2月4日(木)
日本の大学院生のCさんは、昨年6月から11月末までの半年間、交換研修という制度で、ソウルにある博物館で勉強した。
Cさんは、背が高くてかっこいい、さわやかな青年である。人間性もすばらしく、まわりに対する気遣いも抜群である。たちまち、研修先で人気者となる。研修先の誰もが、半年で日本に帰ってしまうことを惜しんだ。
私も、彼と何度か仕事をしたり、旅行をしたりしたが、好青年だな、と、素直に思う。
さて、今日から2日間、忠清北道の清州というところで学会があるので参加にすることにした。
会場で、Cさんと再会する。所用で数日間、韓国に滞在しており、学会があると聞いてやってきたのだ、という。
彼は、学会のスタッフでないのにもかかわらず、さりげなく椅子や机を運んだり、受付を手伝ったりする。それが自然にできるのがすごい。好青年ぶりは、健在である。
私は、こちらに来て、もう何度、学会に参加しただろうか。
この間、かなりこまめに、学会に参加した。日本から長期滞在したこの分野の研究者で、これだけ学会に参加した人間は、まずいないだろう。
そして、学会の内側ともいえる世界にも、何度か立ち合ってきた。
韓国語がわかるようになるにつれ、学会における議論の内容や、内部事情が、わかるようになってきた。そしてそのたびに、「カルチャーショック」を受け、ときに、精神的なストレスを感じたこともある。
知れば知るほど、知らなくてもいいことに遭遇するものなんだな。まさに「アルジャーノンに花束を」だ。
だから学会に参加することは、思いのほか、精神を消耗する。
とくに消耗するのは、学会のあとの懇親会(会食)である。
日本の学会でも懇親会があるが、こちらの懇親会にくらべれば、たいしたことはない。
この日も、1次会で食事、2次会でビールを飲んだあと、3次会でノレバン(カラオケ)に行くことになった。
2次会が終わり、大部分の人が帰ったのだが、私や妻、そしてCさんはつかまってしまい、ノレバンに連行される。
そうしたなかでも、Cさんは、韓国の歌を上手に歌って場を盛り上げる。どこまでも好青年である。
3次会で終わるかと思いきや、4次会にも連れていかれ、夜12時半、ようやく解放された。
韓国の先生方が5次会に向かうなか、私たち「若手」は、歩いて宿舎に向かう。
途中、Cさんが私に話しかけてきた。
「先生」。彼は私をこう呼ぶ。
私からすれば、Cさんは少し年下の後輩、というつもりでいたのだが、20代半ばの彼からすれば、やはり私は「先生」にみえるのだろう。
「この1年3カ月、どうでしたか」
「はっきり言って、大変でした。この1年で、10年分くらいの体験をした感じです」と私。「体をこわさなかったのが、不思議なくらいです」。
「学生の僕が言うべきことではないかも知れませんけど、先生が韓国で勉強されたのは、本当にすごいことだと思います」
例によって、彼の気遣いの発言である。
「どういうことです?」と私。
「僕みたいに、韓国をフィールドに研究している人間が韓国に留学することはあたりまえなんです。でも、先生のように、日本をフィールドにして研究している研究者が、韓国の学界に深く関わる、ということは、いままでほとんどなかったでしょう。じつは韓国の学界にとっていちばん必要とされるのは、まさにそういう研究者だと思うんです」
お世辞のような彼の言葉を聞きながら、思い返す。たしかに、もともと韓国ではなく日本をフィールドとしていた研究者が、韓国の学界にここまで深く入り込む、なんてことは、私の先輩方を見渡してみても、ほとんどなかったように思う。
「先生がこれから、韓国の学界と日本の学界のかけ橋になれば、韓国の学界も大きく変わっていくと思うんです」
愚鈍な私をみかねて、励ましてくれた彼の言葉に、私はなんと答えてよいかわからない。
かけ橋、か。
今日の学会の休憩時間のことである。
学会に参加されていた、研究のための長期休暇で韓国に滞在されているB先生とお話をする。B先生も韓国をフィールドとする研究者である。私と専門は異なるのだが、私が韓国で勉強するうえで、最も影響を受けた先生のうちのひとりである。
B先生は私に、韓国のある学会の、理事になってくれないかとおっしゃった。
「り、理事ですか?」
いきなり面食らったが、冷静に考えれば、日本にくらべて研究者の絶対数が少ないにもかかわらず、学会の数が多い韓国では、それだけ、役付きの会員も多い、ということになる。だから役付きになることは、それほど珍しいことではないのだ。
「たぶん、あまりお役に立てないと思います」と私。だいたい私は、そういうことに向いていない。韓国の濃密な人間関係のなかで、うまくやってゆく自信などないのだ。
「日本との橋渡しみたいなことをやってもらいたいんです。いままでそれを、私ひとりがやっていたんですが、もうひとり必要だ、ということになって…。あなたなら、こちらの(学会の)いろいろな事情についても知っていますし…」
日本との橋渡し、と簡単に言うが、実はいくつもの越えがたい困難があることを知っていた。日本と韓国の、両方の事情を知っているだけになおさらである。やはり知りすぎる、ということは、不幸なことなのだ。自分には、そんな仕事、とてもつとまらない。
しかし、いままで、その先生はおひとりで、その「重い荷物」を背負っておられたのだな、とふと思う。本当の意味での「学恩」を受けている私としては、その先生の背負っているものを、少しでも軽くしなければならないのではないだろうか。先生も、それを望んでおられるのかも知れない、と思い直した。
「わかりました」と私。
それにしても、日本の学界ではほとんど相手にされていない、虫けらのような私が、偉そうに橋渡しだなんて…。さて、これからどうやって、橋渡しをしていけばいいんだろう、と、苦笑せざるを得なかった。
そしてB先生を指導教員としているCさんも、いま、私に同じようなことを言っている。
「かけ橋」という言葉に、ふたたび苦笑する私。
「うっかり韓国に留学してしまったばっかりに、えらいことになってしまったなあ。私に、そんな力なんか、全然ないのに…」
そうつぶやくと、Cさんは言った。
「これから先生は、韓国と日本とのあいだで、今まで以上にいろいろな仕事をされるようになると思いますよ。それで、学界は確実に変わっていくと思います」
私自身は悲観的なのだが、楽観的に考えるのも、彼の持ち味なのだろう。
「ま、これも運命とあきらめて、これから重い十字架を背負っていくしかないのかな…」
と、冗談交じりに言うと、
「僕にできることがあったら、なんでもお手伝いします」
と彼は言った。最後まで、相手を気遣う青年である。そしてその言葉に、少し救われる。
いろいろな人の、さまざまな言葉に励まされた、1年3カ月。
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