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2009年10月

キョスニムと呼ばないで!

10月30日(金)

4級になってからの私のあだ名は、「キョスニム(教授様)」である。

わが班のほとんどの学生が私のことを「キョスニム」と呼ぶ。

なぜこう呼ばれるようになったのか?

理由は簡単である。後半のマラギの先生が、私のことを「キョスニム」と呼んでいるからである。

前半の文法の先生は、私のことを決して「キョスニム」といわない。単に私の名前を呼ぶ(この日記では、便宜上「キョスニム」と呼んでいるように書いてはいるが、実際には違う)。

実際、3級までの先生は、全員、私のことを名前に敬称の「~씨(氏)」をつけて呼んだ。「キョスニム」と呼ぶ先生は、1人もいなかった。いや、正確にいえば、語学堂をとりしきっているパク先生だけである。

だから、学生たちも私のことを名前で呼んだ。

ところが今回の班は、手のひらを返したように、ほとんど全員が私のことを「キョスニム」と呼んでいる。

素直な学生たちは、先生が「キョスニム」と呼んでいるのを聞いて、そのまま自分たちの呼び名として使ったのである。

教員の発言の影響力が、いかに大きいかを思い知らされる。

私は、この教室の中ではキョスニムという立場ではない。一介の学生である。これまでの語学の先生が私のことを名前で呼ぶのも、私を学生として見てくれていることの証であり、私はそれを、とても心地よいことと感じていた。

では、なぜ今回のマラギの先生は、私を「キョスニム」と呼ぶのだろう。

これも、理由は簡単である。マラギの先生は、大学院で研究を続けながら、韓国語を教えている。大学院の世界では、学生とキョスニムの区別は歴然としている。

だから、大学の教員に会うと、反射的に「キョスニム」と呼んでしまうのである。

無理もない、といえば無理もないであろう。

最初は、べつに気にしなかったのだが、ここへきて、この呼び名が妙に気になりだした。

学生たちは、私を「キョスニム」と呼ぶことで、やはり私を異なる存在としてみているのである。「キョスニム」ということで、自分たちとは異なる偉い人、みたいな感じで、私に接するようになるのである。

いくらこちらが、同じ学生だと思っても、彼らは、私を「キョスニム」という別の存在と認識している。

そのことに、我慢ならなくなってきた。

で、その葛藤を、2日ほど前の韓国語の日記に書いてしまった。「自分は学生にすぎない。キョスニムと呼ばれるのは負担である」と。

すると、マラギの先生がそれをご覧になり、「私のせいですね。これから気をつけます」といった趣旨のコメントを残していかれた。

ちょっとまずかったかな、と思う。

もし私が教員だったら、なぜそのことを直接言ってくれないのか、と気を悪くするかも知れない。

直接言わずに、別の場所で言うのは、フェアではない。

この点に関しては、完全に私の責任である。学生たちに「キョスニム」と呼ばれるたびに、「キョスニムと呼ぶのはやめてくれ」と言うべきだったろう。その努力を怠ってきたのは、ひとえに私の責任なのである。

だが、それができないところに、私の人間としての限界がある。

しばらくすると、パンジャンニムのロンチョン君からも、「以後気をつけます」というコメントが入っていた。ロンチョン君も、読んでいたのだな。

さて、今日の後半の授業。

案の定、ぎこちない感じになった。先生も、なんとなく私のことを呼びづらい様子である。腫れ物に触るような感じ、といったらよいか。

だが相変わらず、休み時間やグループ学習の時には、事情を知らないほかのチングたちは私のことを「キョスニム」と呼ぶ。

さて、マラギの授業の最後、あるテーマについての討論の練習を行うことになった。;

賛成派と反対派に分かれ、「これから討論をはじめます」と先生。

「では、誰から口火を切ってもらいましょうか?」

先生の質問に、素直でまじめなチュイ・エンピン君が大きな声で答える。

「キョスニムからお願いします!」

一瞬、私は凍りついた。私が負担に感じていたのは、こういうことだ。

いや、凍りついたのは、私だけではないだろう。私の本心を知っている、先生とロンチョン君も同じだったかも知れない。

だがその瞬間、ロンチョン君は、チュイ・エンピン君の言葉にかぶせるようにこう言った。

「미카미씨!」

彼は、私を名前で呼んだのだ。それはまるで、チュイ・エンピン君に対して、「キョスニムじゃなくて、名前で呼べよ」とさとしているようにも聞こえた。彼は、明らかに私の意を汲んでくれたのだ。

そして先生も、チュイ・エンピン君の提案を取り合わず、、「じゃあ先生の方から指名します。○○씨!まず意見を言ってください」と議事を進めた。

以下、先生が、淡々と議事を進行する。その中で私も、「では次に、미카미씨の意見を聞かせてください」と、みんなと同じように扱われる。

公平に扱われることが、こんなに嬉しいことなのか、と感じた瞬間であった。

先生に直接言わなかったことに対するわだかまりは依然として残ったかも知れないが、これで少しずつ変わっていくかも知れない。

授業が終わり、教室を出ると、「미카미씨!」と、ロンチョン君に呼びとめられた。

「キョスニムって呼ばれるの、嫌だったんでしょう」

私が照れ隠しに、

「あまり重く受けとめなくてもいいよ」

と言うと、彼は、

「わが班のチングたちにも、これからはキョスニムと呼ばないようにと、伝えておきます」

と言って、去っていった。

私は彼に敬意を表するとともに、心の中で、

(今度ばかりは、パンジャンニムとしてそのつとめを果たしてくれよ)

とつぶやいた。

まったく、情けないアジョッシ(おじさん)である。

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平均年齢70歳の学生たち

10月29日(木)

大学院生時代にお世話になった大先輩が、学生30名あまりを連れて、韓国にいらっしゃるということで、私と妻が1日、おつきあいすることにした。したがって、今日の語学の授業は欠席。

海印寺の門前でみなさんと合流して、昼食を食べ、大型バスで高霊(コリョン)、慶州をまわる。

さて、この学生さんたちは、なんと平均年齢70歳。その大先輩が某所で教えている学生さんである。月曜日にソウルに着き、4泊5日で、韓国の主要な箇所をまわる。

事前に、旅行の日程表を見たが、これがどうみても、ハードスケジュールなのである。

そして今日の予定も、かなり無理なものだ。

しかしビックリしたのは、みなさん、かなりお元気なのである。

高霊(コリョン)にある有名な古墳群が、山の上にあるのだが、急な登り坂にもかかわらず、果敢に登って行かれる。

見学場所1箇所にかける時間がほとんどないのだが、かなりテキパキとご覧になる。

そして隙あらば、矢継ぎ早に私に質問を投げかけてくる。

慶州の博物館や大陵苑を夕方6時半まで見学したあと、宿泊先のホテルに向かう。そして7時過ぎから夕食。私たちもご一緒した。

私の隣に座った方は、齢80歳の女性であった。いろいろとお話ししてみると、好奇心も旺盛だし、お話の内容もかなりしっかりしている。歴史が好きで、いまでもあちこちを旅しているという。

なにより、80歳という高齢で、日程的にハードな海外旅行に参加する、という、そのバイタリティがすごい。

私の倍の人生を生きている人。

学ぶ、ということは、これほどまでに人を元気にするものなのか。

学ぶことに、年齢など関係ないのだ。

昨晩、とても不愉快なことがあった。韓国での勉強がバカバカしくてやめてしまいたい、と思うほど、不愉快なことだった。

しかし、私のこの年齢(40歳)で、私よりも半分くらいの年齢の人たちと学ぶことができることの喜びを、まずは噛みしめるべきではないか、と思い直す。

そのことを、「平均年齢70歳の学生」さんたちに教わった。

夜8時をまわり、帰りのバスの関係で、私たちが先に夕食会場を出ることになった。

すると、みなさんが拍手でお送りしてくれた。

ほとんどお役に立てなかった私たちに見合わない、大きな拍手だった。

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3分マラギの化学反応

10月28日(水)

後半のマラギの授業。

今日の3分マラギの担当は、リュ・チウィエさんである。

お題は、「自分の国の昔話を紹介する」というもの。

リュ・チウィエさんが選んだ話は、「漁師と金魚」というものだった。

海に住む金魚がなんでも願いを叶えてくれることを知った貪欲な漁師夫婦が、調子に乗ってどんどん金魚にお願いしていった結果、最終的にすべてを失う、という話。昔話にありがちな、教訓的なお話である。

登場人物は、漁師とその妻、そして金魚である。

リュ・チウィエさんが前に立って、その話の筋を説明しはじめる。すると突然、リュ・リンチンさんがセリフを言いはじめた。

「ちょっとあんた、海の金魚のところに行って、別荘が欲しい、てお願いしてきなさいよ」

どうやら漁師の妻のセリフらしい。

すると今度は、チュイ・エンピン君がセリフを言う。

「金魚や!別荘を与えてください」

するとウ・チエンさんが、

「家に戻ってみなさい。立派な別荘が建っていることでしょう」

と、金魚の役を演じる。

つまり、3人が、登場人物をそれぞれ演じているのだ。

本来、1人で話すはずの3分マラギを、演劇的に見せる、という試み。

テーマが「昔話」だからこその発想だろう。

終わったあと、先生が、「いままでにない、新しい試みですね」とおっしゃる。

決して洗練されてはいなかったが、たしかに新しい試みであった。

リュ・チウィエさんが答える。

「昨日のキョスニムの3分マラギを聞いて、プレッシャーを感じました。だから、こういう方法を考えました」

どうも私が原因のようだ。

ひとしきり各国の昔話の話題で盛り上がり、あっという間に3時間目が終わった。

休み時間になって、リュ・チウィエさんに聞いてみた。

「この方法、いつ思いついたの?」

「昨日、キョスニムの3分マラギを聞いてからです。ただ話をしてもつまらないので、どうやったら面白くなるか、一生懸命考えました。それで、この方法を思いつきました。昨日はそれで、深夜2時まで準備していたんです」

どうやったら面白くなるだろうか、というのを考えた、というのがすばらしい。

もうそれだけで十分ではないか?

教えることを仕事としている身としては、学生が自分の頭で考えて、工夫しようとしたこと、そのことだけで、もう十分である。

以前、「授業はちょっとしたことがきっかけで、化学反応を起こす」と書いた。

これも、その「化学反応」の一例である。

ほかの人には些細な問題かも知れないが、私にとっては、何よりも待ち望んでいる瞬間である。

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秋の月

10月27日(火)

毎晩、1時間ほど散歩するのが日課になっている。

めっきり肌寒くはなったが、散歩するにはいい季節である。

夜空の月を見て思い出したことがあったので、書きとめておく。

今日の「3分マラギ」で、ひとりひとりが、私の発表に対する感想を述べているときのことである。

おとなしくてまじめなリュ・チウィエさんの番がまわってきた。

「私のいとこは、ここに留学していました」

リュ・チウィエさんはそう言うと、奄美の場所を確認するために私が配った日本地図を掲げて、鹿児島県のところを指した。

「へえ、奄美の近くですねえ」と先生。

「そうです。それでいとこのことを思い出したんです。(鹿児島は)景色がきれいなところだと思います」

「行ったことがあるの?」

「いえ、想像です」

ふだん、あまり喋らないリュ・チウィエさんは、なにかに触発されたのか、活発に喋りだしたのである。

さて、3時間目が終わった休み時間。

リュ・チウィエさんが、私の隣の、空いている席に座った。

「キョスニム、鹿児島は景色がきれいなところですか?」

「うん、きれいなところだよ。…いとこは、鹿児島の大学に通っているの?」

「いえ、鹿児島にある高校に通っていたんですけど、大学は別のところに行きました。でも、その大学の名前、忘れてしまいました」

リュ・チウィエさんは、中国の大学を卒業してから、韓国にやってきた。だから、大学入学を控えたほかの多くの中国人留学生にくらべて、やや年が上である。とはいっても、20代後半といったところか。

どちらかといえば引っ込み思案な性格で、ふだんはあまり韓国語を話そうとしない。

まじめな性格ほど、自分の韓国語に自信が持てず、話すのが億劫になるのかも知れない。

だが、今日はなぜか、堰を切ったように話しはじめた。

「キョスニム、韓国語の勉強が終わったら、今度は日本語を勉強したいんです。日本語は学ぶのが難しいですか?」

「難しいかも知れないね」と私。「でも、韓国語を勉強していれば、文法は同じだから、簡単に思えるかも知れないよ。漢字もあるし」

「でも、やっぱり難しそうですね」

「大丈夫だよ。私だって、韓国語を勉強したあとは、中国語を勉強したいと思っているんだから」と、励ましにもならない言葉。

休み時間が終わっても、リュ・チウィエさんは席を立とうとせず、話を続けようとする。

「ずいぶん話し込んでるわね。…気が済むまで話していいですよ。こっちはこっちでみんなと話しますから」と先生。先生は、リュ・チウィエさんが積極的に韓国語を話しているのを、とめようとはしなかった。

先生は、韓国民謡「アリラン」の地域的特色について、ほかの学生たちに話しはじめた。私もその話を聞きたかったのだが、ひきつづき、リュ・チウィエさんと話をする。

「キョスニム、1970年代80年代に活躍した女性歌手で、○○○という人、知っていますか?日本で、日本語の歌もずいぶん歌った、って聞きました」

名前が聞き取れなかったが、おそらくテレサ・テンのことであろう。

「知ってるよ。アジアでいちばん有名な歌手じゃないかな」

「そうですか。でもこの前、スンジ氏に聞いたら、『知らない』て言われました」

「日本で活躍したときの名前は、本名と違うからね」

話はまだ続く。今度は、日本語についての質問である。

「初対面の人に挨拶するとき、日本語でなんと言うんですか?」

私は紙に、「はじめまして。私の名前はリュ・チウィエです。お会いできて光栄です」と書いた。もちろん、ハングルで日本語の発音を記したのである。

リュ・チウィエさんは、ハングルで書かれた日本語のその挨拶文を、何度か読み返した。

「じゃあ、私の名前は、日本語の発音でどう読むんですか?」

と言うと、リュ・チウィエさんは自分の名前を

「劉秋月」

と書いた。

秋の月か。いまの季節にぴったりの名前だ。

私が「りゅうしゅうげつ」の発音をハングルで書くと、リュ・チウィエさんは「りゅうしゅうげつ」と何度もくり返して発音して、「おもしろいですね」と言った。

それにしても、なぜ、彼女は堰を切ったように話しかけてきたのだろう。そして、なぜ日本語を知りたい、と思ったのだろう。

いとこのことを急に思い出したからかも知れない。おそらくリュ・チウィエさんは、いとこのことが大好きなのだろう。

ひととおり話が終わったところを見はからって、先生が

「もう気が済んだ?」

と聞くと、リュ・チウィエさんは、「ええ」と言って、自分の席に戻っていった。

「さあ、じゃあ単語の勉強をはじめますよ。いままでリュ・チウィエさんの話が終わるのを待っていたんですからね」と、先生は授業を再開した。

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マラギ総決算!

10月27日(火)

後半のマラギの授業。

今日の「3分マラギ」は、私が担当である。

お題は、「自分の国の民謡を調査して、紹介する(民謡の歌詞の意味や、いつ歌われる歌なのか、など)」というもの。

ちょうど、教材では、韓国の代表的な民謡である「アリラン」が紹介されている。それに合わせた主題、ということであろう。

さて、どんな民謡を取り上げたらよいか。

私が住んでいる東北地方にも数多くの民謡があるので、最初はそれを紹介しようかとも思ったが、どうも面白くない。

そういえば、iPodに、奄美民謡が入っていたことを思い出す。

数年前、奄美大島へ旅行したとき、「奄美島唄」を聞いて感激して、「奄美島唄」のCDを取り扱っている奄美市の「セントラル楽器」というところで、何枚かCDを買い求めた。

奄美島唄は、裏声を多用した独特の歌唱法が印象的である。加えて、奄美がたどってきた苦難の歴史も、島唄には込められているように思う。まさに、民衆の唄というにふさわしい。機会があったら、どこかで紹介してみたいと思っていた。

この機会に、韓国人の先生や、中国人留学生たちに、奄美島唄を紹介しよう。韓国で「奄美島唄」。なかなかよい取り合わせではないか。

そして、私にとっては、韓国語の授業の中で、不特定多数の人たちの前で話す、おそらく最後の機会である。もちろん、このあと、「討論試験」や「期末試験」でマラギ(会話表現)の機会はあるのだが、ある程度自分の思い通りにできる機会は、今日だけである。

この1年間、この語学堂で学んできたことを、すべてこの発表の中につぎ込もう。

昨晩、明け方近くまで準備をする。

そして本番を迎える。以下は、私が発表した内容である。

「民謡は世界のあらゆる国にありますが、共通的な特徴は、支配者の歌ではなくて民衆の歌であることです。人々は日常生活や特別な日に民謡を歌ってきました。そうすることで民衆は力を持ちえました。民衆力の根源、それがまさに民謡なのです」

「日本でも同じです。日本には昔から民謡が地域ごとにありました。その中には韓国民謡『アリラン』のように誰も知っている民謡もありますが、ほとんどの日本人が知らない民謡もあります」

「今から紹介する民謡は、おそらくほとんどの日本人が聞いたことがない民謡です。私が好きな民謡なのですが、この民謡を一度聞いてみましょう」

ここで、CDに入れておいた「奄美島唄」を流す。

タイトルは、「行きゅんにゃ加那節」

行(い)きゅんにゃ加那(かな)  吾(わ)きゃ事(くとぅ)忘(わす)れて 行きゅんにゃ加那

打(う)っ発(た)ちゃ 打っ発ちゃが 行き苦(ぐる)しや  ソラ行き苦しや

阿母(あんま)と慈父(じゅう)  物憂(むぬめ)や考(かんげ)えんしょんな 阿母と慈父

米(くむ)取(とぅ)てぃ 豆(まむ)取てぃ 召(み)しょらしゅんど  ソラ召しょらしゅんど

目ぬ覚めて   夜(ゆる)や夜(ゆ)ながと 目ぬ覚めて

汝(な)きゃ事 思(う)めばや 眠(ねい)ぶららぬ  ソラ眠ぶららぬ

鳴(な)きゅん鳥(とぅい)小(くわ)  立(たち)神(がみ)沖(うき)なんて鳴きゅん鳥小

吾(わ)きゃ加那(かな)やくめが 生(い)き魂(まぶり) ソラ生き魂

「この民謡は日本の南に位置する奄美という島に伝わる民謡です。奄美に暮らす人々は、昔から、支配者のために長い間、苦しみにあってきました。その歴史のために、人々は独特の民謡を歌いながら力を出してきました」

「この歌は主に酒席で歌う歌です。歌詞も独特で、歌唱法も独特です。とくに裏声(falsett)という特徴的な歌唱法をたくさん使います」

「歌詞の意味は次の通りです」

ここで、自己流で翻訳した歌詞の大まかな意味を説明する。

버립니까 사랑하는 사람.

나를 잊어 버립니까? 사랑하는 사람.

떠나려고 생각해도 떠나기가 괴롭습니다.

어머니, 아버지.우울하게 생각하지 말아 주세요.

눈이 깨어,

새도록 눈이 깨어당신을 생각해 잠을 없습니다.

있는 새는,

바다 쪽에서 울고 있는 새는 나의 사랑하는 사람의 생령(生霊) 틀림없을 것이다.

「歌詞に出てくる言葉は、とても難しいですが、別離を主題にした歌であることは間違いありません」

「いまも奄美の人々は、奄美民謡を歌い継いでいます」

と、いちおう、ここまでが民謡の話。

「ところで、この話はここで終わりではありません」と私は続ける。

「この民謡を歌っていた歌手はこのとき高校生でした。この歌手は高校を卒業したあと、上京して有名な J-pop 歌手になりました。その歌手は、美しい声と独特の歌唱法で、多くの人々から支持を得ました。その歌がどんな歌なのか、聞いてみましょう」

ここで、あらかじめCDに入れていた2曲目の歌を流す。

その歌は、アルバム「ノマド・ソウル」に収められている元ちとせの「いつか風になる日」

そう、1曲目の奄美島唄を歌っていた歌手は、元ちとせであった。アルバム「故郷・美ら・思い」からの1曲。私が「セントラル楽器」で買い求めた1枚。

そしてこの歌を聴き終わったあと、最後のまとめである。

「この歌を聞けば、奄美民謡が現代のJ-popにも大きい影響を与えているということがわかります」

「つまり、民謡はいまも、私たちの心を揺さぶっているのです」

かなり強引なまとめ方で、3分マラギが終了。

このわかりにくい話が、どのくらいみんなに伝わったのかわからない。とくに、「元ちとせ」の種明かしをしたところで、わかったのは、日本人のカエヌナくらいなものだったろう。

しかし、このあとも、民謡についての話で、けっこう盛り上がったことは、せめてもの救いであった。結局、この話題で、まる1時間を使った。

先生は、「3分を大幅に過ぎましたね、減点の対象ですよ」と、冗談交じりにおっしゃった。

かくして、私にとって最後の「3分マラギ」が終了。

さほど面白い内容ではないが、記録としてとどめておく。

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大統領と呼ばないで

10月24日(日)

久々に何も予定がない日。

こういう日は、まるで強迫観念のように、映画を見に行く。やるべきことはたくさんあるのだが。

Ps09102100009 今日見た映画は、「グッドモーニング・プレジデント」である。

韓国の3人の大統領をめぐる話。といっても、全くの架空の大統領である。

3人の大統領を、イ・スンジェ、チャン・ドンゴン、コ・ドゥシムの3人が演じる。

チャン・ドンゴンは、言わずと知れた、韓国を代表する「男前」スター俳優。語学堂の授業でも、語学の先生が「男前」のたとえとして必ず出すのが、チャン・ドンゴンである。

イ・スンジェは、これまた韓国を代表する「老人」スター俳優。いま韓国のテレビでバンバン流れている保険会社のCMで、毎日のように彼の顔を見る。韓国で知らない人はいないであろう。

コ・ドゥシムは、映画の中で女性大統領をつとめる。

内容は、全くのコメディ映画である。大統領の私生活を、コメディタッチで描いている。

以前、日本のドラマで、田村正和が総理大臣を演じた「総理と呼ばないで」(三谷幸喜脚本)というのがあった。総理大臣の家庭を舞台にしたホームドラマである。このドラマは、放映当時、(おそらくあまりに荒唐無稽にすぎて)視聴率があまりよくなかったのだが、私はけっこう好きだった。この映画は、まさにあのドラマのテイストである。

3人の大統領のエピソードを、やや詰め込みすぎたような印象も受けたが、私は十分に楽しめた。

脇を固める人びともよい。

いつも思うのだが、脇を固める人びとをみると、なぜかかつての日本映画の個性派俳優たちによく似ている人が多いような気がする。

たとえば、この映画でも、コ・ドゥシム演ずる女性大統領の夫役を演じたイム・ハリョンは、どことなく稲葉義男に似ているし、大統領のSP役を演じた人は、左右田一平に似ていた。

だから安心してみられるのかも知れない。

それにしても、チャン・ドンゴンはやはりかっこいいね。できることならなってみたいものだ。もっとも、私はイム・ハリョンの方が圧倒的に近いが。

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小さな研究会

10月24日(土)

ソウルの某大学で行われた研究会で、研究発表をする。

6月にこの大学で発表をしたときに、「10月24日にも小さな研究会をやりますので、その時に発表してください」といわれた。

お世話になっている先生でもあるし、二つ返事で引き受けたのだが、はて、どんな趣旨の研究会なのか、どんな内容の発表をすればよいのか、時間はどれくらいなのか、まったくわからない。

「いま、関心をもっているテーマでいいです」とおっしゃるのだが、それもまた漠然とした話である。

先週、苦しみながら原稿を作る。どのくらいの時間で発表すればよいのかわからなかったので、A4で20枚もの原稿を作成して、19日(月)にメールで送った。

さて今日、言われたとおりの会場に行くと、月曜日に送った原稿が、すでに韓国語に翻訳されて、立派な冊子になっていた。

恐るべきスピードである。

そして、発表者にはそれぞれ、討論者1人がつくのだが、その討論文もすでに用意されていた。

今日の発表者が、私のほかに、もうお一人いることも判明する。

とにかく、当日に来てみないと、わからないことだらけなのだ。

午後2時、研究会が始まる。主催の先生の挨拶。

「今日は、絶好の紅葉シーズンのため、あまり人がいませんが、家族的な雰囲気で会をすすめましょう」

たしかにそうだ。今週、来週あたりは、紅葉のピークである。こんな時に、研究会に出るなんてもったいない話だ。

実際、出席者は、主催者、発表者、討論者含めて10名程度。こぢんまりした雰囲気で、研究会が始まる。

でもこれくらいがちょうどよい感じかも知れない。

研究会が無事終わり、ささやかな打ち上げ。

その席で、主催の先生がおっしゃるには、私の研究発表に対する討論者が、なかなか見つからなかったそうだ。

「最初、発表のタイトルだけを見て、討論者を引き受けてくれた方に、先生の原稿をお送りしたんです。すると、夜中に『自分にはとてもつとまらない』と断りの連絡が来ました」

ほかにも当たるが、原稿を見て断られる。で、いろいろとさがしたあげく、専門が近く、日本に留学経験がある方がひとり見つかり、なんとか当日の研究会に間に合ったのだという。

「そんなことがあったんですか…」

そりゃそうかも知れない、と思い直す。今回発表した内容は、韓国ではまったく未開拓の分野だし、なにより、私自身からして、難解だな、と思う内容だったからである。とっつきやすいタイトルだけを見て、騙された、と思った人が多かったのだろう。

韓国の学界の風潮として、発表の主題にかかわらず、「討論者」を頼まれたら二つ返事で引き受ける人が多いのだが、今回ばかりは、二つ返事で引き受けられるようなシロモノではなかったようだ。

誇るべし、というべきか。

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紅葉狩り

10月23日(金)

大学の先生方や大学院生のみなさんと、「紅葉狩り」に行くことになった。

場所は、安東(アンドン)の北、ポンファというところにあるチョンリャン山である。

大邱から車で2時間くらいかかるところである。

午前10時、総勢15名が、3台の自家用車に分乗して大学を出発する。

いま、「午前10時」と書いたが、実はこの日、語学の授業を休みますと、語学の先生にお伝えしていたのだが、前日(木曜日)にメールで送られてきた予定表を見て、出発が「午前10時」だということを知り、急遽、9時から始まる1時間目の授業にだけ、出ることにした。

学生の鑑(かがみ)だな、私は。

それといま、「前日に予定表が送られてきた」と書いたが、こんなことはよくあることである。前日まで、自分たちが何時にどこに集合するのか、そしてどこに行くのかを知らされない、というケースはザラである。いつでも対応できるように、スタンバイしておかなければならないのだ。

1時間目の授業は9時50分に終わるのだが、今日にかぎって先生が授業時間を延長し、結局9時55分過ぎに授業が終わる。

あわてて集合場所に走る。結局私がいちばん最後になり、偉い先生方をお待たせすることになってしまった。

さて私は、偉い先生方の乗る車に乗せられることになった。

韓国では、教授と学生の区別が歴然としている。

偉い先生は偉い先生どうし、学生は学生どうしで車に乗る、というのが、原則のようである。

本当は大学院生のみなさんと一緒の車がよかったのだが、いちおう私も「キョスニム」なので、偉い先生のいらっしゃる車に乗らざるをえなかったのである。

お昼ごろ到着。昼食を食べたあと、いよいよ登山開始である。

Photo_2 急な登り坂が続く。相変わらず、すぐに息が上がるが、他のみなさん方も、ふだん運動されていない人が多いようで、同じように息が上がっている。

Photo 20分ほどで、最初の目的地、清涼寺に到着。

さらに上に行ったところの、「ハヌレ タリ(天空橋)」をめざす。

再び急な登り坂が続く。

途中、大学院生の方が、下ってくる人たちに、「(天空橋に)あとどのくらいで着きますか?」と聞いている。

すると道行く人のほとんどが、「もうすぐそこだよ」と答える。

しかし、いっこうに着く気配はない。

どうやらいい加減に答えているらしい。すれ違うときの挨拶のようなものか。

Photo_3 やがて天空橋に到着。

吊り橋から見る風景は、絶景というにふさわしい。

吊り橋の真ん中あたりの所は、下がガラス張りになっていて、真下を見ることができる。高所恐怖症の人は、絶対に渡ることができないだろう。実際、ある方は、橋を渡ることができなかった。

吊り橋の上で、大学院生の女の子が、「オンマ!ボヨジュルケヨー(ママー、見せてあげるよー)」といって、携帯電話のカメラでうつした風景を、リアルタイムで(故郷にいる)母親に見せていた。

あまりの風景のすばらしさに、この風景をお母さんにも見せたかったのだろう。韓国らしい、親孝行の姿である。

そういえば、万葉集に、こんな歌があった。

「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」

むかし、ある高名な万葉学者の講演を聞いていたら、「この歌は駄作です」とおっしゃっていた。

理由は、「玉津島」の部分を別の名所に置き換えても、歌として成り立つから。つまり、この歌自体は、「玉津島」の美しさを、何ら表現していない、というのである。

たとえば、

「ハヌレタリ 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」

としても、歌として十分成り立つのである。

そして万葉集の時代の人が「どうやって包んで持って帰ろうか」と悩んでいた美しい風景を、いまでは携帯電話のカメラ機能を使うことにより、容易に持ち帰ることができるばかりか、リアルタイムで見せることができるのである。

でも、美しい風景を包んで持って帰りたい、というその思いだけは、今も昔も変わらない。

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昼食付き試験

10月22日(木)

明日(金曜日)、大学の先生方や大学院生のみなさんと、タプサ(踏査)に行くことになり、語学の授業を休まなければならなくなった。

ところが、明日は、語学の授業時間内にスギ(作文)の試験がある。

今週の月曜日にそのことを先生に言ったところ、「水曜日に会議がありますから、その時に、試験についてどうするかを決めます」とおっしゃった。

そして今日、明日に受けるはずの試験を特別に、今日の授業の終了後、振り替えて受けさせてもらうことになった。

以前にも一度、同じようなことがあったので、今回もそうなるだろう、とは思っていた。

しかし考えてみれば、私ひとりが、別の日に試験を受けるために、その時間先生も、試験監督としていなければいけないので、先生にとっては、けっこうな負担である。

「どうせ進級するわけでもないんだし、受けなくてもいいじゃん」と、先生方は思っていたのかも知れない。

私も、最初は「受けなくてもいいかな」と思っていた。でも、不思議なもので、語学の授業が今学期で終わりだ、ということになると、やはりひとつひとつの試験を大事に受けよう、と思うようになる。

それで、わがままを言って受けさせてもらうことにしたのである。

さて、今日。

授業が12時50分に終わり、その足で同じ建物の5階にある教員研究室に向かう。

10名以上の先生方が一堂に会している、いわゆる「大部屋」である。

おそるおそるのぞくと、ほとんど、というか、全員が、知っている先生である。

「あら、試験を受けに来たんですね。どうぞお入りください」

「いえ、…外で待っています」

やがて1時になり、ほとんどの先生が、午後の授業に出る。そのほとんどの先生と挨拶を交わし、ようやくホッとして、教員研究室に入った。

すると、文法の先生が、

「お腹空いたでしょう。お腹が空くと試験ができないだろうから、試験の前にこれを食べなさい」

と、キンパプ(のり巻き)2本と、タマゴトースト2切れを私の所に持ってきた。

どこかのお店で買ったもののようだが、まだあたたかい。

文法の先生は、直前まで授業をしていたはずなので、買いに行けるはずはない。いったい誰が買ってきたのだろう。

それと、これだけの量のキンパプとトーストは、今日私が試験を受けるということをわかっていた先生が、わざわざ私のために買ってくれたものだろうか?

だとすれば、私はまったく厄介な学生である。試験日を振り替えさせた上に、昼食まで御馳走になる、というのだから。

「昼食付きの試験」というのは、生まれて初めてだ。

しかし、のり巻き2本とタマゴトースト2切れは、かなりの量である。一体どれだけ大飯食らいだと思われているのだろう。

さすがにのり巻き1本を残した。

食べ終わったころ、今度は「モノをよくなくす先生」が、

「これから私、大学院の講義を聞きに行くので出ますけど、試験を受ける前は甘いものを食べた方がいいですからどうぞ」

と、キャラメルを1ついただく。ついでにアロエジュースも。

まったく、どんだけ至れり尽くせりなんだ。

これで試験の点数がひどかったら、目も当てられないな。たんにタダメシを食いに来たオッサンである。

昼食後、一息ついていると、今度は、3級の時のナム先生が通りかかる。

「あら、試験を受けるんですね」

「ええ」

「そういえば、今学期の授業で終わりなんですって?来学期は授業とらないの?残りの期間はどうするんです?」

「本来の研究をしなければいけませんし…。旅行もする予定です」

「そうですか。残念ですね。…試験チャルボセヨ(よく受けてください)」

まったく落ち着かない。

結局、3時近くになって、「ひとり試験」がようやく終了する。

まったく、コストのかかる学生である。

先生の手を煩わせてしまったことを反省しつつ、教員研究室をあとにした。

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最悪の文章

10月22日(木)

最近、やたらと感傷的な日記が続いている、ような気がする。

精神的にかなりまいっているからかも知れない。

こういうときは「自画自賛」するにかぎる。

私と同世代の、ある深夜ラジオDJが、以前、こんなことを言っていた。

「俺がラジオをしているのは、『こんなバカでも生きていけるんだから、俺もがんばろう』と思う人が1人でもいれば、と思って」

本当は、こんなかっこいい言い方はしていない。照れ隠しに、もっとオモシロを交えて言っていた。

でも、そんな生き方は、理想的だ、と思う。

数日前だったか。

語学学校のわがクラスの中国人留学生たちの間では、「睡眠障害」がしばしば問題になっている、ということが、授業の中で話題になった。

夜、まったく眠れないので、授業に出られなかったり、授業に出たりしても、ずっと寝ていたりする学生が多い。

私はそれを、単にサボっているのか、と思っていたが、そうではなく、かなり深刻な睡眠障害のようである。パンジャンニムのロンチョン君も、バスケットボールが得意なシャオシャオ君も、どうやらそのせいで、授業になかなか出られないようなのである。

「睡眠障害といえば、ボクがいちばん深刻なんじゃないでしょうか」とリ・チャン君。

リ・チャン君も、夜、まったく眠れないという。彼が授業中、ずっと寝ているのは、そういう理由からなのであった。

みんなで解決策を考える。「寝る前に温かい牛乳を飲む」とか、「お風呂に入る」とか、「適度にお酒を飲む」とか。

ひととおり解決策が出そろったあと、隣に座っている私が、リ・チャン君に話しかけた。

「散歩したらどうだろう。私は、夜、寝る少し前に、1時間くらい散歩するんだ」

「夜に散歩ですか?ちょっと恐いですね」とリ・チャン君。

「住んでるところは大学の近くだろう?だったら大学の構内を散歩すれば別に恐くなんかないよ」

実際、私も、大学の構内を、夜中に散歩しているのである。

で、1時間くらい散歩することがいかによいか、を、授業中にみんなの前で話したこともあった。

さて、昨日のことである。

朝、いつものようにリ・チャン君が教室にやってくる。

やってくるなり、わたしに言った。

「昨日、夜、外へ出て散歩したんです。それから、美味しいものを食べました」

「で、どうだった?」

「夜中の2時に寝ることができました」

彼にとっては大きな進歩ではないか。

ちっぽけなことだが、私をまねてくれる、というのは、やはり嬉しいものである。

ところが今日、リ・チャン君に、

「昨日はよく眠れた?」

と聞くと、

「いえ、全然ダメでした。また逆戻りです」と。

まだまだ道のりは長いようだ。

こんなこともあった。これも数日前のこと。

「韓国語を上達するためによい方法を知っていたら、チングに教えてあげてください」とマラギの先生。

「韓国語で日記を書くとよいです。私も書いてます」と私。

「なるほど、それはよい方法ですね」と先生はおっしゃった。

それから数日後、カエヌナが、韓国語で日記をつけはじめた、という話を聞いた。韓国語で書いた日記を、韓国人のナンピョン(夫)に添削してもらっているという。

さらに、これも数日前のこと。

「モノをよくなくす先生」から、野外授業のときの写真がメールで送られてきた。

そのついでに、次のようなことが書いてあった。

요즘 저는 공부도 재미없고 숙제 때문에 힘들기만 했느데

두 분을 보면서 목표가 생겼습니다.

공부를 더 열심히 해야 할 이유가 생겼습니다.

그래서 두 분께 아주 감사한 마음을 가지고 있습니다.

ここでいう「두 분」とは、私と妻のこと。

年上の人間に対する礼儀上の言葉が多分に含まれているのだろうが、こちらの都合のよいように解釈すると、「あんなアジョッシでもあきらめずにやっているんだから、私もがんばろう」ということなのではないか。

自分が愚直にやっていることが、ほんの少しでも他人の心を動かすことができれば、これほど嬉しいことはない。教員などという稼業をしていると、なおさらそんなことに敏感である。

実際のところは、それで私の方が励まされているのだが。

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40歳の転機

10月19日(月)

後半のマラギ(会話表現)の授業では、まず韓国の放送局が製作したドキュメンタリー番組を見る。

テーマは、「天職をさがす休暇」。アメリカでは最近、仕事の休暇を利用して、自分にとってよりよい仕事を見つけるために、他の職業を体験するという「ボケーション、バケーション(Vocation Vacation)」というのが注目されているという。番組では、これにならって、新しい仕事をしてみたいと考える人に、数日間、まったく別の職業体験をさせる、という試みをした。

ま、大学でいうところの「インターンシップ」のようなものである。

番組では、おもに2人のアジョッシ(おじさん)の職業体験を中心に取材していた。

ひとりは、現在小学校の教師をしていている小太りのアジョッシ。このまま定年まで教師の仕事を続けていく自身がない、という彼は、昔からの夢だった「料理人」への転職を、本気で考えるようになったという。

もうひとりは、会社員をしているスマートなアジョッシ。木工職人になりたいという。

小太りのアジョッシは、ホテルのレストランの厨房で働くことになり、スマートなアジョッシは、山里に住む木工職人に弟子入りすることになる。

いずれも、数日間の職業体験。

番組を見ているうちに、あることに気づく。

小太りのアジョッシの年齢は42歳、スマートなアジョッシの年齢は40歳。

つまりいずれも、私とほぼ同じ年齢である。

やはりこの年齢くらいになって、「人生の転機」について考えるものなんだな。

かくいう私も、実はそうである。韓国での勉強を考えたのも、40歳という年齢を、ある程度意識していたからである。

そのことに気づき、急に、この2人に対する思い入れが強まり、番組にのめり込んでゆく。

スマートなアジョッシは、木工職人の師匠に技術を教わりながらも、生き方も、同時に学んでいたようだった。

そして、小太りのアジョッシは、せまい厨房の中で、自分よりも年下の料理人からさまざまなことを教わりながら、厨房の仕事をこなしてゆく。決して器用ではないその指先で、料理も作っている。

これまでにまったく体験してこなかった世界と出会った、42歳のアジョッシの表情。

その姿は、いま私が韓国語を学んでいる姿そのものではないか。

見ていくうちに、涙が止まらなくなってきた。

不思議である。全然悲しい映像でもないのに。

ま、体調のせいもあるだろう。今度の土曜日の研究会での発表のために、昨日、一昨日と、気の進まない発表原稿を書き上げなければならなくて、精神的にボロボロだったのだから。

さて、番組は、数日間の職業体験をした2人のその後についても、少しだけ映しだしていた。

2人は、前と変わらず、仕事を続けている。

ただ、小太りのアジョッシは、料理教室に通いはじめて、料理の勉強を少しずつ続けるようになった。

スマートなアジョッシは、自分の会社のデスクに、自分がその時に作った木製の写真立てを置いて、その中に、師匠との2ショットの写真をおさめた。

何かが変わったのかも知れないし、何も変わっていないのかも知れない。

番組を見終わったあと、今度は、みんなで「なりたい職業」について話し合う。

「みなさんのなりたい職業は何ですか?」と先生。

パンジャンニム(班長殿)のロンチョン君が、「社長になりたいです」と答えた。

すると、ヤンチャン君も「ボクも社長になりたいです」と手をあげる。

「社長は職業ではないのよ!あなたたち、社長、てどういう人だかわかっているの?」と先生があきれる。

「カエヌナはどうですか?」

「事業を起こしたいです」

「スンジ氏は?」

「野球選手です」

「それは子どものころの夢でしょう!現実につくことができる職業を言いなさいよ!」

「でも、夢は夢ですから」

相変わらず、スンジ氏は答えをはぐらかすのがうまい。

今度は先生が私に質問する。

「キョスニムが、もし今の仕事を辞めて、他の仕事につきたいとしたら、どんな職業につきたいですか?」

本当は、落語家の修業をして落語家になりたい、と答えたかったのだが、これを韓国語で説明するのは、至難の業なので、あきらめた。

「作家になりたいです」

「作家というと…小説家ですか?」

「いえ、日常的な生活を描くような…」

「ああ、随筆作家ですね」

「できれば…」と私が続ける。

「韓国に来てから、この間に私が体験したさまざまなことを、一冊の本にまとめてみたいんです」

「なるほど、それは読んでみたいですね。でもそれは、日本に帰ってから実現できるんじゃないですか?」

…いや、スンジ氏の「野球選手」と同じくらい、「夢のまた夢」である。

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最後の野外授業

10月16日(金)

語学堂の野外授業の日。

朝7時30分に、大学の駐車場に集合することになっていた。

いつもなら集合時間にきっちりと集合場所に行くのだが、バスの出発は8時だということがわかっていたので、やや遅れて家を出る。

すると、担任の先生(文法の先生)から電話が。

「今どこですか?」

「すいません!いま向かっているところです!」

遅れちゃマズイと思い、あわてて走り出す。

走って集合場所に着くと、先生方がゲラゲラと笑っている。

「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。…あれ、奥さんは?」

後ろを見ると、妻があとからゆっくりと歩いてきた。

どうやら、自分のことばかり考えていて、妻を置いてきてしまったらしい。

「いつもこうなんですよ。自分のことばかり考えて…」

妻の言葉に、先生方は再び爆笑した。

午前8時。200名以上の留学生たちを乗せた6台の大型バスが、大学を出発。向かう先は、全羅南道である。

Photo 3時間近くかかって、ようやく目的地に到着。ここで、レールバイクというものに乗る。

廃線になったレールを利用して、レールの上を、自転車のように足で漕いで移動する、というもの。

4人がひと組になって、1台のレールバイクを漕ぐ。

Photo_2 30分くらいかけて、レールの上をゆっくりと走る。

景色が最高にすばらしい。心配していた雨も降らず、最高の天気である。

私の前を行くのが、タン・シャオエイ君とル・ルさんのカップル、チュイ・エンピン君(4級3班のチング)とチゥイウェン・チエさん(2級4班のときのチング)のカップル。4人とも、同じクラスだった人ばかりだ。さらにその前のバイクには、2級のとき同じ班だった、リ・ペイシャン君と3級6班のときのパンジャンニムこと、クォ・チエンさんのカップルが乗っている。この2人は、7月頃からつきあい始めたようで、今がいちばんラブラブ、といった感じで、ちょっと見ていられない。

Photo_3 途中、「チョイ悪オヤジ予備軍」ことタン・シャオエイ君が、身を乗り出して、レールの脇に咲いていたコスモスの花をとって、ヨジャ・チングである「まじめ美人」ことル・ルさんに渡した。

Photo_4 なんとロマンティックな光景だろう。ふだんの私なら、「ケッ!しゃらくせえ!」と思ってしまうところだが、今日は、なぜか微笑ましく思える。美しい風景のせいであろう。

30分ほどの「レールバイクの旅」も終了。昼食場所へと移動する。

例によって、200名以上が1つの食堂で食べるのだから、食堂は大混乱である。

食べ終わったら、食堂の前の広場で待っていて、決して他に行かないように、と、あらかじめツアコンの人からお達しがあった。

ところが、食堂で食べていると、「キョスニム!キョスニム!」と、トラメガを通して大声で私を呼ぶ声がした。

「キョスニム!どこですか?」

語学堂をとりしきる、パク先生の声である。

パク先生とは、ほとんどこの「野外授業」でしかお目にかからない。だが、なぜかパク先生は私のことを大変気にかけてくださる。まわりが若い中国人留学生ばかりだということで、きっと寂しいのだろう、と思っていらっしゃるのだろう。

見た目は恐いアジュンマ(失礼!)といった感じで、喋り方も、慶尚道サトゥリ(訛り)の独特のまくしたて方で、やはりちょっと恐い。でも、実は結構面白いことを言っていたりする。中国語がネイティブなみの上手さで、中国人留学生たちの信頼も厚い。

そのパク先生が、トラメガで、みんなに聞こえるように私に言った。

「キョスニム!食事が終わったら、食堂を出たところで待機してくださいよ。決して、他のところに行ってはいけませんよ!」

「わかりました」

さっき、ツアコンの人に聞いていたので、わかっていたのだがな。なぜ、満座の席で、私だけに、しかもマイクで念押しするのか、よくわからない。しかもこっちは、いい大人だぞ。

まわりの留学生たちも、失笑している。

Photo_6 昼食が終わり、午後は「ブラザーフッド」という映画のロケが行われた、映画のセットを見学。1950年代の韓国が再現されていて面白い。

「ブラザー・フッド」(原題「太極旗を翻して」)は、韓国人のほとんどが見たことのある映画ではないだろうか。

Photo_5続いて、蒸気機関車に乗る体験。「ブラザー・フッド」で、あのチャン・ドンゴンが乗った蒸気機関車だという。

せっかくなので、車両と車両の間のデッキに立って、外の空気にあたりながら、風景を眺めることにした。

すると、2級の時の先生2人、3級の時の先生2人、そしてTopik(韓国語能力試験)の特講の先生が、すでにデッキにいらっしゃった。全員、私がお世話になった先生だ。

2級のときの「粗忽者の先生」と久しぶりにお話をする。

「今朝、どうして奥さんを置いて1人で走ってきたの?」

もうその情報が伝わっているらしい。

「いえ、それは、…突然先生から電話があったもので、…つい…」

「奥さん、美人ですよね、美人」

何と答えていいかわからず、考えあぐねていると、

「美人、美人、美人ですよね、美人、美しい人、美人、わかる?美人、美人」

どうも、私が「美人(ミイン)」という言葉の意味がわからないと思ってらっしゃったのか、大声で何度も「美人」という言葉を連呼する。同じ言葉を何度もくり返すのは、「粗忽者の先生」の口癖である。

「…そう何度も大きい声で『美人』て言わないでくださいよ…。こっちが恥ずかしくなります」

まわりの先生方も失笑。

汽車を降りて、再びバスで移動。順天というところの湿原に向かう。

「あまり見学時間はありませんけれど、景色がきれいなところですから、いっぱい写真を撮るんですよー」と、わが班の文法の先生。

バスを降りて、湿原のある公園の入口にいったんみんなが集合する。そこで、語学堂をとりしきるパク先生が、全員に、見学のポイントや、バスの出発時間などを説明された。

そのあと、パク先生は再びトラメガで私を名指しする。

「キョスニム!向こうの方に行くと景色がきれいですから、必ず行きなさいよ!時間がないので、早く行きなさい!」

「わかりました」

再び他の先生方が失笑。どうしてわたしばかりが名指しされるのだろう。

Photo_7 湿原はたしかにきれいだった。

みんなが、最後の時を過ごす。とくに私にとっては、最後の野外授業である。

ところが、私は妻とはぐれてしまう。妻をさがすが、どこにも見あたらない。携帯電話をかけてみても、電話に出る気配もない。

おおかた、クラスのチングたちと一緒に行動しているのであろう。

Photo_8 仕方がないので、ひとりで湿原をトボトボと歩くことにした。

湿原をひとまわりしたあと、何人もの先生から、

「どうしておひとりで歩いていたんですか?」と聞かれる。

湿原をトボトボとひとりで歩いている姿が、遠くからよく見えたらしい。

「ひょっとして、奥さんとケンカしたんですか?」

とか、

「きれいな女性をさがしていたんですか?」

とか、からかわれる。

とにかく、私の一挙手一投足が、見られているのだ。

やがて集合時間の4時20分がやってきた。バスに乗り込んで、大邱に戻る。

ここからまた3時間以上の移動時間である。

途中、休憩所に立ち寄る。用を足してトイレから出てきたところに、語学堂をとりしきるパク先生とまたバッタリ出くわした。

「お!キョスニム!何か美味しいもの買ってくださいよ!奨学金もらったんでしょ?美味しいものをおごりなさいよ」

強引に屋台の前に連れていかれ、串に刺したさつま揚げみたいなものを、5人分買わされた。

またもやまわりの先生方が失笑。

そりゃそうだ。「キョスニム!何か美味しいもの買ってください」というのは、たとえて言えば、落語家の弟子が、

「師匠!ちょっ、ジュース買ってきて」

と、師匠に使いっ走りをさせるようなものだ。それほど、韓国では「キョスニム」(教授様)といえば、偉い人なのだ。

結局、「キョスニム」は、私のあだ名だったんだな。

かくして、夜8時、バスは大邱に到着。今まででいちばん長い、野外授業の1日が終了した。

私にとっては、最後の野外授業。前学期の料理教室の失敗を、取り返すに余りある充実ぶりだった。

うーむ。こんな記事、さして盛り上がりもないから、第三者が読んだらつまらないだろうな。自分のために書いているのだから、ま、いいか。

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ナム先生の、もう一つの人生

前学期、3級6班の最後の授業(8月6日)のときのことである。

「みんなでわが班の集合写真を撮りましょう」と私が提案する。

写真を撮ったあと、マラギ(会話表現)担当のナム先生に、「最近、ミニホムピィを作ったので、この写真をそこにアップしてもいいですか?」と聞いたところ、「もちろんいいですよ。へえ、ミニホムピィを作ったんですね。今度遊びに行きますから、アドレスを教えてください」と言われた。

しばらくして、律儀にも訪問してくださり、「芳名録」に訪問コメントまで残してくださった。

前にも書いたように、ナム先生は、不思議な先生である。

授業じたいは、きわめてオーソドックスで、とくに学生を楽しませるために余計なことを言ったりすることはない。どちらかといえば、ふだんはクールな先生である。

だが、初回から学生の名前を完璧に覚えているなど、学生に対する目配りが行き届いていたり、授業でやるべきことをきっちりとやったりするなど、まさにプロの語学の先生だな、とふだんから敬意を表していた。学生たちの信頼も厚い。

そして、私生活はほとんど謎である。授業で、自分の私生活について話したことは全くないし、私も、先生と個人的に話したことは、ほとんどない。

どちらかというと、一匹狼的な人なのかな、と思っていた。

といって、取っつきにくい人ではなく、どちらかといえば、人なつっこい人である。

だからどうにも不思議な先生なのである。

「バレーボールの選手みたい」とは妻の談。性格がサッパリしていて、女性に好かれるタイプの女性だという。

さて、「芳名録」に訪問コメントが書かれると、書いた人のミニホムピィがリンクされていて、そこに飛ぶことができる。

ナム先生のミニホムピィを見て驚いた。

そこには、私が受けた授業からはまったく想像もできない世界があった。

掲載された写真は、すべてモンゴルの写真。どうも先生は、一時期モンゴルに滞在されていたらしい。

そして、教室の中にいる多くの子どもたちの写真もある。モンゴルに長く滞在されて、韓国語を教えられていたようである。

写真の中にいる子どもたちは、みんないい笑顔をしていた。

語学の授業中、先生がモンゴルの話をしたことは一度もなかった。モンゴル語が堪能である、ということも、おくびにも出していない。それだけに、このミニホムピィを見たときは衝撃的であった。

ふだんのクールな先生からは想像もつかない情熱である。

しかもそこには、いまの語学堂のことや、ふだんの生活のことはひとつもふれられていない。ただひたすら、モンゴルに対する「恋い焦がれた思い」だけで埋め尽くされているのである。

なにか見てはいけないものを見てしまった、という感じである。ナム先生にとって、このミニホムピィこそは、自分の大切な財産である「モンゴル滞在」の追憶の場になっていたのだ。

ミニホムピィの「芳名録」には、モンゴルに滞在していたときに韓国語を教えていたと思われる、モンゴル人の教え子たちからの訪問コメントがひっきりなしに寄せられている。

それに対する先生の返事もまた、ふだんの先生からは想像できない。

たとえば、こんな感じである。

「作文で賞を受けたこと、本当におめでとう。

先生のことを思ってくれて本当にありがとう。

ナヤが一生懸命やったから賞が取れたのよ。次はもっと一生懸命勉強して、必ず1位をとるのよ。わかった?

韓国はいま、花がたくさん咲いている。

韓国にあるたくさんのきれいな花を、ナヤも見られればいいのにね....

あとで写真送ってあげるね。

春になると、先生はモンゴルのことをたくさん思い出すの。

(職場の)学校へ行く道すがら、 『モンゴルも、今日は暖かいんだろうな』『モンゴルも、もうすぐ黄砂がひどくなるんだろうな』なんて考えてる。

本当に何もかもが懐かしい。

このごろ先生はね、モンゴルに遊びに行く日を指折り数えて待っているのよ」

そこには、モンゴルに対する思いが切々と語られていた。

ふだんの、クールで職人的な授業からは想像できない情熱をかいま見て、ふと考える。

なぜ、ナム先生は、それほどまでに恋い焦がれたモンゴルから、韓国に戻ってきたのだろう?

そして、恋い焦がれたモンゴルから引き離されたいま、どんなことを思っているのだろう?

そこから、空想の物語がとめどもなく広がってゆくのだが、根も葉もない物語を作るのはやめにしよう。

おそらく今後、ご本人にそのことをたずねる機会もないだろう。

今日もまた、遠いモンゴルの空を思いながら、目の前の留学生たちを相手に、日々の授業に追われる生活をしていることだろう。

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最悪の人、最高の人

10月14日(水)

今日の後半のマラギ(会話表現)の授業。3分マラギのテーマは、「今まで生きてきた中で会った、最高の人、最悪の人」である。

担当者は、パンジャンニム(班長殿)ことロンチョン君。久しぶりに授業に顔を出したが、たまたま今日が自分の担当であったことをすっかり忘れていて、何の準備もないまま、アドリブで3分マラギにのぞむ。

たしかにアドリブでもそれなりに韓国語で話すことができるし、その度胸も買うのだが、大学院に入ったらそれだけでは通用しないぞ、と、人ごとながら少し心配になる。

ロンチョン君の3分マラギが終わり、「みなさーん。みなさんがこれまで会った、最高の人、最悪の人はどんな人ですか?」と先生。

ひとりひとりが、自分がこれまで会った最高の人、最悪の人についての経験談を話す。

当然私も、話さなければならない。私の番がまわってきた。

「まず、これまでに会った最悪の人は、…職場にいますね」と私。

「そうでしょう。だいたいそういう人は、職場にいるものです。それはどんな人ですか?」と先生。

ここでは書けないような話をする。

ひととおり話が終わり、再び先生が質問する。

「じゃあ、これまでに会った最高の人は、どんな人ですか?」

「前の職場にいた同僚です」

そう言って、その同僚との思い出話を、若干。

ひととおり、みんなの話が終わり、先生がまとめる。

「なるほど。面白いものですね。みなさんの話を聞いていると、最高の人が職場にいる、と答えた人は、最悪の人も職場にいると答えて、最高の人が先生の中にいると答えた人は、最悪の人もやはり先生の中にいると答えて、最高の人がチングの中にいると答えた人は、最悪の人もやはりチングの中にいると答えてましたね。実は先生も、最高の人と最悪の人が、それぞれ職場にいるんですよ」

なるほど、言われてみればそうだ。人生は、うまいことできてる。

「ひょっとして、最悪の人の近くには、最高の人がいるのかも知れませんね」

先生は最後にそうおっしゃった。

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これが私の生き方

10月13日(火)

このところ、中国人留学生たちは忙しい。

理由は、来年3月の大学入学をめざして、さまざまな書類作成を行っているためのようである。

外国人留学生が、韓国の大学に出願する際にどのような書類が必要なのか、よくわからないが、彼らはいま、自己推薦書を韓国語で書いては、語学の先生に添削してもらっている。

だからこの時期、語学の先生も、彼らの書いた書類の添削で忙しいのである。

休み時間、おとなしいヤン・チャン君が私のところにやってきた。

「キョスニム、英語、わかりますか?」

と言うと、ノート1ページいっぱいに書かれた、殴り書きの英語の文章を見せてきた。

「これ何?」

「大学の入学のために、高校の時の先生が書いて送ってくれた推薦書です。もし文法とか単語とかで、間違っているところがあったら直してください」

久しぶりの英語の文章である。読んでみるものの、実にわかりにくい文章である。と言うより、文章の体をあまりなしていないように思える。

「これ、本当に、高校の先生が書いてくれたの?」

「いえ、もとは中国語で書かれていたんですけど、大学に出すときには、韓国語か英語で書いた推薦書を出さなければならなくて、英語がわかるチングに翻訳してもらったんです」

「そのチングは、英語が得意なの?」

「いちおう、大学院に通ってます」

うーむ。どうも不安である。日本でも経験していることだが、中国人学生たちの多くは、英語が得意なわけではない。かなり怪しい英語であることは間違いない。

しかし、私の英語能力からして、休み時間の10分で推敲することなどとてもできない。

本来ならば、英語を母語としているハナさんや、英語ができるカエヌナに頼めばいいのだろうが、彼にとっても、相談しやすい人間が私ぐらいしかいなかったのだろう。

細かな間違いだけを直すにとどめる。

「これ、いつまでに出すの?」

「23日までです」

「じゃあ、まだ時間があるね。できれば、英語ではなく、自分で韓国語に翻訳して、それを語学の先生に直してもらった方がいいんじゃないかな?」

「でも、いろいろと他にも作らなければならない書類もあるし…」

「もし時間があったら、いっぺんやってみなよ」

「わかりました。ありがとうございます」

それにしても、せめて高校の先生自身が、英語で書いた推薦書を送ってくれれば問題ないのに…。

さて、後半の授業では、ハン・ビヤという人についてのインタビュー記事を読む。

先生によれば、ハン・ビヤ氏は、「風の娘」の異名を持つ、韓国を代表する旅行家である。全世界の奥地ばかりを選び、歩いたりヒッチハイクしたりして旅しているという。その生き方は、若い女性の憧れでもあり、憧れの女性1位に選ばれたこともあるという。

この「旅行家」という職業に、カエヌナが噛みつく。「旅行」とはあくまでも趣味のものなのだから、「旅行家」が職業になるのはおかしい。「冒険家」や「探検家」なら、まだわかる、と。

これに対して先生が説明する。旅行家とは、旅行会社などから依頼されて、世界各地を旅行して、ツアーなどで見るにふさわしい場所を見つけて、紹介するのが仕事なのだ、と。

どうもよくわからない説明である。私の乏しい知識からすれば、世界の奥地を旅行しながら、その様子を本にまとめている人であり、旅行会社云々とは関係がない人だと思ったのだが。

「日本にもいるでしょう?旅行家という職業の人」と先生。

「日本にはいません」とカエヌナが答える。

先生のおっしゃる意味での「旅行家」はいないかもしれないが、旅行をすることを仕事にしている人はいるように思い、私も発言する。

「むかし、兼高かおる、という人がいて、世界中を旅していました。その様子は、毎週テレビで放映されていました」

カエヌナが、はぁ?みたいな顔をする。兼高かおるを、知らない世代なんだな。

テキストの文章自体は、さほど面白いものではなかったが、この文章の見出しに、

「간단하게 따끗하게 그리고 하고 싶은 일을 하면서…  이것이 한비야 씨가 사는 방식이다」(簡単に、あったかく、そしてしたいことをしながら…これが、ハン・ビヤ氏の生き方だ)

とあった。

「みなさんも、これにならって、形容詞を3つ使って、自分の生き方についてキャッチフレーズを作りましょう」と先生。

1人1人が、自分のキャッチフレーズを作って発表する。

私の番が来た。

「성실하게 우직하게 그리고 재미있게 일을 하면서…이것이 내가 사는 방식이다」(ソンシルハゲ ウジクハゲ クリゴ チェミイッケ イルル ハミョンソ…これが私の生き方だ)

「なるほど。キョスニムの今の生き方そのものですね」

先生はそうおっしゃった。

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ほろ苦い酒の思い出

10月12日(月)

先週の土曜日に、髪を短く切った。

以前も書いたことがあるように、髪を切ると必ず「髪を切りましたね」と、語学堂の先生に言われる。

今日も絶対言われるな、しかもこんなに短く切ったんだからなおさらだ、と思ったら、ほらみろ、やっぱり2人の先生に言われる。

そればかりか、休み時間に廊下でお会いした3級の時のナム先生にも、「髪を切りましたね」と言われる始末。

こうなると、言われないのが逆に寂しいくらいだ。

さて昨日の日曜日は、日本からお客さんがやってきて、慶州でけっこうお酒を飲んだため、今日はやや二日酔い気味である。

しかもよりによって、今日のマラギ(会話表現)の時間は、「各国の飲酒文化」がテーマ。そんな話をするだけで、酔ってしまいそうになる。

みんなが自分の国と韓国の飲酒文化の違いをひととおり説明したあと、「モノをよくなくす先生」が、はじめてお酒を体験したときの思い出が語られる。

話は、先生が高校3年生の時にさかのぼる。大学入試が終わってホッと一息ついているとき、憧れの体育の先生から電話があって、「飲みに行こう」と誘いがあった。

当時高校3年生だった先生は、その電話に舞い上がり、お腹がふくれないように朝から何も食べず、化粧をビシッとして、きれいな服を着て、友だちと2人で、待ち合わせ場所に向かう。

「ワインバーにでも連れていってくれるのかしら?」と期待が募るが、体育の先生が生徒2人を連れていった場所は、「サムギョプサル(豚の三枚肉の焼肉)」の店だった。まあ、ワインバーとは真逆の場所だといってよい。

しかも、体育の先生の他に、自分の嫌いな数学の先生が一緒に来ている。喜びも半分、といったところか。

そこで、七輪の炭火で豚肉を焼きながら、焼酎を飲む。空きっ腹に焼酎を入れるものだから、当然、頭がグラングランする。だがお酒を飲むのははじめてなので、こんなものなのだろう、と思い、つがれるがままにどんどん飲み始めた。

「でもほら、私、サムギョプサルを食べると、すぐにお腹に来るタイプだから…」

例によって、すぐに便意をもよおす「モノをよくなくす先生」は、憧れの体育の先生を前にして、何度も何度もトイレに行くことになる。

そのうち、気持ち悪くなって、またトイレへ。

結局、散々な目にあって家に戻る。

翌日、二日酔いでフラフラになりながら学校に行くと、一緒に行った友だちは、ふだんと変わらない様子である。どうも、飲み過ぎたのは自分だけらしい。

自分では気がつかないのだが、まわりの友だちからは、「あなた、酒臭いわよ」と言われた。

それを見かねた先生が、「モノをよくなくす先生」を職員室に呼び出し、二日酔いに聞く薬をくれたという。

「だからそれ以来、焼酎は飲まないことにしているんです」と先生。

高校時代のほろ苦い思い出、といったところか。

だがこの話、よく聞くと、けっこうマズいんじゃないのか?と思う。高校の男性教師が、女子生徒を飲みに誘う、などは、二重の意味でアウト!だと思うのだが。

だが無邪気で天真爛漫な「モノをよくなくす先生」は、それをほろ苦い思い出として語ったのであった。

「そういえば、お酒にまつわる思い出がもう一つありました」と先生。

「大学に入って新聞部に入ったんだけれど、その新聞部が、お酒をたくさん飲む人が集まっていることを知らなかったのよ」

「で、あるとき、新聞発行の打ち上げでお酒をたくさん飲まされたんだけど、翌朝起きてみたら、右目のまわりにビックリするくらい大きな青アザができていたの」

誰かに殴られたのかしら?と記憶をたどっても思い出せない。友だちに聞いてみると、酒の席でそれまでふつうの姿勢で座っていたのに、突然、テーブルの上にあったチゲの鍋に、顔をぶつけて、青アザができたのだという。

「そのせいで、それからの1週間は、目の青アザがとれないまま、講義を受けていたんです」

右目のまわりにビックリするくらい大きな青アザをつけながら、まじめに講義を受けている様子を想像して、思わず笑ってしまった。

巧みな話術を再現できないのが残念だが、その話しぶりは、「モノをよくなくす先生」の純粋さや自虐性がよくあらわれていて、実に面白い。

やはり話術は、その人の人間性をよくあらわしているのだ。

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中間考査(4級)

10月10日(土)

またこの日がやってきた。中間考査である。

中間考査や期末考査の前日になるといつも、何をやっていいかわからなくなり、一種のパニック状態になる。昨日も、そうだった。

結局、時間ばかりが過ぎて、何も手がつかないまま、試験本番を迎えた。

試験の時間割は、前学期と同じであるが、休憩時間が10分から15分に増えた。

9:00~10:10 読解と作文

10:25~11:05 文法

11:20~12:00 リスニング

14:00 マラギ(スピーキング)

相変わらず、「イジメ」のような分量の試験である。容赦しない、とはこのことである。

今学期からこの語学堂で勉強しているカエ「ヌナ(お姉さん)」は、はじめて定期試験を受けた。休み時間に「どうでした?」と聞くと、「キビしすぎますね。まるでスパルタですよ」と、衝撃を受けた様子である。

そう、キビしすぎるのだ。私はそのキビしすぎる試験を、すでに7回も受けているのである。

午前中の試験が終わり、グッタリとなる。私よりひとつ上のクラスの5級を受けている妻は、午後のマラギの試験がない、ということで、5級のチングたちとお昼を食べに行くという。

私はその誘いを丁重に断った。試験が終わって解放感にひたっている「5級サマ」のみなさんと食事に行く気には、到底なれない。しがない4級でござんすから、こっちはまだ、マラギ試験が残っているのである。

ひとりで、大学の近くの「キンパプ天国」という店に行く。

試験の時は、この店でキンパプ(のり巻き)とラーメンを食べることにしている。一種の験担ぎ、といってよい。

ひとりで背中を丸めて食べていると、「アンニョンハセヨ?」と、声をかける人がいる。

ふりかえると、同じ4級のクラスの、ハナさんと、リュ・リンチンさんであった。

さらに、2級の時のチングである、ル・ルさんとタン・シャオエイ君のカップルも、店に入ってきた。

同じ4級の仲間に会うと、やはり安心する。

「試験どうだった?」

お決まりの質問をすると、

「ちょっと難しかったですね」と、タン・シャオエイ君。

「トゥッキ(リスニング)の分量が多かったですね」とル・ルさん。

ハナさんもまた、今学期からはじめて勉強しはじめたということで、試験の難しさに衝撃を受けていたようだった。

さて、午後2時、語学堂に戻り、マラギ試験の控え室に行く。

試験の順番を待っている間、前に座っていたチュイ・エンピン君に、

「マラギ試験の準備した?」と聞くと、

「ええ、(ヤマをはって)4つの主題について準備しました」

という。

「たぶん、環境問題についてのマラギが出ると思います」

マラギ試験は、マラギの授業で扱ったテーマのうちから出る、としか聞かされていない。環境問題やゴミ問題、障害者福祉、整形手術、結婚、家族、男女差別、などが、マラギのテーマの候補である。試験は、与えられたテーマについて、5分程度スピーチをしなければならない。

「キョスニムはどう思いますか?」

「結婚観が出るんじゃないかな」

「結婚観?」

「恋愛結婚がいいかお見合い結婚がいいか、とか、何歳で結婚したいとか、結婚したら親と同居するかどうか、とか…」

「なるほど、その可能性もありますね」

チュイ・エンピン君は素直なので、私の言うことを真に受けるタイプである。

あっという間に自分の順番がまわってきた。

蓋を開けてみると、「韓国での経験を踏まえた、韓国や韓国人に対する印象」というテーマ。チュイ・エンピン君も私も、ヤマがはずれた。

1分ほど考えたあと、話しはじめる。

しかし、何せぶっつけ本番なため、考えがひとっつもまとまらないまま、しどろもどろしているうちに終了。

いつものように、まるで抜け殻のようになって、教室を出た。

そしていつものように落ち込んで、フラフラと歩きながら、着いた先が散髪屋さん。

「どうしますか?」と美容師さんに聞かれ、

「短くしてください!」と答えた。

いつものように、あっという間に散髪が終わる。

…うーむ。いくらこっちが心機一転だからといって、ちょっと短くしすぎだよ、美容師さん。

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届かなかったメッセージ

10月9日(金)

数日前から、携帯電話の具合がおかしい。

相手の声が聞こえなくなったり、着信音が鳴らなかったりする。

韓国の指導教授から電話がかかってきた際も、指導教授の声がまったく聞こえず、大変失礼な感じになってしまった。

もともとが中古製品だし、昨年の12月から使っているので、もう寿命なのかも知れない。

韓国で携帯電話が使えないとなると、日常生活に致命的な打撃を受けることになるので、昨日、学会から戻るやいなや、携帯電話のショップに行って、新しい(といっても中古だが)電話に変えることにした。

さて、本日。

朝、語学堂の教室に行くと、リュ・チウィエさんが、会うなり

「キョスニム、昨日、私たち、電話したんですよ」

と言ってきた。

はて、何のことだろう。

やがて授業時間となり、文法の先生が教室に入ってこられた。

「みなさーん。昨日はキョスニムがいなくて、授業が寂しかったですねー。そこで、みんなで、キョスニムの携帯電話にメッセージを送ろう、てことになったんですよ。ところが、みんながいくら送っても、届かないみたいだったんです。あげくに『先生が教えてくれたキョスニムの電話番号、間違ってるんじゃないですか!』とかみんなに言われるし」

そういうことだったのか…。

「ひょっとして昨日は、洞窟の中とか、海の中とかにいたんですか?」

文法の先生ならではのギャグである。

「いえいえ、違います。実は、昨日くらいから、携帯電話が故障しまして…。ロンチョン君のメッセージだけ届いたんです」と、私が事情を説明した。

それにしても、せっかくみんなが好意で送ってくれようとしたメッセージが、たまたまその日、携帯電話の不具合のせいで受け取れなかったなんて、何ともツキのない人間である。昔から私はそういう人間なのだ。

そして昨日、「会いたいですー」と書いたメッセージが奇跡的に届いたロンチョン君は、今日も授業に出ていない。

何なんだ?この「ちぐはぐ」な感じは。

さて、後半のマラギ(会話表現)の授業。今日のテーマは、「難民」。

「今日は人数が少ないんで、輪になって座りましょう」と先生。

「難民」について3分マラギをしたカエ「ヌナ(お姉さん)」の発表をふまえて、ふだんあまり考えない「難民」問題について、1人1人が意見や感想を述べ合う。

むかし某国営放送でやっていた「しゃべり場」みたいな感じで授業が進み、なかなか楽しい。

そんなマラギの授業もあっという間に終了。明日は、中間試験である。

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パンジャンニムからのメッセージ

10月8日(木)

学会2日目、午前。

壇上では、難解な討論が続いている。こちらも注意深く聞き取ろうとするが、内容が難解すぎて、ほとんどわからない。

11時50分ごろであろうか、携帯電話にメールが来た。

「キョスニム、ポゴシッポヨ~(会いたいです~)」

誰だ?見知らぬ電話番号である。

あとに続くメッセージを見た。

「…ロンチョンでした」

わが班のパンジャンニム(班長殿)こと、ロンチョン君である。

11時50分、ということは、3時間目が終わった休み時間だな。

心の中で、2つのツッコミを入れる。

「そんなに会いたいんなら、おまえが毎日学校に来いよ!」

…最近、ロンチョン君は欠席が続いていた。

「それから、『ポゴシッポヨ』の綴りを間違えるなよ!」

…1級の時のパダスギ(書き取り試験)に出てきた初歩の表現である。

しかし、なんで教えたはずのない私の電話番号を知っていたのだろう。

午後、学会が終わり、大学に戻る。

夕方、大学の構内を歩いていると、「キョスニム!」と、私を呼ぶ声がする。

見ると、私の横を通り過ぎようとした車の運転席から、文法の先生が顔を出していた。語学堂の仕事が終わり、これから家に帰るところらしい。

「あら、学会から帰っていらしたんですね」

「ええ」

「今日、キョスニムが授業に出なかったので、みんな寂しがってましたよ。授業の雰囲気も、なんか変な感じでした」

年上に気を遣ったお世辞だろう。

「そういえば、ロンチョン君から、…」

「メッセージ、行きましたか?」

「ええ」

「そうでしたか。…じゃあ、明日授業でお会いしましょう」

「ええ、明日、お目にかかります」

車が走り去った。

なるほど、パンジャンニムとしての務めを果たしたんだな、ロンチョン君は。

綴りを間違えていたことは、黙っておこう。

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討論試験

10月7日(水)

今日、明日、と、2日間にわたって、大邱から車で1時間あまりのところにあるポハン(浦項)というところで、学会がある。

本来ならば、朝から出発しなければならなかったのだが、語学の授業で、「討論試験」というものがあったため、授業に出て試験を受けてから、学会に参加することにした。

討論試験とは、あるテーマについて、賛成派と反対派に分かれて、討論をするという形式を取った、マラギ(会話表現)の試験である。4級になって、はじめての試験形態である。

はやい話がディベートというやつである。

まず3時間目に、討論のテーマが2つ示された。この時間は、示されたテーマにしたがって、2つのグループに分かれて、話し合いをしながら、各テーマについての賛成意見、反対意見を可能な限りあげてゆく。本番の討論の際に意見を円滑に出すためである。

わが班の今日の出席者は12人なので、まずは6人ずつ、2グループに分かれて話し合う。

先生は考えて、人生経験の豊富な「キョスニム」こと私と、「ヌナ(お姉さん)」ことカエさんを、それぞれのグループに割りふった。

このことは、別の意味でも、功を奏する。もし、中国人留学生ばかりのグループになってしまったら、中国語で話し合いをしてしまう。日本人が1人いることで、韓国語でコミュニケーションをとらざるをえなくなるのである。

話し合いが始まると、ふだん、あまり喋らない学生が、意見を言ったりして楽しい。やはり、みんな喋る機会を待っているのだ。

こっちは職業癖からか、そういう学生の言葉を、ついじっくりと聞いてしまう。

話し合いが終わり、4時間目。いよいよ討論の本番である。

さて、示された討論のテーマとは、次の2つである。

A「語学研修生のアルバイトは是か非か?」

B「結婚を考えない男女の同居(同棲)は是か非か?」

受験者は、くじを引いて、この2つのテーマのうちの1つ、さらには、そのテーマについて、賛成か反対か、が決まることになる。自分の主義主張にかかわらず、くじで決まった立場に立った討論をしなければならない。

受験者は全部で12人なので、1テーマについて、3人が1チームとなって、賛成ないし反対の立場に立つことになる。

くじを引く。私はテーマB「同棲は是か非か」の「賛成」の立場に立つことになった。

各テーマについて、約20分ずつ、3対3の討論が行われる。

思った以上に、白熱した討論である。喋る人間がかたよるかとも思ったが、意外にそんなことはなかった。

ただ、細かな討論の内容は、思い出すのも恥ずかしい。私も、ずいぶん大人げなく感情的になってしまったかも知れない。

あとから考えると、ずいぶんエラそうなことを言ってしまったな、という反省もある。「お前ナニ様だよ!」と。

あっという間の20分が過ぎた。

「みなさーん。面白かったですよ。みなさん、いままでの授業の中でいちばんたくさん喋ったんじゃないでしょうか」と先生。

たしかにそうだ。が、疲れた。

しかし休む間もなく、教室を飛び出し、学会が行われているポハン(浦項)へと急いだ。

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尾籠な話で失礼

10月6日(火)

後半のマラギ(会話表現)の授業担当の「よくモノをなくす先生」の面白さを、文字面(づら)で伝えるのは、なかなか難しい。

現在は、大学院に通いながら、語学堂で外国人相手に韓国語を教えている。田舎のガリ勉少女が、そのまま研究者になった、といったらよいか。無邪気で天然なところがある先生である。

今日の3分マラギのテーマは、「民間療法」。リ・ハイチンさんが、「吐き気」「頭痛」「便秘」の際の民間療法について、中国の事例を紹介した。

このあと、先生がコメントする。

「私は小さいころ、バス酔いがひどくて、いつも吐いていたんです。で、ハルモニが『スルメ』を食べるといい、と言って、バスに乗るときは、ずっとスルメを食べていました」

スルメがバス酔いに効くのか?聞いたことがない。

「それは単に私が、スルメが大好きで、それを食べていれば、吐くことを忘れるだろう、ということで、ハルモニが考えたんです」

このあたりからもう話があやしくなる。「民間療法」でもなんでもない。

つづいて「便秘」。

「みなさんの中で、便秘で悩んでる人はいますか?私は、便秘になったことがないんですよ。なにしろ、1日に2回、用を足していますから」

なんと、1日の排便の回数をカミングアウトしたぞ!とんでもない個人情報の流出である。

「でも、私の弟といとこは、ひどい便秘持ちなんです」

そのうえ、身内が便秘である、という個人情報まで流出した!

さすがに、話を聞いている学生たちも、少し引き気味である。

このあとも、くり返し、「なにしろ、1日に2回、用を足しますから、便秘ではないんです」と強調する。

そして、ご自身が便秘にならない理由を次のように説明した。

「まず、朝食をしっかり食べます。朝食を食べないと、1日の力が出ませんからね。そのときに、オモニ(お母さん)とお話をします」

そしてオモニム(お母さん)と会話をしているうちに、便意をもよおすらしい。

それって、オモニムの顔を見ると、便意をもよおす、てことか?

この話を聞いて、落語に出てくる、「横丁のご隠居」と「八っつぁん」の会話を思い出した。

ご隠居「気が合う、てえのか、合縁奇縁てえかねえ、お前さんとなんとなく日に一度会わないと、どうも御膳が旨くないような心持ちよ」

八「そうでしょ。あっしもそうなんだ。隠居さんの気が合う、てえのかねえ。日に一度顔を見ないというと、その日なんとなく『通じ』がなくてしょうがなくってね」

ご隠居「人の顔で『通じ』をつけやがる。どうもあきれたねえ」

(立川談志「雑俳」より)

まさに落語のような話である。

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シャオシャオ君の居眠り

10月6日(火)

バスケットボールが何より好きだというシャオシャオ君は、見るからにスポーツマン、といった感じである。

バスケットボールの漫画に出てくるような青年、といった方がよいか。

彼がバスケが得意だ、という噂は、この語学学校でも有名な話らしい。

あるとき、シャオシャオ君に聞いた。

「今でもバスケットボールを続けているの?」

「ええ、週に1回、いや、2回、バスケが好きなチングと練習をやってます。…キョスニムは、何かスポーツをしていますか?」

「いや、…散歩だけだね」

そういう私は、大学の構内を散歩していて、グランドでバスケの練習をしている集団を見ると、シャオシャオ君がいないか、つい確かめてしまう。

シャオシャオ君は、近ごろ授業を休みがちである。

決して不真面目な学生ではないのだが、わが班の中でも、もっとも出席率が悪い学生となってしまった。

その彼が、今日、久しぶりに授業にやってきた。

だが、授業の間も、休み時間も、机に突っ伏して、ずーっと寝ている。

休み時間、ハナさんが、シャオシャオ君のもとにやってきて、机に突っ伏して寝ているシャオシャオ君の顔をのぞき込んだ。

「大丈夫?どこか体が悪いんじゃないの?」

心配したハナさんが、シャオシャオ君に声をかけた。

ハナさんは、体調が悪かったり眠かったりして机に突っ伏している学生を見ると、必ずのぞき込んだり、ポンポンと肩をたたいたりして、安否を確認する。

「わが班のみんなはチング」という信念にもとづく、ハナさんなりの親切心なのだろうが、中国人留学生たちをずっとみてきた私からすれば、「放っておいてやれよ」と、つい思ってしまう。

さしずめ、バスケの練習に熱中したか、徹夜でコンピューターゲームをやっていたかで、疲れていたのだろう。

今日、彼が久しぶりに授業に出たのも、単に今学期2回目の「クイズ」(小試験)があったからにほかならない。

隣に座っていたチュイ・エンピン君がハナさんに言う。

「きっと徹夜でコンピューターゲームをやっていたせいですよ」

「え?そうなの?なあんだ」ハナさんが自分の席に戻る。

ハナさんからすれば、せっかく授業に出ているのだから、起こしてあげよう、という気持ちがあったのだろう。

シャオシャオ君が、どういうテンションで、韓国に留学したのかは、わからない。本当に韓国で勉強したいと思っているのか、あるいは、何らかの事情で、韓国に留学せざるをえなかったのか…。

もし私がシャオシャオ君くらいの年齢だったら、と考える。

はたして、いまの私のように、韓国語をきっちりと勉強しようと考えただろうか?

軽い気持ちで韓国に留学したものの、授業の厳しさと宿題の多さ、試験の難しさに、辟易としたに違いない。

現に今も、毎日押し寄せる勉強の量に押しつぶされそうになりながら、ギリギリのところで踏んばっているのである。

なにかのきっかけで、ぽっきりと心が折れても不思議ではないくらいの精神状態である。

「勉強するのが仕事」である私ですらそうである。若い学生が、遊びたい気持ちを抑えて勉強に専念しなければならいのは、とてつもない苦しみなのではないか。

そう考えると、シャオシャオ君が寝ていようと、不思議と腹が立たなくなる。授業へ出てくるだけでもましではないか。

1級の時、授業に参加しようとしない彼ら(中国人留学生たち)に、あれほど腹が立っていたのに、今は、不思議と腹が立たない。

後半のマラギの授業で、まったく起きないシャオシャオ君にあきれた先生が、私に質問する。

「キョスニム!キョスニムの授業で、もし寝ている学生がいたら、どうしますか?」

先生も、シャオシャオ君の居眠りに困りはてたらしい。

私が答える。

「私の授業で、寝る学生はいません」

ほぅー、と一同の声。先生も感心しながら質問を続ける。

「一体どうやったらそういう授業ができるのでしょう」

「興味深く話をすればよいでしょう」

「そうですか。…それが、いちばん難しいですね」

おいおい、なんか、冗談で言ったつもりが、本気にされてしまったみたいだ。このまま、私の話を本気にされては困る。

「すいません。…ウソをついてました」

ここで一同が大爆笑。この一言で、教室の空気が、少し変わったように思えた。

「なるほど、…こういうことですね」

「こういうことです」

ひと笑いした先生は、この一連のやりとりに、何かを悟ったようだった。

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ともに生きる社会

10月5日(月)

相変わらず、韓国の路線バスには慣れない。

以前にも書いたように、バスに乗ってから降りるまでは、一種の格闘技である。一瞬たりとも、気を抜くことができない。

目的のバスが停留所に来ると、そのバスめがけて走り寄って、「乗ります!」という意思表示をしないと止まってくれない。

停留所に止まったバスに乗るときにも、モタモタしていると、運転手に

「早く乗りなよ!アジョッシ(おじさん)」

と注意される。

なんで客が叱られなきゃならないんだ?それに自分より年上のアジョッシにアジョッシ呼ばわりされることはないだろ!と、その時は本当に腹が立つ。

乗ったら乗ったで、クレイジータクシーならぬ、「クレイジーバス」状態。しっかりと踏ん張っていないと、右に左に転げ回ることになる。

降りるときも、降車ボタンを押すだけではダメだ。バスの降車口に立って、「次降ります!」という意思表示をしないと、停留所を通り過ぎてしまう。

この間などは、降車ボタンを押して、降車口に立っていたのにもかかわらず、停留所を通り過ぎたからね。

結局、「アジョッシ!降ります!」と叫んで、降車ドアを開けてもらった。

なんのための降車ボタンなんだろう。

さて、今日の語学の授業、後半のマラギ(会話表現)の時間のは、「障害者が社会で生きていくためには」というのがテーマ。

「韓国では、バスに乗るのが本当に大変です。私ですらそうなんですから、障害者がバスに乗るのは、かなり大変だと思います。バスとか地下鉄とか、韓国の「大衆交通」(公共交通機関)では、障害者のためにどんな努力がなされているのでしょうか?」と、私が質問する。

路線バスのあのような現状を見ると、とても障害者のことを考えていないだろうな、と思っての質問であった。

先生が答える。

「最近は、障害者のことを考えて、ステップのないバスも増えてきているんですよ。まだ決して多くないけれど、これからどんどん増えていくと思いますよ」

この答えに、カエ氏が反論する。

「そうではなくて、問題なのは運転手の荒っぽい運転の仕方だと思います」

そうそう、言いたかったのは、そういうことだ。

「どんなによいバスが作られても、運転手の運転がこわければ、障害者がバスに乗ることはできません」と、私もたたみかける。

これに対して先生の反論。

「でも、バスの運転手さんは、以前に比べて、だいぶ親切になりましたよ」

えぇぇぇっ?!信じがたい発言。

「とても信じられません」と私。

「本当のことですよ。私の高校時代にくらべたら、とてもよくなりました。以前、バス会社は民間会社だったんだけれど、ある時、市営バスになって、運転手さんはみんな公務員になったんです。で、いちおう公務員ですから、住民サービスとかをちゃんと学んだ人が多くて、以前に比べて格段によくなったんです」

やはり信じられない。

あの運転の仕方の、どこが親切なのか?障害を持った人だけではない。お年寄りにとっても、かなり乗りにくいはずである。

つまりは、体力的に弱い人を、乗せる気がないのだ。そうとしか思えない。

「実際、障害者がバスに乗ったりする光景をあまり見たことがないでしょう。私もほとんどないんですよ」と先生。

だから、今のところ問題になっていないのだ、というニュアンスに聞こえる。

うーむ。逆じゃないだろうか。路線バスがあんな運転の仕方をしているから、障害を持った人は、とてもじゃないけど大衆交通(公共交通機関)を利用できない、と思っているのではないだろうか。

結局そのことは、障害を持つ人たちの社会進出を阻んでいることになりはしないか?

「じゃあ、障害を持つ人たちは、どうやって社会活動をすればいいんですか?」と私。

このあとも、先生は事例を出しながら説明なさるが、どうもよくわからない。

誤解のないようにいうが、決して私は先生を責めているわけではない。先生はある意味、とても素直なのである。そして私が知る、韓国人の多くが、こうした素直な人たちである。

だがその素直さが、ときに、認識を誤らせることもあるように思う。

4級に入って、語学の素材として、環境問題、男女差別問題、障害者問題など、社会問題を取り扱うことが増えてきた。

だが残念なことに、何ら本質に迫れないまま、上すべりした話が続く。

そのたびにもどかしい思いをする。もっと、ちゃんと韓国語が喋れたら、さまざまな問題に関して、自分の意見を言えるのにな、と。

いや、語学力の問題だけではないのかも知れない。そもそもが、どれも難しいテーマばかりである。私自身もまた、社会が抱える問題に関して、何も見えていないのかも知れない。

ここ、語学堂にいると、韓国社会が抱えている問題や、それに対する認識の違いがはからずも映しだされている気がして、興味が尽きない。

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連休最終日

10月4日(日)

チュソク(秋夕)の連休、最終日。

明日からの週は、語学の試験が3つ(うち1つは中間考査)と、学会参加が控えている。さらに10月後半の研究会での発表原稿も作らなくてはならない。だが、まったくやる気が起こらず、結局、連休最終日をだだらに過ごすことになった。

夕方、市内へ出て、映画を見ることにする。

「また映画かよ!」と言われてしまいそうだが、チュソクを当て込んでいるのか、ここ最近、公開される映画がけっこう多い。連休でもないと、まとめてみる機会がないので、この際、見ることにした。

Mylove_poster_b 今日の映画は、ハ・ジウォン、キム・ミョンミン主演の「私の愛私のそばに」である。

ハ・ジウォンが主演となれば、見ないわけにはいくまい。この連休で、いちばん見たかった映画である。

相手取るのは、韓国版ドラマ「白い巨塔」で財前役をつとめたキム・ミョンミン。名優である。私の中では、「韓国の唐沢寿明」である。

内容は、不治の病に冒された夫(キム・ミョンミン)と、彼を献身的に支える妻(ハ・ジウォン)をめぐる物語。キム・ミョンミンは、この映画の役作りのために20キロ減量したという。

そのシノプシスからも連想されるように、いわゆる「涙強盗」(観客から涙だけを奪っていって、後は何も残さない)のジャンルの映画、といってよい。主人公が不治の病に冒されているのだから、泣かないはずはないのである。

だが、単なる「涙強盗」で終わらないのは、ハ・ジウォンの「華のある佇まい」と、キム・ミョンミンの演技である。キム・ミョンミンは、いずれ役作りが高じて、死に至る芝居をするために、本当に死んでしまうのではないか、と、いらぬ心配をしてしまう。

そしてハ・ジウォンはなんと言っても華がある。この映画を見たら、誰でも、ハ・ジウォンが好きになるのではあるまいか。

映画館では、途中からすすり泣く声が聞こえてきた。かくいう私も、ちょっとうるっと来た。

映画が終わり、このままではダメだ、と思い、なんとか面白いことを見つけようとする。

尾籠な話で恐縮だが、トイレで小用を足していると、隣に立った人が、驚くべき仕草をしていた。

映画館で売っているポップコーン。あれって、小さいバケツくらいの大きさの、紙容器にいっぱい入っているよね。あるいは、巨大な紙コップ、といった方がよいか。

その男は、ポップコーンが入ったその巨大な紙コップの置き場所に困ったんだろうね。用を足すときに両手がふさがってしまうものだから、巨大な紙コップの一端を口にくわえながら、便器の前に立って、用を足していた。

その光景は、なんとも滑稽である。

いや、それよりなにより、あとで、ヨジャ・チング(ガールフレンド)と一緒に、そのポップコーンを食べるのだろうか、と思うと、ちょっとゾッとするね。ヨジャ・チングがもしその光景を見ていたら、絶対にそのポップコーンを食べないだろうな。

そのことを想像して、「盗まれた涙」が、少し取り返せた気がした。

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チュソク

10月3日(土)

チュソク(秋夕)は、ソルラル(正月)とならぶ、韓国の二大名節である。いわゆる中秋節(旧暦の8月15日)にあたる。

この日、韓国の人々は、故郷に大移動して、祖先のお墓参りを行う。

ニュースは、高速道路の大渋滞の様子を伝えていた。

ソルラルに引き続き、大学院生のウさんのご実家のチュソク行事に、参加させてもらうことになった。

少し大げさに言えば、親族が集まるチュソクの行事に、外国人が呼んでもらうことは、奇跡に近いことなのではあるまいか。

なぜなら、親族を受け入れるための準備が忙しくて、それどころではないと思われるからである。

それに、伝統的な親族の集まりに得体の知れない外国人が参加することに、やはり抵抗があるのではないだろうか、と、つい思ってしまう。こうした煩わしさにもかかわらず、貴重な機会を与えてくれたウさんに、感謝するばかりである。

市内から車で30分ほどのシゴル(田舎)に、ウさんの実家がある。お昼過ぎにうかがうと、すでに親族のみなさんが集まっていらした。ソルラルのときと同様、みなさんにあたたかく迎えていただく。

さっそく、祭祀がはじまる。ソルラルの時と同じ要領で、祖先に対する拝礼が行われる。拝礼に参加するのが成人男子のみで、女性は台所で食事の準備する点も、ソルラルと同じである。

私も拝礼に参加させてもらう。直立した姿勢から、正座して頭を地につける礼を、二度ほど行う。これも、ソルラルと同じ方法である。

Photo お供え物も、基本的にソルラルと同じだが、ソルラルではお餅をお供えしたのに対し、チュソクでは白米をお供えする点が異なる、とウさんが説明してくれた。

拝礼が終わり、お供えしたものをおろしてみんなで食事する。チュソクではとくに、ソンピョンと呼ばれるお餅を食べることになっている。

食事が終わり、親族みんなでお墓参りする。私と妻も、ぜひお墓参りについていきたいと、お願いした。ただし、お墓参りに行くのは、やはり本来は成人男性のみで、女性はお墓参りには行かないようである。

Photo_2 家から少し離れた、山の斜面に、先祖のお墓が作られているという。途中まで車で移動して、車を降りたあと、りんご畑の中を歩いて、お墓へと向かう。

Photo_3 りんごはすでに赤い実をつけていた。大邱がりんごの産地であることを実感する光景である。

韓国のお墓は、山の斜面に、先祖ひとりひとりのお墓を、土饅頭の形に作る。日本のように、1箇所のせまい墓地の中に、代々の先祖が眠る、というのとは違うのである。一族で亡くなる方が出るたびに、土饅頭の墓は、次々と作られていくことになる。

しかも、後に亡くなった人のお墓は、すでにあるお墓よりも、下に作らなければならない。すなわち、もっとも上にあるお墓は古い先祖で、斜面を下るにしたがって、新しい世代のお墓が作られていくのである。

Photo_7 そのため、一族の墓を作るための広大な土地が必要となる。その維持管理だけでも、かなりたいへんなのだろうと想像する。

さて、お墓参りは、原則として世代の古いお墓から順に、持ってきた食べ物をお酒をお供えして、みんなで拝礼を行う。お墓の前で、靴を脱ぎ、直立の姿勢から、正座して頭を地につける、という動作を2回くり返す拝礼の仕方は、先ほどの家の中で行った拝礼の仕方と同じである。

Photo_4 ひとつひとつのお墓に拝礼した後、「少し離れた場所にもお墓がありますので、トラックで移動しましょう」ということになった。

親族がトラックの荷台に載って、お墓に移動する。

田舎道を、背広を着た大人たちを荷台に載せたトラックが、ゆっくりと走る。

Photo_5 どういうわけか、子犬も一緒に乗っていた。

この光景を俯瞰で見たら、まるで、映画のワンシーンのようである。

そして最後のお墓に到着。同じように拝礼をして、すべてのお墓参りが終わった。

お墓参りが終わると、近くの見晴らしのよい場所にゴザを敷いて、お供え物とお酒をいただきながらいろいろとおしゃべりをする。ただし、私にはほとんどわからないお話。

Photo_6 目の前には、山々とりんご畑が広がっていた。やはり、映画のワンシーンのようだ。

これで、お墓参りの行事はおしまい。親族は、この場で解散した。

別れ際、親族の年長者、と思われる方が私に、

「今日は拝礼をたくさんしたので、拝礼がずいぶんと上手くなりましたね。韓国人の拝礼と変わりませんよ」

とおっしゃってくれた。

「日本に帰っても、この拝礼の仕方を覚えておくといいですよ」

そういえば、お墓参りには久しく行ってないなあ…。

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チュソク前日

10月2日(金)

チュソク(秋夕)前日。

午後、研究室に行く。今日は大学が休日で、建物が閉まっているので、いつもの警備員のおじさん(というより、おじいさん)に言って、建物の玄関を開けてもらって入る。

大学構内は、ふだんの休日以上にがらんとしている。やはり、チュソクで、故郷に帰ったりしている人たちが多いのだろう。

夕方、研究室のある建物を出ようとすると、警備員のおじいさんが、話しかけてきた。

「明日は来るのかい?」

「いえ、明日は来ません。…明日もいらっしゃるのですか?」

「ああ、仕事だからね。仕方がない」

警備員のおじいさんは、チュソク当日の明日も、1日中、誰も来ないこの建物の中で、ひとりで過ごすのだ。家族と一緒に過ごすことなく…。

なんか、少し切なくなった。

夕方、市内に出て、昨日に続いて、映画を見ることにする。

090920010 今日の映画は、「花火のように、蝶のように」。朝鮮時代末期の、閔妃(明成皇后)と護衛武士との愛を描いた映画である。閔妃をスエ、護衛武士をチョ・スンウが演じている。

スエは、ドラマ「海神(ヘシン)」で、ヒロインを演じたことで有名である。とりたてて美人、というわけではないが、気品の高い女性を演じさせれば右に出るものはいない。私も海神以来のファンである。

さて、映画の内容だが、…史劇、というより、ファンタジーとか、メロドラマ、といったところか。映像も、決闘シーンなどは、CGを多用して、まさに劇画タッチである。

そして、ツッコミどころも満載であった。とくに、日本人が出てくるシーン。

相変わらず、韓国人の役者がかたことの日本語で、日本人を演じている。その格好も、坂本龍馬風のいでたちの人や、忍者、任侠など、きわめて類型的、というか、それを通り越して、滑稽である。

どうしていつも、本物の日本人を起用しないのだろう。私でよければ、ノーギャラで出演してもよいのに、とつねひごろ思っていたのだが、これはこれでよいのだ、と思うようになってきた。

それは、この種の映画に登場する日本人は、あくまでも「悪役の記号」なのであり、必ずしもリアルな日本人である必要はないからである。

そしてこの、ツッコミどころ満載の映画の中にも、韓国の人たちの、歴史に対する、ある屈折した思いを読み取ることができる。閔妃殺害事件という題材だからこそ、その屈折した思いは、よりハッキリとあらわれるのだろう。

ま、難しい考証は、別の機会に。それにしても、スエは、凛として気品のある女性を演じさせるとやはり上手いね。

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酔いどれ映画鑑賞

10月1日(木)

最近、酒量がとみに多くなった。

理由は、私も妻も、このところかなり精神的なストレスがたまっていることにある。昨日の夜も「マッコルリ」の店に行き、マッコルリをヤカン2杯分飲んだ。

そして今日の夜も、フェ(刺身)を食べながら、焼酎を3本空けた。

ふだん、お酒をあまり飲まない2人からすれば、相当の酒量である。

夕食のあと、映画館に行って、映画を見ることにする。

10917_l ちょうど、映画館に着いたのが夜10時前。いくつかみたい映画の候補があったのだが、最も早く見られるのが、夜10時上映開始の「エジャ」(韓国映画)だったので、それを見ることにする。

事前の情報によれば、内容は、母と娘の親子愛を描いた映画だという。妻の語学の先生も、この映画を見て「よかった」とおっしゃっていた。

だが不覚にも、夜10時、上映開始とともに、私は鼾をかいて寝てしまった!

焼酎をかなり飲み過ぎたようである。

しかし理由はそれだけではない。劇中の登場人物たちが、釜山訛りで話していて、ほとんど言葉が理解できないことも、理由のひとつである。

途中でなんとか持ち直す。

映画は、ラストに進むにつれ、どんどん感動的になっていく。まわりからも、すすり泣く声が聞こえた。

しかし私は、残念ながらのめり込むことができなかった。

酔っぱらっていた、というのがいちばんの原因だが、どうもそれだけではない。

「異人たちとの夏」を見ている私からすれば、この映画にそれ以上の思い入れを注ぐことはできなかったのである。

「異人たちとの夏」を、久しぶりに見てみたくなったな。

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カッパウィ

10月1日(木)

チュソク(秋夕)、ということで、語学堂は今日から4連休。

前々から行ってみたかった「カッパウィ」に行くことにする。

大邱といえばパルゴンサン(八公山)。そのパルゴンサンの稜線の最東端の峰である冠峰、標高850mのところに、「カッパウィ」がある。

カッパウィの「カッ」は、朝鮮時代のつばの広い帽子、「パウィ」は「岩」。「カッパウィ」とは、帽子をかぶった石仏である。

大邱に住んでいるなら、一度は「カッパウィ」を見に行かなければならない、と、いろいろな方に言われてきた。

とくに、カッパウィは、「受験の神様」として、入試のシーズンになると、全国から訪れる人が絶えないという。名所なのである。

そこで、この機会に「カッパウィ」を見に行くことにする。

天気予報を見ると、木曜の晩から金曜日にかけては雨が降るという。

土曜日はチュソクの本番、日曜日に体力温存、と考えると、カッパウィに行けるのは今日しかない。

朝9時に家を出て、路線バスを乗り継いで(401番バス)、1時間ほどで、カッパウィのふもとに到着する。バス料金は、900ウォン(90円弱)。

そこから、ひたすら登り坂である。

Photo 途中から、延々と石段が続く。かなり急激な登り坂である。

以前なら、すぐにねをあげていたところであるが、8月末の慶州南山登山以来、山登りが、それほど苦にはならなくなってきた。決して、登山にハマったわけではないのだが。

1時間ほどかかって、カッパウィのある峰の頂上に到着した。すでに多くの人びとがお祈りしている。

Photo_2 カッパウィは、予想以上に大きかった。

石仏の頭には、傘のような帽子がかぶさっている。ちょっと見ると、頭の上に皿のようなものがのっていて、それが「カッパ」を連想させるので、「カッパウィ」という語感も、実にしっくりとくるのである。

Photo_3 ここからの眺めもまた、すばらしい。

平日にもかかわらず、実に多くの人が登ってきている。たしかに、登る甲斐のある場所だ、と思う。

登ってきた石段を下り、ふもとで昼食(きのこ鍋)を食べて、再びバスで帰宅。家に着いたのは、午後3時前であった。なんともお手軽な登山である。

天気予報どおり、夜からは雨が降った。

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思い出の引き出し

9月30日(水)

日本に盆と正月があるように、韓国にはソルラル(正月)とチュソク(秋夕)がある。韓国人にとっての、大きなイベントである。

今年のチュソクは10月3日(土)だが、語学の授業は、明日から日曜日まで、チュソクのためのお休みである。

明日から4連休のせいか、心なしかウキウキする。

Photo 授業の途中で、チュソクの時に食べるソンピョン(餅)がみんなに配られた。

ソルラルの直前の授業で「ヤクパプ」が配られたのと同様である。

後半の授業では、その餅を食べながら、スギ(作文)の試験を行う。

今日のスギ試験のテーマは、「アボジ(お父さん)」。

「みなさーん。ふだん、オモニ(お母さん)のことは考えたことはあっても、アボジのことは考えたことはないでしょう。今日は、オモニではなく、アボジの思い出について書いてもらいますよー」と先生。

「もしお父さんとの思い出があまりいいものでない場合は、どうすればいいのですか?」とハナさんが質問する。

「悪い思い出でもいいので書いてください」と先生。

考えてみればそうだ。

父親の思い出が、必ずしもいいものばかりとは限らない。父親との関係がよくなかった人にとっては、作文を書くことじたい、つらい作業になるのではないか。

思えば、1級の時から今まで、何度となく「家族」をテーマにした作文を書いてきた。

むろん、作文の練習だと割り切ればよいのだが、それにしても、こちらの個人情報がそのたびにさらけ出されるのは、あまりいい感じがしない。

といって、家族の話は、誰にとっても身近なテーマだし、作文の課題としてはおあつらえ向きなのであろう。仕方がないのかも知れない。

最初の1時間で、各自が作文の構成を考える。

「みなさんのところをまわりますので、わからないことがあったら、その都度質問してください」と先生。

各自が、作文の構成を考えながら、わからない単語などを先生に質問する。

途中、カエさんが、「ソンセンニム!『マージャン』って、ハングルでどう書くんですか?」と質問。

マージャン、って、いったい父親についてどんな作文を書くつもりなのだろう。

ふだん父親についてあまり考えることのない私も、必死で記憶の糸をたぐり寄せることにする。

うーむ。思い出そうとするとすればするほど、なんとなくどんよりした気持ちになるなあ。とくに悪い思い出があるわけでもないのだが。

さて、2時間目は、いよいよ作文の試験の本番。

前の時間に作った構成表をもとに、600字以内の作文に仕上げてゆく。

必ず使わなければならない文型があるので、それをクリアしつつ、書いていかなければならない。

多少、脚色を含めながら書いていく。

書いているうちに、なんとなく泣きそうになってきた。頭の中のさまざまな引き出しが開き始めたのだろう。

今まで親に迷惑ばかりかけてきたな、という思いも頭をよぎる。

「思い出」に関する作文を書くときは、ふだんは開いていない記憶の引き出しが開き始めるのである。

以前の3級の時のスギの試験もそうだった。

その時は、私が試験当日に欠席しなければならない事情があったので、先生が、試験を前日に受けられるように配慮してくださった。

教室ではなく、語学の先生が何人かいらっしゃる教員室で1人で受験することになった。

作文のテーマは、「写真の思い出」。写真に関する思い出を、何かひとつとりあげて書く、というもの。

写真についての記憶の糸をたぐり寄せながら、作文を書いていく。

やはり途中、泣きそうになる。引き出しが開き始めたのである。

しかし、ここで泣くわけにはいかない。しかもここは、語学の先生数人が、仕事をされている部屋である。なんとかこらえて、作文を提出した。

そして今日。

別に悲しい思い出など何一つないのに、頭の中の引き出しを開けると、いろいろな思い出がよみがえり、ちょっとウルっときてしまう。

作文、というより、カウンセリングである。

そして試験が終了。

顔をあげて周りを見渡すと、感受性の強い、ある学生が泣きながら作文を書いていた。

いったい何を思い出したんだろう。

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