撮る仕事ばかりをしていたのですけれど、以前、学生時代にその方が撮影した写真を見せてもらったことがあって」

「ほう」

「それを見たら、ほとんどが風景写真だったんですよ」

「どういうことです?」

「つまりそのカメラマンは、写場に籠もって静物写真を撮ることを主たる生業としていたけれども、本当のところは、風景写真が撮りたくて仕方がなかったのではないかと。ひょっとしたら、その人にとって静物写真を撮ることは苦痛だったのではないか、と、こういう仮説が浮かんだのです」

「なるほど。テレビや映画のカメラマンなどでも同じことがいえるかもしれませんね」

「といいますと?」

「『水曜どうでしょう』の嬉野ディレクターは、あの番組でカメラマンをしていましたけれど、ともすれば、タレントを映さずに風景の方にカメラを向けていましたよね。それを藤村ディレクターにたしなめられたりして。嬉野ディレクターもまた、風景を撮るのが好きだったんじゃないか、と」

「そのたとえはよくわかりません」

いずれにしても、プロのカメラマンだから何でも写真におさめたいのだろうと考えるのは、こちらの偏見なのだということがよくわかった。

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