携帯電話の文化論
4月23日(木)
語学の授業が終わって、夜7時、先週から参加させていただいている研究会に出席する。
史料の輪読で、毎回、一人の先生が、担当範囲を読みながら解説をする、という形式である。
担当者の先生が史料を読みながら説明している最中、その先生の携帯電話が鳴った。
「ちょっと失礼します」
とおっしゃって、なんと、その先生は、説明を中断して部屋の外に出ていかれる。携帯電話に出て通話をはじめたのである。
取り残された人たちは、とくに驚く様子もなく、担当者不在のまま、議論をはじめた。
これが、数回続いて、そのたびに研究会が中断する。
百歩譲って、担当者以外の参加者が、研究会の最中に携帯電話に出る、ということは、まだわかるが、担当者が自分の発表を中断して、携帯電話に出る、というのは、やはり理解しがたい。
いままで、「懇親会で開会の挨拶している最中に携帯電話に出る」「集合写真を撮る瞬間に携帯電話に出る」という場面を目撃したが、今回の場合は、「研究会で発表している最中に携帯電話に出る」というものである。
おそるべき、「携帯電話優先社会」である。
ここまでくると、「携帯電話が鳴っても出られない状況」を見つける方が困難である。
しかし、だからといって韓国の携帯電話文化だけがいびつである、ということはできない。日本の携帯電話文化も、かなりいびつである。
韓国では、電車やバスの中で携帯メールに没頭している人を見ることは、日本ほど多くない。でも日本ではどうだ。とりつかれたように携帯とにらめっこしてメールを送ったりインターネットを利用している人を、結構みかける。
「携帯電話の比較文化論」というテーマで、誰か卒論を書いてくれないだろうか。文化人類学専攻あたりで。それとも、もうとっくにやりつくされたテーマなのだろうか。
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