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2009年11月

最後のあいさつ

11月30日(月)

期末考査のあと、わが班で簡単な打ち上げをしたときのことである

文法の先生が私に言った。

「次の学期の開講式の時に、修了生を代表してスピーチしてもらえませんか?」

開講式とは、学期が始まる最初の日に、語学院に通う外国人留学生たちすべてが集まって行われる行事である。この行事は、開講式であるとともに、前学期の修了式の意味合いもかねていた。

それにしても、寝耳に水の話である。いままで、開講式に何度か出たことがあるが、修了生がスピーチをしたことなど、見たことがなかった。

事情を聞いてみると、以前は開講式の際に、学生たちによる発表などの行事が行われていたそうなのだが、ここ最近の開講式では、院長先生のあいさつとか、優秀者の表彰とか、型どおりの行事だけが行われていた。

このところ、あまりにも型どおりの開講式が続いていたので、ここらで、以前のような、趣向を凝らした行事を復活させよう、ということなのだそうである。

「ほかに、歌を歌う学生とか、踊りを踊る学生とか、授業でやった研究発表をする学生とかもいるんですよ」と先生。

歌とか踊りとかの出し物がある中で、オッサンがスピーチをするなんて、面白いか?と、一瞬、逡巡する。

だが、こんな機会はめったにないことだし、多くの学生が来学期も授業に出るのに対して、私は、今学期が最後である。さらに、この1年間、たぶん誰よりも勉強してきた、という自負もあった。

そこで、厚かましいと思いながらも、先生の勧めに従うことにした。

先週の木曜日、スピーチ原稿を作り、翌日の金曜日、原稿を直してもらうために文法の先生のところにうかがう。

「いま見たところ、直すところはほとんどないようですね。念のため、詳しく見て、修正したものを、あとでメールで送ります」

土曜日は学会の学術大会でソウルに行っていたため、身動きが取れず、日曜日に、修正されたものをもとに、練習をする。

スピーチに合わせて、パワーポイントも作成した。

「優等生的な内容ね」と、スピーチの内容を聞いた妻が言う。

たしかにそうだろう。私がこの1年間、語学院で韓国語を勉強した際に感じたことをスピーチするのだから、どうしても内容が無難にならざるをえない。

妻に言わせれば、私があれだけマラギ大会のスピーチには内容がなかった、なんて悪口を言っていたのに、自分自身のスピーチの内容もまた、同じではないか、ということなのだろう。

しかし私には、そんなことはどうでもよかった。私がやりたかったことは、こんなことではない。実はその場を借りて、どうしても、やりたいことが1つあったのである・・・。

さて、当日。

午後1時に、語学院の建物の中にある講堂で、開講式が始まる。

院長先生のあいさつ、そして前学期の成績優秀者の表彰などが行われたあと、学生たちによる行事が始まった。

最初は、中国人留学生2人による歌。当然、韓国語の歌である。

この2人の歌が、上手だったこともあって、思いのほか盛り上がる。

(このあとにスピーチをしなければならないのか・・・)

場の雰囲気が一気に盛り下がるのではないか、と心配した。

「続いて、修了生を代表して、미카미 씨に、語学堂で勉強した1年について、スピーチしてもらいます」

私の名前が出ると、会場がざわめいた。もはや私は、この語学院で、有名人である。

司会の先生にうながされるようにして、壇上に上がる。大きな拍手が起こる。

「みなさん、こんにちは、語学院で一番有名な学生、미카미です。みなさん、知ってるでしょう?」

「ネー(はーい)」と、会場から反応があがった。

これで、私の緊張感は、一気にほぐれていく。原稿を手に持たず、スピーチをはじめる。

「私は昨年の11月29日に韓国にやってきました。韓国へ来て、もう1年が経ちました。私は韓国へ来るやいなや、この語学院で韓国語の勉強をはじめました。その時から今に至るまで、私の韓国での生活の大部分を、この語学堂で過ごしました。そしてついに今日、韓国語の勉強を修了することになりました。いまから、私が1年間、この語学堂で経験したこと、そして、その経験を通じて感じたことを、お話ししたいと思います」

ここまでが前置き。語学院で習った文型をフルに活用する。

「私は日本にある大学で、日本の歴史を教えています」

スクリーンには、勤務先の大学で教えている学生たちの写真が映し出されている。

「日本の歴史を勉強すればするほど、韓国の歴史も勉強しなければならない、という考えが浮かびました。それで、直接韓国へ来て、韓国語の勉強からはじめることにしたのです」

「ところが、最初は、不安なことが多くありました。その理由のひとつは、私が歳をとっているということです。歳をとっているせいで、若い人たちにくらべて、勉強するのが大変なこともあり、何よりも、自分が若い学生たちと上手くやっていけるのかが、心配でした」

「ところで、私はこの語学院で勉強をはじめるとき、ひとつの決心をしました。それは、日本では私は教師ですが、韓国ではひとりの学生として、始めから終わりまで、ほかの学生たちと同じように勉強しよう、という決心です。そこで、若い学生たちと一緒に、授業を毎日受けて、宿題もして、試験も受けました」

「そうしたところ、小さな奇跡が起きました。それは、若い学生たちが、私のことを「チング」と思ってくれたことです。同じクラスのチングたちは、私に会うと「アンニョンハセヨ?」と挨拶してくれました。私をひとりの学生として、そしてチングとして見てくれたことが、何よりも嬉しいことでした」

「もちろん、語学堂で勉強したこの1年は、よいことばかりではありませんでした。気が重い経験もたくさんありましたが、いまはそのすべてが、忘れることのできない思い出となりました」

「ではここで、写真を見ながら、よい思い出を紹介していきましょう」

ここで、スライドが切り替わる。まずは、1級1班のときの写真である。

「これは、私が1級1班の時の写真です。マラギ(会話表現)の授業時間に、韓国の観光地について、チングと一緒に発表をしました

「続いて、2級の時に行った野外授業の写真です」

ここで少し笑いが起こる。私が、海岸で「タクサウム(闘鶏)」と呼ばれる、韓国の遊びをしているときの写真である。

「これは、慶州の海岸で、『タクサウム(闘鶏)』という韓国の民族的な遊びをしているときのものです」

「続いて、3級の時の写真です」

再び笑いが起こる。私が、手ぬぐいを頭に巻いて、プルコギを作っている様子を写した写真である。

「これは、3級の時の野外授業の写真です。料理教室で韓国料理を学びました。この写真を見れば、どんなに面白い料理教室だったかが、わかるでしょう?」

この言葉に、とくに先生方を中心に、再び笑いが起こる。いかに面白くない料理教室だったかを、皮肉を込めて言ったことに、気づいたのであろう。

「そしてこれは、前学期に行った野外授業での写真です」

リ・チャン君、ヤン・チャン君、チ・ジャオ君、そして、チ・ジャオ君のヨジャ・チングが写っている写真。

私が撮った写真だが、私はなぜかこの写真がとても好きだった。

「この写真は、私がいちばん気に入っている写真です」

この写真が映し出されたとたん、後ろの方にいたヤン・チャン君が、恥ずかしそうに下を向いたことを、私は見逃さなかった。

話は、「韓国語勉強法」に移る。

「ところでみなさん。韓国語を勉強しているみなさんに、韓国語を勉強する上でよい方法を、ひとつだけ紹介します。それは、韓国語で日記を書くことです。韓国語で日記をかくと、韓国語の勉強によい効果があるだけではなく、韓国で経験したことを忘れないように残しておくこともできます」

「実は私も、いままで、この語学院で経験したことを、日記に書いてきました。私の夢は、いつか、韓国語の日記をまとめて、韓国で本を出すことです。みなさんも、韓国語で日記を書いてみてはどうでしょう?」

自分で言っていて恥ずかしくなるような内容だが、スピーチの時には、このくらい恥ずかしいことを言うくらいがちょうどよいのである。

「そして最後に・・・」

ここで、原稿にはなかったことを言うことにした。あらかじめ原稿をみせていた妻や、文法の先生にも言わなかったことである。

「いままで一緒に勉強してきた、先生とチングたちを、紹介します」

私はそう言って、ジャケットの内ポケットから、これまで1年間に同じ班だった人たちの名前が書かれた紙を取り出し、ひとりひとりの名前を読み上げた。

「1級1班、キム・ジミン先生、ソ・ミョンア先生、ロン・ウォンポン君…」

「2級4班、カン・ユンヒ先生、クォン・ユウン先生、ス・オンイ君…」

「3級6班、キル・ユンミ先生、ナム・スジョン先生、クォ・チエンさん…」

「4級3班、チェ・ウニョン先生、キム・ジョンア先生、ロンチョン君…」

私がやりたかったことは、これだった。

これまで同じ班で、一緒に勉強してきたすべての人たちの名前を、呼びたかったのである。

「語学院の先生やチングたちのおかげで、最後まであきらめずに勉強をすることができました。楽しく勉強することができました。私は、みなさんのことを忘れないでしょう。いままで私を助けていただいた多くの方々、そして、今日のこの話を聞いてくださったみなさんすべてに感謝しつつ、この発表を終わります」

…ここまで、原稿を見ずに言えた。

会場から大きな拍手をもらう。

たぶん、いままで私が人前でしゃべった中で、いちばん大きな拍手かも知れない。

聴衆は、多くの中国人留学生を含む外国人留学生、韓国語の先生たち。そして、ほんの少しの日本人。

私の韓国語は、どれくらい通じたのだろう。

ホッとして壇上から降りると、司会の先生が、

「ほら、院長先生と握手してください。前からの希望だったんでしょう」

とおっしゃる。

以前、授業の中で私は、開講式で語学院の院長先生と握手したい、という希望を言ったことがある。そのことが、語学の先生の間でも広く知れ渡ってしまったようだ。

だがそれは、開講式で1等をとって表彰された人たちが、院長先生と握手する姿を見ていたからである。つまり、自分が1等をとって表彰されたい、ということを比喩的に言ったにすぎないのである。

しかしどういうわけか、私が理由もなく院長先生と握手したがっている、というように曲解されて伝わったらしい。べつにどうしても握手をしたい、というわけではないのだがな。

仕方がないので、言われるがままに、一番前に座っていらした院長先生と握手する。

握手をしながら、院長先生がおっしゃる。

「よくここまで頑張ってこられましたね」

かくして、私の語学院での学業は、本日をもって修了した。

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白夜行

11月29日(日)

この1週間は、24日(火)と25日(水)に、勤務先の大学と、こちらにある大学の交流行事に参加、26日(木)の夕方に、木曜恒例の研究会に参加、28日(土)に、ソウルで学術大会に参加、など、淡々と予定をこなした。残りの日は、12月にする学会発表の原稿作成などをする。

そして日曜日、久しぶりに映画を見る。

Main_po01東野圭吾原作の『白夜行』が、韓国で映画化された、となれば、見に行かねばなるまい。

『白夜行』は、東野圭吾の傑作小説である。韓国でも、翻訳本が出されている。

ところで、日本ではどの程度の知名度なのだろうか。

先日、大邱に訪れた日本人の何人かに聞いてみたが、「知らない」とか、「東野圭吾は知っているが、『白夜行』は読んだことがない」という反応がけっこうあった。

日本で一度、ドラマ化されたことがある。

ドラマ自体は、評判がよかったようであるが、私は、劇中に出てくる主役の刑事が、ミスキャストのような気がして、結局見なかった。

原作の小説を読んだとき、「この刑事を演ずるなら岸辺一徳しかいない」と思っていたので、イメージとかけ離れていたのである。

自分の好きな小説が映画化やドラマ化されるときには、期待と不安が入り交じる。えてして、自分のイメージを壊してしまう内容のものが多い。

とはいえ、私自身、『白夜行』の内容を実はほとんど忘れてしまっていたので、新たな気持ちでこの映画を見ることができた。

さて、内容は、…『白夜行』フリークの妻に言わせると、原作よりも、むしろ日本のドラマをもとにして作られた感じがあるという。

たしかに、刑事役を演じた、ハン・ソッキュは、原作の小説よりも、日本のドラマで刑事を演じていた俳優のイメージを襲っているように思える。

ただ、原作を知らない人にとっては、あれはあれでいいのかな、とも思う。

もとより、あの完璧で長大な原作小説『白夜行』を、舞台を日本ではなく韓国で、しかも2時間半の映画として描くことじたい、無謀な試みと言えなくもないが、丁寧な描写とキャスティングの妙で、十分と楽しむことができた。

『白夜行』は、映画やドラマに携わる人なら、一度は挑戦してみたいと思うであろう、傑作小説である。

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早くも同窓会

11月21日(土)

語学院の学期が終わって、パンハク(休暇)が始まると、中国人留学生たちのほとんどは、故郷の中国に帰る。

ところが、今回は、故郷に帰らない学生が多い。

その理由は、今学期の開始日が、新種インフルエンザの騒ぎで1週間遅れたため、パンハクの開始日が1週ほどずれ込んだ結果、期間が3週間から2週間に減ったためである。

そしてもう一つの理由は、この時期、韓国の大学に入学を考えている学生たちにとって、この時期が、大学合格が決まる時期にあたるからである。つまり、「結果待ち」の時期なのである。

ということで、後半のマラギの先生(よくモノをなくす先生)が、大邱の八公山(パルゴンサン)の登山を企画された。

正確には、マラギの先生が担任になっている4級4班のクラスに呼びかけたものだったのだが、先週の期末考査のあとの打ち上げの際に、わが4級3班の学生にも声をかけていただいたのである。

せっかくの機会なので、お邪魔とは思いつつも、参加させていただくことにした。

昨日、わが班のパンジャンニム(班長殿)ことロンチョン君から、携帯にメールが入る。

「明日、登山に行かれますよね?」

ロンチョン君も、期末考査の打ち上げに参加していて、登山の話を聞いていたのである。

「(ロンチョン君に)ずいぶんなつかれたものね」とは、メールを見た妻の言葉。

たしかに、「なつかれている」という言葉がふさわしい。どういうわけか、彼は私に、なついているのだ。

数日前の彼の韓国語日記に、パンハクは嫌いだ、というようなことが書かれていた。自分は授業に出ている時間が一番楽しい。パンハクになってしまうと、誰とも会えなくなってしまうので、とてもさびしいのだ、と。

それにしては、授業に遅刻してばかりいたじゃないか、と思ってしまうのだが、彼は、誰よりも人といることが好きなようである。

だから彼は、他の班の集まりにも、積極的に顔を出すのだ、と聞いていた。

今回の登山も、当然楽しみにしていたのだろう。

私は返事を書いた。

「当然だろ。明日、遅れずに来いよ」

すると、5秒で返事が戻ってきた。

「わかりました。明日会いましょう!」

さて、今日。

午前10時に空港のバス停に集合、ということで、私と妻は時間通りに到着したが、案の定、ロンチョン君は遅れてやってきた。

参加したのは、先生を含めて9人。そのうち、2級の時に一緒だった、ホ・ヤオロン君と、リ・ペイシャン君、3級の時に一緒だったクォ・チエンさんとはすでに顔見知りである。ちなみに、リ・ペイシャン君とクォ・チエンさんは、恋人同士である。

「ホ・ヤオロン君は、面白い」とは、妻の評。

たしかに2級の時から、彼は面白かった。ほかの人にはない、独特のセンスを持っているのだ。会話の端々から、それがうかがえる。頭のいい青年なのだろう。

「高校の時、川端康成の『伊豆の踊子』を読んで、日本に興味を持ちました」という。きっかけが、日本の漫画でないところがいい。

「大学に入学したら、プモニム(両親)に、旅行をしてもよい、といわれたんです。だから、大学生になったら、1週間、日本を旅行したいんです」そう言って、彼は日本の観光地に行くならどこがよいのかと、しきりに聞いてきた。

そんなホ・ヤオロン君は、「よくモノをなくす先生」のことが、とても好きである。

いや、愛している、といってもよい。

「よくモノをなくす先生」と結婚したい、と、半ば本気で思っているようである。

ちょっと待てよ、と思う。

たしか彼は、1級の時に習った「猟奇的な先生」のことが、とても好きだった。そのことは、中国人留学生たちはおろか、語学の先生方の間でも有名だった。

2級の授業のときに、「猟奇的な先生」を思うあまり、詩を作ったほどである

しかし、いまは、「よくモノをなくす先生」のことが、好きでたまらないようである。

惚れっぽい性格なのだろう。

彼は、ソウルにある大学に合格した。

「じゃあ、その大学に入学するの?」と聞くと、

「まだ考え中です。ソウルに行ってしまうと、友達がほとんどいませんから」と彼は答えた。

バスに乗り、八公山のふもとに到着。いよいよ登山の開始である。

真冬なみの寒さの中で登山をする、というのは、ふつうの人にとってはそうでもないのかも知れないが、私にとってはなかなか大変である。

というのも、無類の汗かきである私は、真冬の気候であっても、登山の最中には大量の汗をかくからである。大量の汗が、たちまち氷のように冷えてしまい、暑いのか寒いのか、よくわからなくなる。

果ては、自分の汗が原因で凍死してしまうのではないか、と思うほどである。まったく、面倒な体質である。

そうは言っても、山登りはやはり気持ちがよい。

それに、今回参加した留学生たちは、みんないい人たちばかりだ。一緒に登っていて、こんなに楽しい思いをしたことはない。

大好きな先生と登山をしているホ・ヤオロン君は、いつになくテンションが高い。

「あ、鼻血が出てるわよ!」

テンションが上がりすぎて興奮したホ・ヤオロン君は、鼻血を出してしまった。

頂上で、昼食を食べたあと、山を下りながら、「念仏庵」というところに向かう。

「念仏庵」には、大きな磨崖仏があった。

そこで、ホ・ヤオロン君がお祈りをしている。

「何をお願いしたの?」と聞くと、

「早く韓国の大学を卒業できますように、てお願いしました」

そうか、彼は、これから大学に入学して、あと少なくとも4年、韓国で暮らすことになるのか。

やはり、中国に早く帰りたいのかも知れない。

「念仏庵」をあとにして、「桐華寺」に向かう。

道すがら、ロンチョン君が話しかけてきた。

「実は僕、大学院の試験に落ちたんです」

「日記を読んだよ」

彼は数日前の韓国語の日記で、いま通っている語学院がある大学の大学院を受験したのだが、落ちてしまった、と書いていた。

「韓国語の実力がまだまだだ、ということは、自分でもよくわかっているんです。落ちたのも、それが原因でしょう」

「他の大学院を受けようとは思わないの?」

「ええ、僕、この大学が好きですから」

彼は、チングが多いこの大学院に、どうしても進学したいようだった。

「じゃあ、これまで以上に韓国語を勉強しないとね」と私。「韓国語の日記を続けなさいよ。いちばんの勉強になると思うよ」

「僕も書いてみてそう思いました。書いてみると、いろいろな表現を覚えられるし…。続けようと思います」と彼は言った。

やがて「桐華寺」に到着。桐華寺は、私が1級の時の野外授業で行ったお寺である。

あの時は、韓国語がほとんどわからなかった。でもいまは、中国人留学生たちや韓国語の先生と、韓国語で会話を交わしながらこのお寺を見学している。

同窓会にふさわしい場所である。

楽しい時間はあっという間に過ぎた。

夕方5時、バスで大学の近くまで戻り、中国人留学生たちと、夕食にカムジャタンを食べる。彼らと、いろいろな話をした。

夕食後、大学の北門で、解散。

彼らはまた新学期に会えるが、私と妻には、もう「新学期」が来ない。

「また、会えますよね」とロンチョン君が私に言った。

「まだ韓国にいるからね。こんどまた集まりがあったら誘ってよ」

「わかりました。連絡します」

律儀な彼は、おそらく連絡をくれることだろう。

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2万ウォンの伊達めがね

11月20日(金)

しばらく間があいてしまった。

理由は3つある。ひとつは、17日(火)から20日(金)まで、両親と妹が韓国に旅行に来たので、案内をしていたのである。

両親にとっては、初めての海外旅行であった。

2つめは、仕上げなければならない原稿の締め切りが迫っていたため。これは、よくあることである。

そして3つめは、語学院の授業も終わり、一区切りついたことによる。

期末試験が終わった日の夕方(14日)、わが4級3班の、簡単な打ち上げがあった。

わが班を担当された2人の先生(文法の先生、マラギの先生)も参加された。

その席で、文法の先生が私におっしゃった。

「あの、マラギの授業の宿題としてこれまで書かれてきた作文を、全部貸してもらえないでしょうか」

これにはいささか説明が必要である。後半のマラギ(会話表現)の授業では、何回かに1回、その日のテーマに関して、自分の考えを作文にまとめて提出しなければならなかった。ごくごく簡単な作文なのだが、その宿題は、後半のマラギの授業を担当される先生が、添削して返却することになっていた。だから、前半の文法の先生が、わが班の学生たちの作文の読む機会は、基本的にはなかったのである。

ところがその先生は、なにかの機会に、私の作文を読んだらしい。

それで、いままで書いたものを読みたいのですべて貸してほしい、とおっしゃったのである。

「コピーして、あとでお返ししますから」

それほどのものか?と思う。作文のほとんどは、難民問題とか、大都市の問題点とか、ダイエットの問題点とか、テーマが決まっていて、そのテーマに沿って無理やりに自分の考えをまとめなければならない。だから、仕方なくまとめてしまった文章ばかりであった。

しかしその反面、さまざまな宿題の中で、いちばん時間をかけて書いた、思い入れの強いものであったことも事実である。だから私は、その返却された宿題の作文を、すべてファイルして、御守りのようにいつも持ち歩いていたのであった。

「いまここにありますからどうぞお持ちください」

「あら、全部ファイルしていたんですね」

文法の先生が、話を続ける。

「미카미씨の作文、教員の間でもけっこう有名なんですよ」

マラギの先生(「よくモノをなくす先生」)が話題に入ってきた。

「実は、私の父と姉も、미카미씨の作文のファンなんです」

マラギの先生は、家に持ち帰って、宿題の作文を推敲する。たまたま私の作文を読んだ、先生の父君とお姉様が、いたく気に入られたというのだ。とくに父君は、毎回のように、私の書いた作文を読ませてくれとおっしゃるという。

「とくに、アボジ(父)について書いた作文。あれはよかったですねえ」

以前、スギ(作文)の試験で、「アボジ(父)」をテーマにした作文を書かされた。ずいぶん苦労して書いた記憶がある。

「あれを読んだ姉が、『これは満点をあげないとダメだわよ』と言ったんです」

文法の先生がつけ加える。

「うちの語学院では、スギ(作文)の試験の際に、多少文法に誤りがあっても、内容がよければ、点数を加算する、という決まりを作ったんですけど、いままで、実際にその決まりが適用されたことはなかったんですね。でも、あの『アボジ』の作文は、うちの語学院が始まって以来、はじめてその決まりが適用されたんですよ」

試験の答案は基本的に返却されないので、自分がその時どんな内容を書いたのか、覚えていなかった。だが、点数の確認のため、その作文を一瞬だけ返却されたことがあった(その後、すぐに回収された)。たしかそこには、いくつか文法の誤りがあったにもかかわらず、10点満点の10点の点数と、その下に「加算点」という文字が書かれていた。

「そういえば、点数を確認したときに、点数の下に『加算点』と書かれていました」と私。

「そうでしょう。あれがまさにそうです」と文法の先生。

「実は、10点をあげたらどうか、と会議で提案したのは、私なんですよ」と、マラギの先生が続ける。

作文の試験は、採点者の自由意志で評価されるものではなく、いったん採点したあと、先生方の会議にかけられ、最終的な点数が決定されるのだという。つまり、然るべき理由と、それに対する他の先生の同意がないと、点数の変更は不可能なのである。

私の作文が、他の先生の間でも有名だ、というのは、そういうことなのか。

「語学院始まって以来」というのは、文法の先生特有の大げさな表現といえなくもない。しかしこの言葉を聞いて、心の中で、ひとつの決意が生まれた。

それは、韓国語の文章をもっともっと修業をしよう、という決意である。

そのために、これからは、韓国語の日記に力を入れることにしよう。

だから、日本語の日記は、少し力を抜くことにしよう。

ところで、ひとつ、思い出したことがあった。

それは、中学の時の作文コンクールで入選したときも、たしかテーマは「私の父」であった、ということである。

どうも、「父」をテーマにすると、私の作文は誉められるらしい。

しかし、実際の私の父は、いたって平凡である。

とりたてて取り柄のある人間でもない。

作文に書くほどの父ではない。

社会的な地位や名誉といったものからは、最も遠いところにいる人である。

私自身、父の影響を受けた、ということは微塵もないのである。

なのになぜ、父のことを書くと、評判がいいのだろう。

私の父は、やや変わっている。

今回の韓国旅行では、見慣れない眼鏡をかけていた。

さして目が悪いわけでもないのに、どうして眼鏡をかけているのだろう。

理由を聞いてみると、「自転車に乗っていると、目に虫が入ってくるから」。

つまり、虫よけのために「だて眼鏡」をかけているというのである。

ふだん、自転車に乗って近所に散歩に行くくらいしか楽しみのない父ならではの悩みといえるが、それにしても、韓国ではべつに自転車に乗る機会がないのに、なぜ、相変わらず眼鏡をかけているのか、よくわからない。

しかも、その眼鏡は、ビックリするほど「ダサイ」のである。

聞いてみると、100円ショップで買った「伊達めがね」だという。

横にいる母が「一緒にいると恥ずかしいので、頼むからもっといい眼鏡をかけてくれ」と言うほど、「ダサイ」眼鏡である。

しかし父は、頑として新しい眼鏡を買おうとはしない。ケチな父は、新しい眼鏡を買うなんて、もったいない、というのである。

しかしそんな眼鏡をかけられては、身内はたまったものではない。

仕方がないので、昨晩、明洞(ミョンドン。ソウルで一番の繁華街)の地下街で、眼鏡を買ってあげることにした。

地下にある眼鏡屋の店頭に並んでいた2万ウォン(2000円弱)均一の眼鏡の中から、似合いそうなものをひとつを選び、プレゼントする。

まあ、2万ウォンの安物の「伊達めがね」だから、プレゼント、というほどのものでもない。

父は、「しょうがないなあ」という感じで、その眼鏡を受け取った。

そしてソウルを発つ今日。

朝、両親たちをホテルに迎えに行くと、母が私に言った。

「今朝ね、お父さん、起きるとすぐに、昨日おまえが買ってくれた眼鏡をかけて、何度も鏡の前に立ったんだよ。ふだん鏡の前になんか立たないのに。よっぽど嬉しかったんだろうね。口では何も言わないけど」

2万ウォンの、安物の「伊達めがね」。

私が父にした唯一のプレゼント。

その眼鏡をかけた父、そして母と妹は、今日、ソウルを発って日本に戻った。

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期末考査(4級)

11月14日(土)

朝9時、期末考査開始。私にとって、最後の定期試験である。

相変わらず、試験時間といい、問題の分量といい、サディスティックであることこの上ない。

この年齢になると、長時間、眼を酷使することで、とたんに眼が疲労し、集中力がなくなってくる。若いころであれば、これほど眼が疲れることもなかった。

どんなにやる気を出そうとしても、体がついていかない、とは、こういうことなんだな。

やはり若いというのは、それだけですばらしいことなのだ。

休み時間、前に座っていたカエ氏が言う。

「相変わらずキビしすぎる問題ですね。どうにも肩が凝っちゃって」

「私は眼にきてますよ」と私。

「私なんか、全身サロンパスだらけなんですから」

満身創痍、とはこのことである。

しかしくどいようだが、私はこのキビしすぎる試験を、もう8回も受けているのだ。

そのとき、私の隣の列に座っていた2級クラスの青年が、私に韓国語で話しかけてきた。

「あのう、…日本の方ですか?」

「そうです」

日本語の会話を聞いていて、日本人だと思ったのだろう。

「英語で話してもいいですか?」

う…、それは勘弁してくれ、と思い、「韓国語で」と答える。

「この語学院、中国人が多いですよね」

「どこの国から来たんですか?」と、私が質問すると、

「マレーシアです」と、彼は答えた。

「いま、私の班は、私以外、全員中国人なんです。4級は、日本人が多いんですか?」

「そんなことないですよ。ほとんど中国人です。私も1級から3級までは、私以外全員中国人でした」

「どうして韓国語を勉強しようと思ったんですか?」と彼が質問する。明らかに学生ではない私を見て、疑問に思ったのだろう。

「韓国の文化や歴史を勉強したいと思って」

と、とおりいっぺんの答えをした。

まわりが中国人ばかりで辟易としていた彼は、どうも私と友だちになりたかったようである。

その気持ちはよくわかる。私も同じ経験をしてきたから。

しかし残念だ。私は、今日で最後なんだよ。

午前の読解、作文、文法、リスニングの試験が終わり、あとは午後のマラギ(会話表現)の試験を残すのみとなった。

マラギの試験は、さしずめ大学入試の面接試験のような感じである。まず、受験をする学生が、控え室に集まり、自分の順番を待つ。名前を呼ばれると、控え室担当の先生に誘導され、試験の教室へと向かう。

午後3時、控え室に行き、自分の順番を待つ。

この時間が、何よりも耐え難い。まるで、病院の待合室のようである。

やがて名前が呼ばれた。名前を呼んだのは、2級の時の「粗忽者の先生」である。

控え室を出て、試験の教室に行く道すがら、先生に「私、これが最後の試験なんですよ」と小声で言うと、

「わかってますよ」と小声でお答えになった。

教室に入ると、マラギ試験の担当の先生は、3級の時のナム先生であった。

「大都市のかかえる問題点とその解決方法」について、3分ほど発表しなければならない。

試験の主題は、あらかじめ知らされていた。ただし、主題が5つほどあげられ、そのうちの1つが出る、ということだけしかわからない。

その5つについて、あらかじめ準備していたが、この主題(大都市)については、事前にあまり面白い内容を組み立てられなかった。できれば出てほしくない問題だった。

でもまあ仕方がない。

担当の先生がナム先生だったということもあって、さほど緊張することもなく、独白(ひとりごと)のように淡々と話し、発表は終わった。

「さあ、これで全部試験が終わりましたね」とナム先生がおっしゃった。

「これでもう最後ですね。どうですか。ホッとした、という感じですか?それとも、終わってしまってさびしい、という感じですか?」

「ソプソプヘヨ(さびしいです)。できればもっと勉強したかったんですが…」

「私もそう思います。次の学期も続けられればよいのに…」

しかし研究もしなければならないので、と、私はとおりいっぺんの答えをくり返した。

「韓国語の日記、続けるんでしょう」

「ええ。日本に帰ったあとも、続けようと思います」

「ぜひそうしてください。…私も近いうちに、日本に遊びに行こうと思うんですよ」

「そうですか。その時はぜひ連絡してください」

試験の教室を出て、階段を降りると、1階にわが班のパンジャンニム(班長殿)こと、ロンチョン君がいた。

おかしいな。さっきの控え室では、顔を見かけなかったんだが。

「マラギ試験、受けたの?」と私が聞くと、

「いえ、試験の時間に5分だけ遅刻してしまって、受けることができませんでした。…どうしましょう…」

彼は前学期、4級から進級できず、今学期もまた4級に「留級」した。来年3月に大学院に進学することを考えると、遅くとも来学期は5級に進まなければいけない。つまり「待ったなし!」の状況だったのである。

「マラギの試験」が受けられなかった、となると、今学期もまた、進級はかなりキビしいかもしれない。

まったく、どこまでも不器用なやつだ。人間的にはとてもいいやつなんだが。

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さよなら、4級3班!さよなら、語学院!

11月13日(金)

私にとって、最後の語学の授業の日。

隣の席のリ・チャン君が私に話しかける。

「昨日、故郷のアボジ(父)に電話したときに、미카미씨のことを話したんです」

「どんな話をしたの?」

「僕の隣の席には、日本から来たキョスニムが座っていて、一緒に勉強しているけど、いつも若い気持ちでいる。だから、アボジも、若い気持ちを持たなければダメだよ、と」

「へえ、アボニムは何をやっている人?」

「公務員です。でも、仕事ばっかりしていて、いつもため息をついてます」

「お歳はいくつなの?」

「42歳です」

ええ!私とほぼ同い年ではないか!かなりショックである。

彼にとって、私は父親の世代だったのか…。

さて、最後の授業は、淡々と進んだ。

後半の授業の3分マラギは、チュイ・エンピン君が、北京の名所を、写真をみせながら紹介する。私も、2年前の冬に行ったことを思い出し、しばし懐かしむ。

そして最後の時間。ひとりひとりにA4の紙1枚が配られた。

その紙の上の方には、私が先日の野外授業の時に撮った集合写真がレイアウトされていた。

「みなさーん、いまから順々に紙をまわしていって、余白のところにチングへのメッセージを書いてくださーい」と先生。

いわゆる「寄せ書き」である。

順々に各人の紙をまわしながら、ひとりひとりにメッセージを書き、授業は終了した。

昼食のあと、書いてもらったメッセージに目を通す。今回の2人の先生からも、丁寧なメッセージをいただいた。

どれも身に余る言葉ばかりで、涙が出てきた。どうも最近、涙もろくていけない。

ここですべて紹介したいところだが、やはり私の心の中にしまっておこう。私にとって、大切な言葉ばかりである。

いや、1人だけ、紹介しよう。

今日が最後の授業だということで久々にやってきた、スンジ氏の言葉である。

スンジ氏は、日本の大学を卒業したあと、チェイルキョボ(在日僑胞)として、もう一つの故郷の言葉である韓国語を勉強しようと、この国にやってきた。この4級の授業が終わると、日本に帰ることになっている。

授業中は、ほとんど喋らないが、関西出身なので、たぶんふだんはおしゃべりなんだろうな、と思う。細身の長身で、売れないミュージシャンによくいるような雰囲気の若者である(失礼!)。

彼だけが、韓国語ではなく日本語で私に次のようなメッセージを書いた。

「めっちゃ有名な学者さんになったら、何でもいいんで僕を使ってください!!」

これには思わず吹き出してしまった。

よし!スンジ氏のためにも、めっちゃ有名な学者になったるでぇ。

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趣味活動

11月12日(木)

今日は、「大学修学能力試験」の日である。

「大学修学能力試験」とは、日本の「大学入試センター試験」にあたるものである。この試験の結果如何により、将来が決まるといっても過言ではない。

だから、大学受験生にとっては、もっとも大事な日である。

さて、文法の時間に「○○に支障がある」という表現を学ぶ。

例文に、「学校生活に支障がない趣味活動をしたい」とあった。

「みなさんは、中学校や高校の時にどんな趣味活動をしていましたかー?」と先生。

韓国の高校では、基本的に趣味活動に時間を費やす暇がない、という。授業が朝9時から始まるとして、授業開始前に学校に行って、自習をし、夕方6時に授業が終わると、いったん夕食を済ませ、再び学校に戻り、夜9時、10時頃まで自習をするという。それこそ、「大学修学能力試験」のためである。

だから、いわゆる課外活動をする時間がないのである。

私の場合はどうだったろう、と振り返る。

高校1年の時、吹奏楽部に入って、アルトサックスをはじめた。吹奏楽部には、中学時代からの経験者が多かったが、私は全くの初心者だった。

音の出し方からはじめて、音ののばし方や音階の練習など、ゼロからの出発だった。

練習時間は、午前中に早弁(はやべん)して、お昼休みに1時間練習し、放課後、3時頃から6時頃まで練習する。これを月曜日から金曜日までくり返す。授業が始まる前に、朝練をしたこともあった。

当時、土曜日も午前中に授業があったので(いわゆる半ドン)、午後1時から5時まで、練習する。

結局、週6日、1日4時間以上練習していたことになる。

おかげで、1年くらいで、難解な曲にもチャレンジすることができ、コンクールに出場することもできた。

…と、ここまで思い出して、思わず苦笑する。

なあんだ。いまの韓国語の勉強法と、同じではないか。

1日4時間の勉強を毎日。こういう勉強法は、実は性(しょう)に合っているのかも知れない。

それと、もう一つ気づいたこと。

「楽器の練習と外国語の勉強は、裏切らない」

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フンブとノルブ

11月12日(木)

むかしむかし、フンブとノルブという兄弟がいました。

兄のノルブは、親から引き継いだ財産を独占し、弟のフンブを家から追い出しました。フンブは、貧しい生活を強いられながらも、兄を恨まず、10人の子どもに恵まれました。

あるとき、フンブは怪我をしたツバメの子を助けました。翌年の春、そのツバメは、恩返しに瓜の種を持ってきました。、フンブが瓜の種を植えると、大きな実がなり、その瓜を切ると、中から金銀財宝が出てきて、フンブは幸せに暮らすことができました。

さて、その話を聞いた兄のノルブは、自分も同じようなことをします。ツバメの子の足をわざと傷つけてけがをさせ、治療をして、ツバメに無理やり恩を売りました。

翌年春、そのツバメがノルブのもとに瓜の種を持ってやってきました。

ノルブはしめしめと思い、その種を植えると、大きな実がなりました。しかしその瓜を切ると、中から出てきたのは、金銀財宝ではなく、大きな化け物でした。

ノルブはその化け物に財産を奪われ、貧乏になりました。ノルブはフンブにこれまでのことを侘びて、フンブと一緒に暮らすことになったとさ。めでたしめでたし。

「フンブとノルブ」という、韓国人なら誰でも知っている有名な昔話である。

善良で慎ましいフンブが最後には成功し、欲張りなノルブが最後は没落するという話は、昔話によくあるパターンである。

2週間ほど前だったか、マラギ(会話表現)の授業で昔話を取り上げたとき、たしか私がこんな発言をした。

「日本に、『さるかに合戦』という話があります。この話は、さるにひどい目にあったかにが、仲間を集めてさるに復讐する、という話です。子どものころ聞いたときには、さるが悪者で、かにがいい者、みたいに思っていたんですが、大人になってみると、必ずしもそうではない、と思うようになりました」

こんなに上手くは言えなかったが、こんな感じのことを言った。

実はこれは、以前、あるラジオDJが言っていたことである。

さるかに合戦、実はあの話をよくよく考えると、絶対的な正義なんてものはなく、誰でもヒーローになれるし、誰でも嫌なやつになる。善悪に絶対的なものなどないのだ、と読みかえることができる、というのが、そのラジオDJの仮説。

巧みな話術を再現できないのが残念だが、私はこの話がえらく気に入っていた。

で、もう少し考えてみると、私たちが子どものころに聞いていたさるかに合戦は、さるが悪者であるかのように、巧みに情報操作されていたり、誘導されていたりしていたのではないか。同じ出来事を、表現を少し変えるだけで、実は猿はそれほど悪くない、という物語に仕立てることもできる。

たとえば、さるが、かにが持っているおにぎりを柿の種と交換するとき、

そのおにぎりくれよ。この柿の種を育てたらすごい柿がなるからさ」

と言う。昔話では、さるがかにを騙したように描写するが、実はこの時点で、猿は嘘をついていない。実際、大きな柿の木がなるのである。

同じ事実でも、どの立場で描くかによってまるで違ってしまう。あたりまえの話だが。

子どものころに「勧善懲悪」として聞いていた昔話だが、実は、善悪とはあざなえる縄の如し、なのである。

そんな意味で、「さるかに合戦」を引き合いに出して発言したのであった。

するとマラギの先生は、わが意を得たり、みたいな感じになり、

「そうですね。実はフンブとノルブの話も、見方を変えれば、フンブにも悪いところがあり、ノルブにもいいところがある、ということになるんです。たとえば、フンブは貧しい生活を強いられた、とあるけど、裏を返せば、お金を稼ぐための努力をしなかった、ということでしょう。ノルブは、欲深いと言われているけれど、お金を儲けて、それを維持する方法を知っていた、ということになるんです。つまり、フンブよりもノルブの方が生きる知恵や力がある、という肯定的な評価もできるのです」

とおっしゃった。

私はそれを聞いて、「ん?ちょっとニュアンスが違うかな?」と思ったが、まあこちらの語学の問題もあったので、それ以上は何も言えなかった。

さて、今日。

後半の授業で、スギ(作文)の試験が行われた。

作文の課題を見て驚いた。

「フンブとノルブの話を、観点を変えて考えると、フンブとノルブに対して正反対の評価をすることができます。どのような評価ができるかを理由をまじえながら書きなさい」というもの。

2週間前の話が、そのまま試験問題になっているではないか。

心なしか先生は、「どうですか、いい問題でしょ」といった雰囲気を出しておられる。

穿った見方をすれば、2週間前に私が話したことに触発された先生が、作文の課題としてふさわしいと思い、この問題を作ったのではないか、とも思える。

自意識過剰かも知れないが。

後半の2時間の授業のうち、前半の1時間は、作文を書く前の準備の時間である。みんなで話し合って、フンブの良い点と悪い点、ノルブの悪い点と良い点をあげてゆく。

いままで「善」として評価されていたフンブに「悪」の部分はないか、一方、いままで「悪」として評価されていたノルブに「善」の部分はないか、をみんなであげてゆく。

先生を含め、みんなが得意になっていろいろとあげてゆくが、私はなんとなく憂鬱である。

このモヤモヤは何だろう。

結局、「善悪」の二元論でこの昔話を読み解こう、とする短絡な方法に、ちょっとついていけなかったからかも知れない。

私があの時に言いたかったことは、少し違っていた。

たとえば物語では、「兄のノルブは、親の財産を独占して弟に渡さなかった」とあるが、長子相続が制度として存在していた時代の話だったのであれば、単純な欲心から独占した、とは言い切れなくなる。

この微妙なニュアンスを、韓国語で伝えるためには、あとどれくらい勉強すればよいのだろう。

後半の1時間はいよいよ試験の本番。多少の違和感を感じながらも、設問の意図や条件に即した作文を書くことに徹することにした。

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ペペロデー

11月11日(水)

11月11日は、「ペペロデー」だという。

「ペペロ」とは、日本のポッキーにあたるお菓子の商品名で、1111と、1が4つ続く姿が、ポッキーを連想させることから、そう名付けられたようである。この日、韓国では「ペペロ」をプレゼントしあうことになっているのだという。

ま、さしずめお菓子会社の戦略だろう。

そのせい、というわけでもないが、今日はなぜか、わが班のみんなの機嫌がよい。

文法の先生の声は、いつになく弾んでいる。もちろん、いつもテンションは高いのであるが、今日はことさら、先生の話が横道にそれる。話したいことが次々と沸いてくるようである。

久しぶりに学生に戻ってみて感じるのは、授業を受けてみると、先生の機嫌のよさや悪さが、すぐにわかる、ということである。

たとえば、後半のマラギの先生は、火曜日になると、なんとなく落ち着かない様子である。

理由は、午後1時に語学の授業を終えたあと、すぐに大学院の授業を受けなければならないためである。大学院生でもある先生は、とくにその日に自分の発表があたっている場合は、明らかにテンパっている様子がわかるのである。

昨日の火曜日は、まさにそんな感じであった。

今日は、昨日のヤマ場を乗り越えたからなのか、機嫌がよい。

「ペペロ」ではないが、別のお菓子をみんなに配っていた。

学生たちも、みんなどことなく機嫌がよいようである。

今日の3分マラギは、シニカルなリ・チャン君が担当である。お題は、「世代差について」。

リ・チャン君は、1990年生まれの19歳で、わが班の中で一番若い。

だが、やはり頭のいい子だな、と思う。中国における世代差の問題を、的確にまとめていた。

ひとりひとりが感想を述べ合う段になって、私が言った。

「格調高い表現をしていて、感動しました」

本心の感想である。言葉の選び方に、センスを感じたのであった。

わが班で最年長の私と、最年少のリ・チャン君の年齢差は実に21歳。彼はまさに私の半分の年齢である。

「リ・チャン君は、미카미씨との間に、世代差を感じますか?」と先生が質問する。

リ・チャン君は、

「미카미씨は考え方が若いので、世代差はとくに感じません」

と答える。優等生的な答えである。

今まで、「老けている」と言われたことはあっても、「若い」と言われたことなんてなかった。おそらく、はじめてかも知れない。

3時間目の授業が終わり、2階にある自販機のコーヒーを買って飲む。本日2杯目のコーヒーである。

飲み終わって、階段を上って3階の教室に戻ろうとすると、階段の踊り場のところで、リ・チャン君とすれ違う。

「あ、コピサジュルケヨ(コーヒー買ってきてあげますよ)」とり・チャン君が私に言った。

いま飲んだばかりだと言おうとすると、

「いいから教室に戻っていてください」と言う。

教室で待っていると、リ・チャン君が私の分のコーヒーを持って戻ってきた。

「ありがとう」と言って、本日3杯目のコーヒーを飲み干した。

私にとっては、今日は「コーヒーデー」である。

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書くことと見つけたり

11月10日(火)

「韓国語って、どうやって勉強してます?」

わが班のヌナ(お姉さん)こと、カエ氏が私に質問してきた。

おかしな話である。私よりも韓国語がはるかに上手で、成績もよいはずなのに、私に聞くようなことではない。

その上、韓国人のナンピョン(夫)と暮らしていて、たまに大喧嘩をする、というのだから、韓国語で啖呵を切るくらい、朝飯前のことなのではないか。

「宿題とパダスギ(書き取り試験)の準備をするだけで、1日が終わるでしょう」と私。

「それはそうですね。でも、ほかに効果的な方法って、ありますかね」

「うーん。…やっぱり韓国語で日記を書くことですかね」

「まだ続いているんですか?私なんか三日坊主で終わってしまいましたよ」

以前、授業で「韓国語を上達する方法」というテーマで話し合いをしたときに、私が「韓国語で日記を書く」という方法を紹介した。カエ氏はその話に触発されて、日記を書き始めたそうなのだが、やはり続かなかったらしい。

日記を書く、といえば、数日前、妻から聞いた話を思い出した。

妻のクラスを受け持っている文法の先生が、私を最初に見たときの印象を話してくれた、というのである。

私自身は、その先生に教わったことはないのだが、その先生が定期試験の試験監督をしているときに、私をはじめて見かけたという。おそらく、1級か2級の定期試験の時である。

ほかの学生にくらべて歳をとっているので、目立っていたのであろう。

スギ(作文)の試験の時間、教室を巡回していて、私の席の前に来たとき、先生はびっくりしたという。

原稿用紙に向かっている姿が、ほかの学生とは明らかに違う。書いては消し、書いては消し、をくり返し、あたかも、言葉を慎重に吟味しつつ、作文を書いているようにみえた、という。その集中力は、ほかの学生とはくらべものにならなかったのだ、と。

その姿を見た先生は、「この人、大丈夫だろうか?」と思ったという。

というのも、以前、この語学堂でその先生が受け持った、、60歳のおじさんのことを思い出したからである。そのおじさんは、ほかの若い学生たちと同じように、1日4時間の授業をみっちりと受け、毎日の宿題を提出したりして、必死に授業に追いつこうとした。その結果、おじさんはわずか1週間で倒れこんでしまい、その後2度と授業には出なかったという。

この人(つまり私)も、根をつめすぎて、やがてそうなるのではないか、と心配したというのである。

60歳のおじさんとくらべられるのも心外だが、私の方は幸い、1年間、倒れずにやってこられた。

自分で自分の姿を見ることができないので、実際、どのような姿で原稿用紙にのぞんでいたのかはわからないが、あるいは鬼気迫るものがあったのかも知れない。

この話には苦笑せざるをえないが、思いあたることもある。

先日、5階の教員研究室で、ひとりでスギ(作文)の試験を受けたときのこと

1時間ほどかけて、作文が終わり、顔をあげた。

机のまわりを見渡して驚いた。

ものすごい量の、消しゴムのカスである。

自分でも知らず知らずのうちに、書いては消し、書いては消し、をくり返していたのだ。

「書き終わりましたか」といいながら私のところにやってきた先生も、その消しゴムのカスの量を見て、「あら!」と言いながら少しひいていた。

ふだんはずぼらな私も、文章を書いているときだけ、集中しているのだ。

ひょっとして私は、「何か」を削るようにして、文章を書いているのかも知れない。

たとえて言えば、棟方志功が命を削るようにして版画を彫るように。

…ま、そんな立派なものではないか。

いずれにしても、私が勝負できるのは、やはりその部分だけかも知れない、と気づく。

あらためてカエ氏に答える。

「同じ語学の勉強でも、人によって得意、不得意、てものがあると思うんですよ。私の場合、マラギ(会話表現)は、どうやったって上達しませんから、スギ(作文)に力を入れようと思うんです。だから、得意な分野で勝負すればいいんじゃないですか」

「なるほど。そうですね。じゃあ私の場合は、トゥキ(リスニング)かな」

さて、言ってはみたものの、この方法が、語学の上達に功を奏するかどうかは、わからない。

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変わりゆく彼ら

11月9日(月)

素直でまじめなチュイ・エンピン君が、希望していた大学の造景学科に合格した。

造景学科とは、いわゆる造園学科のことらしく、造園の仕事をすることが、彼の昔からの夢だったらしい。

そのチュイ・エンピン君が、休み時間に缶コーヒーを大量に買ってきて、教室に持ってきた。

全部は持ちきれず、ヨジャ・チングのチゥイエン・チエさんと手分けして持ってきた。

文法の先生が、「それ、どうしたの?」と聞くと、彼は、

「大学に合格したので、みんなにおごろうと思って」

と答えた。

日本の感覚では、大学に受かった人は、お祝いをされる方なのだが、こちらではどうもそうではない。めでたいことがあった人が、ほかの人におごる、という習慣があるようである。

中国でもそうなのかどうかわからないが、彼はその習慣を忠実に実行したのである。

あたたかい缶コーヒーをいただく。肌寒い日だったので、しばらく手に持って手をあたためた。

缶コーヒーで手をあたためながら、韓国に来たばかりの頃の彼ら(中国人留学生たち)のことを思い出す。

1級の頃の彼らは、とんでもない連中だ、と思った。教室に入っても挨拶をするわけでもなく、礼儀も何もあったものではなかった。

彼らには、そもそも挨拶する習慣がないのだ、と誰かに聞いたことがある。本当かどうかはわからない。

でも、今はどうだろう。私に会えば必ず「アンニョンハセヨ」と挨拶してくれる。

彼らには、間違いなく「アンニョンハセヨ」と挨拶する習慣が身についたのだ。

韓国独特の礼儀の文化にも、慣れてきたということだろう。

それと、もう一つ、嬉しいこと。

それは、パンジャンニム(班長殿)のロンチョン君が、おそらく私の影響からか、韓国語で日記をつけはじめたことである。

彼のことだから、いつまた飽きてしまうかはわからないが、少しでも続けて欲しい、と思う。

欲を言えば、少しでも多くの留学生たちに、この習慣が広がれば、とも思う。

ひとつ前の日記で私は、韓国へ来てひどく落ち込んだ、というような書き方をした。

しかし私は、決して絶望したわけではない。

少しずつでも変わりゆく彼らを見ていると、絶望してなんかいられない。

やはり励まされているのは、私の方なのだ。

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「韓国語が下手ですね」

TOPIK(韓国語能力試験)で、4級に合格した。

TOPIKは、初級、中級、高級に分かれ、さらに初級の中に1級と2級、中級の中に3級と4級、高級の中に5級と6級がある。

受験者がたとえば、「中級」の試験を受けたとすると、そのうち、平均点が70点以上とった人が4級に合格し、50点以上とった人が3級に合格する、ということになっている。

つまり、4級とは、中級の上の方、ということで、いわば「中の上」といったところである。

4級を持っていれば、韓国の大学や大学院にはいることができる能力を持つ、と認められるので、4級をとることは、多くの人びとにとって、ひとつの目標でもある。

昨年12月から韓国語の勉強をはじめて、9カ月で4級をとるのは、我ながらすごいことだと、自画自賛する。しかも、40歳のアジョッシである、ということを考えても、やはりすごいことである。

だが、実のところ、嬉しさも半分、いや、それ以下、といったところである。

先日の調査旅行でのこと。

調査の休憩時間に、ある韓国人の先生が、私に質問した。

「どのくらい韓国にいらっしゃるのですか?」

「昨年の12月ですから、…ほぼ1年です」

「1年ですか。それにしては韓国語が下手ですね。どうしてなんです?」

一瞬、言葉を失う。

韓国の社会では、外国人が少しでも韓国語を喋ると、必ずといっていいほど「韓国語が上手ですね」と言われる。そう言われることによって、喋る方も、自信がつく、というものである。

私は、この習慣を、とてもいいものだと思っていた。

ところが、今日お会いしたこの先生は、実に素朴に、「1年もいるのに、どうしてそんなに韓国語が下手なんですか?」と、なんの悪気もなくお聞きになったのである。

たしかに私の韓国語は、ものすごく下手である。同じ時期にソウルに滞在している20代の大学院生の方は、わずか半年で通訳ができるまで韓国語が上手になっている。それにくらべて、私の韓国語ときたら、本当にたどたどしいし、文法的にも間違いが多い。

「年齢が年齢ですから」と答えるのが精一杯で、あとは、その時どう対処したか覚えていない。

質問した人があまりに無邪気に質問しただけに、こちらのショックも大きい。

1年間勉強してきたことは、何だったんだろう。結局、あれだけ勉強しても、韓国語がほとんどできない人、と思われているんだな。

一気に、やる気が喪失したのであった。

さて、話は、先週の水曜日にさかのぼる。

夜、大学で、「マラギ大会」があったので聞きに行った。外国人留学生によるスピーチ・コンテストである。

予選を通過した14人が、壇上で、5分程度、韓国語でスピーチをする。テーマは、「韓国!韓国人!」

外国人から見た韓国や韓国人について話すというもの。

さすが、本選だけあって、みんなとても流暢である。私などは、とても太刀打ちできない。

ところが、話の内容は、となると…

内容が全くない。内容が全然ないのである。

何人かのスピーチを聴いていて、あることに気づく。

みんな、「見た目」がいいのだ。

女性はみんなきれいだし、スタイルもいいし、服装のセンスもよい。

男性も、基本的にはイケメン(死語)である。

ある程度、見た目がよくないと、本選に残れないんだな、ということに気づく。

予選に、ビデオ審査というものがあったことにも、納得した。

ひとりだけ、とても印象に残った発表があった。

他大学の、在日3世の留学生である。

自分のハルモニ(おばあさん)のために、在日韓国人と韓国との橋渡しになろう、と、韓国の大学に留学した彼は、来てみて、韓国人の、在日韓国人に対する意識の低さに驚愕する。

自分の故郷だと思ってやってきた韓国が、実はそうではなかったのだ。

そのことに気づいた彼は、煩悶する。自分の故郷は、日本でも、韓国でもない。では、どこにあるのだろう。故郷と呼べる場所が、自分にはあるのか?

彼は、いまの気持ちを、実に率直に話した。

見た目は、チャラチャラしたあんちゃん、といった感じだったが、彼の「告白」ともいえるスピーチに、私は引き込まれた。

決して流暢な韓国語ではなかった。留学して8カ月。たぶん、私とほぼ同じくらいのレベルだろう。

だが、ほかの誰よりも、胸をうつ発表だった。

さて、結果発表。

1位は、モンゴルから留学した、修士課程の女子学生。

容姿も美人で、韓国のアナウンサーなみの発音であった。

2位は、中国から留学した女子学生。

美人でスタイルがよく、スカートの横のところが割れているチャイナ・ドレスを着ての発表だった。

私は、この結果に驚愕した。

なぜならば、私には、2人のスピーチの内容が、まったく記憶に残らなかったからである。

彼らが、何を話したのか、まったく印象に残らなかったのである。

ここへきて、ようやく知る。ははあん。このスピーチコンテストは、見た目がよくて、発音がよければ、優勝できるのだ、と。その程度の大会だったのだ、と。

私が審査員だったら、在日韓国人の彼を間違いなく推しただろう。なぜなら、スピーチとは、小手先の技術ではなく、何を伝えたいかである、と考えるから。

でも、この大会の審査員のおじさんたちは、そうは思わなかった。審査員を務めた、大学教授のおじさん(なぜか審査員は全員男!)たちは、彼のスピーチには、心を動かされず、内容がなくとも発音がきれいで美人でスタイルのよい人を、誉め称えたのだ。

しかも、大学教授ともあろう人が、である。

この結果は、私の語学に対する自信を、大いに失わせるものであった。たとえたどたどしくとも、伝えたいことがあれば、相手に響くのだ、という信念は、この国には通用しないのだ、ということがわかり、絶望した。

私は、いったい何のために1年近くもの間、韓国語を勉強してきたのだろう。

私はこの国を理解できるだろうか?

私のウツな気分は、この出来事がきっかけとなって始まったのである。

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師弟

数週間前、日本にいる研究仲間のAさんが怪我をした。

夜、自転車に乗っていて転んでしまい、頭を強く打ったという。

病院に運ばれた時は、脳に出血が見られ、記憶がない状態だったという。

一時は脳への後遺症の恐れも心配したが、その後、驚異の回復をみせた。

いまではほとんど問題ないようで、韓国でのこのたびの調査にも元気な姿を見せた(おでこの絆創膏がまだ少し痛々しかったが)。

ご一行は、11月1日(日)に韓国に到着したが、私が合流したのは、2日(月)の夜だった。

今回の韓国との共同研究の代表者である、わが師匠をはじめ、何人かの方と、久しぶりにお会いする。Aさんとも、お会いできた。

ところが、Aさんの師匠にあたる、B先生の姿が見えない。

B先生は、今年度1年間、研究のための長期休暇のために、ソウルに滞在しておられる。今回の共同研究を、実質的に担っておられる先生である。私もふだんから、大変お世話になっている。

当然、今回の調査にもいらっしゃると思っていたのだが、その姿が見えない。

うかがったところ、この日(2日)、急遽日本に戻られたという。

というのも、ここ最近、B先生は、過労のため、意識を失いかけたことが何度かあったという。ひょっとして、脳疾患の可能性があるかも知れない、ということで、日本に戻って、精密検査をすることになった、というのである。

研究のための長期休暇なのに過労、というのも変な話だが、ふだんのB先生のお忙しさを考えると、ここ最近、かなり疲れがたまっているだろうということは容易に想像できた。

それにしても心配である。私の韓国留学の精神的支柱でもあるB先生に、もしものことがあったら…と考えると、不安である。

B先生とAさんは、師弟関係である。

韓国の大学では、教授と学生との差が歴然としている。だから、学生は「教わる分際」であり、教授は師である、という意識が強い。

だから、教授が学生に丁寧語を使うことはまずありえないし、学生も教授に対して最大限の敬語を使う。

日本の場合はどうか。韓国ほど、両者の関係は歴然としていないように思う。むろん、学生を子ども扱いする横柄な輩(教授)もいるが、そういう教授が学生からも同僚からも高い評価を得ないことは、いうまでもない。

B先生は、学生をひとりの研究者として尊重する。だから、時に敬語を使うこともある。逆に、ひとりの研究者として、対等に議論することもある。

寡黙なAさんは、B先生の実直な研究姿勢と、学問に対する厳格な態度を、ずっと間近に見てきた。B先生の厳しい学問的姿勢に、必死に食らいついてきた、といってよい。

師弟関係、とは、どんなものだろう。

尊敬と反目、愛情と憎悪、継承と克服、さまざまな感情がうずまく。きっと、第三者には知り得ない、複雑な感情がそこにはあるのかも知れない。

さて、翌日(3日)の朝、私たちは清州からソウルへ移動した。B先生から、検査の結果、どこも異常がなかったので、これから韓国に戻って、調査に合流する、と連絡があった。

まったく、研究の虫である。

そして、午後4時過ぎ、B先生が私たちの調査場所に到着した。

私たちは、B先生が無事「帰還」されたことを、心から喜んだ。

「これで、やっと全員が揃ったな」

研究代表者であるわが師匠は、そうつぶやいた。

そして4日(水)。共同調査が終了し、午後、ご一行は、ソウルを出発して空港に向かった。

Aさんは、少し遅い便の飛行機で帰るということで、B先生や私と一緒に残って博物館を少しの時間見学した。

夕方、Aさんの帰国の時間となり、3人が博物館を出る。

Aさんはリムジンバスで空港へ。B先生は地下鉄でソウルのご自宅へ。そして私は、ソウル駅からKTXで大邱へ。

博物館の門を出たところで、Aさんが、師匠であるB先生に挨拶する。

「では、リムジンバスの停留所に行きますので、ここで失礼いたします」

「けが…もう大丈夫なんですか?」と先生。

実直な先生は、弟子のAさんに対して敬語で話す。韓国の師弟関係では、絶対に考えられないことである。

別れ際にけがのことを聞く、というのも、B先生らしい。

「ええ、もう大丈夫です」

「お大事になさってください」

「先生の方こそ、…どうかお大事になさってください」

ふだん、必要以上のことをお話ししない師弟の、どことなくぎこちない挨拶。

でも、このたびの調査旅行ほど、お互いの健康を気遣ったことはないだろう。

私には、その気遣いが、ぎこちなくて不器用な挨拶から、十分に感じ取れた。

そして2人は、それぞれ反対の方向に歩き始めた。

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討論試験・2回目

11月2日(月)

なんとなくウツな状態が続くが、それでも予定はこなさなければならない。

日本から、わが師匠をはじめとするご一行が、調査のためお越しになる。昨日韓国入りし、今日から調査なのだが、私の方は、今日は月曜日恒例の「単語試験」と、マラギ(会話表現)の時間に「討論試験」があるため、午前中の語学の授業に出たあと、合流することにした。

今日の後半のマラギの授業。今学期2度目の討論試験である。

例によって、2つの主題が提示される。

ひとつは、「子どもを育てられない親が、外国に養子に出すことは是か非か」

ふたつめは、「CCTV(監視カメラ)の設置場所を拡大することは是か非か」

これには少し、説明が必要かも知れない。

韓国では以前、経済的に子どもを育てることが難しい親が、アメリカなど、外国へ、自分の子どもを養子に出す、ということがよく行われていたらしい。そういえば、韓国のドラマなどでもそういう話がけっこう出てくる。

CCTVとは、韓国の町中でよく見かける監視カメラのことである。韓国では、道路やお店など、町のあちこちにこの監視カメラが設置されている。言ってみれば監視カメラ社会なのである。後者の主題は、その拡大の是非を問うもの。

いずれも、日本人にとってはあまりなじみのない話かも知れない。

例によって、最初の1時間は、4~5人のグループで集まって、それぞれの主題の賛成の立場、反対の立場から、どんな意見が考えられるかを話し合う。

とくに前者の養子の話、というのが、なじみがないだけに難しい。

賛成の立場としては、経済的に貧しい家だと、十分な教育を受けられないから、養子に出すことは当然である、などの意見が出る。

反対の立場としては、養子に出された先が必ずしも子どもにとって幸せなところとはかぎらない、などの意見。

そこで思い出したのが、日本のドラマであった「おしん」。

厳密にいえば養子に出すのではなく、奉公に出す話なのだが、貧しい親が、子どもを奉公に出した先が、子どもにとって過酷な場所であった、という話。

「日本には昔、そういうドラマがあった。だから、必ずしも養子に出された先がよいところとはかぎらない」と、私は中国人留学生たちに紹介する。

私の韓国語が拙いし、ドラマの内容もわかりにくいので、彼らには伝わらなかったかも知れない。

さて、2時間目、いよいよ討論試験の本番である。

前回と同様、くじを引いて、自分が、どの主題の、どの立場の討論者になるかを決める。

私は、「養子は是か非か」の、「賛成」の立場で、討論をすることになった。

3対3で、ひとつめの主題の討論が始まる。

討論の最中、思い出したことがあったので、発言。

「養子に出されたことで、十分な教育を受けることができ、その子どもが大人になってから成功する、という事例があります。韓国のドラマを見ても、そういう話がけっこう出てきます。たとえば、私が見たドラマのなかで、『ホテリアー』というのがあるんですが、そこでは、アメリカに養子に出されたペ・ヨンジュンが、努力して成功して、実業家になる、という話が出てきます」

すると、反対の席にいたリ・チャン君が発言。

「でも、一方で、日本ではこういうドラマがあります。貧しい父母が、子どもを養子に出したけれども、その養子に出した先で十分な教育を受けられず、過酷な仕事ばかりをさせられるという…」

前の時間に私が話した、「おしん」の話ではないか。

ちゃんと伝わっていたのだな。

しかも、私が提供した話が、まさか私に対する反論として使われるとはね。シニカルで頭のよいリ・チャン君ならではの反論である。

思わず苦笑する。

20分ほどたち、討論は終了。

気持ちがなんとなくウツのため、前回ほど意見を述べなかった。もう少し発言すればよかったかな、と後悔するが、仕方がない。

授業が終わり、午後、バスで清州(チョンジュ)というところに向かい、日本からいらしたご一行と合流した。

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タプサ・7回目

10月31日(土)

恒例のタプサの日。

今回の場所は、慶尚南道の昌原(チャンウォン)というところ。

いつも通り、朝8時半に出発して、夜9時に解散。

14名ほどが、2台の車で移動した。

特筆すべきことはないので、この辺で。

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