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2009年6月

東アジアの片隅で、辛ラーメンをすする

語学教室は、東アジアの縮図である。

わが班の学生のほとんどが中国人、日本人は私1人、それに韓国人の先生。

そのまま、各国の人口比率をあらわしているようでもある。

「実は、日本語を勉強したいんです」と、ある時、中国人留学生は言った。

韓国語を媒介にして、中国人留学生に、日本語を教える。

ひらがなやカタカナの音をハングルに置き換えたり、言葉の意味を漢字に置き換えたり。

考えてみれば、奇妙な光景だ。

だが、東アジアの人間同士だからこそできることであるともいえる。

その、中国人留学生たちが、辛ラーメンをすする。

不思議なものだ。中国で生まれたラーメンが、日本でインスタントラーメンとして生まれ変わり、それが韓国に渡って、辛ラーメンとなる。

韓国で「ラーメン」と言えば、インスタントラーメンのことを指す。

食堂でラーメンを注文すると、インスタントラーメンが出てくる。

中国人留学生たちは、それを、美味しいと言いながら食べるのである。

これも、奇妙な光景である。

だが、これこそが、東アジア的世界ではないか?

そう。ラーメンの歩んだ道こそは、東アジア世界の本質を解く鍵である。

私は、辛ラーメンをすするたびに、東アジアに思いをいたすのである。

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座持ちの悪い旅

「座持ちがいい」という言葉がある。

「座の興をさまさないように客をもてなすことができる」とか、「その場の雰囲気に合った、適度に面白い話題をとぎれなく提供して、場を盛り上げることができる」といったような意味か。

それでいえば、私は完全に「座持ちが悪い方の人」である。食事やお酒の席などで、適度に盛り上げようとする能力もないし、また、それをあえてやろうとも思わないのである。

「座持ちのいい人間」が「出世するタイプ」であるとすれば、私は間違いなく「出世しないタイプ」である。

6月27日(土)

日本から初対面のお客さんが来て、夕食をご一緒することになった。

一時帰国から戻ってきた妻も合流して、3人で、市内でも有名な韓定食のお店に行く。その方が韓国は初めてだということで、雰囲気がよくて食事の美味しいお店を、慣れないながらも予約したのである。

ここまではまあよい。このあと、実際に食事をする段になると、何をお話ししていいのかわからなくなるのである。とくに、異業種の方なので、その思いはさらに強くなる。

妻も私と同じく、「座持ちが悪い方の人」なので、結局2人がかりで、気の利いた話題を出すこともなく食事は終わった。その方はとてもいい方だったので、かえって気を遣っていただいたのだろうと思う。

そして翌日は、その方と一緒に慶州に行くことになっていた。

6月28日(日)

朝8時半に、その方の泊まっているホテルを出発。すでにその方が、日本から、車とガイドを手配していたので、こちらは何も準備する必要はなかった。

途中、慶州でもう1人、やはり日本からいらしたその方の知り合い、という方と合流し、合計4人で慶州をまわることになった。

初対面の方の知り合い、ということになると、もはや全く接点がない。

まあ、現地ツアーなんて、一般的にそんなもんだから、現地ツアーだと思えばいいのか。

かくして、「座持ちの悪い旅」の始まり。

車が貸切なので、どこに行きたいかについては、かなり自由がきく。

この旅を提案された初対面の方は、「博物館と仏国寺に行きたい」とおっしゃる。

車中のガイドさんの話を聞いていて、行きたくなったところがあった。

慶州のはずれにある、「良洞(ヤンドン)民俗マウル」(マウルは「村」の意)という、民俗村である。

朝鮮王朝時代の両班(ヤンバン)の集落が現代に残っているという集落で、以前、同様の民俗村として安東の「河回(ハフェ)マウル」というところに行ったことがある

ところがそこは、観光地が進んでいて、ちょっと興ざめしたのである。

良洞マウルはどうだろう。あまり知られていない分、それほど手が加えられていないのではないか。

ほかの人たちも、同じく興味を抱いたようで、急遽、まず最初に良洞マウルに行くことになった。

慶州の中心地から、車で40分くらいのところに、その民俗村はある。

現在、河回マウルとともに、ユネスコの世界文化遺産の指定に向けて、運動を続けているという。

Photo 到着すると、現地のガイドの方が、急遽日本語で案内してくれることになった。

「実は、日本語でお客さんをご案内するのはこれが初めてなんです」

とそのガイドさんは言った。これから世界遺産を視野に、日本人観光客を呼び込む必要から、日本語のガイドを用意する必要が出てきたのだろう。私たちは、どうもその最初の実験台にされたらしい。

しかし、その説明は適切であったし、日本語も上手である。

思うに、これがもし慣れたガイドさんであれば、経験を重ねていくうちにさまざまな要素をつけ足していって、どんどんと話が長くなっていったり、面白い話の方を優先してしまったりすることがあるのだろうが、このガイドさんは、必要な説明を適切に行ってくれたのである。

なかでも面白かったのは、次のような話だった。

この良洞マウルの近くには、東海南部線という鉄道が走っているが、良洞マウル付近で大きく南に迂回している。

実は植民地時代に、この良洞マウルの南端部をかすめるように鉄道を通す計画があった。

ところで、この良洞マウルは、いくつもの谷が入り組んだ山あいに、両班の集落が形成されている。その集落の分布の様子は、あたかも漢字の「勿」という文字を書くがごとくであった。

ところがその集落の南端に、鉄道が直線的に通るとなると、どうなってしまうか。集落は鉄道によって、「勿」の字の下に「一」の字を加えた、あたかも漢字の「血」の文字のようにみえてしまう。これは、儒教的な考え方からいうと、たいへん縁起が悪い。

つまり鉄道を敷くことは、良洞マウルの儒教的世界観を汚すことになる、と考えられたのである。

その結果、鉄道は、良洞マウルの南端部をかすめることなく、大きく迂回することになった、というのである。

地図を見てみると、たしかに、鉄道は良洞マウルの付近で不自然に大きく迂回していた。

この話を聞いて思い出す。これは、いわゆる「鉄道忌避伝説」ではないか?

日本の各地には、「鉄道忌避伝説」がある。

私の実家がある町は、江戸時代の宿場町であった。明治時代、この町に鉄道を通す計画が持ち上がったとき、地元の産業が衰退して町が廃れるとか、蒸気機関車の煙が危険である、といった理由で、宿場町の住民は猛反発した。その結果、鉄道が、宿場町を避けて、宿場町のはるか北を通ることになったのだ、という。

似たような話は全国にあるのだが、私も子どものころ、地元の歴史としてそのように教わってきた。だが最近の研究では、この話には根拠がなく、真相は別のところにあり、こうした「鉄道忌避」の話は、一種の伝説として、人々に受け入れられていったのだという。

近代の鉄道敷設にまつわる、奇妙な伝説…。

言ってみれば、良洞マウルの話は韓国版「鉄道忌避伝説」である。韓国の鉄道建設が日本の植民地時代と大きく関わっている点も、韓国における「鉄道忌避伝説」の誕生と関係しているように思えて、興味は尽きない。

さて、良洞マウルは、期待したとおりに、手が余り加えられていない、素朴な民俗村であった。これ以上、あまり手が加えられないことを願いつつ、ガイドさんにお礼を言って、良洞マウルをあとにした。

この時点で、気温は30度をおそらく超えていただろう。炎天下の集落を歩いたので、すでに少しバテ気味である。

昼食後、仏国寺、古墳公園、博物館を見学するが、すでに何度か来たことがあったことに加え、午前中の達成感と、暑さによる疲労感で、集中力はすでに欠如。申し訳ないことに、ガイドさんの能弁な解説ももはや耳に入らなくなっていた。

車中でも、座持ちのいい会話をするわけでもなく、すっかりとだんまりを決め込んだまま、みなさんとお別れした。

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パンジャンニムの観察力

6月26日(金)

今日も大邱は暑い。35度を記録した。

3級6班のこれまでにない特徴は、女子学生の比率の高さである。1級1班の時は1人、それも、途中でやめてしまったので最終的にはゼロだったし、2級4班の時には16人中3人だった。今回の班は、16人中7人が女子学生である。

言ってみれば、1級1班は男子校のノリ、3級6班は共学校のノリ、といった感じである。

これは私の勝手なイメージだが、男女がほぼ同数いると、お互いが遠慮しあって、あんまり馬鹿なマネはしない。だから1級の時のような破天荒な面白さは、ほとんどないのである。

そして女子学生は基本的にまじめで優秀であるため、2級4班の時のような荒唐無稽な会話練習が行われることもない。

なので、2級までの時とくらべると、格段にまじめな教室なのだが、単純で単細胞な男子学生ばかりと違って、女子学生は、性格の違いが明瞭にわかるので、観察しているとそれなりに面白いのである。

わが班のパンジャンニム(班長殿)は、女子学生のクォ・チエンさんである。

典型的な学級委員のタイプ、といったらいいだろうか(といっても、学級委員のイメージなんて、人によってバラバラかも知れないが)。「いたな、中学校の時、こういう学級委員が」といった感じの子なのである。

成績が優秀で、授業中も積極的に発言する。宿題のノートの回収や返却もてきぱきやる。

そして、どちらかといえば鈍くさいタイプの女の子に、いつも頼られていて、彼女もその子に対して面倒見がよい。

まさに学級委員によくいるタイプではないだろうか。

さて、1週間ほど前のことである。

9月に全国で実施される韓国語能力検定試験の対策のための特別講座を、7月から開講するので、受講してみたいと思う人は申し込んでください、と、担任のナム先生からお話があった。

それほど高くない受講料で受講できるとのことだったので、せっかくの機会だから申し込むことにした。

「希望する人はこの紙に名前を書いてください」と先生がおっしゃったので、まわってきた紙に名前を書いた。

そして今日の休み時間。

パンジャンニムのクォ・チエンさんが、私に話しかけてきた。

「7月からの特別講座、受けますよね」

「うん」

「昨日、先生から個別に希望者に振り込み用紙が渡されて、今日、お金を振り込んできたんですけど、昨日、もらってないでしょう?」

「え、そうだったの?」

全然知らなかった。そんなことがあったのか。

「たぶん、先生が忘れてるんだと思います」

「じゃあ、あとで先生のところに言いに行けばいいのかな」

「私、いまから先生の部屋に行く用事があるので、先生に聞いておきます」

「ありがとう」

パンジャンニムは、5階の先生の部屋へと向かった。

それにしても、不思議である。

私は、パンジャンニムに、7月の特別講義を受講するつもりだなどと、一言も言ったことはなかった。ただ申請書に名前を書いただけなのである。

それに、昨日、先生から申請者に個別に渡されるべき振り込み用紙が、私にだけ渡されなかったことを、彼女はなぜ知っているのだろう。

彼女は、私が特別講義を受講するつもりである、ということと、昨日、その振り込み用紙を受け取らなかった、という2つのことを、誰に聞くこともなく、知っていた、ということになる。

もちろん、申請書がまわってきたときに、私の名前が書いてあったのを覚えていた、ということなのだろう。

そして、当然振り込み用紙を渡すべきはず私に、先生が渡していないことも、見て知っていたのであろう。

それにしても、恐るべき観察力である。

こりゃあ将来、団地にでも住もうものなら、隣近所の出退勤時間からゴミの出し方に至るまで、事細かに観察するかもしれないぞ、などと、またヘンな妄想が始まる。

そんな妄想はさておき、わが班の隅々まで観察が行き届くのは、まぎれもなくパンジャンニムとして必要な資質であり、選ばれたのにはやはり理由があったのだと、心から敬意を表した。

休み時間が終わって、先生が教室に入ってきた。

私のところに来て、

「振り込み用紙、今はないので、来週の月曜日に渡します」

とおっしゃった。

ここからは例によってまた私の被害妄想だが、なんとなくその言葉のニュアンスに、

「てめえ、いい年齢(とし)して人に頼んで聞いてもらってるんじゃないよ。いい大人なんだから、自分で聞きにきなさい!」

といわれている感じがして、また少し落ち込んだ。

忘れていたのは先生だし、パンジャンニムが善意で聞きに行ってくれたにすぎないのだが。

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気分は名探偵

6月25日(木)

1週間ほど前、サムギョプサル屋のアジョッシ(おじさん)に依頼された人捜し

いまから15年ほど前に関釜フェリーで知り合った、2人の日本人女性と連絡が取りたいのだが、私(アジョッシ)は日本語がわからないので、15年前に聞いた電話番号のところにかけて、私の連絡先を伝えてほしい、という依頼。

日本に一時帰国した妻が、さっそく、渡されたメモに書かれた電話番号のところにかけてみることにした。

しかし、なんと言ってかければよいのだろう。突然見知らぬ者から、しかもいきなり15年前の話を持ち出されて、不審がられないだろうか?

それに、犯罪がらみとか、宗教がらみとか、そういった面倒なことにはならないだろうか?

さまざまな不安が頭をよぎる。

できるだけ不審がられずに、こちらの真意をわかっていただくにはどうしたらよいか。何度もシミュレーションを重ねた上で、電話をかけることにする。

託されたメモには、2人の女性の名前がローマ字で書かれており、そのそれぞれに、「03」から始まる電話番号が記されている。

2人のうちの1人は、かけてみると「この電話は、現在使われておりません」というメッセージが帰ってきた。

残るもう1人に電話をかけてみる。

呼び出し音が鳴るようだが、全然出ない。

何日かくり返えしかけてみたが、やはり電話に出ないようである。

そしていよいよ今日。

何回かの呼び出し音のあと、ガチャッ、と、受話器を取る音がした。

「もしもし、もしもし」

「ハロー」と女性の声。

「もしもし、…あのぅ…○○○サチコさんのお宅ですか?」

「イエス?」

「○○○サチコさんのお宅ですか?」

「イエス?…アイ・ドント・スピーク・ジャパニーズ」

様子がおかしい。相手は英語を使っている。そこで妻も英語を使うことにした。

「アー・ユー・ミス・○○○サチコ?」

「ノー!」

ガクッ!探している人物ではなかった。

「フー・アー・ユー・ルッキング・フォー?(誰をさがしているの?)」

今度は電話の相手が聞いてきた。

「○○○サチコ」と妻が答えると、電話の相手は、

「○・○・○・サ・ツ・コ…」

と名前をくり返し、

「アイ・ドント・ノウ。…ヒア・イズ・ア・ホスピタル」

と言って、電話は切れてしまった。

???となったのは妻の方である。

以下はスカイプでの会話。

「…ということは、結局、電話の主は変わってしまってた、てこと?」と私。

「でも、わからないのは、その人の英語もカタコトだったんだよね。どうも言葉の感じからすると、フィリピンの人みたいなんだけど」

「で、最後に『ここは病院だ』と言ったんでしょう。じゃあ電話に出た人は、病院の先生?看護師?それとも患者?」

「さすがに患者は出ないでしょう。看護師かな、という気もするけど。でも日本で英語しか通じない病院なんてないよね」

「たしかに、そうだな」と私。

「思うに、『ホスピタル』という名前のフィリピンパブなんじゃないかなあ」

妻の仰天推理である。

ここへきて、謎がさらに深まる。いったい電話に出た相手が最後に言った「ホスピタル」とは、本当に病院のことなのか?病院だとしたら、なぜカタコトの英語を話すフィリピン人女性らしき人が、電話に出たのか?

「電話番号の感じだと、どうも世田谷区の○○○あたりなんだよねえ」と妻。

「だったら家から近いじゃん。滞在日数があと1日あるんだから、そのあたりをしらみつぶしにさがしてみたら?」

「なんでそこまでする必要があるの?そんな暇じゃないよ!」

さて、問題は、この捜査結果を、サムギョプサル屋のアジョッシにどう伝えるか、である。たんに「電話番号のところにかけたら、全然別の人が出ました」とだけ言えばいいのかな。

(注 タイトル「気分は名探偵」は、1984年に放映された水谷豊主演の同名ドラマより)

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爆音の空

昨日(6月23日)は、沖縄「慰霊の日」だった。

1945年6月23日。沖縄における地上戦が「終結」したとされる日である。

2年ほど前、はじめて沖縄を旅行した。

沖縄入りしたその日の夕方、浦添グスクを見学していると、眼下に浦添の市街地がひろがり、遠くに宜野湾市の普天間飛行場が見えた。

しばらく眺めていると、1機の飛行機が滑走路から飛び立ち、まさに私のいる方に向かってくる。爆音をあげて、ちょうど私の目の高さに飛行機が突っ込んでくるような錯覚にとらわれた。

襲われる恐怖を覚えて、とっさに身構えると、飛行機はあざ笑うかのように私の頭上をすり抜けていった。

(沖縄の人たちは、毎日この恐怖と戦っているのか…)

「基地のある島」を実感した瞬間だった。

私は、沖縄について何も知らなかった(知ろうとしなかった)ことを恥じた。

Photo その後、長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」が公開された。

私はこの映画を、劇場で3回見た。

ラストシーンの、証言者の言葉が、とりわけ印象的である。

この映画は、テレビ放送やDVD化の予定がないという。

今日も日本のどこかで、上映されていることだろう。

Photo_2 岡本喜八監督の映画「激動の昭和史・沖縄決戦」もDVDで見た。

戦争映画の傑作というには、あまりにも痛ましく、悲しい名作である。

岡本監督が、この映画の撮影でかなり憔悴した、というのもうなずける。

いま、私が住んでいる大邱も、基地の町である。

時折、大学の上空を戦闘機の爆音が鳴り響く。

そのたびに、少し身構えてしまう。

そしてそのたびに、あの沖縄の空を思い出す。

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あなたならどうする?

6月24日(水)

今日は2回目のマラギ(会話表現)の試験である。

マラギの試験は、2人がペアになって、決められた設定にしたがって3分ほどの会話を行う。ペアとなる人は、くじ引きによって決められ、普段の授業でも隣同士に座って会話練習をしなければならない。

前回の第1回の試験は、当日私が欠席してしまったため、後日、同じく欠席したリ・プハイ君と急きょペアを組み試験に臨んだが、リ・プハイ君のとんでもない行動に翻弄され、散々な目にあった。

つまりマラギの試験は、ペアになる相手がだれになるかによっても大きく左右されてしまうのである。

今回の相手は、チャン・チンさんである。だが、このチャン・チンさんとは、なんとなく相性が悪い。

本人は決して悪い子ではないし、韓国語もよくできるのだが…、うーん。相性が悪い、としか言いようがないのである。

妙に自信家で負けず嫌いなところとか、毎日のパダスギ(書き取り試験)で思いっきりカンニングしているところとかが、なんとなくイヤだなーと、大人げなくも思ってしまっているのかもしれない。

今日の授業で扱ったテキストに、干支占いみたいな表が載っていた。

授業中、小声で「干支は何ですか?」と、チャン・チンさんが聞いてきたので、「酉年だよ」と答えると、何やら必死に計算を始めだした。

しばらくして、計算の結果を書き込んだ数字を私のほうに見せてきた。

「53歳?」

ええぇー!?いままで私は53歳にみえていたのかぁぁぁ???

あまりのショックに、言葉が出ず、首を横に振る。

チャン・チンさんは、首をひねりながらもう一度計算をしなおした。

「41歳?」

たぶん数え年で計算しているんだろうな、と思いつつ、首を縦にふったが、当のチャン・チンさんは、納得しない様子である。

これでますます、チャン・チンさんとの心の距離が開いてしまった。

さて、肝心の試験である。

あらかじめ、マラギの時間に練習したところから出る、と言われていたため、ヤマを張ることができた。おそらく出るであろう問題は、先週の金曜日に行った授業での設定である。

先週金曜日の会話練習は、次の二つの設定が出された。

【設定1】クリーニング屋の主人と客の会話。

(客の立場)クリーニング屋さんから戻ってきたお気に入りの背広を見てみると、色がちょっと変わってしまっていた(色落ちしていた)。母からもらった思い出の背広なので、明日の修了式にはどうしても着ていかなければならない背広である。クリーニング屋の主人に何とかしてもらおうと、クリーニング屋へ文句を言いに行くことにした…。

(クリーニング屋の主人の立場)妻から電話があって、息子が急に病気になったので家に早く帰ってきてくれという。おそらく病院に連れて行かなければならないので、今すぐクリーニング屋を閉めなければならない。そんなおりに、さっき背広を受け取りに来たお客さんが、さっきの背広を持ってまた店にやってきた…。

〔設問〕さあ、このあと、どうすればこの問題は解決するでしょうか。お互いの立場をふまえて、3分程度の会話をつくりあげ、よりよい解決方法を見つけなさい。

【設定2】留学生と大家さんの会話

(留学生の立場)夜遅くまで図書館で勉強して、部屋に戻ってみると、エアコンが故障していた。何日か前からおかしいなと思っていたのだが、とうとう故障したのだ。今日は朝から40度の暑さで、夜になっても全然気温が下がらない。明日は試験だというのに、これでは寝ることもできない。夜遅いことは重々承知しているが、いまから大家さんのところに行って、何とかしてもらうように頼んでみよう…。

(大家さんの立場)最近、留学生たちが、やれエアコンが故障しただの、電気が故障しただの、トイレが詰まっただのと言ってくる人が多くて困っている。せっかく直してもまたすぐに壊れた、って言ってくる。私の考えでは、きっと留学生たちが乱暴に使用しているからすぐに壊れてしまうに違いない。それに、うちは良心的な値段で部屋を提供しているのだ。にもかかわらずこんな目に合うとは。今日も夜11時だというのに1人留学生が訪ねてきた。こんな遅くに何だろう…。

〔設問〕さて、留学生は今晩安眠できるのか?どうすればこの問題を解決できるのか、お互いの立場をふまえて、3分程度の会話をつくりあげ、よりよい解決方法を見つけなさい。

先週の金曜日は、わが班のみんながこの会話を見事につくりあげ、先生に褒められていた。私も彼らの底力に驚嘆したのである。

たぶん、試験もこの2題のうちから1題を選択して与えられるのだろう、とヤマを踏んだ私は、この2題について完全台本を作り上げた。しかもご丁寧なことに、私の分と、チャン・チンさんの分の2部を作製したのである。

前日に、明日の12時40分に教室に来て練習をしましょうと約束していたのだが、チャン・チンさんが来たのが、12時50分過ぎ。もうほとんど授業が始まろうという時間である。

時間に遅れたことで、ますますチャン・チンさんとの溝が深まる。

時間がなかったので、結局練習はできず、書いてきた台本を渡して、「これを覚えてください」とだけ言った。

4時間目。マラギの試験の時間。

くじ引きで順番が決められ、みんなの前で会話をしなければならない。私たちは3番めだった。

試験問題は、予想した通り、2つの設定から1つを選んで会話する、というもの。ただし、どちらを選択するかは、先生がその場で決める。

私たちは、【設定2】の「留学生と大家さんの会話」をすることになった。丸暗記した内容を、不十分ながらも何とか言い終える。

ほかのグループの会話が聞けたことが、何といっても収穫だった。授業の合間を惜しんで練習していた2人が、本番で思うようにいかなかったり、全然授業に出ていなかった学生が意外と健闘したりと、試験はやはり水ものである。

あと何回、この試験地獄が続くのだろう。

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卵かけご飯

以前、ある漫才コンビが2人揃って言っていた。

「やっぱり、ペヤングソース焼きそばと卵かけご飯の組み合わせは、最高やね」

育ちが知られる発言だが、同感である。

韓国で言えば、「疲れたときの、辛ラーメンとキンパプ(のり巻き)は最高の組み合わせ」といったところか。

漫才コンビの発言を思い出し、久しぶりに卵かけご飯を食べることにする。

ただし、即席焼きそばは売っていないので、それに近いものを買い求める。

卵かけご飯をかっ込んでいて、ふと思い出したことがあった。

いまや世界的に有名なベースボールプレイヤーのインタビューである。

「卵かけご飯って、なんか、白いご飯に失礼な気がするんですよね…。だからあまり食べないです」

まだそんなに有名じゃなかったころのインタビューが、ふと頭によみがえる。

なぜそんなことを急に思い出したか、というと、私も当時、それを聞いて、同じ思いをしたからだった。卵かけご飯を食べていて、美味しいと思いながらも、なんとなく罪悪感を感じてしまうのは、そういう思いからではないか、と、彼の話を聞いて合点がいったのであった。

ところがその後、その選手は世界的に有名なベースボールプレイヤーとなり、去年だったか、某国営放送が彼の密着ドキュメントを放映した。

そこで彼は、日常生活を惜しみなく披露するのだが、その中で、毎朝欠かさずカレーを食べる姿が映し出される。

「毎朝、妻の作ったカレーを食べないとダメなんです」

ん?

…思いっきり白い飯を汚してるやんけ!!!

卵かけご飯をかっ込みながら、脳の奥底に沈んでいた記憶がぽっかり浮かび上がる。

たぶん二度と思い出すこともないだろうから、ここに書きとめておく。

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文体の自由

6月23日(火)

今日は、スギ(作文)の試験の日である。

今学期に入って、試験の負担が増えた。いままで、中間試験、期末試験、そして4回の「クイズ」だったのが、マラギ(会話表現)試験2回と、スギ試験2回が、新たに追加された。

どうも、今学期から、新たに試みられた制度のようである。

学生の語学力のうちで、マラギとスギが弱いことが、教員の間で問題になったのだろう。マラギは確かに弱いし、スギも、先日、他の学生の作文を読んでみて、たしかにテコ入れが必要だ、というのもわかる。

しかし、負担は増える一方だし、制度は複雑になりすぎて、もはや訳がわからない。仕組みをいじりすぎると、かえってうまくいかないのではないか、と他人事ながら心配になる。

とはいえ、授業改善に対する先生方の意欲には凄まじいものがある。

さて、そのスギ試験だが、これがちとややこしい。

まず、3時間目の1時間を使って、与えられたテーマにもとづいて、作文の構成を考える。各人に構成表が配られ、その構成表に、作文に必要な要素を書き込んでゆくのである。

今日の題目は「ストレス」。ストレスはどんな時に溜まり、どこで、どうやって解消するのか、その方法を書け、というものである。

構成表の上段には、「ストレス」と書かれた文字を中心に、放射状に「いつ(受けるのか)」「どこ(に行けば解消されるか)」「何(をすれば解消されるか)」「(ストレスの)良い点」「悪い点」といった項目が並べられていて、そこに、思いついた単語を書き込んでゆく。

しかも、これをひとりで考えるのではなく、3人のグループで話し合って書き込んでゆくのである。

なんで自分の書く文章を他人と話し合って決めなければならないんだ?と、まずこの時点で違和感を覚える。話し合ったところで、文章がよくなるのか?

「そうした対話も含めて授業でしょう」と妻の言葉。なるほど、そういうことかもしれない。

話し合って出てきたことを、書き込んでゆくと、先生がすかさず、「文章の形で書いてはダメです。単語だけ書きなさい」と注意する。

単なるメモじゃねえか。メモの書き方まで指示されるとは、窮屈この上ない。

だが仕方なく従うことにする。

さて、構成表の下半部には、「序論」「本論」「結論」と書かれた表がある。上で思いつくままに並べた単語を、今度は文章構成の中に当てはめていく作業である。小学校の作文の時間のとき、「起承転結」とか「序破急」とか、習った記憶があるが、まさにそれをここでもやろうとしているのである。

ここでも、文章を書き込もうとすると、「これは構成ですからね。文章を書いてはいけませんよ」と、やはり注意される。

どう書こうと勝手なような気がするのだが、メモの段階ですでに、作法が決められているのである。

そして、その構成表のメモも、評価の対象となる。

そう、まさにこれは、小学校の作文の時間を思い出すような作業である。

40歳になって、作文の書き方をあらためて教わるとはね。なんか長年慣れ親しんできた打撃フォームを直される野球選手のような心境である。

「文章の設計図」を書いてから、作文を書き始めるなんて、何十年ぶりだろう。自分が今まで、いかに好き勝手に文章を書いていたかが思い知らされる。

そして4時間目、本番のスギの試験。

構成表のおかげで、以前よりスムーズに文章が書けた(ような気がする)。まあ、前の時間にあれだけ時間と人力をかけて練ったのだから、当然と言えば当然なのだろうが。

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雨の日は、ビデオ鑑賞

6月22日(月)

「チャンマ」。韓国語で「梅雨」を意味する言葉である。

先週の土曜日から、大雨の日が続いている。今日も午前中はものすごい雨だった。

体調の悪さも手伝って、気が重い。

午後、朦朧とした意識で、語学の授業に向かう。

後半のマラギ(会話表現)の授業。

「みなさーん。今日はみんなでビデオを見ますよ」と先生。

考えてみれば、授業でビデオを見るのは、はじめてである。何でもっと早くこういう企画がなかったんだろう。

韓国の教育テレビで放映された、世界紀行のドキュメンタリー番組を見るという。

1人の青年が、世界をひとり旅して、さまざまな人びとや文化と出会う、というもの。そのメキシコ編。

日本の某国営放送で、関口知宏(関口宏の息子)が中国を列車で旅する、て番組あったよね。まさにあんな感じの番組である。

ヒッチハイクで旅をする青年。たまに故郷が懐かしくなり、夕食時に、持ってきたキムチをほおばる。「故郷が懐かしくなったときの、最高の薬です」と彼は言った。

やがてメキシコのサンクリストバル・デ・ラスカサスという町に到着。マヤ文明崩壊後に、先住民が移り住んだ土地といわれる。

さらに青年は、サンファン・チャムラという町に向かい、そこの青空市場を見学する。カメラを向けようとすると、かたくなに拒否されてしまう。写真を撮られると、魂が抜けると考えられているらしい。

市場を見学したあと、町の中央にある聖堂に入ることにする。

メキシコは、国民のほとんどが敬虔なカトリック信者である。

ところが、青年は聖堂に入って言葉を失った。

聖堂の中の様子は撮影できないため、神父(?)の家に連れていってもらい、聖堂で行われている祈祷を再現してもらうことにする。

そこには、無数のろうそくの火がともされ、異様な雰囲気の中で祈祷が行われる。

そして、なんとコーラが聖水として使われる。さらに鶏が犠牲として献げられた。それに、なぜか鶏卵も祈祷に使用されている。

祈祷が終わると、神父(?)のアジョッシ(おじさん)は、その聖水のコーラをゴクゴクと飲み干した。

メキシコは、コーラの消費量が世界一である、と聞いたことがあるが、こんなところにもコーラが使われているのか。

もともとの土着の宗教に、キリスト教が融合した形を、ここに見る。

さて、青年は、このあと、サパティスタというところに向かう。

全くの不勉強だったのだが、サンクリストバル・デ・ラスカサスの近くには、メキシコの先住民を中心に組織される、非武装の反政府ゲリラ「サバティスタ民族解放軍(EZLN)」の拠点がある。

1994年1月1日、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効日に、EZLNは、「NAFTAは貧しいチアパスの農民にとって死刑宣告に等しい」 として、メキシコ南部のチアパス州で武装蜂起した。

この協定には、グローバル化の名の下に、メキシコ政府が、チアパスの資源開発を進め、先住民を一掃、強制排除しようとするねらいがあったという。つまりこの協定で犠牲となるのは、貧しい農民や少数民族たちであった。

当初は武装蜂起した彼らだったが、次第に対話路線を重視し、現在では武力に頼らず、インターネットを介して自らの主張を展開するなどして、世界的な支援を得ているという。

サバティスタの拠点に入り、活動家と対面する。彼らは、いつも目出し帽をつけて活動しているが、唯一表情をうかがい知ることができる目が、とても優しい目をしていた、と青年は述懐した。

このあと、青年は、世界遺産のパレンゲ(古代マヤ文明の都市遺跡)に向かい、番組はひとまず終わった。

「どうでしたかー?」まず先生が、私に聞いた。

「とても面白かったです」

実際、文化人類学的にも、現代史的にも、はじめて知ることばかりで面白かったのである。

先生がひとりひとりに感想を聞いていく。「世界旅行に行ってみたいと思いますかー?」

「お金があれば行ってみたいです」と答えた学生が多かった。

「お金があれば行きたい、という考えをしてはダメですよ」と先生。「世の中には、お金があっても旅行に行かない人だっているでしょう。お金がないから旅行できない、という考えはしてはいけませんよ。お金がなくても、行きたいという気持ちがあれば行けるんですよ。みなさんまだ20代でしょう。時間もたくさんあるんだし、海外旅行にどんどん行きなさい。それも、行きやすいところではダメですよ。多少行くのが大変な場所でも、行ってみたらよい経験になるんですよ」

その言葉、私が20代の時に聞きたかった。

その言葉で思い出したのが、私の高校時代の1つ下の後輩。

一流といわれる大学を出たが、就職せず、自分の好きな音楽と写真に明け暮れ、1年に数回、大好きなブラジルを旅している。競馬で儲けた金をブラジルにつぎ込み、ブラジルで写真をとり、たまに個展を開いているという。気の合う仲間とボサノバのバンドを組み、ライブもしているようだ。ただ残念なことに、ほとんど日の目を見ていない。

「もう40歳だというのに、いい歳をして、馬鹿で不器用なやつだな」と思ってしまうのだが、彼の人に対するまなざしは、誰よりもあたたかい。ブラジルで撮った写真を見ればそのことがよくわかる。地球の裏側の人たちと接することを通じて、培われたものなのかも知れない。

だから、彼を知る者は、彼を愛してやまないのだ。たとえて言えば、「寅さん」のようなものか。

40歳になって、ようやく気づく。

あの、メキシコを旅した青年のように、ブラジルを旅する後輩のように、私もこれから旅をすることができるだろうか。

授業が終わると、外はすっかり雨があがっていた。

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過労でダウン

6月19日(金)

夕方5時、語学の授業終了後、そのまま東大邱駅に向かう。KTXとタクシー、バスを乗り継いで、3度目の扶余である。

業界の先輩数人が、扶余の博物館の特別展を見に来られるというので、合流することになったのである。

午後8時半。約3時間半かけて扶余に到着。ご一行と合流して、夜12時頃まで、久々にみなさんとお酒を飲みながらお話しする。

翌6月20日(土)は、朝から扶余を史跡や博物館を見学。午後2時半ごろ扶余を出発し、夜6時頃東大邱駅に到着。ここで、ご一行と別れた。

そして妻は、このまま日本に一時帰国するため、19時20分の空港行きのバスに乗る。

バスを見送り、なんだかんだで家に戻ったのが9時頃。

6月21日(日)

朝起きると、原因不明の腹痛に悩まされる。まったく起き上がることができない。結局、終日、飲まず食わずで寝たきり。

それでも、明日提出する宿題をやらなければダメだ、と思い、夜10時過ぎに起き出し、朦朧とした頭で宿題をこなす。

6月22日(月)午前。

なんとか歩けるまでに回復したが、意識がまだ朦朧としている。今週は、試験が2つあり、週末は別の知り合いを案内する予定が入っている。体調の回復に努めよう。

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話に熱中すると手が止まる方の人

6月18日(木)

6月に入ってから、休みらしい休みがない。

新学期になって、とたんに難しくなった語学の授業についていくのが必死なのと、学会発表やらタプサ(踏査)やらで北へ南へと走り回っていることが原因である。

妻も、5月末から韓国へ来て以降、ほとんど休みがないため、いささかバテ気味である。

午前中、大学の某先生から「今日の夕方、会食がありますので、奥さんと一緒に参加してください」と電話があった。

毎週木曜日の夜にやっている研究会の暑気払い、といったところだろうか。韓国の大学は、いまが学期末の試験期間で、来週あたりからパンハク(長期休暇)となるので、前期の打ち上げを兼ねたものであろう。

なかなか自由な時間がない、というのが、私たちの本音であった。

さて、語学の授業では、「○○する方(ほう)である」という表現を学ぶ。

日本語でぴったり来る語感はあまり思いあたらないのだが、

「私の家は、広い方です」

とか、

「うちの学生は、公務員志望が多い方です」

といった使い方をする。実際、話をしているのを注意深く聞いていると、よく使われる表現のようだ。

授業が終わり、某先生の車で、会食の会場に向かう。

車中、いろいろ会話をしていると、

「大邱は、夏は暑い方です」

と先生がおっしゃる。やっぱり、「○○する方だ」という表現は、よく使われているのだ。

14人ほどが集まって、牛肉の焼肉を食べる。韓牛のようで、とてもおいしい。

また、みなさんとの会話もはずむ。といっても、みなさんのお話をもっぱら聞いているだけなのだが。

お話しされている内容もだいたいわかるようになり、楽しい時間を過ごすことができた。

だがみなさんと別れたあと、さっそく妻のダメ出し。

「お話を聞いているとき、なぜ箸が止まるの?」

せっかくおいしい牛肉が目の前にあるのに、なぜ、話を聞きながら牛肉を食べないのか、というのである。妻には、それがまったく解せないらしい。

これは昔からの私の癖で、話に熱中したりしていると、とたんに手が止まってしまうのである。つまり、2つのことを同時にできないのである。そのことをよく知っている妻は、「ほーら、また始まった」と思ったのだろう。

そう。私は「話に熱中すると手が止まる方の人」なのである。

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ワン・ウィンチョ君と五十音表

6月17日(水)

昨日のことである。わが班のワン・ウィンチョ君が私に話しかけてきた。

ワン・ウィンチョ君は、1級1班でいっしょだったチャオ・ルーさんのナムジャ・チングである。以前は、見た目のチャラチャラした感じから、あまりいい印象をもっていなかったのだが、3級で同じ班になって、韓国語を熱心に勉強している姿を見て、ガラリと印象が変わった。韓国語の勉強を楽しんでいるし、まじめだし、好青年である。

「実は、日本語を勉強したいんです」と彼は言う。

「『五十音』っていうのがありますよね。あれを、覚えたいんです」

つまり、「あいうえお」を習いたい、という。

「明日の休み時間でかまいませんので、教えてください」

しかし、教える、といっても、どうやって教えたらよいのかよくわからない。それに、授業の休み時間では、時間が短かすぎて、五十音をすべて教えることは不可能だろう。

そこで、昨日の授業が終わったあと、家に戻って、ひらがなのカタカナの「五十音表」を作成することにした。

小学校の時に習った五十音表を、実に久しぶりに作成する。

「あいうえお」だけでは発音がわからないので、それぞれの字の下にハングルで音を表記する。

ひらがなとカタカナ、それに、濁音・半濁音や拗音などもすべてハングル対照表を作る。

かくして、A4で4枚相当の五十音表が完成した。我ながら、かなり見やすい五十音表である。

そして今日の休み時間。

ワン・ウィンチョ君がノートを持って「教えてください」とやってきた。

「五十音表を作ってきたよ」といって、その五十音表を見せると、まさか作ってきたとは思ってもみなかったようで、たいそう驚いていた。

やがて、その五十音表に気づいたまわりの中国人留学生たちも、周りに寄ってくる。

「私も欲しいです!」と次々に手をあげるが、こちらも人数分作るほどお人好しではない。「あとでコピーしなさい」と答える。

ワン・ウィンチョ君は、さっそくひらがなの読み方の勉強をはじめる。

まず最初に挑戦したのは、五十音表の表題として書いた「ひらがな」という文字である。

五十音表のハングル音をたよりに、この4文字を声に出して読んでみることにする。

「ひ」「ち」「が」「な」

「『ち』じゃないよ。『ら』だよ。ほら、ここにあるだろう」と、私は五十音表の「ら」のところを指さした。

「あ、これかー。形がそっくりで難しいですよ」

そんなもんかなあ、と思う。

同じ調子で、今度は「こんにちは」「私は中国人です」といった言葉を声に出して発音する。

「韓国語と文法が同じなんですね。はじめて知りました」

「ひらがなは難しいです。でも(字の形が)美しいですね」

彼にとって、日本語はかなり新鮮だったようだ。

その様子を冷めた感じで見ていた、大人びていてしっかり者のクォ・リウリンさんは、ワン・ウィンチョ君に「一度、おごってあげなきゃダメよ」と笑いながらアドバイスした。

休み時間が終わり、マラギ(会話表現)のナム先生が教室に入ってきた。「どうしたの?」

「日本語の勉強です」ワン・ウィンチョ君が、五十音表を先生に見せた。

「あら、韓国人が学習するにも便利な表ね」と、いったん感心するも、

「でも、いまは韓国語の勉強の時間ですよー。まずは韓国語の勉強をしっかりやりなさいよー」と、釘を刺す。

全くの正論である。

でも、思いのほか彼らに好評だったことに気をよくした私は、今日も家に帰って、日本語学習教材の第2弾を作ることにした。誰にも頼まれていないのだが。

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名探偵登場!

6月16日(火)

今学期最初の「クイズ」(小試験)をなんとか乗りきり、ホッとする。夕食は妻と一緒に大学の近くでサムギョプサルとビール。ささやかな打ち上げである。

店の主人であるアジョッシ(おじさん)にビールとサムギョプサルを注文すると、「日本人ですね」と、かたことの日本語で話しかけてきた。

韓国の人の多くは、日本人だとわかると、簡単な表現については日本語で話そうとするが、こみ入った内容の話をしようとすると、英語で話しかけようとする。日本人はみな英語がペラペラだと思われているのだろうか。

そのアジョッシも、英語で話しかけようとしたので、こちらも必死に韓国語で応酬する。いまとなっては、英語でコミュニケーションをとるより、韓国語でコミュニケーションをとった方がはるかにましだからだ。

食事が終わり、会計を済ませようとレジに向かうと、レジに先ほどのアジョッシが立っていた。

「本当に韓国語がお上手ですねえ」と妻に向かって言う。

「アジョッシも、日本語がとてもお上手ですね。どこで習ったんですか」と妻が聞き返す。

「ひとつ、お願いしたいことがあるんですが」と、アジョッシが思いつめたように言葉を続ける。

「いまから14~15年前、釜山から下関に向かうフェリーで、2人の日本人女性と会ったんです。そのとき、名前と電話番号を書いてもらったのですが、私は日本語がわからないので、ずっと連絡できないままでいました。日本に戻ったら、その女性と連絡をとって、私の連絡先を伝えていただけないでしょうか」

そう言うとアジョッシは、レジの下から、古びた1冊の本をとりだした。その本の一番最後のページに、万年筆で2人の日本人の女性の名前がローマ字でメモされており、その下にはそれぞれの電話番号が記されていた。女性たち自身が書いたもののようである。

2人とも、「03」で始まる電話番号である。

「電話番号からすると、東京の人のようですね」と妻が言った。

そうですか、と言いながら、その古びた本にメモされた名前と電話番号を、アジョッシが白紙の伝票の裏に転記していく。そして最後に、自分の名前と連絡先を書いた。

「これ、お願いします」と、アジョッシはそのメモを妻に渡した。

タイミングのよいことに、妻は来週から1週間、日本に一時帰国する。その間に、メモに書いてある電話番号にかければ、アジョッシの依頼に答えることができる。

そういうタイミングもあって、妻はこの依頼を引き受けたのだろう。

それにしても、この依頼には謎が多い。

私たちが今日、この店に来たのは全くの偶然であった。ところが不思議なことにアジョッシは、日本人女性の名前をメモした15年前の本を、いともあっさりとレジの下から出してきたのである。つまり15年間、アジョッシはこの本を書庫にしまうこともなく、ましてや捨てることもなく、後生大事に、肌身離さず持っていたことになる。そして、日本人の客が来たときに、いつか、依頼をしようと考えていたのではないか。

アジョッシにとって、それほど思い入れのある女性なのだろうか。いったい、このアジョッシとこの女性たちとの間には、15年前に何があったのだろうか。

そして、この15年前のことは、アジョッシがかたことの日本語を話せるという事実と、何か関係があるのだろうか。

さらに、アジョッシが、15年たってもなお、この女性たちの消息を知りたい理由は何なのか?そして連絡を取りたい理由は何なのか?

事情をあまり聞かぬまま依頼を引き受けてしまった妻。

はたして、メモに書かれたところに電話して、女性は電話に出るのだろうか?

その女性たちは、アジョッシのことを覚えているのだろうか?

そしてその女性たちは、いったい何者なのか?

15年ぶりに、アジョッシと女性たちは、連絡を取り合うことができるのか?

すべては、妻の「探偵」ぶりにかかっている。

「探偵!ナイトスクープ」に依頼したいと思ったことはあったが、まさか依頼される側になるとは思わなかった。

(注 タイトル「名探偵登場」は、ニール・サイモン脚本の同名映画より)

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不可解な人びと

6月15日(月)

3級6班の人びとは、基本的にまじめで優秀である。

だが、中国人留学生たちの生態に、いまだについていけないところがある。

たとえば、マラギ(会話表現)の時間、4人が1グループになってひとつのテーマについて話し合うような、いわゆるグループ学習の時に、そのことをとくに痛感する。

先生の意図を理解できないのか、それとも無視しているのか、話し合いはあらぬ方向に進み、最終的には収集つかなくなってしまうのである。

語学力以前の理解力の問題だと思うのだが、まあ私自身も他人のことがいえないので、それくらいのことは目をつぶろう。

今日、こんなことがあった。

先週の金曜日、マラギ(会話表現)の小試験があったのだが、その日に私とリ・プハイ君は、所用でどうしても欠席しなければならなかったので、先生が配慮してくださり、翌週月曜日(すなわち今日)の授業の休み時間に、特別に私たち2人だけ、マラギの追試験を受けさせてもらうことになった。

試験は、2人ひと組で、与えられたテーマで3分程度の会話をする、というものである。いままでマラギの試験といえば、先生と学生が1対1で行っていたのだが、今回から、チングとの会話という方法も取り入れられるようになったのである。初めての試験方式である。

そして必然的に、金曜日に休んでいた私とリ・プハイ君がペアとなった。

1時間目の休み時間に、ナム先生の研究室に2人揃ってうかがう。試験の問題用紙を渡され、どのような会話を組み立てるか、2人で簡単な打ち合わせをしたあと、会話をはじめた。

ところが、そもそも打ち合わせの段階でコミュニケーションが満足にとれていないため、会話もちぐはぐになってしまう。しかし、一度始まってしまったら、途中でやめて最初からやり直すというわけにはいかない。

2人がたどたどしい会話を続けているそのとき、驚くべきことが起こる。

リ・プハイ君の携帯電話が鳴った。

そして、あろうことか、リ・プハイ君はその携帯電話に出て、通話をはじめたのである!

まだ、会話の試験の途中ではないか!会話がようやく軌道に乗りかけたところで、彼はあっさりと携帯電話に出て、電話の主と中国語で話しはじめる。

呆気にとられたのは私だけではない。試験監督のナム先生も驚く。

「いま、マラギの試験中でしょ。電話を切りなさい!」

だが、彼は電話を切ろうとはせず、通話を続ける。

「試験中に携帯電話をするなんて考えられないわよ。早く切りなさい!」

先生は再三注意するが、通話をやめようとしない。

「だっていまは休み時間ですから」

妙な理屈でリ・プハイ君が反論する。

「何言ってるの!試験と携帯電話とどっちが大事なの!減点になるわよ!」

減点は当然だろう。だが、こっちまでとばっちりを食らうのはたまったものではない。

ひととおり通話を終えたリ・プハイ君は、電話を切り、中断していたマラギ試験の会話を再開する。

こうなるともう、すでに集中力も欠き、会話もボロボロである。

おかげで、散々の出来であった。

考えてもみるがよい。入試の面接試験の最中に、受験生の携帯電話が鳴ったとする。その受験生が、「ちょっとすいません」と言って、携帯電話に出て通話をはじめたら、目の前にいる面接担当の先生は、どう思うだろうか?それくらい、信じがたい光景だったのである。

もはや私の理解を超えた行動であり、説教する気にもならない。先生の研究室を出て、教室に戻る道すがら、私はリ・プハイ君に、「先週の金曜日はどうして欠席したの?」と聞いてみた。すると彼は、

「韓国の大学の入学試験を受験していたんです」

と答えた。

申し訳ないが、私だったら絶対合格させないだろうな。

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エッセイのすすめ

先日のタプサ(踏査)の後の夕食の際に、韓国の指導教授がおっしゃった。

「韓国語の文章を身につけようと思ったら、よいエッセイを読むのがよい」と。

そこで先生は、妻と私に、別々の本をお薦めになる。

まず妻には、女性の書いた文章ということで、チャン・ヨンヒという人の『サラ オン キジョク、サラ カル キゾク』(生きてきた奇跡、生きて行く奇跡)というエッセイ集を薦められる。著者のチャン・ヨンヒは、英文学者で翻訳家、エッセイストで、今年の5月に57歳で亡くなったという。韓国でもベストセラーになったエッセイ集である。

そして私には、男性の書いた文章ということで、ポプチョンという人のエッセイ集を読むことを薦められる。こちらも、ベストセラーのエッセイストだそうである。

さっそく、日曜日に本屋に買いに行く。紹介された2人のエッセイ集が、ベストセラーとして目立つところに並べられていた。

ところがこのポプチョンという人は、僧侶で、内容も、「生きていることに感謝」とか、法話的な文章を書く人のようなのである。

いくつかある著作のうちから、手頃なものとして買ったのが、『アルムダウン マムリ』(美しい結末)、邦題にしたら『大往生』といったところか。

短い文章を集めたものだが、最初のエッセイのタイトルが「老年の美しさ」とある。

どうも、人生の晩年を迎える人が読むエッセイのように思えてならない。人間の生き方について語っている法話集のようである。

それにしても、先生はなぜ私にこの人の本を読むように薦めたのだろう?妻に勧めた本の方がはるかに興味をひくのに。

ひごろ「仏教」とか「坊さん」に拒否反応を起こしている私としては、まず日本では絶対に手に取ることはないであろう種類の本である。

だが先生の薦めなので、致し方ない。少しずつ読み始めることにしよう。人生に対する考え方が変わるかも知れない。

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マザー

6月14日(日)

久々の休日である。

Photo 明日、明後日と、語学の小試験が控えているので、試験勉強をしなければならないのだが、ひとつ、見ておきたい映画があった。ボン・ジュノ監督の「マザー」である。

ボン・ジュノ監督といえば、「殺人の追憶」「グエムル 漢江の怪物」などを監督した、韓国でもトップクラスの実力派監督である。この「マザー」も、今年度のカンヌ国際映画祭の公式招請作品となった。

といっても、私自身は、映画マニアではないのでよくわからない。唯一、この映画に出演しているウォン・ビンという俳優だけは知っていた。といっても、映画「ブラザー・フッド」に出ていた、ということと、日本の「トップアイドルグループ」の1人によく似ている、という情報くらいしか知らない。あ、あと、徴兵のために俳優業を休業していた、ということくらいか。

この映画は、彼の復帰第1作だという。そして、母親役は、キム・ヘジャというベテラン女優。失礼ながら、この女優についてはまったく知らなかった。だが韓国ではかなり有名な女優だそうである。

前回見た「コウモリ」に続き、海外でも高い評価を得た作品だという。タイトルから、母親と息子の物語だろうとなんとなく想像がつく。そしてポスターからは、なんとなく重苦しそうな内容であると予想される。

コメディ映画とは違い、言葉がわからないと内容が理解できないのではないか、と少々気がひけたが、妻がウォン・ビンをひいきにしていることもあり、見に行くことにする。

文字通り、母親の息子に対する強烈な愛が描かれた映画である。執念、といってもよい。

ストーリーも、重い内容である。「コウモリ」と並べられて紹介される理由もなんとなくわかる。

だが、言葉がよくわからないこともあったのかもしれないが、子を思う母親の執念に、いまひとつ入り込むことができなかった。どうしてだろう。

妻の情報によると、主役の母親を演じたキム・ヘジャは、それまでどちらかといえば上品な母親を演じることが多かったという。それがこの映画では、息子を救うためになりふりかまわず奔走する愚鈍な母親を演じている。映画のチラシにも、「キム・ヘジャの新境地」などと宣伝されている。

なるほど、たとえて言えば、上品な吉永小百合が、新境地と称して、それまでのイメージとは異なる汚れ役を演じるようなものか。なんとなく違和感を感じたのは、そのせいもあるのかも知れない。

そして、残念ながら、救いのなさ、後味の悪さを感じざるをえない内容である。いっそ、「コウモリ」のように、完全にアッチの世界にイッてしまっていればよいのだが、作品のもつ「常識性」や、キム・ヘジャの上品な演技が、それを妨げているようにも思える。

映像はたしかに凝っていてすばらしい。だが、日本を「代表」する撮影監督よろしく、「どうだ、美しいだろ」という主張がなんとなく見えてしまうのは、私の心が曲がっているからか?

うーむ。エラそうにいろいろとケチをつけてしまったな。それでも相当レベルの高い作品であることは間違いないのだが。

収穫は、田舎の生え抜き古参刑事を演じたユン・ジェムンである。以前に見た「影の殺人」で強烈な印象を残していたが、今回も、存在感と演技力でしっかりと脇を固めている。調べてみると、私とほぼ同世代なのね。ひそかに注目していこう。

ユ・ヘジンといい、どうも私は、私と同世代の「個性的な」脇役に、どうしても目が行ってしまうようである。

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タプサ4回目・再びの山登り

6月13日(土)

Photo 恒例のタプサ(踏査)に、4回目の参加である。今回から、妻も一緒に参加する。

朝8時に大学の正門前に集合し、慶尚南道の咸安(ハマン)というところに出発する。大邱から車で2時間くらいのところである。実は先週の木、金曜日の学術シンポジウムもハマンで行われたので、先週に引き続きハマンを訪れることになる。

それにしても眠い。昨晩は最終のKTXで大邱に戻ったので、朝起きるのがつらかった。

実は、昨晩、最終のKTXに乗ろうとソウル駅に行くと、駅でバッタリと韓国での指導教授にお会いする。韓国での指導教授は、火曜日から金曜日まで、ソウルでさまざまな行事をこなしてこられたという。そして私と同じように、最終のKTXで大邱に戻られた。

その指導教授も、タプサに参加される。なんともお元気な先生である。

最初の見学先が、磨崖仏である。

その磨崖仏は、山を500メートルほど登ったところにあるという。

暑いのに、また登山かよ

私の姿を見かねた参加者の方が、「これを使ってください」と、自然木の丈夫で長い枝を私に渡す。これを杖代わりに使ってください、というのである。たしかに立派な枝の杖である。

他の人は杖なしで登っているのに、指導教授の先生と私だけが、杖をついて登りはじめる。

もう、完全に「ハラボジ」(おじいさん)扱いだな。

ゼイゼイ言いながら登っていると、大学院生が杖を見て、「仙人みたいですね」と言った。

たしかに、枝の曲がり具合が、仙人が使っていそうな杖にみえる。

まあ、こんなに汗だくでゼイゼイ言いながら登っている仙人もいないのだが。

指導教授は先頭でスイスイと登って行かれる。本当にお元気な先生だ。

Photo_2 磨崖仏をじっくりと見学して下山する。

午後に、もう一つ山登りがあった。山城の見学である。

私はすでにもう何度か登ったことがあり、実は先週の金曜日も登ったばかりだったのだが、はじめて登るという人も多く、今回のコースに組み込まれたらしい。

こちらの方は、何度も登っているので、どのくらいのつらさなのかがわかる分、精神的には楽であった。

とはいえ、午前中の疲れもあってゼイゼイと登っていると、参加者の1人が、「見つけました!」と古い土器のかけらを私に見せてくれる。

以前のタプサでも表面採集(表採)に天才的な勘を発揮した方である。

(こっちはこんなにゼイゼイいって登ってそれどころじゃないのに、小さな土器のかけらを見つけるなんてすごい集中力だな…)と感心しながら、「スゴイですね」と返すのが精一杯だった。

Photo_3 歩くこと15分。山の頂上にある山城に到着。午前の登山にくらべればきつくない。

先生の解説を聞いて、山城を降りようとすると、先ほどの方がまたやってきて、「ほら、こんなに見つけました」と言って、両手いっぱいに古い土器のかけらを見せてくれた。「これが○○時代、そしてこれとこれが、○○時代です」と、拾った土器の年代を瞬時に解説する。

一体いつの間に見つけたんだ?いっぺん、コツを詳しく聞いてみたいものだ。

2つの(軽い)山登りを含めた、タプサが無事終了。大邱に戻ってみんなで夕食をとる。夕食の席で、指導教授の先生が、私に向かって懇々と「運動しなさい」とお説教される。

今日の私の「汗だるま」ぶりを見て、さすがに見るに見かねたのだろう。

これから、汗かきには本当につらい季節だ。

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再びの学会荒らし

6月12日(金)

先週から今週にかけては、本当に忙しい。

おととい(水曜日)にソウルから戻り、木曜日は通常通り語学の授業に出て、金曜日、再びソウルに向かう。今度は、某大学で行われる「フォーラム」で研究発表するためである。

韓国に来てから何度かお世話になっている某大学の先生(鼻うがいの先生)とお会いする。韓国に来た当初は、まったく会話ができなかったのに、いまは、その先生と会話が成立している。「半年でよくここまできましたね」と言われ、感慨深い。

調子に乗って、発表の際に韓国語の原稿を読み上げようかと思ったが、50分という長い発表だったので、最初の挨拶だけ韓国語で行い、日本語で原稿を読み上げる。

発表も終わり、討論者との質疑応答も終わった後、フロアから質問の手が上がる。

一昨日(水曜日)の学術シンポジウムでも来ていた「学会荒らし」だ!

全身黒ずくめの服装に、やはり黒のカウボーイハットのような帽子をかぶっている。見るからにあやしそうな人物である。

ここでいう「学会荒らし」とは、次のような人をさす。

①質問、といいながら、自分の(支離滅裂な)説を滔々と述べる。

②発表の内容と関係ないことを延々としゃべる。

③時には、政治的主張をすることもある。

④質問の内容が、発表の内容と関係のない、支離滅裂なものである。

このオッサンも、これらの条件を満たす人物である。延々と関係ない話をしはじめた。

司会者に「質問だけにしてください」とたしなめられ、思いついたような質問をする。

質問じたいは、たいしたことがなかったので、そのまま答える。幸い、食い下がられることもなかった。それにしても、ほとんどその大学の関係者くらいにしか宣伝していなかったはずのフォーラムを、どこで知ったのだろう。こんな小さな集まりにも出ているくらいだから、相当いろいろなところで「荒らし」ているのではないか?

なんとか無事にフォーラムも終わり、ソウルのおしゃれな店で打ち上げ。ソウル大学の大学院生の方々とも楽しく会話でき、最終のKTXで大邱に戻る。

バスが終わっていたのでタクシーに乗るが、例によって、深夜タクシーの運転手に不愉快な思いをする。どうして深夜のタクシーには、不愉快な思いばかりするのだろう。

「学会荒らしの支離滅裂な発言」と「深夜タクシーの運転手の罵詈雑言」さえなければ、良い1日で終わったのだが。

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先生泣かせの作文

6月11日(木)

週2回、作文の宿題が出される。

あるテーマについて書いたものを、先生に提出し、先生が赤を入れて返してくれるのだが、今日は少し趣向が異なる。

宿題として書いてきたものを、先生ではなく、わが班のチングに読んでもらい、授業中に、チングに添削をしてもらう、という趣向である。

他のチングがどんな文章を書いているかを知るよい機会ですよ、と先生はおっしゃった。

具体的には、3人が1グループになって、自分以外の2人の作文を読んで、添削する、というもの。私は、チ・チャオ君と、リュ・チュインティンさんとグループになった。

2人の作文を読んで、あ然とする。

作文は、なんでも自由に書いてよい、というわけではなく、必ず使わなければならない文型が、あらかじめいくつか決められている。その文型を使いながら、作文を完成させなければならないのである。

リュ・チュインティンさんの作文は、その文型をかなりまじめに使って書いているのだが、その使い方がメチャクチャである。無理やりその文型を使ったために、まったく意味がわからない箇所がいくつもある。

チ・チャオ君の作文に至っては、そもそも文字がほとんど読めない。「ミミズが這ったような文字」とは、よく言ったものである。

むろん、こういったものばかりではないのだろうが、毎回、こういう作文を先生は添削しているのか、と思うと、頭が下がる。もちろん、私の他人のことはいえないのだが。

まさに、先生泣かせの作文である。

先生泣かせ、といえば、私の作文もまた、先生を泣かせたようである。先週提出した作文が今日戻ってきて、最後のコメントのところには、「ㅠ_ㅠ」(涙)のマークがあった。

ネイティブの先生を泣かせた、外国人(私)の稚拙な文章とはどんなものであるのか。やや恥ずかしいが、ここに再録しよう。なお、原文は文法や綴りの誤りが多かったので、先生に推敲していただいたものを掲げる(まだ誤りがあるかも知れない)。

   친구

내 친구 오규 씨는 나와 같은 대학교에서 역사를 가르치고 있었다.내가 그 대학교에서 일을 시작했을 때 처음 만났다.오규씨는 나보다 나이가 많지만 직장에서 친구처럼 이야기할 수 있었다.아주 재미있는 ‘아저씨’였다.

느 날 오규 씨는 “같이 한국에 여행 갑시다”라고 했다.나는 오규 씨가 그렇게 한국을 좋아하는 줄 몰랐다.오규 씨는 1년동안 한국에 유학해 본 적이 있었는데 그이후 한국을 좋아하게 됐다고 했다.나는 오규 씨하고 한국에 여행해서 아주 재미있는 추억을 많이 만들 수 있었다.

몇년후 사정이 있어서 내가 다른 대학교로 옮겠는데 그 후에도 오규 씨와 같이 1년에 한번정도 한국에 여행을 했다.오규 씨한테서 한국에 대해서 많은 것을 배웠다.나도 언젠가 꼭 유학하고 싶다고 생각했다.

그러나 오규 씨는 3년전에 병 때문에 갑자기 세상을 떠났다.해야하는 연구를 많이 남기고.......

영결식에 참석해서 눈물을 참을 수 없었다.그 사진 앞에서 그동안 나에게 해준 일에 감사하는 뜻으로 꽃을 놓으면서 “감사합니다,‘아저씨’.감사합니다,‘친구’.”라고 기도하면서 말했다.

앞으로 한국말과 한국문화를 열심히 공부해서 ‘친구’가 사랑한 한국을 나도 사랑하고 싶다고 생각하고 있다. (끝)

そして先生に、次のようなコメントをいただいた。

“감동적이네요.바라시는 일 꼭 이루세요. ”

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フランス料理と学会荒らし

6月9日(火)

語学の授業終了後、KTXに乗ってソウルに向かう。明日、学術シンポジウムがあり、日本から大学院時代の指導教授がいらして発表することになっている。また、そのシンポジウムは韓国の指導教授が中心になって関わっているので、語学の授業を1日休んで出席することにした。シンポジウムの前日の晩には、みんなで食事をするという。

「夕食会場に合流してもいいですか?」と韓国の指導教授にうかがったところ、許可をいただいたので、「前乗り」することにしたのである。

夜7時半、ソウル駅に到着。韓国の指導教授に電話をかけ、晩餐会場に駆けつけると、すでにみなさんが集まっておられ、食事が始まっていた。

「あれ、奥さんもいらしたんだね」と、韓国の指導教授。

「ええ、突然申し訳ありません」

てっきり、立食パーティーか何かと思っていたら、フランス料理のコース料理を食べておられる。そこに、当事者でもない2人が、なかば「飛び入り」で参加したのである。

なんとも申し訳ないと思いながらも、日本からいらした先生方と、久しぶりにお話をした。

食事が終わって解散すると、外はかなりの雨が降っていた。

発表者の先生方は、タクシーで高級ホテルに早々と帰って行かれたが、さて、私たちはどうしようか。

「泊まるところは決まっているんですか」と、知り合いの研究者の方が心配してくださる。

「いえ、決まっていませんが、なんとかなるでしょう」

そう答えると、その方は、明日の会場に近い、とあるモーテルに予約の電話を入れてくれた。ガイドブックにも出ている、有名なモーテルである。

その方に感謝しつつ、夕食会場を出る。

タクシーでそのモーテルに行こうとしたが、ところがそのタクシーがまったくつかまらない。

バスで行こうとするが、例の通り、どのバスに乗っていいのかもわからない。

停留所でウロウロしていると、大学生らしい人が声をかけてきた。

○○に行きたいのですが、と言うと、知り合いに電話をかけてくれたりして、実に親切に教えてくれた。

どうやら歩いていっても近いようだ。雨も小止みになったことだし、歩いて行くことにする。

20分くらい歩いただろうか。ようやくモーテルに到着。

小雨になったとはいえ、すっかりぬれねずみである。

シャワーを浴びて寝ようとすると、とたんに全身が痒くなった。

どうやら、ダニがいるらしい。

さっきまでフランス料理を食べていたのに、ぬれねずみでモーテルに着いたあげく、ダニに襲われるとは、なんとも落差が激しい。

6月10日(水)

朝からシンポジウムに参加する。夕方の討論で、「学会荒らし」と思われる人が、質問をして会場を混乱させる。

どこにでもいるんだな、こういう人が、と思ってみていたが、ふと、昨日のことを思い出す。

考えてみれば、シンポジウムの当事者でもない者が、夕食会場に乱入して、フランス料理のコース料理を何食わぬ顔で食べる者の方が、よっぽど学会荒らしではないか、と思えてきた。

「あいつら、学会となると、決まって食事時に来るんだよな」とか、言われていないだろうか。心配である。

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私のあだ名は「キョスニム」

4級の班に通っている妻からの情報。

語学の先生の間では、私のことを「キョスニム(教授様)」と呼んでいるらしい。「キョスニム」が完全にあだ名になってしまった。

日本人がほとんどいないことと、年齢が上ということもあって、いまや語学堂では有名人となりつつある。

しかもショックなのは、語学の先生方が私のことを説明するとき、「ほら、あのキョスニム」と言いながら、右手でお腹のあたりをポッコリとふくらませる仕草をする、というのである。

つまり、私のことを、お腹の出た「キョスニム」、と表現するのである。

かなり凹む話だ。やはり痩せなければ。

まあそれはよい。もう一つ妻が言っていた言葉。

「言語の習得と精神年齢は相関関係にある」と。

同い年であっても、1級の子と4級の子では、精神年齢が異なるのではないか、というのが妻の仮説。

言われてみればたしかにそうだ。半年くらいしか違わないのに、1級の子と3級の子では、授業態度やものの考え方が全然違う。

いまの3級の班は、かなりまじめな子が多い。考え方もしっかりしている。授業態度も積極的である。

それに対して、1級の子たちは、まるで学級崩壊の小学生のようだった。

だからこそ、面白かったのだが、いまは、授業中にとりたてて事件が起こるわけでもなく、私自身も、彼らの行動や発言にずいぶん慣れてしまった。

加えて、私自身が、授業に追いつくのに必死で、周りをじっくりと観察する余裕がなくなってきた、という事情もある。

この日記は、私自身の成長記録でもあるのだから、それはそれで喜ぶべきことなのかも知れないが、「無駄」な部分が次第に削ぎ落とされてきて、寂しい気もする。

そう。成長する、とは、寂しいことでもあるのだ。

これからも、身の回りで起こったことのありのままを書いていくことにしよう。

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くまのぬいぐるみ

6月8日(月)

後半のマラギ(会話表現)を担当するナム先生は、不思議である。

外国人留学生の顔と名前が、授業の初日からすべて頭に入っていることにも恐れ入るが、といって、必要以上に学生に関わろうとするわけでもない。

ナム先生がいかに学生にとってよい先生であるかは、1級1班のときに一緒だったマ・クン君が私に話していたことであった

マ・クン君の話しぶりから、学生の面倒見がとてもいい先生である、というイメージを持っていた。

実際に授業を受けてみると、授業じたいは、きわめてオーソドックスにすすめるし、余計な話をするわけでもない。休み時間も、とくに学生に交わろうとするわけでもない。ただ、学生が何か話をしに来た時には、誠実に受け答えをして、それ以上に関わろうとはしないのである。

Photo 授業の休み時間に、クオ・リウリンさんが、教室に大きなくまのぬいぐるみをかついでもってきた。

クオ・リウリンさんは、初日の授業で私に「日本の歴史教科書に書いてあることは事実なのですか?」と聞いてきた学生である。理知的で、周りの学生よりやや大人びている、といえようか。

「誰からもらったの?」と聞くと、

「チョッカ(姪)からもらったんです。いま、姪は1級のクラスなんです」という。

「どうしてこんなプレゼントをもらったの?」

「私が姪に、いろいろと手伝ったりしたので」

それにしても、大きなくまをプレゼントされたものだ。

休み時間が終わり、ナム先生が教室に入ってくる。ナム先生も、教室の後ろに座っているくまのぬいぐるみに気づいたようで、「どうしたの?」と聞く。

クオ・リウリンさんは、いまの説明をくり返したが、先生は、それ以上、根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。

これが、たとえば先学期の大柄の先生だったら、いろいろと根掘り葉掘り聞いて、授業中も、くまのぬいぐるみをしばしば話題に出したかもしれない。しかし、ナム先生は授業中にくまのぬいぐるみについて触れることはなかった。

Photo_2 誰にも触れられずに退屈そうにしているくまのぬいぐるみ。

ここまで書くと、なんとも冷たい先生のようにも思えてしまうが、決してそうではないのである。

3時間目が終わった休み時間に、1級で私と同じ班だったチャオ・ルーさんが教室に入ってきた

チャオ・ルーさんは、先々学期に、まだ韓国語が1級であるにもかかわらず、大学入学を決めてしまい、大邱にある大学でデザインの勉強をはじめている。ナムジャ・チング(ボーイフレンド)が、私と同じ班のワン・ウィンチョ君なので、彼に会いに来たのだろう。

ところが彼女は、ナムジャ・チングよりも、ナム先生と話しはじめた。久しぶりに先生にあったようで、チャオ・ルーさんも嬉しそうである。

ナム先生も、チャオ・ルーさんのことをよく覚えているようで、チャオ・ルーさんの近況を楽しげに聞いている。

学生が、不思議と信頼を寄せてくる先生。学生の名前と顔をすぐに一致させていることが、学生から絶大な信頼を得ている大きな理由でもあるだろう。ほかにも、何か理由があるのかも知れない。

ここ(語学堂)にいると、理想の教師像とはどんなものなのか、いつも考えさせられる。

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ユートピアで地獄の山登り

6月5日(金)

学術シンポジウム2日目。午前中、研究発表を聞いた後、午後、参加者たちで、近くにある山城を見学する。

山城、というくらいだから、山の上にある遺跡である。これまでに、その山城には2回登ったことがあるが、今回は、調査も進んで、かなり見応えがあるという。

炎天下の中、30分近く山道を登って、山城の遺跡に到着する。すでに汗が滝のように流れているが、見応え十分の遺跡で、これだけも来た甲斐があった。

そして2日間にわたる学術行事が終了。日本から来たご一行と、馬山(マサン)に戻って打ち上げをする。夜8時過ぎにマサンからバスに乗り、11時近くに大邱に戻った。

6月6日(土)

今日はタプサ(踏査)の日である。といっても、いつも参加させていただいているタプサではなく、別の団体のタプサに参加させていただくことになった。

朝9時、40人ほどが大学に集合して出発する。大型バスに乗り、智異山(チリサン)国立公園に向かう。

智異山は、慶尚南道の西部にある、小白山脈の最高峰であり、標高1915メートルの高さを誇る。周辺は国立公園に指定されており、韓国屈指の風光明媚な場所である。韓国の「ユートピア」とも言われているという。今回は、この智異山周辺の文学にまつわる名所をまわる。

まず最初に、韓国の女性作家・朴景利(1927~2008)の大河小説『土地』の舞台となった河東(ハドン)を訪れる。『土地』は、1969年から1994年までの25年間にわたって書き続けられた作品で、朝鮮時代末期の19世紀末から日本植民地時代を経て、解放期に至る韓国の歴史の中で、民衆がたくましく生きる姿を描いた傑作といわれている。

のちにドラマ化されるが、ドラマで使われたオープンセットなどを見学しつつ、先生や大学院生の方の解説を聞く。無謀なことはわかっているが、ちょっと読んでみたい、と思った。

Photo 見学が終わり、バスに戻る途中、耕耘機でロバを引っ張っているアジョッシ(おじさん)に出会う。ところが、ロバが抵抗して、耕耘機でいくら引っ張っても進もうとしない。

面白いので写真を撮っていると、アジョッシはバツが悪かったのか、

「あんたたちのせいで、ロバがビックリして前に進めないじゃないか!」

と叱られる。そう言われても、私が来る前からロバは抵抗していたし、私が離れた後も抵抗し続けていたのだから、別に私のせいではないのだが。

やや遅い昼食をとり、次に向かったのが、智異山の麓にある雙磎寺である。韓国屈指の霊山である智異山には、仏教寺院も多いという。

ところが、ここからが地獄だった。

雙磎寺を見学した後、滝を見に行くという。その滝が、ここから山道を歩いて1時間半だというのだ。

聞いてない聞いてない。登山をするなんて聞いてないぞ。

だがそんな思いをよそに一行は出発。時間はすでに3時を過ぎていた。

急な斜面を歩き続ける。それに加えて大小の石が転がっている道の上を歩くので、歩きにくいことこの上ない。

ふだんの運動不足が祟って、たちまち後れをとる。そればかりでなく、いつものように、文字通り滝のように汗を流す。

知り合いの大学院生に、

「先に行ってください。ゆっくり行きますから」

と、ゼイゼイしながら言うと、

「大丈夫。早く登ればそれだけ楽ですよ。一緒に登りましょう」

と言ってくれる。そして、歩きながらいろいろとこの山の周辺についての歴史を説明をしてくれるのだ。

だがこっちは、もう完全に集中力を失ってしまって、韓国語を聞き取る力などまったく残っていなかった。

反対側から降りている人たちの格好を見ていると、完全に登山の姿である。軽装で、しかも夕方近くから登るのは、危険きわまりないのではないか?

「いったい誰がこんなところに行こう、と言いだしたの?これではタプサではなく、登山よ!」

参加者のある人が訴える。

「ボクじゃありませんよ。先生が計画を立てられたんですから!」

と、今回の幹事である助手の方が反論する。どうやら先生の計画は絶対らしい。

Photo ヘトヘトになりながら、目的地の滝に到着。すでに、先生や大学院生たちの説明が始まっていた。まったく息を切らすことなく、説明を延々とされていることに驚愕する。

私は、滝の前で、まるで滝にうたれたような汗をかきながら、説明を聞く。

説明の後、主催者の先生が、「旅のしおりを開いてください」とおっしゃる。

言われたとおり開くと、そこに書かれていた漢詩を、節をつけて読み始めた。

「さあ、みなさんも私の後についてうたいましょう!」

みなさんは、楽しげに何度もうたっていたが、私はヘトヘトでそれどころではなかった。

「大丈夫でしたか?」と、今回のタプサの幹事である助手が心配してくれる。

「疲れましたが大丈夫です」

と答えると、

「僕もこんなに大変だとは思いませんでした」

とおっしゃった。

足がガクガクになりながら下山。あたりは薄暗くなり、バスに戻ったとたん、大雨が降ってきた。危ないところだった。

すべての行程が終わり、バスで大邱に戻ったのが、夜10時だった。

6月7日(日)朝、大邱を出発して、2度目の扶余に向かう。知り合いが日本から来て博物館を見学する、と言うので、扶余で合流することにしたのである。往復に6時間をかけ、大邱に戻ったのは夜9時半であった。

木曜日から日曜日まで、休む間のない日々だった。金曜日の山城見学と、土曜日の登山がトドメを刺した。まったく足が上がらない。明日からの語学の授業が心配である。

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デビュー

6月3日(水)

授業終了後、大邱からバスに乗って、馬山(マサン)に行く。翌日から、マサンの隣のハマンというところで開かれる学術シンポジウムで、討論者として参加するためである。

夜8時過ぎにマサンに到着。出席者の先生方と軽い打ち合わせの後、日本から来た研究者の方たちや、韓国の研究者の方たちと、飲みに行く。マサンは漁港の町で、久しぶりにおいしい魚をいただく。焼酎が進み、気がつくと夜中の2時になっていた。

6月4日(木)

学術シンポジウム1日目。二日酔いで頭がガンガンする。

私は、日本から来たTさんの発表に対する討論者である。討論者とは、発表の内容について、疑問を提示したり、討論の土台を提供したりする役割である。討論文は、あらかじめ作っておいて、翻訳していただいていた。

さて問題は、これを日本語で話すか、韓国語で話すか、である。

留学の際にお世話になったユン先生に先日お会いしたとき、

「そろそろ韓国語で発表することを考えなさい。最初からうまくできる人なんていないんだから、間違ってもかまわないよ」

とおっしゃっていただいた。

前日、語学の授業で後半担当のナム先生に、欠席の連絡をしたときも、

「せっかくだから韓国語で発表しなさいよ」

と、おっしゃっていただく。

このアドバイスが、頭を離れない。

そして、討論の直前にダメ押ししたのが、Tさんである。

「韓国語で討論文を読んだら、聞いてる人も喜ぶと思うよ」

そして、腹を括る。

今まで、挨拶だけは韓国語でして、本論を日本語で読み上げていたが、今回は、すべて韓国語でいこう、と。

総合討論の最後に、私の発言の機会が与えられる。

そして、討論文を、時間の関係で端折りながら、読み上げる。

その間、5分だったろうか?10分だったろうか?

よくわからないまま、討論が終了した。

終わって壇上を降りると、私の韓国での指導教授がニコニコしながらやって来られて、

「韓国語を上手に話したね。来年の1月の学会では、韓国語で研究発表してもらうぞ」

とおっしゃっていただく。ほかの何人かの方からも、ほめていただいた。

そして懇親会。

日本からいらした私の師匠が、乾杯の挨拶をする。

「私の研究室で育った若い研究者たちが、堂々とした発表をしてくれて嬉しく思います。これからは、私たちが、若い人たちをしっかりと支えていきたいと思います」

「若い研究者たち」というのは、Tさんと私のことである。

Tさんと私は、ある時期、この師匠の下で勉強した。Tさんは私とほぼ同世代だが、、私にとっては越えられない存在である。

そして、面と向かって人をほめない師匠が、乾杯の挨拶の場で、名前を出してほめていただいたことに感動する。

それと同時に、今まで一線を走ってきて、「まだまだ若い者には負けない」とあれほどおっしゃっていた師匠が、「これからは若い者を支える」とおっしゃったことにも驚く。そして、少し寂しい。

懇親会の席では、師匠と、韓国での指導教授の間に座らせていただく。ともに、この分野の第一線を走ってこられた先駆者である。こんな機会は、もう二度とないのではあるまいか。

とりあえず、いろいろと抱えている不安や心配は、今日くらいは封印しておこう。

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名前が覚えられない!

6月3日(水)

語学の授業3日目。

私は名前を覚えるのが苦手である。

わが班のチングたちの名前も、なかなか覚えられない。私以外は全員中国人であるため、名前のパターン、といったものが、まったくわからないのである。

前半の文法の先生も、それで苦労されているようであるが、驚くべきことに、後半のマラギ(会話表現)の先生は、授業の最初の回から、全員の顔と名前を一致させていた。ほとんどすべてがはじめて会う学生のはずなのに、どうやって覚えたのだろう。

プロ意識、というほかない。

後半のマラギの授業。わが班の学生がみんな優秀なため、滞りなく進む。最後、10分間くらい時間が余った。

「みなさーん、わが班のチングの名前は覚えましたか?」と先生。

「まだでーす」

「わが班のチングなんですから、ちゃんと名前を覚えないといけませんよ。これから、名前を覚えるためのゲームをします」

「コの字形」に座っている学生たちの端から、名前を言ってゆく。ただし、2人目からは、その前の学生の名前を言った上で、自分の名前を言う、というゲームである。

最初の人は、自分の名前だけを言い、2人目の人は最初の人の名前と自分の名前を言い、3人目の人は自分の前の2人の名前を言った後で自分の名前を言い、4人目の人は自分の前の3人の名前を言った後で自分の名前を言う…、といった具合に、次々と名前を付け足していく。

こうなると不利なのは最後の人である。前の人の名前を全部言った上で、自分の名前を言わなければならない。

私はちょうど真ん中の席であった。

ゲームが始まる。

「私は、リュ・リンチンです」

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイです」

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンです」

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンの横の、クオ・リウリンです」

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンの横の、クオ・リウリンの横の、リン・チアンです」

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンの横の、クオ・リウリンの横の、リン・チアンの横の、クオ・チエンです」

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンの横の、クオ・リウリンの横の、リン・チアンの横の、クオ・チエンの横のシャオ・ミンです」

ここで私の番。

こんなもん、覚えられるか!と思いつつ、聞きながらカタカナで紙に書き取った名前をチラチラ見ながら言い始める。

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンの横の、クオ・リウリンの横の、リン・チアンの横の、クオ・チエンの横のシャオ・ミンの横の…」

ここで一瞬、次の名前が頭によぎる。

「寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末食う寝る処に住む処 やぶら小路の藪柑子 パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」

言おうと思ったが、大人げないのでやめた。

自分のフルネームを言ったが、なぜか他の学生たちは大爆笑した。珍奇に聞こえたのだろう。

さらにゲームは続く。

「私は、…の横のチ・チャオです」

「私は、…の横のチ・チャオの横の、リュ・ジュインティンです」

「私は、…の横のチ・チャオの横の、リュ・ジュインティンの横のフン・ウィンチョです」

「私は、…の横のチ・チャオの横の、リュ・ジュインティンの横のフン・ウィンチョの横の、スン・リジェです」

「私は、…の横のチ・チャオの横の、リュ・ジュインティンの横のフン・ウィンチョの横の、スン・リジェの横の、ル・タオです」

「私は、…の横のチ・チャオの横の、リュ・ジュインティンの横のフン・ウィンチョの横の、スン・リジェの横の、ル・タオの横の、チョン・ヒャポです」

「私は、…の横のチ・チャオの横の、リュ・ジュインティンの横のフン・ウィンチョの横の、スン・リジェの横の、ル・タオの横の、チョン・ヒャポの横の、リ・プハイです」

最後のリ・プハイ君は、ヘロヘロになりながらすべての人の名前を言った。

もし私の名前が「寿限無…」だったら、リ・プハイ君は、次のように言わなければならなかったであろう。

「私は、リュ・リンチンの横の、ピ・チョンカイの横の、チャン・チンの横の、クオ・リウリンの横の、リン・チアンの横の、クオ・チエンの横のシャオ・ミンの横の、じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのやぶこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけの横の、チ・チャオの横の、リュ・ジュインティンの横のフン・ウィンチョの横の、スン・リジェの横の、ル・タオの横の、チョン・ヒャポの横の、リ・プハイです」

はたして、全員の名前を覚えられるだろうか。

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親族呼称と蒙古斑

6月2日(火)。3級の授業、2日目。

学期のはじめは、ペースがつかめないためにグッタリと疲れる。

「ペースがつかめない」というのは、新しい先生の話のペースに、なかなか乗れない、ということでもある。当然のことながら、授業の進め方や言葉づかいの癖は、先生ごとに異なるので、その先生の癖に慣れるまで、時間がかかるのである。前学期の、あれだけ早口でまくしたてていた「粗忽者の先生」のペースに、いつの間にかすっかりと慣れてしまい、心地よさすら感じていたことに気づく。

留学生たちとは、韓国語が話せるようになった分、以前よりもいくらか話をするようになった。

河南省出身のワン・ウィンチョ君は、茶髪でピアスをした、今どきの青年である。彼とははじめて同じクラスになったが、実は1級1班のときに一緒だったチャオ・ルーさんのナムジャ・チング(ボーイ・フレンド)だったので、顔だけは以前から知っていた。

遠くから見ていて、なんかチャラチャラした感じの青年だなあ、と思って見ていたが、実際に話をしてみると、けっこうな好青年である。

「どうして韓国に留学したの?」と聞くと、

「ヨジャ・チングのためです」と言う。ヨジャ・チングが韓国に留学する、というので、仕方なくついてきたのだというのだ。

そのチャオ・ルーさんは、一足先に大学生となった。ただ不思議なのは、韓国語が1級のレベルであったにも関わらず、よく大学に入学できたなあ、ということである。ちゃんとやっていけてるのだろうか。言葉で苦労しているのではないだろうか、と他人事ながら心配になる。

その点、ワン・ウィンチョ君は、着実に3級まで進んでおり、しかも前学期は奨学金ももらっていたという。今日のパダスギ(書き取り試験)も満点だった。

なんだ、かなりまじめなんじゃないか。今じゃ彼の方が、韓国語をまじめに勉強しているのではないだろうか。

その彼が、休み時間に話しかけてきた。

「日本語は、韓国語より難しいですか?」

「難しいと思うよ」

「昨日の夜、インターネットで日本語のサイトを見たんです。だけど難しくて全然わからなかった」

「でも漢字があるでしょう」

「漢字も中国と違って、難しいんです」

ここで休み時間が終わってしまったが、私の中で、すっかり好印象に変わった。やはり人間は、直接話してみるもんだね。

今日の後半の授業は、読解である。

毎回2つの文章を読むが、今回は、最初の文章が、親族呼称について。韓国の男性と結婚した日本人のミエコさんが、親戚の集まりで、自分がさまざまな呼ばれ方をしていることにとまどう、という話。自分を呼ぶ相手が、夫であるのか、姑であるのか、夫の兄弟であるのか、夫の兄弟の子どもであるのか、によって、呼称が異なるのである。日本にもさまざまな呼称があるので、なんとなく理解できる話ではあるが、実態は日本よりも複雑である。日本人の女性がとまどっている、という設定にしているのもよくわかる。

2つめの文章は、「蒙古斑」の話。蒙古斑は、中国・韓国・日本のいずれの赤ちゃんにもあるので、さほど珍しい話ではないが、欧米人から見ればめずらしいのだろう。例文は、韓国人の友達の赤ちゃんを見に行った欧米人の留学生が、おしりの蒙古斑を見て驚いた、という話。

その例文の中で、その赤ちゃんのお母さんが蒙古斑について説明するくだりがある。

「韓国では、子どもを授けるという『三神ハルモニ』という神様が、子どもが生まれてくるとき、『さあ、今から世界に出なさい!』と言って、おしりを叩くんです。それで、生まれてくるときに泣きながら出てきて、おしりに青いアザのような斑点ができるんです」

韓国に昔から言い伝えられている話を、へえ、と思いながら読み進める。

親族呼称と蒙古斑。いずれもものすごい細かいところを突いてくる話だが、2級までのような「食堂のメニューを縦読みして注文したために周りの人に笑われた」とか、「タクシーに乗ったがお金が足りなかった」とか、「電車に乗っていたら居眠りしてしまい、乗り過ごした!と思ったら実は乗り過ごしていなかった」といった、他愛もない文章とは明らかに違っている。

蒙古斑の文章を読んで、3級に進んだということを、ようやく実感した。

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3級6班、始動!

6月1日(月)

いよいよ韓国語3級の授業が始まる。緊張と不安がつのる。

語学堂の建物に入るなり、2級4班の人々と再会する。

タン・シャオエイ君とル・ルさんは、あいかわらずカップルTシャツで、手をつないで登場。

「2人は同じ班なの?」と聞くと、「違う班なんです」と、残念そうに答えた。

頼りになるパンジャンニムことス・オンイ君、愛嬌のある赤ら顔のリ・ポン君、シュールな会話で先生を翻弄させていた、雨上がり決死隊の蛍原にそっくりのホ・ジュエイ君とも再会。みんな元気そうだ。

「孫悟空」ことチャン・イチャウ君と、孤高の美青年、ヤン・シニャン君、いつも寝てばかりいたリ・ミン君は、2級に残留。

「1年6カ月も韓国にいるのに、まだ2級なんです」と、チャン・イチャウ君は頭を掻いた。

私は幸運なことに、白縁眼鏡の好青年、ル・タオ君と同じ班になった。これは心強い。

初回の授業は、いつもドキドキである。わが班のチングたちは、こんどはどんな人たちなんだろう。韓国語を教えてくれる2人の先生は、どんな先生なんだろう。うまくやっていけるだろうか。

それは、先生や、他の留学生たちにとっても同じだろう。だから、最初はどことなくぎこちない。

その雰囲気が少し変わったのが、3時間目のマラギ(会話表現)の授業の後の、休み時間である。

なぜか、周りにいた中国人留学生たちが、私に次々と質問を浴びせてきたのである。

「どうして韓国語を学ぼうと思ったのですか?」「韓国にいつ来たのですか?」「お歳はいくつですか?」など。

「会社には勤めていないんですか?」とある学生が聞くと、その横にいた女子学生が、

「この人はキョスニム(教授)なのよ。友達から聞いて知ってるんだから」

と代わりに答える。中国人留学生たちのネットワークは侮れない。

そしてその女子学生は、

「日本の歴史の教科書に書いてあることは、事実なのですか?」

と、唐突に質問してきた。不意の質問で、答えにつまると、

「ただ聞いてみただけです」と笑って言った。どうもからかわれているらしい。

「韓国の生活は大変ですか?白髪が多いようですけど」

と別の学生が質問する。

「そう、韓国に来てから、白髪になったんだ。それまでは髪は黒かったんだけどね」

と答えると、

「ウソはダメですよ」

と、また別の学生が返して、周りが大笑いする。

この盛り上がりに気づいたマラギ(会話表現)の先生が、会話に参加する。

「ご家族はどうしているんですか」と先生が私に質問する。

「実は、今学期から、妻もこの語学堂で勉強をはじめたんです」

「何級ですか?」

「…4級です」

「日本でどうやって勉強したのかしら」

「ラジオ講座を聴いたり、韓国ドラマを見たりして、1人で勉強したんです」

先生は驚いた様子である。

すると、少し離れたところにいた白縁眼鏡の好青年、ル・タオ君が、この一連の会話を聞き逃さなかったようで、抜群のタイミングで私に質問する。

「奥さんが4級で、気分はいいですか?」

「いいわけないだろ!」

ここでまたみんなが爆笑。あっという間に休み時間が終わった。

後半のマラギ(会話表現)の先生にとっても、ホッとしたのだろう。

「みなさーん、韓国語でよく会話してくれていますね。この仲間なら、今学期の間、楽しい授業になりそうですね」

先生は授業の最後に、そうおっしゃった。

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