雑にあつかわれるのは、なじんできたからなのか?

1月21日(金)

3日間にわたる「ひとり合宿」、ええい、めんどくせえ、「入院」が無事に終了した。

もうすっかり恒例になってしまったため、担当の先生や看護師さんも、僕に対する扱いが雑になっている。

本来ならば初日に受付をすませて入室したあと、担当の先生が病室に来て次の日の治療の説明をするのだが、今回は、受付をすませて待合室で待っていると、担当の先生が通りかかり、

「ちょうどよかった。明日の件だけど…」と、次の日の治療スケジュールを教えてくれた。「よかった。病室に行く手間が省けた」と。

2日目は、3時間にわたる長丁場の治療が終わり、僕が病室に戻る前に、担当の先生が、

「このあと用事があるので、流れ解散ということで」

と、やはり病室に来て治療の結果を説明してくれなかった。「流れ解散」という言い方に、思わず笑ってしまった。

まあこっちも、よけいな気を遣わずにすむからかまわないんだけど。

看護師さんも、いちおう消灯時間の9時に、「消灯の時間です」と、部屋の扉を開けてひと言呼びかけるのが恒例なのだが、今回はそれもない。

こうなるともう完全な放置プレイである。

そういえば、初日の看護師さんは、ずいぶんとおしゃべりな人だった。

どういうわけか、僕に3歳の娘がいることを知っていて(話した記憶はないのだが…)、

「いま、娘さんは何に興味があるんですか?アナ雪とか?」

と聞いてくる。

「アナ雪もそうですけど、…阿佐ヶ谷姉妹ですね」

と言ったら、大爆笑された。

「阿佐ヶ谷姉妹ですか!私も大好きです」

「あと、…大泉洋さん」

「ああ、紅白歌合戦で司会してましたね。阿佐ヶ谷姉妹と大泉さんが好きって、ずいぶんシブい娘さんですね」

たしかにシブい3歳児だ。阿佐ヶ谷姉妹と大泉さんが共演したら、娘は狂喜乱舞するだろうな。

「担当の先生、すごく頭がいいんですよ」と看護師さん。

「わかりますよ」と僕。

「なにしろ、○○高校の出身で、現役で××大学に入ったんですからね。たしか息子さんも、○○高校じゃなかったかしら」

と、ずいぶんと個人情報を教えてくれる。というか、口が軽すぎないか??

あんな調子で、僕の個人情報も同僚の看護師たちに喋っているのだろうか。

まあ、毎回お世話になっているし、命を預けている身なので、それくらいのことはたいしたことでもないのだが。

今日の午前に退院し、お昼近くに帰宅したのだが、午後には職場のオンライン会議に参加しなければならなかった。事情を話したにもかかわらず、「休んでもいいよ」という人が一人もいなかったのは驚きだ。仮にも退院直後だぜ。俺の身体の深刻さがわかっていないのだろう。

明日からの土日もオンライン会議があり、進行役をつとめなければならない。先ほどまで会議資料を作っていたので、今日は「アシタノカレッジ 金曜日」は聴かない。

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三たびの海峡

1月20日(木)

ひとり合宿、2日目。

今回はいつになく長丁場で、なかなかツラいものがあったが、なんとか無事に終えた。

3時間にわたる長丁場の終了後、メールをチェックすると、本来ならばもっと早く提出しなければならなかったレポートについての進捗状況をたずねるメールが来ていて、これはたいへん申し訳ないことをしたと、急いでレポートを仕上げて送った(昨日書いていた職業的文章とは異なる)。期待にそったものになったかどうかはわからない。

このほかにも、週末の会議の資料を作らなければならないのだが、まったく手をつけていない。明日までにはなんとか作成して、事前に会議のメンバーに送らなければならないのだが、明日はそんな余裕があるかどうか、わからない。

現実逃避して、持ってきた本を読むことにした。

帚木蓬生の『三たびの海峡』(新潮文庫)という小説である。最近関わった仕事をきっかけに、読むことにしたのである。帚木蓬生の小説を読むのは初めてである、というか、この本を手に取るまで、恥ずかしながら名前を知らなかった。

たしか、映画にもなったことがあり、タイトルだけは以前から聞いたことがあった。その映画は見ていない。

わりと長編の小説なので、入手してからも読むのを躊躇していたのだが、わかりやすい文体のせいもあって、一気に読んでしまった。いやあ、すごい小説だ。これを映画にしたくなる気持ちもわかる。

しかし、いまのこの時代に、この国でこれを映画化することは、かなり難しいだろうな。

以前に映画化されたときは、出演者はほとんど日本の俳優だったと思うのだが、原作の趣旨からすると、少し違和感がある。もっとも、実際に映画を見てみたら、また印象が異なるのだろうけれど。

これはぜひ、韓国で映画化をしてほしい。その方が、原作の趣旨をストレートに表現できるのではないかと思うのだが、

まずは、映画版では日本の俳優がどのように演じているのか、見てみたいものだ。

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アンケート効果か

1月19日(水)

約3ヵ月に一度の恒例、3日間の「ひとり合宿」である。

毎回、仕事とは関係のない本を持っていって、初日は仕事を忘れて読み耽るのが恒例なのだが、今回は、やむにやまれず、締切がとっくに過ぎた職業的文章を書き続けることにした。ちっとも楽しくはない。

さて、どうでもいいことなのだが、ひとり合宿の部屋は、ビルの3階と4階で、ほとんど毎回、僕は4階の部屋があてがわれる。しかし困ったことに、4階の部屋のトイレには、温水洗浄便座がない。

一度だけ、3階の部屋をあてがわれたことがあったのだが、そのときの部屋には温水洗浄便座があった。ひょっとしたら、温水便座がついているのは3階の部屋だけで、4階の部屋にはついていないということなのではないだろうか。

前回のひとり合宿は4階だったので、意を決して、アンケート用紙に、

「できれば温水洗浄便座にしてほしい」

と書いた。

すると今回は、3階の部屋をあてがわれたのである。これって、アンケートに書いた効果なのか?

しかし、アンケートは無記名なので、誰が書いたかわからないはずである。

それに、僕が意図したのは、「全部の部屋を温水洗浄便座のトイレにして欲しい」ということだったのだが、とりあえずクレーム対策のために、3階の部屋をあてがわれたのだろうか。

そういえば以前、食事に鯖が出た時があった。そのとき、アンケートに、

「体調が悪い時の鯖はちょっと…」

と書いたら、それ以降、鯖が食事に出されることはなくなった。

やはりこれも、アンケート効果だったか。

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申し訳ないんだけど…

1月16日(日)

土日になると、身体がシャットダウンして、何もやる気が起きなくなる。

ところで、3歳9か月の娘の最近の口癖は、「申し訳ないんだけど…」である。

もっぱら、

「申し訳ないんだけど…、オシッコしたくなっちゃった」

というふうな使い方をする。

べつに教えたわけではないのだが、「申し訳ないんだけど…」という言葉を使うようになったのはなぜだろう?

…と思って記憶をたどって、思い出した!

昨年末に放送された「そろそろにちようチャップリン 「ASH&D」特集」というお笑い番組で放送された、阿佐ヶ谷姉妹のコントの一節である。「ASH&D」というのは、シティボーイズが立ち上げ、いまは阿佐ヶ谷姉妹も所属する芸能事務所のことである。

そのときにやっていたコントは、「温泉にやってきたおばさんふたりが、ゾンビになる」というネタなのだが、そのコントの中で、阿佐ヶ谷姉妹のミホさんが、

「渡辺さん、楽しい旅行中に申し訳ないんだけど、私、ゾンビになったみたい」

という台詞がある。コント中に、「楽しい旅行中に申し訳ないんだけど」というセリフが2回登場するのだが、娘はどうやらその台詞がいたく気に入って、「申し訳ないんだけど」という言葉を覚えたらしい。しかもその言い方が、コントの中でのミホさんの言い方にそっくりなのだ。

どうやら娘は、ミホさんのセリフがひどくお気に入りのようだ。

試しに、録画してあるそのコントをもう一度見せたところ、「楽しい旅行中に申し訳ないんだけど、私、ゾンビになったみたい」というセリフを、画面の中のミホさんよりも娘のほうが1拍早く発していた。つまり、ここでこのセリフを言う、ということを覚えているわけである。

次に、

「iPadで阿佐ヶ谷姉妹がみた~い」

というので、YouTubeで「阿佐ヶ谷姉妹」と検索し、サムネイルを見せたところ、

「これがいい」

と言って、NHKラジオの東京03の番組で、ゲストの阿佐ヶ谷姉妹が東京03とコントを共演する回を指さした。以前にも一度聴かせたことのあるものだ。

「これでいいの?だってこれ、阿佐ヶ谷姉妹の顔は出ないよ。声しか出ないよ」

「これでいい。これが聴きたいの」

と言って、iPadの動かない画面を前に、娘はじーっとそのコントを聴いていたのだった。

ラジオコントをじーっと聴く3歳児、恐るべしである。

そうかと思うと、夜になると突然、娘が言い出した。

「あの…大泉さんがみた~い」

「大泉さん?」

ここ最近、娘は昨年の大晦日の紅白歌合戦の録画をくり返し観ているらしく、それでついに大泉さんを認識したらしい

「大泉さんが出ている、お歌のテビル(テレビ)を観たいの?それとも、ちょんまげのテビルを観たいの?」

「…ちょんまげ」

「大泉さんが出ているちょんまげのテビル」、というのは、いま放送中の大河ドラマのことである。ドラマの中で大泉さんは、源頼朝を演じているのだ。

今日はその第2回だったので、娘と観ることにしたのだが、北条政子役の小池栄子が出てくると、

「あ、マツコさんだ!」

と画面に向かって指をさした。

「マツコさんじゃないよ。まさこさん」

「あ、まさこさんね」

なぜか、大泉さんの他に小池栄子さんを認識しているというのは、紅白歌合戦の審査員で出演していたことを記憶していたからだろうか。

しかし不思議なのは、源頼朝役の大泉さんは「大泉さん」と本名で呼んでいるのに、北条政子役の小池栄子さんは「まさこさん」と役名で呼んでいることだ。なぜなのかは、わからない。

大河ドラマは、さすがに3歳の娘にはむずかしい内容だったと思うのだが、大泉さんと小池栄子さんが出ている場面になると、画面に釘付けになっていた。

いずれにしても、これで大泉さんを認識することができたので、「水曜どうでしょう」を見せる日も近い。

 

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片手袋からはじまるストーリー

1月14日(金)

今日のTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のゲストは、片手袋研究家の石井公三さんだった。

道ばたに落ちている片方だけの手袋=片手袋から、いろいろな思索をめぐらせるという。

そういえば、僕はこの1週間ほどのあいだで、2回ほど、片手袋に遭遇した。

1度目は、1月8日(土)、繁華街のバス停から、バスに乗り込んだときのことである。

大方の客がバスに乗り込み、いよいよ出発かな、と思っていたら、乗車口である前方の扉から、おばさんが息せき切ってバスに乗り込んできた。

「あの、…手袋を落とされましたよ!」

そのおばさんは、バスに乗り込んだかと思うと、優先席に座りかけていたおばあさんに、その片手袋を差し出した。そのおばあさんがバスに乗る前に手袋を落とした瞬間を、たまたま通りかかったおばさんが目撃して、落ちている手袋をすぐに拾って、バスが出発する前に手渡そうとしたのだろういうことが、その一連の様子からうかがえた。

たしかに、優先席に座りかけていたおばあさんは手袋をはめていたが、左手のみで、右手にははめていない。

「あ、…ご親切にどうもありがとうご…、あ、いや…」

と口ごもったかと思うと、

「これ、私のじゃありません」

とまさかの答え。

手袋を渡そうとしたおばさんは、ビックリした様子で、

「違うんですか?」

と念を押すと、

「違います」

と、やはり否定する。

よく見てみると、おばさんの拾った手袋と、優先席に座ろうとしたおばあさんの手袋は、色が微妙に異なる。つまりまったく違う手袋なのだ。

手袋を拾ったおばさんは、首をかしげながら、バスを降りて、どこかへ歩いて行ってしまった。

いくつもの疑問が残る。

おばさんは、道ばたに長い時間落ちていた片手袋ではなく、「落としたてほやほや」の片手袋を拾ったのである。だから、バスの乗客のものと思い込んだのだ。

で、いままさにバスに乗り込もうとしたおばあさんは、手袋を片手しかはめていないことを確認し、そのおばあさんを追いかけてバスに乗り込んだ。

どう考えても、その「落としたてほやほや」の手袋は、そのおばあさんのものとしか考えられないのだが、実は違う手袋だったのだ。これはいったいどういうことなのか?

同じバスに乗っている人で、「それ、私のです!」と言う人もいなかった。

おばさんは仕方なくバスを降りてどこかへ行ってしまったのだが、拾った片手袋はどうしたのだろう?

そもそも、片手袋を拾ったら、どこに届ければいいのだろう?バスの運転手さんに預けるわけにも行かないし、もともと落ちていた場所に戻すのだろうか?人の片手袋を持って帰るわけにも行かないし、どうにも扱いに困る。

それに、最大の疑問は、そもそもバスに乗り込んだそのおばあさんが、なぜ左手にしか手袋をはめていなかったのだろうか?そのことが、この問題をややこしくさせていたのだ。

僕はざわついた気持ちのまま、家路についたのであった。

2度目は昨日、自宅の最寄りのバス停でバスを待っていたときのことである。

列の先頭に並んでいたのだが、ふと道ばたを見ると、片手袋が落ちている。

ちょうどバスの乗車口のあたりに落ちていたので、バスに乗ろうとしたときにICカードを取り出すタイミングかなんかで、片方の手袋を脱いで、そのまま落としてしまった、といった一連の過程が想像された。

しかも、いかにも「落としたてほやほや」の片手袋である。そればかりか、その片手袋自体、どうやらまだ使い始めたばかりの新品のようなのである。

片手袋を観察すると、かなり複雑な構造を呈している。指の先の部分が出るような仕組みになっていて、さらにそれを覆うようなカバーがついている。つまりふだんは、4本の指と親指とが二股に分かれている手袋として使えて、手袋をしたままスマホをいじる場合には、その4本の指のところのカバーをはずして、指を出す、という、すぐれものの手袋なのである(わかりにくいかな?)。しかも毛糸で作られていて、かなり可愛い。

その手袋の様子から、若い女性がはめていた手袋であろうことは容易に想像できた。おそらく1本前のバスに乗ろうとした若い女性客が、うっかり落としてしまったのだろう。

サア困った。

僕はそれを見つけてしまったのだが、これをどうしたらよいのか?

たかが手袋、と思うかもしれないが、その人にとっては大事な手袋かもしれない。なにしろ新品同様で、しかもかなり凝った作りの手袋なのである。そうとうなお気に入りの手袋であったことに違いない。

いや待てよ。自分で買ったとどうして決めてかかるんだ?大切な人からプレゼントでもらった手袋かもしれないじゃないか。だとしたら、落としたことがよけいに悔やまれるはずだ。今ごろ1本前のバスの中で、泣いているに違いない。

結局、拾って届けようにもどこに届けたらよいのか、という疑問にぶち当たり、何もできず、僕はバスに乗り込んだのだった。

バスに乗っている間、僕はずーっと、その片手袋の持ち主のことを想像し、なぜ自分は何もできなかったのかと悔やむばかりだった。

そして帰路、同じ路線バスに乗って自宅近くの停留所で降りたとき、片手袋が落ちていたところに行って見てみたが、当然ながら、すでに片手袋はなかった。

誰か親切な人が拾って、何か手立てを講じてくれたのだろうかと、僕はそう願うばかりだった。

…ことほどさように、道ばたに落ちている片手袋は、人の気持ちをざわつかせる。僕だけではなく、もちろん片手袋研究家だけではなく、誰もが、道ばたに落ちている片手袋にまつわるエピソードを持っているのではないだろうか。

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喪失感ロス

水道橋博士と町山智浩さんの対談動画(「博士の異常な対談」)の別のところで、こんなことを言っていた。

「すべてのサブカルは雑誌から生まれた。映画も、音楽も、アニメも、テレビも、ガンプラも、すべては雑誌がプラットフォームになっていた。僕はそれに憧れて、雑誌の編集者になったが、いまはどうだ、雑誌の文化は完全に衰退してしまったではないか」と。

雑誌の世界だけではない、と町山さんは言う。高校や大学の同級生たちと話をすると、かつて花形と言われたどの業界も、例外なく衰退しているではないか。

そこでは話題に出なかったが、僕が好きなラジオも、いまや完全に衰退に向かっているとみてよいだろう。

いま僕がラジオを熱心に聴いているのは、ノスタルジーとして聴いているだけかもしれない。実際には、枯れ葉が1枚1枚落ちるように、だんだんと聴きたいと思う番組が減っていっているような気がする。

ちょっと前までだったら、それが喪失感、いまでいう「○○ロス」となっていたが、いまは、喪失感をあまり抱かなくなってしまった。やはり、大病を患ってからかなあ。

ぜんぜん関係ない話だが、上岡龍太郎さんが、ずっと昔、こんなことを言っていた。

「芸人で、帯の番組をやるヤツはアホ。芸人なんてものは、わがままで、時間にルーズで、世間の決め事を守らない象徴のようなもんや。毎日同じ時間に、同じところに行って仕事をするのは、サラリーマンと変わらへん」

これは、暗に「笑っていいとも」のタモさんへの批判だったのだが、その後、上岡さん自身が、「笑っていいとも」の裏番組で「おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ」という帯番組の司会をやったことは、前言を翻す上岡さんらしくて面白かった(1998年に3か月だけTBSのお昼に放送された短命番組で、生放送ではなかったが)。

しかし、上岡さんの言葉は、いくぶんか本質を突いている。生放送の帯番組をやると、決められた時間に決められた場所に行き、ルールに従って仕事をしなければならない局面も出てくるので、どうしても会社勤めとさほど変わらなくなるような心持ちになるのではないだろうか。

それが、耐えられる芸人もいれば、耐えられない芸人もいる。大竹まことさんは、いまや達観しているのだろうけれども、一方で自由が制約されると感じる芸人がいても、決して不思議ではない。

僕も、基本的には気ままな生き方を好む方なのだが、いまはまるでお役所勤めのような毎日で、その生活に耐えられなくなるときがある。といって、そこから抜け出す勇気もない。

…なんでこんなとりとめのないことを書いたのだろう?まったくわからない。

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ばいきんまんは悪者なのか

「ねえねえ、ママに内緒で、ママのiPadで、アンパンマンの動画、観た~い。どうやって観るの?やって」

と、ママにiPadの操作をお願いする3歳9か月の娘。あんた、「内緒で」の意味、わかってんの?

というわけで、相変わらず娘は、アンパンマンのアニメの本編ではなく、アンパンマンの人形遊びをする謎の動画にハマっている。おもちゃの販促動画なのか?

アンパンマンのお人形遊びをする動画は、動画制作者が勝手にストーリーを作っているもので、アニメ本編とは世界観がまるで違う。「ウルトラファイト」のようなものである、ということは以前に書いた

動画を見続けていた娘は、

「ばいきんまんがかわいそう。ばいきんまんは悪くない。悪いのは周りの人」

とつぶやいた。

僕も、娘につきあって、何度かその動画を観たのだが、たしかにばいきんまんは、その動画の中では何も悪いことをしていないのに、周りのドキンちゃんとかアンパンマンとかから意地悪されたり、理不尽な仕打ちを受けたりする。冷静に考えると、これはいじめである。

実はアニメの本編をちゃんと見たことがないので、アニメの中でばいきんまんがどのように描かれているのかわからないのだが、少なくともその人形遊びの動画の中では、身に覚えのない仕打ちを受けたりしているのである。

なんとなく、ばいきんまんは悪者、という認識がすり込まれている僕からしたら、最初はありがちな勧善懲悪の動画なのかなと思ってみていたのだが、よくよく考えてみると、ばいきんまんには「悪」の要素がないのである。

予備知識なく観ている娘からしたら、そこに違和感を抱いたのだろう。

世の中に本当の悪人がいるのか、ということを、最近よく考える。

ちょうど、水道橋博士と町山智浩さんが対談している動画(「博士の異常な対談」)を観ていたら、大島新監督のドキュメンタリー映画「香川1区」を取り上げていた。ちなみに僕は、前作の「なぜ君は総理大臣になれないのか」と今作の「香川1区」の両方とも、まだ観ていない。

水道橋博士が「香川1区」を「スターウォーズ」になぞらえ、与党の平井デジタル大臣をダースベーダーにたとえたことに対し、町山さんが猛然と反論する。なぜ大島監督は、平井デジタル大臣のことを、もっと(相手の懐に入って)ちゃんと取材しなかったのか、今度の映画でやるべきことは、それだったのではないか、と。

町山さんの語りは次第に熱を帯びてゆく。「この世に本当の悪人など存在しない。あるのは、「間抜け」とか「バカ」とか「傲慢」とか「ズルさ」とか「うっかり」とか、そういう人なのだ。何代も続く地元の名家に生まれた平井デジタル担当大臣にも、苦しみや悲しみがあるはずだ。そうした人間のほころびの部分を撮ることこそが映画だ」、と。たとえば佐々木守脚本の「ウルトラマン」でも、怪獣の側の悲哀をちゃんと描いていたじゃないか、もちろん、近年公開されたアメリカ映画「ジョーカー」もしかりである、と。

ほんの何年か前まで僕は、自分が許せない人間のことを悪いやつだと思い込んでいた。そういう人は徹底的に糾弾すべきである、と。

もちろん、声を上げることは重要で、そうしないと世の中は変わっていかないのだが、悪い奴をとっちめることを目的にすることが、はたしてよりよい世の中になることを意味するのか、いまの僕にはわからない。

ただ、その人がやっていることが「間抜け」で「バカ」で「傲慢」で「ズル」くて「うっかり」なものであることは、可視化しなければならないと思う。それが、どうすれば世の中がよくなるかを考えるための「のりしろ」である。その意味で僕は、町山さんの言葉に溜飲が下がったのである。

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羊羹はなぜ到来物が美味しいのか?

小川洋子さんのエッセイ「到来―はるか遠くの美味しさ」(『遠慮深いうたた寝』河出書房新社、2021年)の出だしは、こんな文章で始まる。

「野坂昭如さんのエッセイを読んでいたら、”到来の羊羹”の一行に出会い、その羊羹が素晴らしく美味しそうに思えてならなかった。頂き物、贈り物、お土産。似たような言葉はいろいろあるが、到来、がかもし出す雰囲気は一種独特だ」

なるほど、たしかに「羊羹」と言えば、「到来物」である。「頂き物の羊羹」「贈り物の羊羹」「お土産の羊羹」とは言わない。羊羹は「到来物」でなければならないのだ。

立川談志の落語、たしか「雑俳」だったかと思うが、最初のご隠居とはっつぁんの会話のなかに、

「羊羹でも切るかな。

ええ羊羹けっこう!

そうかい?何でもいくんだな。到来物の羊羹だがね。

弔いもんですか?

「弔いもん」じゃねえ、「到来物」だよ。よそから頂いた…。

そうだろうねえ。買うわきゃねえからね。

口が悪いねどうも。」

というやりとりがあって、ここでもやはり羊羹は「到来物」である。してみると、到来物の羊羹という言い方は、落語がルーツなのか?

「やはり羊羹は、気位の高い伯母さんからの到来に限る」

とも書いていて、これもまた、落語の「サンマは目黒に限る」を思い起こさせる。

野坂昭如のエッセイに書かれていた「到来の羊羹」に反応して小川洋子さんがエッセイを書き、さらにそこから連想して僕がとりとめのない文章を書く、という、エッセイの連鎖が、なんとなく好きなのだが、あまり人には理解されない趣味だろうな。

ついでに書くと、「”推し”のいる幸福」というエッセイもよかった。

「ミュージカルに目覚めた途端、スケジュールの管理がたいへんになった。それまでは、スケジュール、というほどの大げさなものとは無縁だった。手帳にぽつぽつと記される原稿の締切、ただそれだけを意識していればよかった」

で始まるエッセイは、アラフィフになってミュージカルに「落ちた」ことにより、人生が一変した幸福感を、短い文章のなかで余すところなく伝える。チケットの予約や代金の支払いやチケットの入手方法、読んでいるだけで目が回る感じがするのだが、それをいとわずに実行し、そしてそれをいとわずにエッセイに書くエネルギーがすごい。「ぼんやりしている暇はない」のだ。

「未来の一点に、自分の足跡を刻むように、公演名を大きな字で書き込む。その一行が、人生を先回りし、光を放ちながら私を待ってくれているような、小さな幸福を感じる」

味わい深い名文である。

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朝ドラ撤退宣言、撤回!

以前、「朝ドラ撤退宣言」をしたが、撤回することにする。

「戦後編」になって、出演陣がガラッと変わり、深津絵里、オダギリジョー、村田雄浩、濱田マリなどが登場することでほんわかした雰囲気になり、安心して観ていられるようになった。やはり「戦後」になって、時代が明るくなったことも関係するのだろう。

何より、1960年代のジャズ音楽が、物語の大きな軸になっていることである。

このドラマの「戦時下編」ではしばしば、渡辺貞夫さんが演奏するサックスの音色がBGMで使われていたが、「戦後編」では、実際に渡辺貞夫さんが、ドラマに登場する。といっても、本人が登場するのではなく、ナベサダさんのレコードがレコード店のシーンで登場したり、当時のジャズメンがセリフの中でナベサダさんに言及しているという形で、である。

主人公の「るい」(深津絵里)が、あるレコード店に入るシーンでは、その店の一推しのジャズレコードとして、渡辺貞夫さんのアルバムが店頭に飾られている。そのレコードの脇には、書店でいうところのPOPが貼ってあり、店長の推薦コメントが書かれている。1960年代当時、新譜に対して書店のPOPのような手書きの宣伝文が存在したのかどうか、実際のところはよくわからない。

また同じレコード店には、「新譜紹介 野口洋三」という貼り紙があるが、これは当時のジャズ評論家の「野口久光」と「岩波洋三」を合わせた名前ではないだろうか。なんとも細かい芸である。

また、ジャズのライブハウスに出入りしているトミー(早乙女太一)というトランペット奏者の、

「俺よりも先に渡辺貞夫が渡米するなんて…。秋吉敏子に続いて渡米するジャズミュージシャンはこの俺だ、と決めていたのに…」

というセリフがあるが、渡辺貞夫が秋吉敏子に続いて渡米したというのは事実である。こうした「小ネタ」は、この時代のジャズにノスタルジーを感じる人にはたまらない内容なのではないだろうか。もちろん、より詳しい人には、ツッコミどころもあるのかもしれないが…。

というわけで、「朝ドラ撤退宣言」を撤回することにしたのである。

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交渉術

1月9日(日)

3歳9か月の娘は、基本、ディズニーアニメ映画が好きである。

昨年末、サンタさんからのプレゼントが、ディズニー映画「モアナと伝説の海」のDVDだったこともあり、いまはこの映画をくり返し観ている。

今日も娘はこのDVDを手にとった。

「ねえねえパパ。これが観た~い」

「何度も観すぎだよ。どうしようかなあ」

と、見せることを渋っていると、娘はおもむろに一人芝居をはじめた。

「チリリリーン、ちょっとお父さん、テレビ低くして!…はい、もしもし木村です。はい、はい、はい、はいはいはい、はいはいはいはい、ガチャ!ごうか~く!」

以前にもやった、阿佐ヶ谷姉妹のM-1グランプリ準々決勝のときの「おばさん検定」という漫才のネタの一場面である。なぜか娘は、このミホさんのセリフのみ、くり返しまねをしているのだ。ただし、以前よりもかなり手を抜いており、クオリティーはかなり下がっている。

なぜおもむろにこのネタをやり始めたのか?

これをやると、パパの機嫌がよくなると思ったのだろう。パパの機嫌がよくなれば、DVDを見せてもらえると思い、このネタをやったと思われる。まったく、恐るべし、3歳児の交渉術である。

最近は、阿佐ヶ谷姉妹から派生して、「孤独のグルメ」を観るようになったが、6時間くらい見続けていたら、松重豊さん演じる井之頭五郎がどのタイミングで決め台詞を言うかがわかったらしく、

「腹が…、減った…。よし、店を探そう」

という台詞を、井之頭さんよりも数秒早いタイミングで言っている。もうすっかり松重豊さんは「井之頭さん」なのだ。

今のところ、娘が名前と顔を一致させた「テレビに出ている大人」は、思いつくだけでも、「町山さん」(町山智浩)、「コアラさん」(名探偵ポアロ)、阿佐ヶ谷姉妹のエリコさんとミホさん、「井之頭さん」(松重豊)、である。

そして今日、大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」を観ていると、源頼朝役の大泉洋さんが出てくるなり、

「この人、見たことある!」

と叫んだ。紅白歌合戦の司会をしていたことを覚えていたのだろう。

「この人、大泉さん、って言うんだよ。覚えられる?」

というと、

「…むずかしい」

と言ったので、今後の当面の課題は、「大泉さん」を認識させることである。それができれば、「水曜どうでしょう」を見せる日も遠くない。

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