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スタディ

この国の大学では、「スタディ」とよばれる慣習がある。もっともこれが、どのていど一般的なものなのかは、よくわからない。

同じ授業をとっている人たちが、数人ずつグループを作って、課外時間に、一緒に勉強する、というものらしい。直接取材したことがないのでわからないが、授業についていくために、あるいは、授業の予習のために、定期的に集まって勉強するのだという。ま、言ってみれば、自習のためのグループである。

ちなみに、この国の大学では、中間考査や期末考査は、将来の進路を左右するほどの、重要な試験である。だから、授業では、教授の教えを(疑問を持つことなく)しっかりと覚えて、試験にのぞまなければならない。授業に関わる「スタディ」は、そのための重要な手段である。

そういえば、喫茶店などで勉強していると、学生たちが何人か集まって、勉強している光景をよく見かける。あれが、「スタディ」なんだな。

語学の勉強、とくに英語の勉強なども、「スタディ」という形式でおこなっていることが多いようである。喫茶店で、学生どうしが英語だけで会話している光景に出くわしたりするが、あれも、「スタディ」なんだろうな。なにしろ、この国は英語の試験の点数が将来を左右するのだから、英語の勉強にかけては必死である。

たぶん、日本の大学にはみられない習慣だと思う。

そして大学院にも、「スタディ」という習慣がある、という。

もちろん、日本の大学院生も、大学院生どうしで研究会をする、ということはよくある。だが、それとは、ちょっとニュアンスが違うように思える。こちらの方は、どうも学部生の「スタディ」の延長、のように思えてならない。

学生どうしが刺激しあって勉強に励む、それじたいはよいことだと思うのだが、それも度が過ぎると、たんに「群れて」勉強している、にすぎなくなる。

私は学生時代から、「群れて勉強(研究)する」という行為が、あまり好きではなかった。

どこかで、「勉強(研究)とは、究極的には、孤独な営みである」と、考えていたからかもしれない。

だから、駆け出しのころ(いまも駆け出しだが)、同じ専門の若手研究者たちが集まるような研究会を、どこか冷めた目で見ていた。

もちろん、義理で何度かつきあったことはある。

しかし残念ながら、そうした研究会から、得るものはあまりなかったのである。

だから、同じ方向性をもった人たちだけが集まる「スタディ」という習慣にも、なんとなく違和感を感じているのかも知れない。

もうひとつ、「スタディ」という習慣に違和感を感じるのは、これが、「ミウチ意識」を醸成する役割をはたしているのではないか、という疑念である。

この国で生活していて思うのは、この社会に存在する強烈な「ミウチ意識」である。

ここでいう「ミウチ意識」とは、ミウチに対する接し方と、ミウチではないものに対する接し方に、極端なほど差異をもうける、という意識のことをさす。

これは、何度も経験したことであった。もちろん、自分が外国人だからかも知れない。日本に留学する外国人も、同じ気持ちを抱いているのかも知れない。だが、どうもそれだけでは説明できない部分もある。

卑近な例でいえば、学閥である。

この社会では、人間関係が、学閥によって説明できる場合が、何と多いことか。

その最小単位が、「スタディ」なのではないか。

そして、この「強烈なミウチ意識」に支えられた「スタディ」に、いま、静かな問題が起きはじめているのである。(つづく)

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