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2009年12月

お正月映画

12月30日(水)

慶州から戻り、映画を見ることにする。

306191_232145_735カン・ドンウォン主演の「ジョンウチ」。タイトルになった「ジョンウチ」とは、カン・ドンウォンが演じる、朝鮮時代の道士(道術使い)の名前である。

妻がカン・ドンウォンのファンだ、ということと、以前に見た、同じ監督の映画が、けっこう面白かったというので、期待できるだろう、ということで、見に行く。

私は例によって、主役よりもむしろ、脇役に目がいってしまった。

とくに私が以前から注目している、ユ・ヘジンは、主役を食ってしまうほどの迫力ある演技だと、私は思う。そして敵役のキム・ユンソクは、さすがの風格である。

「神仙」役として、3人の頼りないオッサンが登場するが、どう見てもあれ、「踊る大捜査線」のオッサン3人組を意識してるよな、と、勘ぐってしまう。いくらかは影響を受けているんじゃないだろうか。

映画の感想については、…特になし!

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送年音楽会

12月29日(火)

数日前、携帯電話にメールが来た。

「慶州・贍星台前のマリオ・デル・モナコです。12月29日(火)夜8時半から音楽会があります。みなさんに幸せをお届けします」

9月に慶州に行ったときに立ち寄った、喫茶店からのメールである。

その喫茶店のオーナーがテノール歌手で、キャッチフレーズが「顔でおす声楽家」、つまり、顔にインパクトのある声楽家である、ということは、前に書いた。

その喫茶店を切り盛りしている、声楽家の奥さんにお話をうかがうと、音楽会じたいが、面白くて評判なんです、というので、今度演奏会があったらぜひ連絡をください、とお願いしておいたのである。

夜8時半開始、ということは、おそらくその日のうちに大邱には戻れないので、慶州に1泊しなければならない。ちょっと面倒だな、と思いつつも、せっかく声をかけていただいたんだし、こんな機会、もうないだろうと思ったので、バスに乗って1時間かけて、慶州に向かうことにする。

喫茶店に到着すると、ふだんはテーブルと椅子が置かれているスペースに、所狭しと椅子が並べられている。

椅子に座って、前を見ると、テノール歌手が歌うであろう舞台のところが一段高くなっていて、奥にはピアノが置いてある。

私たちが着いたのが午後8時頃。その時は、まだほとんど客もおらず、ピアノがあるスペースのところで、テノール歌手の方が、今晩歌う歌を練習していた。

練習スペースがないので仕方のないことなのだが、これから聞く歌の、練習まで聞けるとは、幸運というべきか。

さらに驚くことがあった。

それは、ピアノが置いてあるさらにその奥に、トイレがある、ということである。

言ってみれば、舞台上の奥壁のところに、トイレの扉があるのである。

客席から見れば、舞台のど真ん中にトイレの扉が常に見える状態になる。

トイレに行きたければ、舞台に上がって、舞台の真ん中を突き進んでいかなければならない。

それに、ひとたび演奏が始まってしまえば、トイレに行くことはできなくなる。

そのことに気づいた妻は、演奏中にトイレに行けなくなる不安に駆られたのか、2度ほど、舞台を突っ切ってトイレに入った。

そのたびに、歌の練習をしている歌手の横を通ることになる。

なんで、舞台の上にトイレなんか作っちゃったんだろう。

さて、開演の8時半が近づくと、お客さんが次から次へと入ってきて、たちまち、喫茶店の中はいっぱいになる。

おそらく、そのほとんどが、近所の人たちである。そして、小学生くらいの小さな子どもたちが、かなり多い。近所の寄り合いみたいな雰囲気である。

今回は、4人のテノール歌手が、交代で、4曲ずつ歌を歌う。プログラムを見ると、同じ大学の音楽学科を出た同門の人たちらしい。

まさに、今宵は慶州の「4大テノール」の競演である。

夜8時半、「顔でおす声楽家」の司会で、演奏会が始まる。

「演奏が始まりますと、奥のトイレは使えません。トイレに行きたくなったら、外に出てしてください」と軽い笑いをとる。

「では、音楽会を開演します」

一人目のテノール歌手が舞台に登場。

「大丈夫かなあ」と妻が私に耳打ちする。

「何が?」

「だってまだ、トイレにひとり入ってるよ」

そんな妻の心配をよそに、テノール歌手の歌が始まった。

さて、トイレに入った人は、どうするのだろう。

歌が盛り上がってきたところで、歌手の真後ろにある、トイレのドアが開いた。

中からアジュンマ(おばさん)が出てきた。

アジュンマは、ソローリソローリと客席に戻ろうとするが、舞台には、朗々と歌い上げているテノール歌手が立ちふさがっていて、客席に戻ることはできない。

あっちをウロウロ、こっちをウロウロしつつ、結局、舞台袖にはけた。

ミスタービーンのコメディを見ているような光景である。

さて、肝心の音楽会の方は、というと、間近で聞くテノールの響きは、やはりすばらしい。ふだん、音楽会などに行かない私にとっては、なおのこと印象的である。

当然のことながら、4人が4人とも違う個性を持っていて、十分に楽しめる音楽会であった。

ひとりが、数分の曲を2曲ずつ歌っていくのだが、それだけでもかなりの体力を使うのではないか、と聞いていて思う。

歌が始まってしまえば、歌手は孤独である。誰も助けてはくれない。体力やのどの調子を常に整えておかないと、わずか数分の曲でも、思わぬミスをすることがある。

「テノール歌手は大変だね」と私が妻に言うと、

「テノール歌手に限ったことじゃないじゃない」と即答される。

それはそうだ。音楽家や役者なんかはみんなそうだ。もっといえば、教師などもそうだろう。

10時10分。音楽会が終了する。ささやかだが、楽しい演奏会だった。「そのままお帰りにならずに、コーヒーを飲んでいってください」と、司会の「顔でおす声楽家」兼、この喫茶店のオーナー。

そうだ、ここは喫茶店だったのだ。

並んでコーヒーをもらいにいったとき、そこにいたオーナーの奥さんに、ご挨拶した。

「あの、この前の9月に来た日本人です。音楽会の連絡をくださってありがとうございます」

日本語がペラペラの奥さんは、はて?、という顔をされた。

私のことは、まったく記憶にないらしい。

ま、当然といえば当然だよな。9月に1度来ただけだから。

音楽会が終わった喫茶店は、もう完全に近所の寄り合いのような状態に化していた。

居心地の悪くなった私たちは、コーヒーを1杯だけおかわりして、喫茶店を出ることにした。

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毎週月曜日は、特別講義

12月28日(月)

毎週月曜日の午後、私の研究室に掃除のアジュンマ(おばさん)がやってきて、研究室の掃除をしてくれる。

このアジュンマ、とても話し好きである。

床を掃いて、机の上を拭いて、ゴミ箱にたまったゴミを捨てる。わずか5分もあればできるこれだけの作業も、30分以上かかるのである。

理由は、「話をしている間、手が止まる」から。

さらに悪いことに、このアジュンマが喋っていることが、私には、ほとんど聞き取れない。

独特のサトゥリ(訛り)があるためかも知れないが、なにより、話のプロではないので、話題があちこちに飛んだり、外国人にはわからない表現をふつうにしたりするので、とにかく聞いていて、よくわからないのだ。

だが、先方は、私がほとんど聞き取れていると思っているらしく、嬉々としてお話になる。

しかも私が「ふん、ふん」と、おとなしく聞いていることに気をよくしてか、毎週、必ず何か話題を用意しているようなのである。

例えば、先日は、「柿」をテーマにしたお話。韓国の柿についてひとしきりお話になったあと、「柿といえば、韓国には柿にまつわる昔話があるんですよ」という。

「聞いてみたいですね」と私。

そこから、柿にまつわる昔話が始まるのだが、これがまったく聞き取れない。どんな話なのか、皆目わからないのである。わずかに聞き取れたのは、「柿」という単語と、「虎」という単語。どうも柿と虎にまつわる話らしい。

そして今日もまた、掃除のアジュンマの特別講義が始まる。

「学者さん、というのは、ひとつのことを深く勉強するのでしょう。それも大事だけれど、いろいろなことを広く知ることも大事ではないかしら」

「はあ」

「昔、ある立派な学者さんが、マッチの擦り方を知らなかった、なんてことがあったんですよ」

「そうですか」

「まあ、それは極端な例ですけど、でも、もっといろいろなことを広く知らないと」

「そうですね」

ここから、アジュンマはなぜか、「多国籍企業の問題点」についての話をはじめた。

「多国籍企業の進出のせいで、世界の国々には貧しい人びとが増えてしまったんですよ」とアジュンマ。

どうも、昨日、その手の本を読んだらしい。

さらにアジュンマの講義は、「韓国の農業政策の問題点」へと続く。

「いま、韓国の農業政策は危機的状況にあるんです。政府も、農業政策を軽視している!でも、韓国の農家たちは、声を上げようとしないんです!」

はあ、はあ、と聞くしかない。

「もっとそういうことについて考えてもらわないと!」

え?私が…?何で?

ひとしきりお話が終わると、「ゴミを捨ててきます」と、ゴミ箱のゴミを持って外へ出ていく。

30分にわたる講義が終わり、ホッとする瞬間である。

この講義、あと何回続くのだろう。そして帰国の日までに、ちゃんと聞き取れることができるようになるだろうか。

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タプサ・8回目 ~土器探し名人に挑戦!~

12月27日(日)

先生や大学院生のみなさんと、8回目のタプサ(踏査)である。今回は、マサン(馬山)、コソン(固城)地域をまわる。

コソンの、とある古墳群に到着したときのことである。

その古墳群は、まだ未整備の状態で、どちらかといえば荒野、と呼ぶにふさわしい場所である。

到着するやいなや、本日の踏査に参加されていた、あの「土器探し名人」の目が輝く。

「土器探し名人」の方は、古墳群の中を、目を光らせながら歩きまわる。先生が説明をされている間も、その方の目は、つねに地表面に注がれているのである。

で、私はというと、その「土器探し名人」の行動を目で追い始める。私の目は、完全にその方の行動に「ロックオン」されてしまった。

見ているうちに、よし、私も負けないぞ、と闘志がわいてきた。私も下を向いて、土器を探し始めた。

するとほどなくして、足もとに土器のかけらがあることに気づく。

拾い上げると、それに気づいた「土器探し名人」がササッと私のところに寄ってきた。

「これは土器のふたの部分ですね」と名人。

すると先生もそれに気づき、

「5世紀末から6世紀初め頃のカヤの時代の土器だね」

と推測なさる。

たしかに、かけらではあるが、見事な土器のふたである。

「これはきっと、日本に帰る前の、贈り物ですよ」と、大学院生たちに言われる。

ひととおり見学が終わり、一行は、車のあるところに戻るが、「土器探し名人」は、まだあきらめずに、地表面をにらみながら土器を探している。

ド素人の私に先を越されたことで、「名人」としての血が騒いだのかも知れない。

すると最後の最後に、「見つけた!」との声。

「名人」はその土器を拾い上げると、私のところに駆け寄ってきた。

「(さっきの土器のふたと時代が)同じ頃の、土器の側面の部分ですね」

そういって、土器を私にみせた。

それを見て驚いた。

私が見つけたかけらよりも、はるかに大きくて、立派なものである。

「名人」の面目躍如、といったところか。

こころなしか、「名人」も安堵の表情を浮かべていた。

さすがは「名人」であった。

…さて、このタプサが終わり、大邱に戻って、いつものようにみんなで夕食を食べることになった。

しかし、これ以降の出来事を、私はまったく覚えていない。

年内最後のタプサということで、忘年会もかねて、安東焼酎だの、中国の度数の高いお酒を飲むことになったのだが、調子よく飲んでいるうちに、いつの間にかよくわからなくなって…。

気がついたら、猛烈に痛い頭を抱えながら、家で寝ていた。

妻がいたから、なんとか帰ってこれたようだ。

二日酔いの朝は、猛烈に死にたい気分になるね。

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クリスマスの夕食

12月25日(金)

韓国では、クリスマスは休日である。

この日、大邱近郊の大学のある先生に、夕食を誘われた。

以前から、いちど食事をしましょう、と言われていたのだが、これまでなかなか機会がなかった。この日、先生のところの碩士(修士)課程の大学院生が、このたび碩士論文を出したので、そのお祝いをかねた食事会に妻とともに呼ばれたのである。

バスに乗って1時間かけて、その大学に到着。夕食のお店は、大学の近くにある鮑専門店である。

碩士課程の大学院生の方と会って驚いた。

日本人の女性の方である。

いろいろお話を聞いてみると、小学校の先生をされていたその方は、定年退職後、韓国語を勉強しに、この大学の語学院に留学した。語学院で1年間勉強をしているうちに、周りの若い中国人留学生たちが、みんな韓国の大学に留学するのをみて、「自分も、韓国の大学で勉強できるかも知れない」と思い、この先生の研究室の門をたたいた、というのである。この先生を選んだのは、同じ女性どうし、ということもあるだろうが、専攻する分野に魅力を感じたことが、何よりの理由だったのだろう。

この気持ち、少しわかる。

私も1年間、語学院で勉強して、中国人留学生たちをみていて、「いまから韓国の大学院に入りなおそうかな」と、一瞬、考えたことがある。だが、韓国では、大学院生になっても宿題が山のようにあり、また、教授と大学院生の差が歴然としているという実態を知ってしまったから、いまからとても大学院生には戻れまいと思い、あきらめたのである。

しかしこの方は、それをやり遂げたのだからすごい。

40歳になって1年間韓国で勉強するなんて、全然たいしたことないんだな、と思い直す。

一緒に食事をした先生、というのもすごい。

フランスやアメリカに留学経験のあるその先生は、とにかく視野が広いし、お話も面白い。聞いていて、「フランスって、面白い国だな」ということを実感させられる。

この先生はまた、エッセイストでもある。先日、エッセイの専門雑誌で新人賞をもらったという。

生まれてこのかた、これほどの量の鮑を食べたことがない、というくらい、美味しい鮑をいただきながら、その先生のお話を聞いて元気をいただく。

数年後には日本に留学したい、とおっしゃったその先生に、「日本にいらしたらいろいろとご案内します」と、お約束した。

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最後の(?)同窓会

12月23日(水)

前学期の4級3班の人たちと、夕食を食べることになった。 参加したのは、文法の先生(担任の先生)、ロンチョン君、リュ・リンチンさん、ウ・チエンさん、スン・ルオトゥンさん、リュ・チウィエさん、ヤン・チャン君、ヤン・ペイル君、チャオウォンウィエさん、ハナさん、そして私と妻。

5時に語学院の地下1階に集合し、大学の近くのサムギョプサル(豚焼肉)の店に行く。

文法の先生は、いま3級のクラスを受け持っておられる。

「4級のときと違って、自分の話す韓国語が、なかなかわかってもらえない」という。

4級の学生たちに話すような感じで、3級の学生たちに話しても、通じないことが多いというのである。

なるほど、そんなものかなあ、と思う。たしかに、先生がまくしたてるようにお話になることが、いまはほとんど聞き取ることができる。

もっぱら話すのは、文法の先生や、ハナさんだが、その話を聞いているだけで楽しい。

じつは昨日、前学期の妻のクラス(5級)の同窓会に参加して、一緒に食事をしたのだが、なんとなくいたたまれない感じがした。やはり、一緒に勉強をした仲間であるか、そうでないか、という違いは、大きいのだろう。

夕食の後、久しぶりにノレバン(カラオケ)に行く。

韓国語の歌を2曲ほど歌うが、これがキーが高すぎて、全然声が出ない。歌詞もあやふやである。無謀な歌に挑戦したのがいけなかった。といって、ほかに知っている歌もない。

対して、班長殿のロンチョン君は、実に上手に韓国語の歌を何曲も歌いあげる。その努力を、少しは勉強に費やせばいいのに、と思う。

それと、文法の先生は、学生時代にバンドでメインボーカルをやっていた、というだけあって、プロ並みの歌唱力である。

2人の歌を聴いてかなり落ち込んでしまい、日本の歌を数曲歌うことにした。

1年も韓国にいるのに、ノレバンで、韓国語の歌をあきらめて、日本の歌を歌うのは、なんとなく屈辱的であるが、まあ仕方がない。

夜10時、ノレバンを出て、解散。 「じゃあ、私はこっちですから。また、会いましょう」と言って、みんなと反対の方を歩き始めた。

すると、ロンチョン君が「미카미씨!」と、大きな声で私の名前を呼んだ。

振り返ると、ロンチョン君は、大きく手を振っていた。

私も、大きく手を振り返した。

この日の、ロンチョン君の韓国語日記。

「미카미 씨,노래 참 잘 부르셨네요.

나도 일본 노래를 좀 배울까?ㅋㅋ

미카미 씨,일본에 돌아가시면 다시 만날 수 있을지도 모르지만

일단 감사 드리고요.

같이 있을 때 너무 기쁘고요.

미카미 씨 덕분에 일기도 자주 쓰더니

이제 쓰기 시험이 많이 쉬워진다고 생각해요.ㅋㅋ」

「미카미 씨、歌、とても上手でした。

僕も日本の歌を習おうかなあ(笑)

미카미 씨、日本に帰った後も、また会うことができるかも知れませんが、

ひとまずお礼を言います。

一緒にいるとき、とても嬉しかったです。

미카미 씨のおかげで、韓国語の日記も書くようにしたら、

いま、作文試験がとても簡単に思えるんですよ(笑)」

なんだ、まるで、今日の同窓会が最後みたいじゃないか。

それで別れ際に、大きく手を振ったのか。

まだ、2カ月、ここにいるんだけどな。

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本気で遊ぶ人びと

12月20日(日)

12月5日(土)の朝9時頃、電話がかかってきた。

「どうも、○○大学のKです」

○○大学とは、先月の終わりに、私の勤務先の大学と、学術交流行事をした大学である。私自身はその交流行事の担当者でもなんでもなかったのだが、同じ大邱に住んでいるという理由で、その学術交流行事に急遽かり出されることになったのである。

1日目の交流行事の空き時間に、ある教授の研究室でお茶をいただいた。そのとき、「隣の研究室に、日本人の先生がいる」ということで、ご挨拶をして、名刺を交わしたのが、このK先生であった。

「突然ですけど、先生(私)の奥さんと、私の妻…、韓国人なんですけどね、に、共通の知り合いがいるんですよ」

なんとも寝耳に水の話である。私はK先生と、自分の専門について、その時に二言三言、会話を交わしたにすぎない。

よく聞いてみると、こういうことであった。その日、K先生がご自宅に帰って、「今日、こんな日本の研究者が来た」と私の名刺を見せた。その翌日、奥さんに、日本の親しい友人から電話がかかってくる。話のついでに、「昨日、夫の大学にこういう人が来たのよ」と、私の名前を出したところ、「その人の奥さんと、知り合いよ!」ということになったらしい。その人は、私の妻と、同じ研究会で勉強した間柄であった。

K先生も、その奥さんも、私たち夫婦とは専門分野が異なっているにもかかわらず、共通の知り合いがいることに驚く。

「そういうわけなんで、うちに遊びに来ませんか」とK先生。

「そうですね。これも何かの縁ですね」

「明日はどうですか?」

ずいぶん、急な話である。

「明日は、別の方と約束があるんですよ」

実際、こちらの大学の先生と、食事の約束をしていたのだった。

「じゃあ、妻と相談して、あらためてこちらから電話します」

「そうしてください。早くいらした方がいいと思いますよ。いまだと、『越乃寒梅』が飲めます。早くいらっしゃらないと、私が全部飲んじゃいますから」

「わかりました。できるだけ早くうかがいます」

そして、今日、ようやく時間ができて、K先生のお宅に遊びに行くことにした。

途中の場所で待ち合わせて、そこから車でご自宅に連れていってもらう。

ご自宅は、八公山のふもとの山里であるという。ご自宅に向かう車の中で、自己紹介がてら、いろいろと話をする。

K先生は、大学で宗教学を専攻された後、ふとしたきっかけで、韓国で日本語を教える先生となった。そこで、韓国人の女性と知り合い、結婚した。奥さんは、日本の古典文学を専攻していて、日本に留学経験もある。妻との共通の知り合い、とは、その時に同じ大学で一緒に勉強した友人、ということらしい。

「妻は、こっちの大学で日本語を教えていたんですけど、数年前に、疲れた、といってやめてしまいました。だからいまは主婦です」

K先生は、韓国に来て20年が経つのだという。

「ひとつ残念なお知らせがあります」とK先生。

「『越乃寒梅』は、私が全部飲んでしまいました」

「そうですか…。その代わりといってはなんですが、私が美味しい日本酒を持ってきました」と私。

先月、日本からお客さんが見えたとき、日本酒好きのその方が、私に大吟醸の日本酒を1本おみやげに持ってきてくれた。今回、私はそのお酒を持ってきたのである。

「そうですか。それは楽しみです」

車がご自宅に到着。山里の一軒家、といった感じである。玄関でK先生の奥さんが出迎えてくれた。

ご自宅は、まるで絵に描いたような家である。

家の中には煉瓦造りの暖炉があり、そこに薪をくべながら暖をとっている。ほら、子どものころ、サンタクロースが煙突から入ってきて、プレゼントをくれる、という絵があったじゃん。煙突のない家にはサンタクロースが来ないんじゃないか、と、子どものころ本気で心配したものだが、まさにサンタクロースが来てくれそうな煉瓦造りの煙突と暖炉。

そして、大きなステレオのスピーカーと、プロジェクタ。「レコード」(CDではない)でクラシックだって聴けるし、大画面で映画を見ることだってできるんだぞ。

聞くと、そもそもこの家は、あるお金持ちが結婚することになったときに、別荘として建てたものなのだそうだが、あっさりと離婚してしまったため、この別荘が手放されたのだという。

なるほど。いかにも山里の別荘、といった趣だ。

そしてこのおしゃれな一軒家で、ビールだの、(鹿児島の)麦焼酎だの、(私が持ってきた)日本酒だのを飲みながら、奥さんが作ってくれたおでんをいただく。久しぶりに日本のおでんの味にふれた。

お酒を飲みながら、いろいろなお話をうかがう。

K先生は、まさに自由人、といった感じで、山里の一軒家に住みながら、ゴルフをしたり、釣りをしたり、家庭菜園をしたり、と、遊びを楽しんでいる人だな、という印象を受ける。

奥さんもまた、実に自由な人である。英語の勉強のために留学しようと、とりあえず片道の飛行機のチケットだけ買って、イギリスに行った話や、長年勤めた大学を、「ちょっと疲れた」という理由でやめてしまった話など、私たちにはとてもまねができないことばかりである。

「そろそろ主婦も飽きてきたので、今度は日本に行って、日本人に韓国語を教える仕事をしようと思うんですよ。唐津(佐賀県)あたりに住もうと思っているんです」

やりたいときに仕事をやり、疲れたらやめて、また仕事をやりたくなったらはじめる…。

「私たちには絶対にまねできないことだね」と妻。

いまの仕事に必死にしがみついている、私と妻には、絶対にできないことだ。

考えたら、私たちには、趣味もなければ、友人もいない。K先生夫婦は、いろいろな趣味を本気で楽しみ、多くのよい友人たちにも囲まれている。

私は、昨日までの「学術」という言葉のむなしさを、あらためて噛みしめた。

気がつくと、夜の9時。お昼の12時にお邪魔してから、9時間が経っていた。

車で、自宅近くまで送ってもらう。

「大晦日はウチでどうぞ。一緒に紅白歌合戦を見ましょう。年越しそばも食べましょう」

別れ際、K先生はそうおっしゃった。

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韓国版「ルパン三世」

12月19日(土)

学会の会場をそそくさと後にした私は、市内で映画を見ることにした。

20091106_1776778 「ホンギルトンの末裔」。

ホンギルトンは、朝鮮時代の小説に出てくるヒーローの名前。盗賊なのだが、欲深い貴族から金品を盗んで懲らしめ、奪った金品を貧しい庶民に分け与えるという、いわゆる義賊である。日本でいうところの、石川五右衛門や鼠小僧次郎吉にあたる。

で、この映画は、その18代あとの子孫が、庶民を苦しめる金持ちから金品を盗んで懲らしめるという現代のお話。

言ってみれば、韓国版「ルパン三世」である。

そう思って映画を見ると、主人公のイ・ボムスは、ルパン三世のような強靱さと滑稽さを兼ね備えたキャラクターを見事に演じているし、彼を追う刑事役のソン・ドンイルは、まぎれもなく「銭形のとっつあん」のキャラクターである。追われる盗賊(イ・ボムス)と、追う刑事(ソン・ドンイル)との間に、奇妙な友情が芽生える、というのも、まさにルパンと銭形との関係だ。

そして、悪役の金持ちを演じるキム・スロは、布袋寅泰にそっくりだ。ま、これはルパン三世とは関係ないが。

痛快アクションコメディとして、十分に楽しめる映画だった。

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学術交流行事と学術大会

12月16日(水)~12月18日(金)

日本の有名私立大学の先生方と大学院生のみなさんが、学術交流プログラムのために、私の通っている大学にいらっしゃった。前回の3月に続き、2度目である。

私自身はこのプログラムにはまったく関係ないのだが、いらっしゃる先生が私の出身大学の所属学科の大先輩ということで、3日間だけ、おつきあいすることになった。

1日目は、韓国と日本の先生方による記念講演会。終わった後に、例によって交歓会と称する食事会に参加する。

2日目、3日目は、日本からいらした方々を連れて、大型バスで周辺地域の踏査である。とくに3日目は、零下6度という極寒の中、遺跡の現場を4箇所見学するという無謀な日程であった。

近年、韓国と日本の大学の間で、学術交流が進められ、さまざまなプログラムが実施されることが多い。最近、そのいくつかを目の当たりにして、大学間の学術交流のかかえている難しさや問題点が、だんだんわかってきた。

…これ以上書くと、まったく面白くない愚痴と悪口になってしまうので、この話はここまで。

12月19日(土)

数日前、私が通っている大学のある先生から、「土曜日に学会の学術大会があるので、ぜひ参加してください。その後、学会のみなさんと一緒に食事をしましょう」というメールが来た。

プログラムを見ると、全体で4つの部会に分かれていて、大きな学術大会のようである。学会じたいも、この地域で古くからある学会のようだ。前日までの3日間で、すっかり疲労していたが、行くことにした。

バスと地下鉄を乗り継いで、会場となる大学に到着。すると、ビックリしたことに、当日の参加者は、1部会あたり10名弱。そのうちのほとんどが、発表者と討論者と司会者だから、ギャラリーは実質、わずか数名、といったところである。さらにビックリしたことに、「土曜日の学術大会に参加してください」と誘っていただいた先生は、会場に来ておられなかったのである。

A部会の報告を2本聞いた後、B部会の報告を1本聞きに行くことにした。B部会で行われる発表は、私の専門分野ではないが、私の興味をひく題目だった。

B部会が行われている教室に行くと、純粋なギャラリーは、私を含めて2~3名といったところか。すでに研究発表も、終わりの方にさしかかっていた。

私は終わりかけの発表を聞きながら、発表原稿の「結語」のところだけ読んで、この発表の趣旨を理解しようとした。

ひととおり、討論者と発表者の議論が終わった後、司会者が、「会場からコメントをお願いします」といって、あろうことか、この私を指名したのである。

発表は、終わりの数分しか聞いておらず、しかも韓国語の内容をほとんど理解していない。司会の先生も、私が何者かをまったくわからずに指名している。

司会者のすぐ横には、この発表の討論者の先生が座っていた。討論者の先生は私のことを知っていたので、どうやら討論者の先生が司会者の先生に、「あの人を指名しろ」とうながしたようである。それで司会の先生は、言われるがままに、私を指名した、というわけである。

仕方がないので、立ち上がり、先ほど急いで読んだ「結語」の部分だけを頼りに、韓国語でしどろもどろコメントを言った。

それにしても、なんという「むちゃぶり」か。

どこの馬の骨ともわからない、韓国語がいっこうにおぼつかない外国人、しかも、専門分野がまったく違う人間に、コメントを求めるとは。

やはりうかつに学術大会なんかに出るものではない。

私は学術大会終了後、そそくさと会場を後にした。

…と、ここまで書いてきてわからなくなってきた。「学術」って、いったい何?

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女優たち

12月15日(火)

調査旅行、学会発表、韓国語による講義と、昨日までの仕事がひとまず終わった。今日くらいは、少しゆっくりさせてもらってもいいだろう。

0vrysknntvag633941337428474843 ということで、市内に出て映画を見に行くことにする。タイトルは、「女優たち」。

2008年12月24日のクリスマスイブ。韓国を代表する6人の女優が、写真撮影のために、一堂に会した。映画は、その写真撮影の待ち時間に起こるさまざまな出来事や、その間に交わされる6人の女優たちの会話をドキュメンタリータッチで描く。

といっても、これは、虚構の設定である。あくまでも虚構の設定なのではあるが、登場する女優たちは、実名で登場し、会話の中で交わされる内容には、彼女たちの実際の人生が織り交ぜられている。まあ、ふだん、女優が集まったときに、どのようなことが起こるのか、というのを、映画的にみせたもの、といってよい。

手持ちのカメラで撮影し、セリフも、すべて自然なしゃべり方で進んでゆく。すっぴんに近い顔が、化粧によって大きく変わっていく様子など、実にリアルに女優たちを映しだしてゆく。

前半は、若干、芝居がかった設定で話が進んでゆくが、後半は、ひたすら6人の女優たちがおしゃべりをする。

そのおしゃべりが、どこまでが台本で、どこまでがアドリブなのかがまったくわからない。実にリアルなのである。そして実に面白い。

私が面白いと思ったのは、ひとりの女優が話しているときの、他の女優の表情である。この会話の中で、自分はどのような表情でのぞめば印象的に見えるのか、どのような表情でこの話を受ければよいのか、といったことを、女優は瞬時に計算している。このことが手に取るようにわかるのである。

たとえば、ある女優が話していて急に泣き出すとする。このとき、ほかの女優は、一緒になって泣くのがいいのか、それとも泣かずに気丈にふるまうのがいいのか、6人の中の自分の役割を、すぐに判断して、それぞれの役割を演ずる。泣くにしても、どのようなタイミングで、どの程度泣くのかなど、その女優がもっとも印象的に映るような泣き方をするのである。

これは、芝居というより、もはや本能である。

その意味でこれは、女優の舞台裏を描いた映画ではない。女優の本能を描いた映画である。

そして、一見、女優の素顔をさらけ出しているようにみせながら、作品じたいに、女優に対する「救い」がみられる。女優にとっても、救いのある映画なのである。

さて、6人の女優は、いずれも韓国では誰でも知っている女優である。といっても、日本ではなじみのない人も多いと思うので、(私の独断と偏見で)日本の女優にたとえつつ紹介する。

ユン・ヨジョン…加賀まりこ

イ・ミスク…夏木マリ

コ・ヒョンジョン…山口智子

チェ・ジウ…松嶋菜々子

キム・ミニ…麻生久美子

キム・オクビン…上野樹里

この映画を見て最後にひとつ思ったこと。それは、「女優とは絶対結婚したくないなあ」ということ。もちろん、そう思わせた女優の勝ちである。私はまんまと騙されているのかも知れない。

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韓国語で講義

12月14日(月)

3週間ほど前のことである。

大邱にある私立大学のある先生から、電話があった。

その先生とは、毎週木曜日の夜に行われている研究会の席で、何度かお会いした先生である。

「今度、うちの大学の学生に向けて特講(特別講義)をお願いしたいんですが。主題は何でもいいです。自由に決めてください」

「時期はいつごろですか?」と私。

「12月です」

12月、というと、来月か。

それにしても、どんな主題でもよい、とは、かなりの「むちゃぶり」である。それに、どんな趣旨で呼ばれて講義をするのかも、よくわからない。

先生が続ける。

「奥さんとお2人でお願いします。講義の時間は50分です」

同業者である妻にも、講義を依頼する、ということらしい。

私が聞く。

「それは2人で50分ということですか?」

「いえ、ひとり50分ということです。ですから合計で2時間の講義です」

そして私は、もっとも気になっていることをたずねた。

「講義は日本語ですればよいですか、それとも韓国語ですか?」

「当然韓国語でしょう。日本語がわかる人は1人もいませんから」

やはり恐れていたことは当たった。韓国語で講義をすることになったのである。この先生は、私の韓国語の能力を買い被っておられるようである。

「ま、大学院生はいないし、対象は大学生なので、簡単に考えてもらえばいいです。細かい内容はあとでメールで送りますから、じゃ」

電話が切れた。

だがその後、まったく連絡がなかった。

どういう趣旨の行事なのか、場所が大学の中のどこなのか、聴講する学生が何人くらいいるのか、など、全然わからない。

韓国では、こういうことが多い。

学会や研究会で発表するときなどでも、当日まで、まったく連絡がなく、会場に行ってみてはじめてその概要がわかる、ということは、よくある。

今回も、「12月14日の午後3時から韓国語で50分講義をする」ということだけがわかっていて、ほかの情報は全くない。

仕方がないので、とにかく50分でまとまるような内容の講義の準備をすることになった。

当然、アドリブなどできるはずもないから、完全原稿に近い形で、原稿を韓国語で作りあげる。しかも、時間的にせっぱ詰まっているので、ネイティブの人によるチェックなど、お願いすることもできない。

おりしも、調査旅行や学会発表の時期とも重なっていて、時間を見つけては原稿作成にとりかかる。

前日は、実に8時間以上も喫茶店に居座って、原稿作りとパワーポイントづくりに追われた。

(休日に、まる1日使って、何でこんなことをやっているんだろう…)と、泣きたくなってきた。

そして、翌日。すなわち今日。

午前中、助教の方から、ようやく連絡が来て、「2時半までに、師範大学(日本でいうところの教育学部)の4階の事務室に来てください」という。

「学生の数は何人ですか?」

と聞くと、

「60人くらいです」

と答えた。

地下鉄とバスを乗り継ぎ、1時間以上かけて、約束の時間に大学に到着。担当の先生方と少し話をする。

どういう趣旨の特講なのか、と聞くと、「実は大学評価の関係上、どうしても日本人の先生による講義をやる必要が生じて」ということらしい。

要は、アリバイづくりのためね。

そして3時。いよいよ講義が始まった。

前半50分は妻の講義。そして後半50分は、私の講義。

パワーポイントを使用しながら、用意した原稿をもとに講義する。

50分、あっという間に終わった。50分間、韓国語で話しきった!

学生たちが、どの程度理解できたのかはわからない。

でも、私にとっては満足な講義だった。

なにしろ、1年前には考えもしなかった、韓国語による講義ができたのだから。

なにより、大きな自信につながった。

しかし、韓国語の講義は、いきなりできたわけではない、と思い直す。

語学院での3分マラギ、そして、修了式での発表。その積み重ねの結果であることを実感する。

講義をしながら、気がついたこと。

聞いてくれる学生の姿を見るのは、やはり楽しい。

それは、日本も韓国も同じだ、ということがわかった。

私は、ふだん無愛想で、人と話をするのが苦手だが、大勢の人の前で話すのは、実はあまり嫌いではない。

それは、聞いている学生の姿を見るのが、好きだからだろう。

久しぶりに講義をして、そのことを思い出した。

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消えた携帯電話

12月9日(水)から、日本からいらした先生方と、調査旅行である。前日の8日(火)に、釜山で合流、前泊し、2日間で釜山、慶州、扶余をまわる。そして、10日(木)の晩にご一行とお別れし、11日(金)に行われる学会発表のため、群山に向かうことになっていた。

ハードな調査旅行もいよいよ大詰めの10日(木)、扶余での調査が終わり、博物館の先生方との夕食のあと、事件が起こった。

私が夜7時5分の群山行きの最終バスで移動するため、みなさんより早く夕食会場をあとにし、ある先生の車で、バスターミナルに向かう。

夕食会場から、バスターミナルまでは、車でわずか10分のところである。

バスターミナルの切符売り場で、最終バスの切符を買って、送っていただいた先生とお別れをしたあと、あることに気づく。

携帯電話が、ないのである。

いつも入れているシャツの胸のポケットに、携帯電話がない。あわてて、ほかのポケットをすべて探すも、やはり見あたらない。

カバンに入れた可能性は全くないから、どこかに落としたとしか考えられない。では、どこに落としたのだろう。

必死になって記憶をたどると、先ほど、夕食会場から車で送っていただいているときに、メールの着信音が鳴ったことを思い出した。

その時、私は反射的に胸ポケットから携帯電話をとりだして、メールの主を確認した。メールの主は妻だったので、「あとでゆっくり読めばいいや」と思い、その携帯電話を…。
はて、そのあと、その携帯電話をどうしたのか、まったく思い出せない。

ポケットに入れたつもりが、どこかに落としてしまったのだろうか。

いずれにしても、バスターミナルまでの移動の車の中では、まだ携帯電話はあった、ということになる。

夕食会場から車に乗ったのが、6時40分頃。バスターミナルに着いたのが、6時50分頃であるから、わずか10分足らずの間に、携帯電話を落としたことになる。

そして、考えられるのは、送っていただいた車の中で、携帯電話を落としたという可能性である。

そのことに気づき、あわてて、バスターミナルの外に出たが、すでに送っていただいた車は、夕食会場に戻ってしまっていた。

さらに厄介なことに、知り合いの電話番号は、すべて携帯電話の中に入っているので、誰にも連絡をとることができない。

夕食会場のお店の名前すらわからない。

1人だけ、その夕食会場に居合わせていたIさんの携帯電話番号を控えていたことを思い出す。あわてて公衆電話をさがして、Iさんに電話する。だが、Iさんは、「電話をとらない」ことで有名な人であった。この時も、その噂どおり、電話をとる気配が全くない。

(どうしよう…)

冷静に考えれば、自分の携帯電話にかけて、出てもらった人に届けてもらえばよいのだが、その時は、そんなことを考えもしなかった。

携帯電話がなくなってうろたえたのには、理由がある。

この日の午前中、電話があった。明日の学会で通訳をしてくれる、同じ大学に留学中の大学院生(日本人)の方からである。

「さっき、学会の幹事の先生から電話があって、群山での宿を予約していただいたそうです」

実は群山で行われる学会については、それがどこで行われるのか、とか、何時から発表なのか、とか、発表時間はどのくらいなのか、といったことを、まったく知らされていなかった。その上、前泊の宿は、自分でおさえるのか、あるいは予約していただいているのか、といったことも、まったく知らされていなかった。

いままで何度もそういう経験はしてきているのだが、ここまで放置プレイ、というのもめずらしい。

仕方がないので、学会のホームページを探し出して、当日の学会の場所と日程だけは、知ることができた。

だが、宿については、まったく連絡がなかった。

それが、前日の午前中になって、ようやく連絡が来たのである。

「で、ホテルは何というところなんですか?」

私がその大学院生の方に聞く。

「それがわからないんです。群山のバスターミナルに着いたら、また連絡をくれって」

「でも、先方の携帯電話番号を、私は知らないんですよ」

そう、私は、その幹事の先生の電話番号すら知らないのだ。

「実は私も知らないんです。先方はどうも職場の電話からかけているみたいで…。じゃあ、先方の携帯電話を聞いてみますので、わかりましたらまた電話します」

夕方になって、再びその大学院生から電話が来た。

「群山へは何時頃到着しますか?」

「扶余から7時5分の最終バスに乗ります。1時間半くらいかかるそうなので、8時半頃になると思います」

「そうですか。私も大邱からバスに乗ると、ちょうどそのくらいの時間になるので、じゃあバスターミナルで待ち合わせて、一緒に移動しましょう。なにしろ、バスターミナルに着いたら連絡しろ、ということだったので」

相変わらず、宿泊先は教えてくれなかったらしい。

いま思えば、この夕方の電話が、不幸中の幸いだった。

もし、バスターミナルで待ち合わせましょう、という約束をしていなかったら、私は未知の群山という田舎町で、途方に暮れていたことだろう。

それにしても、携帯電話がないのは何とも困る。

(どうしよう、扶余に1泊して、携帯電話を探そうか…)

と、本気で考えたが、この最終のバスに乗らなければ、明日朝の学会発表には間に合わない。

後ろ髪を引かれる思いで、群山行きの最終バスに乗る。

携帯電話をなくしたまま、未知の土地、群山に向かう。

群山は、韓国の西のはずれの港町である。

バスの乗客は私を含めて2人。外は真っ暗で、あまりにもさびしい。

おまけに外は雨。本当に無事着くのだろうか、バスターミナルで、大学院生の方と会うことができるのだろうか、などと心配事ばかりがつのり、涙が出てきた。

おりしも、今日、移動中の車の中で、ある先生が「最近、モノをよくなくす」という話をなさっていた。

「でもまあ最近は、モノをなくしても、命を落とすことにくらべればまだマシだ、と思うようにしてますよ」と先生。

何とも大げさな、と、その時は笑ったが、いまとなっては、その言葉で自分を慰めるしかない。

8時半過ぎ、群山のバスターミナルに到着。大学院生の人が先に来ていて、なんとか路頭に迷わずに済んだ。

無事、宿泊先にも到着。幹事の先生ともお会いする。

「これから、K所長がちょっと遅れていらっしゃるそうなので、K所長がいらしたら軽く一杯やろうとのことでした」と幹事の先生。

K所長は、私に今回の学会発表の機会を与えてくださった方で、日頃から私のことをよく気にかけていただいている方であった。ある研究所の所長で、この業界では、重鎮である。

K所長が来るなり、私はお願いした。

「実はひとつお願いがあるんです。ここに来る前に、扶余で携帯電話をなくしまして…」私は、この間の事情をK所長に説明した。

K所長は、扶余の夕食会場に居合わせたIさんと親しい。

「わかった。じゃあ電話をかけてIさんに電話してみよう」

電話をかけるが、やはりIさんは出ない。

「あいつ、チング(友だち)なのに、何で電話に出ないんだ?いつもこうなんだよな」

やはり、Iさんが「電話に出ない」という話は本当だった。

続いて、私の携帯電話にも電話をかけてもらうが、呼び出し音が鳴るだけで、誰も電話に出る気配がない。

「明日、またかけてみよう。とりあえずビールを飲もう」と、その日は12時過ぎまでK所長とビールを飲んだ。

ホテルに戻り、携帯電話がないことへの不安に、猛烈に襲われる。

韓国で携帯電話をなくす、とは、日本以上に、日常生活に支障をきたす。

なぜなら、携帯電話があるおかげで、予定を前もって詳細に知っておく、という必要がないからである。

わからないことがあれば、その場で携帯電話で連絡をとればなんとかなる、と考えられている。

だから、詳細な連絡をあらかじめする必要がないのだ。

だが、逆にいえば、携帯電話がなければ、何もわからない、ということになる。

なにしろ、妻の携帯電話番号も控えていなかったので、妻に連絡することもできない。

ホテルの部屋にあるパソコンから、妻にEメールを出す。日本語が打てなかったので、ハングルでのメールである。

ただし妻は数日に一度程度しか、メールチェックをしないので、このメールがはたして読まれるかどうか…。

そして、韓国語の日記に「携帯電話をなくした!もう生きていけない」という趣旨の日記を書いた。

さて、翌日。

朝10時から学会が始まる。私は一番手の発表。無事終わる。

午前中の発表が終わり、昼食の時間になって、ふたたびK所長のところに行った。

「すいません。ほかでもない、昨日の携帯電話の件なんですが…」

「おう、そうだったそうだった。Iさんに連絡してみよう」

電話をかけるが、やはりIさんは電話に出ない。

「あいつ、どういうつもりなんだ…」

さすがのI所長も呆れ顔である。

それでも、なんとか、昨日車に乗せていただいた先生に直接連絡をとることができ、車の中を探してもらうように頼んだ。

しばらくして、その先生からI所長のもとに電話が入る。

車の中を探したが、携帯電話はなかった、とのことだった。

「どうしたものかねえ」

「あるいは」と、私が言う。

「車を降りて、扶余のバスターミナルの切符売り場で切符を買ったときに、手に持っていた携帯電話を横に置いたまま、忘れてきた可能性もあるかも知れません」

私が言うと、K所長は「そうか」といって、どこかに電話をかけた。

「どうしたんですか」と聞くと、

「扶余にいる知り合いの研究仲間に、『いまからバスターミナルに行って、切符売り場に携帯電話が落ちていなかったか聞いてこい』と頼んだ」とおっしゃった。

なんと、扶余にある研究所の研究員の方まで巻き込んで、私の携帯電話捜索活動が始まったのである。

まったく、なんということか。

そもそもK所長といえば、この業界のかなりの有力者。顔も強面で、そのスジの人、といっても不思議ではないくらいの感じである(失礼!)。それだけに、情も厚い、ということなのか。それにしても、そんな業界の有力者に、私の中古の携帯電話を探してくれ、と頼み、多くの人を巻き込んでしまうこの私も、そうとう面の皮が厚い。

しばらくして、K所長のもとに電話が入る。

結局、バスターミナルにもなかった。

もはや打つ手なし、である。

学会発表を最後まで聞いて、最終のバスで、大邱に戻る。夕方6時20分に群山からバスに乗り、大邱についたのが10時20分。4時間の長旅だった。

家に戻り、妻に「メール見た?」と聞く。

「ついさっき見た」との返事。「それより、今朝、ロンチョンから携帯にメールが来たよ」

妻に来たメールの内容は、「韓国語の日記を見たら、携帯電話をなくしたって書いてありました。だから、連絡がとれなくても、心配しないでください」というもの。ロンチョン君が、私の韓国語の日記を見て、心配して、妻にメールをくれたらしい。

まったく、どこまで気が利くやつなんだろう。

「どうせいつだって、電話をとらないから、べつに心配なんかしてないんだけどね」と妻。相変わらず口が悪い。

パソコンを開いて、自分の韓国語の日記をみると、ロンチョン君から、昨日の日記にコメントが入っていた。

「携帯電話をなくしたからって、心配しないでください。僕の携帯電話番号は010-○○○○-○○○○、チェ先生の携帯電話番号は010-××××-××××、キム先生の携帯電話番号は、010-△△△△-△△△△です。何か困ったことがあったら連絡ください。ちなみにキム先生は、午前11時に授業が終わります」

「それから、奥さんの電話番号は、010-□□□□-□□□□です。これから、絶対に記憶しておいてくださいよ!」

個人情報がだだ漏れのコメントだが、私は彼の優しさに感謝した。

翌日、携帯のショップに行って、新しい(?)中古電話を買う。電話番号は、そのままである。

新しい電話から最初にメールを出した相手、もちろん、ロンチョン君である。

「新しい電話を買ったよ。いろいろ心配をしてくれてありがとう」

すると、10秒で返事が来た。

「来週、みんなでご飯食べましょう。いつがいいですか?」

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石橋を叩いて渡る

12月8日(火)

語学院でお世話になった先生お二人と、食事をご一緒する。

お一人は、妻が半年間習った「恩師」。

もうお一人は、4級のときのマラギの先生(よくモノをなくす先生)。この先生には、妻も1学期間だけ習っていた。

そして、その先生のナムジャチング(ボーイフレンド)も参加して、総勢5名で、八公山のふもとにある、雰囲気のよい韓定食の店に行く。

妻の「恩師」とは、授業で習ったことはないのだが、語学教育のプロ、というべき先生で、一度、授業を受けてみたかった先生である。

その先生はいま、5級クラスで文法を教えていらっしゃる。4級時代のチングたちが、いま、この先生のもとで学んでいる。

いま授業では、韓国のことわざについて、教えていらっしゃるという。

「ことわざって、経験がないとなかなか覚えられないみたいなんですね。一度でもそれに近いことを経験していれば、ことわざを実感して早く覚えられるんだけれども、若い子たちは、あまり経験がないから、ことわざを覚えるのがしんどいみたい」と先生。

先生が続ける。

「そうそう、ことわざで思い出したけれど、今日の5級の授業で、『石橋を叩いて渡る』ということわざを教えたときに、『このことわざのような経験をしたことがありますか』と聞いてみたんですよ」

「すると、学生の1人が手をあげて、『미카미씨が・・・』と言い出すんです」

ここで私の名前が出てきた。

「『この前、미카미씨と一緒に八公山に登ったとき、絶対に雨が降らない、という日なのに、미카미씨が傘を持ってきたんです』って。『それと、電子辞書も持ってきていたんです』とも言うんですよ」

ここで、思い出す。先日の同窓会登山のときのことである。

私があまりに大きなリュックを背負っていたので、「中に何が入っているんです?」と、「よくモノをなくす先生」に聞かれた私が、リュックの中から、折りたたみ傘と、電子辞書をとりだした。

「今日は、雨が降らないでしょうに」と先生。

「でも、万が一、ということもありますから」と私。

「で、電子辞書は?」

「わからない単語が出てきたときのために…」

先生を含めた、チングたちは呆れ顔。妻は「いつもこうなんです」と、ため息をついた。

その学生は、そのことを思い出したらしいのである。

「で、その学生は、誰なんです?」と、先生に聞くと、

「クォ・チエンさんですよ」と先生がお答えになる。

3級時代のパンジャンニム(班長殿)、クォ・チエンさん。

なるほど、クォ・チエンさんの観察力をもってすれば、私のリュックの中身のことは忘れずに覚えていただろうな。

「で、クォ・チエンさんがそのことを言うと、まわりの人も、『そうだそうだ』ってことになって、ひとしきり미카미씨の話題で盛り上がったんですよ」

同窓会登山に参加した人はごくわずかだと思うのだが、ほかに私を知っている人が便乗して盛り上がった、ということなのだろう。

(まだ、忘れられていなかったんだな…)と、少し嬉しくなる。

彼らにとっては、晴れの日でも傘を持ち歩き、登山のときでも電子辞書を持ち歩く、という私の癖(へき)、というか、病(やまい)のおかげで、「石橋をたたいて渡る」ということわざを覚えることができたのである。ちょっとニュアンスは違うような気もするのだが。

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接客商売

12月6日(日)

私は、接客の仕事をしたことがないので、これがどのくらいすごいことなのか、あるいはすごくないことなのか、わからない。

郊外にあるアウトレットモールに、久しぶりに買い物に行った。前回に行ったのが、9月の後半くらいだったから、2カ月半ぐらい経っている。

日曜日ということもあって、ものすごい数のお客さんである。この地域でもかなり有名なアウトレットモールだということもあり、当然といえば当然である。

私は、いろいろと見てまわるのが面倒になり、前回ズボンを買った店で、またズボンを買うことにした。

その店でズボンを見ていると、店員さんが近寄ってきて、

「サイズはわかりますか?」

と聞いてきた。

うっかり、前に買ったズボンのサイズを確認してくるのを忘れてきたので、

「よくわかりません」

と答えると、

「前に、ズボンを3着まとめて買ったお客さんですよね」

と店員さんが言った。

「ええ」と私が答えると、

「やっぱりそうですね。でしたら、お客さんのサイズは、これです」

といって、私のサイズに合うズボンを指さした。

言われるがままに、そのズボンを試着してみると、これがピッタリである。

私が驚いたのは、2カ月以上も前に来た客がズボンを何着買って、その人のサイズが何である、ということを、その店員が、記憶していたという事実である。

連日、これほどたくさんのお客さんがひっきりなしに出入りしているにもかかわらず、である。

こんなことは、接客商売ではあたりまえのことなのだろうか?

それとも、私がとりわけ印象的な人物だったのだろうか?

ひとつ言えることは、「悪いことはできない」ということ。仮に私が犯罪を犯して、警察がその店に聞き込みにきたときに、店員さんは、「ああ、この人なら、○月×日にズボンを3着買って行かれましたよ。サイズは○○でした」と、こと細かに証言することだろう。

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天才は、ふつうの人

12月6日(日)

むかし、故・中島らも氏が、「(私立の名門)灘高に入ってよかったことは、本物の天才を間近に見ることができたこと」と言っていた。いや、正確に言えば、上岡龍太郎氏が中島らも氏から聞いた話として語っていたのを、テレビで見た。

らも氏が、数学の授業中、あまりに退屈だったので、隣の席の友だちに、「おい、どっか遊びに行かへんか」と耳打ちする。

隣の席でドイツ語の原書を読んでいたその友だちは、本をとじて、黒板の方を見る。「よっしゃ、まかしとき」と言うと、その友だちは、数学の先生に、いま解説している数学の問題の矛盾点について、手をあげて質問した。

すると先生は、その質問を聞いて、じっと考え込んだあげく、

「今日は自習!」

と言って、教室を出ていってしまったという。

ちょっとわかりにくい話か?まあいい。

この稼業をしていると、ごく稀に、「天才だなあ」という人に出会うことがある。

で、いままで「天才だなあ」と心底思った人を思い起こしてみると、実は意外と「ふつうの人」である場合が多い。

「天才は、えてして変人である」というイメージが多くの人にはあるのかも知れないが、たいていの場合、天才ではなく、たんなる変人にすぎないことが多いような気がする。

また、「大」学者然としている先生ほど胡散臭い人はいないだろう。自分を「大」学者であろうと誇示する人は、当然、天才なんかではない。天才は、そんなことをしなくとも、まわりが認めざるを得ない存在だからである。

「本当の天才」とは、実は意外に「ふつうの人」なのではないか、というのが、私の仮説。

今日一緒に食事をしたK先生も、「この人、天才だなあ」と感じる先生の1人である。

K先生は、専門分野は異なるが、私とほぼ同世代の研究者で、以前、私の出身大学に留学して、その大学で学位をとられた。

中国の大学で教鞭を執られた経験もあり、来年1月からは、アメリカで1年間勉強するのだという。

つまり、日本語、中国語、英語がペラペラなのである。

もちろん、天才なのは語学だけではない。本職の研究分野でも、気鋭の研究者として、注目されている。

そのイメージから、どんなにすごい人なんだろう、と思っていた。

実際にお会いしてみると、これが実に「ふつうな感じ」の人である。

もっと驚いたことがある。

その先生は、まくしたてるように早口でお話になるのだが、その韓国語が、ほぼすべて聞き取れるのである。

不思議なもので、語学を勉強していると、話している内容がまったく聞き取れない人と、どんなに早く話しても聞き取れる人がいることに気づく。

たぶん、日本語の場合でもそういうケースがあるのだろうが、日本語の場合は、自分の頭の中で瞬間的に言葉を補って理解できるため、さほどその違いを感じないのに対して、外国語の場合は、その違いが、かなり鮮明にあらわれる。

K先生の場合、どんなに早口でお話になっても、そのお話の内容がほぼ理解できるのである。

なるほど、頭のよさは、そういうところにあらわれるのか、と納得した。

さて、K先生がアメリカに発つ前に、一度、食事をしましょう、ということになった。

で、K先生のナンピョン(夫)もまた、私の出身大学に留学した経験があり、いまは、ソウルの有名な大学の先生をしておられる。

週末に大邱に来るというので、K先生夫婦と、私ども夫婦で、昼食をご一緒することになったのである。

K先生のナンピョン(夫)もまた、一見して「ふつうの人」である。だが、お話ししていると、やはり、天才だなあ、と思う。

食事をしながらいろいろとお話ししているうち、夫婦が同業者である点、大学の先輩後輩の関係であった点、勤務地が離れているために「週末婚」である点など、共通点が多いことに気づく。挙げ句の果てに、夫婦間の年齢差がまったく同じである点もわかり、ビックリする。

しかし決定的に違うのは、夫婦2人ともが天才である、という点である。

食事をしながらも、さりげなく学問的な話になるのだが、そこでされる質問が、かなり鋭くて、答えに窮するものばかりである。とくに困らせているつもりではなく、さりげなくそういう質問が出るというのがすごい。

話せば話すほど、自分の愚鈍さが明らかになっていくわけだが、といって、それによってこっちがひどく落ち込む気持ちになるわけでもない。そんなことも突き抜けるほどのすがすがしさを感じるのである。

天才2人、いや、私の妻も含めると天才3人に囲まれて、いたたまれなくも心地よい2時間を過ごしたのであった。

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学術大会事情

韓国では、日本にくらべて、「学術大会」「学術会議」と呼ばれる行事が多いような気がする。

いわゆる「学会」とか、「シンポジウム」とかいうものだが、これが、ビックリするくらいの頻度で行われているのである。

ひとつ特徴的なのは、「学術会議」「学術大会」なるものが、平日に行われる場合がけっこう多い、ということである。

大学主催の「学術大会」も、平日のまる一日を使って、行われることが多い。

これは、日本ではまったく考えられないことである。

なぜなら、日本の大学では、平日は、教員が授業だの、会議だのに追われているため、「学術大会」のような催しを、贅沢にもまる一日使って行うことなど、絶対にありえないことだからである。

ところが韓国では、平日に学術大会を実施することに、何の障壁もないようである。

しかも、1つの学問分野につき、週に1回くらいのペースで、韓国のどこかで「学術大会」が行われている。

当然、研究者の数は限られているものだから、同じ人が、毎週のように、発表者、あるいは討論者として、壇上に上がることになる。

いつも不思議に思うのだが、そういった先生方は、いつ、発表の準備をしているのだろう?それに、授業準備は、いつしているのだろう?というか、授業は、いつしているのだろう?

さまざまな疑問がわく。

ひとつ言えることは、バカ正直にいろいろな学術大会に参加していると、それだけに時間がとられてしまい、自分の勉強がおろそかになってしまう、ということである。

12月3日(木)

慶州で、学術会議があるので、ぜひ参加してください、と、ある先生に言われる。韓国での指導教授も発表なさるとのことだったので、二つ返事で参加することにした。

ところが、この学術大会、具体的にどんなテーマでやるのか、いっさい聞かされていない。

その先生に聞けばすむ話だったのかも知れないが、なんとなく聞きそびれてしまった。

断片的な情報を手がかりに、インターネットで情報を探すが、まったくヒットしない。

でもまあ、指導教授が発表されるのだから、まったく関係ないテーマではあるまい。

ということで、当日、その場所に行くまで、どんなテーマで行われる学術大会なのか、まったく知らなかった。

これもまた不思議な話だ。日本であれば、事前にどんな内容のシンポジウムなのかを確認して、自分の関心に近ければ参加する、というのがふつうである。

だが、こちらではそんな悠長なことは言ってられない。とにかく、参加することに意義があるのである。

さて、その場所に行って驚いた。私の専門分野とは、かなりかけ離れたテーマである。

当然、韓国語の発表を聞いても、ちんぷんかんぷんである。

「場違いだったな」と気づいたときにはすでに遅い。「学術大会」のあとの、晩餐にまで参加させていただき、(あまり関係ないのに申し訳ないな…)と思いつつ、夕食をいただく。

そう、「学術大会」には必ず、晩餐がつく。これも、日本では考えられない特徴である。

この日の昼、大学院生の知り合いから電話がかかってきた。

「明日、うちの大学で、国際学術大会があるんです。とても重要な大会なので、ぜひ出席してください。ときに、今晩、予定はあいてますか?」

「いま、学術大会で慶州にいるんですよ。おそらく、こちらで晩餐があるので、戻るのは夜遅くになると思います」

「そうですか。実は今晩、明日の発表者の先生方との懇親会が予定されていて、それにも参加してほしい、と思ったんですが」

「でも、そういったわけで無理です」

「そうですね。では、明日の学術大会には、ぜひ出てください」

「いろいろと用事があるので、どうなるかわかりませんが、時間があけばのぞこうと思います」

明日、大学で開かれる、という学術大会も、やはり自分の専門分野とはだいぶかけ離れたテーマである。

しかも、朝9時から夜6時まで、まる一日行われる。当然、そのあとは晩餐だろう。

となると、まる一日、自分の専門分野とは関係の薄い学術大会のために、時間を割かなければいけなくなる。

かかえている仕事が多いことを考えると、できれば避けたいな、と思ったのだが、ひごろお世話になっている先生が中心的に関わっている学術大会なので、参加しないわけにはいかない。

ということで、2日連続で、自分の専門分野とはかけ離れた「学術大会」に参加することになった。

12月4日(金)

朝9時、学術大会の会場に向かう。

主催者の先生と挨拶すると、

「会が終わったあとの晩餐にも出席しなさい」

と言われる。

肝心の学術大会の方は、やはり自分の専門分野とは異なる分野の話だったため、ちんぷんかんぷんである。

途中、自分の仕事のために中座するが、午後も引き続き、難解な発表や討論を聞くことになった。

夕方6時に会が終わり、用意されたバスで、晩餐会場である市内のホテルに向かう。

専門分野の異なる先生方なので、知り合いはほとんどいない。

(いつもながら、「おまえ、誰だよ?」みたいに見られて、気まずい感じになるだろうな…)

と、いつもの被害妄想をふくらませつつ、ホテルに到着すると、ある事件が起こった。

学術大会とはまったく関係のない女性がひとり混じっていて、晩餐会場に居座っている、という。

晩餐会は、主催者の先生方と、発表者、討論者の先生方、それに、関係者のみが参加できる。

(驚いたことに、この日、実際に学術大会の準備に汗をかいていた大学院生すら、この会場で一緒に食事をすることはできない。やはり、教授と学生の間には、厳然たる区別が存在しているのだ!)

ところが、その女性は、そのどれにも該当しない女性だ、というのである。

その女性は会場に居座って頑として出ようとしなかったため、最終的には、警察を呼んで連れ出してもらう、という騒ぎにまで発展した。

おそらくただで夕食がいただけることに目をつけたのではないか、と、一連の騒動を見ていた出席者の先生方が笑いながら推測した。

この騒ぎを見て、思う。

この晩餐会の中でいちばん関係のない人間は、実はこの私なのではないか、と。

まったくの専門外の人間である私は、主催者の先生のご厚意に甘えつつ、晩餐を美味しくいただいたのであった。

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