フンブとノルブ
11月12日(木)
むかしむかし、フンブとノルブという兄弟がいました。
兄のノルブは、親から引き継いだ財産を独占し、弟のフンブを家から追い出しました。フンブは、貧しい生活を強いられながらも、兄を恨まず、10人の子どもに恵まれました。
あるとき、フンブは怪我をしたツバメの子を助けました。翌年の春、そのツバメは、恩返しに瓜の種を持ってきました。、フンブが瓜の種を植えると、大きな実がなり、その瓜を切ると、中から金銀財宝が出てきて、フンブは幸せに暮らすことができました。
さて、その話を聞いた兄のノルブは、自分も同じようなことをします。ツバメの子の足をわざと傷つけてけがをさせ、治療をして、ツバメに無理やり恩を売りました。
翌年春、そのツバメがノルブのもとに瓜の種を持ってやってきました。
ノルブはしめしめと思い、その種を植えると、大きな実がなりました。しかしその瓜を切ると、中から出てきたのは、金銀財宝ではなく、大きな化け物でした。
ノルブはその化け物に財産を奪われ、貧乏になりました。ノルブはフンブにこれまでのことを侘びて、フンブと一緒に暮らすことになったとさ。めでたしめでたし。
「フンブとノルブ」という、韓国人なら誰でも知っている有名な昔話である。
善良で慎ましいフンブが最後には成功し、欲張りなノルブが最後は没落するという話は、昔話によくあるパターンである。
2週間ほど前だったか、マラギ(会話表現)の授業で昔話を取り上げたとき、たしか私がこんな発言をした。
「日本に、『さるかに合戦』という話があります。この話は、さるにひどい目にあったかにが、仲間を集めてさるに復讐する、という話です。子どものころ聞いたときには、さるが悪者で、かにがいい者、みたいに思っていたんですが、大人になってみると、必ずしもそうではない、と思うようになりました」
こんなに上手くは言えなかったが、こんな感じのことを言った。
実はこれは、以前、あるラジオDJが言っていたことである。
さるかに合戦、実はあの話をよくよく考えると、絶対的な正義なんてものはなく、誰でもヒーローになれるし、誰でも嫌なやつになる。善悪に絶対的なものなどないのだ、と読みかえることができる、というのが、そのラジオDJの仮説。
巧みな話術を再現できないのが残念だが、私はこの話がえらく気に入っていた。
で、もう少し考えてみると、私たちが子どものころに聞いていたさるかに合戦は、さるが悪者であるかのように、巧みに情報操作されていたり、誘導されていたりしていたのではないか。同じ出来事を、表現を少し変えるだけで、実は猿はそれほど悪くない、という物語に仕立てることもできる。
たとえば、さるが、かにが持っているおにぎりを柿の種と交換するとき、
「そのおにぎりくれよ。この柿の種を育てたらすごい柿がなるからさ」
と言う。昔話では、さるがかにを騙したように描写するが、実はこの時点で、猿は嘘をついていない。実際、大きな柿の木がなるのである。
同じ事実でも、どの立場で描くかによってまるで違ってしまう。あたりまえの話だが。
子どものころに「勧善懲悪」として聞いていた昔話だが、実は、善悪とはあざなえる縄の如し、なのである。
そんな意味で、「さるかに合戦」を引き合いに出して発言したのであった。
するとマラギの先生は、わが意を得たり、みたいな感じになり、
「そうですね。実はフンブとノルブの話も、見方を変えれば、フンブにも悪いところがあり、ノルブにもいいところがある、ということになるんです。たとえば、フンブは貧しい生活を強いられた、とあるけど、裏を返せば、お金を稼ぐための努力をしなかった、ということでしょう。ノルブは、欲深いと言われているけれど、お金を儲けて、それを維持する方法を知っていた、ということになるんです。つまり、フンブよりもノルブの方が生きる知恵や力がある、という肯定的な評価もできるのです」
とおっしゃった。
私はそれを聞いて、「ん?ちょっとニュアンスが違うかな?」と思ったが、まあこちらの語学の問題もあったので、それ以上は何も言えなかった。
さて、今日。
後半の授業で、スギ(作文)の試験が行われた。
作文の課題を見て驚いた。
「フンブとノルブの話を、観点を変えて考えると、フンブとノルブに対して正反対の評価をすることができます。どのような評価ができるかを理由をまじえながら書きなさい」というもの。
2週間前の話が、そのまま試験問題になっているではないか。
心なしか先生は、「どうですか、いい問題でしょ」といった雰囲気を出しておられる。
穿った見方をすれば、2週間前に私が話したことに触発された先生が、作文の課題としてふさわしいと思い、この問題を作ったのではないか、とも思える。
自意識過剰かも知れないが。
後半の2時間の授業のうち、前半の1時間は、作文を書く前の準備の時間である。みんなで話し合って、フンブの良い点と悪い点、ノルブの悪い点と良い点をあげてゆく。
いままで「善」として評価されていたフンブに「悪」の部分はないか、一方、いままで「悪」として評価されていたノルブに「善」の部分はないか、をみんなであげてゆく。
先生を含め、みんなが得意になっていろいろとあげてゆくが、私はなんとなく憂鬱である。
このモヤモヤは何だろう。
結局、「善悪」の二元論でこの昔話を読み解こう、とする短絡な方法に、ちょっとついていけなかったからかも知れない。
私があの時に言いたかったことは、少し違っていた。
たとえば物語では、「兄のノルブは、親の財産を独占して弟に渡さなかった」とあるが、長子相続が制度として存在していた時代の話だったのであれば、単純な欲心から独占した、とは言い切れなくなる。
この微妙なニュアンスを、韓国語で伝えるためには、あとどれくらい勉強すればよいのだろう。
後半の1時間はいよいよ試験の本番。多少の違和感を感じながらも、設問の意図や条件に即した作文を書くことに徹することにした。
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