傘がない
6月30日(火)
お昼ごろから、雨が降り出す。
語学堂で午前中の授業に出ていた妻は、傘を持っていくのを忘れたらしい。
私は、午前中の授業が終わるのと入れ替わりに、午後の授業を受けることになっている。
午後1時前、語学堂の建物の中で、自分がさしてきた傘を妻に貸し、私の授業が終わる5時に、再び傘を持って語学堂に迎えに来てもらうように頼んだ。
さて、授業が終わったのが午後4時50分。
外はまだ雨が降っている。
語学堂の建物の1階に降りて、玄関のところで少し待っていたが、妻はまだ来ていないようだ。
(これくらいの雨なら、傘がなくても帰れるかな…)
そう思って、建物を出て歩き出そうとすると、後ろから声が聞こえた。
「これ、使ってください」
振り返ると、わが班(3級6班)のスン・リジエさんが、自分の傘をさして立っていた。
「これ、どうぞ」
自分の傘を、貸してくれる、ということらしい。
「大丈夫だよ」と言ったのだが、あまりに突然のことだったので、その先の言葉が出てこない。
「ダメですよ。これ、使ってください。私は大丈夫ですから」
「でも…」
やはり言葉が出てこない。
「明日返してもらえればいいです。じゃあ」
と言うと、私に傘を強引に渡して、スン・リジエさんは雨の中を走っていった。
「……」
ありがとう、という言葉もついぞ出てこなかった。
班(クラス)で、ほとんど話をしたことのないスン・リジエさんが傘を貸してくれた。
雨が降っているのに傘がないため、学校の玄関で雨宿りしていると、クラスの女の子が傘を貸してくれる。
まるで映画の1シーンではないか。
クォン・サンウ主演の映画「マルチュク青春通り」で、ある女子校の高校生(ハン・ガイン)に思いを寄せていた男子校の高校生(クォン・サンウ)が、ある雨の日、下校しようにも傘がないために学校の玄関で雨宿りしていた彼女(ハン・ガイン)に、そっと傘を差し出す、という場面がある。私がこの映画で最も好きなシーンである。
雨の日の傘は、思春期の重要なアイテムなのだ。
自分のこれまでの実生活を振り返ってみても、こんなシーンに出くわしたことはない。
こんな、映画みたいなことがあるんだな。
もしこれが20年前だったら、スン・リジエさんと間違いなく恋に落ちていただろうな。
だが、実際には絶対にありえないことなのでご心配なく。
スン・リジエさんが雨の中を走り出した先には、ナムジャ・チング(ボーイフレンド)がいた。
スン・リジエさんは、自分の傘がなくとも、ナムジャ・チングと相合い傘で、帰ることができたのである。
むしろ、それを望んでいたのかも知れない。だから私に傘を貸してくれたのだろう。
理由はどうであれ、スン・リジエさんの人間的な優しさに敬意を表した。
傘をさして歩き始めると、道の反対側から、妻が傘を持って歩いてきた。
「どうしたの?その傘」
妻が笑いながら聞く。
あらためて傘を見てみると、星の模様がちりばめられ、傘布の縁は、かわいらしいフリルで囲まれていた。
私にはおよそ似つかわしくない傘であった。
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