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2008年12月

留学に関する2つのアドバイス

これから留学を考えている人に、2つのアドバイスをしよう。

一つめは、「日本人のあまりいないところに留学しなさい」。

韓国の場合、たとえばソウルの大学に留学しても、日本人が多かったり、あるいは日本語がわかる先生や学生が多い。日本語で事足りる、ということにもなりかねない。これでは、語学は上達しない。

その点、大邱は、日本人がいないし、生活も不自由しないし、なによりソウルにくらべて物価が安い。落ち着いて勉強できるのである。

もっとも、語学が上達するかどうかは、最終的には本人の能力と努力の問題であることはいうまでもない。

二つめは、「真冬に留学するのはやめなさい」。

なぜなら、真冬に留学した私は、いま、ひどい風邪をひいているから。

韓国の寒さを舐めてかかっていた。真冬の季節に、環境が急激に変化する、というのは、やはり体に応える。徐々に体を慣らしていく必要があった、と後悔している。いい年齢にもなったので、なかなか治りにくいようである。

というわけで、咳が止まらないので、今年はこれまで。

よいお年をお迎えください。

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タプサ(踏査)

27日(土)のタプサ(踏査)は、慶尚南道の山清(サンチョン)というところに出かけた。

タプサ(踏査)とは、日帰りの史跡旅行のことである。この大学の史学科では、指導教官と大学院生が中心となって、定期的に行っているという。

朝9時に集合し、車に分乗して出発する。OBの人などを含め、全部で15人くらいが参加した。

まわったのは、生草古墳群、傳仇衡王陵、大源寺、内院寺、断俗寺址、道村里磨崖仏といった場所。

いずれも、マニアックな史跡である。

そもそも、山清が、大邱から車で2時間ほどかかる田舎町。開発がまだ進んでいないところである。

私が関心をもったのは、遺跡もさることながら、史跡旅行がどのような形で行われているのか、ということだった。

まず最初に、集合場所で、資料集が配られる。いわゆる旅のしおりである。大変よくできたものだが、これは大学院生のみなさんが協力して、毎回作成しているという。

車に分乗すると、車の中には、大量のお菓子やミカンが用意されていた。至れり尽くせりである。

史跡に到着し、いよいよ見学が始まるが、最初の古墳群は高台にあり、かなり急な坂をフーフーいいながら登った。他の方は何ともないのに、私だけ大汗をかく。本当に、運動不足を痛感する。

おもむろに、指導教授の先生が、解説をはじめられる。みんながそれに聞き入る。

早い話が、日本でやっている史跡見学旅行と同じである。史跡に対する大学院生のみなさんの食い付き方、というのか、反応の仕方、というのも、日本の大学院生と同じである。

見学場所は、必ずしも建物が立派な場所というわけではなく、古びた石塔が残っているだけのところや、岩にうっすらと仏画が彫られているといった、地味な場所が多いのだが、大学院生のみなさんは、それらを食い入るように見つめ、写真をバシャバシャ撮っている。

「やはり史学科の学生さんなんだなあ」と、ヘンに感心してしまう。

日本の学生と少し違うのは、男女仲がかなりいいということである。大学院生の男女の比率はだいたい半々だが、とにかく元気である。大学院生が計画を立てているということもあり、タプサへの参加姿勢はとても積極的だ。

指導教授の先生は、学生に対して余計なことを言わない。必要なときだけ、史跡の解説をする。

なんか、うらやましい関係だなあ、と思う。

この関係は、そのあとの食事(宴会)のときも同じである。指導教授は、もっぱらOBとか、上の方の人と話をするが、学生と必要以上にコミュニケーションをとろうとはしない。

学生は、学生たちで盛り上がっている。そして指導教授は、それに対して余計なことは言わない。

ただ、学生が爆弾酒を作って、「先生、一緒にお手合わせ願います!」といえば、黙ってそれにつきあう。

いい関係だ。私が思い描いていた理想的な関係のようにも感じる。

一つ、忠告しよう。

教員と学生との宴会の席で、教員が必要以上に学生とコミュニケーションをとろうとしたら、その教員には要注意だ。

そんなこと、言われなくても、経験からわかっているかな?

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爆弾酒とノレバンの洗礼

今日は、待ち望んでいたタプサ(踏査)の日。

6日(土)に行われる予定だったタプサが、雪のために延期になり、今日、27日(土)に行われた。

私にとっては、久しぶりに学問にふれることのできる、待ちに待った機会だ。

勉強になることばかりだった。とても充実した1日だった。

本日はそのことを書きたかったのだが、今はそれどころではない。

タプサの後の、宴会について書く。

タプサが終わったのが、午後7時。その後、指導教授の先生や、大学院のみなさんたちと一緒に食事に行った。

ここまでは普通のことである。

しかし、ここから異変が起こる。

「爆弾酒」というのをご存じだろうか。

爆弾酒とは、焼酎をビールで割ったものである。

正確に言えば、ビールの入ったコップの中に、焼酎の入ったお猪口を沈めて、飲むものである。

日本ではそんな飲み方をすることはないが、韓国では、そういう飲み方をする、と、ある人から聞いたことがあった。

この飲み方をすると、酔いがまわるのがかなり早くなるという。

少し離れた席で、大学院生が、爆弾酒を作っているのをみてしまった。

私が思わず、「それは爆弾酒ですね」と言うと、いきなり、宴会全体が「爆弾酒大会」へと変貌する。

まず、私が飲まされる。

それから、1人1人が飲まされる。

次に、2人1組で飲まされる。

このようにして、延々と、爆弾酒が飲まされる。

私自身も、5杯ぐらい飲まされてしまった。

普通、3杯も飲むと足腰がふらふらになり、翌日の生活に差し支えるといわれているが、5杯も飲まされてしまったのである。

宴会が終わって帰ろうとすると、「次はノレバンに行きましょう」と大学院生のみなさんが言う。

「ノレ」は「歌」、「バン」は「部屋」の意。

言われるがままに、フラフラの足で「ノレバン」へ行く。

日本のカラオケボックスと同じだと思ってもらってよい。

ただし違うのは、ノリである。

日本では想像がつかないくらい、韓国の学生はノリがよい。とにかくみんなで歌いながら踊りまくっている。とくに助教のアンさんは、取り憑かれたように踊り狂っている。

あんなに盛り上がったカラオケをみたのは、生まれて初めてだ。日本でもこんな経験はない。

私も、必死になって彼らに追いつこうと盛り上げる。もし、つまらなそうにしていると、たちどころに、盛り上がるように促されてしまう。だから、そのことを見透かされないように、こちらも必死なのである。

爆弾酒とノレバン。

恐るべきは、この2つである。

もう限界だ。頭の中で爆弾酒がグルグルと回っている。本日はこれまで。

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学ばない人たち

リ・ミン君は、授業中に寝てばかりいる。

授業中に起きているのをみたことがない。彼の顔のデフォルト(初期設定)が、寝顔ではないかと思ってしまうほどである。

授業で問題を当てられると、まるで寝言を言っているかのように答える。

「昨日のクリスマスは何をしていましたか?」という質問にも、「家で1日中寝ていました」と答える。

とにかく、寝てばかりいるのである。

最初は、それが彼のキャラクターとして面白がられていたが、さすがに「猟奇的な先生」も今日はキレた。

「教室で寝るのなら、家に帰って寝なさい!」と。

私も同じ気持ちである。彼の授業に対する態度に、だんだん腹が立ってきた。1日たりとも、授業をまじめに受けようとは思っていないように見受けられるのである。

もう1人、今日怒られたのは、問題児のリ・ヤン君である。

今日も30分遅れて授業にやってきた。おそらく寝過ごしたのだろう。席に着いた早々、眠りはじめてしまった。

これには「猟奇的な先生」も激怒した。

当然である。10日も休んだうえに、一昨日、今日と連続して遅刻したのである。どんな温厚な先生でも怒るのは当然である。

「君たちはまだ大学にも入学していないのよ。仮に大学に入学できたとしても、大学での勉強は今以上に大変なのよ。君たちの目標は何?大学にただ入学することではなくて、卒業して、仕事をすることでしょう?大学を卒業することは、入学するよりももっと難しいことなの!いまこの段階でいい加減なことをしていたら、この先もっと大変なことになるのがわからないの?もう君たちには時間がないのよ」

およそこんなことをおっしゃったと思う。正論である。

とにかく連中は、学ぼうとしないのである。隙あらばサボろうとする。相変わらずマ・クン君は落ち着きなく体を動かしているし、リュ・ピン君はヨジャ・チングのことを考えてぼーっとしたり、隣のパオ・ハイチェン君にちょっかいを出したりしている。チャオ・ルーさんは、宿題を家でやりたくないものだから、授業中に宿題を内職している。男前のリ・チン君はもう1週間近くも授業を欠席している。ベテランの先生による会話の授業では、全員が中国語で好き勝手に私語している。

彼らのこうした行動は、この学期が始まった頃からずーっと変わっていない。

だから韓国語が上達しないのである。

とくに隣のリ・ヤン君には、もうかまっていられない。下手にかまってしまうと、こちらまで手痛い目にあってしまう。

リ・ヤン君は、その身なりからして、近寄りがたいものがある。およそ1年は洗っていないと思われる服とズボンを、毎日着てきている。

いや、おそらく、寝ているときも同じ服なのだろう。いわゆる「寝間着 起き間着 よそ行き間着」である。

そんな彼が、「クリスマスには何をしましたか?」というベテランの先生の質問に、「友達と市内へ出て、服を買いに行きました」と答えた。

これには先生も首をかしげる。「じゃあなぜ今日は新しい服を着てこなかったの?」

先生のこの突っ込みに、リ・ヤン君も答えに窮していた。

授業中はというと、左隣のジョウ・レイ君とずっと中国語で話し込んでいる。まったく授業に参加しようとする意識がない。

ジョウ・レイ君との話がひとしきり終わると、今度は私に韓国語で話しかける。

「アンニョンハセヨは日本語で何というのですか?」

「カムサハムニダは日本語で何というのですか?」

こちらは授業に集中したいのに、なぜこのタイミングでそんなことを聞きたいのか?意味がわからない。だいたい日本語なんか勉強している場合じゃないだろ!韓国語を勉強しろよ!

怒りがこみ上げてきたので、「こんにちは」「ありがとう」とぶっきらぼうに答えただけで、あとは無視を決め込むことにした。

「留年組は、そこそこ韓国語ができる人が多いけど、問題児も多いのよ」と、最初の面接のときに、「猟奇的な先生」がおっしゃっていたことを思い出した。

では、そんな中で、私はどうなのか。

今日、ベテランの先生に「韓国の市場」というタイトルで書いた作文をほめられた。

「日本人が書いた文章ではなくて、韓国人が書いた文章みたいね。韓国人の小学校3,4年生並みね」

正確にはほめられているのかどうかよくわからない。ただ間違いなく言えることは、私の現在の韓国語能力は、小学校3,4年生並みだということである。

スカイプで偉そうに卒論指導なんかしているが、私の韓国語は小学生レベルなのである。

でも、考えてもみたまえ。いいように考えれば、わずか1カ月足らずで、生後10年分の言語成長をとげたとも解釈できるのだ。

次は中学生レベル、高校生レベルの韓国語を目指すぞ。

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クリスマスを棒にふる

韓国では、12月25日のクリスマスは、学校も官公庁も会社もお休み。当然、語学の授業もお休みである。

しかし、せっかくの休みの日であるにもかかわらず、風邪をひいて寝込んでしまった。

昔からそうなのだが、仕事が休みになると、風邪で倒れてしまう。体も、「風邪をひいてもよい日」をよく知っているらしい。

今日は、家から一歩も出ずに、おかゆとうどんを食べてふとんに入った。

妻も、私のこうした体質?をよく心得ていて、「またかよ」という感じで、あきらめている。妻にしても、楽しみにしていた韓国のクリスマスをこんな形で過ごすとは、災難である。

いろいろな人から、「韓国のクリスマスは、どんな感じですか?」とメールで聞かれたりしているのだが、なにしろ家から一歩も出ていないので、どんな様子かまったくわからない。

その上、テレビもまだつながっていないので、ニュースを見ることもできない。

「韓国のクリスマス」レポートは、来年のクリスマスまでお預けである。

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トゥン・チネイ君の炸裂

明日はクリスマスで、授業が休みだというのに、風邪が治らない。

そのせいか、いつもは10点満点を連発しているパダスギ(書き取りテスト)が、今日は7点だった。

昨日の一件も尾を引いているのかも知れない。

昨日、苦労して書いたクリスマスカードを先生に渡す。妻が日本から持ってきたチョコレートと一緒に。ふうん、という感じで受け取られる。

「猟奇的な先生」は、昨日の一件(携帯電話の投げつけの一件)があったからなのか、ややトーンダウンしている。学生をいじめるときも、私の顔をうかがいながら、という感じに見える。いや、私の思い過ごしかも知れない。

中国人留学生たちにも、妻が日本から買ってきたチョコをおすそ分けする。だが、イヤな予感が的中した。授業中にチョコを食べているのを先生に見つかり、チョコを取り上げられたのだ。

まったく、どうしてこう、怒られるようなことばかりするのだろう。せっかく君たちのために買ってきたのに、どうしてその好意を無にするようなことをするかね。

1時間目の後の休憩時間に、リュ・ピン君が質問してきた。

リュ・ピン君は、私の見たところ、うちの班の中で精神年齢がいちばん幼い。韓国語をあまり勉強しようとする意識がない。だから、半年くらいいても、韓国語が全然しゃべれない。

そのリュ・ピン君が、たどたどしい韓国語で私に聞いてきた。

「今日の夕方、何をしますか?」

どうして?、と聞くと、何かモゴモゴと言い始めた。

苦労して聞き取ると、どうやら、今日の夜、ヨジャ・チング(ガールフレンド)と市内に行くらしい。アジョッシ(おじさん)と奥さんも、私たちと一緒に市内へ行きませんか?とさそっているようなのである。

冗談じゃない。韓国語でコミュニケーションがとれない、高校生くらいの君たちと、なんでクリスマスイブにダブルデートと洒落込まなければいけないんだ、と心の中で思いながら、

「おとといね、引っ越しをしたの。それで、今日は、家具とかを買いに行かなければならないの」

「………???」

どうやら言っている意味がわかっていないらしい。

「だから、引っ越し(이사)、引っ越しね。引っ越してわかる?」

「………???」

「이사」の意味がわからないらしい。

しばらく考えた後、「トイレに行ってきます」と言って、あきらめて出ていってしまった。結局、彼は何を言いたかったのだろう。よくわからなかった。

後半の、ベテランの先生の授業。

3時間目が始まって30分たった3時半すぎ、問題児のリ・ヤン君が教室に入ってきた。

これ以上休まないと誓ったはずなのに、なぜ遅れてきたのだろう。

隣の席に座った彼に、「どうして遅れたの?」と聞くと、韓国語の知識をひけらかさんばかりに説明しはじめた。

「一緒に住んでいるルームメイトが、みんなソウルに行ってしまって、部屋で僕一人だったんです。いやあ、まいりました。3時15分に起きて、あわてて学校に来たのです」

どうもよくわからないが、起こしてくれる人がいなかったため、寝過ごしてしまったということらしい。

「どうして寝坊したの?昨日は何時に寝たの?」

てっきり、昼夜逆転して、朝方に寝たのかと思いきや、

「昨日の夜11時です」

という。すると16時間も寝ていたのか。私だって夜中の2時に寝たのに。それなら同情の余地はない。

彼らが、何で進級できないのか、ここへきて、だんだんわかってきた。

3時間目以降、すなわち、「猟奇的な先生」の授業が終わると、まるでたがが外れたように、彼らは騒ぎ出す。集中力がなくなってしまうのである。言ってみれば、一種の学級崩壊みたいなことになる。

その中心にいたのが、お調子者のマ・クン君なのだが、今日は彼がめずらしく欠席である。しかし、マ・クン君に代わってクラスをわかせたのは、ジャッキー・チェンにそっくりの、トゥン・チネイ君だった。

彼は、文法も単語もよく知っているが、発音が無茶苦茶である。中国語訛りの韓国語、といったらよいか。彼の声は大きいので、つい彼の発音がうつってしまいそうになる。

今日は、トゥン・チネイ君の「無手勝流の韓国語」が炸裂する。

後半の授業では、「食堂に来たときの注文の取り方」を実践する。3~4人が一組になって、一人が食堂の主人、残りの人が友達、という設定で、みんなの前で、アドリブで会話を進めていく。

だがこれが、まるで、即興の「食堂コント」なのである。

わが班の、人のよいバンジャンニン(班長殿)であるロン・ウォンポン君が、食堂の主人に扮し、そこへ、トゥン・チネイ君とトゥン・シギ君とリ・ミン君の「悪友3人組」が、入ってくる。

「いらっしゃいませ。こちらにお座りください。何を差し上げましょうか」とロン・ウォンポン君。

ここでいきなり、トゥン・チネイ君は、最初の設定をこわしはじめる。

「俺は一人で来たんだ。だから一人で注文するよ」

「でも、一緒にいらっしゃったでしょう」

「違う違う。いまここではじめて会ったんだ」

そうだそうだ、と他の二人も話を合わせはじめる。

ここで、まじめなロン・ウォンポン君は困ってしまった。

ここから、客の3人は、店の主人に無理難題な注文を次々とつけはじめるのである。

「俺は水だけでいいよ。食事は済ませてきたから」

とか、

「トッポッギ(棒状のお餅を甘辛い唐辛子味噌にからめた、韓国の代表的なおやつ)ある?」

「はい、ございます」

「味はどう?」

「当店のトッポッギはとても美味しいと評判でございます」

「あ、そう、俺、トッポッギ嫌いなんだ」

とか。これなどは「すかしの笑い」というものか。

設定を、友人ではなく、見知らぬ3人にしたことで、「おい、こっちの注文も聞いてくれよ」とか、「早くこっちに料理を持ってきてくれよ」とか、新しい笑いが生まれた。

誠実なロン・ウォンポン君は、3人が繰り出す無理難題に答えようと必死に対応している。その必死さがまた可笑しいのである。

ついに、店の主人は、彼らが矢継ぎ早に出す無理難題に困惑して、「早く帰れ!」と怒鳴って、この即興の「食堂コント」は終わる。

まるで、「ドリフの大爆笑」の人気コーナーだった「もしもシリーズ」(いかりや長介の「ダメだこりゃ!」のセリフで終わるコント)を彷彿とさせるものだ。

こうなると、韓国語を勉強しているのか、お笑いを勉強しているのか、わからなくなる。

ひとしきり笑った後、思い直す。「こんなんでいいのだろうか」と。

ここへきてやはり、彼らが進級できなかった理由がわかりはじめたのである。

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怒り爆発!

独居房のような寒々とした部屋で寝ていたためか、朝から風邪気味。日本から持ってきた風邪薬を飲んだ。

夕方には妻が来るので、午前中のうちに最低限必要なものを、近所のホームセンターに買いに行く。

午後の授業。いつも通り授業が進んでいくが、2時間目から、様子がおかしくなる。

むかし読んだ本の中に、こんなことが書いてあった。「中国では、カンニングはあまり悪いこととは考えられていない。みんなで力を合わせて解答を得ることは、むしろよいことだと考えられている」と。

たしかこんな感じの話だったと思う。本当かどうかはわからないが、「へえ、そういう考え方もあるのか」と、ヘンに感心した記憶がある。

そのことと関係するかはわからないが、今のクラスで、たとえばある人が解答につまると、まわりの中国人留学生が、即座に解答を答えたり、あるいは小声で教えたりする。私が答えにつまったときも、解答を小声で教えてくれるのである。

ときにありがたいことではあるが、本人の勉強のためにはよいことではない。

「猟奇的な先生」は、そのことがかなりお気に召さないらしい。いや、「猟奇的な先生」ならずとも、「先生」の立場であれば、誰しもいい気持ちはしないであろう。

今回は、その怒りが爆発した。

問題児のリ・ヤン君は、ふだん授業に出ないくせに、やたら韓国語の知識だけはある。その知識をひけらかしたいのか、解答につまった他の学生に、小声で解答を教えるのである。

「リ・ヤン!黙りなさい!今はトゥン・シギに質問しているのよ!あんたが答えたら勉強にならないでしょ!喋るんだったら今すぐここから出て行きなさい!」

いつになく大声でお怒りになる。リ・ヤン君のとなりに座っている私も、一緒に怒られているような気になり、イヤな気持ちになった。

リ・ヤン君だけではない。いつものくせなのか、中国人留学生たちは、つい小声で解答を教えてしまうのである。そのたびに、「猟奇的な先生」は「黙れ!」と怒鳴りつける。

中国人留学生たちは、これで完全にびびってしまった。先生が恐ろしくて、簡単に解答できるはずの問題を答えることができなくなる。言葉が出なくなるのである。すると先生はますます高圧的な態度に出る。まさに悪循環である。

これに巻き込まれた私も、だんだん腹が立ってきた。中国人留学生の態度にも腹が立つが、それを高圧的に押さえつけようとする「猟奇的な先生」の態度にも腹が立つ。だいたい、なぜ私も一緒になって怒られなきゃいけないんだ。「美人だからっていい気になってるんじゃないぞ、年下のくせに」と、まったく筋違いな怒りすらこみ上げてきたのである。

その時、さらに間が悪いことに、学生の誰かの携帯電話が鳴った。メールの着信を知らせる音楽である。

ここで、「猟奇的な先生」の怒りは頂点に達する。

「誰の携帯電話が鳴ったの?じゃあ、みんなの携帯電話をいまここに出しなさい。全員の携帯電話を、全部私に渡しなさい!」

学生たちは、先生にしぶしぶと携帯電話を差し出す。

冗談じゃない、なぜ私の携帯電話まで差し出さなきゃいけないんだ。だいたい、40歳になろうとするおっさんが、年下の「先生」に携帯電話を取り上げられるなんて、こんな屈辱はない!夕方には妻も来るんだ!いつぞやのパオ・ハイチェン君みたいに、授業が終わっても返してくれないなんてことになったら、どうすればいいんだ!

私の怒りも頂点に達した。「上等じゃねえか。痛くもない腹を探られたらたまんねえや。正々堂々と携帯電話をくれてやろうじゃねえか!」

そう思った私は、「猟奇的な先生」に携帯電話を投げつけてやった。

かなり大きな音を立たせて机の上に投げつけてやった。

いま考えると、少し大人げなかったかな…と反省している。

しかし、さらに大人げないのは、「猟奇的な先生」の方である。

没収した携帯電話を一つ一つ操作して、誰の携帯電話にメールが着信したか、犯人捜しをはじめたのである。

(…容疑者扱いされている…)

こんな屈辱は初めてだ。これは人権蹂躙だ!

怒りがこみ上げたまま、授業が終了した。携帯電話は無事返してもらったが、しばらくはこの怒りがおさまらない。

風邪気味で体調が悪かったこともあるが、今日ほど腹の立ったことはなかった。こんな状態で、明日以降の授業を、正常な気持ちで受けることができるだろうか?

ただ、不幸中の幸いなのは、明日がクリスマス・イブだということだ。

妻が、「語学の先生に渡すように」と、日本からチョコレートを買ってきた。それに、クリスマスカードをつけて、明日、2人の先生に渡すことにした。

日本でも書いたことのないクリスマスカードを、韓国語で書いて渡そうというのである。

はたして、これが吉と出るか凶と出るか。気持ちがリセットできるだろうか。

おそらく、「猟奇的な先生」には鼻で笑われるだろうな。

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リ・ヤン君の1年

大学院生のウさんとソさんのおかげで、午前中の間に引っ越しがほぼ完了する。

新しい部屋は、大学のすぐ近く。しかも、いままでいた寄宿舎の時と、生活圏はほぼ変わらない。

引っ越しの諸手続が終わり、なんとか午後の授業に間に合う。

午後の授業では、ここのところしばらく休んでいたリ・ヤン君が出席していた。

しかし、いまの時点で彼は10回欠席している。1学期の授業50日のうち、10日以上休むと落第である。「猟奇的な先生」は、事務室に行きなさいと指示し、リ・ヤン君は教室を出た。

授業は、一昨日の影響もあってか、緊張した様子で始まるが、次第にいつものペースに戻っていく。

やがて、リ・ヤン君が教室に戻ってきた。

リ・ヤン君が出席すると、いつも私の隣の席に座る。そして、私が答えにつまったり、わからないことがあったりすると、親切に教えてくれる。ただし、その説明は、あまりよくわからないことが多い。

風貌は、オタク風の青年、といったところか。

とにかく韓国語をよく知っているのである。だから、私の知らない単語もいろいろと教えてくれる。欠席ばかりしているのに、なぜこんなにいろいろと知っているのだろう。

会話の授業で、私がなかなかスラスラ言えないのを見て、彼は言った。

「韓国語が上達するためには、韓国の友人を作って、話す機会をたくさん作ることです。私もそうしています」

「へえ、韓国語をよく知っているね」と私が言うと、

「もう韓国に1年いますから」

という。私は不思議に思って、

「じゃあ、なぜいまだに初級クラスなの?」

と聞くと、

「私は休んでばかりで、あまりいい学生ではないのです。初級クラスは、これで5回目です」

ええ!初級の授業を5回も受けているのか。そらあ、いろいろと知っているはずだわな。

1年は4学期あるから、5回ということは、まるまる1年間、初級の授業を4回受けて、さらにもう1回受けている、ということだ。なんという時間の無駄!

リ・ヤン君は、この学期が終わったら中国に帰されてしまうだろう。

自分はそうならないようにしよう、と誓う。

授業が終わり、引っ越した先の部屋に帰る。テレビや机や本棚やベッドなどがそろっていた寄宿舎の時と違い、部屋には何にもない。

独居房のようだ。

とりあえずインターネットがつながって安心するものの、これからしばらくは、不便な生活が続く。

明日からは妻が来る。徐々に生活用品をそろえていくことにしよう。

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明日は引っ越し

毎度ながら、日曜日はまったくやる気が起きなくなる。

市内の本屋に行って、欲しい本を探すも、在庫がないということで、帰ってきた。

市内の道路では、明らかに普通のアジョッシ(おじさん)やアジュンマ(おばさん)と思われる人が、海賊の扮装をして、海賊船風に装飾したボロボロのトラックに乗って、パレードをしていた。

要は、ボロボロのトラックの荷台ににアジョッシやアジュンマが乗って、やる気なく手を振っているだけなのだが。

なぜかその海賊船風のトラックの前では、ブラスバンドが行進しながら演奏していて、さらにその前をパトカーが先導している。

一体なんのパレードなんだろう?クリスマスだからということか?よくわからない。

カメラを持ってくればよかった、と後悔する。

明日は、寄宿舎を出て、大学の近くのアパートに引っ越す。

荷造りをしなくては。

インターネットがすぐつながるかは、わからない。

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異変

12月20日(土)

朝8時30分。ホテルを出発。

師匠を含めたご一行に見送られる。「体に気をつけるように」「人づきあいもほどほどに」という言葉をかみしめる。

9時20分ソウル駅を出発。11時7分東大邱駅に到着。午後の授業に間に合った。

「猟奇的な先生」が教室に入ってくると、「あれ、今日は休みじゃなかったの?」と驚かれる。

「はい、先に大邱に戻ってきました」

「なぜ?面白くなかったの?」

「いえ、面白かったです。ただ、授業が気になったもので…」

と言うと、「イサン サラム」(変な人ねえ)と先生はつぶやいた。

1時間目の授業が終わったとき、その異変は始まった。

「リュ・ピン君とトゥン・シギ君、私についてきなさい」

と、ただならぬ表情で「猟奇的な先生」が教室を出て行った。

中国人の留学生たちがざわつきはじめている。ただし、中国語で話しているので、何があったのか、私にはまったくわからない。

そして、リュ・ピン君とトゥン・シギ君が、教室を出て行く。

10分間の休憩が終わり、中国人の留学生たちが教室に戻ってくる。しかし何か様子がおかしい。いつもだったらもっと騒がしいのに、ヒソヒソと話をしては、不安げな顔をしている。

リュ・ピン君とトゥン・シギ君も、沈痛な表情で教室に戻ってきた。

「猟奇的な先生」も教室に戻り、2時間目の授業が始まる。

しかしこの時間が、これまでとは打って変わって、お通夜みたいな授業なのである。

あのお調子者のマ・クン君も、黙りこくったままである。ふだん私語ばかりしているトゥン・チネイ君、トゥン・シギ君、ジョウ・レイ君の3人も、まったく会話を交わさない。リュ・ピン君に至っては、「猟奇的な先生」と目を合わせようともしない。

一体どうしたんだ?10分間の休憩の間に、彼らに何があったんだ?中国語がわからない私には、事情がまったくわからない。しかし、大きな異変が起こったことだけは確かである。

リュ・ピン君とトゥン・シギ君は、先生に何を言われたのだろう?

間違いなく言えるのは、これが、「猟奇的な先生」の本当の恐さである、ということである。

中国人留学生たちは、そのことを感じているのだろう。

授業の最後に、「猟奇的な先生」が爆発する。

「あなた方は、勉強する気があるの?ない人は、今すぐ中国に帰りなさい!やる気のない人に教えるほどこちらは暇じゃないの!今度この初級を落としたら、もうあとがないのよ!その時は、その時点で中国に帰ってもらいます!わかった?」

お説教の端々で、中国語による罵倒らしき言葉も吐いておられる。

凍りついた教室。

私も、「もうあとがない」という言葉に反応して、思わず背筋を伸ばす。

40歳を間近に控えた人間が、まるで自分が怒られているかのような錯覚を起こす現場に居合わせると、さすがに凹むねえ。

待てよ。この怒りの対象に、自分は含まれていないと言い切れるのか?

結局、一体何があったのか?落ち込んでいる彼らに、質問することはできなかった。

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歓待

12月19日(金)

午前中から、ソウルの某大学博物館で、調査を行う。夕方終了。ホテルに戻る。

すると、韓国のある学会のメンバーが、どこで情報を聞きつけたのか、われわれメンバーのために一席設けてくれると連絡が入る。

以前にも書いたように、韓国は人間関係が濃密である。日本から研究者ご一行が来たという情報を聞きつければ、めいっぱい歓待をしてくれる。

ホテルから会場まで、一人の方がビッタリとついてこられる。地下鉄の切符も、人数分買って、われわれに配ってくれる。

こちらとしては、そこまでしなくてもいいのに…、切符ぐらい自分で買えるのに…、と思っても、彼らはそれを許さない。

時にこれが、負担になることもある。

韓国へ旅行者として訪れたときはさほど感じなかったことが、こちらで暮らすようになって、ある程度自分でできるようになると、それが煩わしく感じることも多くなる。

こちらの身勝手なのかも知れないが。

宴会は2次会、3次会と続く。

3次会の席で、ある先生が韓国語で次のようなことを私にお話になる。

「外国語が上達するための方法は、2つあります。一つは、恋人を作ること、もう一つは、お酒を飲みながら友人と話すことです。先生の場合、奥さんがいるので、第一の方法は無理です。とすれば、必然的に、第二の方法で外国語を上達させるしかありません」

そうおっしゃる先生は、ご自身が中国語、英語に堪能な超優秀な学者である。ここ数カ月は日本語も勉強されているようで、私の韓国語よりはるかに上手な日本語を使っておられるのを聞いて、「俺は韓国で何をやっているのだろう」とまた落ち込んでしまった。

優秀な研究者の方だけに、お話も理路整然としている。あるいは「一緒に酒を飲みましょう」という口実としておっしゃっているのかも知れないが、韓国語の上達のためには酒を一緒に飲むのがよい、という指摘は、一面で真実かもしれない。

夜12時に解放される。その後ホテルに戻り、午前2時まで宿題。

次の日もご一行のお供をして、授業を欠席する予定だったが、授業に出ない後ろめたさにさいなまれ、明日の朝にソウルを出発することにした。

(つづく)

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再会

12月18日(木)

語学の授業で、次第にいろいろなことが判明する。

この大学の語学堂には、現在500名程度の学生が受講している。そのうち、日本人は私を含めて2人だけだという。私の他のもう一人は、1年くらい語学堂で勉強していて、4級(最上級のクラス)まで進んでいるそうだ。そして、韓国人のナンジャチング(ボーイフレンド)がいる。やはり異性の力か。

というわけで、1級(初級)クラスで日本人は私一人。

昨日元気のなかった男前のリ・チン君。本当の理由はどうも、先週の土曜日にソウルにいる韓国人の彼女と大げんかをして、別れたことにあるらしい。

それとリ・チン君の兄弟は、姉が日本に留学して日本語を勉強し、兄がシンガポールに留学して英語を勉強しているらしい。

なんだ、金持ちのボンボンなんじゃないか。あまり心配するほどのことはなかった。

知り合いが言った。

「お金はあるけれど中国の大学に入れそうにないので、親が外国に留学させる、というパターンが多いのでしょう。学生にしても、親の目の届かないところで生活しているから、思いっきり羽根を伸ばせる。たぶん、そんなところでしょう」

なるほど、そういうこともあるのかも知れない。本当のところはよくわからない。

5時に授業が終わり、そのままKTXに乗って、ソウルへ。わが師匠を含めた共同研究ご一行と合流する。

早稲田で壮行会を開いてもらってから、まだ1カ月がたっていないという再会。

ソウル駅に到着すると、早速日本語が聞こえてくる。やはりソウルには日本人が多い。

ソウル駅から地下鉄に乗り換え、明洞(ミョンドン)駅で降りる。本日と明日に宿泊するホテルは、明洞のど真ん中のロイヤルホテル、という高級感あふれるホテル。そこでご一行と待ち合わせをする。l

明洞は、日本でいえば、東京の銀座とか、渋谷とか、たくさんの人がショッピングをする町。当然、日本人の観光客も多い。行き交う人からは、日本語が聞こえてくる。

夜8時頃、ホテルに到着。ご一行と合流し、チェックインを済ませ、夕食に向かう。焼き肉を、久しぶりに、たらふくいただく。そして久しぶりにお酒を飲む。日本にいるかのような錯覚を起こす。

「40歳になって、学生に戻れるなんて、うらやましいなあ」私のこちらでの生活の話を聞いた、師匠の感想。「教師なんて、教えるばっかりじゃダメだ。学ばないと」長年、第一線で突っ走ってきた師匠は、「学ぶ」機会がなかったことを、悔やんでおられるようだった。

明日は、1日調査である。一つ心配なのは、明日と明後日、語学の授業を休まなければならないことだ。「猟奇的な先生」からは、「ソウルにも教科書を持って行きなさい。宿題をしないと承知しませんよ」と釘を刺されている。その言葉が頭をよぎり、夜11時にホテルに戻ってから、宿題をはじめた。

(つづく)

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砂をつかんで立ち上がれ

ありふれた日常になりつつある。

リ・ヤン君は今日も授業を欠席しているし、お調子者のマ・クン君は休憩時間に先生の椅子に座っていたところを「猟奇的な先生」に見つかり、今日も胸ぐらをつかまれている。

リ・ミン君は今日も授業中に寝てばかりいるし、リュ・ピン君は今日も授業中に宿題を内職していて「宿題は家でやりなさい」と先生に怒られている。ジャッキー・チェンにそっくりなトゥン・チネイ君は、今日も仲良しのトゥン・シギ君やジョウ・レイ君とおしゃべりばかりしている。

みんな、18歳から20歳くらいまでの学生たちだ。韓国の大学で本格的に勉強することを夢見ている。

2日間休んでいた男前のリ・チン君が授業にやってきた。なんでも、道を歩いていて、走ってきたオートバイと接触し、右腕を打撲したらしい。

そのリ・チン君は、いま悩んでいる。彼が韓国に来たのは1年前。うちの班の他の学生のほとんどが、韓国へ来て半年なので、彼は古株である。1年間の語学の勉強を終え、ようやく、韓国での大学の入学が決まりかけたところだが、彼は、このまま韓国で勉強を続けるか、それとも韓国での勉強をあきらめて中国へ帰ろうか、悩んでいるというのだ。

「韓国には友達もいないし、このまま韓国で勉強を続けていく自身がない」と、先生に弱音を吐いた。

けがをして、体が弱っているから、なおさらそんな気持ちにもなったのだろう。

ベテランの先生は、「韓国で勉強することも、中国で勉強することも、同じくらい大変なことよ。困ったことがあったらいつでも私に電話しなさい」と慰める。

自宅から大学に通い、なに不自由なく暮らしていた二十歳の頃の私ならば、彼の悩みの深さは想像もつかなかっただろう。そもそも、自分の中で「留学」という選択肢すら、考えていなかったのだから。

でもいまは、彼の気持ちが少しはわかる。日本での仕事をストップしてまで韓国で勉強させてもらって、果たしてモノになるのだろうか。何も得られぬまま帰国するのではないか。そんな思いにとらわれて地団駄を踏む毎日。

それでも、私には帰るところがある。それに、少しばかりの人生経験も。その分だけ、私は彼よりも恵まれている。

袖すり合うも他生の縁。一度は留学を夢見たのだろうから、彼にはなんとかあきらめずに頑張ってほしいと思う。でも、それを私の未熟な言葉では伝えられない。

だから、日本から来たアジョッシ(おじさん)が、若い学生に混じって孤軍奮闘している姿を存分にさらけ出していこう。たとえそれがぶざまであったとしても。

いつか、それが彼にも伝わるかも知れない。

中島らもは言った。「砂をつかんで立ち上がれ」と。

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チャオ・ルーさんの得意料理

海外に長期滞在する場合は、外国人登録をしなければならない。この間、なかなか時間がとれなかったのと、精神的な余裕がなかったこともあり、なかなか登録申請ができなかったのであるが、今日の午前中に、大邱の出入国管理事務所に行くことにした。

さながら「はじめてのおつかい」である。出入国管理事務所の場所を探し、バスと地下鉄を乗り継いで、事務所へ行く。そこで、登録申請を行う。留学に慣れた人ならばどうということもないのだろうが、私にとっては、一大事なのである。

幼児語のような韓国語を駆使して(受付の人はずっと半笑いだったが)、申請を済ませた。たぶん、2週間後には登録証を受け取れるだろう。言葉が通じていれば。

午後の授業では、先日行われたクイズの結果が返された。私は25点中23点。となりのジョルスさんは、11点だった。

私の語学の勉強は、受験勉強でしか経験をしたことがないので、今の勉強の仕方も、そのやり方を踏襲している。大学時代、語学の勉強をほとんどしてこなかった。第2外国語のドイツ語は、2年生の後期に「不可」をもらったが、「平均点合格」なる制度のおかげで、3年生へギリギリ進学できた。そもそも語学をやるのがイヤだったから、語学から逃げて、今の専門に進んだといってもよい。

それが今になって、語学に悩まされるのだから、人生とはまさに「いってこい」(プラスマイナスゼロ)である。

ここへ来て、若き中国人留学生たちとの実力の差に悩まされている。

とくにベテランの先生による会話の授業では、中国人留学生はうまく会話できている。いろいろな単語もよく知っている。それにくらべて私は、なかなか言葉が出てこない。滞在期間の問題なのか、年齢の問題なのか、性格の問題なのか、それはよくわからない。

ただ一ついえることは、この年齢になったのだから、人一倍勉強しないとダメだということだろう。

さて、本日の会話の授業は、故郷についての話をさせられる。

といっても、内容は、もっぱら食べ物の話になってしまう。自分の故郷は、麺が美味しいとか、果物が美味しいとか。

私も、しどろもどろで日本の話をしていると、わが班で唯一の女性の、チャオ・ルーさんが食いついた。

「日本は桜が有名ですね」ということを言いたいらしい。

「日本には桜がいっぱいありますよ。春になると、みんなで桜の下で、食事をしたり、酒を飲んだり、喧嘩をしたりします」

だいたい、こんな感じのことを答える。知っている単語を並べただけだけど。

他の班は女性が多いのだが、わが班だけは、女性が1人しかいない。これはおそらく、留年した人たちが集まっているクラスだからであろう。だから、うちのクラスに入ると、とっても臭くてイヤだわ、と「猟奇的な先生」がよく言っている。

その中にあって、チャオ・ルーさんはとてもよく頑張っている。となりのマ・クン君のからかいも適当にあしらっているし、つまらないギャグには決して笑わない。韓国語もとてもよくできる。どちらかといえば、斜に構えた、クールな人、というのが第一印象である。

だから、日本の話に関心をもっているとは意外だった。

続いてベテランの先生は、学生の日常生活の話をきく。一人一人に、「家で料理は作りますか」と尋ねる。

もちろん男の子たちも、自分が作る料理を答えるのだが、印象的だったのが、チャオ・ルーさんの答えだった。

「コーラ・チキン」

ベテランの先生は、「何ですか?それは。私は知りませんねえ」と言う。

私はすぐにわかった。鶏肉をコーラで煮込んだ料理である。

この料理がどれほどメジャーなものかわからないが、少なくとも私は、何度も作ったことのある料理だ。鶏肉をコーラで煮込むと、ほどよい甘みがしみ込み、肉が軟らかくなる。私の好きな料理でもある。

思わず「コーラ・チキン!アジュマシッソヨ!」(コーラ・チキンはとてもおいしいね)と叫んでしまった。クールなチャオ・ルーさんも、思わず吹き出した。

会話がひととおり終わり、ベテランの先生が「みなさーん。他の国のお話を聞くと、知らないことがわかってとても面白いですねえ。どうですか」と言うと、チャオ・ルーさんは大きくうなずいた。

そうか。みんな、日本のことに興味があるのかも知れない。聞きたいことがたくさんあるのかも知れない。

しかし、わたしの言葉の力では、まだそのおもしろさを伝えることができない。申し訳ないと思いつつ、いつか、日本の話をおもしろおかしく教えてやろう、と、ひそかな決意を固めたのであった。

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マ・クン君の願望

ズボン下のことを関西では「パッチ」というが、これは韓国語の「바지(パジ)」(ズボンの意)から来ている。

昨年末、北京に遊びに行った際、あまりの寒さに耐えられなかった。それもそのはずで、ズボン下をはいていなかったからである。そもそも私は、「ズボン下をはくのは年寄りだ」という偏見を持っていたため、その時まで、ズボン下をはいたことがなかったのである。

そのことを、北京にいる同僚に話すと、「いま北京で、ズボン下をはいていない人なんていませんよ」、同僚の奥さんも「そうですよ。私なんか3枚はいてますよ」とたたみかける。

あわててズボン下を買い求め、はいてみると、これが暖かい。なぜ今まではかなかったんだろう、と後悔した。それ以来、冬にズボン下は手放せない。

韓国に来てからも、当然ズボン下をはいての生活。ところが、今日はうっかりはかずに外へ出てしまった。「暖かいから、ま、いいか」と高をくくっていたら、夕方になって急に冷え込み、途端に足が冷たくなる。やはりここでも、ズボン下を手放してはいけないことを痛感する。

ズボン下の話はどうでもよい。

本日の授業では、ベンジャミンさんとジョルスさんの2人の英語の先生が揃って受講する。

どうもこの2人が来ると、調子が狂ってしまう。お二人とも語学の先生ということもあり、語学の勉強にはどん欲である。そのためか、細かいことを気にせず、隙あらば喋ろうとする。

それ自体は、よいことなのかも知れない。

でも、「○○が○○にあります」という作文で、

「여자 친구 가 꿈 안에 있어요(ヨジャ チング ガ クム アネ イッソヨ)」

(恋人が夢の中にいます)

なんてアメリカンジョーク風に答えているのをみると、「ああ、この人とは友達になれないな」と思ってしまう。

「俺たちは、こいつらに戦争に負けたのか」と、筋違いな逆恨みもしかねない。

まあ、そこまで大胆にならないと、語学なんてマスターできないのだろう。こちらは相も変わらず、受験勉強みたいなやり方でコツコツ勉強しているからね。

「猟奇的な先生」も、こうしたアメリカンジョークには、いささか困っているようにも見受けられる。そして相変わらず攻撃の矛先は、「ベイビー」(中国人留学生)たちに向けられる。

今日の話も、いささか衝撃的であった。

言葉の意味がわからないところもあり、曲解しているところもあるかも知れないが、だいたい次のような話だったと思う。

「私の家では、魚を2匹飼っていたのだけれど、この2匹が喧嘩ばかりするので、頭に来て、1匹をトイレに流してしまった」と。

いや、たぶん私の聞き間違いかも知れない。「魚」「喧嘩」「トイレ」「殺す」という言葉が聞こえたような気がしたので、このようなことを言っていると、勝手に思ってしまったのかも知れない。

ただ、続いてこんなこともおっしゃった。

「リ・ヤン君は今日もお休みね。これでは進級できないわよ。先生が怒っていたと伝えておきなさい。もし明日休んだら、魚と同じようにトイレに流すからね、と」

いや、これも、「猟奇的な先生」の恐ろしさから来る、私の空耳なのかも知れない。

授業が終わって、「猟奇的な先生」が教室から出ようとすると、お調子者のマ・クン君が小さい声で、

「안녕(アンニョン)!」

と言った。「アンニョン」とは、友達に向かって言う挨拶である。

それを聞き逃さなかった「猟奇的な先生」は、

「いま、アンニョン、て言ったの、誰?」

と問いただす。

しかたなく、マ・クン君が自白すると、「猟奇的な先生」はマ・クン君の胸ぐらをつかんで、

「私とあなたは友達なの?え?どうなの?」

「…はい」

「え?え?」

「い、いえ…ち、違います」

「わかったらよろしい」

と言って出て行かれる。

マ・クン君は、わが班のムードメーカーである。

「昨日は○○をしました」という表現の勉強で、みんながあまりにも「昨日は韓国語を勉強しました」とか「昨日は図書館に行きました」と、型どおりの答えしかしないものだから、ベテランの先生が「もっと別の表現を考えなさい」とお怒りになる。するとマ・クン君は、

「昨日は飛行機を買って、中国に行きました」

と答える。「中国へ行って何をしましたか」という先生の問いに、

「果物を買いました」

と答える。

これには先生もあきれつつ爆笑。「恋人が夢の中にいます」よりも、はるかにこっちの方が好きだ。

そのマ・クン君には、恋人がいない。

あの、気の弱いリュ・ピン君にも、恋人がいることが判明したというのに。リュ・ピン君の彼女は、毎日リュ・ピン君のために料理を作っているという。勝手に純朴なイメージを作り上げていた私が馬鹿だった。

マ・クン君はコンプレックスからか、「여자 친구(ヨジャ チング)」という言葉を使った表現を多用する。「○○君には、ヨジャ チングがたくさんいます」「私には、ヨジャ チングがいません」など。よっぽどガールフレンドがほしいのだろう。今日、とうとう、ベテランの先生に、「韓国の女性を紹介してください」とお願いした。

「わかりました。もしあなたが2級のクラスに上がれたら、韓国の女性を紹介します」

これにはマ・クン君も大喜び。

果たしてマ・クン君は2級のクラスに上がれるだろうか。

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デルス・ウザーラ

黒澤明監督の映画「デルス・ウザーラ」は、渾身の傑作である。

個人的には、好きな黒澤映画の中で、5本の指に入る。

これは日本映画ではない。1902年から10年のシベリア地方を舞台にしたソ連映画である(正確には、日本との合作映画)。1923年に出版されたロシア人探検家ウラディミール・アルセーニエフによる探検記録(『デルス・ウザーラ』)が原作である。

アルセーニエフは、当時ロシアにとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方の地図製作の命を政府から受け、探検隊を率いることとなった。そこで、彼は先住民のデルス・ウザーラと出会う。

詳しくは映画を見てほしいが、映像表現の力強さには、目を見張るものがある。

何よりも想像されるのは、極寒の地での撮影の困難さである。黒澤明監督は、過酷な自然環境の中で、ほとんどがロシア人というスタッフやキャストに囲まれて、なぜかくも過酷な映画を撮影し、それを成し遂げることができたのだろうか。

当時、黒澤明監督は失意のうちにあった。ハリウッド進出が失敗に終わったことや、自殺未遂騒動が起こったことなどはよく知られている。スランプというにはあまりに大きな空白時期である。日本で映画を撮ることは、黒澤監督にとって絶望的なことだったのかも知れない。

そして黒澤監督は、新天地を海外に求める。以前からあたためていた「デルス・ウザーラ」の企画を、ソ連に持ち込み、実現させるのである。

映画を作る執念が堰を切ったようにあふれ出たのかも知れない。その力強い映像表現と、強いメッセージには圧倒される。あえて過酷な現場を選んだのではないか、と思ってしまうほどである。

この映画は、1975年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。世界が、この映画を認めたのである。

この映画にまつわるエピソードで私が好きなのは、黒澤監督が、その後の映画人生で困難にぶつかった際、「デルス・ウザーラ」の時のつらさを思えば、たいしたことではないと思うようになった、ということだ。何かの本で読んだ。

残念ながら、その後の黒澤映画はよい作品に恵まれたとはいいがたいが、それでも、この映画が、黒澤監督にとって一つの転機になったことは間違いないだろう。

つらい時には「デルス・ウザーラ」を思い出せ。

私にとっての「デルス・ウザーラ」とは、何だろう。

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長い1日

12月13日(土)

長い1日だった。

韓国の人は、親切で、人間関係をとても大事にする。その分、つきあいが苦手で断り下手の私にとっては、苦労することも多い。

今日はソウルで学会だ。韓国での私の指導教授が討論者として参加されるということもあり、恥をしのんで参加させていただくことにした。

朝8:30のKTX(韓国の新幹線)でソウルに向かう。切符は、助教のアンさんがとってくれた。他にもう一人、中国人留学生のリュウさん。車中では、苦労しながら韓国語で会話し、日本のドラマ、アニメ、映画の話で盛り上がる。

会場の博物館に到着。学会開始まで時間があるので、博物館の展示を見学する。

13:30 学会が始まる。今回は発表ではなく、聞きに来ただけだが、自分の専門分野とは違う上に、当然ながら全部韓国語なので、内容はほとんど理解できない。

それでも、休憩時間には、知り合いの先生方と挨拶を交わす。これから1年以上も滞在するので、顔を覚えてもらう必要がある。今回は、それが目的だったといってもよい。

18:00 学会終了。その後、懇親会へとなだれ込む。学会の後に懇親会をやるのは、日本も同じだが、韓国の学会は、日本以上に懇親会を大事にする。だから、懇親会に出ずにおいそれと帰るわけにはいかない。時間ぎりぎりまでいなければならないのである。

ここでも、いろいろな人と挨拶する。少し韓国語で挨拶ができると、「韓国語ができる」と思われるようで、まくし立てるように話しかけられてしまう。しかし、こちらは、単語を並べるだけのたどたどしい応答で、実に申し訳なく思ってしまう。

いろいろな人が、私のところにやってきては、韓国語で話しかけてくれるのだが、なにしろこちらの答えがまるでちんぷんかんぷんなので、明らかに困惑した表情で、席を立ってしまう。私には、その人の頭の上に大きな「?」が見えるのである。

そういうときは、情けなくって死にたくなるね。

でもまあいい。お世話になっている大学の院生たちとも少しは仲良くできたし、韓国語を一生懸命喋っているという気持ちは伝わっているようだから、今日はそれだけでよしとしよう。

ぎりぎりまで懇親会場にいて、午後9:00のKTXでソウル駅を出発した。

アン助教とリュウさんと、再び苦労しながら会話。アン助教は、わたしの韓国語の未熟さに、ほとほと手を焼いているようだった。

午後10:40 東大邱駅到着。

KTXを降りて、ようやく解放される、と思ったら、同じKTXで帰ってきた私の指導教授と、先生らしき人が5人ばかり前にいらっしゃる。どうやら、指導教授は、同僚の先生方とたまたま同じKTXに乗り合わせていたらしい。

タクシーで寄宿舎に戻ろうとすると、指導教授の先生が、同僚とビールを飲みに行くので、あなたも一緒に行こう、とお誘いになる。私は「これも勉強」と思い、先生方について行く。

しかしここからが長かった。指導教授の先生と、その同僚の先生方は、どうやら大学の今後のあり方や、他の同僚についての人物評などを、延々と話している。言葉がまったくわからない上に、私がまったくわからない内輪の話をされて盛り上がっているのである。

結局、午前2時近くまで、その拷問のような時間が続いた。

帰りのタクシーの中で、「俺はあの場に何でいたんだろう?でも、あそこで『帰ります』と言うと指導教授の先生の顔をつぶすことになるかも知れないしな…」と、反省というか、反芻しては、自己嫌悪に陥る。結局何が正解だったのか。

そんなことを気にしないようにならないと、ここではやっていけないのかも知れない。でも日本でも苦手だった人づきあいを、ここ韓国で克服することなんてできるだろうか。たぶん無理だろうな。

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パオ・ハイチェン君の災難

語学の授業は、演習室くらいの部屋で行われている。私のクラス(「반(班)」と呼んでいるようだが)は、中国人留学生11人と私。あと、英語の先生らしき米国人2人も不定期で参加しているが、途中で馬鹿馬鹿しくなったのか、ほとんど出ていない。

席はコの字型に並べられる。先生に一番近い左右の席には、先生から向かって左側に私、右側にパオ・ハイチェン君が座っている。

パオ・ハイチェン君は、大柄だが、とてもおとなしい学生である。そして韓国語もよくできる。将来は、大学で法律学を学びたいと言っている。

そのパオ・ハイチェン君は、「猟奇的な先生」から「아기(アギ、「赤ちゃん、ベイビー」の意)」と呼ばれている。理由はわからないが、「猟奇的な先生」からすれば、おとなしくてかわいらしいのだろう。本人も、まんざらではないようだ。

しかし、彼はいつも「猟奇的な先生」からひどい仕打ちを受ける。

「아프다(痛い)の意味はわかりますか?こういう意味です」といって、思いっきりひっぱたかれたり、カバンから勝手に貯金通帳や携帯電話を取り出して会話の練習の道具にしたりされたりするのは、実はいつもパオ・ハイチェン君なのである。

まあ反対側の席には私がいて、「猟奇的な先生」はさすがに私には手が出せないので、必然的にターゲットはパオ・ハイチェン君に絞られる。責任の一端は私にもある。

今日も彼には災難が降りかかる。

1時間目の授業が終わる5分前、パオ・ハイチェン君の携帯電話が鳴った。正確に言えば、マナーモードにしていたので、バイブしたというべきだろうか。

それに気がついた「猟奇的な先生」は、ニヤリと笑って、携帯電話を取り上げ、「休憩です」といって、教室を出て行ってしまった。携帯電話を取られたパオ・ハイチェン君は、あ然とするばかり。

2時間目、「猟奇的な先生」はパオ・ハイチェン君の携帯電話を持って来たが、本人に返さず、教卓に置いたまま授業を続ける。

2時間目の授業は、みんなの出来が結構よかったために、終了時間の5分前に終わることになった。すると、また、パオ・ハイチェン君の携帯電話がバイブした。

すると今度は「猟奇的な先生」が、パオ・ハイチェン君の携帯電話を嬉々としていじりはじめた。これにもパオ・ハイチェン君はあ然とする。挙げ句の果てには、「비밀번호(ピミルボノ、暗証番号のこと)を教えなさいよ」と言う始末。

結局、残った5分間、「猟奇的な先生」はパオ・ハイチェン君の携帯電話をニコニコしながらいじり続け、授業時間が終わると、彼の携帯電話を持って教室を出て行ってしまった。

(なんだよ、結局、携帯電話返さないのかよ…)

と、その時誰もが思ったに違いない。

さらにその時私が思ったことは、(『猟奇的な先生』の旦那さんはたいへんだなあ。あんな風に、旦那さんの携帯も勝手に見ているのだろうか…)ということだった。げに恐ろしや、である。

結局、4時間目の授業が終わっても、彼の手元に携帯電話は戻らなかった。その後、携帯電話が無事彼のもとに戻ったかは、わからない。

それにしても、なぜ毎回、授業時間が終わる5分前に、彼の携帯電話が鳴るのだろう。そのタイミングもよくわからない。

パオ・ハイチェン君よ、「猟奇的な先生」に負けずに頑張れ!

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リ・チン君の謎

今日は퀴즈(クイズ)の1回目。

要は、1課から6課まで、どれくらい理解されているかの小テストである。

久々に緊張する。ドキドキする。大学の教員は、この緊張感を味わうために、定期的に筆記試験をやった方がいいかもね。そうすれば、自ずと授業改善にもつながると思うのだが。

という愚痴はさておき。

今日の「猟奇的な先生」は少々お疲れのご様子。先週もそうだったが、木曜日は一週間のうちで一番疲れがたまる日でもある。それでも、お調子者のマ・クン君には、「うるさいよ、そこの바보돼지(馬鹿豚)!またマジックで書くわよ」と、相変わらずの毒舌ぶり。

リュ・ピン君は、「猟奇的な先生」の授業が終わり、先生が部屋から出た瞬間、「アイシテル!」と叫んだ。遅いぞ、リュ・ピン君。

さて、今日は男前のリ・チン君の話。

もし私が芸能プロダクションの社長だったら、スカウトして売り出そうか、というくらい、男前である。客観的に見て、男前なのである(「男前」という言葉も古いが)。

だから、さぞかしもてるだろうし、本人もそのことを自覚しているようである。

リ・チン君は、1年前に韓国に来たそうで、日常的な会話は問題なくできる。彼が話したところでは、彼には韓国人の여자 친구(ヨジャ チング、「つきあっている女性」の意味)がいるという。彼女は会社員で、いまソウルに住んでいるので、月に2回ほど会っているそうだ。いわゆる遠距離恋愛である。

さすがはリ・チン君。1年の間に、韓国人の恋人を作って、遠距離恋愛をしているとはね。なんともドラマティックな話ではないか。

いったいどうしたらそんなことができるのだろう。逆立ちしてもそんなことができない私にとっては、永遠の謎である。

そんなリ・チン君は、日本語にも関心があるようで、ごくたまに、日本語を聞きに来る。

「『멋있다』は、日本語で何ですか」

「『かっこいい』だよ」

そんな言葉を覚えてどうする。今度は日本人の恋人でも作るつもりか。

「外国語が早く上達するためには、異性の友達(恋人?)を作ればよい」と聞いたことがあるが、彼はそれを実践しているといってよいだろう。

しかし私にとっての最大の謎は、そんな彼がなぜいまだに初級クラスにいるのか?ということなのである。

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リュ・ピン君の挑戦

今週の月曜日から、クラスに新しい学生が入ってきた。

学生といっても、年齢は私と同じか、ちょっと下くらい。アメリカ人のベンジャミンさんである。詳しくお話ししていないのでわからないが、英語の先生をしているらしい。そのせいなのか、1日おきに来て、しかも4時間のうち2時間だけ授業を受けて帰ってしまう。

いろいろと場を盛り上げようとしてくれるのだが、ちょっと空回り気味。欧米人の笑いのツボと、アジア人の笑いのツボが違うのかも知れない。逆に、アジア人の笑いのツボがほぼ同じであることを再認識した。

さて、「猟奇的な先生」は、今日もとばしまくる。

お調子者のマ・クン君が、授業中に中国語で私語をしてると、「猟奇的な先生」がマ・クン君の席に近づき、いきなりマジックで顔に何か書こうとした。マ・クン君は必死で抵抗したが、「猟奇的な先生」も引き下がらない。そしてついに、手の甲に大きく「바보(パボ、「バカ」という意味)」と書いた。もしマ・クン君が強く抵抗しなかったら、そのまま顔に大きく書かれていただろう。

「次に喋ったら、今度は돼지(豚)と書くからね」

幸い、書かれずにすんだが。

恥ずかしながら私も、失敗をする。

「今日は何曜日ですか」とか、「何ハンバーガーが好きですか」の「何」にあたる言葉は、韓国語で「무슨(ムスン)」という。「무슨」の下に来る言葉にはどんなものがありますか、と先生が質問した。

私はすぐに、NHKラジオ講座で兼若先生が言っていた「ムスン洞(ドン)」という言い方を思い出した。「洞」とは、日本でいうところの「町」にあたる。つまり、「何町ですか」というときに使う言葉だ。それを答えたのである。

「ムスンドン!」

すると先生は、不審な顔をしている。ホワイトボードに、とぐろを巻いた蛇のような絵を描き始めた。

私の発音が悪かったのか、先生は、「大便」を意味する「똥(トン)」と思ったらしい。

先生の耳には、「何糞ですか?」と聞こえたのだろう。まったく恥ずかしい話である。

さて、1時間目が終わった休憩時間、リュ・ピン君がはじめて私に話しかけてきた。

「아저씨(アジョッシ、「おじさん」の意)、「サランヘヨ」は、日本語で何と言うのですか?」

アイドル並みにかっこよいリ・チン君でもなく、ジャッキー・チェンにそっくりのトゥン・チネイ君でもなく、クラスで一番気の弱そうなリュ・ピン君が、そんな質問をしてきたのである。

「『愛してる』だよ」

と教えると、ノートに「ア・イ・シ・テ・ル」と熱心にメモした。いったい、何でそんな言葉が知りたいのだろう。

「リュ・ピン君、次の時間、先生が来たら、先生にその言葉を言うんだぞ」

と私がけしかける。

休憩時間が終わり、「猟奇的な先生」が入ってきた。

私は何度も、リュ・ピン君にアイ・コンタクトで、「言えよ、言えよ」とけしかけた。リュ・ピン君も言いたげだったが、気の弱いリュ・ピン君は、とうとう先生にその言葉を言うことができなかった。

リュ・ピン君は、いつか先生にその言葉を言うことができるだろうか。それとも、これから先、誰か別の人にその言葉を言うのだろうか。

アジョッシ(おじさん)としては、そのあたりが気になるところである。

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クラスの流行語2

またまた語学堂の話。

「猟奇的な先生」は、実は結婚していて、4歳の子どもがいるという。それを聞いたクラスの班長、ロン・ワンポン君は、ひどくがっかりしていた様子だった。

私は私で、「先生は絶対に『こいつら、うちの子どもより言葉を覚えるのが遅いな』と心の中で思っているに違いない」と、被害妄想をふくらませる。

「猟奇的な先生」は、留学生のカバンから勝手にものを取り出したり、「아프다(痛い)の意味はわかりますか?こういう意味です」といって、留学生を思いっきりひっぱたいたりと、相変わらずの暴走ぶり。

次にベテランの先生の授業の時間。

リュ・ピン君が休憩時間が終わってもなかなか戻ってこない。本人はトイレが長引いたと言い訳した。それからというもの、対話練習では、みんなが口々に「リュ・ピン君はどこに行きますか」「화장실(トイレ)に行きます」とからかう。

たまりかねた先生が、「화장실という言葉を使わずに練習しなさい!」と注意する。

昨日に引き続き、小学校の時のような演習風景。

夕食は、ウさんを含む3人の大学院生と、「부대찌개(部隊チゲ)」を食べる。在韓米軍から広まったともいわれるこのチゲには、ソーセージやインスタントラーメンなどが入っているのが特色。B級グルメといったところか。なかなか旨かった。

韓国では、基本的に割り勘という考え方がない。3人には日ごろお世話になっており、これからもお世話になるはずなので、当然ながら夕食は私がおごった。25000ウォン也。

その後、ウさんとコーヒーを飲む。こちらはウさん持ち。これが韓国式。

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クラスの流行語

やはりコメントがアクセス拒否されてしまうので、菊花さんのコメントにここでお答えを。

いま、100円=1500ウォンくらいです。大学の近くだと、3500ウォン出せばおなかいっぱい食べられます。U-turnは、むかし活躍したお笑いコンビで、いまは解散して、土田晃之氏の方はいまテレビでも活躍していますね。写真は、駅の近くの雑貨屋さんに並んでいた靴下です。そうか、U-turnを知らない世代なのか…。

さて、語学堂である。

中国人留学生のマ・クン君は、クラスの中によくいる「お調子者」である。なぜか教室の中では、みんなから「돼지(トゥエジ)」と呼ばれている。「돼지」とは、「豚」の意味。

「私は、○○です」

という練習の際にも、みんなから「돼지、돼지」とからかわれるが、本人は、「私は돼지ではありません」と、韓国語で応酬する。

いま、私たちの教室では、「돼지」という言葉が大流行なのである。

小学校のクラスのような雰囲気だ。

あの「猟奇的な先生」も、

「はい、そこの돼지」

と、一緒になってからかっている。

でも、「猟奇的な先生」が、「はい、そこの豚」と冗談半分にいっている言葉は、なんとなくサディスティックな響きがあり、小学校のふざけた雰囲気とは、ちょっと一線を画する感じがする。

ま、他愛もない話だが。

授業終了後、大学院生のウさんに、家電量販店に連れて行ってもらう。そこでラジオが聴ける携帯用デジタルオーディオプレーヤーを買う。

夕食をとりながら、操作方法を試行錯誤する。ウさんは、私とほぼ同世代。二人とも、アナログ世代であることを痛感。

いつもより宿題が多いので、今日はこの辺で。

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やる気のない1日

2 休日。何もやる気が起きず。

部屋でだらだらとテレビを見ていると、例によって、ヒューマン・コメディ映画をやっている。タイトルを見ると、「이장 과 군수」とある。

早速インターネットで検索すると、どうやら「里長と郡守」というタイトルらしい。昨年公開された映画のようだ。

グーグルには、日本語に翻訳する機能がついているようなので、試しに、内容紹介の部分を翻訳してみた。

「山村2リレウルたわわジャプデオンオルチャング、モムチャンに班長出身の現職村長チュンサムと子ども時代チュンサムにはねられて痛い記憶のためによりサエンサエクを出す軍需ダエギュは、かつてはよくナガトデオン過去に対するプライドを掲げるチュンサムの主導周到タンジゲオルギと事あるごとに競合になるが…事あるごとに是非にやガーナタンジ!チョコパイで始まったこれらのメオスィメルロヲオほど腰が強いの縁は果たしてどうジェオンリドエルか!!!」

???

やはり地道に韓国語を勉強しよう…。

(写真は大学構内でよく見かけるカササギ。韓国語で까치(カチ)という)

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映画を見る

Photo

韓国へ来て1週間。めずらしく、何も予定がない日。

大邱は快晴。久しぶりに町に出ることにした。

朝から冷え込みがきつい。昨年12月に訪れた北京の寒さを思い出す。

お昼は「김밥 천국」(のり巻き天国)で、호박 죽(カボチャのお粥)を食べる。5000ウォンはちょっと高い。

駅前の映画館で、思いきって映画を見ることにした。12月4日封切りの、チャ・テヒョン主演の「スピードオーバー・スキャンダル(과속스캔들)」という映画だ。

チャ・テヒョンといえば、「猟奇的な彼女」で日本でも有名。私が初めて買った韓国映画のDVD。これを見て、妻は韓国映画にはまった。

チケットを買う。売り場の人に何か言われるが、何を言われているかわからない。韓国の映画館は、すべて指定席なので、おそらく、席はどの辺がいいか、と聞いているのだろう。わからないまま、チケットを受け取る。7000ウォン也。

やはりチャ・テヒョンはいいね。決して二枚目ではないが、芸達者だ。日本の役者で思い浮かぶ人はいないが、雰囲気としては、大泉洋さんが近いか。

チャ・テヒョンだけでなく、すべての出演者に魅力がある。だから映画にのめり込んでしまう。どうでもいいことだが、元U-turnの土田氏にそっくりの役者が出ていて、それも可笑しかった。

言葉はほとんどわからなかったが、お約束の笑いが多く、十分に可笑しく、十分にじーんときた。韓国映画お得意の手法が詰まった映画といえる。

不思議だったのは、映画が終わり、エンド・クレジットが流れ出した途端、客がみんな立ち上がり、外へ出て行ってしまったことだ。日本では、エンド・クレジットが終わるまで客席を立たないのが普通だと思うが、まだエンディングの曲が終わっていないのに、そそくさと帰ってしまうのである。従業員も入ってきて、掃除をはじめている。エンド・クレジットが終わるまで見ることができず、私も外へ出た。韓国の人はせっかちだと聞いていたが、こんなところにもあらわれているのかも知れない。

映画を見終わると、携帯にメールが入っている。ソウルの知り合いからだ。メールが届いたら返事をくれ、という内容。

そもそも携帯電話の操作方法がわからない上に、ハングルでメールを送るのは、至難の業である。喫茶店で、「メール受け取りました。ありがとうございました」という内容のメールを四苦八苦して送る。

その後、本屋をぶらぶらして、寄宿舎に戻る。バス乗り場がわからず、結局タクシーで。昨日と同じ食堂で、テンジャンチゲ。3500ウォン也。

日本で普通にできていたことが、こちらではなかなかできないものだ。

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雪の出迎え

Photo うーむ、やはりコメントを送信しようとするとアクセス拒否されてしまう。原因はよくわからない。

ということで、いただいたコメントは感謝しつつ読んでおります。

さて、12月5日(金)

朝起きて、朝食をとろうと外に出たら、雪が降っていた。しかし、ほどなくして止んだ。

語学堂5日目。

この日を乗り切れば、週末は休みだ。明日は、史学科の学生さんたちと朝からタプサ(踏査)に出かけることになっている。楽しみだ。

今日の授業は、「私は○○です」の表現を学ぶ授業。教科書にのっている会話を、隣の席の中国人留学生、ジョウ・レイ君と実践する。

「あなたの名前は何ですか?」「私の名前はスージーです」「アメリカ人ですか」「いいえ、アメリカ人ではありません。イギリス人です」

昨日に引き続き、非現実的な会話を日本人と中国人が韓国語で延々と行っている。

授業が終わると、史学科の助教のアンさんから電話が来た。明日、踏査する予定だった場所が大雪で、明日のタプサは27日に延期するということらしい。残念。

私は大雪に縁がある。

親からきいた話では、私の生まれた日に大雪が降ったそうだ。それで、人生の節目にはよく大雪が降る。

私が初めて教員として赴任した年、その地域は記録的な大雪となった。職場が移った年も、その職場の地域が記録的な大雪に見舞われた。

だから、タプサが大雪で延期になる、というのもうなずける。新天地ではいつも、大雪が私を迎えるのだ。

夜になって、かなり冷え込んできた。

夕食は寄宿舎の近所の食堂でスンドゥブチゲを食べる。3500ウォン也。学生相手の食堂のせいか、アジュンマがご飯のおかわりを持ってきてくれた。

さて、週末はどうしようか。茶筅髷さんに釘を刺されたように、今度の学会発表の原稿作りでもしようか。そして、久しぶりに町に出よう。

(写真は、研究室から見た大学の風景)

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終わらない宿題

コメント欄に、こぶぎさんのコメントへの返事を書こうと思ったら、なぜか自分のブログなのに送信が拒否されてしまっている。事情はよくわからないが、今後もこの状態が続くのかも知れない。この場を借りて、コメントに感謝します。コメントをいただくと、ずいぶん励まされます。

現在、時計は午前0時をまわっているが、まだ宿題は終わっていない。「これは○○ですか?」の百本ノック。テレビなんか、全然見られない。いつになったら、ドラマを落ち着いて見られるようになるのだろう。

大学の寄宿舎の近くに、100円ショップ「ダイソー」がある。授業が終わって、久しぶりに一人で食事をして、ぶらぶら歩きながら、「ダイソー」に入る。そこで、「ベビースターラーメン」と氷砂糖を買う。久々に食べる氷砂糖は美味しいね。あまり甘くないのがいい。勉強もはかどる気がする。「さくさくしっとりきなこ」がなくとも、氷砂糖があればやっていけそうだ。

さて、宿題に戻ろう。

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これは何ですか?

Photo 12月4日(木)

語学堂4日目。

昨日は、中学校の英語の勉強以来、久々に単語帳を作って、何度も単語を書く練習をした。その甲斐あって、今日の聞き取りテストでは満点を取れた。

昨日までは、発音の練習。今日から、いよいよ第1課。「これは○○ですか?」の表現を学ぶ。

中学校の英語で最初に習ったのも、たしか「これは○○ですか?」という文章だった。

「これは牛ですか?」「いいえ机です」

みたいな、日本語に直すと「牛と机を間違うはずはないだろう!」とつっこみたくなるような会話文が教科書に載っていた。

この授業でも同じである。

「これは靴ですか?」「いいえ、靴ではありません。運動靴です」

「これは鉛筆ですか?」「いいえ、鉛筆ではありません。ボールペンです」

この辺はまだいい。

「これは眼鏡ですか?」「いいえ、眼鏡ではありません。輪ゴムです」

「これは時計ですか?」「いいえ、時計ではありません。カバンです」

「これはコップですか?」「いいえ、コップではありません。黒板です」

「これはドアですか?」「いいえ、ドアではありません。のり巻きです」

ここらあたりになると、かなりシュールである。しかも、日本人と中国人が、それを韓国語で会話しているわけだから、なおさら異様な光景である。

しかし会話が始まったおかげで、中国人留学生と少しずつ話ができるようになった。私の隣に座っているリ・ヤン君は、中国の内モンゴル地区からやってきた学生である。私が困っている様子を見かねて、何かと助けようとしてくれる。ただ、言葉がほとんど通じず、結局はよくわからないのだが。

さて、「猟奇的な先生」である。

授業前、食堂でバッタリお会いしてしまい、「昨日2問間違えたわね。…ところで何で汗をかいているの?今日は暑いですか?」と聞かれ、「はい、暑いです」と答えた。しかし本当は、この「猟奇的な先生」にお会いすると、反射的に汗が噴き出してしまうのだ。

その先生が、今日、驚くべきことをした。

「これは○○ですか?」の授業で、「○○」にあたる品物のネタがなくなると、いきなり許可なく学生のカバンを開けだし、そこからいろいろなものを取り出した。

「これは何ですか?」「貯金通帳です」

「これは何ですか?」「携帯電話です」

留学生のカバンから次々とモノが勝手に取り出され、それが会話の練習となる。

「持ち物検査か!」とつっこみたくなるほどだ。

いろいろあったが、なんとか本日も無事終了。

しかし、第1課が始まって、急に宿題が増えた。油断は禁物だ。

(写真は、用意してもらった研究室)

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いよいよ1人での生活

12月3日(水)

午前中、妻が帰国。これで1人になってしまった。

午後、語学堂3日目。今日の聞き取り試験では、10問中2問を間違えてしまった。間違ったところをノートに10回書いて明日、先生に提出しなければならない。小学校の漢字練習以来だな、これは。

4時間のうち、前半2時間と後半2時間で別の先生が担当する。前半の先生は、前回も書いた「猟奇的な先生」。学生の声が小さかったり、返事がないと「はぁ?」みたいな顔をする。それが結構こわい。

後半の先生は、大邱訛りがやや入った先生。だから発音を大邱訛りに直される。リスニング担当なので、いつもラジカセを持ってくるのだが、機械音痴のようで、いつも操作に手間取っておられる。

やっぱり語学は若いうちにやっておくべきだったな、と後悔する。なかなか覚えられない。

しかし、いやなことばかりではない。いいこともあげておこう。

使わせてもらうことになった研究室は、いま私が勤めている大学の研究室の倍以上の広さがある。あの、大雨が降ると雨漏りがする、ゴミ屋敷のような研究室とは、雲泥の差である。それに、博物館も、うちの大学とは比べものにならないくらい大きい。大きな博物館の一室に自分の研究室があるなんて、なんとも夢のような話ではある。

大学自体も広い。食堂や売店はもちろん、銀行や郵便局もあり、さながら一つの町のようである。当面は寄宿舎に泊まっているので、生活には困らない。銀行の口座開設も、大学の中でできてしまった。

韓国は、日本以上に携帯電話がないと生活できない社会である。その携帯電話の契約も、大学の周辺ですぐにできてしまった(もっとも、一人でやったのではなく、日本語が達者な大学院生のウさんについてきてもらった。ウさんには、この数日間本当にお世話になった)。

大学の食堂では、日本円にして300円弱で食事ができる。ただし、日本の学食のような多様なメニューはない。そして必ずキムチがつく。

韓国の人たちは、基本的にみな親切だ。これから先も、その親切に甘えながら、生活していくのだろう。いつかその親切にも、答えなくてはいけない。

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打ちのめされた日

11月30日(日)

昨日学会で一緒だった先生方と朝食をとった後、ようやく解放される。妻と二人で大学周辺と大邱駅周辺を歩き、なんとか土地勘をつかもうとする。思えば、これがつかの間の休息だった…。

12月1日(月)

朝、大学に行き、今回の留学に尽力していただいた先生と、受入教員になっていただいた先生に挨拶に行く。さらに、研究室を用意していただいた大学博物館にも挨拶に行く。ひととおり挨拶が終わり、受入に尽力された先生のところにもどると、「今日の午後から語学堂(大学の語学学校のこと)での授業が始まるので、まず簡単なテストをして、それから、どのクラスに入るかを決める」とおっしゃる。

え?今日から授業?聞いてない聞いてない。

この大学では、3カ月ごとに語学の授業が開講されるが、12月1日はその初日なのであった。受入に尽力された先生は、「海外で研究するにはまず何より語学をマスターすべし」という主義の方で、結局、1年間みっちりと語学の勉強をすることになった。

あれよあれよという間に語学堂に連れていかれ、面接が行われる。緊張でガチガチになり、何も言葉が出てこない。結局、韓国語の初歩から学ぶクラスに入ることになった。

面接を担当した先生は、美人なのだが、とてもこわかった。面接が終わると、その先生は、「たぶん私のクラスになるでしょう」と言った。その途端、その場にいたもう一人の先生が小さい声で「地獄の門を叩いたわね」と言った(妻談)。

昼食後、早速授業が始まった。私のクラスは、前回落とした人ばかりが集まっているいわゆる「留年クラス」。全部で10人程度。私以外は、全員中国人留学生。しかも、大学生ばかりだ。日本人でおっさんは私だけ。きっと彼らには奇異に映ったであろう。

授業が始まり、その美人の先生が入った途端、中国人留学生たちが凍りついた。おそらく、厳しいことで有名な先生なのだろう。実際、とても厳しかった。「猟奇的な彼女」ならぬ、「猟奇的な先生」である。

授業は月曜日から金曜日まで、午後1時から5時までの4時間。毎回試験や宿題がある。成績が悪いと、当然進級できない。気楽な語学学校を想像していたのに、全然違っていた。もちろん、欠席はほとんど認められない。これが1年続くのか…。

へとへとになった後、受入の先生と、受入に尽力していただいた先生と、私と妻の4人で夕食をとる。お二人とも日本語が話せないので、当然韓国語で会話。これも疲れた。

12月2日(火)

午前中、研究室を提供していただいた大学博物館の館長先生の所に挨拶に行く。その場で、夕食に誘われた。

午後、2回目の授業。いきなり聞き取りテストがあったのに面食らったが、なんとか満点をとり、できなかったところを10回書くという「宿題」をせずにすんだ。

昨日、日本人留学生がほとんどいない地で、若い中国人留学生たちと混じって勉強するなんて、耐えられるだろうか、と思ったが、今日、中国人留学生の一人が、休憩時間に飴をくれた。それだけで、なんとなく嬉しい。

授業が終わり、館長先生と、博物館のスタッフとで夕食。これもまた、韓国語での会話。

渡航前、のんきにも「遊びに来てください」なんて、いろんな人に言っていたが、冗談じゃない。とてもそんな悠長なことが言ってられなくなってきた。このブログも、素っ気ない記録ばかりが続くことになるだろう。

さて、今日の復習をしなければ。

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