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師弟

数週間前、日本にいる研究仲間のAさんが怪我をした。

夜、自転車に乗っていて転んでしまい、頭を強く打ったという。

病院に運ばれた時は、脳に出血が見られ、記憶がない状態だったという。

一時は脳への後遺症の恐れも心配したが、その後、驚異の回復をみせた。

いまではほとんど問題ないようで、韓国でのこのたびの調査にも元気な姿を見せた(おでこの絆創膏がまだ少し痛々しかったが)。

ご一行は、11月1日(日)に韓国に到着したが、私が合流したのは、2日(月)の夜だった。

今回の韓国との共同研究の代表者である、わが師匠をはじめ、何人かの方と、久しぶりにお会いする。Aさんとも、お会いできた。

ところが、Aさんの師匠にあたる、B先生の姿が見えない。

B先生は、今年度1年間、研究のための長期休暇のために、ソウルに滞在しておられる。今回の共同研究を、実質的に担っておられる先生である。私もふだんから、大変お世話になっている。

当然、今回の調査にもいらっしゃると思っていたのだが、その姿が見えない。

うかがったところ、この日(2日)、急遽日本に戻られたという。

というのも、ここ最近、B先生は、過労のため、意識を失いかけたことが何度かあったという。ひょっとして、脳疾患の可能性があるかも知れない、ということで、日本に戻って、精密検査をすることになった、というのである。

研究のための長期休暇なのに過労、というのも変な話だが、ふだんのB先生のお忙しさを考えると、ここ最近、かなり疲れがたまっているだろうということは容易に想像できた。

それにしても心配である。私の韓国留学の精神的支柱でもあるB先生に、もしものことがあったら…と考えると、不安である。

B先生とAさんは、師弟関係である。

韓国の大学では、教授と学生との差が歴然としている。だから、学生は「教わる分際」であり、教授は師である、という意識が強い。

だから、教授が学生に丁寧語を使うことはまずありえないし、学生も教授に対して最大限の敬語を使う。

日本の場合はどうか。韓国ほど、両者の関係は歴然としていないように思う。むろん、学生を子ども扱いする横柄な輩(教授)もいるが、そういう教授が学生からも同僚からも高い評価を得ないことは、いうまでもない。

B先生は、学生をひとりの研究者として尊重する。だから、時に敬語を使うこともある。逆に、ひとりの研究者として、対等に議論することもある。

寡黙なAさんは、B先生の実直な研究姿勢と、学問に対する厳格な態度を、ずっと間近に見てきた。B先生の厳しい学問的姿勢に、必死に食らいついてきた、といってよい。

師弟関係、とは、どんなものだろう。

尊敬と反目、愛情と憎悪、継承と克服、さまざまな感情がうずまく。きっと、第三者には知り得ない、複雑な感情がそこにはあるのかも知れない。

さて、翌日(3日)の朝、私たちは清州からソウルへ移動した。B先生から、検査の結果、どこも異常がなかったので、これから韓国に戻って、調査に合流する、と連絡があった。

まったく、研究の虫である。

そして、午後4時過ぎ、B先生が私たちの調査場所に到着した。

私たちは、B先生が無事「帰還」されたことを、心から喜んだ。

「これで、やっと全員が揃ったな」

研究代表者であるわが師匠は、そうつぶやいた。

そして4日(水)。共同調査が終了し、午後、ご一行は、ソウルを出発して空港に向かった。

Aさんは、少し遅い便の飛行機で帰るということで、B先生や私と一緒に残って博物館を少しの時間見学した。

夕方、Aさんの帰国の時間となり、3人が博物館を出る。

Aさんはリムジンバスで空港へ。B先生は地下鉄でソウルのご自宅へ。そして私は、ソウル駅からKTXで大邱へ。

博物館の門を出たところで、Aさんが、師匠であるB先生に挨拶する。

「では、リムジンバスの停留所に行きますので、ここで失礼いたします」

「けが…もう大丈夫なんですか?」と先生。

実直な先生は、弟子のAさんに対して敬語で話す。韓国の師弟関係では、絶対に考えられないことである。

別れ際にけがのことを聞く、というのも、B先生らしい。

「ええ、もう大丈夫です」

「お大事になさってください」

「先生の方こそ、…どうかお大事になさってください」

ふだん、必要以上のことをお話ししない師弟の、どことなくぎこちない挨拶。

でも、このたびの調査旅行ほど、お互いの健康を気遣ったことはないだろう。

私には、その気遣いが、ぎこちなくて不器用な挨拶から、十分に感じ取れた。

そして2人は、それぞれ反対の方向に歩き始めた。

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