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2010年1月

ガソリンスタンドの一夜

こぶぎさんから久しぶりにコメントをいただいた。まだ、飽きられずにいたんだな。

昨日見た映画も、こぶぎさんのコメントにかかわる「笑い」に関する映画である。

1月28日(水)

Idcmv1kr9cck633978323189848816 「ガソリンスタンド襲撃事件2」を鑑賞。「2」というくらいだから、「1」もあったわけだが、「1」は10年前に公開されていたのだという。

たぶん私は、この映画を公平に評価できない。なぜなら、出演しているパク・ヨンギュのファンだから。やはり10年前に韓国で放映されていたシットコム「順風産婦人科」を見て以来、パク・ヨンギュのコミカルな芝居が、けっこう気に入っていた。

その後、パク・ヨンギュは大河ドラマ「海神」などに出演するものの、ほとんどテレビに出なくなった。プライベートで悲しい出来事があり、しばらく芸能活動を休業してのだという。

そしてようやく、復帰したのが、この「ガソリンスタンド襲撃事件2」というわけである。

だから、つい、無条件で応援したくなるのである。

さて、映画の内容をひとことで言えば、

「とあるガソリンスタンドで、ある一夜に起こる大騒動」

という内容。完全な、ドタバタコメディである。お約束の笑いも多い。

「(三谷幸喜監督の)『有頂天ホテル』みたいだね」とは、妻の評。

まったくその通り。ある1つの場所で、一晩のうちに、さまざまな人びとによって、さまざまな事件が起こり、最後に大団円をむかえる、という形式は、まさに「有頂天ホテル」と同じである。

いや、これは、正式には「グランドホテル形式」というらしい。

同一の時間、そして同一の場所に集まった複数の人びとによるさまざまな事件を、同時進行的に描く手法の作品を、こう呼ぶそうである。もともと、1932年のアメリカ映画「グランドホテル」でとられた手法に由来するという。

日本で「グランドホテル形式」の映画、といえば、川島雄三監督の「幕末太陽伝」が有名である。これはおもしろかった。

で、この「ガソリンスタンド襲撃事件2」も、まさにこの「グランドホテル形式」なのである。

10年前の「1」も、やはり同じ形式だったのだろうか。

だとしたら、韓国映画としては、かなり斬新なコメディ映画だったはずである。こぶぎさんが書くように、韓国の笑いは、日本以上に、米国的なのかも知れない。

ナム先生いわく、「1のほうがもっとおもしろかった」。「1」をぜひ見てみたい。

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本当に最後の同窓会

1月28日(木)

数少ない韓国語日記の読者のひとりが、3級6班の時の担任だった、ナム先生である。

ナム先生は、律儀な方である。

私が韓国語日記(ミニホムピィ)を立ち上げたとき、「いちど遊びに行きますから(ホームページを見に行きますから)」と、おっしゃって以来、たぶん、義務感にかられて、たまに見に来られて、コメントを残してくださる。

少し前のコメントの中に、「3級6班も同窓会をしましょう」とあった。韓国語日記の中に、4級の同窓会のことを書いたのをお読みになって、これまた律儀にもそうおっしゃってくれたのだと思われる。

本来、ご自身からはあまりそういうことをおっしゃらないタイプだろう、と思うのだが、私と妻がもうすぐ日本に帰ることを、気にかけてくださったのだろう。ありがたいことである。

で、今日、その同窓会が実現することになったのである。

もうひとつ、今度は妻に連絡が入る。

妻のお世話になった語学院のチェ先生から、午後においしいトッポッギを食べに行きましょう、というお誘いが来た。さらに、妻と私が4級の時にお世話になったキム先生から、トッポッギを食べに行く前に、喫茶店でお話をしましょう、という連絡が入る。

ええい、今日は、荷が重い原稿のことは忘れてしまおう。2時に、キム先生と大学構内の喫茶店「勉強の楽しみ」で待ち合わせた。

そのキム先生も、私の韓国語の日記の、数少ない読者のひとりである。

「妄想三部作、おもしろかったですねえ」

ここ数日の韓国語日記で、これまで書いた日記の中から、「アイスアメリカーノ・妄想篇」と、「汗かきのメカニズム・妄想篇」を翻訳して載せた。せっかくだから、三部作にしてしまおう、と思い、「妄想は果てしなく続く」というタイトルの新作(韓国語版オリジナル)を書いて載せた。

ここ最近でいちばん笑った出来事だ、とおっしゃっていたが、ふだん、よっぽどおもしろくない生活をなさっているのだろうか。

それはともかく、話していうるうちに、3時となり、語学院の授業を終えたチェ先生と合流。さらに、妻と同じ班で勉強したエンロン君とも合流して、合計5人で、大邱でいちばん美味しいというトッポッギ屋さんに行く。エンロン君は、うらやましいくらいの好青年だ。

辛くて美味しいトッポッギをお腹いっぱい食べたあと、大学にもどり、今度は6時に大学の北門で待ち合わせる。3級6班の同窓会である。

集まったメンバーは、ナム先生、クォ・チエンさん、リ・プハイ君、チョン・ヤッポ君、3級6班ではないが、クォ・チエンさんのナムジャチング(ボーイフレンド)のリ・ペイシャン君、そして妻と私の合計7人。

「もっと集まればよかったんだけど、中国に帰った学生が多くて」と先生。

ま、この時期だから仕方がない。

「どこへ行きましょうか。いちおう、映画を見に行こう、と思うんですけど」と先生がおっしゃった。

同窓会で映画か。いかにも、ナム先生らしい。

1級1班のときのことを思い出す。

あるときマ・クン君が、休み時間に、教室の外にも出ずに席に座って何かを書いていた。

「何を書いてるの?」と聞くと、

「ナム先生に手紙を書いているんです」という。

明日、一緒に映画を見に行きましょう、という手紙だそうだ。

次の休み時間、マ・クン君はナム先生に手紙を渡した。

彼の告白はみごとかなって、ふたりで「レッドクリフ2」を見に行ったという。

彼は後日、そのことをうれしそうに私に話した。

「…で、何を見に行きましょうか?」あらかじめプリントアウトした映画の時間表を見ながら、先生がみんなにたずねる。

いまなら、さしずめ「アバタ」だろうが、今日はどうもそんな感じではない。

「『ガソリンスタンド襲撃事件2』なんて、どうです?」と先生が提案する。

私が見たいと思っていた映画である。

「それ、見たいです。パク・ヨンギュが出ている映画ですよね」と私。

私は、シットコム「順風産婦人科」以来、パク・ヨンギュのファンであった。

「そうそう、パク・ヨンギュ。じゃあこれにしましょう」

映画館まで、タクシーで移動する。

タクシーの中で、リ・プハイ君、チョン・ヤッポ君と会話する。

リ・プハイ君は、私にとって思い出深いチングである。なにしろ、マラギ(会話)の試験で、ペアになって試験を受けている最中、かかってきた携帯電話に出て通話をはじめた、という強者なのだから。

彼は、1級を2回、2級を2回、3級を3回と、2年間語学院に通ったすえ、昨年の9月に、はれて近隣の大学に入学した。

大学はいま春休みなので、留学生の多くは中国に帰っているのだが、彼は中国に帰らないようだ。

「春休みに、どうして中国に帰らないの?」

「アルバイトをしているからです」

「何のアルバイト?」

「工場で働いています」

工場のバイトは、かなりきついらしい。

次にチョン・ヤッポ君に聞く。「大学は決まったの?」

「落ちてしまいました」

3月の入学はかなわなかったようだ。

気が優しくてとてもいいやつなのだが、「僕は頭が悪くて…」と、どうも自分に自信がもてないようである。

「僕のヨジャチング(ガールフレンド)も、日本の大学を受験して、落ちてしまいました」と、彼はつけ加えた。

6時30分、映画館に到着。7時5分の上映開始まで30分くらいあるので、いろいろと話をする。

「チ・ジャオ君は、ヨジャチング(ガールフレンド)と同じ大学に入学するために、釜山に行ったそうですよ」と先生。「本人は行きたくなかったみたいなんだけど」

「なんか、ワン・ウィンチョ君みたいですね」と私。

ワン・ウィンチョ君は、ヨジャチングのチャオ・ルーさんのために、同じ大学に入学した。だがその大学は、お世辞にもいい大学とはいえなかった。彼の実力からすれば、もっと一流の大学をねらうことは十分可能だった。

「ほんと、ワン・ウィンチョ君はもったいなかったですよね。あんなに一生懸命韓国語を勉強したのに…。今はガソリンスタンドでアルバイトしてる、って聞きましたよ」と先生。

「ガソリンスタンドですか。ガソリンスタンドのバイトは、かなりきついですよ。僕もしたことありますけど」と、リ・プハイ君が口をはさむ。

おまえ、どんだけ社会経験を積んでるんだ。そんなひまがあったら勉強しろよ。

しかも、これから見る映画は、「ガソリンスタンド襲撃事件2」である。私は彼の言葉に、思わず爆笑した。

ナム先生が私に向かって聞く。

「ところで、미카미씨、どうも미카미씨、と呼びにくいんですよ。目上の人をこのように呼ぶのが礼儀に反するような気がして…。授業も終わって、もう学生ではないことだし、キョスニム(教授様)、と呼んでもかまわないですか?」

やはり韓国のお国柄、というのであろうか。ナム先生のような、語学の教育者のプロでも、やはりずっと違和感を感じておられたんだな。私は、やはり「キョスニム」といわれることにちょっと抵抗があったが、こればかりは仕方がない。

「好きなように呼んでもらってかまわないですよ」

そして私は、「キョスニム」にもどった。

映画がはじまる。コメディ映画である。映画の感想は、また別の機会に書くことにしよう。

映画が終わり、先生がおっしゃる。

「1よりもおもしろくなかったですね。1はもっとおもしろかったんだけれど」

「1」は見たことがないが、でも、私には十分におもしろい映画だった。

時計はすでに9時をまわっていた。大学の北門にもどり、カムジャタンの店でおそい夕食をとる。

わたしは、かねて聞きたいと思っていた、モンゴルの話を、思いきって聞くことにした。

すると先生は、モンゴルの学校で、生徒たちに2年間、韓国語を教えていたときのことを、懐かしみながら話しはじめた。

最初は、自分の思っていたとおりにうまく生徒が勉強してくれないことに悩んだこと、それがだんだんと、試行錯誤しながら生徒たちと交流を深めていき、最終的には、韓国語教育という自分の仕事にとって大きなステップとなったこと、そして、モンゴルでの2年間が、自分にとって何ものにも代えがたい経験となったこと。

1年間、韓国で勉強したいまの私にも、なんとなくその心の動きが理解できる。

「そういえば、先生のホームページの写真に写っているモンゴルの生徒たち、みんないい笑顔してますね」と私。

「そうでしょう」

しばらく、モンゴルの思い出話に聞き入った。

「本当はまた、モンゴルに行って韓国語を教えたいんです。モンゴルから帰ったばかりのころは、その気持ちが強かったんですけど、時間が経つにつれて、だんだん自信がなくなってきちゃって…」

先生は複雑な表情をした。

「そうそう、これ、ソンムル(贈り物)です」

先生が私と妻に、小さな封筒をくださる。

中を開けると、本のしおりだった。

「おふたり、本が好きでしょう」

どこまでも、律儀な先生である。

夕食が終わり、チングたちが帰るという。

「チョン・ヤッポ!しっかり勉強して、大学に合格しなさいよ」と先生。

「先生、でも僕、マラギ(会話)がダメなんです。自信がないんです。僕、頭が悪いから…」

「そんなことないわよ」

「そうですよ」リ・プハイ君。「韓国語が上達するためには、韓国の人たちとたくさん友だちになることがいちばん大事です」

語学院で留年をくり返していたリ・プハイ君が、悟りきったようにアドバイスしたことに、私は思わず苦笑した。だが彼には、世間を生き抜く知恵と強さがある。

みんなと別れたあと、先生と私たちの3人で、北門の横にある「カフェC」へ。私が毎日のように通っている喫茶店である。夕食代を出してもらったお礼に、コーヒーをごちそうすることにしたのである。

そこで1時間近く、いろいろな話をした。もっぱら、この1年間の思い出話である。

料理教室の話、あれはおもしろかったですねえ」と先生。

おもしろさが伝わるように、韓国語に翻訳するのに苦労したが、ワン・ウィンチョ君と顔を見合わせるくだりを読んで笑った、というのだから、こちらの意図はある程度は通じていたのだろう。

話はスギ(作文)の話におよぶ。

「キョスニムが書いた、3級のときの『チング(友)』、それと4級のときの『アボジ(父)』は、とくに印象に残っています。『アボジ』の作文は、あのとき、キム先生(4級の時のマラギの先生)からみせてもらったんですけど、読んでいて泣きそうになりました」

また「アボジ」の作文の話題が出た。くり返すが、私はどんなことを書いたのか、まったく覚えていないのだ。いったい私は、どんなことを書いたのだろう。

気がつくと、11時半になろうとしている。明日9時からまた授業だというのに、遅くまでおひきとめしてしまった。

「楽しい時間でした」と先生。

「日本に帰る前にいちど、語学院に挨拶にうかがいます」と約束して、お別れした。

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シットコム

韓国語の日記を読んだ語学院の先生が、「屋根を突き抜けてハイキック」みたいにおもしろいですね、とコメントを書かれていた。

「なんです?それは」と聞くと、「いま、韓国で一番人気がある、シットコム(シチュエーションコメディ)ですよ」という。

テレビをほとんどみない私は、それまでまったく見たことがなかったのだが、試しに見てみた。

866_1_2 これが実におもしろい。

韓国では、「シットコム」が、れっきとしたひとつの分野として確立している。

こちらに来る前、「順風産婦人科」という、やはり韓国のシットコムを、好きで見ていた。

番組じたいは、いまから10年くらい前に放送されていたものであるが、ソン・ヘギョとか、キム・レウォンといった日本でも人気の俳優が出ていたため、ソフト化されていたのである。

これが、実におもしろかった。

「シットコム」は、通常、1話30分で、平日のほぼ毎日放送される。「順風産婦人科」の場合、3年くらいつづいたそうだから、300話以上放送されたのではないだろうか。

いまの「屋根を突き抜けてハイキック」も、同じようなペースで放送されている。

私自身、放送している時間は家におらず、外で夕食をとっているか、喫茶店で原稿を書いているので、放送時間にこれを見ることができない。しかし、頻繁に再放送をやっているので、テレビをつけて、再放送をやっていれば見る、ということにしている。

先日のことである。

夜、散歩していると、「カーオーディオ」の専門店の前を通りかかった。専門店、といっても、古びた店舗の中に、カーオーディオらしきものがポツン、ポツンと置いてある、という感じの店である。

「カーオーディオだけで商売成り立っているのかね」「店員さんもとくにいないようだし」などと、妻と話しながらその店をのぞいておどろいた。

店員らしきふたりのあんちゃんが、店の端に置いてあるテレビに釘付けになっている。

「屋根を突き抜けてハイキック」を、食い入るように見ているのだ。

似たような光景は、何度か目撃したことがある。

近所の雑貨屋にいったときも、やはり店のおっちゃんが「屋根を突き抜けてハイキック」に釘付けになっている。会計の時も、手もとの商品なんか見ちゃいない。

「ハイキック」の時間は、誰もがテレビに釘付けなのだ。

そうとうな人気なのだな、とその時感じた。

さて、日本では、どうだろう。「シットコム」。

日本のシットコムで思い出すのは、三谷幸喜氏脚本の「やっぱり猫が好き」くらいか。数年前、やはり三谷幸喜氏が書いた「HR」というシットコムがあって、日本の本格的シットコムの誕生だ、などと話題になった。

しかし、韓国のシットコムにくらべれば、残念ながらかなり見劣りがしてしまう。「HR」にしたって、週1回の放送で、半年で終わってしまった。「やっぱり猫が好き」は、数年つづいたが、それでも週1回の放送である。パワーが全然違うのである。

どうして日本では、シットコムが定着しないのだろう。不思議である。

むろん、韓国のシットコムも、おそらく玉石混淆で、今回の「屋根を突き抜けてハイキック」も、「順風産婦人科」以来のおもしろさなのかもしれない(勝手な推測だが)。しかし、良質なシットコムは、なにより、語学の勉強にも最適である。通常のドラマより1話分の放送時間が短いし、内容もおもしろいし、放送回数も多いので、飽きることなく見続けることができるのである。

そういえば、大学時代、英語の授業で唯一おもしろかったのは、マイケルJフォックス主演の「ファミリー・タイズ」というシットコムを授業でみせられたときだったな。あれを続けてみていれば、もっと英語が好きになったかも知れない。

と、ここまで書いてふと思う。映画「男はつらいよ」のシリーズで必ず出てくる、「とらや」でのドタバタ場面。あれこそ、日本のシットコムの元祖ではないか、と。

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後日談

このところ、人ともあまり会わず、荷が重い原稿ばかり書いていると、心がすさんできますな。これでは日本にいるときと変わらないではないか…。

ここらあたりで、すこし無駄話を。

かつてのように、毎日のようにこの日記を書く習慣は、いまではすっかりなくなってしまった。

私の中では、「最後のあいさつ」とか「最後の(?)同窓会」あたりが、この日記の最終回、と思っていて、そこからあとは、帰国までの間、とくにこの日記の着地点を決めずに、だらだらと書いて、フェィドアウトしよう、と思っている。

もしこの日記に、読者がいるとすれば、ずいぶんと失礼な話なのだが。

ところで、この日記に、読者なんか、いるのだろうか。

ふつう、これだけうんざりするような長い文章を読まされていれば、たいてい、途中で飽きるものである。私もそれを期待して、うんざりするような長い文章を、毎回書いてきた。

もし、最初からいままで欠かさず読んでいる読者がいるとすれば、それは、よっぽど私のことをひいきにしてくれているか、あるいは、嫌悪(憎悪)しているか、のどちらかである。

まあそんなことはいい。

私は最初、韓国での生活のさまざまな体験を、できるだけ具体的なデータとして残す、という目的で、この日記を書こう、と考えていた。たとえば、どこへ行ったとか、誰と会ったとか、何を食べたとか…。

しかし、実際に書こうとすると、そういうデータ的なものを残すことが、あまり意味のないことだと思えた。だいいち、書いていてつまらない。私の性分に合わないのである。

それに、語学院での体験が、あまりにおもしろすぎた。

そこで最初の考えをあらため、語学院を舞台にした「シットコム」(シチュエーションコメディ)風に、日記を書くことにしたのである。もちろん、書いてあることは、すべて事実である。

これがどこまで成功しているのかわからないが、たぶん、語学院の授業の様子をここまでくわしく書いた日記は、ほかにないだろう。私の死後、誰かの手によって出版してほしいくらいだ。

さて、私がここ最近、この日記に力を入れていない理由が、もうひとつある。

それは、私がいままで書いた日記を、すべて、韓国語に翻訳しよう、と考え、そちらに力を入れているからである。

われながら、馬鹿なことを思いついたものだ。

しかし、思いついちゃったんだから、仕方がない。

これが、けっこうたいへんな作業である。

たとえていえば、「水曜どうでしょう」のレギュラー番組を、再編集して、DVDとして出す、というくらい、手間がかかる作業なのである(たとえがわかりにくいか)。

こんな馬鹿なことを考えたのには、理由が2つある。

ひとつめは、せっかく学んだ韓国語を忘れないようにするためである。日記を書けば、毎日、韓国語に少しでもふれることができる。

ふたつめは、自分のこの日記が、韓国の人が読んで、おもしろいと感じるのかどうかを、確かめたかったためである。

ためしに、「マ・クン君からの手紙」「傘がない」「カップルTシャツ」あたりのエピソードを韓国語の日記(ミニホムピィ)に翻訳して載せたところ、1,2名の韓国語の先生から、おもしろい、と言っていただいたので、ひきつづき、1級1班のエピソードをすべて翻訳することにした。

ところが、ここで問題がたちはだかる。

この日記は、そもそも、韓国語の先生も、中国人留学生たちも、日本語がわからない、という理由で、じつに好き勝手に書いてきた日記なのであった。だから、当事者に失礼と思われるようなことも、平気で書けたのである。

それを、韓国語にそのまま翻訳してしまって、大丈夫だろうか。

とくに困ったのは、「猟奇的な先生」。

この日記の最初からの読者であれば、覚えているかも知れない。1級1班で登場した、韓国語の先生である。かなり強烈なキャラクターの持ち主である。

この先生を、「猟奇的な先生」として、韓国語版にもそのまま登場させてよいものか?怒られたり、訴えられたりしないだろうか?

ところで、読者のなかで、気づいた方もおられるかも知れない。

この日記では、途中から「猟奇的な先生」が登場しなくなっていることを。

闘鶏とテーマパーク」というエピソード以降、「猟奇的な先生」は、この日記に登場していないのである。

「猟奇的な先生」は、じつは昨年6月に、この語学院をおやめになっていた。

そのことを、ある先生にうかがったとき、「おやめになった」とおっしゃっただけで、ほかに何もおっしゃらなかったので、何かよからぬ事情でおやめになったのだろうか、と思い、そのことを、この日記にも書かなかった。

ところが先日、語学院のある先生にうかがったところ、近隣の大学に、大学の先生として移られた、とのことだった。言ってみれば、栄転、である。

ま、あれだけ才能のあった先生だから、当然といえば当然なのだが。

というわけで、私の中で、迷いがなくなった。そのまま翻訳することにしたのである。

それに、「猟奇的な先生」が、この韓国語日記を見る可能性は、まずない。

「『猟奇的な先生』って、キム先生のことですよね」と、私の韓国語日記を読んだ語学院のある先生が聞いてきた。

「ええ、そうです」と私。

「ピッタリのあだ名ですけど、学生からそう呼ばれていたんですか?」

「いえ、私が心の中でつけたあだ名です」

かつての同僚だったその先生も、このあだ名はしっくりきているらしい。

「シットコム」風の日記は、韓国語に翻訳しても、十分に意味のある日記となった、と思う。

毎日毎日、写経をするような思いで翻訳をすすめた、その「1級1班日記、韓国語版」も、もうすぐ、すべての翻訳を終える。

最初はおもしろがって読んでいただいた語学院の先生方も、いまではすっかり飽きてしまわれたようだ。

そりゃそうだ。うんざりするような長い文章だもの。自分で翻訳していても、「何でこんな長い文章を書いちゃったんだろう」と思うくらいだから。

このペースだと、帰国するまでに、すべての日記を翻訳することはまず無理だな。

日本に帰ったあとも、細々と続けることにするかな。

そのころには、もうすっかり読者がいなくなっているだろうけれど。

はて、私はどこに向かおうとしているのだろう?

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続・スタディ

以前、この国の、ある大学の先生からこんな話を聞いた。

いま、大学には、多くの中国人留学生が入学してくるのだが、それがいま、問題になっている。彼らは、こちらの大学の授業についていけず、彼らのために、授業が停滞してしまうケースがある。そのため、(この国の)若い学生は、中国人留学生たちのことを、あまりよく思っていない。すなわち、若い学生たちのあいだで、中国人留学生たちに対する嫌悪感が広がっているのだ、と。

たしか、こんな内容だったと思う。

また、別のところから、こんな話も聞いた。

自習のグループである「スタディ」に、中国人留学生が加わっている場合と、そうでない場合とは、自習の進み方が、全然違う。「スタディ」に、中国人留学生が加わっている場合、ほかの人たちが、その学生にかなり基礎的なところから説明をしなければならない、という手間がかかるので、「スタディ」の効率が悪くなるのだ。だから、「スタディ」に、中国人留学生が入ることを、学生たちは嫌っている、と。

似たような話は、ほかからも聞いた。

私の語学の能力の問題もあり、どこまで正確に理解できているかはわからないが、おおよその内容は、間違っていないだろう。

これらの話を総合すると、自習のグループである「スタディ」の場で、中国人留学生の面倒をみなければならなくなったグループは、彼らのことを、自分たちの勉強のペースを妨げる「厄介者」「足手まとい」ととらえてしまい、それが、若い人たちのあいだで、中国人留学生たちに対する、新たな差別につながっているらしいのである。

外国人留学生のなかでも、中国人留学生の数が圧倒的に多いことから、どうしても、中国人留学生たちが、話題の中心になってしまう。

もともとの「ミウチ意識」の強い「スタディ」という勉強スタイルに、留学生が入ったら、必然的に、そのようになってしまうのかも知れない。

加えて、この国の学生にとって、中間試験や期末試験は、将来を決めるほどの重大な意味をもつ。留学生にかまっていられないのは、なおさらかも知れない。

いずれにしても、若い学生たちの間で、留学生たちに対する嫌悪感が広がっているのだとしたら、かなり深刻な問題である。

そして私は、この話を聞いて、複雑な心境である。

中国人留学生たちが、こちらの大学の授業についていけないことの主たる原因に、語学の問題があることは間違いないだろう。韓国語を十分理解しないまま、大学に入学してしまった結果、このような問題が引き起こってしまったのである。

しかしそれは、大学入学前の語学教育、すなわち、語学院の教育が悪かった、というわけでは、決してない。語学院における語学教育の水準の高さは、私がわが身をもって証明することができる。ま、それは冗談にしても、4級以上の若い学生の韓国語の実力は、目を見張るものがある。

最大の問題は、語学の能力がまだ初級レベルであるにも関わらず、入学を許可してしまう、大学側の責任である。

本来であれば、韓国語の4級以上のレベルで、ようやく大学の授業についていけるレベルになる。ところが実際には、3級、2級、ひどいところでは、1級レベルの学生に、入学許可を与えている大学があるのである。

それもこれも、大学の定員確保、という現実的な問題が、深く関わっている。

大学側が、いとも簡単に、入学を許可してしまうのである。

一方で、中国人留学生たちのすべてが、本当にこの国に留学したくて来ているのかは、はなはだ疑問である。多くは、家庭の事情、もっといえば、親の事情で、「留学させられた」人たちが多いのではないか。それは、私が語学院に1年間通っていて、感じたことである。

それでも彼らは、まがりなりにも、韓国語を勉強してきた。そうすることでしか、いまの自分の身を守る方法が、ないからである。

でも、できれば早く大学に入学したい。早く大学に入学して、卒業して、早く中国に帰りたい。そういう希望も、彼らは持っている。この気持ちも、よくわかる。

だから、多少韓国語の勉強が不十分でも、入れる大学に入ろうとする。

大学側も、そうした学生を受け入れてしまう。

そこから、悲劇がはじまる。

大学の教授は、「どうしてこんなに出来が悪いんだ」と文句を言って、その面倒を学生に押しつける。留学生を「押しつけられた」学生たちは、「スタディ」で一緒に勉強することになる。

だがこの国の学生たちにも事情がある。この国では、試験でいい点数をとらなければ、将来の進路に大きく響いてしまう。留学生たちは、母国に戻ればそれでいいのかも知れないが、自分たちは、この国のしくみのなかで頑張っていかなければならないのだ。

そう思うと、留学生が、どうしても「足手まとい」「厄介者」と思われてしまうのである。

大人の都合でこの国に留学させられ、大人の都合で、おいそれと大学に入学を許可され、挙げ句の果てに、授業についていけていない、と非難を受ける留学生たち。

一方で、大人たちの作った制度のために、高校時代とまったく同じような勉強方法を大学でもしいられ、それにふりまわされてしまう、この国の学生たち。

学生と留学生との間に不幸な関係があるとすれば、それは大人たちが築いてしまったものだ、ということに、大人たちは、どれほど思いを致しているだろう。

問題は、いつも、いちばん弱いところで起こる。

大学の中でいちばん立場が弱い学生。それは、留学生である。

だから、セクハラやアカハラも、留学生が被害にあうケースが、とても多い。

私は、常々思う。

その大学の本当の姿を知るには、立場のいちばん弱い人たちが、どのような思いをしているか、を知ればよい、と。

いや、大学にかぎったことではないかも知れない。

だから、留学生は、その大学の、本当の姿を映す鏡である。

ん?あんまり、「スタディ」とは、関係ない話になっちゃったな。

話が変な方向にそれてしまったんで、このへんでやめよう。

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スタディ

この国の大学では、「スタディ」とよばれる慣習がある。もっともこれが、どのていど一般的なものなのかは、よくわからない。

同じ授業をとっている人たちが、数人ずつグループを作って、課外時間に、一緒に勉強する、というものらしい。直接取材したことがないのでわからないが、授業についていくために、あるいは、授業の予習のために、定期的に集まって勉強するのだという。ま、言ってみれば、自習のためのグループである。

ちなみに、この国の大学では、中間考査や期末考査は、将来の進路を左右するほどの、重要な試験である。だから、授業では、教授の教えを(疑問を持つことなく)しっかりと覚えて、試験にのぞまなければならない。授業に関わる「スタディ」は、そのための重要な手段である。

そういえば、喫茶店などで勉強していると、学生たちが何人か集まって、勉強している光景をよく見かける。あれが、「スタディ」なんだな。

語学の勉強、とくに英語の勉強なども、「スタディ」という形式でおこなっていることが多いようである。喫茶店で、学生どうしが英語だけで会話している光景に出くわしたりするが、あれも、「スタディ」なんだろうな。なにしろ、この国は英語の試験の点数が将来を左右するのだから、英語の勉強にかけては必死である。

たぶん、日本の大学にはみられない習慣だと思う。

そして大学院にも、「スタディ」という習慣がある、という。

もちろん、日本の大学院生も、大学院生どうしで研究会をする、ということはよくある。だが、それとは、ちょっとニュアンスが違うように思える。こちらの方は、どうも学部生の「スタディ」の延長、のように思えてならない。

学生どうしが刺激しあって勉強に励む、それじたいはよいことだと思うのだが、それも度が過ぎると、たんに「群れて」勉強している、にすぎなくなる。

私は学生時代から、「群れて勉強(研究)する」という行為が、あまり好きではなかった。

どこかで、「勉強(研究)とは、究極的には、孤独な営みである」と、考えていたからかもしれない。

だから、駆け出しのころ(いまも駆け出しだが)、同じ専門の若手研究者たちが集まるような研究会を、どこか冷めた目で見ていた。

もちろん、義理で何度かつきあったことはある。

しかし残念ながら、そうした研究会から、得るものはあまりなかったのである。

だから、同じ方向性をもった人たちだけが集まる「スタディ」という習慣にも、なんとなく違和感を感じているのかも知れない。

もうひとつ、「スタディ」という習慣に違和感を感じるのは、これが、「ミウチ意識」を醸成する役割をはたしているのではないか、という疑念である。

この国で生活していて思うのは、この社会に存在する強烈な「ミウチ意識」である。

ここでいう「ミウチ意識」とは、ミウチに対する接し方と、ミウチではないものに対する接し方に、極端なほど差異をもうける、という意識のことをさす。

これは、何度も経験したことであった。もちろん、自分が外国人だからかも知れない。日本に留学する外国人も、同じ気持ちを抱いているのかも知れない。だが、どうもそれだけでは説明できない部分もある。

卑近な例でいえば、学閥である。

この社会では、人間関係が、学閥によって説明できる場合が、何と多いことか。

その最小単位が、「スタディ」なのではないか。

そして、この「強烈なミウチ意識」に支えられた「スタディ」に、いま、静かな問題が起きはじめているのである。(つづく)

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飛行機のチケットを買う

1月21日(木)

そろそろ、帰国のことを考えないといけないと思い、とりあえず、大学の生協に行って、帰国の飛行機の切符を購入することにする。

旅行代理店のカウンターでチケットを受けとりながら、伊集院光氏の伝説的エッセイ『のはなしに』(宝島社)に載っていた、伊集院氏の奥さんにまつわるエピソードを思い出した。

結婚2年目のある日、「あなたに尊敬されるために英会話をマスターする」と、突然、伊集院氏に奥さんが言い出した。ちなみに奥さんはそのとき、まったく英語ができなかったという。

奥さんがとった行動は、単刀直入、「イギリスに住む」という方法だった。てきぱきと留学の手配をし、荷物をまとめて、片道のチケットだけをもって、「帰りのチケットを英語を使って自分ひとりで取れるようになったら帰ってくる」と言い残し、英国へ旅立ったという。そして6カ月間の英国滞在をへて帰ってきた奥さんは、「道で困っている外国の人に交番までの道筋を英語で道を教えてあげられるくらい」に上達したという。

「帰りのチケットを英語を使って自分ひとりで取れるようになったら帰ってくる」っていうところがいいね。飛行機のチケットをとることじたいは、じつはそれほど難しいことではない。たぶん、3カ月もいればとることができるのだと思う。でも、「片道切符だけを持って外国に行って、帰りのチケットを自力でとる」というのは、外国語を学んだ者にとって、ひとつの目標なのだろう。

あと、英語を学ぶ方法として、「イギリスに住む」、という単刀直入な方法もいいね。いまの私も、同じことを考えるだろうな。将来、中国語を勉強しようと思ったら、中国に留学するかも知れない。

そのエッセイの最後に、伊集院氏が奥さんに「英会話のマスターの秘訣は?」と聞くくだりがある。奥さんが答えるには、「ガッツ」。

これもいまの私にはよくわかる。いまの私もやはり、「ガッツ」と答えるだろう。

外国語を学ぶには、やはり「ガッツ」しかないのだ。

ひょっとして私は、伊集院氏よりも、伊集院氏の奥さんのファンなのかも知れない。

さて、もうひとつ、チケットを受けとりながら思い出したことがある。

あれは、紅葉狩りに行ったときのことだから、10月の終わりくらいのことか。

大学の教授や大学院生のみなさんに混じって、中国のある有名な研究所からこの大学に派遣されている研究者の方も一緒に、その紅葉狩りに参加されていた。

たぶん、私と同じような立場で、この大学にやってきた研究者の方なのだろう。年齢も、私よりもちょっと若いくらいの方である。つまり、立場的には、私とまったく同じ方だ、と思ってよい。

ところがその方は、まったく韓国語を話さない。話そうとしないのである。最初から最後まで、中国語で貫き通されたのである。もっとも、まわりは中国語の堪能な方たちばかりだったので、それで問題なかったのだが。

うかがうと、8月に韓国にいらしたばかり、というから、まあ、韓国語がわからない、というのも、無理はない。

ただ、それにしても3カ月はたっているのだから、すこしは韓国語を話そうとする姿勢くらいはみせてもよいのではないだろうか。私自身を振り返ってみても、わからないなりにも、韓国語でコミュニケーションをとろうとしていたのだ。

しかしその方は、いっさい、韓国語でコミュニケーションをとろう、という気がないようである。私にはそのことが、不思議でならなかった。

それから1,2週間たった日のことである。

生協に入っている旅行代理店の横を通ると、紅葉狩りのときに一緒だったその方が、カウンターにいらっしゃった。おそらく、中国に一時帰国するときの飛行機のチケットでも購入していたのだろう。

しかしその方の横には、通訳とおぼしき方が、旅行代理店の人と交渉していた。飛行機のチケットを、通訳の人に頼んで、購入していたのである。

…私は、自分の飛行機のチケットを受けとりながら、そのことを思い出したのであった。

些細なことかも知れないが、飛行機のチケットを自分でとる、ということは、やはり外国語を学ぶ者にとって、象徴的意味があるのかも知れないな。

話はここで終わらない。

その方とは、12月に大学でおこなわれた、国際学術大会で再会した。

再会した、といっても、すれ違っただけなのだが、そのとき、その方は私にこう挨拶したのだ。

「ニーハオ!」

えええぇぇぇぇ!そこは「アンニョンハセヨ」だろうがぁぁぁぁ!

私はビックリした。

ことわっておくが、私は、中国語がまったくわからない。もちろん、「ニーハオ」「謝謝」「再見」くらいはわかるが、それ以外はまったくわからないのである。

いくらなんでも、韓国に3カ月以上もいたら、「アンニョンハセヨ」くらいは、言えるのではないだろうか。しかしその方は、その挨拶すらもしないのだ!しかも、中国語がわからない私に、あたりまえのように「ニーハオ!」と挨拶するとは、どういうことだ?

どうして、かたくなに韓国語でコミュニケーションをとろうとしないのだろう。私には、それがまったく理解できなかった。

誰かわかる人がいたら、教えてほしい。

「中国語は世界語だから韓国語なんて学ぶ必要がない、と思っているのよ。研究をしに来たのだから、韓国語を学ぶなんて、考えてもいないんじゃないかな」とは妻の説。

なるほど、そうかも知れない。でも、海外で研究する、って、そういうことなのか?もしそう考えているのだとしたら、私はその方の研究を、まったく信用しないだろうな。

そう思うと、語学院で一緒に勉強した中国人留学生たちが、いとおしく思えてくる。

彼らは、どのような事情であれ、韓国語を勉強してきた。もちろん、研究、などというものとは、ほど遠いところにいる若者たちだ。だが、韓国語を勉強したことで、彼らの思考様式も、確実に変わった。それは、ずっとそばでみてきたこの私が言うのだから、間違いない。

それに彼らは私に「アンニョンハセヨ」と挨拶してくれたぞ。

外国で勉強する、とは、たぶん、そういうことだ。

ひとまず、彼らの思考様式に寄りそってみること。そのためには、その国の言葉を学ぶことが、いちばんの近道である。そして、その国の言葉を学ぶいちばんの近道は、その国で暮らすこと・・・。

結局、そこに帰結する。伊集院光氏の奥さんがとった方法は、やはり間違っていなかったのだ。やはり私は、伊集院光氏よりも、奥さんのファンなのかも知れない。

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喫茶店生活

最近はといえば、原稿を書く毎日。

研究室でしばらく原稿を書いていると、しだいに寒くなっていられなくなるので、喫茶店で原稿を書くことになる。

前から書いているように、私は喫茶店にいるときが、勉強がいちばんはかどるのである。

最近、よくいく喫茶店のひとつが、大学構内にある喫茶店。研究室からも歩いて近い。

喫茶店の名前が「勉強の楽しみ」。いい名前だ。

この喫茶店は、語学院に通っているときから、宿題をやるときなどに、しばしば利用していた。

そこで、いつもいる人がいる。

語学院で英語を教えているチョルスさんだ。

本名は、ビル・ハートさん。れっきとした英語圏の方。

しかしなぜか、ここではチョルス、という名前を名のっている。チョルス、とは、韓国人男性の典型的な名前。日本でいえば、太郎、といった感じである。

チョルスさんは、語学院で英語を教えるかたわら、韓国語を勉強している。実は1級1班のとき、何回か一緒に授業を受けたことがある。

この日記にも書いたが、「○○が○○にあります」という表現を使う練習のとき、「恋人が夢の中にいます」と答えて、私をあ然とさせた方である。

その後、1級1班の授業があまりにバカバカしくなったのか、授業に出なくなってしまったが、しばらくたって、4級の授業のときに、隣のクラスで勉強していることがわかった。まだ、韓国語の勉強を続けていたんだな。

で、4級の宿題をしに、「勉強の楽しみ」に行くと、そこに必ずチョルスさんがいた。彼はいつも、テキストを、声に出して読んでいた。

ときどき、挨拶を交わしたが、だいぶ韓国語がお上手になっていた。さすが、語学の先生である。

この先生、ちょっと変わっている。

最初は、キム・チョルス、と名のっていたそうなのだが、途中から、シム・チョルスと改名したのだという。

理由は、本名の「ハート」が「心」、つまり韓国語で「シム」だから。

そのことを韓国語の先生に伝えたところ、「名前を変える、というのはよくあることだけど、韓国で姓を変える、なんて考えられません」とあきれられたそうである。

やはり、変わった人だ。

最近はあまり見かけなくなったが、韓国語の勉強は一段落したのだろうか。

私は、おそらく、そのチョルス氏と並んで、この喫茶店の常連である。店員さんとは、すっかり顔なじみになってしまった。

そりゃそうだ。喫茶店に来るたびに、ノートパソコンだの、大量の資料だのをつめた大きなリュックを背負ってやってくるのだから。目立たないはずがない。

行くと、こちらが何も注文しないうちから、アルバイトの大学生風の店員の女性に、「アメリカーノ」ですよね、といわれる。

たまに、みかんだの、チョコレートだのをサービスしてくれる。

「私がひとりで行っても、つけてもらったことなんかないよ」と妻。

わるいが、私はこの界隈では有名人なのだ。

この喫茶店は、夜7時で閉まる。夕食後、今度は別の喫茶店に移動する。

大学の北門の横にある「カフェC」。

ここで、夜12時近くまでねばる。

毎日のように行くので、やはりここでも、たまにチョコレートをサービスしてくれる。

いまは、以前よく行っていた、2軒の喫茶店に、ほとんど行かなくなってしまった。店長に悪いなあ、と、なんの義理もないのだが、なんとなく後ろめたい気分である。

そういえば、やはり最近、もっぱら喫茶店で勉強をしている妻から、こんな話を聞いた。

勉強しながら、隣の席に座っていた韓国人2人の話を聞くとはなしに聞いていたところ、次のようなことを話していたという。

その韓国人が、外国(西欧のどこか)に、旅行に行ったとき、「日本食」と書かれている食堂に入って、ラーメンを注文したところ、中国人の店員が出てきて、「辛ラーメン」を出してきた、という。

よくできた話だ。

むかし友人が、ドイツに旅行に行ったとき、日本食のすし屋に入ったところ、タイ人が、トロピカル寿司を握っていた、と言っていた話を思い出した。

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容赦はない

1月17日(日)

原稿の2つめのヤマは越えていないが、映画を見に行くことにする。

Poster ソル・ギョング主演の「容赦はない」。

ソル・ギョングが主演、というだけで、見に行かなければならない、という気になる。

ある殺人事件をきっかけにはじまる、監察医(ソル・ギョング)と殺人犯(リュ・スンボム)の対決を描く。いちおう、スリラー映画、とチラシには書いてある。

やはりソル・ギョングの演技はすばらしい。鬼気迫るものがある。

しかし、私にとっては、いささか食傷気味である。

誘拐された子どもを救うためになりふりかまわない、というキャラクターは、すでに「クノム  モクソリ(あいつの声)」で、見ているし、社会的正義や規範を捨ててまで家族を守ろうとする価値観には、どうも違和感を感じてしまう。だから映画にのめり込めないのである。

この違和感については、日韓の社会的価値観の差異によるものではないか、と妻が解説してくれた。ここで細かくは書けないが、なるほど、これはおもしろいテーマかも知れない。この映画を日本人が見て、ソル・ギョング演じる監察医のとった行動に対してどう感じるのか、アンケートをとってみたいものだ。

映画のラストについて、妻は「セブン」になんとなく似ている、と言ったが、私はどちらかといえば、同じ韓国映画の「オールドボーイ」的だな、と感じた。

この映画のいちばんの収穫はたぶん、犯人役を演じたリュ・スンボム。じつに見事に演じたと思う。

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極寒のソウル

原稿の2つめのヤマを越えていないので、簡単に書くにとどめる。

1月15日(金)

学会の定期発表会のため、ソウルに行く。

今日の主役は、妻である。妻がはじめて、韓国語で学会発表する。韓国で学会発表することじたいがはじめてだから、今日は記念すべき日である。

かなり前から、韓国語の論文、読み原稿、パワーポイントを準備していた。

おかげで、当日はほぼ完璧に発表を終える。発表のあとの討論も、問題なくこなす。

韓国へ来て8カ月でここまでたどりつくのは、驚異的である。学会に参加した人たちも、一様に驚いていた。

私は、といえば、でくのぼうのように横に座っていて、「奥さんの方がはるかに韓国語がお上手ですね」と、いろいろな人にからかわれるのを、ただ笑って受け流すことくらいしかできなかった。

私も、帰国前に1度、韓国語で学会発表を経験してみたかったが、結局、それはかないそうもないようだ。まあ、慌てることはないだろう。

この日のソウルは零下10度以上はあっただろう。今年の冬のソウルの寒さは、ある人によれば、60年ぶりの寒さだろう、という。

とてもソウルに泊まる気はおきず、2次会を途中で失礼して、最終のKTXで大邱に戻った。

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いまさら「ヨン様」

1月11日(月)

原稿がひとつめのヤマを越えたので(まだいくつもヤマがある)、夜、市内の本屋に出かけた。買いたい本があったためである。

今年の元日、近郊の大学のK先生夫妻と一緒に、大邱の近郊にある銀海寺に初詣(?)に行ったときのことである。K先生の奥さんがおっしゃった。

「このお寺、ペ・ヨンジュンが来たんですよ」

聞くと、俳優のペ・ヨンジュン氏が、本の取材のためにこのお寺を訪れたのだという。最近、ペ・ヨンジュン氏が、韓国の各地を旅行して、韓国のよさを紹介する本を出版したのだそうだが、そのなかに、このお寺が紹介されているのだという。

「大邱近郊では、紹介されているのはここだけなんですよ」

銀海寺は、たしかにすばらしいお寺だった。ガイドブックに載っていて観光地化されているようなお寺とは一線を画する。案内をしていただいたK先生夫妻も、「ここは、外国からお客さんが来たときに案内する、とっておきの場所なんです」とおっしゃった。豊かな自然に囲まれた、韓国の伝統的建造物、そしていまに生きる信仰。誰もが、凛とたたずみたくなるような場所である。

ペ・ヨンジュン氏も、なかなかシブい場所を選んだものだ。

私はなぜか、このことがひっかかり、ペ・ヨンジュン氏のこの本を手にとってみたいと思ったのである。

日本では、「ヨン様」の愛称で親しまれているペ・ヨンジュン氏。断っておくが、私は決して彼のファンではない。「冬のソナタ」も、全話、見るには見たが、それほどのめり込んだわけではなかった。「ホテリアー」も見たが、どちらかといえばキム・スンウに肩入れした。「太王四神記」にいたっては、見ていない。

韓国におけるペ・ヨンジュン氏の人気は、日本のような熱狂的なものではない。どちらかといえば、むしろ冷めているといえるだろう。はっきり言って、韓国における人気は、微妙なのだ。

以前、妻が、日本に留学したことのある韓国人の友人に聞いたことがあるそうだ。

「ペ・ヨンジュンの韓国における人気って、日本でいえば、どの俳優にあたりますか?」

その方が答えた。

「うーん。…日本でいえば、寺脇康文くらいではないでしょうか」

なるほど、たしかに微妙である(いまのこの発言は、「ヨン様」ファンと寺脇康文ファンを、いっきに敵にまわしたかも知れない)。

ペ・ヨンジュン氏にしろ、チェ・ジウ氏にしろ、「元祖韓流スター」として、韓国では認識されているのである。先日見た「女優たち」という映画でも、チェ・ジウ氏が、なかば揶揄的に「元祖韓流女優」というキャラ付けをされていた。

しかしながら、どう見られていようと、ペ・ヨンジュン氏は、まぎれもなく、日本人の韓国に対する印象を一変させた歴史的人物だ、と思う。これはファンならずとも、異論のないところであろう。

さて、その日本では、ペ・ヨンジュン氏の人気は、まだ健在なのだろうか。

一時の熱狂的なブームにくらべれば、やや落ち着いたのかも知れない。

そこで私も、いまさらながらペ・ヨンジュン氏に注目したくなったのである。

たとえていえば、いまになって「ビリーズ・ブートキャンプ」をはじめる、というような心境か。

書店で買い求めた、ペ・ヨンジュン著『韓国の美をたどる旅』。

思ったよりも重厚な本である。彼自身の撮影した写真や文章が、ふんだんに盛り込まれている。すごく手のかかっている本だな、と思う。

日本でも、翻訳されて出版されているようだが、やはり人気のようで、品切れが続いているようである。

しかし、本当のファンの方には、原文で読むことをおすすめする。

まだチラッとしか読んでいないが、わかりやすく、とても味わい深い文章である。「ヨン様」に少しでも近づきたいのならば、やはり韓国語を勉強するしかない。

この本のまえがきで、彼は書いている。

ある日本の記者に、「韓国でおすすめの場所、名所はどこですか」と聞かれたことがあった。しかし答えることができなかった。いったい自分は、韓国の文化について、どれほど知っていたのだろう…。

そこから、彼の「韓国の美をたどる旅」がはじまる。それは同時に自分探しの旅でもあり、さらには、自分を応援してくれる「家族」(ファン)へ感謝を意味する贈り物でもある。

ビジネスのための、リップサービスの文章だ、と邪推することもできるかも知れない。しかし私はそうは思わない。「韓流スター」という「異文化体験」を通じて、彼の中で、何かが変わったのではないか。

現実に、このような本を作りあげてしまったことが、なによりの証ではないだろうか。

くり返すが、私は「ヨン様」のファンでもなんでもない。ただ、彼がこの先、どこへ向かおうとしているのか。そのことに関心を持たずにはいられないのである。

え?わざわざ韓国で1年以上勉強した結論が、「ヨン様はやっぱすげえ!」ってか?

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誕生日の研究会

すっかり間があいてしまった。

元旦にスケートをしたあと、倒れるように寝込んでしまい、翌日から2日間、風邪をひいた。「休みになると風邪をひく」というジンクスは健在であった。

4日(月)は、大邱で何年ぶりかの大雪である。久しぶりに勤務地の大雪のことを思い出した。

で、最近は何をやっているか、というと、もっぱら、「原稿書き」である。日本に帰国する前に、どうしても仕上げておかなければならない原稿があって、忙しくてずっと先延ばしにしてきたのだが、いよいよどうにもならない状況になってきた。加えて、私には荷が重すぎる仕事である。毎日、苦しい日が続く。残された時間は、この仕事に苦しめられるだろう。

しかしあまり引きこもっていても仕方がない。ソウルで小さな研究会がある、というお誘いを受けたので、日帰りでソウルに出かけることにした。

1月7日(金)

その研究会は、私も何度か発表の機会を与えていたこともある大学でおこなわれた。

ソウルは大邱にくらべてはるかに寒い。零下十数度の世界。「ソウルのこの寒さと大雪は、数十年ぶりです」と、ソウルに住むある先生がおっしゃっていた。

例によって、十数名のこぢんまりとした研究会。しかし、私はこの研究会が好きである。この研究会に出て、そのあとの夕食で主催者の「鼻うがい」の先生や参加者の先生とお話しすると、なんとなく元気をもらえる気がする。気が重い原稿の仕事も、少しだけ頑張ろう、という気になる。やはり参加してよかった。

今回は、私が留学する際に大変お世話になった先生も参加された。「その国の学問をするには、まず言葉から」という信念を持っておられる先生。その先生のおかげで、最高の環境で、1年間、韓国語を勉強することができた。

「やっぱり韓国語を習得したことは大きいよ。日本に帰ってからも、しょっちゅう韓国と日本を行ったり来たりしながら研究しなければならないから、これから忙しくなるぞ。これからも長いつきあいになるね」

私には最高の褒め言葉である。

ソウルからの帰り、4級のパンジャンニム(班長殿)のロンチョン君から、携帯電話にメールが来た。

「미카미씨、誕生日おめでとうございます!」

そういえば、今日は私の誕生日だった。

それにしても、どうして私の誕生日がわかったんだろう。こうなるともう、ほとんどストーカーだな。

つづいて、4級の時の担任だった文法の先生からメールが来た。

「寒いなか、いかがお過ごしですか。今日が誕生日だと聞きました。おめでとうございます!ふだんの日よりもずっと幸せに過ごされていると思います。その笑顔を忘れずに、お幸せに」

直訳すると、こんな感じ。

おそらく、ロンチョン君が教えたんだな。あいかわらず、よく気をまわす人間である。頼むから、その神経を勉強の方に使ってくれ。

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年末年始を遊ぶ

12月31日(木)~1月1日(金)

数日前、電話が入る。

「どうも、Kです」

近郊の大学にお勤めの、K先生(日本人)である。

先日、K先生のお宅におじゃました話は、ここに書いた

「先日、紅白歌合戦を一緒にみよう、と約束したこと、忘れていませんよね」

「偏屈」なK先生らしい物言いである。

「ええ、忘れていません」と私。

「じゃあ、大晦日の夕方5時に迎えに行きますので、大晦日は我が家で過ごしましょう。紅白歌合戦を見ますから、当然その日は、我が家に泊まっていただきます。泊まる準備をしておいてください」

「わかりました」

「それと、翌日は、近くのお寺に初詣に行きます。そして時間があったら、私が天然のスケートリンクを知っていますので、一緒にスケートをしてもらいます」

「天然のスケートリンク?」

「裏山にある池です。この時期になると、池に厚い氷が張るので、私がしょっちゅう遊んでいます」

「はあ」

「じゃ、そういうことで、当日楽しみにしています」

「こちらこそ」

そして当日の31日。

慶州に行ったときに買った慶州生マッコルリ2本と、マートで買ったワイン1本を持って、妻と2人でK先生のお宅に伺う。八公山のふもとの、山里の一軒家である。

マッコルリを飲みながら、K先生の奥さんに作っていただいた「石狩鍋もどき」(本人段)をいただく。ふだん韓国料理ばかりで、日本的な料理に接していない私たちに対する、奥さんのご配慮である。韓国人である奥さんは、日本人以上に日本人的である。おしゃべりも面白い。

7時15分、紅白歌合戦が始まった。

食卓から場所を移し、プロジェクタで映し出された大画面のスクリーンで、紅白歌合戦を鑑賞する。

11時45分までの4時間半。

何年ぶりだろう。

これほど真剣に紅白歌合戦を見たのは、実に久しぶりである。

4人とも、布施明がいちばんよかった、ということで意見が一致した。

ドリカムの感動的な歌のあとに、トリに北島三郎先生が出てきて「まつり」を歌う様子は、NHKらしいシュールなギャグだったのだろうか。

紅白歌合戦が終わり、画面が「ゆく年くる年」に切り替わる。

これも、実に久しぶりに真剣に見る。

自分の勤務地に近いお寺が最初に中継されたときは、思わず食い入るように見てしまった。「ここ、すごくいいお寺なんですよ」と、私はK先生夫妻に力説した。

なるほど、そういえばこれが、私が子どものころの、年末年始の過ごし方だったのだな。

「ゆく年くる年」が終わり、チャンネルを変えると、今度はイチロー選手の、2001年から今に至るまでの、2000本以上にわたる「全安打みせます」という趣旨の番組をやっていた。

イチロー選手がヒットを打ったときの映像を、ひとつ残らず全部みせる、というもの。

ひたすら、ヒットを打つシーンだけが流れる。

それだけでなく、イチロー選手の盗塁や守備のファインプレーのシーンも全部流している。

なんとも偏執狂的な番組である。

しかしこれが実に面白い。ひごろ、イチロー選手にまったく関心のない私も、食い入るように見てしまった。

それを見た結論。

イチロー選手の繰り出す「イヤらしい当たり」を、みすみすヒットにせずにアウトにすることができるようになるためには、イチロー選手なみの守備力がなければダメである。すなわち、イチロー選手の打撃に対抗できる守備の選手は、イチロー選手をおいてほかにない!

なんとも哲学的だ。

深夜2時までかかって、2003年までの600本あまりを見たところで、就寝。

翌日。すなわち2010年の元旦。

朝、目覚めると、大きなスピーカーを通して、FMラジオで放送中の、ヴィヴァルディの「四季」が流れていた。ヴィヴァルディを目覚ましがわりに起きるとはね。

朝食のあと、「天然のスケートリンク」こと、裏山の池に行く。ご自宅から果樹園の中の登り道を歩いて20分くらいの場所である。

池は、カチカチに凍っていた。

そこで、「ジゲット」と呼ばれるソリ遊び(座布団より少し小さい木の板に2本の鉄下駄のようなものをつけたソリのようなものに乗って、2本の短いスティックで氷面を突きながら氷上をすべる氷上ソリ遊び。韓国の子どもたちが冬になるとこれでよく遊ぶという)と、スケート靴を履いたアイススケートを、これまた実に久しぶりにする。

ひとしきり遊んだあと、今度は銀海寺というところに行って、お昼に精進料理をいただき、山中にあるひっそりとした「庵」を見学。そこでも、池が凍っていたので、またしばし「ジゲット」で遊ぶ。だいぶコツをつかんできた。

「これで、本日の観光コースはすべて終了です」

銀海寺を見終わったとき、K先生が言った。

K先生の車で、自宅近くまで送ってもらう。

別れ際、時計を見ると、夕方の4時過ぎである。

「ほぼ24時間、遊びましたね」と私。

「楽しい二日間でした」と、K先生。

またの再会を約束して、お別れした。

結論。本気で遊ぶのは、すごく疲れる。

家に帰って、倒れるように眠り込んだ。

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