よくモノをなくす先生
9月24日(木)
前半の文法の授業。
文法の先生が、一番前に座っているカエさんに質問する。
「言葉は何カ国語できるの?」
「英語と、韓国語と、日本語です」
日本語は母語だから当然だとしても、英語圏に留学経験があるカエさんは、英語も不自由なく話せるのだろう。
「まあ、いいわねえ…。みなさん。何カ国語も喋れる、って、いいですよね」
そこで思い出したように、先生が話を続ける。
「ところでみなさーん。キョスニムみたいな生き方、いいと思いませんか。大人になってから、外国へ来て、学生に戻った気分で勉強するのって、うらやましいですよね。大学生と同じように楽な服装で、学生と一緒になって勉強するなんて、ホントうらやましいわ」
たしかに、いまの私の服装は、学生と同じような気楽な服装である。韓国へ来て、背広を着る機会はほとんどない。
「語学院のなかにも、キョスニムに感化されて『自分も何年か経ったら、外国に留学して勉強したい』と思っている先生がいるんですよ。私も、あと10年ぐらいしたら、海外で勉強したいなあ」
そういうものかなあ、と思う。こっちは学生時代から語学の勉強が死ぬほど嫌いで、いまそのツケがまわってきているにすぎない。どうにも息苦しくなることもしばしばである。実際、毎日が精神的にギリギリの生活である。
さて、後半のマラギの授業でのこと。
ふだんは眼鏡をかけているマラギの先生が、今日は眼鏡をかけていない。
髪型や服装も、心なしかいつもと違う。
イメチェンか?
めざといリ・チャン君が、先生が教室に入ってくるなり、さっそく質問する。
「ソンセンニム(先生)!眼鏡、どうしたんですか?」
「眼鏡?なくしちゃったのよ」
どういうことだ?
「昨日の夜、家で寝るときに枕元に置いたんだけど、朝起きてみたらないのよ。1時間探しても見つからなかったのよ」
そこで私が耐えきれず爆笑する。
前にも書いたように、マラギの先生は「よくモノをなくす方の人」である。昨日も、宿題の用紙を、教室に持ってくるのを忘れてしまったのである。机に置いておいたはずなのに、なくなってしまうのだという。
妻に聞くと、前学期の授業でも、そんなことが多かったという。
私は失礼を承知で先生に聞いた。
「妻から、先生は『よくモノをなくす方の人』だ、と聞いたんですが」
私の好きな「○○する方の人」という表現を使って聞く。
「そうなんですよ。私がいつもモノをなくすものだから、ナムジャ・チング(ボーイフレンド)がいつも探し回ってくれるのよ」
それにしても、枕元に置いた眼鏡までなくしてしまう、とは、いったいどんな物品管理をしているのだろう。
「私が宿題の用紙をいつも忘れてしまうので、今日は5日分まとめて配りますからね。…まったく、ハルモニ(おばあさん)でもないのに、(すでにこんな忘れっぽいなんて)クン イリエヨ(おおごとだわ)」
「クン イリエヨ」は、直訳すると「大きな事だ」。日本語のニュアンスとしては、「おおごとだ」とか、「一大事だ」ていどの意味。韓国人はこの言葉を非常によく使う。私はなぜか、この言葉を聞くのが好きである。
「よくモノをなくす先生」は、良い意味でも悪い意味でも無邪気な先生である。「この教材のテーマ、つまらないでしょう」とか、「中国での民族差別についてはどうなの?」とか、平気でおっしゃったりする。ときにそれが、学生たちの共感を呼ぶこともあるし、(話題によっては)ヒヤリとさせられることもある。
そもそも「よくモノをなくす先生」の大学での専門は、「韓国語」であり、いわゆる「韓国語教育」ではないため、韓国語教育を専門にしている先生ほどの「必死さ」がない。それがかえって、いい具合に力の抜けた授業となり、結果的に、学生たちが積極的に韓国語で話しやすい環境を作っているかもしれない。
「(前半の)文法の先生は話も面白いし、声も大きくて表情も豊かで本当にうらやましいわよねえ。ソウルの大学に通っていたから、洗練されているのよ。私なんか、田舎育ちで、大邱しか知らないから、面白くないのよ」
と、よくおっしゃる。「あんたも、十分に面白いんだが」と思うのだが、ご本人はコンプレックスがあるらしく、ことあるごとに「田舎育ち」を強調して、自虐的になる。
まったく、人間の認識とは面白い。
そして、この語学堂には、実にさまざまなタイプの先生がいることあらためて知ることができて、飽くことがないのである。
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