いよいよ、冬学期の最終週となった。
もう後がない中国人留学生たちの様子は、というと…。
先週とまったく変わらず、授業に集中していない。
「上の空」の学生がほとんどである。
1時間目、機嫌よく教えておられた「猟奇的な先生」だったが、2時間目から、雲行きが怪しくなる。
教科書の練習問題を「猟奇的な先生」が当てていくのだが、留学生たちは、ボーッとしているため、どの問題をあてられたのかわからず、オロオロしている。そのため、なかなかスムーズに授業が進まない。
「猟奇的な先生」の口調も、次第に厳しくなっていく。
最近は、「猟奇的な先生」の怒りのメーターが上がっていく様子が、手に取るようにわかる。
あー、もうじき爆発するな、と思ったそのとき、先生の怒りが爆発した。
当てられた問題が探せなかったり、間違えたりした学生に対して、「両手をあげなさい」とおっしゃる。
一瞬、なんのことかわからなかったが、「いいから、両手をあげなさい」とくり返す。その口調は冷静だが、ものすごい迫力である。
次の人を当てる。次の人もオロオロしたあげく、間違ってしまった。すると、やはり「両手をあげなさい」とおっしゃる。
いわれた学生は、ずっと両手をあげたままでいなければならない。まるでFBI捜査官が、犯人を追い詰めたときのようである。
「もっと高くあげなさい!」
その光景は、見ていてかなり屈辱的である。
両手をあげる学生の数が次第に増えてくる。
そして次は私の番。
私もミスをしたら両手をあげなければいけないのだろうか、と思うと、極度に緊張して、心臓が高鳴った。まるで、背中に拳銃を突きつけられているような思いである。
ブルブルと声を震わせながら、なんとか解答する。もう少しで泣きそうだった。
練習問題がひととおり終わり、「猟奇的な先生」のお説教が始まる。
「みんなはね、教室で授業を受けていても、頭では全然別のことを考えているのよ。それでは、家にいるのと同じね。そんな態度で授業を受ける意味なんてあると思う?いったい何しに学校に来ているの?」
例によって静かになるが、どうもこの静寂は、先生の話を真剣にきいている、という感じには思えなかった。
「みんなは、頭が悪いから点数が悪いんじゃないの。授業態度が悪いから、いつまでたっても点数が上がらないのよ。前学期も、前々学期も、同じような授業態度だったでしょう。だから、いつまでたっても、1級から抜け出ることができないのよ。今回もまた、それをくり返す気?」
「そう、これは態度の問題なのよ。一生懸命勉強してもわかりませんでした、という人を責めません。なぜなら、わかるまでこちらが何度でも教えることができるから。でも、授業をまともに聞く気のない人に、いくら教えたって、上達するはずはないでしょう。子どもが食べ物を受けつけずに吐いているところに、むりやり食べ物を口に入れてもまた吐き出すのと同じことなのよ」
最後のたとえがいまひとつよくわからないが、このあとも「問題は授業態度である」という言葉が、何回もくり返し出てきた。
念のため補足しておくが、「猟奇的な先生」は、できなかったことに対して怒ったことは一度もない。また、留学生の人格を否定したり、間違いをあげつらって罵倒したりしたことも、当然のことながら一度もない。それは断言できる。
今回の「両手をあげろ」事件も、学生たちのほとんどが「上の空」で授業を聞いていたことを責めたものである。
どんなに発音が悪くても、たどたどしくとも、必ず、「チャレッソヨ(よくできました)」とおっしゃる。聞いているこっちからすれば、「いまの発音がチャレッソヨなのかよ」と思うこともしばしばなのだが、努力して言い終えた人に対しては、「発音が悪いわね」とか、「もっとスムーズに話せないの?」などといった言葉は絶対に言わないし、聞いたこともない。それは、後半のベテランの先生の場合でも同様である。語学の先生の鉄則なのだろう。
また、学生の授業態度が悪いのは、先生の教え方が悪いからでは決してない。実にわかりやすく、懇切に教えてくださっている。
それだけ、先生はプロに徹しているのである。
にもかかわらず、彼らは、それをわかろうとはしない。このお説教もまた、まったく心に響いていないことだろう。
最後に先生がおっしゃる。
「私がこの語学堂でいちばん恐い先生だ、て言われているのはみんなわかっているでしょう。だからこのクラスを担当しているのよ。他の先生だったら、とてもやっていけないわ」
それはそうだろう、と思う。「猟奇的な先生」くらい肝が据わっている先生か、ベテランの先生くらい寛容な精神にあふれた先生でないと、このクラスを担当できないだろう。
現にこの私が、もう耐えられない状況に来ているのである。
お話が終わると、「猟奇的な先生」は、颯爽と教室を出ていかれた。その去り際が実にかっこよく、「オットコ前だなあ」と、ヘンに感心してしまった。
先生が出ていかれ、ドアがバタンと閉まった途端、緊張から解放された彼らは、ホッとしたかのように、中国語で話しはじめた。
やっぱりわかっていないな。こいつらは。というか、学生たちは、先生のお説教をちゃんと聞き取れてるのか?リュ・ピン君あたりは、先生が何を話していたのか、まったくわからなかったのではないだろうか。
後半のベテランの先生の時間。やはり学級崩壊がくり返される。
リュ・ピン君は、相変わらず授業なんて聞かずに、隣のパオ・ハイチェン君にちょっかいを出している。トゥン・チネイ君とパンジャンニム(班長殿)ことロン・ウォンポン君は、相変わらず中国語で喋り続けている。トゥ・シギ君とリ・ミン君もその会話に参加している。マ・クン君は、前半の「猟奇的な先生」の授業で極度に緊張した反動か、机に突っ伏して熟睡してしまった。
やはり「猟奇的な先生」のお説教は、まったく彼らの心に響いていなかったのである。
とくにリュ・ピン君の授業態度はひどい。パオ・ハイチェン君との会話の練習のときである。テキストの会話を、2人で読みあわせる。
パオ「来週からパンハク(休暇)だけど、どこか旅行に…」
リュ「チョアヨ(いいね)」
パオ「山がいいか、海が…」
リュ「山より海の方がいいね」
パオ「じゃあ海に行こう。ところで何を準…」
リュ「着る服と飲み水を準備しなさい」
と言ったように、パオ・ハイチェン君が全部言い終わらないうちに、「食いぎみ」に会話を進めていくのである。要は、相手の言葉をまったく聞かずに、自分のセリフだけを言ってよしとしているのだ。
さすがに先生もあきれる。
「そんな会話はないでしょう。会話練習なんだから、相手の言ったことを全部聞いてから答えなさい!」
だが、リュ・ピン君は、そんなことおかまいなしなのである。
今日は、ずっとイヤな気分が続いたが、最後にマ・クン君との会話練習で、少し救われた。
4時間目。目を覚ましたマ・クン君と、「パンハク(休暇)の時の旅行についての計画を立てる」という会話練習をする。
例文は次の通り。
「今度の休暇、一緒に旅行に行くかい?」
「いいね。どこへ行こうか」
「いまは寒いから、寒くないところがいいね。チェジュド(済州島)なんかどう?」
「いいね。チェジュドに行こう」
「船で行こうか、飛行機で行こうか」
「時間があるから船にしよう。飛行機は速いけど、値段が高いからね」
「チェジュドで何をしようか?」
「ハンラ山が有名だからハンラ山に登ろう」
「いいね。じゃあ何を準備したらいいだろう」
「準備するものはそんなにいらないよ。あたたかい服を着て、運動靴を履いておいでよ」
「うん、わかった」
少し長いが、これをアレンジして、会話を2人で作らなければならない。
私「今度の休暇、一緒に旅行に行くかい?」
マ「いいね。どこへ行こうか」
私「いまは寒いから、寒くないところがいいね。(中国の)海南島なんかどう?」
マ「いいね。海南島に行こう」
私「船で行こうか、飛行機で行こうか」
マ「お金があるから飛行機で行こう。船は安いけど、時間がかかるからね」
私「海南島で何をしようか?」
マ「天崖海角が有名だから天崖海角で海水浴をしよう」
私「いいね。じゃあ何を準備したらいいだろう」
マ「準備するものはそんなにいらないよ。海水パンツを履いて、水泳眼鏡をかけておいでよ」
私「え…それで飛行機に乗るの?」
最後のやりとりに反応して、先生が大爆笑した。
「おかしいでしょう。海水パンツと水泳眼鏡だけを身につけて飛行機に乗るなんて!そういうときは、『海水パンツと水泳眼鏡を持っておいでよ』と言えばいいのよ」
その言葉で、先生と、マ・クン君と、私の頭の中には、海水パンツと水泳眼鏡だけを身につけて、飛行機に乗っている絵が浮かび、再び大爆笑する。
韓国人、中国人、日本人が、共通の絵を思い浮かべて大爆笑する…。
東アジアに共通する笑いのツボは、たしかに存在するのだ。
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