さまざまな気がかり
私は暗示にかかりやすい。
中学校1年の保健体育の授業のとき、先生が虫垂炎(盲腸)の話をした。
「虫垂炎(盲腸)は突然起きるから大変だよ。とくに受験の直前とかに虫垂炎になると、せっかくの勉強が無駄になってしまうよ」
その翌朝、私は虫垂炎になって、病院へ1週間入院した。
昨日の授業では、病院や薬局での会話を学ぶ。作文の宿題も、「○○が痛いです」がテーマ。
「みなさーん。外国の人がこちらで病気になると、大変ですよー。治療代も高いし」
と、ベテランの先生。
そして今朝起きると、激しい胃痛がした。
昨日食べたレトルトのパスタが原因か?それとも梨か?
よくわからんが、病院には行きたくない。
昨日習った会話というのも、所詮、初級の会話である。
医者「どうしましたか」
患者「おなかが痛いんです」
医者「いつからですか?」
患者「昨日からです」
医者「では薬を飲んで、家でゆっくり休みなさい」
この程度の会話なら、別に医者じゃなくてもできる。まったく実践的ではない。
私の知り合いの韓国人の研究者の方が、中国に留学したとき、おたふく風邪にかかってしまった。しかしその先生は、病院に行かず、「鼻うがい」で治したという。
「鼻うがい」とは、生理的食塩水を鼻から呑んで、口から出す、といううがいの方法である。日本では坂上二郎さんがたしかこの愛好者だった。
このお話を聞いてからというもの、その先生にお会いするたびに、
(この先生は、おたふく風邪を「鼻うがい」で治したんだ…)
という目でしか見られなくなってしまった。
私には「鼻うがい」をする勇気もなく、胃薬を飲んで、なんとか午後の授業に出ることにした。
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今日は、めずらしくパンジャンニムのロン・ウォンポン君が欠席である。ほか4人が欠席。7人としたこじんまりとした人数で、和やかに授業が進む。
1時間目が終わった休み時間、教室に女の子が入ってきた。
「先生、覚えてますか?」
日本語で私に話しかけてきたその子は、先週金曜日の野外学習の時、ウバンランドでお話をした中国人留学生だった。私が日本人だということを知って、中国で日本語を勉強したというその子は、自分の日本語能力を私で試そうと、必死で日本語で話しかけてきた。柳原可奈子みたいなテンションの子である。
「先生、困ったことがあったら何でも言ってください。勉強は大丈夫ですか。もしわからないところがあれば、明日、私たちと一緒に授業の復習をしましょう」
といって、連絡先を交換させられた。疑り深い私は、何か目的があるのだろうか、日本語の勉強のためなのだろうか、あるいは、よっぽど私が困っていると思っているのか、など、いろいろと頭をめぐるが、よくわからない。
さて、どうしたものか。
2時間目の「猟奇的な先生」の授業が終わりにさしかかったころ、お調子者のマ・クン君が、先生に質問した。
「ソンセンニム!韓国語には「あなた」といういい方はないのですか?」
たしかにこれまで、「you」にあたる言葉を習っていない。なかなかいい質問だ。
「猟奇的な先生」も、いい質問だ、と思ったようで、そこから韓国文化論を交えた解説が始まった。先生が非常にノって喋っているのがわかる。
私も、「へえ、なるほど」と思って聞き入ってしまった。
マ・クン君は、時々、こうしたいい質問をする。授業を進ませたくない、という気持ちからかも知れないが、そのセンスはすばらしい。
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マ・クン君は、時々、寂しげな表情をする。
多くのコメディアンがそうであるように、彼もまた、独特のペーソスを持っているのである。
2時間目の授業が終わった休憩時間。ベテランの先生は、少し早めに教室に入ってこられた。
マ・クン君はさっそく、「僕は2級に進めるでしょうか?」と先生に質問した。昨日と同じ質問である。
「今からでも遅くないから頑張りなさい。中国にいるご両親だって、心配しているでしょう。マ・クンはちゃんと勉強してるかな、コンピューターゲームばかりしていないかな、て」と先生。
マ・クン君は途端に寂しげな表情になる。「お父さんとお母さんは、僕が韓国語が上手になるまで中国に戻ってくるな、と言ってるんです」
それを聞いて、私が質問する。「じゃあ、今度のパンハク(2月8日からの約3週間の休暇)は、どうするの?」
「中国に帰らないで、ひとりで家にいます」
ほとんどの留学生が中国の故郷に帰るなか、マ・クン君は帰らないという。
さぞ寂しかろう。その期間、少しでも彼の相手をしてやろうかと思い、彼の携帯電話番号を聞こうとしたが、彼が携帯電話を持っていないことを思い出し、思いとどまる。
「お父さんはとてもこわいんです」
彼のお父さんは警察官である。いつも忙しく、ほとんど家にいない。だが、息子には厳しく、勉強ができないと鉄拳制裁を加えるという。
「ご両親はとても心配しているはずよ。だから宿題をちゃんと提出しなさい。コンピューターゲームも、1日1時間以上したらダメよ。そうすれば、2級に進めるわよ」
ベテランの先生は、母親のようにマ・クン君に語りかける。
いろいろな思いが交錯したのだろう。マ・クン君の目には、うっすらと涙が浮かんだ。
やがて休憩時間が終わり、他の留学生たちが教室のドアを開けて戻ってきた。
その瞬間、マ・クン君は、それまでのことを覆い隠すかのように、高笑いをして、中国語で何か冗談を言い始めた。
そして、いつものように授業が始まる。
相変わらず、リュ・ピン君は頓珍漢な答えをして、ベテランの先生をあきれさせている。その横で、マ・クン君が面白い突っ込みを入れる。ジャッキー・チェンにそっくりのトゥン・チネイ君は、喧嘩相手のパンジャンニムがいないせいか、今日は無駄話をせず、静かである(と思ってたら、今日の分の宿題を必死に内職していた)。
今日は、いつになく和やかである。
4時間目の授業では、「友達との待ち合わせの時の会話」を学ぶ。さまざまな設定で代わる代わる会話をする。
最後は、マ・クン君とジョウ・レイ君だった。ジョウ・レイ君が、マ・クン君に女の子を紹介するので、喫茶店で待ち合わせるという設定。ベテランの先生が、女の子の役で会話に参加する。喫茶店での会話が始まる。
マ・クン「こんにちは」
女の子「こんにちは。遅れてごめんなさい。お会いできて光栄です」
マ・クン「僕もです。どうぞ、こちらに座ってください」
まだ見ぬヨジャチングを頭に思い描きながら、マ・クン君の韓国語の会話はいつになく弾んでいる。その屈託のない顔を見ていて、なぜか私はちょっと涙が出てきた。
女の子「もう注文しましたか?」
マ・クン「まだです。待っていたんですよ。何を注文しますか?」
女の子「じゃあ、コーヒーを」
マ・クン「チョギヨー!コピ トゥ ジャン ジュセヨ!(すいませーん、コーヒー2つくださーい)」
注文するときの声は、底抜けに明るく、ほかの誰よりも大きかった。まるで、本当に喫茶店にいるかのようだった。
井上陽水は歌っている。「さまざまな気がかりが 途切れもなくついて来る」(「長い坂の絵のフレーム」)と。
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