天才は、ふつうの人
12月6日(日)
むかし、故・中島らも氏が、「(私立の名門)灘高に入ってよかったことは、本物の天才を間近に見ることができたこと」と言っていた。いや、正確に言えば、上岡龍太郎氏が中島らも氏から聞いた話として語っていたのを、テレビで見た。
らも氏が、数学の授業中、あまりに退屈だったので、隣の席の友だちに、「おい、どっか遊びに行かへんか」と耳打ちする。
隣の席でドイツ語の原書を読んでいたその友だちは、本をとじて、黒板の方を見る。「よっしゃ、まかしとき」と言うと、その友だちは、数学の先生に、いま解説している数学の問題の矛盾点について、手をあげて質問した。
すると先生は、その質問を聞いて、じっと考え込んだあげく、
「今日は自習!」
と言って、教室を出ていってしまったという。
ちょっとわかりにくい話か?まあいい。
この稼業をしていると、ごく稀に、「天才だなあ」という人に出会うことがある。
で、いままで「天才だなあ」と心底思った人を思い起こしてみると、実は意外と「ふつうの人」である場合が多い。
「天才は、えてして変人である」というイメージが多くの人にはあるのかも知れないが、たいていの場合、天才ではなく、たんなる変人にすぎないことが多いような気がする。
また、「大」学者然としている先生ほど胡散臭い人はいないだろう。自分を「大」学者であろうと誇示する人は、当然、天才なんかではない。天才は、そんなことをしなくとも、まわりが認めざるを得ない存在だからである。
「本当の天才」とは、実は意外に「ふつうの人」なのではないか、というのが、私の仮説。
今日一緒に食事をしたK先生も、「この人、天才だなあ」と感じる先生の1人である。
K先生は、専門分野は異なるが、私とほぼ同世代の研究者で、以前、私の出身大学に留学して、その大学で学位をとられた。
中国の大学で教鞭を執られた経験もあり、来年1月からは、アメリカで1年間勉強するのだという。
つまり、日本語、中国語、英語がペラペラなのである。
もちろん、天才なのは語学だけではない。本職の研究分野でも、気鋭の研究者として、注目されている。
そのイメージから、どんなにすごい人なんだろう、と思っていた。
実際にお会いしてみると、これが実に「ふつうな感じ」の人である。
もっと驚いたことがある。
その先生は、まくしたてるように早口でお話になるのだが、その韓国語が、ほぼすべて聞き取れるのである。
不思議なもので、語学を勉強していると、話している内容がまったく聞き取れない人と、どんなに早く話しても聞き取れる人がいることに気づく。
たぶん、日本語の場合でもそういうケースがあるのだろうが、日本語の場合は、自分の頭の中で瞬間的に言葉を補って理解できるため、さほどその違いを感じないのに対して、外国語の場合は、その違いが、かなり鮮明にあらわれる。
K先生の場合、どんなに早口でお話になっても、そのお話の内容がほぼ理解できるのである。
なるほど、頭のよさは、そういうところにあらわれるのか、と納得した。
さて、K先生がアメリカに発つ前に、一度、食事をしましょう、ということになった。
で、K先生のナンピョン(夫)もまた、私の出身大学に留学した経験があり、いまは、ソウルの有名な大学の先生をしておられる。
週末に大邱に来るというので、K先生夫婦と、私ども夫婦で、昼食をご一緒することになったのである。
K先生のナンピョン(夫)もまた、一見して「ふつうの人」である。だが、お話ししていると、やはり、天才だなあ、と思う。
食事をしながらいろいろとお話ししているうち、夫婦が同業者である点、大学の先輩後輩の関係であった点、勤務地が離れているために「週末婚」である点など、共通点が多いことに気づく。挙げ句の果てに、夫婦間の年齢差がまったく同じである点もわかり、ビックリする。
しかし決定的に違うのは、夫婦2人ともが天才である、という点である。
食事をしながらも、さりげなく学問的な話になるのだが、そこでされる質問が、かなり鋭くて、答えに窮するものばかりである。とくに困らせているつもりではなく、さりげなくそういう質問が出るというのがすごい。
話せば話すほど、自分の愚鈍さが明らかになっていくわけだが、といって、それによってこっちがひどく落ち込む気持ちになるわけでもない。そんなことも突き抜けるほどのすがすがしさを感じるのである。
天才2人、いや、私の妻も含めると天才3人に囲まれて、いたたまれなくも心地よい2時間を過ごしたのであった。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 便座(2024.11.26)
- もう一人、懐かしい教え子について語ろうか(2024.11.17)
- 懐かしい教え子からのメール(2024.11.17)
- 散歩リハビリ・14年後(2024.10.21)
- ふたたびの相談(2024.09.29)
コメント