自立への道

今日の「絶好調」。

隣の患者(ガハハおじさん)がリハビリスタッフに例によって、

「体調はどうですか?」

と聞かれて

「絶好調で~す」

と答えたら、リハビリスタッフが、

「あまり病院で体調が『絶好調』であるとは聞いたことがありません。…どこか具合の悪いところはないんですか?」

と聞き流され、

「実は右腕が…」

と答えていたのには笑った。そろそろ病院スタッフも飽きてきているんだろう。「もう絶好調はいいから」と。

それでも、誰に対しても感謝の心を忘れずに、大きな声で挨拶しているから好感度は高いのだろうと推察する。

そんなことはともかく。

もう1人、お世話になっている作業療法士のTさんについても書いておかなければならない。

複雑な話なので、面倒な人は読み飛ばしてください。というか複雑で読むのが面倒だというな読者を排除するために書いているのだが。

この病院は、とにかく決まり事が多い。前の病院は車椅子であるていど自走することができたのだが、この病院に転院すると、そんなことはまったく関係がなく、あまりの管理社会ぶりに閉口した。

たとえば車椅子でトイレに行くにも、いちいちナースコールを押して看護スタッフを呼ばなければならない。

用を足し終わったあとも、便器の上に座ったままで看護スタッフを呼ばないといけない。勝手に便器から立ち上がるとものすごい勢いで怒られる。

それがあるていど、自分でできそうだということになると、わざわざナースコールで看護スタッフを呼ばなくても、自分の行きたい時間に車椅子を自走してトイレや病棟内を自由に移動することができる。これをこの病院では「自立」という。

つまり、「介助」→「見守り」の段階を経て「自立」が許可されるのである。

ただしそのためには「自立」できるかどうかのテストをしなければならない。看護師を呼んで、実際に自分一人で車椅子が自走できるかを確認し、問題がなけれな「合格」となる。

これは、車椅子の移動から杖の移動に変わる時も同様の手続きを踏む。「介助」→「見守り」→「自立」の工程である。

いつ「自立」にもっていくか、という判断をするのが、作業療法士のTさんである。

「自立」するのは早ければ早いほどよい、という考え方をもつTさんは、車椅子移動から杖移動まで、ものすごいスピードで「自立」にまでもっていってくれた。もちろん、その過程で看護師によるテスト対策でリハーサルもしてくれた。

これで病棟内を、看護スタッフにいちいち許可をもらわなくても杖で自由に移動することができる。これは同時に、リハビリの自主練もできるようになるという意味も込められている。

だが今週になってTさんは、

「杖なしで、つまり独歩で『自立』できるようにしましょう」

と提案してきた。最初僕は、まだそんな段階ではないと思い、

「自信がありません」

と答えると、

「病棟内というわけではありません。病室からトイレまでの短い距離のみの『自立』です」

「なるほど、そういうことですか」

僕は何度かリハーサルをくり返した結果、独歩自立のテストに一発で合格した。

なぜTさんは、「自立」になることをこれほど急いだのだろう?

それは、近く行う予定の「試験外泊(1泊2日で自宅に戻ること)」について、有利に進めていこうと考えたからである。

試験外泊が認められるかどうかは、最終的に主治医の判断になる。そのためのエビデンスをできるだけ積み上げておき、この話を有利に進めていこうというTさんの作戦だった。独歩で自立できている、という事実を示せば、主治医も試験外泊を認めないわけにはいかない。

僕にしてみたら、1泊2日でも自宅に戻ることができれば、これほど精神的に安穏となることはない。こんな監獄のような病院に居続けるのはまっぴらだからだ。それに家族にも会いたい。Tさんはそのことも知っている。自分が退院後すぐに社会復帰できるかどうかは別として、こうして実績を積み上げておけば、退院の日程もそろそろ視野に入ってくるだろう。

Tさんはそれらを見越して、早め早めに手を打ってくれたのである。

聞くところによると、そのあたりのスケジューリングが行き当たりばったりの人も多い。

僕は、Tさんの用意周到ぶりに感謝した。

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スポンジ

11月13日(木)

相変わらず監獄のような入院生活である。隣のガハハおじさんは誰が来ても「絶好調で~す」と大声で機嫌よく応えている。もはや持ちギャグなのか?だとしたらスベってるぞ!

患者一人につき、リハビリスタッフの担当者というか、責任者が決まっている。毎日のリハビリは、日替わりで担当が変わったりするのだが、ここぞという時にはその責任者がその患者の責任を負うという仕組みである。

おもに僕の担当をしてくれているのは、理学療法士のNさんと作業療法士のTさんである。簡単にいえば、理学療法士は「足のリハビリ」の担当で、作業療法士は「手のリハビリ」の担当である。

僕はこの2人のおかげで、なんとかいままでに生きながらえてきたといってよい。この2人がいなければ、少しでも前向きな気持ちになれなかっただろう。

2人のリハビリじたいは、とてもハードで、容赦がない。が、その分、僕のことを真剣に考えてくれている。

もちろん、リハビリスタッフはどの患者に対しても真剣に考えてくれているのだろうが、たまに無責任なスタッフもいたりするので、僕は運よくこの2人に当たったというべきであろう。

今日は久しぶりにNさんがリハビリを担当してくれた。病気をしてしばらく休暇をとっていたらしい。

雑談をしている中で、僕が病気を発症してちょうど3か月、この病院に転院してからおよそ2か月が経とうとしていたことに気づいた。

「発症から3か月ということを考えると、脅威の回復力です」

と言った。ふだんはダメ出しばかりするN さんの言葉に、僕にはそうとは思えなかった。

「そうでしょうか?」

「相変わらず鬼瓦さんは疑い深いなあ。患者さんの多くは、こちらがアドバイスしてもなかなか自分の歩き方を変えなかったりするんです。でも鬼瓦さんは、こちらがこうしてほしいと思う歩き方をご自身の中に取り入れて、それを自分の歩きとして作り上げていくんです。運動神経がいいということですよ」

「それは言いすぎですよ。いままで運動神経がいいなんて言われたことがないし、第一、体はおそろしく硬いし腹筋も弱いし」

「たしかにそれはそうです。でもたとえて言えば、鬼瓦さんはスポンジなんです」

「スポンジ?」

「なんでも吸収して自分のものにしてしまう。だから鬼瓦さんはリハビリのしがいがあるんですよ」

そう言われると、そんな気がしてきた。

僕は元来、なんのこだわりも主体性もない「空(カラ)」の存在である。このブログのむかしからの読者(ダマラー)には「そんなことあるかい!」と言われるかもしれないが、これまで流されるままに生きてきた。心の中をカラにした方が、ときに新しいものを吸収することができる。

「スポンジ」はなかなかの褒め言葉である。今回ばかりは疑い深くならず、素直に受け止めようと思う。

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語尾伸ばし

これから書く話は、言葉の細かいニュアンスの話なので、異論は認める。

ある県知事の定例記者会見の動画をYouTubeで見ていたら、質問をする記者が社名と名前を名乗った時、知事が

「お疲れさまです」

と必ず最初に言うのだが、よくよく聴いてみると、男性の記者が質問する時は、

「お疲れさまです」

と言い、女性の記者が質問する時は、

「お疲れさまで~す」

と、言い方を使い分けていることに気づいた。

そこに気づいたある記者は、

「男性の記者に対しては『お疲れさまです』というのに対し、女性の記者に対しては『お疲れさまで~す』と語尾を伸ばすのは、男女差別ではないか」

と指摘した。

この指摘を聞いて、僕はなるほどその通りだと思った。

「お疲れさまです」と「お疲れさまで~す」では同じ言葉でもその語感から来るニュアンスが違う。

「お疲れさまで~す」と語尾を伸ばす言い方は、相手を見下しているように聞こえるのだ。

で、ここから先は、2人部屋の私の隣の患者(ガハハおじさん)の悪口になってしまうのだが。

ガハハおじさんは、病院のスタッフの呼びかけに、いつも元気はつらつと応える。

その1。

「○○さん、いらっしゃいますか?」

「は~い、○○で~す」

「体調の方はどうですか?」

「絶好調で~す」

「じゃ、リハビリの方、よろしくお願いします」

「よろしくお願いしま~す」

その2。

「○○さん、いらっしゃいますか?」

「はい、○○で~す。ここに居りま~す」

「お食事をお持ちしました」

「ありがとうございま~す。いただきま~す」

びっくりしたことに、すべての言葉の語尾が伸びているのである。

一方僕は、

「よろしくお願いします」

「ありがとうございます」

と、ぶっきらぼうに述べて、絶対語尾伸ばしをしない。だって、自分で言っていてキモチワルイんだもん。

繰り返すが、隣のガハハおじさんは、私と同年代のオジさんである。若い人ならいざ知らず、いい歳をこいた大人が、語尾伸ばしをするのはキモチワルイことこの上ない、と思うのは僕だけだろうか。

いい歳をした大人が語尾伸ばしをするのは、相手を見下しているニュアンスが感じられて、どうにも我慢ならないのである。親しみを込めた表現だ、という反論があり得るかも知れないが、ならばオフィシャルな場でもその言い方を徹底しろよ、と思ってしまう。

例えばですよ、会社で電話をかけたりする時に「いつもお世話になっております」と言うじゃないですか。

そのときに、「いつもお世話になっておりま~す」と語尾を伸ばすか?というハナシなんですよ。なんかバカにされたような気になりません?

そんなことでコミュニケーション能力がはかられるのだけは勘弁してほしい。大事なことは、対等に接するということである。

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絶不調です

11月10日(月)

二人部屋の隣の患者(ガハハおじさん)がやたらと元気である。

自主練と称して、これ見よがしに一人でやたらとスタスタ歩いてまわりの人々にアピールしているし、相変わらず窓を開けて「涼しい風」を浴びている。

こちとら、毎日のリハビリでヘトヘトになって、腰は痛てえし、お腹の調子も悪いし、散々である。

一方ガハハおじさんは、リハビリスタッフが部屋に迎えに来るたびに、大声で返事をし、リハビリスタッフに、

「体調はいかがですか?」

と聞かれると、決まって

「絶好調で~す。ガハハ!」

と大声で答える。

おまえは中畑清か!と思うほど「絶好調で~す」をあまりに繰り返すので、さすがにカチンときてしまった。

そこで、今度は僕のところにリハビリスタッフが迎えに来てくれた時に、

「体調はいかがですか?」

と聞かれて、

「絶不調です」

とわざと隣のガハハおじさんに聞こえるように答えた。

するとリハビリスタッフは、まさか「絶不調」という返事が返ってくるとは思わず、

「どうかなさったのですか??」

と心配そうな表情をした。

そりゃそうだ。こういうときには「体調は変わりないです」と答えるのが正解だからだ。

「絶不調です」のギャグというか皮肉は、リハビリスタッフを過度に心配させ、隣のガハハおじさんにも通じなかったようだ。

そのことを誰かに言いたくて仕方がなかったが、言うチャンスがない。

唯一、別のリハビリスタッフが、リハビリ中に

「隣に新しく来た人、元気そうで、やたらと廊下を歩いてますね」

と、隣のガハハおじさんの話題を出した。その言葉にはやや冷ややかなニュアンスが込められているように感じられた。

僕は「絶好調」を皮肉って「絶不調」というギャグを言ったことをよっぽど話そうかなと思ったが、

「逆にどうしてこの病院に入院したのか不思議なくらいです」

と答えるにとどめた。

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今時のバーの話

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

大分ご無沙汰してしまったような気もしますが、いかがお過ごしでしょうか

と書いたものの、こちらは貴君のブログはずっとチェックしているので、少しは様子が分かっているつもりだったりするのですが

このメールも、今日のブログで「バーの話」が書かれていたので、そろそろなんか書けよ!と言っているのではないか、と思い書いた次第です。

前置きが長くなりましたが、貴君のブログで、山口瞳の時代でさえ既にバーは時代遅れで今の時代良きバーに出会うのは至難の業云々と書かれていましたが、それは大きな間違い!と指摘させて頂きます。

ただバーの業態は山口瞳の時代とは大分様変わりしているのではないかと思います。

昔のバーのイメージは、我々が若い頃もそうだったように思いますが、居酒屋なんかで呑んだ後に呑み足りなくてもう少し呑みたいというシチュエーションで行く場所だったのではないかと思います。

「呑む」と書いたように、そこは更にアルコールを補給して酔いたいと思い行っていた場所ではないかと思います。

では、今時のバーは?と言うと、当然、「呑み」に行く場所としての役割を担っている店も多々あるとは思いますが、それ以上に、店主が自分が素晴らしいと思うお酒を自分が考える理想的な環境で客に味わって貰いたい、という店が増えているように思います。

そもそも所謂、食後酒を飲む、というのは西欧の文化で、お腹一杯食べた後に高いアルコールのお酒を飲むことで胃腸の活動を活性化させて消化を促すという側面と、ブランデーのように薫り高いお酒を葉巻などをくゆらせながらゆったりと楽しむ、という2つの側面が有ります。

今時の志あるバーの店主は、そうした食後酒を楽しむという文化を日本にも広めたい、又は上質なお酒を時間をかけてゆったりと楽しむことを伝えたい、と考えている方が多いように思います。

そうしたお店は、店の調度やBGMにも拘っており、グラスはヨーロッパのアンティークを揃え、BGMはヨーロッパを意識してオペラを流すなど、それぞれの店が自分の理想とする空間を演出しています。

客もそうした空間を求めて、自分に合うお店を探し出して通っています。

現代の日本人の嗜好というのか趣味性はかなり細分化されており、バーもそうした多様な嗜好を前提にかなり細分化されています。

例えば、この10年、20年はモルト・バー、スコットランドの蒸留所ごとの原酒のウイスキー(所謂、スコッチと言うのは、こうした原酒を複数ブレンドしたウイスキー)を飲むバーが流行り出し、これは世界的な潮流と流行にもなっていますが、今の日本ではモルトだけでは無く、マデラ酒(ポルトガルの酒精強化ワイン)やパーリンカ(ハンガリーの果物の蒸留酒)などという超マニアックなお酒の専門店や、私の好きなブランデーでもコニャック(仏コニャック地方の葡萄の蒸留酒)、アルマニャック(仏アルマニャック地方の葡萄の蒸留酒)、カルヴァドス(仏ノルマンディー地方の林檎の蒸留酒)とそれぞれの専門店があります。

そうしたお酒を好むマニア達は、特定のお酒を求めて全国のバーを訪ねます。

そうしたお店は、今のSNSやネットが発達した現代においては容易に探し出すことが可能であり、更に言えばバー業界の慣習で、バーテンダー達は自分のお店に来た客に対して、その客の好みと思われる店や、自分の好きな店を積極的に紹介してくれます。(私が今通っている浅草のバーも銀座のバーもバーテンダーの方に紹介してもらいました。)

結果、ニッチなお店であっても意外に流行っていたりするのです。

少々長くなりましたが、上述のように今のバーはお店も客も山口瞳の時代とは大きく様変わりしているように思います。

余談ですが、去年から私が通っている銀座のバーの店主の亡くなられた奥さんのご実家は国立の山口瞳の家のご近所だったそうです。
ということで、久し振りにメールを書いたら、ちょっとマニアックな内容になってしまいました。つまらなかったらごめんなさい。

それでは、またそのうち。

…………………………………

以上、コバヤシからのコメントをいただきました。

「生兵法は大怪我のもと」。やはり酒場文化を知らないド素人が酒場文化をわかったような気になって書くととんでもない間違いを犯してしまうものです。山口瞳のエッセイを誤読というか誤解をした上に、現代の酒場事情について深く調べずに書いてしまったことは汗顔の至りであります。

せっかくコバヤシからコメントをいただいたので、一定期間、「バーの話」を公開した上で、このエピソードは後日削除いたします。その間に、コバヤシのコメントをご味読ください。コバヤシのコメントは編集して残します。

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バーの話

山口瞳の『酒呑みの自己弁護』というエッセイを読んでいたら、高校時代の親友・コバヤシのことを思い出した。

コバヤシは、僕が病気になってからしばしばこのブログに登場している。代作というには失礼なほど力作をいくつも書いてもらっている。

その大半は、銀座、福岡など、転勤先で出会ったバーの話である。そこではさまざまな人間模様が繰り広げられる。まさに、山口瞳がこのエッセイ集で書いていることと重なる。

バーの文化は、山口瞳の時代においてさえ、すでの時代遅れの文化であるような書き方をしていた。それを思うと、いまのこの時代、よきバーに出会って、バーでお酒を飲むことは、至難の業なのかも知れない。

しかしコバヤシは、少なくなったと思われるバーを、さまざまな人間関係を通じて渡り歩いている。もともとコバヤシは「酒呑み」ではなかったはずなのだが、美味しい洋酒にめざめて、それをほどよく飲むという嗜みを覚えたのであろう。その意味でバーは学校である。

僕の記憶違いかも知れないが、まだお酒が飲めた頃、一度だけ、コバヤシにバーに連れていってもらったことがある。たしか有楽町駅近くのバーである。

カウンターだけの席で、カウンターの中にバーの店主がいて、その後ろにおびただしい数の洋酒が並ぶ。静かで落ち着いた空間だった。

そのとき、大勢で新宿あたりの居酒屋に行って、周りの声がうるさくて大声で喋らないと聞こえないという居酒屋はまっぴらだと思った記憶がある。

もう今はお酒を飲まなくなってしまったので、どっちにしろ関係のないことなのだが。

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秘密の意気投合

11月8日(土)

2人部屋の隣の新入り患者(ガハハおじさん)は冷たい風にあたるのが好きなようだ。

窓側のスペースを陣取っているから、朝の8時から窓を開けて冷気を部屋の中に呼び込んでいる。

僕は急に寒くなり、布団にくるまっていると、朝の食事が運ばれてきた。

ふだんなら部屋のテーブルの前に座ってスタンバっているのだが、食事が運ばれてきても布団にくるまったままである。

食事を運んできたスタッフが布団にくるまっている僕を見て、

「具合でも悪いんですか?」

と聞いた。最近インフルエンザが流行っているからね。

僕は、

「いえ、具合が悪いわけではないです」

とだけ言うと、スタッフはそれだけで察したらしく、隣の患者に、

「窓を閉めてくださいね」

と言ってくれた。隣の患者は

「何で?」

と無邪気に聞き返してくる。

「お隣にも患者さんがいるんですよ」

と言って、ようやくしぶしぶ納得した感じだった。本人からしたら、「朝の風を浴びたら気持ちいいじゃん」くらいにしか思っていないのだろうけれど、こちとら、窓の外も見えないスペースで、ただただ寒いだけなんじゃ!

お昼頃近くになり、その患者とすれ違うことになってしまい、僕が隣の患者であると認識したらしく、

「いまから窓を開けますが、寒かったら言ってください」

と不意に言われたので「大丈夫です」と答えた。昼頃には気温も上がってきたので、寒さもあまり気にならなくなったのである。

ところが、である。

それ以降、窓はずっと開けっ放しになっていた。

夕方になって、私のリハビリを担当してくれる若い女性のスタッフが、僕を迎えに病室に入ってきたとたん、

「サムッ!」

と叫んだ。あたりまえだ。他の病室の窓が閉まっているのに、この部屋だけ窓が空いてるんだもん。すでに夕方の冷気が部屋に入ってきているのだ。

それが隣の患者の耳に入り、

「寒いですか?涼しくて気持ちいいと思ったんだけど。寒かったら言ってくださいね」

と言われたが、スタッフも僕も、

「大丈夫です。これから別の場所でリハビリなので」

と答えるにとどめた。

病室を出て、リハビリ室に向かう途中で、リハビリスタッフさんが、

「やっぱり寒かったですよねえ」

と僕に向かって言うと、僕も、

「ええ、メチャクチャ寒かったです」

と答え、そこからその話が盛り上がった。

「夕方になると寒くなるのに、どうして窓を開けっぱなしにするんでしょうね。オカシイですよね。常識では考えられないです」

リハビリスタッフさんはノリノリで隣の患者の奇行をあげつらっている。

僕は、

「『寒かったら言ってください』と言われたけど、そんなもん、言えるはずがないじゃないですか」

と言うと、リハビリスタッフさんも、「そうそう、そうですよね。言えないなあ」と合いの手を入れる。

これは僕の本音だった。「言ってください」と言われて、本当に「寒いので窓を閉めてください」と言ってしまったら、先方の機嫌が悪くなるばかりである。僕は無用なトラブルを起こしたくないから、その言葉を言わないことにしている。

ここで覚えておこう。「言ってくださいね」と言われても、本気にしてはいけない。本当に言ってしまったら、相手は不機嫌になる。

「換気は大事だけど、なにもずっと開けておくことはないですよね。自分だけの部屋じゃないんですから」

リハビリスタッフのディスりも止まらない。そんなに引っ張る話題でもないのだが、リハビリスタッフさんはこの話題をこすりたいらしく、次から次へと本音を語りかけてくる。僕もそれにうなづき、さらに本音を引き出そうとした。そのやりとりがじつに愉快だった。

そのうちに一つの疑念が生まれてきた。誰に対してもハキハキして、礼儀正しい物言いをするあの患者は、本当にみんなに好意的に思われているのか?

心のどこかで、胡散臭さを感じているのではないだろうか。

誰も彼に対しては、本音を打ち明けないのかも知れない。

ただ一つ言えることは、僕は社会人として一緒に仕事をしたくない人だ、ということである。

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隣の新入り入院患者

11月7日(金)

今日ほど疲れた日はないので、短めに。

2人部屋の病室で、隣の患者さんがほかの部屋に移動した。

いままでの患者さんは私より若い患者さんで、ひと言も会話を交わしたことがないが、声が小さくて、カーテン越しに漏れてくる病院のスタッフとのやりとりを聞きながら、どういう人間なのかを想像することが楽しみだった。

その患者さんが移動したあと、新しい患者さんがさっそく今日の午後に入院した。

こんどの患者さんは、僕と同じくらいの年齢だろうか。看護スタッフとのやりとりを聞いていると、会社員らしい。

ところがこんどの患者さんは、やたらと声が大きくてかつ饒舌である。そのやりとりから、会社の営業職なのではないかと思わせる。誰が来ても同じテンションでコミュニケーション能力を発揮している。もっとも僕にとっては、以前に書いたように、誰にでも明るく接することができる能力はコミュニケーション能力とは言わないという信条があるのだが。

病院スタッフへの対応を見る限り、おそらく誰にでも好感が持てる存在なのだろう。それにくらべて僕は、誰に対しても同じくテンションの低い態度をとっているので、スタッフの中では評判が悪いと推察される。

ここまで書いてきて、ここの古い読者は察しがついているだろうが、僕はこの手のタイプは大の苦手である。

しかも、ふつうに歩き回っているし、コミュニケーションもしっかり取れているし、なぜこの病院に入院しはったのか、ようわからない。問題がないのならば、すぐに退院しはったらよろしいのに。もちろん、ひと言も会話するつもりはない。

それにしても、人間に対する僕の了見の狭さには呆れるばかりである。

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イキる老人

11月6日(木)

先週の火曜日から立ち座り運動を始めたことはすでに書いた。

具体的なやり方は、まずテーブルの上に両手を置き、「せーの」の合図で、メトロノームの刻む音に合わせて、4秒で椅子から立ち上がり、6秒かけて椅子に座る、これを10回繰り返す。

あまりにたいへんな体操なので、定員は4人と限定されている。そのうちの1人は、今日退院されたので、今日は3人での体操である。

僕の目の前に座った男性の老人は、ちょっと苦手なタイプであるので、話しかけられないように、絶対に目を合わさないことにしている。

その男性老人が今日、

「俺なんかねぇ、テーブルに手をつかなくったって、立ち座りができるぜ」

と、テーブルに両手をつくことなく、立ち座り体操を始めた。こんな立ち座り体操なんか簡単さ、と言わんばかりに。

テーブルに両手をついて「よっこらしょ」と立ち上がらないと、とてもキツいのであるが、その老人は手を使わずに立ち座りをなんなくこなしている。

僕はあることに気がついた。

立ったと思ったら、すぐに座ってしまうのである。

この体操のキモは、6秒かけて座ることにある。ゆっくり座ることが実はいちばんキツいのである。

すぐ座ってしまったら、そりゃあテーブルに両手をつかなくても楽に立ち座りができるわなあ。

ツラい3セットが終わってリハビリスタッフさんに、

「やはり今日も疲れましたか?」

と聞かれたので、

「ええ、とくに6秒かけて座るというのがツラいですねえ」

と、目の前にいる老人にわざと聞こえるように言った。

そうしたらリハビリスタッフさんも何か察したらしく、対面に座っている老人に、

「○○さん、座るのが早すぎますよ」

と嗜めていた。

僕がこの老人が苦手なのは、こうしたイキりが随所に感じられるからである。

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野心家たちの競演

さすがにもう何も書くことがない。

いまのもっぱらの関心事は、「日の丸弁当を食べることは国旗損壊罪に当たるのか」ということである。もし国旗損壊罪に当たるのであれば、日の丸弁当は「梅干しどまんなか弁当」と名称を変えるか、あるいは白米のど真ん中に梅干しを乗せることを法律で禁止するかの、どちらかである。誰か国会で質問してくんねえかなあ。

という屁理屈はさておきですよ。

僕が大学生のころ、テレビ朝日で「プレステージ」という深夜の生放送番組をやっていた。月曜~木曜のたしか深夜1時からの番組で、明け方まで放送していた。司会者は曜日ごとに違っていて、いまから思えば、いずれも上昇志向の強い野心家たちが司会をしていた。

最近そのことを思い出して、運命とはまことに不思議なものである、と感慨に浸った。

何曜日か忘れてしまったが、ある曜日の司会者は、作家・飯干晃一の娘の飯星景子さん、それに蓮舫さん、高市早苗さんの3人だった。

僕はその番組をよく観ていたが、番組を仕切るのはおもに飯星さんで、ほかの2人は茶々を入れる役割だったと記憶する。

蓮舫さんと高市さんは、のちに政治家になったことはご承知の通りである。

しかも、蓮舫さんは野党政治家、高市さんは与党政治家、というふうに別々の道を歩むことになったのである。

そしてこのたび、高市さんは総理大臣にまで登りつめた。

いま、蓮舫さんと高市さんは激しく対立している。お互い譲らない野心家。2人は、あの番組のことについていまはどう思っているのだろう。なかったことにされているのだろうか。

ちなみに、僕も大学生の頃、この番組に出演したことがある。もっとも、飯星さんや蓮舫さんや高市さんが司会の曜日ではない。別の曜日である。その思い出話は以前に書いた

僕はこの番組に出演したことがきっかけで、「野心なんかくそ食らえ!」と思うようになった。

人間の運命とは、じつに不思議なものである。

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