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2009年2月

一時帰国前夜

2月27日(金)

明日、「大人の事情」により、日本に一時帰国する。3月8日までの約1週間である。

韓国は3月1日から新学期が始まる。だからこの時期に韓国を離れるのは、いろいろと不都合なことが多いのだが、「大人の事情」なのだから仕方がない。

この3カ月の間、さまざまな経験をした。この程度の経験が、どれほどのものなのか、自分にはよくわからない。他の人は、もっといろいろな経験をしているのかも知れない。

「通過儀礼ですね」

昨日の夕食の際、ユン先生はおっしゃった。

そう、これまで私のまわりで起こったさまざまなことは、韓国における私にとっての「通過儀礼」であった。

夕食後、ユン先生とお別れしたあと、大学院生のウさんとひとしきり話をする。

先週の「ワークショップ」の夜の「悔しい思い」は、私にも、そしてウさんにも、何か大きな課題を突きつけた。あの夜から、何かが変わったのである。

これから、1年かけて、その答えを探していかなければならない。

「これからが本当の留学の始まりですよ」

ウさんは、私にそうおっしゃった。

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奨学金

2月26日(木)

そうか。今日は元同僚の命日か。友人の指摘ではじめて気づいた。あれから3年たつのか。

久しぶりに1日中家でゆっくりしたいと思ったが、そうはいかない。午後、重い腰を上げて大学に行き、来学期の語学の授業の班を確認する。

1週間ほど前、ベテランの先生からメールが来て、私が2級に上がれた、ということと、うちの班からは5人が2級に上がれたということを知った。

12人のうち3人が大学への入学が許可されたから除くとして、9人のうち4人が、また落第したことになる。

落第生の数を多いとみるか、少ないとみるか。

うちの班のあの惨状を思えば、思ったより少ないというべきだろう。

語学堂の1階のフロアーに、誰が何級の何班に所属するかが貼り出されていた。まるで合格発表をみるような心境だ。

私の今度の班は2級4班であった。

さて、わが1級1班では、誰が2級に上がれて、誰が落第したのだろう。

本人たちの名誉のために、ここには書かない。だが、私の予想に反して、意外な人物が2級に上がり、意外な人物が上がれていなかった。

どうしてそういうことになるのか、理解に苦しむ。

まあそれはよい。それよりも、私は3月第1週に日本に帰ってしまうので、新学期の最初の1週間は語学の授業に出られないことを、先生に伝えなければならない。

担任だった「猟奇的な先生」に電話をすればよいのかも知れないが、どうしても恐いので、1階の事務室におられるパク先生のところを訪ねる。パク先生は、語学堂の韓国語の授業全般をとりしきっておられる先生である。

相談すると、新しい担任の先生に話しておいていただけるという。そして先生は、きつい大邱訛りで、おっしゃった。

「キョスニム、奨学金がもらえるわよ。ご覧になった?」

奨学金とは、その学期で点数が優秀だった学生に贈られるものである。1等若干名に30万ウォン(約2万円)、2等若干名に20万ウォン(約1万3000円)、3等若干名に10万ウォン(約6600円)である。

私は見てません、と答えると、先ほど見た掲示の横に、「奨学金受賞生一覧」の名前があることを教えていただく。

見ると、私は20万ウォンもらえることになっていた。

1級は、1等の30万ウォンをもらえたのが6人。2等の20万ウォンをもらえたのが30人くらいいた。私の名前は、2等の筆頭にあがっていたから、都合のいい見方をすれば、2等でも限りなく1等に近かったのではないか、と勝手に想像する。本当はひそかに1等をねらっていたのだが、まあ、そんなに甘いものではなかった。

「これで日本に帰っておいしいものでも食べなさいよ」

パク先生はそうおっしゃるが、ウォン安のいま、これを円に換えたところで、さほどうれしい金額ではない。それに、実質的には、授業料のごく一部が返還されたにすぎないので、やはり嬉しさもいま一つ、といったところである。

まあそんなわがままを言ってる場合ではない。ありがたくいただくことにする。

その後、大学院生のウさんと一緒に、留学の際にお世話になったユン先生のところに行き、夕食をご一緒する。奨学金がもらえたことも報告した。

さて、来学期はどうなることだろう。さっそく最初の1週間を欠席。そのほか、タプサやら学会発表やらで、いまわかっているだけでも最低9日は休まないといけないことになった。10日以上休むと落第となるこの語学堂で、来学期を無事乗りきることはできるだろうか。

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卒業旅行・番外編

またいつもの自画自賛癖だが、今回の2日間のソウルツアーは、海外旅行初心者の学生たちにとって、充実したものだったろうと思う。

2日のうち1日をソウル市内、1日をソウル郊外にしたのは、目先が変わってよかった。実は私も今回初めて水原(スウォン)に行ったのだが、電車と路線バスを乗り継いでたどり着くのは全くの初心者にとってはそれなりに冒険だし、景色のよい華城を歩くのも楽しい。

なにより、私自身が、韓国で学生を引率することに関して自信がついたことが大きい。今後は文化財調査実習を、韓国で行うことも十分可能だとわかったのである。

私と韓国とのつながりは、前の職場の同僚が企画したゼミ旅行について行ったことがきっかけで、一気に深まった。その同僚とは、3回ほど、学生を連れて韓国をまわった。そこで、さまざまな経験をした。この日記に登場した友人も、彼の影響を受けたひとりである。この話を書き出すととてつもなく長くなりそうなので、今は書かない。

自分もいつか、彼のように、学生を引率して韓国を旅したい、と思っていた。むろん、彼のような「ディープ」な計画は立てられないにしても、せめて少しでも、彼の精神を受け継ぐような形の旅がしたい、と。

彼のような奔放な計画は立てられず、結局はオーソドックスな旅に落ち着くのだが、でも単なる名所旧跡めぐりではなく、何かを感じ取ってもらうような旅にしたいと思う。彼も、学生たちにそれを望んでいたのではないだろうか。

1日目の夜、東大門市場の近くで入った大衆居酒屋。そこにはありのままの姿があった。学生はそれを見て、「韓国の酔っぱらいも日本の酔っぱらいも同じですね」とつぶやいた。

そう、人間は同じなのだ。同じように笑い、同じように泣く。いいやつもいればイヤなやつもいる。それは日本だって韓国だって同じなのだ。

2日目の朝、水原(スウォン)に行く途中、クムチョンという駅で電車を待っていると、線路の電線の上にカササギの巣を見つけた。

めずらしいので写真を撮っていると、横に立っていたアジュモニ(おばさん)が、「あれはカササギの巣だね。もうすぐカササギが飛んでくるから、どうせならその時に写真を撮りなさい」と話しかけてきた。

すると、カササギが巣の材料である木の枝をくわえて飛んできた。

「今よ、はやくはやく!」

アジュモニの言葉にしたがって、写真を撮ろうとするが、なかなかうまくいかない。

「あ、裏にまわった!はやくはやく!」

アジュモニの言葉に操られるように、ホームの左右を駆けまわる私。

「それ、いまだ!」

2 だが肝心なときにメモリースティックの残量がなくなっていた。慌ててメモリースティックを交換するうちに、カササギは飛び立っていく。その姿を見て、アジュモニはあきれた様子だった。

一部始終を見ていた学生は何を思っただろう。もちろん私のぶざまな姿が情けないと思っただろうが、それ以上に、韓国のアジュモニが、お節介な日本のおばちゃんとダブって見えたことではないだろうか。

もちろんそんなことは些細なことに過ぎず、早晩、旅の思い出から忘れられてしまうだろう。だが、どうでもいいところにこそ、大事なものがあるような気がする。

うまく言葉で説明できないが、その同僚が学生たちに感じてもらいたかったのは、そういうことだったのではないか。

まったく見当外れだよ、と聞こえてきそうだが。

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卒業旅行2日目・マッコリと史跡の日々

2月24日(火)

水原(スウォン)は、不思議な魅力の町である。

水原は、ソウルから鉄道で1時間ほどの郊外の町である。大都会の真下を息詰まるように走っていた地下鉄から、地上を走る旧国鉄に乗り換えると、そこはもう郊外の風景であった。少し雨がぱらついていたが、郊外に向かうというのは、やはり気持ちがよい。

水原は、世界遺産の華城(ファソン)があることで有名である。李氏朝鮮王朝22代国王の正祖は、父の墓を水原に移したことを機に、この水原に遷都することを計画する。莫大な費用と労力をつぎ込み、1796年に華城の城郭が完成するも、遷都の直前に正祖が病死したため、遷都計画そのものが中止になってしまった。そして韓国随一の城郭だけが残された。いわば「幻の都」である。

吉田満の名著『戦艦大和ノ最期』の中に、当時の乗組員たちの間で、「世界三大無用の長物」は「エジプトのピラミッド」「中国の万里の長城」そして「日本の戦艦大和」である、という話がささやかれていた、という一節があったが、華城もまた、「無用の長物」の代表といえるかもしれない。こうした「無用の長物」が、今となっては世界遺産なのだから、人間の営みとは、まことに滑稽である。

水原駅から路線バスに乗る。学生たちにとっては初体験である。韓国のバスに乗ることは、一種の格闘技である、ということを、学生たちも身にしみて感じたことであろう。

Photo_2 10分ほどで、華城の南門である八達門に到着する。この門が、全長5キロにわたる城郭めぐりの出発点でもある。

だが私たちは、まずそこから歩いて5分ほどの「華城行宮」に向かう。行宮とは、国王が行幸に来たときに泊まるための施設である。

ここにいの一番に来たのは、この施設が、韓国ドラマ「チャングムの誓い」のロケ地として使われたためである。思い入れのあるドラマのロケ地をめぐるのは、楽しい。

建物をまわりながらドラマに思いをはせていると、いつしか時間がお昼近くになっていた。ここで、出発点の八達門に戻ることをあきらめ、城郭の北門にあたる長安門まで、街中を縦断してショートカットすることにする。大幅なショートカットである。

長安門のすぐ東側の、華虹門の付近は、華城で最も景観のきれいなところといわれている。そしてそのすぐ近くに、「ヨンボカルビ」という、水原カルビの有名な店がある。

水原はまた、カルビがおいしいことでも有名な町である。華城をまわるのなら、ぜひ「ヨンボカルビ」に立ち寄りなさい、と友人が教えてくれた。

お昼になったので、見学もそこそこに、「ヨンボカルビ」に入る。いま韓国では、日本の漫画が原作の「花より男子」がドラマ化され、大人気となっているが、いまの私たちにとっては、「花より団子」ならぬ、「華城よりカルビ」である。

Photo_3 食いしん坊の友人が、食べきれないほどの量だったと教えてくれたとおり、食べきれないほどのカルビに加え、冷麺を注文し、何とかみんなで平らげる。そしてやや元気が回復し、城郭を歩くことにした。

私は、昨日までの胃腸の調子悪さはなんとか回復したものの、今度は腰が限界にきはじめていた。このところの旅つづきのせいかもしれない。

Photo_4 終点の八達門までの約2キロの道を、小1時間かけて歩きとおす。少し雨がぱらついたが、歩くにはすがすがしい気候だった。

水原が不思議な魅力の町だと言ったのは、駅からバスに乗って八達門前のバス停で降りると、にぎやかな街中に、忽然と八達門がそびえ立つ姿が現れるからである。

八達門の周りは、市場になっていて、道路には商品が所狭しと並べられている。そして多くの人たちが道路にひしめきあい、活気に溢れているのである。

過去の遺産と現在の喧騒が同居している風景はめずらしいことではないが、華城の場合は、なんとなく微笑ましいから不思議である。

さて、くたくたになった私たちは、鉄道でソウルに戻り、カンナムの蚕室(チャムシル)という繁華街に向かう。有名なロッテワールドがあるところである。

学生たちは、ここのロッテマートでお土産を調達する。昨日飲んだマッコリを日本にお土産に持って帰りたかったようだったが、マッコリを日本に持って帰るのはいろいろと難しく、結局断念せざるを得なかった。

そして、卒業旅行最後の夕食。

入った店のメニューをみると、「マッコリ」があったので、すかさず注文。日本に持って帰れないのなら、せめてもう一度味わいたい、という気持ちからである。

最初は1本だけのつもりが、もう1本追加する。やはり美味しい。しかし史跡歩きで極度に疲れたためか、酔いがまわるのも早い。

学生たちの千鳥足が不安だったので、最後はホテルまで送る。やはり過保護か?

明日(25日)の早朝、学生たちは日本に帰る。

マッコリとの別れは、名残惜しかった。

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卒業旅行1日目

海外旅行で痛い目に遭うのもよい経験だ、という人がいる。

むろん私も、何度となく痛い目に遭ってきたが、痛い目に遭わないに越したことはない。

なにより、そうした経験がトラウマになって、その後の可能性を摘んでしまうことのほうが問題ではないか。

だから、最初の海外旅行は、できるだけ痛い目に遭わないようにしたい、と思う。

今回の学生4人の卒業旅行も、できるだけそういう思いをさせないことを目標とした。

過保護である、と批判するならばすればよい。それが私の性分なのだから仕方がない。

Photo 2月23日(月)午前、景福宮と国立民俗博物館の見学、昼食は「土俗村」でサムゲタン、午後はインサドンを歩き、タプコル公園、宗廟、昌慶宮を見学する。

夕食は明洞でサムギョプサル。夕食後は東大門市場で買い物。

ごくごくオーソドックスなソウル観光である。

しかし、「お約束」だけでは、旅が面白くないこともまた、事実である。

夕食後、マッコリ(日本のどぶろくのような醸造酒)を飲みたい、との要望に、東大門市場で学生が買い物をしている間、その周辺を歩き回って、店を探すことにした。

東大門市場周辺は、若者の町であり、マッコリが飲めるような店はなかなか見つからない。

だが、執念深く探すと、1軒だけみつかった。地元のサラリーマンが、仕事の愚痴をこぼしながら酒を飲むような、大衆居酒屋である。店の作りは大衆食堂のような乱雑さだが、ひっきりなしに客が入ってくるので、人気のある店なのだろう。

買い物が終わってから、その店にみんなを連れて行く。

アジュンマ(店のおばちゃん)に、マッコリと、つまみとしてチヂミ(韓国風お好み焼き)を2つ注文する。するとアジュンマが、750ml(4合)のマッコリを3本も持ってきた。

おいおいこんなに飲めるか?という心配は杞憂だった。あまりの飲みやすさ、美味しさに、3本のマッコリは次々と空いていく。つまみのチヂミも美味しい。

これだけ飲んで食べて、25000ウォン(約2500円)也。つまり1人500円弱。

周りはサラリーマンらしき人々の酔っぱらいばかり。酔っぱらうサラリーマンのしぐさやしゃべり方は、東京の新橋で飲んでいるオヤジと変わらない。

日本人観光客はまず訪れないであろう大衆居酒屋ならではの発見である。

そういえば、何度か一緒に韓国を旅した元同僚も、こういう店が好きだったよなぁと思い出す。

後で調べてみると、私たちが飲んだマッコリ(生マッコリ「長寿」)は、お店で買うと750mlのペットボトル1本で1000ウォン(100円)程度なのね。

なぁんだ。あの居酒屋、けっこう儲けているんじゃないか。

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ソウルひとり歩き

2月22日(日)

早朝、妻を空港行きのバスターミナルで見送ったあと、KTXに乗ってソウルに向かう。明日の朝から、卒業旅行で学生を案内するためである。

早めに出発したのは、今までソウルを気ままに歩くことがなかったからである。留学した昨年12月以降、学会だの調査だので何度もソウルに来ているが、まったくといっていいほど自由な時間がなかった。

といっても、とくにどこに行きたい、というわけでもない。いつもの悪い癖で、とりあえず本屋に行く。

韓国の地下鉄は複雑で、難しい。今のところ8号線まであって、それらが入り組んで市内をめぐっている。ソウルに住んでいる人でも、地下鉄にすんなり乗るのは難しいようだ。駅の構内や地下鉄の中で路線図とにらめっこしている人を見るのはめずらしくない。

アジュモニ(おばさん)が私に、「光化門駅は何号線ですか?」と聞いてきた。

私もたまたま光化門駅まで行こうとしていたところだったので、「5号線ですよ」と答えた。

かく言う私も、乗り間違えてしまう。4号線に乗るべきところを、間違って1号線に乗ってしまったり。やっと4号線に乗ったと思ったら、反対方面に行ってしまったり。

さらに複雑なのは、今日はじめて気づいたことなのだが、韓国の地下鉄は基本的に右側通行であるにもかかわらず、1号線だけは、左側通行なのである。

1号線が左側通行であることに気づいたとき、「あれ?韓国なのになんで左側通行なのだろう。俺もとうとう幻覚を見るようになったか」と、本気で思ってしまった。それほど、右側通行に慣れてしまっていたのである。

自動車が右側通行なので、地下鉄も右側通行なのはわかるが、なぜ1号線だけは左側通行なのだろう。調べてみると、1号線は、旧国鉄の京釜線と乗り入れているため、それにあわせて左側通行なのだという。旧国鉄の鉄道はすべて左側通行だが、これは日本の植民地時代に、日本の左側通行にならって作られたためだといわれている。なるほど、こういうところにも植民地時代の歴史が暗い影を落としているのか。そういえば、KTXも左側通行である。

間違えることも、ひとり歩きならではの楽しさである。明日は乗り間違えないように頑張ろう。

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安東・書院の美学

2月21日(土)

昨日夜、妻の食中毒がだいぶ回復したことから、明日は安東(アンドン)あたりに行きたいねと話していたところ、おりしも大学院生のウさんから電話があり、車で連れて行ってくれることになった。

朝9時、ウさんの運転で、大邱を出発。1時間半かかって、安東に到着した。

安東は大邱の北方、慶尚北道にある町である。朝鮮王朝時代の支配階級である両班(ヤンバン)の文化が色濃く残っていることで知られている。

Photo ガイドブックを見て、行きたかったところが、安東民俗博物館と、ハフェマウル(河回村)であった。民俗博物館は、韓国の民俗儀礼がわかりやすく展示されていて、面白い。

Photo_2 ハフェマウル(マウルは村の意)は、朝鮮王朝時代の両班家屋が、時を忘れたかのように残っていて、今でもその村には300人近くの人が実際に居住している、といううたい文句の村である。韓国でよく見られる、「民俗村」のようなものといってよい。

行ってみると、交通が不便なところにあるにもかかわらず、あまりに観光客が多いのでビックリした。予想以上に観光地化が進んでおり、どちらかといえば「ガッカリ」した。

Photo_3 最後にウさんに勧められて行ったのが、ハフェマウルから車で10分くらいのところの屏山書院である。ガイドブックにもほとんど載っていない。

韓国における書院は、朝鮮王朝時代の儒学者の活動の拠点であり、今でいう学校の役割を果たしていた。韓国の伝統的建造物としても知られている。

これまで、いくつかの書院を見てきたが、この屏山書院はなかでもとりわけすばらしい。

何がすばらしいといって、建物配置の美しさ、そして、屏山書院からみえる景色のすばらしさである。

まず、門を入ると、楼があり、その楼をくぐると、書院の本堂がある。

Photo_4 それ自体は一般的な書院の配置だが、すばらしいのは、門に入った瞬間、楼にかけられた額とその奥にみえる本堂の額(手前と奥の2つの額)が、すべて同時に見られるように作られていることである。

何でもないことのようにも思えるが、よく観察すると、門に入ったときにすべての額が同時に見られるように、一つ一つの額の取りつけ角度を調整しているのである。

そして今度は本堂に座り、前面の楼に目をやると、さらに驚いた。

Photo_5 楼の屋根と床の間の吹き抜け部分から、ちょうど目の前を流れている洛東江という川が見える。

つまり、本堂から見たときに、洛東江の流れが楼の吹き抜けのすき間から見えるように、設計がなされているのである。

まるで、楼の屋根、床、そして柱が、額縁のような役割を果たしている。

なんと計算し尽くされた建築技術だろう。風景と建物が一体となって、一つの世界を形成しているではないか。

いままで書院を見ても、いまひとつピンと来なかったが、書院を見るおもしろさがわかったような気がした。

それまでどちらかといえば退屈に感じていたものが、見方をひとつ変えるだけで、こんなにも面白く映るものか。

うーむ。それにしてもこのすばらしさを言葉で説明するのが難しい。撮った写真もいまひとつで、なかなか伝わりにくいな。建築史家や美術史家には、なれそうにない。

今週は、南の釜山から北の江陵まで、韓国を縦断した1週間だった。明日は妻が帰国。そして私は、ソウルへ。学生の卒業旅行に合流する。

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ワークショップ

2月19日(木)

私が通っている大学の大学院生のみなさんと、1泊2日のワークショップ(合宿)に出かける。場所は、江原道のカンヌン(江陵)という町である。

朝9時に大学に集合。大学院生だけかと思ったら、教授先生や、OBの方(研究者)もいらっしゃっていた。総勢22名が、5台の車に分乗して出発する。

それにしても4時間の行程は長い。私の乗った車は、一見恐そうな50歳くらいの先生の運転である(のちに、先生ではなく、大学院生であることが判明する)。

その恐そうな方が、私に気を遣ったのか、話しかけてきた。

「『ブルーライト・ヨコハマ』、知ってますか?」

ええ、と答えると、

「歌っていた女性は何という名前でしたか?」

突然の質問にとまどうが、なんとか思い出し、

「いしだあゆみです」

と答えた。どうもその方は、その歌がひどくお気に入りらしい。

「そうそう、そうでしたね。その方は、もう結構なお年でしょう」

「ええ、今はたぶん、60歳くらいだと思います」

初対面の方とお話しすると、実はこういう質問が結構多い。たとえば、日本のマンガやドラマや映画の話なども、そうである。そのたびに、私もその話題に必死になってついていかなければならない。まさに、「いしだあゆみ」から「崖の上のポニョ」まで、である。

世代的にまったく異なるが、「ブルーライト・ヨコハマ」を知っていてよかった。自分が「芸能通」であったことが、これほど役立ったことはない。

Photo 午後2時過ぎに、江陵の「船橋荘」(ソンギョジャン)というところに到着。名前だけ聞くと、船橋にある2階建ての木造アパートみたいな名前だが、さにあらず。朝鮮時代後期の、上流両班(ヤンバン)の広大な屋敷で、韓国の代表的な伝統的建造物として有名である。

今日はここでセミナーを行い、宿泊をするのである。

午後3時からセミナーが開始される。今回の企画者である大学院生のウさんから、さまざまな分野の教授や大学院生が集まるので、共通の議論ができるような話を、と依頼されていた。荷が重いと思いつつ、私なりに一生懸命準備した。

当日、ウさんが韓国語に翻訳してくれた文章を渡されたので、最初はこれを読みながら発表したが、あまりにたどたどしい読み方になってしまったので、「はじめに」のところまで読んで挫折して、本論以降は日本語で話すことにした。なんとも情けない話だが、やはり事前に読む練習をしておかないとダメだと実感する。

なんとか無事報告が終わり、討論に入る。討論者との応答のあと、教授先生を中心に、次々といろいろな質問が出された。

集中砲火、といった感じだが、韓国の学会ではめずらしいことではない。

討論も含め、2時間以上にわたってようやく終了。続いて、第2部の、碩士論文(日本でいう修士論文)の準備報告が始まる。

準備発表をする大学院生の方は、私からみて、きわめて優秀な方である。学部を卒業して碩士課程に進んだ後、留学の経験もあり、まだ若いながらも、堂々とした発言が頼もしい。私の発表についても、鋭い質問をしてくれた。

内容については、マニアックすぎて全然わからなかったが、よく調べていて、良い内容なのではないか、と何となく思っていた。

ところが、その後、思わぬ展開を迎える。

この発表が、教授先生方や、OBの方たちの集中砲火を浴びるのである。曰く、「内容が難しすぎてわからない」「何を明らかにしたいのかわからない」「『はじめに』の書き方が全然なっていない」「ここは専門の学会ではない。他の専門の人間もいるのだから、他の専門にもわかるような話をしなさい」等々。ほめる言葉が、一つも聞こえてこない。

非常に流暢に話していた彼の顔も、次第に曇りはじめてきた。

教授や先輩としての親心、というところなのだろうか。教育者の立場としてはわかる。しかし、それにしても、あまりにも理不尽な批判である。そもそも、碩士論文の準備発表なのだから、ある程度専門的になるのはやむを得ない。それを、自分が理解できないのを棚に上げて、自分が理解できる程度までわかりやすくしろ、というのは、ちょっと虫がいい話ではないのか?

「わかりやすい」ことも大切だが、だからといって細かな論証をすっ飛ばしてよい、というわけでもない。このへんの兼ね合いが難しいのだが、今回に関していえば、彼に同情せざるを得なかった。

彼に激励の言葉をかけることもできず、セミナーは終了。

気がつくと夜7時半をまわっている。急いで夕食会場へ移動する。

Photo_2 江陵はまた、海に近い町でもある。夕食には、豪華な刺身が出た。釜山に続き、刺身づいていて、何ともありがたい話である。

夕食後、再び船橋荘に戻り、2次会が始まる。焼酎をたらふく飲み、大学院生たちと語り合う。といっても、もっぱら私が聞き役に回ってしまうのだが。

そのうち、誰かが箸でリズムをとりながら、歌を歌い始めた。そして予想通り私にも「何か日本の歌を歌ってくれ」と、リクエストがきた。

仕方がないので、「ブルーライト・ヨコハマ」を、むちゃくちゃな歌詞で歌った。

ここまでは楽しかった。

やがて1人減り、2人減り、となり、最後に残ったのは、私を含めた3人。大学院生のウさんと、私より年上の、OBの方(研究者)とおぼしき人である。

今までまったくお話をしていなかったその方が、突然私に質問をはじめた。

「独島(竹島)は、韓国の領土であることが歴史的に明白なのに、なぜ日本人はそれを認めようとしないのか。それについて、あなたは研究者としてどう考えるのか?」

突然の質問にとまどう、と同時に、先ほどのセミナーで私がお話しした内容が、まったく伝わっていなかったことに、愕然とした。

私も必死で返答するが、相手はまったく理解しようとはしない。

私は、もはや言葉を失ってしまった。

気がつくと午前3時過ぎ。ウさんがいちおうその場を収めてくれて、その方と別れ、寝る部屋へと移動した。

不覚にも悔し涙を流してしまった私に、

「留学生なら誰でもぶつかる壁です」

と、ウさんが慰めてくれた。

私が目標としている先輩方も、韓国留学中に、同じ思いを経験されたのだろうか。

しかしそんなことを思い悩む間もなく、就寝。

1月20日(金)

少し長く書きすぎた。2日目はあっさりと。

あまりの寒さに、朝7時過ぎに起床。久しぶりに二日酔いで頭が痛い。

午前9時、江陵で有名な豆腐料理屋で朝食を食べた後、江陵の史跡を、地元の先生の案内で見学する。この先生がかなりのお話好きのため、極寒のなか、長時間にわたって講義を受けることになった。その内容についても言いたいことがあるが、長くなるので書かない。

途中、車の故障などもあり、午後1時30分ごろ、江陵を出発。午後3時ごろ、高速道路のサービスエリアで遅い昼食をとる。

昨日の碩士論文準備発表をした大学院生の方と同じ車だった。彼は気を遣って話しかけてくれ、2時間近く、学問的な話をすることになった。といっても、こちらの韓国語能力がかなり低いので、彼の言っていることがほとんど理解できない。それでも必死に、会話が噛み合わない不安と戦いながら、話を続けた。やはり彼の思考は明晰だ、と、韓国語がわからないながらも思う。

昨日の発表についても、激励の言葉を言ったつもりなのだが、彼に伝わっただろうか。

午後6時半過ぎに家に到着。今までにない疲れを感じ、さまざまなことを考えた2日間だった。

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iPod、直らず

明日(2月19日)からこちらの大学の大学院生のみなさんと、1泊2日の合宿に参加する。

場所は、江原道という、韓国の北部である。大邱から車で4時間以上かかる場所である。

この合宿は、「ワークショップ」といわれていて、学科に属する大学院生の多くが参加することになっている。

合宿先で、碩士論文(日本でいう修士論文)の発表会を行うのが恒例だそうなのだが、今回のワークショップでは、それだけでなく、学科全体の大学院生が、問題を共有できるような討論会をしたい。ついては、そのとっかかりとなるような話をしてほしいと、企画者の人から私に依頼が来た。

なんとも荷が重い話だが、日本語でOKだということと、大学院生のみなさんと交流ができるということで、引き受けることにした。

A4で10枚程度の原稿を作って発表し、それに対して討論者がコメントを言って、議論を進める。この点は、学会で行っている形式と同じである。

何度か経験のあることだが、日本の学問研究の方法と韓国のそれとでは、大きく異なっている。その違いが、学会という場で露見することは、めずらしいことではない。私もこの違いに、幾度となくとまどってきた。

今回は、それほど大げさな会、というわけではないのだが、やはり注目したいのは、日本と韓国の学問研究のスタイルの違いである。どこまでかみ合うのか、あるいはかみ合わないのか、そのことを確かめに、合宿に参加する。

たぶん、打ちのめされて帰ってくるかも知れない。

それにしても、iPodは、息を吹き返さないなぁ。

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小さな成長

2月15日(日)から17日(火)にかけて、釜山をまわった。

先週の学会でお会いした釜山の某大学の先生に、大学博物館で所蔵している、ある資料を調査させて欲しい、とダメ元でお願いしたところ、快く許可をいただき、同じく学会に出席されていた大学博物館の学芸研究員の先生をご紹介していただいた。こちらのたどたどしい韓国語で、「来週の月曜日にうかがいたいのですが…」と申し上げると、どうも「午後なら大丈夫です。月曜の午後に電話下さい」とおっしゃったようである。

これまで、資料調査といえば、共同研究のメンバーで一緒におこなっていたため、アポはすべて、韓国語の達者な方がしてくれた。私はそれについて行きさえすればよかったのだ。

ところが今回、はじめて自分でアポを取り、調査をさせていただくことになった。

16日(月)の午前中、ポモサ(梵魚寺)という古刹を見学したあと、午後1時過ぎ、大学の最寄りの駅に到着。携帯電話で、「先週金曜日にお会いした者ですが、2時頃うかがいたいと思います」と申し上げると、「わかりました」とお返事いただく。先週金曜日の会話が通じていたようで、ホッとする。

午後2時、博物館の学芸研究室にうかがうと、目的の資料はすでに準備されていた。学芸研究員や学芸室長の先生も好意的で、おかげでじっくりと調査することができた。

韓国語でたどたどしい会話をしながらも、人に頼らずに調査できたのは、私にとっての小さな成長であった。

今回の釜山は充実したものだった。

韓国に来て、日本食が恋しいでしょう、とよく言われるが、いまのところ、思ったほど、恋しいとは思わない。韓国と日本とでは、食材がほとんど変わらないからである。

だが、刺身だけは、どうしても食べたい、と思う。もちろん韓国にもあるのだが、非常に高い。加えて、内陸の大邱にいると、刺身を食べる機会がほとんどないのである。

だから、釜山では刺身を食べたい、と決めていた。

釜山のチャガルチ市場は、韓国でも有数の魚市場である。

Photo_4 チャガルチ市場に限らず、韓国の市場はどこも雑然としていて、活気にあふれている。この雰囲気を好きになるかならないかで、韓国に対する印象がずいぶん違ってくると思う。

Photoときに、日本ではあまりお目にかからないような海産物もみられるのも一興。

手前にあるのは、皮をむかれたアナゴだろうか。動いている。奥にあるグロテスクなものは、ケブル(日本名ユムシ)である。

ひととおり市場を見て歩いたあと、新チャガルチ市場棟に行く。ここの1階で生きた魚を買って、2階の食堂でさばいてもらうのである。沖縄の国際通りにある市場と同じ方式。

ヒラメとイカとイイダコ、ナマコ、ケブル(ユムシ)を買う。ここからが勝負である。

アジョッシ(店のおじさん)の言い値を、いかにまかすか、である。

最初、アジョッシが5万ウォン、と言ってきた。高くて買えない、というと4万ウォンに下がる。それでも高い、と言うと、「じゃあいくらなら買うんだ」と言ってきた。「2万5000ウォン!」というと「話にならない!」とアジョッシ。「じゃあ3万ウォンでどうだ!」「しょうがない。3万5000ウォン」「もう少しまからない?」「冗談じゃない。こっちだって生活しなきゃならないんだ!」

結局3万5000ウォンで手を打つ。ここまでのやりとりができたのも一つの成長だろう。

2階の食堂で、買ったばかりの魚を刺身にしてもらい、舌鼓をうつ。イカやタコやケブルは、まだ動いている。ヒラメがとくに旨い。焼酎を飲むのを忘れてしまうほどだ。

釜山はまた、テジクッパ(豚肉入りクッパ)が有名でもある。釜山の繁華街であるソミョン(西面)には、「テジクッパ通り」があり、テジクッパの店が軒を連ねている。

その中で、テレビでも紹介され、お客さんがひっきりなしに入っていく店を選んで入る。たしかに旨い。これまでもテジクッパをいろいろ食べてきたが、豚肉のうまさが違うのである。

混んでいる店にはやはり理由があるのだ、ということをあらためて思い知らされる。

Photo_3 釜山は内陸の大邱にくらべて、旨いものが多い。そして開放的で明るい。海があることがこんなにも人々を開放的に、そして豊かにするものだろうか。

さまざまな発見をして、大邱に戻る。

ただ1つ残念だったのが、調査に同行した妻が、最終日の朝(今朝)にひどい食あたりを起こしてしまったことである。大邱に戻ったいまも七転八倒の苦しみである。大丈夫だろうか。

同じものを食べたのにどうしてだろう。今朝飲んだバナナ牛乳あたりが原因だろうか。私は飲まなかったから。

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タプサ・2回目

2月14日(土)

Photo_2 春のような陽気である。

今日は私にとって2回目のタプサ(踏査)である。

慶尚南道のウィリョン(宜寧)という所に行く。

例によって、朝9時に「子ども会館」に集合し、3台の車に分乗して出発する。総勢12名。

まわったところは、宜寧博物館、「寶泉寺址」「雲谷里古墳群」「竹田里 山城古墳群」「虎尾山城」「中橋里寺址 石像如来像」「宜寧 景山里古墳群」という、これまたマニアックなところばかり。大邱から車で2時間半くらいのところである。

まず最初に、「宜寧郡民文化会館」の中にある博物館を見学。博物館といっても、小さな展示施設だが、この地域周辺の古墳から出土した土器が展示されており、充実している。地元の人ですらあまり知らない穴場である。

昼食後、史跡をまわる。山城古墳群と虎尾山城は、急な山道を登ったところにあった。

Photo どこかで見たような眺望。「日本一」と名のつく公園からの眺めに似ていないか?いや、それ以上だと思うのだが。

参加者のお一人が、目を皿のようにして地面を見つめながら歩いておられる。何をしているのだろう、と思ってみていると、表面採集をしておられたのである。

私が大学院生の頃も、史跡めぐりの時に表面採集に異常に執念を燃やす人がいた。史跡の周辺には、当時の土器や瓦のかけらなどが地表に残っている場合がある。それを、自然石や自然木の破片などと区別して、見つけ出すのである。

日本でも韓国でも同じだな、と思ってみていると、その方は、まるで名人のように、次々と土器のかけらを見つけ出す。そしてそれらをすべて、「はい、どうぞ」と私にくれるのである。

ありがたいのだが、いただいたところで、どうしてよいかわからない。

もう一つ困ったことがあった。マニアックな史跡ばかりをめぐるので、途中、トイレが全然ない。

午後、車で移動中にお腹が痛くなり、恥をしのんでトイレのある店に立ち寄ってもらった。

ところが、他の人はトイレにまったく行かない。

みなさん、鍛えられてるのだろうか。不思議だ。

充実したタプサも終わり、大邱へ戻る。

恐れていたのは、爆弾酒とノレバンだが、今回はそれはなく、おとなしく夕食をとる。

夕食後、指導教授のお宅にみんなでうかがうことになった。

他の方も、指導教授のお宅ははじめてだという。

指導教授のお宅は、「アパート」の一室である。

韓国の「アパート」は、日本のアパートのイメージとは異なる。高級マンションである。

お部屋の豪華さに、一同が驚く。その豪華なお部屋で、奥様が用意されたおつまみをいただきながら、ビールを飲む。

総勢13人の、いい雰囲気の飲み会である。外国人は、私のほかに、中国人留学生が2人。そのお二人は、韓国生活も長く、韓国語も上手だが、ひとしきり語学の勉強の苦労の話で盛り上がる。私のおぼつかない言葉を、指導教授や奥様を含めたみなさんが温かく見守ってくださるのがありがたい。

夜12時をまわり、先生のお宅を失礼した。そういえば、けっこうビールを飲んだのに、誰1人トイレに行かなかったな。

やはり、鍛えられているのだろうか。不思議である。

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再び凹む

2月13日(金)

学会2日目。眠い目をこすりながら、なんとか開始時間の9時半に間に合う。

2日目の午前の研究発表では、日本の大学の先生が発表される。はじめてお目にかかる方である。昨日の夜の懇親会でも、ご挨拶する機会がなかった。

以前、ずっと韓国で勉強され、韓国の大学に就職されていたのだが、最近、日本の大学に戻って准教授をされているという。

発表は、当然ながら韓国語で行われた。それが、まるでネイティブのような、鮮やかな話しぶりである。

当たり前といえば当たり前なのだが、私とほぼ同世代とおぼしき方が、流暢な韓国語で研究発表されているのをみると、「俺はいったい何をやってるんだろう」と、落ち込んでしまう。

まだ韓国に来て2カ月半の者が、何を言っているのだ?当たり前じゃないか、と言われるのは重々承知しているのだが、理屈ではなく、落ち込んでしまうのである。

(討論者を引き受けなくて本当によかった…)

と、このとき心底思った。

ここでも心が折れそうになり、午後の総合討論を聞かずに帰ろう、と、カバンを持って玄関を出ようとしたところ、指導教授に呼び止められた。

指導教授は、例によって、研究者の方を紹介してくださる。

名刺を交換して、挨拶をする。

不思議なもので、指導教授を介して、いまはじめてお会いした方とお話をすると、自然に楽な気持ちになった。

玄関から引き返して、会場に戻り、午後の総合討論を聞くことにした。

午後1時半から5時までの3時間半、討論がつづく。

またしても、(討論者を引き受けなくて本当によかった…)と心底思った。あの場で対等に議論するなんて、とてもできない。

日本の同じ業界の学会と比べると、韓国の学会の方がはるかに討論が活発である。その理由は、日本と韓国との学問の方法の違いに由来するとひそかに考えているが、ここでは書かない。

2日間にわたる学会は、参加しているだけだったが、疲労困憊だった。

心が折れそうになったことも何度かあったが、指導教授のあたたかいお言葉で救われた。

でも、お酒を最後までつきあわされるのは勘弁して欲しい。

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心が折れた夜

2月12日(木)

2日間にわたって、私が通っている大学で学会が行われる。昨年の12月にも参加した学会である。

実は1カ月ほど前、この学会の討論者になってくれ、と依頼された。依頼、というより、引き受けることを前提で原稿依頼が来たのである。

討論者とは、研究発表に対して、コメントを述べ、その研究発表に疑問を述べる役割の人である。1人の発表に対して、1人ないし2人が討論者となる。

しかし私は、前回の経験でもわかるように、韓国語が満足にできず、自分の専門分野と異なるので、発表内容がほとんど理解できない。

加えて、依頼が来たときは、発表者の研究発表のタイトルすらわからなかった。内容を知らされる前にOKしろ、とは、いささか乱暴な話である。

国内学会なので、当然通訳はない。いただいた韓国語の発表原稿を事前に読んで、それに対してコメント原稿を韓国語で作って、当日、韓国語で議論する、なんて、いまの私にできることではない。

先方にしてみれば、せっかく私が通っている大学でやるのだから、という配慮もあったのだろうが、だからといっておいそれと引き受けるわけにはいかなかったのである。

さて当日、蓋を開けてみたら、なぜ私に依頼したか、が納得できる発表だった。それならそれで事前に知らせてくれよ、という感じなのだが、いずれにしても、引き受けたところで満足なコメントはできなかっただろう。

学会の関係者の方からは、冗談交じりに「せっかく討論者をお願いしたのに断るなんて…」と言われたが、「気にしい」の私は、たとえそれが冗談でも、「やっぱり引き受けた方がよかったのかな」と、心が揺らいでしまうのである。

そんなこともあって、何となく肩身が狭い思いで過ごす。

1日目が終わり、例によって懇親会が行われる。1次会では思わぬ人と出会い、話が弾む。昨年の12月よりも、韓国語の会話が成立していることに自分でも気づき、少し嬉しい。

場所を変えて2次会へ。端っこの方で、私の通っている大学の大学院生のみなさんと話していると、(韓国での)指導教授が、私のことをお呼びになった。

指導教授のところに行くと、ソウル大学の大学院生の方々を紹介していただいた。みなさん私のことを知っておられたようで、恐縮する。韓国語で挨拶の練習ができた。

指導教授が私にたずねられた。「1次会でお話ししていた○○先生はどうされたかな?2次会にいらしてるかな?」

私は、お帰りになりました、という意味で「トラガショッソヨ」と答えた。

すると指導教授はビックリされて、「それは『お亡くなりになりました』という意味だぞ。そういうときは『家にお帰りになりました』と言わないと」とおっしゃった。

なるほど。単なる「トラガショッソヨ」では、亡くなった、という意味でしか使わないんだな。

やがて2次会が終わり、3次会へ。あまりに盛り上がってきりがないので、幹事の先生が、「11時半でお開きにしますからね」と参加者に念を押す。

予告通り11時半でお開き。みんながお店を出る。ところが、またもや指導教授につかまってしまい、残った4人でもう少し飲んでいこう、ということになった。

指導教授はいま、大学の要職についておられているので、お会いする機会が少ない。しかしこういうときには、何かと気にかけてくださる。このときも、私が討論者を断ったことを気にしていることに気づかれたのか、あたたかい言葉をかけてくださる。そのお言葉に、救われる。

言ってみれば親分肌なのである。天性の明るさに加え、人間的なあたたかさもお持ちである。天性の明るさを持っている人は何人も知っているが、そのすべてが人間的なあたたかさを持っているとはかぎらない。

ただ、夜遅くまでつきあわされるのは、ちょっと勘弁してしてほしい。

大学の要職をこなし、研究発表をし、一番最後までお酒を飲んでお喋りになる。…まったく怪物である。

夜、12時半ごろ、家に戻る。いくつか仕事を終え、ipodを聴きながら寝ようとすると、 ipodがウンともスンとも言わなくなり、動かなくなってしまった。

なんとか復旧しようと、インターネットで調べてあらゆる努力をするが、画面には赤く大きな「×」が出てしまう。

なんか自分にダメ出しされているようだ。

結局、私のipodは、その後息を吹き返すことなく、トラガショッソヨ。

寂しいときの友だったipodが逝ってしまった…。

この日の夜(というか明け方近く)、心がボッキリと折れてしまったのである。(つづく)

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古本屋の嗅覚

今日も逃避行動が続く。

3月に一時帰国するのにそなえて、「再入国許可」を申請しに、出入国事務所に行く。

いろいろ調べてみると、この「再入国許可」がないと、日本に戻った時点でビザが失効し、再申請しなければならない、という面倒なことになるのだという。それを知らずに一時帰国をした人が大変な目にあった、というのを、ある人のホームページで読んだ。

無事、再入国許可をもらう。

その後、市内に出る。恥ずかしながら、どうしても気になっていたCDがあった。

まえにテレビを見ていたとき、ユンナという10代の歌手が、岩崎良美の「タッチ」を、完璧な日本語で歌っていた。ピアノもダンスもまた、完璧である。

私は「タッチ」にも「ユンナ」にも、まったく思い入れがないのだが、その才能に舌を巻いたのである。それを見て以降、ずっと気になっていた。

日本では、ユンナという歌手は有名なのだろうか。

CDショップで、ユンナのCDを見つけて、手に入れる。

さて、帰ろうかと思ったが、また一つ思いつく。

以前、大学院生のウさんから、大邱にも古本屋がある、という話を聞いた。「市役所の北側に、何軒かあります」と。

そのことを思い出し、古本屋に行くことにした。

私は昔から、古本屋の嗅覚に関しては自信がある。東京で大学院生をしていたとき、あまりに時間をもてあましていたので、「中央線沿線の古本屋を全部まわろう」と考えたことがあった。

最終的には、八王子のさらに先の、西八王子という駅の近くにも古本屋があることを確認し、そこで「中央線沿線古本屋めぐり」は終了。

のちに、西八王子に実家のある同僚にその話をすると、「西八王子に古本屋なんてあったんですか」と、ビックリしていた。

地方に旅行に行ったときも、時間があるときは古本屋を探す。

しかし、ときにその嗅覚も鈍ることがある。

やはり大学院生時代のこと。大学院の先輩と香川県の高松というところに調査に行った。調査が終わり、夕方、高松の商店街を歩いていると、「古本」という看板を見つけた。

私もその先輩も、その看板を遠くから見つけ、その店にわれ先にと駆け寄る。

しかし、その店には、本など置いてなく、呉服が並べられている。

あらためて看板を見ると、「呉服屋 古本(ふるもと)」という店だった。

奇しくもその先輩は、その後香川県に就職したが、おそらく20年近くたったいまでも、あのときのことを覚えているだろう。

さて、「市役所の北側にあります」という言葉だけをたよりに、古本屋を探すことにする。

ウロウロと歩いて、古本屋を見つける。何軒か軒を連ねているようだ。

やはり嗅覚は鈍っていないな。

薄暗い店の中に、埃っぽい本がうずたかく積まれていて、気むずかしそうなアジョッシ(オヤジ)が座っているという光景は、日本のそれと変わらない。

勇気をもって中に入る。

2,3冊手に取るが、どれも値段が書いていない。

結局、買う勇気が出ず、店を出る。

2軒目の店。ここにも気むずかしそうなアジョッシが座っている。

店内をウロウロしていると、「お客さん、どんな本を探してるんです?」とアジョッシが話しかけてきたので、「いえ、別に…」といって店を出た。

3軒目にも入るが、買わずに見送り。

4軒目は、それまでの3軒と違って、店内がやや明るい雰囲気である。アジュモニ(おばさん)が座っていて、近所のアジュモニと茶飲み話をしている。

何冊か買うことにする。だが、やはり値段が書いていない。

アジュモニは、本を見ながら、うーん、と考えて、値段を言った。言い値なのか?

お金を支払って本を受け取ると、私に何か話しかけている。どうも、「隣の倉庫を見ますか?」と聞いているらしい。

言われるがままにアジュンマについて行くと、店の隣にあるガレージのシャッターを開けた。

ガレージの中は、まさに本の倉庫、といった感じである。

自分の専門に近い本もかなり置いてある。もちろん、それ以外の本も多い。

専門の本を手にとって見ていると、アジュンマが言った。

「ここにある本、もとは全部1人の人が持っていたんですよ。でも、トラガショッソヨ」

「トラガショッソヨ」とは、直訳すると「お帰りになりました」だが、日本語で「お亡くなりになりました」という意味にもなる。語学の授業で習った。

「その方は、学者だったんですか?」と私が質問すると、

「いえ、学者ではなかったみたい」とアジュンマは答えた。どんな人だったんだろう。

また、数冊購入することにした。例によってアジュンマは、うーん、と考えて、値段を言った。

ふっかけられたかな?こういった場合、「まけてくれ」と言うべきなんだろうか。でも決して法外な値段ではなかったので、言われるがままに支払う。次からはまけてもらうように交渉しよう。

明日から2日間、私の通っている大学で学会がある。その次の日(土曜日)には久しぶりのタプサ。そしてその翌日からは釜山。

逃避行動も、ここまで。

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うどんを食べに、トンテグに行く

パンハク(休暇)が始まったものの、来週後半のワークショップでの発表の原稿の締め切りが明日ということで、休みになったという感じがしない。そのほかにも諸々の仕事があり、1日中パソコンにはりつくことになる。

これでは日本にいるときと変わらないではないか…。

原稿が思うように進まず、いきづまる。仕方がないので、こういうときはバスに乗ってトンテグ(東大邱)駅に行く。

トンテグ駅は、KTXの停車駅。日本でいえば、仙台駅のような、新幹線の停車駅といったところであろう。

ここに来ると、何となく落ち着くのである。石川啄木のように「停車場にそを聴きに行く」わけではないが、ふるさとを離れた啄木が「停車場」に行く気持ちが、何となくわかる。

このトンテグ駅には、一つ思い出がある。数年前、共同研究のメンバーで慶州に調査に行ったときのこと。調査を1日みっちりとして、夜、ソウルに戻ることになった。慶州から汽車でトンテグ駅へ。そこでKTXに乗り換えてソウルへ向かうのだが、乗り換えまでに若干時間があった。

ヘトヘトに疲れた私たちは、トンテグ駅のコーヒーショップでコーヒーを飲むことに。温かいコーヒーが、調査で疲れた私たちを癒してくれた。その時のコーヒーの、なんとおいしかったことか。

その時、私の師匠がつぶやいた。「うーん。やっぱりコーヒーはトンテグにかぎる」と。

まるで「サンマは目黒にかぎる」と言った殿様のようで、思わず笑ってしまった。

さて、いまトンテグ駅構内で私が注目しているのは、うどん屋さんである。

「ウドンサラン」という店。直訳すると「うどん愛」。

うどんについても、思い出があるのだが、…長くなるので別の機会にしよう。

一人用の小さな鍋でうどんを煮込んで、それをそのまま客に出す。よく、貧乏な下宿生が、小さい鍋でラーメンを作って、どんぶりに移さず鍋に入ったまま食べる、なんてことがあるが、そんな感じである。

味は、紛れもなく、日本の関西風のうどん。

テレビで取り上げられることもあったらしい。JR東日本のトランベールみたいな車内雑誌が、KTXにもあるのだが、そこにも大きく取り上げられていた。

そのせいか、けっこう客が多い。

そんなにとりあげるほどのものか?と思うのだが。麺も味も、いたってふつうの関西風うどんなのである。

それで3500ウォンはちょっと高い。

そう言いながら私も、旨いのでついそこでうどんを食べてしまう。

啄木は訛りを聴きに上野の停車場に行ったが、私はうどんを食べにトンテグ駅に行く。

「ふるさとの うどん懐かし 停車場の うどんを食べに トンテグに行く」

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小説とキャラメル

今、むしょうに読みたいのが、日本の小説や新書である。

日本から専門書はある程度もってきたのだが、それだけでは何か物足りない。

インターネットで、韓国にいながらにしていろいろな情報が得られるのだが、それで私の心の中の渇きがいやされるわけでもない。

日本にいるときは、山ほど小説や新書を買って、あとで読めばいいや、と思ってそのままにしているのに、今はそれらがむしょうに読みたい。勝手なものである。

昨日は、むしょうにキャラメルが食べたくなった。

以前、あるラジオDJが「いま、生キャラメルが流行ってるけど、ああいうものに飛びつく人って、ふつうのキャラメルを最近食べたことがあるのかね。ふつうのキャラメルだって、相当おいしいよ」と言っていたことをなぜか急に思いだし、「そうだ、キャラメルを食べよう」と思い立つ。

近所の「ダイソー」に行くと、はたしてキャラメルが売っていた。

むしょうに食べたかったものが手に入ることほど嬉しいことはない。

すごく久しぶりにキャラメルを味わう。1000ウォン(100円未満)で味わえる幸せ。これで、しばらくは楽しめる。

そういえば、まえに「ダイソー」で買った「氷砂糖」もまだ残っていたな。あれもたしか、むしょうに食べたくなって買ったんだっけ。

そんなことのくり返し。

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期末考査

最近の生活リズムは、5時に授業が終わってから、大学の研究室に寄って、その日の宿題をして、夕食、というパターンだったが、最後の授業が終わった昨日、研究室に寄ってはみたものの、「そうか、もう宿題はしなくていいんだ…」ということに気づき、早めに家に戻った。

いつの間にか、宿題が自分の生活のリズムの一つになっていた。

翌日は期末試験だというのに、なかなか試験勉強ができない。こういうときに限って、自分の研究に関係ある本を読みたくなったりする。ウダウダと無駄な時間を過ごしてしまった。

2月7日(土)

いよいよ、期末考査である。

試験時間と試験会場は、前回の中間考査と同じである。ただ、午後のマラギ(対話)の試験の順番は、前回最後だった私が、今回は最初になる、という点が異なっている。

午前9時から午後1時10分まで、文法、読解、作文、リスニングと、試験が続く。

大人になってよかったことは、試験勉強から解放されたことであった。実際、今でも、入学試験や、学校の定期試験の時の夢を見たりすることがある。試験勉強をまったくせずに、試験にのぞむ、という夢である。もうあの頃には戻りたくない、という願望なのだろうが、今、現実に、あのときと同じ状況に置かれている。この状況が、この後もしばらく続くのは、やはりちょっとつらい気がする。

「優等生の視点だよね」と、この日記を読んだある人が言った。「いっそ、中国人留学生たちみたいになっちゃえば?」

たしかにそういう面はあるかも知れない。この日記では、中国人留学生たちの行動が理解できない、としきりに書いてきたが、勉強が嫌いな人にとっては、むしろわかるのは中国人留学生たちの行動の方なのではないか。

ビックリするくらい荒れていた中学校で、私は生徒会長を務めていた。毎日のようにガラスが割れ、イタズラに消化器がまかれるような中学校で、いわゆる不良と呼ばれる彼らとともに授業を受けながら、受験勉強をしていた。あのときと今とでは、自分のスタンスは何ら変わってないではないか、ということに気づき、思わず笑ってしまう。

人間にはもって生まれた「業(ごう)」のようなものがあるのかも知れない。

さて、文法、読解、作文の試験は、中間考査の時と同じように、同じ教室の中で、1級から3級までの学生が、1列ごとに机に座って受験する。隣の席の答案を見ないための方策である。

ところがリスニングの試験だけは、違う級の人がひとつの教室で受験する、というわけにはいかない。そこで、1級の人たちがひとつの教室に集まって受験することになる。

だから、リスニング試験の時は、とりわけカンニング対策が重要である。試験監督の先生方は、学生どうしの席が近すぎないように最大限に注意を払い、「隣の人の答案を絶対見てはいけませんよ!」と、何度も学生に呼びかける。

ひとり、こわい顔をした試験監督の先生が、

「もし、隣の人の答案を見たら、こうなります!」

とおっしゃって、答案用紙を1枚ビリッと破いてみせた。

学生たちは、一瞬凍りついた。これは効果がありそうだ。

午前中の試験は、脳細胞が日に日に死滅しつつあるこの頭をフル稼働させ、1時10分に終わった。

リスニングの試験が終わってから、1級1班で優等生のパオ・ハイチェン君が私に聞いてきた。「最後のあの問題の答えは、何ですか?」

「プルコギとビビンバだよ。『冷麺を食べたかったけど、寒かったので食べなかった』って、言ってたでしょう」

「そうか~、プルコギとビビンバか~」

パオ・ハイチェン君はひどく悔しがっていた。

このあたりの会話も、中学、高校時代に友達とよくやったなあ。

パオ・ハイチェン君とは、今後もいいライバルになるような気がする。

問題は、午後のマラギ(対話)の試験である。どうも先生と1対1では、緊張してしまう。

順番が最初なので、2時少し前に、3階の試験が行われる部屋の前で待っていると、例によってものすごい怒鳴り声が聞こえてきた。

「何度言ったらわかるの?関係ない人は2階に降りて待っていなさい!」

「猟奇的な先生」の声である。「猟奇的な先生」の声は、本当によく通る。

すると中国人留学生たちは、「やべえ、『キムチ』だ、『キムチ』だ」といって、階段を降りていった。

「キムチ」とは、「猟奇的な先生」ことキム先生のあだ名である。キム先生のフルネームを続けて言ってみると「キムチ」と聞こえるため、そのようなあだ名になったらしい。だからこの語学堂では、「キムチ」といえば、それは「猟奇的な先生」のことなのである(ちなみに「猟奇的な先生」とは、この日記の中だけで私が使っている呼称。念のため)。

これからあの怒鳴り声をしばらく聞くことができないとなると、それはそれで寂しい気もする。

マラギ(対話)の試験は、途中、言葉に詰まって失敗したところがあったものの、いちおう無事に終わった。失敗したことは仕方がない。

試験が終わって語学堂の外に出ると、マ・クン君がいた。

「マラギ、難しかったですか?」

「ちょっとね。あまりよくできなかった」

「僕、これからなんです」

「ヨルシミ ハセヨ!(一生懸命がんばりなさい)」

マ・クン君はニッコリ笑って、語学堂の建物に入っていった。

この試験が終われば、彼らのほとんどは、2月末まで中国に帰る。すでに頭の中は、故郷に帰った時のことでいっぱいなのだろう。

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さよなら、1級1班!

今学期最後の授業。

といっても、相変わらず出席者は少ない。パオ・ハイチェン君、リュ・ピン君、ロン・ウォンポン君、リ・ミン君、トゥン・チネイ君、そして私。マ・クン君が、やや遅れてやってくる。

「猟奇的な先生」の授業。「モッテヨ(できません)」と「チャル モッテヨ(よくはできません)」の違いを学ぶ。「モッテヨ」は、全然できないことを意味し、「チャル モッテヨ」は、「できるにはできるが、上手ではない」という意味。

先生が私に質問する。「中国語はできますか?」「モッテヨ」

今度はリュ・ピン君に質問。「リュ・ピン!日本語はできますか?」

「チャル モッテヨ」

「リュ・ピン!違うでしょ。『チャル モッテヨ』だと、少しはできる、ということなのよ」

「できます!」

「言ってみなさい」

「アイシテル!」

私が教えた日本語が、初めて役に立った!と思ったのもつかの間、

「他には?」

しまった。他の言葉を教えていなかった。

「…アイニチワ」

「それは『こんにちは』でしょう!それでは『チャル モッテヨ』とは言わないのよ」

と、あえなく撃沈。

そして「猟奇的な先生」の授業時間も最後を迎えた。

「この班のみんなが2級に行ければ、いいと思っている」

この言葉を、何度かくり返しつぶやいた。そしてつけ加える。

「もし、来学期また1級ということになったら、また私が教えることになるからね」

最後に先生は、私に質問した。

「1級の授業はどうだった?簡単だった?難しかった?」

「クジョクレッソヨ(まあまあでした)」

昨日習ったばかりの言葉で答えた。「クジョクレッソヨ」。便利な言葉だ。

続くベテランの先生の授業。相変わらずの学級崩壊。

学生が教室を出たり入ったりする。

リュ・ピン君が「ソンセンニム!チング(友達)がお腹が痛いというので、早退していいですか?」

「おかしいわよ。友達がお腹が痛くて、なぜリュ・ピンが授業を早退しなければならないの?」

「僕がいないと病院に行けないやつなんです」

どう考えても、リュ・ピン君よりもその友達の方が韓国語が上手だと思うのだが。

「今日は最後の授業なのよ!…わかったわ。行ってきなさい」

そのままリュ・ピン君は戻ってこなかった。

続いてマ・クン君。今日のマ・クン君は、教室を出たり入ったりしている。

「ソンセンニム!飛行機の切符を買わなければ行けないので、早退してもいいですか?」

「ダメです。飛行機の切符なら、授業を終わってからでも買いに行けるでしょう」

最後の授業らしい緊張感などまるでなかった。

ベテランの先生の授業も終わりに近づく。マ・クン君が質問する。

「ソンセンニム!もし僕たちが2級に行けたら、また韓国語を教えてくれますか?」

「教えたいけど、無理なのよ」

新学期から、別の大学で教えることになるのだ、という。だからこの大学での語学の授業は、これで最後なのだ。

「先生も、みんなともっと勉強したかったんだけど…」

そして授業の最後に先生がいつも言う言葉、

「マチムニダ(終わります)」

を、目に涙をため、言葉を詰まらせながらおっしゃった。

あれだけ悩まされてばかりの班だったのに、不思議なものだ。

そしてみんなは、いつもよりやや大きな声で、挨拶する。

「アンニョンヒ カセヨ!(さようなら)」

学生たちとは、明日の期末試験でも会うとは思うが、ちゃんとした挨拶は、これが最後かも知れない。

さよなら、1級1班!

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マ・クン君からの手紙

今学期最後のクイズ(小テスト)も終わり、あとは明日の授業と明後日の期末試験を残すのみとなった。

「猟奇的な先生」は、「今学期の授業が明日で終わりで、本当に気分がいいわ!」とえらく上機嫌である。「猟奇的な先生」にとっても、この2カ月あまりの間は、長い戦いだったのだろう。

4時間目の授業中、私のところにノートの切れ端がまわってきた。

二つに折られたそのオモテのところには、「ピョンジ(手紙)」と書いてある。

顔を上げると、私の正面にいるリュ・ピン君が、マ・クン君を指さしている。

どうもマ・クン君が書いた手紙のようだ。

中を見ると、次のように書いてあった。

「スオプ クンナヨ ウリ カッチ パブル モゴッソヨ チュングク パブル マシッソヨ」

直訳すると、次のようになる。

「授業 おわります 私たち 一緒に ご飯を 食べました 中国ご飯を おいしいです」

綴りや助詞の使い方や時制がめちゃくちゃだが、ふだんの会話から察して、

「授業が終わってから、私たちと一緒にご飯を食べましょう。中国料理はおいしいですよ」

と言いたいのだと思う。

読み終わってマ・クン君の方を見ると、「OKですか?」という顔をしている。一瞬、どうしようか迷ったが、こちらもアイコンタクトで「OK」と返事をした。

授業が終わって、6時に大学の北門で待ち合わせる。待っていたのは、リュ・ピン君だった。横にもう1人いて、「僕のトンセン(弟)です」と紹介した。

「あなたがトンセン(弟)ですか」と聞くと、「いえ、僕はトンセンではありません。彼のチング(友達)です」という。

どういうことだ?てっきり、弟も一緒に韓国に来ているのかと思ったら、そうではなかったのだ。どうも、リュ・ピン君は、その友達を日本語でいう「舎弟」の意味でトンセンと呼んでいるようである。

リュ・ピン君の案内で、マ・クンの部屋に向かう。道すがら、リュ・ピン君が話しかける。

「アジョッシ、覚えてますか?僕が前にアジョッシに教えてもらった日本語」

「覚えてるよ。『アイシテル』だろう」

「そう、『アイシテル』」

「使ってみた?」

「ヨジャチング(ガールフレンド)に言ってみました。でも、ヨジャチングはわからなかった」

歩くこと10分。マ・クン君の部屋のある建物に到着。日本でいえばワンルームのアパートである。語学堂で学んでいる中国人留学生ばかりが住んでおり、さながら寄宿舎のようである。

部屋にはいると、マ・クン君と、リュ・ピン君のヨジャチングが、すでに料理の準備をしている。

やがて、同じアパート内に住んでいる、マ・クン君の友達が入ってくる。

「このアパートのヌナ(お姉さん)です」

とマ・クン君が紹介する。聞くと、同じ大学の語学堂で勉強しているのだが、学生ではなく、仕事をしているらしい。韓国語をマスターして、こちらで本格的に仕事をしたいのだ、という。実際、みんなより少し年上である。韓国語も上手で、しっかりもの、という感じの人である。

総勢6名で鍋を囲む。少々辛い鍋だが、冬の鍋のよさは、中国も韓国も日本も変わりないことを実感する。

途中、マ・クン君がスカイプをはじめた。故郷のオモニ(母)やヒョン(兄)と、他の中国人留学生たちにもわからないような地元の言葉(方言)で会話をしている。パソコンにつけられたカメラで、私たちをさかんに映して、故郷の人たちに紹介していた。嬉しかったのだろう。

スカイプでの会話が終わった後、私は彼に聞いた。

「今度のパンハク(休暇)に中国に帰る、ということを、プモニム(ご両親)は許してくれたの?」

「実はまだ話してません。でも、突然帰れば、プモニムも『帰ってくるな』とは言えないでしょう。だから黙って帰ります」

ひとりで韓国にいるのは、やはりつらいのだろう。

やがて、1人帰り、2人帰り、となり、私だけが残った。

中国の度数の強いお酒を飲みながら、お互い、たどたどしい韓国語でいろいろな話をする。

といっても、もっぱら話すのはマ・クン君で、私は聞き手である。どうも私は、日本だけでなく韓国でも聞き手に回ることが多い。

マ・クン君は、これまでのことを、ときに可笑しく、ときに真剣に話した。故郷の家族のこと、韓国に来てからのこと、そして、語学堂でいちばん大好きなナム先生のこと…。

その話しぶりは、ふだんの授業の会話練習からは想像もつかないほど、わかりやすい。技術の習得だけが、コミュニケーションを成り立たせているのではないことを、実感する。

気がつくと9時になろうとしていた。帰ろうと思って立ち上がると、マ・クン君が聞いた。

「中国のお酒はどうですか」

「度数が強くて大変だけど、冬に飲むにはいいね」

「今度中国から戻ってきたら、必ずおみやげに持ってきます」

マ・クン君がアパートの外まで見送ってくれて、「じゃあまた明日」といって別れる。

度数の強いお酒を醒ますには、ほどよい寒さの夜だった。

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代理の先生

無事、大邱に着いた私は、いつもより少し早く、教室に到着した。

12時50分まで、別の班が授業をしていたので教室の外で待っていると、やがて授業が終わり、教室から若い女性の先生が出てきた。

すると、どこからか、中国人留学生が数人やってきて(うちの班ではない)、教室から出てきた先生に、びっくりするくらい大きな「ピザ」を渡そうとしている。宅配のピザなどでよく見る大きさのものである。

その先生は、びっくりして、「なに?どうしたの」と聞く。学生は「どうぞ食べてください」と言った。

「こんなに食べられないわよ。受け取れないわ。みんなで食べなさいよ」

どう考えても、華奢な体の先生には無理な大きさのピザである。

「いえ、僕たちはお腹がいっぱいなんです。どうか受け取ってください」

留学生たちの執拗なプレゼント攻撃に観念して、先生がピザを受け取った。

先生のことが好きなので渡したのか、それとも来るべき期末試験に向けての賄賂なのか、そのあたりはわからない。

いずれにしても、不思議な光景だった。

さて、今日は、お金を両替する時の表現を学ぶ。「日本のお金を、韓国のお金に替えてください」といった表現である。

前半の「猟奇的な先生」の授業では、途中までうまくいっていたのに、ジャッキー・チェンにそっくりのトゥン・チネイ君が、緊張がゆるんだのか、パンジャンニム(班長殿)のロン・ウォンポン君に中国語で私語してしまったために、先生の怒りをかい、ひとしきりお説教を受けるはめになる。その内容は、もう何度もここで書いていることなのでくり返さない。

なんとか気まずい雰囲気を立て直そうと、私は積極的に先生の質問に答えたり、先生に質問したりする。なんでこっちが気を遣わなければいけないのだろう。

そんなことはどうでもよい。今日は、後半の授業を担当されているベテランの先生が、別の仕事で授業をお休みした。そこで、代理の先生がいらっしゃることになった。

代理の先生が入ってくるなり、「この部屋、タバコ臭いわね。窓を開けなさい!」とおっしゃる。

うちの班の学生の多くが、タバコを吸っている。10分間の休憩時間のたびに、語学堂の建物の外に出て、みんなでタバコを吸って談笑している。だから、しばしば授業に遅れて来るのである。

今日も、先生が来ているのにもかかわらず、半分くらいの学生が教室に戻ってこない。

先生がイライラし出した。「いつもこうなの?」

「そうです」

「班長は誰ですか?」

「まだ教室に戻ってきてません」

先生があきれる。

先生も、いきなりとんでもない洗礼を受けたものだ。

ようやく、15分くらいたってみんなが揃った。

代理の先生は、この班についてどのくらい予備知識があったのだろうか。私のことを当初中国人だと思って話しかけていたところを見ると、あまり聞かされていなかったのではないか。

もちろん問題の多いクラスだということくらいはお聞きになっていただろうが、ひとりひとりの人間性についてまでは当然ながらよくわかってらっしゃらないので、ペースをつかみかねているようだった。

さて、この代理の先生は、声も大きく、表情も豊かにお話になる。小学校の先生によくいらっしゃるタイプ、というべきだろうか。まだ若くて、とても明るい先生である。

素直な学生ばかりの班であれば、とてもうまくいくのだろうが、うちのような班のような連中に通用するかどうか。

とくに先生は、学生の発音を気にされているようだった。うちの班の中国人留学生たちはかなり発音が悪いのだが、そこにこだわりだした。

トゥン・チネイ君がある単語の発音をした。だがその発音が間違いで、別の単語の発音であることを聞き逃さなかった先生は、「いまの発音だとね…」と言って、その別の単語に関する、考えられないような下ネタを話しはじめた(ここでは書けない)。

しかも、図解しながら説明しだしたのである。

「…ね?だから、発音は大事なんですよー」

大人のジョークとしてはよいかも知れないが、この班でそんな話をすると、ますます悪ふざけが始まるぞ、と思ったら、案の定、その単語を連呼して大笑いする。

この班では、そういうネタは逆効果なのだ。

先生は何度もため息をつかれる。困りはてた先生は、私の方を見て話しかけた。

「この班、大変でしょう」

「ええ、大変ですとも!毎日毎日ね!」

私も、思いの丈をぶつけた。

この後、今日習ったばかりの表現を使って、「私を別の班に替えてください!」と、よっぽど言いたかったのだが、あと3日の我慢だ、と自分に言い聞かせて、グッとこらえた。

相変わらず、連中は珍奇な発言をくり返して、代理の先生を翻弄する。

そんなことより私が気になっているのは、パンジャンニムが、宿題のノートを、2時間目の後の休み時間にも、3時間目の後の休み時間にも、みんなからいっこうに集める気配がなかった、ということであった。

以前にも書いたと思うが、毎日の宿題のノートは、授業の休憩時間中にパンジャンニムが集めて、研究室の先生の机に提出する。そして、それと入れ替わりに、昨日提出した宿題のノートを先生から受け取り、みんなに返すのである。

この学期の初め頃は、パンジャンニムが授業が始まる前にみんなから集めて、1時間目が終わった休み時間に、研究室の先生の机に提出したのであるが、次第にそれが、2時間目の休み時間になり、3時間目の休み時間になり、というように、遅くなっていったのである。

そして今日は、3時間目の後の休み時間になっても、宿題のノートを先生の机に持って行こうとしない。

理由は簡単である。昨日やるべき宿題を今日になってもやっていない学生が多く、授業中、あるいは休憩時間に宿題をしているからである。それらが終わらない限り、宿題のノートをまとめて提出することができないのである。

こちらは、(宿題ノートを早く提出して、昨日の宿題ノートを返してくれよ…)と気が気でない。

そんなこちらの心配をよそに、マ・クン君、リュ・ピン君、トゥン・チネイ君の3人は、授業と授業の間の休み時間に、平然と昨日出された宿題を書いている。

しかもリュ・ピン君は、隣のパオ・ハイチェン君のノートを奪い取って、それを見ながら速攻で丸写ししているのである。トゥン・チネイ君も、昨日の宿題で出た「私の好きな季節」という題目の作文を、ロン・ウォンポン君から奪い取って、自分の提出用紙に丸写ししている。

かくして、クローン作文ができあがる。

彼らが、期末試験の準備をしているかどうかは、推して知るべしである。

パンジャンニムが、集めた宿題ノートを提出し、昨日の宿題のノートを持ってきたのは、今日の授業が終了した後のことであった。

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ソウルとんぼがえり

前の職場の同僚から、2月2日~5日に、学生を連れてソウルに行くので、ソウルで会えないか、とメールが来た。

彼は私と同期入社で、私の数少ない友人の1人である。私が職場を移ってからも、一緒に韓国に行ったり、ベトナムに行ったりした(この話をすると長くなるので、いずれ別の機会に)。

「何か日本から持って行くものはあるか」との質問に、「お好み焼きの粉と、おたふくソースを」と、返事のメールを送った。

送ってからハタと気がついた。「お好み焼きの白い粉は、空港で怪しまれないだろうか?」と。

2月3日(火)。夕方5時に語学の授業が終わった後、KTXに飛び乗り、ソウルへ向かう。

7時20分、ソウル駅に到着。そこで友人と再会し、そのまま明洞へ向かう。明洞のスターバックスで、「ひょっとして、わざとだった?」と言われながら、お好み焼きの粉と、おたふくソース、それに青のり、鰹節、天かす、桜えび、本だし、カレーのルー、漬け物などが入った、スーパーのレジ袋を渡される。どうやら無事に空港を通過したようだ。期待以上のおみやげをもらい、感謝する。

彼は、この日記の読者でもある。「ブログに力を入れすぎだ。あれでは日記ではなくてまるで小説だ」と、さっそく小言を言われる。

(なんだ、読んでるんじゃないか…)と思いつつ、「やめるにやめられなくなってね」と答えるしかなかった。学校から家に帰る道すがら、道ばたの小石を蹴り始めたところ、蹴るのをやめられなくなってしまい、小石の転がる方向に歩いていってしまった小学生のようなものである(相変わらずたとえがわかりにくい)。

彼はまた、私の韓国での生活を心配してくれている。心理学の専門家でもある彼は、私の文章を分析して、何か病的なものを感じたのであろうか。

いずれにしても、ありがたいことである。

Photo やがて、免税店めぐりをしてきた学生4人と合流。みんなでタッカルビを食べに行く。

10時過ぎ。学生たちは、「また買い物に行ってきます!」と、夜の町に消えていった。

その後、友人と喫茶店でよもやま話。気がつくと、12時を過ぎている。

今日の宿を探さなくては、と思い、友人と2人で明洞の町を徘徊するが、みつからない。

遅くまで友人につきあってもらって申し訳なく思い、仁寺洞あたりで探すので、といって、別れた。

タクシーに乗って、仁寺洞の近くで降りたが、ガイドブックに載っていたモーテルが見つからない。こうなったらどこでもいいから、モーテルが見つかったらそこに入ろう、と決め、周辺にモーテルがないか探すことにした。

お好み焼きセットでパンパンにふくれたレジ袋をぶら下げながら、深夜のソウルを徘徊する。

Photo_2 やがて、路地裏の、いかにも怪しげな場所に「モーテル」の看板を見つけ、入る。深夜1時を過ぎていた。35000ウォン也。

「モーテル」に泊まるのは、久しぶりである。少し不安だが、まあ泊まれるところが見つかっただけでもよい。部屋で2時過ぎまで宿題をして、就寝。

翌朝、KTXで大邱に戻り、何ごともなかったかのように授業に出た。(つづく)

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続・学ばない人たち

いよいよ、冬学期の最終週となった。

もう後がない中国人留学生たちの様子は、というと…。

先週とまったく変わらず、授業に集中していない。

「上の空」の学生がほとんどである。

1時間目、機嫌よく教えておられた「猟奇的な先生」だったが、2時間目から、雲行きが怪しくなる。

教科書の練習問題を「猟奇的な先生」が当てていくのだが、留学生たちは、ボーッとしているため、どの問題をあてられたのかわからず、オロオロしている。そのため、なかなかスムーズに授業が進まない。

「猟奇的な先生」の口調も、次第に厳しくなっていく。

最近は、「猟奇的な先生」の怒りのメーターが上がっていく様子が、手に取るようにわかる。

あー、もうじき爆発するな、と思ったそのとき、先生の怒りが爆発した。

当てられた問題が探せなかったり、間違えたりした学生に対して、「両手をあげなさい」とおっしゃる。

一瞬、なんのことかわからなかったが、「いいから、両手をあげなさい」とくり返す。その口調は冷静だが、ものすごい迫力である。

次の人を当てる。次の人もオロオロしたあげく、間違ってしまった。すると、やはり「両手をあげなさい」とおっしゃる。

いわれた学生は、ずっと両手をあげたままでいなければならない。まるでFBI捜査官が、犯人を追い詰めたときのようである。

「もっと高くあげなさい!」

その光景は、見ていてかなり屈辱的である。

両手をあげる学生の数が次第に増えてくる。

そして次は私の番。

私もミスをしたら両手をあげなければいけないのだろうか、と思うと、極度に緊張して、心臓が高鳴った。まるで、背中に拳銃を突きつけられているような思いである。

ブルブルと声を震わせながら、なんとか解答する。もう少しで泣きそうだった。

練習問題がひととおり終わり、「猟奇的な先生」のお説教が始まる。

「みんなはね、教室で授業を受けていても、頭では全然別のことを考えているのよ。それでは、家にいるのと同じね。そんな態度で授業を受ける意味なんてあると思う?いったい何しに学校に来ているの?」

例によって静かになるが、どうもこの静寂は、先生の話を真剣にきいている、という感じには思えなかった。

「みんなは、頭が悪いから点数が悪いんじゃないの。授業態度が悪いから、いつまでたっても点数が上がらないのよ。前学期も、前々学期も、同じような授業態度だったでしょう。だから、いつまでたっても、1級から抜け出ることができないのよ。今回もまた、それをくり返す気?」

「そう、これは態度の問題なのよ。一生懸命勉強してもわかりませんでした、という人を責めません。なぜなら、わかるまでこちらが何度でも教えることができるから。でも、授業をまともに聞く気のない人に、いくら教えたって、上達するはずはないでしょう。子どもが食べ物を受けつけずに吐いているところに、むりやり食べ物を口に入れてもまた吐き出すのと同じことなのよ」

最後のたとえがいまひとつよくわからないが、このあとも「問題は授業態度である」という言葉が、何回もくり返し出てきた。

念のため補足しておくが、「猟奇的な先生」は、できなかったことに対して怒ったことは一度もない。また、留学生の人格を否定したり、間違いをあげつらって罵倒したりしたことも、当然のことながら一度もない。それは断言できる。

今回の「両手をあげろ」事件も、学生たちのほとんどが「上の空」で授業を聞いていたことを責めたものである。

どんなに発音が悪くても、たどたどしくとも、必ず、「チャレッソヨ(よくできました)」とおっしゃる。聞いているこっちからすれば、「いまの発音がチャレッソヨなのかよ」と思うこともしばしばなのだが、努力して言い終えた人に対しては、「発音が悪いわね」とか、「もっとスムーズに話せないの?」などといった言葉は絶対に言わないし、聞いたこともない。それは、後半のベテランの先生の場合でも同様である。語学の先生の鉄則なのだろう。

また、学生の授業態度が悪いのは、先生の教え方が悪いからでは決してない。実にわかりやすく、懇切に教えてくださっている。

それだけ、先生はプロに徹しているのである。

にもかかわらず、彼らは、それをわかろうとはしない。このお説教もまた、まったく心に響いていないことだろう。

最後に先生がおっしゃる。

「私がこの語学堂でいちばん恐い先生だ、て言われているのはみんなわかっているでしょう。だからこのクラスを担当しているのよ。他の先生だったら、とてもやっていけないわ」

それはそうだろう、と思う。「猟奇的な先生」くらい肝が据わっている先生か、ベテランの先生くらい寛容な精神にあふれた先生でないと、このクラスを担当できないだろう。

現にこの私が、もう耐えられない状況に来ているのである。

お話が終わると、「猟奇的な先生」は、颯爽と教室を出ていかれた。その去り際が実にかっこよく、「オットコ前だなあ」と、ヘンに感心してしまった。

先生が出ていかれ、ドアがバタンと閉まった途端、緊張から解放された彼らは、ホッとしたかのように、中国語で話しはじめた。

やっぱりわかっていないな。こいつらは。というか、学生たちは、先生のお説教をちゃんと聞き取れてるのか?リュ・ピン君あたりは、先生が何を話していたのか、まったくわからなかったのではないだろうか。

後半のベテランの先生の時間。やはり学級崩壊がくり返される。

リュ・ピン君は、相変わらず授業なんて聞かずに、隣のパオ・ハイチェン君にちょっかいを出している。トゥン・チネイ君とパンジャンニム(班長殿)ことロン・ウォンポン君は、相変わらず中国語で喋り続けている。トゥ・シギ君とリ・ミン君もその会話に参加している。マ・クン君は、前半の「猟奇的な先生」の授業で極度に緊張した反動か、机に突っ伏して熟睡してしまった。

やはり「猟奇的な先生」のお説教は、まったく彼らの心に響いていなかったのである。

とくにリュ・ピン君の授業態度はひどい。パオ・ハイチェン君との会話の練習のときである。テキストの会話を、2人で読みあわせる。

パオ「来週からパンハク(休暇)だけど、どこか旅行に…」

リュ「チョアヨ(いいね)」

パオ「山がいいか、海が…」

リュ「山より海の方がいいね」

パオ「じゃあ海に行こう。ところで何を準…」

リュ「着る服と飲み水を準備しなさい」

と言ったように、パオ・ハイチェン君が全部言い終わらないうちに、「食いぎみ」に会話を進めていくのである。要は、相手の言葉をまったく聞かずに、自分のセリフだけを言ってよしとしているのだ。

さすがに先生もあきれる。

「そんな会話はないでしょう。会話練習なんだから、相手の言ったことを全部聞いてから答えなさい!」

だが、リュ・ピン君は、そんなことおかまいなしなのである。

今日は、ずっとイヤな気分が続いたが、最後にマ・クン君との会話練習で、少し救われた。

4時間目。目を覚ましたマ・クン君と、「パンハク(休暇)の時の旅行についての計画を立てる」という会話練習をする。

例文は次の通り。

「今度の休暇、一緒に旅行に行くかい?」

「いいね。どこへ行こうか」

「いまは寒いから、寒くないところがいいね。チェジュド(済州島)なんかどう?」

「いいね。チェジュドに行こう」

「船で行こうか、飛行機で行こうか」

「時間があるから船にしよう。飛行機は速いけど、値段が高いからね」

「チェジュドで何をしようか?」

「ハンラ山が有名だからハンラ山に登ろう」

「いいね。じゃあ何を準備したらいいだろう」

「準備するものはそんなにいらないよ。あたたかい服を着て、運動靴を履いておいでよ」

「うん、わかった」

少し長いが、これをアレンジして、会話を2人で作らなければならない。

私「今度の休暇、一緒に旅行に行くかい?」

マ「いいね。どこへ行こうか」

私「いまは寒いから、寒くないところがいいね。(中国の)海南島なんかどう?」

マ「いいね。海南島に行こう」

私「船で行こうか、飛行機で行こうか」

マ「お金があるから飛行機で行こう。船は安いけど、時間がかかるからね」

私「海南島で何をしようか?」

マ「天崖海角が有名だから天崖海角で海水浴をしよう」

私「いいね。じゃあ何を準備したらいいだろう」

マ「準備するものはそんなにいらないよ。海水パンツを履いて、水泳眼鏡をかけておいでよ」

私「え…それで飛行機に乗るの?」

最後のやりとりに反応して、先生が大爆笑した。

「おかしいでしょう。海水パンツと水泳眼鏡だけを身につけて飛行機に乗るなんて!そういうときは、『海水パンツと水泳眼鏡を持っておいでよ』と言えばいいのよ」

その言葉で、先生と、マ・クン君と、私の頭の中には、海水パンツと水泳眼鏡だけを身につけて、飛行機に乗っている絵が浮かび、再び大爆笑する。

韓国人、中国人、日本人が、共通の絵を思い浮かべて大爆笑する…。

東アジアに共通する笑いのツボは、たしかに存在するのだ。

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変わらない生活習慣

家にいると勉強ができないのは、日本でも韓国でも変わらない。

このまま家にいると、また、2日間何もせずに棒にふってしまう、と思い、午後遅くになって、ようやく重い腰を上げて、外に出ることにした。

まず、気分をリフレッシュするために、モギョクタン(銭湯)へ。家のシャワーでは、どうも気分が晴れ晴れとしない。

久しぶりの銭湯は、やはりよい。以前、立川談志師匠が「銭湯は裏切らない」と言っていたが、その通りだと思う。

次に、韓国語のテキストを持って、市内に出る。まず最初に向かったのは、文房具屋である。そこで、韓国語作文練習のためのノートを買うことにした。

何か始めるためには、まず道具を揃えることから始まる、という姿勢も、変わらない。道具を揃えることで、テンションを高めるのである。

道具を揃えたことに満足して、結局何もやらない、というパターンも多いのだが。

作文のためのノートは、いわゆるふつうの大学ノートではなく、原稿用紙みたいな、マス目のあるものでないとダメだ。それも、適度の大きさのマス目のやつ。

この気むずかしさも、変わらない。

大きな文房具屋で、しばらく探すが、自分の理想のノートがなかなか見つからない。やはりふつうの大学ノートばかりである。たまに、表紙に「漢文」と書かれたマス目のあるノートを見つけるが、これは文字通り漢字練習用のもので、マス目が異様に大きい。

なかなか自分の理想のノートが見つからない、と思ったところ、小学校低学年用のノートに、私が思い描いていたマス目のものがあった。

Photo 小学校低学年くらいの子が、作文の練習のために使うノートだろう。考えてみれば、いま私が書いている作文も、小学校レベルのものだから、ちょうどよい。

だが、いかんせん表紙が幼すぎて、ちょっと恥ずかしい。だが、ほかになく、背に腹は代えられないので、買うことにする。

そして、ダンキンドーナツで期末試験の勉強。

学生時代を思い出す。学生時代、家にいては勉強できないので、よく喫茶店をハシゴして勉強したものだ。

喫茶店での勉強がいちばんはかどる、というのも、昔と変わらない。

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2カ月

韓国へ来てから2カ月が過ぎた。

いままで、日記なんぞ書いたことのない人間が、よく続いたものだと思う。

この2カ月間、語学堂で起きたさまざまな出来事を、できるだけありのままに書いてきたが、私の体験が、文章でどれだけ表現できているのか、どれほど伝わっているのか、はなはだ心許ない。

あまり抽象的でも伝わらないし、逆に些末な出来事を書き連ねても、話が込み入りすぎて、読むのが面倒くさくなってしまう。

たとえば、昨日の授業でいちばん笑ったのは、次のようなことであった。

後半のベテランの先生の授業で、「もし…したら、何をしますか?」という対話練習をした。

「今度の休暇が来たら、何をしますか?」「中国に帰ったら、何をしますか?」といった風に質問をして、それに対して、もう1人が答えるのである。

ジャッキー・チェンにそっくりのトゥン・チネイ君と、人のよいパンジャンニム(班長殿)ことロン・ウォンポン君の対話練習。

この2人は、同じ吉林省出身ということもあってか、いつも仲良く喧嘩している。たいていは、トゥン・チネイ君がからかう方で、ロン・ウォンポン君がからかわれる方。トゥン・チネイ君は、自分は打たれ弱いくせに、相手にはサディスティックなまでの言動を浴びせる。

今回も、トゥン・チネイ君は、ロン・ウォンポン君をやり込める気満々である。

「ヨジャチング(ガールフレンド)と家で何をしますか?」

ロン・ウォンポン君をからかうときは、たいていヨジャチングの話題をふる。というか、うちの班の連中は、ヨジャチングの話題が大好きなのである。小学生じみた発想である。

そしてこういった質問をする場合、相手から「ポッポする」、という答えをなんとか引き出そうとする。「ポッポ」とは、韓国語でキスのことである。日本語の語感でいえば、「チューする」といったほうがよいであろうか。

この「ポッポ」という言葉も、彼らが大好きな言葉なのである。これまた、小学生のような感覚である。

ベテランの先生があきれる。

「またヨジャチングの話題なの?それよりトゥン・チネイ君、いまは『もし…したら、何をしますか』という勉強をしているのよ。その表現を使って質問しなさい!」

トゥン・チネイ君は、ロン・ウォンポン君をやり込めたいあまり、使うべき表現をまったく無視して質問したのである。そこでまた言い直す。

「ヨジャチングが家に来たら、何をしますか?」

「…料理をします」

ロン・ウォンポン君は、相手の思惑に乗らないように、慎重に答える。

「それから?」

と、負けずにトゥン・チネイ君も質問を続ける。

「…ご飯を食べます」

「それから?」

「…お酒を飲みます」

「それから?」

「…テレビを見ます」

「それから?」

トゥン・チネイ君の攻撃は執拗である。ここまでくると、もはや語学の練習ではない。相手からいかに「ポッポ」という言葉を引き出すか、という目的のみで、この対話が続けられることになる。

「…話をします」

ロン・ウォンポン君も必死に対抗する。

次の瞬間、トゥン・チネイ君は質問を変えた。

「では、夜11時頃、何をしますか?」

ここでロン・ウォンポン君は耐えきれず撃沈。「…ポッポします」

そして一同は、大爆笑。

…というわけで、授業中は、こうしたことのくり返しなのであるが、この文章で、授業中の可笑しさが、どのくらい伝わっているのだろうか?もし伝わっていなければ、ただただ些末なことを延々と書いているに過ぎなくなってしまう。

その場にいて可笑しかったことを、文章で伝えることが、なんと難しいことか。

といいつつ、こんな実験的な文章を書いても仕方がないのだが。

もし、読者がいるのだとすれば、こんな話ばかりで、とっくに飽きていることだろう。

来週末に、この学期が終わる。とりあえずそこまでは、日記を書き続けよう。そしてそれ以降のことについては、またあらためて考えることにしよう。それまで、もう少しの辛抱だ。

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