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2008年11月

とりあえず到着

昨日、韓国に到着した。

その前日の金曜日、車に荷物を積んで、東京に向かった。実家で最後の夕食をとり、そのあと妻の実家に泊まる。出征兵士はこんな気持ちなのかも知れない、と感傷的になる。少し大げさか。

翌日、予定通り飛行機で成田から釜山へ。釜山空港で向こうの大学生が待ちかまえていて、ただちに車に乗せられて、大学へ向かう。学会の報告の時間に、何とか間に合った。学生時代に一緒に学んだ韓国からの留学生が、今は韓国の大学の先生。10年ぶりの再会に感激したのもつかの間、発表の時間となる。

自分の発表が終わり、休む暇もなく、討論。わけもわからないうちに、学会が終了。そのまま打ち上げ、2次会と続き、解放されたのが夜の12時。長い1日だった。

それにしても、言葉の壁が厚い。同行した妻はドラマで鍛えた韓国語でコミュニケーションをとっていたが、私はコミュニケーションが全然とれない。数日後、妻が帰って一人になったらどうなるのだろう。想像もつかない。

むかし、手塚治虫先生の『ザ・クレーター』という短編マンガ集の中に、漫画家だった男が、まったく別の人生を生きたいと思い、それまでの人生を捨ててプロボクサーとして生きるという話があったことを、なぜか思い出した。これからの1年3カ月の世界は、これまでの世界とは、まったく別の世界のように思える。これも大げさか。

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しばしのお別れ

火曜日から今日まで、五月雨式に、卒業生や学生がお別れの挨拶に来てくれた。

みんな、留守の間も心配ないですよ、だから頑張ってきてください、というニュアンスで、私に気を遣ってくれている。それがよくわかる。

昨日の夜は、同僚2人による壮行会。久しぶりにおいしい日本酒だけを飲んだ。

今日は、久々に、おしゃれでスマートな同僚と定食屋で夕食。これも壮行会か。

いずれの人たちとも、韓国での再会を誓う。

ま、3月にいったん戻ってくるんだけどね。

これが、日本での最後の更新になるだろう。

この次は、韓国からのレポートだ。

土曜日、成田空港を出発し、午後に釜山(金海)空港到着後、ただちに車に乗せられ、大学へ運ばれる。そして、そのまま学会発表へとなだれ込む。

果たして、無事にたどり着けるのか?

学会発表は無事終わるのか?

生活は軌道に乗るのか?

これから先、どんなことが待ち受けているのだろう。

「この歳になって、そういうドキドキ感が味わえるのって、いいねえ」

とは、おしゃれでスマートな同僚の言葉。確かにそうだ。

みなさんとは、しばしのお別れ。

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時々思い出す場面

大学生の時に見た、「廃市」という映画。もとは福永武彦の同名小説である。

大学4年生の「僕」が、卒業論文を書くために、一夏を廃墟のような田舎の町の旧家で過ごすという話。そこで「僕」は、その旧家の娘、「安子さん」と出会う。

卒業論文を書くために、一夏を田舎町の旧家で過ごす、なんてことに、当時は憧れたものだ。実際、そんなことはありえないんだけれど。

夏休みも終わりに近づき、卒業論文の目途がついた「僕」は、いよいよこの廃墟のような町を離れることになる。そのときの、「僕」と「安子さん」との会話。

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「これでお別れね」と安子さんが呟いた。

「僕また来ますよ」と彼女の手を握りしめて、僕は熱心に言った。

「いいえ、あなたはもういらっしゃらないわ。来年の春は大学を卒業して、お勤めにいらして、結婚をなさって、ね、そしてこんな町のことなんかすっかりお忘れになるわ」

「そんなことはありません」

「そうよ。それがあなたの未来なのよ」

再び時間の歯車が素早く回転した。僕は訊いた。

「じゃああなたの未来は?」

「こんな死んだ町には未来なんかないのよ」

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結局、「僕」は卒業して就職してからというもの、一度もその町を訪れることはなかった。

自分が大学生の頃はさほど印象に残らなかった場面だが、最近になって、この場面をなぜかしきりに思い出すのである。

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見せたかった映画

渡航の準備に忙しい、というのに、「めがね」なんてどうでもいい内容の話を書いている場合か!と、自分が情けなくなる。

授業は先週で終わり。本当は、今週の授業で、映画の上映会をやろうと思っていた。

以前、同僚と、「ラストエンペラー」の上映会をやりましょう、と盛り上がったことがある。高校3年の時に見たこの映画、そして映画の影響を受けて読んだ溥儀の自伝『我が半生』は、いずれも屈指の傑作である。昨年末に北京に行ったことをきっかけに、私の中で再び「ラストエンペラー」熱が高まった。坂本龍一がアカデミー作曲賞をとったことでも知られている。思えば80年代の坂本龍一の音楽は、神がかっていた。80年代の坂本龍一の集大成が、この音楽だった。

しかし、この映画は全編3時間以上の超大作であり、なかなか授業時間を利用して見る、というのは難しい。

実は、もう一つ、学生に見せたかった映画がある。森達也監督の「A」と「A2」という2本のドキュメンタリー映画。地下鉄サリン事件以降のオウム真理教の中に入り込み、いわばオウム真理教の内側から、私たちの住んでいる社会をうつしとったもの。断っておくが、決して、オウム真理教の宣伝映画ではない。

これを見たとき、私は衝撃を受けた。人間のもつ「善意」とか「悪意」というのはいったい何なのか?私たちの住んでいる社会で、「洗脳」された人々と、「思考停止」した人々との間には、いったいどんな違いがあるというのか?など、いろいろなことを考えさせられたのである。

森達也氏の『放送禁止歌』に出会ってから、氏の著作を読むようになった。氏が一貫してとりあげているのは、社会に巣くう「思考停止」の恐怖である。『放送禁止歌』では部落差別の問題をとりあげ、近年刊行された『死刑』では、死刑制度について取材している。いずれも「タブー」というくくり方ができるのかも知れないが、問題の本質はそこではない。「タブー」の名の下に、「思考停止」を繰り返してきたこの社会のあり方なのである。

氏の映画や著作をふれると、人間とはなんと弱い生き物だろう、と思ってしまう。そして森達也氏自身も弱い人間である、ということがこれらの作品からよくわかる。挫折し、煩悶しながら、取材対象と格闘している。それ自体が、一つのドキュメンタリーでもある。

能書きはこれくらいにしよう。上映会はかなわなかったが、興味をもった人は見てほしい。衝撃を受けた人とは、友達になれそうだ。

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めがね

先週の土曜日、約8年ぶりにめがねを買い換えた。

8年前は、ソウルの南大門にある「クリスタル」という名の眼鏡屋でめがねを作った。当時、韓国でめがねを作ると早くて安い、ということで、多くの日本人観光客がめがねを作りに南大門にやってきた。私もその一人だった。

今では日本も、あのときの韓国のような早さと安さで、めがねが作られるようになった。

渡航前にめがねを作ろうと思ったのは、表向きは、視力が若干合わなくなったからだが、本当の理由は、「下を向くとめがねが落っこちる」からである。

今年の夏、妻の実家がリフォームをした。リフォームが終わり、仮住まいの部屋からいよいよ引っ越しをするという日。リフォーム業者が用意した引っ越し要員は、老人3人。酷暑のせいもあり、すでにかなりバテ気味。荷物はほとんど我々が運ぶことになった。とくに妻の本のダンボール50箱は、私と妻と、義妹と義妹の夫のバケツリレーで2階に運ぶ始末。階段は狭い上に暑いのでヘトヘトになった。

その後、2階にあった旧式の大型テレビを1階に運ぶことになり、私と義妹が死にそうな思いで狭い階段をテレビを抱えて降りていくと、階段の真ん中あたり、一番踏ん張らなければいけないところで、(力を入れた途端)私のかけていためがねが自前の汗で落っこちて、階段をコロコロと転がっていってしまった。

「めがね!めがね!」と叫ぶと、その場で義妹は爆笑して脱力し、私もすっかり意気消沈。まったく力が入らなくなり、妻に交替してもらうことに。

それからというもの、重いものを運ぶ手伝いをしようとすると、「運ばなくていいです。笑ろてまうんで」(関西弁)と義妹に言われるし、妻からも呆れられた。

「めがねが落ちて脱力するとは、めがねに電池でも入っているのか?」と。

講義中、講義ノートを見ようと下を向くと、めがねが落ちたこともあった。

早い話が、めがねを顔の幅に合わせて調整すればよいことなのだが、これを機会にちゃんとめがねを作り直そう、ということになった。

めがねはあっという間にできあがった。できあがっためがねを店員さんが私の顔にかけ、何度か調整をした。私は、そのたびに下を向いた。

「これ、下を向いても落ちませんよね」

「大丈夫ですよ」

これで安心だ。あとは、めがねをうっかりと踏んづけないことだ。なぜなら、前のめがねが顔の幅に合わなくなったのは、めがねを軽く踏んづけてしまったことがきっかけだったからだ。

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壮行会雑感

少し思い出話が続いたので、ここ数日間の雑感など。

19日(水)、最後の演習のあと、4年生たちによる壮行会。

私が不在となる事態に最もとまどったのは、卒論提出を目前に控えた4年生たちだったろうと思う。

だから、壮行会を開いてくれる、と聞いたときは、感謝の気持ちと、申し訳ないという気持ちが混在していた。壮行会の席も、何となくいたたまれない心地がした。何も言うべき言葉が見つからなかった。

ただ、最後のカラオケは楽しかった。何しろ、選曲がすばらしかった(私の知っている曲ばかりだった!)。私も、久しぶりに歌いたい曲を存分に歌わせてもらった。気がつけば午前2時半をまわっていたが。

21日(金)、夕方から東京で研究会と壮行会。昼過ぎに山形を出るはずが、突如車が故障し、JAFを呼んだり、修理をしたりして、結局予定より3時間遅れて、夜7時過ぎに研究会の会場の早稲田に到着。

同じ頃、妻は、早稲田に住んでいる妹の家で食事をしていた。おそらく半径数百メートルの範囲内にいたのだと思うが、またしてもすれ違い。妻と一緒に食事するのは、こうなるともう奇跡に近い出来事だ。

研究会が終わり、9時頃から壮行会がはじまる。私の韓国渡航のきっかけとなった共同研究のメンバーのみなさんに囲まれて。

私はこの研究会に出るたびに落ち込んでしまう。師匠や研究代表者の先生はもちろんだが、私と同世代の研究仲間の研究に対する情熱、視野の広さ、新しい分野への挑戦の姿勢など、とてもかなうものではない。私はただ、後を必死に追いかけているにすぎない。自分は果たしてこの共同研究の中で何ができるのか。韓国へ行って、本当に自分の研究を高めることができるのか。数々の疑問を前にして、ただただ悶絶するばかりである。

22日(土)、高校時代の部活の1年後輩が、新宿で壮行会を開いてくれるという。10人ほどが集まってくれた。なかにはおよそ20年ぶりに会うことのできた人もいて、いと嬉し。

なにしろみんな全然変わっていないのがすごい。高校時代のしゃべりの間合いとか、たちどころに思い出す。以前だったら全部平らげたであろうコース料理を残してしまうところや、飲み疲れ、食べ疲れたので2次会を喫茶店にするところなどは、さすがに年を取ったなあと思うが、それ以外は昔のまんま。

仕事で中国に長期滞在した話や、3年間休職してロンドンで勉強した話、ブラジルをこよなく愛し、競馬で儲けた金でブラジルに行って写真を撮る話、ボン・ジョヴィのコンサートのためだけにアメリカに行く話などが飛び交う。話を聞いているうちに、次第に肩身が狭くなる。1年3カ月の韓国滞在ごときで壮行会だなんて、おこがましい話だ。

「1年3カ月ですか。中途半端ですねえ」

相変わらず口の悪い後輩だ。

でも、学生時代をともにした仲間と、社会人になってから飲むのは面白い。いまの4年生とも、社会人になってから飲んだら面白いだろうな、と、数日前の壮行会のことを思い返していた。

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卒業文集、のはなし

ボジョレーヌーボー解禁。

ということで、ワインの話、と思いきや、卒業文集の話。

「ワインと卒業文集は寝かせれば寝かせるほど味が出る」とは、伊集院光氏の伝説的エッセイ、『のはなし』(宝島社、2007年)に出てくる言葉。

たしかに、小、中学校の卒業文集は、卒業してしばらくは、恥ずかしくて読めない。だが、おっさんの年齢ぐらいになると爆笑ものである。

卒業文集、といえば、たいていは学校生活の思い出を書くものである。しかしひねくれ者の私は違った。小学校の卒業文集では、当時NHKでやっていた「シルクロード」という番組が、いかにすばらしいか、喜多郎の音楽がいかにすごいか、みたいな話を延々と書いた。まったく、かわいげのない小学生である。

中学の卒業文集では、「水戸黄門は実は漫遊していなかった!」という文章を、講談調で書いた。みんなが修学旅行とか体育祭とか文化祭の思い出を書いているというのに、である。

いま思うと、「どうかしていた」としか思えない。年齢を重ね、しかも教員という立場になった今の私から見ると、「厄介な中学生だ」と思う。当時の担任だった国語の若林先生も、「やれやれ」という思いだっただろう。

その一方で、こうしたひねくれた行動が、今の仕事に大きな影響を与えているのではないか、と思うこともある。だから、卒業文集は寝かせるにかぎるのである。

作文といえば、こんな思い出もある。

中学3年の時、市のロータリークラブが主催する作文コンクールで佳作に選ばれた。賞と名のつくものをもらったのは、後にも先にもこの時だけ。

私の通っていた中学は、卓球部と陸上部が強く、大会で優勝すると、朝礼で校長先生から表彰された。表彰されるのは体育会系ばかりで、文化系の人間が表彰されることはまずなかった。

そこで初めて、私が文化系の人間として朝礼で表彰されるのである。ちょっと誇らしかった。

さて表彰の日。体育館で、全校生徒を集めて朝礼が始まった。舞台袖で、緊張しながら呼ばれるのを待っていると、担任の若林先生が近づいてきた。

「たった今、舞台裏で副賞の図書券が盗まれた。申し訳ないが、壇上では賞状だけを受け取ってくれ」

ええっ!どういうこっちゃ?

私の中学時代は、校内暴力の全盛期。しかも私の通っていた中学は、市内でも札付きの「ワル」中学だった。毎日、何かしら事件が起こっていた。だから舞台裏で、ほんの一瞬の隙を突いて図書券が盗まれる、というのも、さほど不思議なことではなかった。

それにしても、先生も先生だ。このセキュリティの甘さはいったい何なんだ。

壇上で校長先生から賞状を受け取ったが、嬉しさも半分である。

数日後、担任の若林先生に呼び出され、職員室へ行った。

すると先生は、「盗まれた図書券が見つかった」といって、2000円分の図書券を私に渡した。

いま思うと、本当は盗まれた図書券なんて、見つからなかったのだろう。若林先生が、自分のポケットマネーで図書券を用意したのだと思う。

それも、自分が教員になってみて気づいたことである。

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大学4年の頃の話をしよう

大学4年の11月、サークルの友人Aが家出した。

サークルの同期5人のもとに、Aの親父さんから連絡があったのが、家出から1週間後のことだった。

サークルの同期のなかで一番おとなしいやつだった。原因は卒論が書けないということらしい。Aの親父さんが彼のワープロを見たところ、書きかけの卒論の最後に、「もう何もかもイヤになった」と書いてあったという。大学院進学を期待されていた彼にとって、卒論はかなりのプレッシャーだったようだ。親父さんによれば、着の身着のままで出ていったきりだというのである。

まず心配したのは、彼が生きているかどうかということだった。気の弱いAのことだから最悪の事態にはなっていないと思ったが、それにしてもお金とかはどうしているのだろう。親父さんによれば、本人名義の銀行のキャッシュカードは持っていっているようだというので、それならば銀行からお金が引き出されているかどうかを調べて安否を確認してはどうかと助言した。

調べてみると、数日前に確かにお金が引き出されており、とりあえず安否は確認できた。試しに親父さんが彼の口座に1万円を振り込むと、数日後にしっかりとその1万円が引き出されていた。その後も、親父さんは定期的に彼の口座に1万円を振り込んだが、そのたびに1万円が引き出されたという。

なんというやつだ。親の振り込みをあてにしている家出なんて聞いたことがない。私たちはAの行動にすっかりあきれてしまった。

何回か振り込みを繰り返しているうち、彼が定期的に特定の場所でお金を引き出していることがわかった。毎週金曜日の午前、上野駅の近くのS銀行のキャッシュコーナーで引き出している事実をつかんだのである。

上野駅といえば、彼が大学に通学するときに使っている駅である。定期券の使える範囲に家出するなんてなんという安易なやつだ。再びあきれてしまった。

とにかく私たち5人は、金曜日の午前中に、そのキャッシュコーナーに張り込むことにした。

S銀行のキャッシュコーナーは、上野に2カ所ある。うち1カ所を親父さんが張り込み、もう1カ所を私たち5人が張り込むことになった。私たちの方のキャッシュコーナーは、大通りに面した場所にある。私たちは、すぐに気づかれないよう、大通りをはさんだ向かい側に待機し、そこで彼が現れたら大通りを渡って捕まえる、という作戦をとった。

ところがその大通りというのが、予想以上に道幅が広く、車通りも多い。向かいのキャッシュコーナーに入る人物が彼であるのかどうか、遠すぎて判別しがたいのである。そこで、それらしい人物を見るたびに、大通りを渡って追いかけることになる。

「おい、あいつそうじゃないか?」「そうだ、追っかけてみよう」

結局人違いだったりする。キャッシュコーナーから出てきたばかりの人を追いかけて捕まえようというのだから、知らない人が見たらまるで引ったくりである。

案の定、その日彼は現れた。私たちの方にではなく、親父さんの方にである。Aと親父さんは、その足で上野駅から電車に乗り、数日間旅行をしたと、後で聞いた。

その親子ふたりが、旅行中にどんな会話を交わしたのかは知るよしもない。ただ私たち5人が共通して思ったことは、「俺たちの方にあいつが現れなくて、本当によかった」ということだった。

Aは1年留年した後、ある企業へ就職した。今は妻と2人の子どものためにバリバリ働いている。

そんな、バブル世代のお話。

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ライスカレーは裏切らない

気が重い東京日帰り出張。

先週と同じ出版社だが、今日は午後から打ち合わせが始まる。

だから唯一の楽しみは、昼食をどこで食べるか、である。

思い浮かんだのが「ライスカレー」。

水道橋駅から、白山通りを神保町方面に歩き、途中の路地を入ったところに、「ライスカレー まんてん」という店がある。カウンターだけの狭い店。

学生時代、神保町の古本屋めぐりをする時、たいてい昼飯はここで食べた。それか、「天麩羅 いもや」の天丼。

最初に食べたのが、大学3年くらいのころだから、20年近く前。

いつも混んでいる。カウンターの真ん中で、店主のおやじさんが、忙しく動き回って、カレーを出している。口癖は「申し訳ない」。

カレーが「ライスカレー」と呼ばれていた時代の味。香辛料をふんだんに使ったインド風のカレーも好きだが、ひき肉がたっぷり入った、黄色くてどろっとしたこの店のカレーも好きだった。いわゆるB級グルメである。カツカレー(550円)にソースをかけて食べるのが最強。

東京を離れてからも、神保町に行くチャンスがあると、このカレー屋に寄った。しかしこの数年、神保町で古本屋をまわることがなくなり、しばらく行っていなかった。

水道橋から神保町にかけての白山通りは、大学や会社が多い。ランチの激戦地。ちょっと見ない間に、新しい店が次々とできている。

でも、その路地の「まんてん」は、昔のままだった。

相変わらず混んでいる。店に入ると、店主の姿は見えなかった。昔からいる女性の店員さんが、忙しく働いている。「申し訳ない」と、店主のおやじさんの口癖が移っていた。

カツカレーの値段が600円と少し上がったが、味もボリュームも全く変わっていない。ひっきりなしに客が入ってくる様子も変わっていない。

多少胃にもたれながら、出版社に向かう。

次にこのライスカレーが食べられるのは、いつだろう。

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未来がやってきた!

子どものころ見ていた「ウルトラセブン」。

ウルトラ警備隊の基地は私たちにとって未来だった。

でも、いま見ると、コンピュータはバカでかくて、いろんなスイッチがついている。ノートパソコンのような発想はない。

電話はダイヤル式だ。いまの携帯電話など予想もつかなかったのだろう。

1960年代当時に思い描いていた未来には、限界があったのだ。

その中に、テレビ電話というものがあった。正確に言えば、相手の顔を見ながら会話をする通信装置である。ウルトラ警備隊の隊員は、小さなモニタを、腕時計のように腕に取りつけ、モニタに映る相手と会話をする。ウルトラ警備隊の数ある「未来」のうち、強いていえば、この装置が、やがて来る「未来」のような気がする。

最近、インターネットで国際電話やテレビ電話ができることを、遅ればせながら知った。

スカイプ(skype)というものだが、これがすごい。

スカイプのホームページからダウンロードして、アカウント(「スカイプ名」)を取得する。これだけでOK。「スカイプ名」は、携帯メールでいうところの@マークの前の部分のようなもので、自分で決めることができる。そしてこの「スカイプ名」が、いわば電話番号となる。知り合いの「スカイプ名」を入力して発信すれば、あとは普通の電話のように会話ができる。通話料は無料。

通話をするためのマイクやヘッドホンを用意すればもう完璧。

さらにパソコンにカメラを取りつければ、テレビ電話になるという。

早速、東京にいる妻とともにスカイプに挑戦。普通の電話以上のクリアな音で会話ができる。まるで近くにいるようだ。感動。どうしていままで知らなかったのだろう。これで、向こうへ行っても、煩雑な国際電話は必要ない。

「いまごろスカイプかよ!遅い!」といわれるかもしれないが、とにかく久々の感動だった。

さて、卒論提出を控えた4年生に朗報!

このスカイプを使えば、メールではなく、クリアな音声によるリアルタイムの対話により、卒論指導が可能になる。しかも通話料がかからない。

個人でアカウントを取得してもよし。何人かで取得してもよし。いずれにせよ、無料だし、手間はそんなにかからない。

ヘッドホンとマイクは、1000円以内で手に入る。余裕のある人は、カメラを取りつけてもよいだろう。

むろん、4年生だけでなく、2,3年生にもおすすめである。何かあれば、いつでも連絡してもらってかまわない。

ひょっとすると、今度の卒業論文発表会にも、私は音声で参加することができるかもしれないぞ。教卓に(インターネットに接続している)パソコン1台を置き、スカイプを接続状態にしておけば、私は皆さんの発表を聞くことができるし、私も、コメントを述べることができる!

(ただ、すべては向こうに行って支障なく接続できればの話だが)。

いやなことばかりの世の中だが、私たちの望んでいた未来も、少しずつ訪れているのだ。

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なにごとも練習

081116_131703 妻から、まーぶる君の写真が写メールで送られてきた。

なにも書いておらんが、暗にブログに載せろという要求か?

ま、なにごとも練習だ。ブログに画像を貼る練習をしておこう。

ちなみにまーぶる君とは、熊のぬいぐるみの下にいる猫の名前である。

東京もだいぶ寒くなったらしい。

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休日とは、棒にふるもの

昨日の14日(金)、向こうでの学会報告の原稿をやっとの思いで仕上げ、メールで送信。夕方は卒業論文中間発表会、その後に壮行会。帰ったのが午前2時を過ぎていた。

予定では、今日(15日)こそ渡航の準備と家の片づけをするはずだったが、まったく起きあがれなくなった。明日の夕方には別の壮行会があるし、月曜日はまた日帰り東京出張だ。どうしたらいいものか、途方に暮れる。

休日に全く何もする気が起きなくなるのは、よくあることだ。まるでブレーカーが落ちるがごとく、パッタリと何もできなくなる。心のブレーカーを、針金でグルグル巻にして、無理矢理にでも落ちないようにしようと思うのだが、そうすると今度は体がおかしくなる。

先日も、同僚とそんな話をした。

「休日になると、全くやる気が起きなくなるんですよ」

「へえ、意外だね。バリバリ仕事をやっているイメージだけどな。それを聞いて安心したよ。実は僕もそうだからね」

私はその方が意外だった。私とは真逆の、おしゃれでスマートなその同僚も、やる気が起こらないなんてことがあるのか。

「この前の連休なんて、あんまりやる気が起きないものだから、急に思い立って水戸に行ってきたよ」

全然イメージと違うなあ。つかの間の一人旅のお話は、微笑ましくもうらやましく、つい聞き入ってしまう。

自分以外の人は、みんな何の迷いも悩みもなく生きているのだと、勝手に思いこんでしまうのだが、そんなことはないのだ。

そう自分に言い聞かせて、今日はこのまま何もせずに休むとしよう。

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ハナ肇の銅像

自分にとって究極の教員像とは何か、ということを、いつも考える。

子どものころ、テレビの「新春かくし芸大会」で必ずやっていたコントがあった。

クレージーキャッツのリーダー、ハナ肇が、銅像(胸像)に扮する「銅像コント」である。

たとえば、設定が「学校」だったとしよう。その学校のかつての校長先生の胸像に、ハナ肇が扮する。ハナ肇は、胸から上を、ブロンズ色に塗りたくり、動かない胸像としてそこにいるのである。

そこに、生徒たちがやってくる。胸像の前でわいわいと遊ぶ。そのうち、胸像を掃除すると称して、ハナ肇の顔をたわしでこすったり、歯を磨いたり、掃除機でほっぺたを吸い込んだり、さらには、パイを顔に投げつけたりする。

でも、ハナ肇は微動だにせず、目を見開いたままそこに立っている。なぜなら、彼は胸像だから。

当時、ハナ肇は、芸能界の重鎮だった。その重鎮が扮する胸像に、若手の芸能人たちが、ビビリながらも、好き勝手にいたずらをする。けれども、ハナ肇は、胸像という設定なので、怒ることができない。

子どものころ、このコントが、めちゃくちゃ面白かった。立場の弱い者が、権力のある者にいたずらをする。だけど権力のある者は、単なるオブジェという設定なので、怒れない。一方でいたずらをしている若手からすれば、いつ、ハナ肇が素に戻って本気で怒るか不安である。この駆け引きが、たまらなく面白かったのである。

それもこれも、生身の人間が胸像を演じるというおかしさからきている。

そしてハナ肇の、生身の存在感こそが、このコントを成り立たせていたのだ、ということに、大人になって気づいたのである。

教員とは、この「生身の存在感」だけで、十分なのではないか、と、最近強く思う。学生は、その周りで自由に動き回ればよい。少しばかり、教員の生身の存在を感じながら。

教員は、黙ってそれを見届けていればよい。

「ハナ肇の銅像」。それが私の究極の教員像。

今日、学生が開いてくれた壮行会。「銅像」の周りで、学生が思い思いに楽しんでいる。それを見届けられただけで十分だ。

ありがとう。

でも、パイは投げつけないでくれよ。

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爆弾を抱えた左足

私は、過度に疲労すると左足が痛くなるという「奇病」にかかっている。

世間的に言えば「痛風」という病名なのだが、この病気は非常に格好悪い。

「贅沢病」とか「酒の飲み過ぎ」とか揶揄される。しかし、食事を贅沢しているわけではないし、お酒も、1人でいるときは全く飲まない。

ひとたび発作が起きると、考えられないくらい、左足の親指の付け根あたりが痛くなる。薬を飲めば痛みがひく。でも油断するとまた発作が起きる。このくり返し。

疲労やストレスがたまると、この痛みが襲ってくる。

実は、長期の海外滞在で、最も恐れているのは、発作がいつ起こるやも知れないというこの病気なのである。

格好いい言い方をすれば、「私の左足は爆弾を抱えている」

事実、これまで韓国で2度ほど、この発作に襲われたことがある。いずれも疲労が蓄積した結果だと思うのだが、ただしこのうちの1回は、原因が特定できた。どうも、扶余で食べた「牛すじのスープ」が、体内の尿酸値を急上昇させ、発作を引き起こしたのだ。

なにしろその時は、ビックリするくらい大きな牛すじがいくつも入っているスープを、調子に乗って全部たいらげてしまった。そのしっぺ返しが、2日後くらいにあらわれた。痛がって足を引きずっている姿は、相当滑稽だったらしい。その時一緒だった師匠からは、いまだに「牛すじだけはやめておけ」と、半笑いで諭される。

そんなこともあって、10日(月)、かかりつけの病院に電話して、明日の診察の予約をいれておいた。先生に海外長期滞在のことを相談しようと思ったのである。

そして翌11日(火)、朝起きると左足の裏に違和感を感じた。例の発作か?

まるで病院を予約したことを体がわかっているかのようなタイミングだ。午前中、病院に行き、先生に海外長期滞在のことを話す。向こうでの発作にそなえて、痛み止めの薬と、通常飲む薬の量を配慮してくれるという。

本題が終わってから、「実は今朝、急に左足の裏が痛くなったんです」と告白。先生に左足をみせると、痛みの部分を確認する。

「痛いところは、ここですか?」と先生が足の裏を押さえる。

「そうです」

「ああ、○○筋(聞き取れず)ですね。ここ最近、歩きすぎたってことはないですか?」

「はい、1週間ほど前に、20キロ近く歩きました」

「原因はそれですね」

「でも、1週間も前ですよ」

「筋肉痛は、すぐには起こらないこともありますから。塗り薬を出しておきましょう」

どうも左足の痛みの原因は、1週間前の文化財調査実習で歩きたおしたことらしい。

「筋肉痛が翌日ではなく1日おいてから出るのは、年をとった証拠だ」とはよく聞くが、1週間後に出たのは初めてだ。どんだけ老けたんだ、私は。

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怒濤の数日間

実習、最終日の前日(4日)。京都での自由行動の日。

資料館の特別展を見たあと、携帯電話が鳴った。師匠からである。

「いま、こっちで資料を預かっているが、この資料が実に画期的なものだ。渡航前に一度見ておいた方がいい」

この「渡航前に」という言葉がくせものだ。このところ、「渡航前に」といって頼まれる仕事が多すぎて、まったく身動きがとれない。

しかし師匠の言葉は優先しなければならない。その師匠は、当然のことながら私以上にお忙しい。提示された日程のうち、なんとか都合がつきそうなのは7日(金)の1日だけ。しかし、この日は大学で打ち合わせが入っている。

「なんとか調整してみます」

そう言って、今度は大学の同僚に、打ち合わせの日程をずらしてもらうようにお願いする。なんとも心苦しい。

5日(水)、実習を終え、最終の新幹線で戻り、翌6日(木)、授業と、(日程をずらしてもらった)打ち合わせと、そして、夕方から学内の研究会で発表。この研究会も、プロジェクトの代表者の先生から「渡航前に研究会で発表してください。あと原稿も書いてください」と言われたもの。夜7時過ぎに終わる。

翌7日(金)、朝の新幹線へ東京へ。そこから東関東県のS市までさらに1時間。午後1時に到着。そこで6時頃まで「資料」をみせてもらう。地下の調査室は久しぶりだった。

帰りに「飲むか」と師匠。「最終の新幹線で帰らなければいけません。明日の朝から公務がありますので」「なんだ、そうか。今日はあなたと飲むことを、女房にも言ってきたんだけどな」「そうですか。じゃあ30分だけ時間がありますので」結局、時間ギリギリまで飲んで、最終の新幹線で帰る。

土曜日は朝から公務。仕上げなかればならない原稿が心配だが、公務終了後もほとんど手につかない。翌日曜日は、まったく体が動かなくなる。夜、新幹線で東京へ。

10日(月)は、朝から都内の出版社で打ち合わせ。打ち合わせというより、さながら大学の演習のようだった。夜6時過ぎにようやく解放され、くたくたになって駿河台下のカレー屋に入ると、サンボマスターのボーカルがカウンターでカレーを食べていた。一般人に見えたが、あれは絶対サンボマスターのボーカルだよな。東京駅で最終の1本前の新幹線に間に合う。駅の構内で、片桐はいりとすれ違う。地味な芸能人にばかり会うものだ。

翌朝、起きると左足が痛い。イヤな予感が…。(つづく)

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ああ、すれ違い人生!

その、実習でのこと。

最終日、京都御所の見学を終えた11:30頃、携帯に妻から電話が入る。

「いま京都駅に着いたんだけど、一緒にランチでもどうかと思って」

妻は次の日に奈良で調査があるので、その前日(つまりこの日)に奈良に入ることになっていた。京都駅でちょうどお昼になったので、電話をかけてきたのだ。

「いま京都御所の見学が終わったところ。これから宿に戻って荷物をとって、バスで京都駅に向かって、そこで昼食休憩なので、あと1時間ぐらいかかるなあ」

「あ、そう。そんなには待てませんな。じゃあ」プチ!(電話の切れる音)プー、プー。

東京にいる妻とは、月に2回程度しか会わない。東京で仕事があって戻るときに、妻が関西方面に出張だったりすることもよくある。今回も、私とちょうど入れ替わりで奈良に調査に行くという。なんというタイミングの悪さ(良さ?)だろう。

しかもこの日、奇跡的に同じ京都市内にいるというのに、わずか1時間の違いで会うことができないとは、すれ違い夫婦もここまでくれば、筋金入りである。

小学生のとき見ていた『日本沈没』というテレビドラマで、主演の村野武範と由美かおるが、日本列島をまたにかけてすれ違う恋人同士、という役を演じていたが、まさにそんな感じ。

よく芸能人夫婦で、「生活のすれ違いが続いたので離婚を決意した」なんていうことがあるけど、あんなのは絶対嘘だね。すれ違っている夫婦がみんなダメになるなんてことはない。絶対に別の理由があるはずだ、と疑ってかかった方がいい。

結局、京都駅に着いたのは、それから1時間半以上過ぎた午後1時過ぎ。妻の判断は正しかった。

後で来たメールには、「カルガモの群れを見られず残念!」とあった。なるほど、カルガモの群れね。

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実習

今年度の実習が無事終了した。今年の参加学生は23人だった。

毎年、飛鳥、奈良、京都を3泊4日で駆け抜ける。宿泊は1泊3000円台の格安の宿をさがす。移動はすべて公共の交通機関。飛鳥を自転車でまわり、奈良を徒歩でまわる。京都では各自が行きたいところに行く。このスタイルは変えていない。

学生時代、夏休みに飛鳥や奈良をまわって感激した。その感激を、学生にも味わってもらいたいと思う。なにしろ、学生時代の感受性は、なにものにも代え難いから。大げさに言えば、人生を変えてしまう体験になるかもしれない。

限られた日数で、できるだけ効率よくまわるために、コースを周到に考える。といって、ガチガチの予定を組むわけではない。細かなアクシデントは当然起こる。いままでも「靴が盗まれた」とか「携帯電話を落とした」とか、「霊感が強いのでお寺に行ったら気分が悪くなった」といったようなことがあった。いろんなアクシデントを学生は持ち込んでくるが、そのたびに鍛えられるのは、この私である。この実習は、私自身の実習でもあるのだ。

私にとっても新鮮な体験であり続けよう。学生たちがそうであるように。

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ブログを覗く

ブログを書くにあたり、いろいろなブログを覗いてみることにする。

同業の研究者のブログは、概してまじめだ。まずブログのタイトルが、自分の専門分野を冠したネーミングになっていたりする。ブログにまで学問を持ち込まなくてもいいのに…と思うのだが、性分なのだろう。それと、同業者がいかに多忙な毎日を送っているかがわかり(時には、その忙しさを誇っているとすら思える書き方をしているものもある)、読むたびに落ち込んでしまう。かなり自堕落な生活を送っている私が、ブログを書く資格なんてあるのだろうか…。

ある有名な落語家のブログを覗くと、あまりに軽薄な文体で、ちょっとがっかりした。その落語家、ベテランで、かなりの名人なのだが、伝統芸能に生きる人が「カキコ」なんて言葉を臆面もなく使用しているのを読むと、なんかゲンナリしてしまう。

政治家のブログも滑稽だ。ある種の無神経さがないと、政治家はつとまらないのだろう、ということが、ブログを読むとよくわかる。それにしてもいまの政治家の知性の無さ、品格の無さには呆れるばかり…。

だいたい、アクセス数の多さを誇って、なにがうれしいんだろう。少しでもアクセスを増やすために、文体をわざと軽薄にしたり、むやみに行間を空けたりと、小手先の工夫をすることは、「言葉」を人一倍大事にしなければならない落語家や政治家にとって、自殺行為なのではないだろうか?それとも「人気商売」だから仕方がないことなのか?

…そーらまた始まった、悪口が。もっとも、綾小路きみまろ風に言えば、「悪口を言っているのではありません。批判をしているのです!」ということなのだが。

やはりブログに向いてないね、私は。

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初めてのブログ

ブログをはじめることにした。

先日、ある人に「ブログを書いてるんですか?」と聞かれた。

「ブログの書く人の気持ちがわかりませんねえ。『お前、なに自分の主張を全世界に発信してるんだよ!』と思ってしまうんですよ。たいした主張でもないのに」

そう答えると、その人は、「実は私、ブログを3年間続けているんです。たいした内容ではないんですが…」とすまなそうに言った。

「い、いや、私の言ってるのは、政治的な主張をしているブログのことで…、日常生活を切りとったブログなんかは、す、好きですよ…」

しどろもどろになってしまった。

いつもそうだ。味方に向けて発砲するようなことを平気で言ってしまったりする。

そんな人間が、ブログをはじめるとろくなことはない。きっと筆禍事件を起こすに違いない。だから今まで私はブログをやらなかったのだ。

そもそも日記なんて続いたためしもなかったのだが。

しかし、そこまでブログを書く人の悪口を言っていた人間が、そんなずぼらな人間が、ブログをはじめる。

それには理由がある。

もうじき、私のおかれている環境が大きく変わる予定だ。1年とちょっとの間、まったく違う環境に身を置くことになる。初めての体験だ。その中で起こった出来事を、日記代わりに何か残す必要があるのではないか、と思うようになった。

それに、最近、やたらと昔のことを思い出すようになった(死期が近いのか?)。いろんな思い出を書きとめておくのも、悪くない。

他の人には、まったくもってバカバカしい内容ばかりだろうが、私にとっては、案外ストレス解消の場になるのかも知れない。

そう、これは私の「秘密基地」なのだ。

昔、小学校裏の資材置き場を「秘密基地」と称して遊んでいた頃を思い出して、ガラクタな話を書きつづろう。

でも次の更新はいつになるかわからんよ。

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