影絵劇

11月10日(日)

保育園の父母会では、年に何回か「自主活動」というものをやっている。この日は、今年度2回目の「自主活動」だそうで、公民館で人形劇を見るという催しがあった。

50組ほどの申し込みがあったようで、公民館の畳の部屋は、保育園に通う家族たちで溢れていた。会費は500円だった。

事前にまったく情報を入れていなかったので、趣味で人形劇をしている団体が、乳幼児やその保護者を対象にしたゆるーい人形劇でもやるのかな、と漠然と思いながら、待っていたら、さにあらず。予想はいい意味で、まったく裏切られた。

まず、「人形劇」と思い込んでいたのだが、そうではなく、影絵劇といわれるものだった。

もうひとつ、趣味で行っている団体ではなく、れっきとした専門の劇団だった。しかも、60年以上の歴史を持つ老舗の劇団だというのだ。

公演時間の予定は45分とあった。

まずオープニングは、「手影絵」つまり手を使ったさまざまな影絵がメドレー方式で次々と走馬燈のように現れる。鳥とか狐とか犬とか、メジャーどころから、ペンギンやウサギ、蟹に至るまで、ありとあらゆる動物を手影絵で表現するのである。その表現力の豊かさに、すっかり驚いてしまった。

オープニングの手影絵メドレーが終わり、劇団員と思しき演者が登場する。男性と女性の二人である。

続いて、簡単にできる手影絵講座がはじまる。これは、僕たちが子どものころに漠然とならったことのある、狐とか、鳥とか、犬などの簡単な手影絵だが、乳幼児たちにとっては、初めての体験であり、しかも手を動かす楽しみもあり、けっこう盛り上がっていた。

そして最後は、「影絵劇」である。題目は「三匹の子豚」。スクリーンにプロジェクターを使って背景が映し出され、そのスクリーンの裏側に、子豚やオオカミの影絵が、縦横無尽に動き回る。劇団員の男性のほうが、ストーリーテラーになり、時にはオオカミの役や、子豚のお母さんの役など何役もこなしながら、スクリーンの前と裏側を行ったり来たりしている。女性のほうは、三匹の子豚の声色を変えながら、自在に演じ分けている。

とても二人だけでまわしているように思えないくらいの、クオリティーの高さである。

そして、開演から45分で、ピッタリと終演した。久しぶりに、プロ意識を垣間見た思いである。

影絵劇の専門の劇団があることにも驚いたが、ここに所属する劇団員さんたちは、いわば影絵劇一筋。いったいどういった経緯で、ふつうの演劇ではなく、影絵劇をめざそうと思ったのだろうか。なかなかめずらしい人生の選択である。

劇団のホームページが充実していた。劇団員一人一人のプロフィールや実績が細かく書いてある。それを見てわかったのだが、公民館に来た二人のうちの一人、男性のほうは、舞台部ではなく、なんと営業部の人だった。といっても、もともと舞台部に所属した役者さんだったらしく、舞台慣れしているのもうなずけた。

劇団のホームページの中に、興味深いページを見つけた。

ほら、東京五輪のポスターデザインで、最初に採用されたデザインに無断流用疑惑が出て、取り消された、ということが社会問題になったでしょう。

で、その際、そのデザインをしたデザイン事務所が、以前にもいろいろなデザインをいろいろなところからパクっていた、ということが問題になった。

この劇団の「手影絵」も、そのデザイン事務所が手がけたあるポスターのデザインとして、無断流用していたことが明らかになった、というのである。

どうやら当時、そのことがニュースになったらしく、被害の当事者である劇団が、実際に検証したところ、当劇団の劇団員による「犬」の手影絵を、そのままデザインにパクっている、ということが証明されたというので、その検証報告書が、劇団のホームページにアップされているのである。

この報告書が、実にすばらしい。

何がすばらしいといって、自分たちが長年積み重ねてきた「手影絵」に対する誇りと愛に満ちているのである。

「影絵は輪郭こそが命であり、表現です。これは著作物性を充分感得できるものであると私たちは主張します。この「犬の手影絵」は基本的には江戸時代の文献にも見られる、日本ではごく一般的なものに見えますが、実は当社独自の工夫の加わったもので、伝統的なだけのものとは違うという事も言添えておきたいと思います。  
   
現在の日本の著作権法は非常に不備の多いものです。私たちが多年にわたって積み重ねてきた「影絵」の「著作物性が低い」と判断されるとしたら、これは大変心外な事です」

これは、

「なぜ、ふつうの演劇ではなく、影絵劇というマイナーなジャンルをめざそうと思ったのだろう?」

という先ほどの疑問に対する、答えのようにも思える。

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ソファーで寝ると、なぜ気持ちいいのか

通勤時間が異様に長いので、電車の中ではもっぱらラジオクラウドを聴いている。

最近のお気に入りは、文化放送の「大竹まこと ゴールデンラジオ」である。

水曜日にレギュラー出演している芸人のいとうあさこが、番組のオープニングで、こんなことを言っていた。

一人暮らしをしている部屋で、毎日、テレビを見ながらお酒をぐでんぐでんになるまで飲んでいると、つい、ソファーで寝てしまう。ソファーで寝るのがあまりにも気持ちよくて、別の部屋のベッドで寝る気が起きない。しかし、ソファーで寝ていると、からだが曲がったままで寝ていたりするので、本当はあまり身体によくない。だからいまは、ベッドで寝るためのトレーニングをしている。

…あたかも、飼い猫がトイレの場所で用を足せるように躾けるかのような感じで、自分自身をベッドで寝るように躾けているような言い方だったので、思わず笑ってしまった。

そこから、「どうしてソファーで寝ると気持ちいいんでしょうかね」という話題になり、出演者の一人、文化放送のアナウンサーの太田英明氏が、

「最近は、寝入りばなにベッドの背を上げ、熟睡するとフラット状態になるように自動的に動くベッドが開発されたそうです」

という情報を提供した。

なんでも、「寝るときにベッドの背を上げるとリラックスしやすくなり、フラット状態になると熟睡するために必要な自然な寝返りが打てるようになる」からだそうだ。

なるほど。それでわかった。

ソファーで寝るときは、たいてい、肘掛けに頭を乗せたり、さらにクッションを置いた上に頭を乗せて横になることが多い。つまり、頭の位置が高くなるのである。

寝入りばなには、この体勢がちょうどよいのだ。

ところが、この状態をずっと続けていると、熟睡ができなくなる。熟睡をするためには、寝返りを打ちやすいフラットな状態がよいのである。

「ソファーで寝るのは気持ちよいが、熟睡はできない」という理由は、このようなメカニズムによるものであろう。

あるいは、「うっかりソファーで寝てしまったが、熟睡ができないので、しっかり寝ようと思って別の部屋のベッドに移動して横になったが、そのとたん、眠れなくなってしまった」という現象も、これで説明できると思う。…って、これは俺だけか?

さらに、思いあたるのは、うちの娘である。

1歳半を過ぎたが、いまだに、抱っこをして歩きまわらないと、眠りにつかない。いきなり布団の上に横たわらせても、まったく寝つけないのだ。

これもまた、寝入りばなは頭が高い位置にないと眠りに入りにくい、という法則によるものではないだろうか。

…ま、どうでもいいといえばどうでもいい話なのだが、これは大発見なのか、それともよく知られたことなのか、よくわからなかったので、とりあえず書きとどめておく。

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母の友人、大河ドラマの登場人物になる

NHKの大河ドラマ「いだてん」がいよいよ最終章に入りました!戦後編です!

来年開催予定の東京五輪はあんな感じだし、出演者は次々と問題を起こすし、視聴率は低いしと、さんざんな目にあっている「いだてん」ですが、脚本家・クドカンの最高傑作であることは間違いないし、主演の阿部サダヲの演技は、全盛期の渥美清や西田敏行を彷彿とさせるキレッキレの演技であることも間違いのないことである。

先日見た回では、1964年の東京オリンピックで金メダルを取った「東洋の魔女」ことバレーボールの選手たちが、満を持して登場した!

この中の一人が、実は、僕の母の友人なのである。正確に言えば、中学のバレー部の1年先輩である。

僕の母は、中学生の時からバレーボールを始めた。こういっちゃあアレだが、ド田舎の中学校である。

バレー部の1年先輩に、のちに東京五輪で「東洋の魔女」と呼ばれる選手の一人がいたのである。

僕はその人の名前を母から聞いていたので、「いだてん」のオープニングで流れる登場人物に、その人の実名が出て、さらにその人物を演じる人の名前が出てきたのを見て、少し感動した。

だってすごくないですか?母の友人が大河ドラマの登場人物の一人ですよ!歴史的人物といってもいい。ちなみに言うと、その方は、3年ほど前に亡くなっている。

僕は、「東洋の魔女」に関する予備知識がまったくないままに、「いだてん」を見ていたのだが、「鬼の大松」こと大松監督が、関西弁を話している。実業団チームの日紡貝塚というのが、大阪にあるらしい。

だが、僕の母は、大阪出身ではなく、関東出身である。もちろんその1年先輩も、関東出身である。

いろいろと気になったことがあったので、「いだてん」を見終わってから、母のところに電話をして聞くことにした。

「大河ドラマ、見た?」

「見てない」

「見ろよ!東洋の魔女が出てるぞ!次の土曜日の午後に再放送があるから、絶対に録画して見るように」

「わかった」

「中学の1年先輩の人の名前も出てたぞ」

「あら、そう!」

さあそこから、その人の話題で話が止まらなくなる。

かいつまんで言うと、こういうことらしい。

母も、その1年先輩のその人も、バレー部で一緒に練習をしたり試合に出たりしていた。おそらくそのバレー部は、ド田舎の中学ながらも、けっこうな成績を残していたのだろう。

1年上の先輩は、卒業後もバレーを続けたいと思っていたが、家庭の事情で、家があまり裕福ではなかったため、高校に進学することを断念し、大阪にある日紡に入社し、実業団チームの日紡貝塚に入部した。

しかし、大松監督から、「高校バレーを経験しておいたほうがいい」と言われ、入社から1年後に、会社からの資金援助を得て、大阪の高校に入学した。そして高校卒業後、あらためて日紡に入社した、というのである。「東洋の魔女」の中では、その人が最年少だったという。

オリンピックに出た後、大阪の呉服問屋さんのところに嫁いだそうだ。息子さんもオリンピック選手として活躍したという。

晩年、その人は、母校の中学校で講演をした。そのとき、僕の母も聴きに行って、友人たちとお金を出し合って、記念品を贈呈したのだという。

1年先輩だったその人は、中学の時から、だれもが認めるバレーボール選手だったのである。同じバレー部にいた僕の母も、そうとうレベルの高い選手だったと推察される。母も中学卒業後、数々のプロスポーツ選手を輩出する県内の高校でバレーボールを続けたのだが、自らの才能に見切りをつけ、高校卒業後はバレーボールをやめてしまった。

「東洋の魔女」はほんの一握り。その背後には、母のような女子バレーの選手が大勢いたのだろう。

さて、その1年先輩の選手というのは…。

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7年ぶりの再会

11月3日(日)

こぶぎさん、大正解です!

焼きそばを食べたお店の場所まで当てちゃうんだからなあ。それよりなにより、これから書こうと思っていた話の場所まで当てちゃってる。もはやクイズを出す前に正解を出す、という域にまで達しているのだ。

さて、昨日の続き。

帰りの新幹線の時間までに、1箇所、訪れたいところがあった。

昨日の昼に焼きそばを食べたお店のあった観光村に、県の公共施設があって、そこに、「前の職場で一緒に仕事をしたSさん」が勤めているのである。

Sさんとは、「前の職場」でいろいろな仕事をご一緒したが、7年前に、こちらの公共施設の正職員に採用され、この地に旅立った。それ以来、会っていない。

その公共施設をいつか訪れますよと約束していたのだが、訪れる機会のないまま、7年が過ぎたのである。

もともと、おいそれと行けるような場所にはなかったのだが、今回たまたま、この公共施設のある町に宿を取ったので、時間を見つけて訪れてみようと思ったのであった。

前日の夜の懇親会で、幹事のSさんが、「鬼瓦さんは、明日の帰りの新幹線の時間までに、どこか行きたいところはありますか?」というので、

「お昼に焼きそばを食べた観光村に、公共施設があるでしょう」

「ええ」

「今日は時間がなくて立ち寄れなかったのですが、そこに行きたいんです」

と答えた。

「わかりました。では車でご案内します」

「いいんですか?バスで行こうと思っていたんですが」

「大丈夫です。Tさんも同じ新幹線でお帰りになるので、3人で行きましょう」

ということで、幹事のSさん、南の町から来たTさんと3人で、翌朝、町のはずれにある観光村の公共施設を訪れることになった。

しかし、今日は日曜日。しかもまったくアポを取っていないので、Sさんが職場に来ているかどうかもわからない。

それに、7年ぶりに再会できたとしても、

「はて、どなたでしょう?」

と訝しがられる可能性もある。

ダメ元で、受付に

「あのう…ここにつとめておられるSさんは、今日いらっしゃるでしょうか」

とたずねたところ、

「はい。いまお呼びします。どちら様でしょうか」

「鬼瓦といいます」

「わかりました」

と内線をつないでくれた。

「いまこちらに来るそうです」

しばらくして、

「あ~、鬼瓦先生!」

というかん高い声が聞こえた。

「びっくりしました。『鬼瓦さんという方が来ています』とだけ言われて、『鬼瓦さん…?もしや…』と思ったら、まさか本当に鬼瓦先生だったとは…!」

そりゃあそうだろう。突然来たんだから。

「どうしてこちらにいらしたんですか?」

僕はかくかくしかじか、と事情を話した。

「帰るまでの時間にここを訪れようと思って。日曜日なのでいないかも知れない思いながら、ダメ元で来てみたんです。1時間ほどしか時間がないんだけど」

「たまたま今日は出勤日だったんです」

公共施設の中を歩きながら案内してもらいつつ、Sさんは1時間ほど、堰を切ったようにいろいろなお話しをした。

さあそろそろ帰ろうか、というときに、

「鬼瓦先生!」

と呼ぶ声がした。

「前の前の職場」の教え子だった、旧姓Fさんである

昨年10月、この近くの町で講演会をしたときに、旧姓Fさんが聴きに来てくれたので、旧姓Fさんとは1年ぶりである。そのとき、Fさんがいまこの公共施設で働いていることを聞いたのだった。

「Fさんも今日、出勤日だったの?」

「ええ。鬼瓦先生が来ているという噂を聞いて、飛んできたんです」と、息を切らしながら言った。

しかも旧姓Fさんは、以前はこの町の職員である「幹事のSさん」のもとで働いたこともあったようで、幹事のSさんとも知り合いだったのだ。

それだけではない。

僕は、この近くの町にある調査事務所のYさんと、昨年来、何度か一緒に仕事をしているのだが、「前の職場で一緒を仕事をしたSさん」は、そのYさんと仕事を通じて知り合いになり、来年1月に、その調査事務所主催の講座で講演をするそうだ。

もうこうなると、人間関係が複雑すぎてワケがわからない。誰か人物相関図を書いてくれないか?

「前の前の職場の教え子だった旧姓Fさん」と「前の職場で一緒に仕事をしたSさん」が、いま同じ職場で働いていて、以前、旧姓Fさんが「この町につとめる幹事のSさん」のもとで働いていたことがあって、「前の職場で一緒に仕事をしたSさん」と、昨年来僕とたびたび一緒に仕事をしている「近くの町の調査事務所のYさん」とが、今度一緒に仕事をする。で、「幹事のSさん」と「調査事務所のYさん」と僕が、同じ業界の人間として、何度か一緒に仕事をしている。

…ま、俺だけがわかっていればいいか。

あっという間に帰る時間となり、「じゃあまた」といって、僕は幹事のSさんの車に乗って駅に向かった。

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ご当地グルメ2択

11月2日(土)

前日の晩、新幹線と在来線を乗り継いで、自宅から5時間ほどかけて、北の町に到着した。

この町に宿を取るのは、10年以上ぶりくらいである。

翌朝、駅前に集合し、10人ほどの同業者と貸切バスに乗って、まる一日、「大人の遠足」である。昨年は、南の町を訪れたので、今年は北の町になったのである。

お昼は、町の中心部から少し離れたところにある、観光施設のようなところで、昼食をとることになった。

さて、お昼は何を食べよう?

今回の幹事のSさんは、この町の出身で、いまもこの町につとめている。Sさんに聞くのが間違いない。

「この町の名物は、焼きそばと、ラーメンと、うどんです」

「そうですね」

「うどんは、この県の名物の一つと言われていますが、もともとは、この町に元祖があります」

「そうなんですか」

僕はこのうどんが好きで、この県を訪れたときには、しばしばおみやげに買って帰るのだが、そういう意味ではいつも食べているから、今回の選択肢からははずすことにした。

「この町といえば、焼きそばですよね」

「ええ。でもラーメンも有名です。細い縮れ麺で、スープもあっさりしています」

「そうなんですか?」

僕はとたんに迷ってしまった。焼きそばを食べるつもりでいたが、話を聞いてみると、ラーメンも捨てがたい。

「一つ、注意点があります」

「何でしょう」

「焼きそばも、ラーメンも、この町では、おやつ代わりに食べるものなんです」

「そうなんですか?」

「ええ。なので、ふつう盛りが少なめに設定されています。昼食として食べる時には、大盛りにした方がよいです」

「なるほど」

「それと、焼きそばの食べ方についても注意点が」

「何でしょう」

「焼きそばは、出されたそのままを食べるのではなく、そこにソースをかけ足して食べるのが、この町の焼きそばの食べ方です」

「追いソース、ですか?」

「ええ。この町では、みんなそういう食べ方をします。とくに上に乗っかっている目玉焼きの黄身をめがけて、ソースをかけるのです」

「なるほど」

「できれば、びちゃびちゃになるくらいかけた方がいいです。つけ麺感覚で」

「わかりました」

「もしこの町の焼きそば屋さんに行って、焼きそばと一緒にソースが出てこなかったら、馬鹿にされていると思ってかまいません」

なんと、それほどまでに、「追いソース」へのこだわりが強いのか…。

さて、焼きそばにするか、ラーメンにするか…。

「細い縮れ麺のあっさりスープ」は、「前の前の勤務地」のご当地ラーメンとも近い感じがしたので、なんとなく味の予想がつく。やはり、ここは焼きそばだろう。

言われた通り、親の仇、ってくらい、目玉焼きの黄身の上に、ソースをかけてやったぜ。

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フロマンタン

11月1日(金)

午後に保育園の「もみじ組」の懇談会があるという。「もみじ組」は、1歳児クラスである。

平日の、午後3時から5時という、中途半端な時間に行うという。妻は仕事でどうしても行けないし、僕は、この日のうちに新幹線と在来線を乗り継いで5時間近くかかる北の町にたどり着かなければならなかったのだが、午後7時20分発の新幹線に乗れば、日付が変わる前にその町到着できることがわかったので、懇談会に出ることにした。

保育園の、懇談会が行われる部屋に行ってみると、参加人数は僕を含めて4人。僕以外はみんな「お母さん」である。

そりゃあそうだ。平日の午後に懇談会をやりますといわれても、仕事を持っている人はおいそれと参加できるわけではない。

こぢんまりした雰囲気の中で、懇談会が始まった。

最初に、栄養士さんが、ふだん子どもたちが食べているお菓子を持ってきた。試食してみてください、という。栄養士さんが独自に開発したものらしい。

「みなさんご存じの、○○○○○○みたいなお菓子です」

「ああ、なるほど」

…と、僕以外の人はうなづいたのだが、僕が初めて聞く、洋菓子の名前である。

最近は、初めて聞くカタカナの言葉が、なかなか覚えられなくなってきている。

1回聞いただけでは、名前が覚えられないのだ。

「食べていただくとわかると思うんですけれど、子どもたちに出しているものは、大人がイメージする○○○○○○とは、ちょっと違うかも知れませんね。見た目も違うでしょう?」

「そうですね」

いやいやいや、だから、俺はその洋菓子のことはまったく知らないのだ。

いったいこのお菓子は何なのだ???

何度か聞いているうちに、「フロマンタン」と言っているように聞こえた。

「風呂満タン」???お風呂がお湯で溢れている映像が浮かんだ。

1回そう聞こえてしまうと、もうそうとしか聞こえない。

「作り方を説明します。まず、熱したフライパンに、バターとマシュマロを溶かして、そこにコーンフレークを落とします。しばらくすると、コーンフレークどうしがくっついて、見た目がフロマンタンみたいになるのです」

もとのお菓子がどんなものかわからないので、見た目が似ているのかどうかもわからない。

「子どもたちは、このお菓子が大好きで、これを出すと喜ばれます。このお菓子が嫌いな子どもはいません」

と栄養士さんは断言した。

実際に試食してみると、たしかに美味しいのだが、ちょっと子どもたちには甘すぎやしないかなあというのが気になる。でもまあ、だからこそ子どもに人気なのかも知れない。

懇談会は5時に終わった。もう、さっきのお菓子の名前が出てこない。

(さっきのお菓子の名前、何だったっけなあ…)

必死に思い出して、「フロマンタンだ!」と思いだした。

いや、正確に言えば、「風呂満タン」みたいな名前のお菓子だったぞ。

「洋菓子 フロマンタン」でインターネット検索をしてみると、

「フロランタン」

という名前が出てきた。

先ほどのお菓子の正式名称は、「フロランタン」だったのだ!!

「風呂らんたん」(らんたんは提灯の意)という語呂で、覚えておこう。

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台風と虹と大雨と

今年は、台風15号、台風19号と、関東地方に風や雨による被害が続いた。

先週金曜日の大雨も、それに追い打ちをかけるものとなった。実感としては、今回の大雨が、最も危険を感じるものとなった。前の二つの台風が休日におとずれたのに対し、このたびの大雨が出勤日と重なったことにもよるだろう。

金曜日は朝からひどい大雨だったが、夕方になって雨がやみ、幸い電車が動いていたので、帰宅することができた。

ただ、ふだん使っている道が、崖崩れで寸断され、ちょっとした遠回りをする羽目になった。

帰宅すると、僕の職場のある町が、大雨による冠水でひどいことになっているとニュースになっていた。

ニュースを見た何人かの方から、お見舞いのメールをいただき、とてもありがたかった。不幸中の幸いと言うべきか、僕の職場は山の上にあるので、冠水などの被害には遭わなかった(と思う)。

自宅は、職場から通勤時間2時間半の場所にあるので、特段の被害はなかった。

しかし、実際に大雨の被害に遭った地域に自宅のある人は、想像を絶する体験をしたのだろうと思う。

先週の火曜日、10月22日(火)に、さるやんごとなき方がやんごとなき地位に就かれたとのことで、内外からお客さんを招いて、お祝いの式典が行われた。

その日は祝日になったこともあり、僕はテレビでその式典をボンヤリと眺めていたにすぎないのだが、その式典を眺めている間、桐山襲の小説『パルチザン伝説』のある一節が僕の頭から離れなかった。戦争で空襲に遭った男二人が話をする場面である。

「『このへんには工場がないから大丈夫だとは思うけれど―』
私が落ち着きをとりもどしてそう言うと、男はしばらく防空壕の方角を見やっていたが、やがて断固たる調子で、戦争だから家が焼かれるのは仕方ねえが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城(きゅうじょう)が心配だ、と答えた。

…戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ…

なるほど、この国のひとびとはかつてない空爆のなかでそういうふうに考えているのか――動悸の細波が残っている胸を押さえながら、私は頭のどこかが痺れるのを感じていた。まだ焼かれ足りないのか、まだ殺され足りないのか、いや、全部焼かれ、全部殺されても、そう思いつづけているのか」

「確かに私の周囲で生きているひとびとは、ただならぬ生活の混乱や肉親の死に直面しているにもかかわらず、未だ敗け足りていないように見えた。民間人だけではない、軍人もまた、真剣に降伏を考えているのは上層の極めて一部であり、それ以外は児戯に類する本土決戦の〝準備〟に我を忘れている状態だった。なるほど民は自らの水準に応じてその支配者を持つものだとするならば、知は力であるという段階を通過せぬまま権威と屈従の感覚だけは鋭敏にさせてきたこの国の民の水準に、軍部のごろつきたちはまことに適合しているのかも知れなかった」

儀式が始まると空が晴れて、その直後に上空に虹が現れたと、ニュースがまるでそれを吉兆のように伝えているのは、もはや非科学的でしかなかった。現実にはその3日後に、「弱り目に祟り目」の大雨が、台風19号の被災地に容赦なく襲ってきたのである。

やんごとなき式典についての僕のコメントは、これ以上でも以下でもない。

〔付記〕なお、この記事のタイトルは、あるドラマのタイトルのパロディーである。説明するのも野暮な話だが。

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粘土詩

前回の続き。

小学校4年~6年の時の担任だったN先生が松山東高校出身だったことから、いろいろなことを思い出す。

同級生だった人たちの話も、しばしばしてくれた。その中には、のちに絵手紙作家として有名になる小池邦夫さんの名前もあった。

ほかにもいろいろな同級生のお話しをしていたよなあ、とつらつらと思い返してみると、愛媛県の知的障害者施設の先生をしている方がいらっしゃったことを思い出した。

すぐに名前が思い出せなかったが、僕は小学6年生の時、その学園に通う子どもたちが書いた詩をまとめた『どろんこのうた』という詩集を授業で読んだことを思い出した。そしてその先生の名前が、仲野先生であることを思い出した。

仲野先生は、学園に通う知的障害者の子どもたちに詩を書かせるのだが、その方法が一風変わっていた。粘土板に、自分がその時に浮かんだ言葉と、絵を彫らせて、版画にするのである。

その「版画詩」を集めた詩集だから、タイトルが「どろんこのうた」。

知的障害を持つ子どもたちの詩は、何の不純物も混じっていないようなみずみずしい言葉で綴られており、当時の本の帯には、詩人の谷川俊太郎の推薦文が書かれている。

また、のちに音楽家の池辺晋一郎がこの詩集に感動し、いくつかの詩に曲をつけたそうである。

さて、話を僕の小学生時代に戻す。小学6年生のときである。

N先生は、この『どろんこのうた』という本をクラスの一人一人に配った。

「この詩集を読んで、感想文を書いてください」

よくよく説明を聞くと、この詩集をまとめた仲野先生は、N先生の高校時代の同級生であり、この本は、仲野先生が知的障害者施設の子どもたちが粘土に掘った詩をまとめた本である、という。

その本を、まずはまっさらな気持ちで読み、感想文を書く。

その後、N先生が国語の授業でこの詩集をとりあげ、詩についてみんなで考える時間を作る。

そしてそれをふまえて、各自がもう一度、感想文を書く。

つまり、N先生による指導の前と指導の後、2度にわたって感想文を書いたのである。N先生は、指導によって児童の感想がどのように変化するかを見るために、このようなやり方をとったのであろう。

しかし、この詩集の感想を書くことは、当時の僕、いや、今の僕からしても、とても酷な課題だった。

それぞれの詩は、本当に純粋な気持ちに溢れたもので、飾りのない、混じりけのない言葉に溢れている。その詩について、僕がいくら感想を書いたとしても、それは所詮は飾り付けた言葉でしかないのである。どんなに言葉を並べ立てても、彼らの詩にふさわしい感想文を書けるはずがないのである。

詩人の谷川俊太郎は、この本の帯文に、「生まれたてのことば、何も着ていない裸のことば、心と体の見わけのつかぬ深みから、泉のようにわいてきたことば、詩の源と、生の源とがひとつであるということを教えられました。粘土に書くという着想も、すばらしい」と書いている。これ以上、どんな言葉が必要だろう。

400字だったか800字だったか、とにかくどのようにして僕が2回の感想文を原稿用紙のマス目に埋めていったのか、今となってはまったく覚えていない。

クラス全員が2回ずつ書いたその感想文は、ガリ版刷りの手作りの感想文集、いわゆる私家版としてまとめられた。

その後、その文集が誰かの目にとまったのか、ラジオの短波放送に取り上げられることになった。そのとき、N先生とともに、クラスの児童の何人かが出演し、インタビューに答える形でラジオ出演した。僕も出演した児童の一人として選ばれた。そのとき何を喋ったのか、まったく覚えていない。

…そんなことを思い出し、『どろんこのうた』の本は、いまどうなっているんだろう?と思って調べてみたら、なんと2016年に新装版が出版されていた。最初の出版が1981年であるから、35年以上経たロングセラーだったのである。

新装版には、仲野先生の回想録が掲載されていて、その中に、N先生が作った感想文集についても触れられていた。

「『どろんこのうた』出版直後に、東京都○○小学校のN先生が指導・編集されたクラス全員による初読と指導後の感想文を収めた『どろんこのうた 感想文集』(1981年、自家版)は交流教育の始まりでした」と述懐している。

小学校の国語の授業中で、『どろんこのうた』の詩集を読み、感想文集を作る、という試みは、N先生だけの着想で、ほかでは行われなかったようである。同級生だったからこその、着想だったのかも知れない。

さて、そこにどんな感想文が綴られていたのか。読み返したくもあり、読み返したくもなし。

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松山東高校

脚本家・早坂暁さんのエッセイ集について書いてきたが、早坂暁さんの出身地は愛媛県で、旧制松山中学、つまり松山東高校が出身校である。

松山東高校からは、伊丹万作とか、大江健三郎とか、多くの文化人を輩出している。

それで思い出したことがあった。

僕が小学校4年~6年の時の担任だったN先生の故郷は愛媛県で、松山東高校出身だった。その後、地元の大学の教育学部で教員免許を取り、数年間、故郷で教鞭をとったあと、東京の小学校に移ってきたのである。

N先生はよく、松山東高校時代の思い出話もしてくれた。その話を聞きながら、早く高校生になりたいと思った。松山東高校は、当時小学生だった僕にとって、最も身近な、そして憧れの高校名として、その後も記憶に残り続けた。

N先生は、当時小学生だった僕たちに、折にふれて、芸術や文学のお話しをしてくれた。もちろん、当時小学生だった僕たちには難しすぎて、そのすべてを理解したわけではなかったが、後々、僕が文章を書くことを生業のひとつにするようになったきっかけは、N先生との出会いが決定的だったと思う。

N先生はまた、正岡子規をはじめとして、伊丹万作や大江健三郎など、郷土の先輩方のお話しをしてくれたので、あるいはその時に(高校の先輩である)早坂暁さんのお名前も出ていたかも知れない。いずれにしても、松山東高校という響きに、僕は不思議な懐かしさを感じるのである。早坂暁さんのエッセイを読んで久々にその感覚を思い出し、N先生のことを思い出したのであった。

そんな折、母から電話があった。

「さっき、道ばたでN先生に会ったわよ」

N先生は、いまも、僕の実家の隣の町に住んでおられる。かかりつけの病院に行くとかで、うちの実家の近くの交差点を歩いていたところ、うちの母と出くわしたのである。

N先生は数年前に、体調を崩されているという噂を耳にしたが、いまはどうなのだろう?

「お元気そうだった?」

「お元気そうだったよ。以前お目にかかったときは、少し痩せていたけれど、いまは体調が悪そうな感じではなかった」

「それはよかった」

「でも先生がねえ、『癌で余命3年の宣告を受けましたが、いまもこうして生きています』と言っていたのよ」

「癌だったの?」

「そうみたい」

N先生は、僕の父と同じ、1941年生まれである。そういえば、高校時代の担任だったKeiさんもやはり、1941年生まれである。僕の父は2年前に他界したが、僕にとっての恩師、N先生とKeiさんのお二人が、いまでもお元気なのは、僕にとってまだ頼るべき父親がいるような気がして、嬉しいことである。

Keiさんとはここ最近、メールなどで連絡を取り合ったりしているが、近いうちに時間を作って、N先生のところに会いに行こうか、とか、手紙を書こうかとか、そんな考えが浮かんだ。

いろいろなことをつらつらと思い出しているうちに、一冊の本のことを思い出した。長くなるので次回に書く。

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運動会

10月19日(土)

保育園の運動会が、近くの学校の体育館を会場にしておこなわれた。

娘にしても僕にしても、保育園の運動会に出るのは初めてである。

クラスごと、つまり年齢ごとに、競技というか出し物が違っていて、バラエティーに富んでいる。毎年この運動会を準備する保育園のスタッフの方たちは、大変だろうなあと、本当に頭が下がる。

僕も、娘と一緒に1歳児クラスの競技に参加したのだが、たいしたことをしていないのにもかかわらず、汗だくになった。

それはともかく、いちばん印象に残ったのは、4歳児・5歳児クラスが合同でおこなった「バルーン」という出し物である。

音楽に合わせながら、体育館の真ん中に敷かれている巨大な円形のカラフルなビニールシートのようなものに園児たちが出たり入ったりして、巨大な円形のシートをバルーンのように立体的に動かしていく。園児が円形の巨大なシートの端っこをみんなで持ち上げたりすると、そこから空気が入り、半円形のバルーンができあがっていくのである。

…うーむ。言葉で説明するのはなかなか難しい。百聞は一見にしかず、である。

で、その時に流れている歌が、妙に耳について離れない。子ども向けの歌にしちゃあ、楽曲が高度すぎる。

歌っている声は、大人ではなく、子どもたちのようなのであるが、有名な歌なんだろうか???

妻に聞いてみると、

「知らないの?米津玄師の曲だよ」

米津玄師の名前くらいは、聞いたことがあるぞ。たしか昨年の紅白歌合戦に出ていたんじゃなかったっけ?

で、調べてみると、「パプリカ」という曲であることがわかった。NHKのみんなの歌でも流れているらしい。

東京2020の公式応援ソングにもなっていると書かれていて、東京五輪開催反対派の僕にとっては、なんとも複雑な気持ちではある。だが、歌に罪はない。

さらに調べてみると、この曲を、「Foorin(フーリン)」という子どもユニットが歌っているのだが、そのダンスの振り付け師の一人が、辻元知彦という人なのである。

ダンスの世界にはまったく疎いのだが、辻元知彦という名前、どこかで聞いたことがあるぞ。

思い出した!TBSラジオ「荻上チキのSession22」で、俳優の森山未來と二人で「きゅうかくうしお」というダンスユニットとして、トークゲストに出演していた人だ!ダンスの世界ではすごい人らしい、ということだけは知っている。

というか、俳優の森山未來も、それまで全然知らなかった人だが、大河ドラマ「いだてん」で、若いころの古今亭志ん生を演じているのを見て、すげえ達者な俳優さんだということを、ごく最近に知ったばかりである。で、その俳優さんが、一流のダンサーの人とダンスユニットを組んでいるというのをラジオで知って、またまた驚いたわけである。

ナンダカワカラナイが、いろいろとすごい。世の中は、知らないことだらけだ。

 

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