マコトか、ウソか。
7月8日(水)
語学の先生の話術には、いつも感心する。
外国人学生にもわかりやすい言葉を使って話してくれるので、多少早口でも、ほぼ完全に聞き取れる。誰でもできる、という技術ではない。
授業中に、さまざまなたとえを出して説明することがある。
たとえば、昨日の授業で、作文の宿題が出た。テーマは「私の後悔」。
「後悔したことなんて、ありませーん」と、中国人留学生たちが口をそろえて言う。
「そんなことないですよ。人生の中で、後悔したことのない人なんて、いないんですよ。人間は、ちょっとしたことでも、後悔するんです」と、ナム先生。
それでも、彼らは、何を書いていいかわからないようだ。先生がたとえを出して説明する。
「後悔したことなんて、いくらでもあるでしょう。たとえば、『友達』はどうですか?先生は、以前、とても仲のよい友達がいたんだけど、ある時、喧嘩をしてしまって、それ以来口をきかなくなってしまったの。その時から今まで、会っていないのよ。仲直りすればよかった、て後悔しているのよ」
学生はまだピンと来ない。先生は続ける。
「じゃあ『恋愛』はどうですか。先生は以前、好きだった男性がいたんだけど、告白できなかったのよ。あの時、告白すればよかったと後悔したのよ」
「それはいつのことですか?」
学生が興味を持ってその話をふくらませようとする。
「ずっと前。大学生の時よ」
ふーん。そんなことがあったのか。先生もいろんなことがあったんだな。
ところが、以前に妻から驚くべき話を聞いたことを思い出した。
妻の班(クラス)の先生から、衝撃的な話を聞いた、というのである。
それは、授業中に先生が話す経験談やたとえ話は、すべて教員会議で、「こういう話をしましょう」「こういうたとえ話をしましょう」と決められており、それを、授業で話している、というのである。
つまり、先生の体験として語られていることのすべてが、実は会議で作られた話であり、どのクラスでも、同じたとえ話や経験談が語られている、というのだ。
本当にそうだろうか。にわかには信じがたいが、あるていど虚構の体験が語られている、ということ自体は、事実だろう。
ナム先生の、親友と喧嘩したという話も、大学時代に告白できなかったという話も、虚構である可能性が高い。
語学の教室は、虚構の空間である。前にも書いたように、教室という狭い空間の中で、授業の間だけ、それぞれが自分の与えられた役割を演ずる。時にそれは、実生活の自分とは異なる役割を与えられることもある。
きわめて演劇的な空間なのである。
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