観光、のようなもの・2日目
3月22日(日)
今日も、日本の大学のご一行と、大型バスに乗って史跡をまわる。
今回のツアーガイドであるチェさんは、本当に熱心で、頼りになる。まあ、だいたいツアーガイドさんというのはそういうものだが、今回はとくに、こんなマニアックところをまわるのにもかかわらず、かなりしっかりと勉強されている。
今日は、高霊郡という、昔の伽耶地域と呼ばれるところの古墳群の見学。ふつうの観光客はあまり行かないところである。
ツアーガイドのチェさんは、自分がはじめてご案内するところなので、事前に下見に行って勉強したという。さすが、プロの仕事である。
午前中いっぱい、山の上にある古墳群を歩き回ったあと、午後は陜川郡にある古墳群を見学。そして最後に、世界遺産にも指定されている海印寺(ヘインサ)を見学した。
海印寺の境内にある蔵経板殿には、八万大蔵経というお経の版木が81258枚保存されてきた。1236年、元の襲来の危機にあった高麗が、国家繁栄を願って、大蔵経の版木製作に着手し、15年の歳月をかけて1251年に完成させた。その版木は、当時の都であった江華島から、1398年、この海印寺に移されたという。そして、今に至るまで、良好な保存状態のまま、この海印寺の蔵のなかに残されている。
蔵、といっても、密閉された蔵ではない。風通しをよくするための格子状の窓を通じて、建物の外から大蔵経の版木が保管されている様子を今でも見ることができる。このような建物の中で、よく今まで良好な状態で残されてきたものだ。そのメカニズムは、まだ科学的に解明できていない、とチェさんは説明した。
残念ながら、八万大蔵経を収めている建物は一切撮影禁止、ということで、いささか残念と思いながら、バスに戻る。
本日のすべての行程が終わり、大邱へ戻るバスのなかで、ツアーガイドのチェさんはマイクを握る。
「みなさん。最後に一つ、説明し忘れたことがあったので補足します。じつは一度、この海印寺が失われるかも知れない、という危機があったのです」
話は朝鮮戦争(1950~1953)のときにさかのぼる。当時、北朝鮮の人民軍が海印寺を占拠していたことを知った米軍は、韓国空軍に対して、海印寺の爆撃命令を出した。
だが、この命令に対して、ある参謀は煩悶する。八万大蔵経をこの手で灰にすることは忍びない。彼は日が暮れるまで、部下に出撃を命ずることをしなかった。
そして数日後、北朝鮮の人民軍が撤収し山の中へ移動してから大々的な爆撃を敢行する。人民軍は壊滅的な打撃を受けた。
ところが、これに激怒したのが米軍である。面目をつぶされた形となった米軍は、当時の李承晩大統領に抗議をしたのである。米軍の命令に背いた参謀は、死の危機に直面する。
米軍の命令に背いたのは、海印寺の八万大蔵経を守るためである。もしこれが命令違反であるとするなら、八万大蔵経と引き替えに、自らの命を奪われることも厭わない。そう彼は主張する。
そして彼に対する誤解は解かれ、死を免れることになった。
今は、彼をたたえる碑が、海印寺の境内にひっそりと建てられているという。
「…どうですか、みなさん」
「映画になりそうな話ですね」私が言った。
「そうでしょう」とチェさん。
「この話は、よく知られた話なのですか?」
「お寺について詳しく調べている方なら知っているでしょう。あと、空軍の間でも有名な話です」
ウラを取ったわけではないので、この話がどこまで正確なのかよくわからないが、戦争の際に文化財の破壊が常につきまとうことは、これまでの歴史が証明している。
その中にあって、八万大蔵経が今日まで残ったというのは、やはり奇跡というべきであろう。このエピソードが、こうした奇跡の理由の一つを説明するものであることは、間違いない。
大邱に戻り、ガイドのチェさんともお別れする。そしてご一行と最後の夕食、さらに場所をホテルの部屋に移し、夜11時までみなさんとお酒を飲む。
ご一行は、明日日本に帰国する。水曜の夜から今日まで、怒濤の日々だった。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- ポンコツ、帰途につく(2024.10.25)
- 今日もズボンはずり落ちませんでした(2024.10.24)
- 怪しすぎるレンタルスペース(2024.10.23)
- ズボンはずり落ちませんでした(2024.10.23)
- 釜山どうでしょう(2024.09.01)
コメント