ハナ肇の銅像
自分にとって究極の教員像とは何か、ということを、いつも考える。
子どものころ、テレビの「新春かくし芸大会」で必ずやっていたコントがあった。
クレージーキャッツのリーダー、ハナ肇が、銅像(胸像)に扮する「銅像コント」である。
たとえば、設定が「学校」だったとしよう。その学校のかつての校長先生の胸像に、ハナ肇が扮する。ハナ肇は、胸から上を、ブロンズ色に塗りたくり、動かない胸像としてそこにいるのである。
そこに、生徒たちがやってくる。胸像の前でわいわいと遊ぶ。そのうち、胸像を掃除すると称して、ハナ肇の顔をたわしでこすったり、歯を磨いたり、掃除機でほっぺたを吸い込んだり、さらには、パイを顔に投げつけたりする。
でも、ハナ肇は微動だにせず、目を見開いたままそこに立っている。なぜなら、彼は胸像だから。
当時、ハナ肇は、芸能界の重鎮だった。その重鎮が扮する胸像に、若手の芸能人たちが、ビビリながらも、好き勝手にいたずらをする。けれども、ハナ肇は、胸像という設定なので、怒ることができない。
子どものころ、このコントが、めちゃくちゃ面白かった。立場の弱い者が、権力のある者にいたずらをする。だけど権力のある者は、単なるオブジェという設定なので、怒れない。一方でいたずらをしている若手からすれば、いつ、ハナ肇が素に戻って本気で怒るか不安である。この駆け引きが、たまらなく面白かったのである。
それもこれも、生身の人間が胸像を演じるというおかしさからきている。
そしてハナ肇の、生身の存在感こそが、このコントを成り立たせていたのだ、ということに、大人になって気づいたのである。
教員とは、この「生身の存在感」だけで、十分なのではないか、と、最近強く思う。学生は、その周りで自由に動き回ればよい。少しばかり、教員の生身の存在を感じながら。
教員は、黙ってそれを見届けていればよい。
「ハナ肇の銅像」。それが私の究極の教員像。
今日、学生が開いてくれた壮行会。「銅像」の周りで、学生が思い思いに楽しんでいる。それを見届けられただけで十分だ。
ありがとう。
でも、パイは投げつけないでくれよ。
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