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2010年2月

アンニョン!韓国

2月27日(土)

さて、1年3カ月にわたる韓国滞在記も、これでおしまい。

もう、お別れのあいさつをすべき人に、ひととおりあいさつを済ませてしまったから、とくにこみ上げてくる感慨などはない。

この1年3カ月は、何かを得たような気もするし、何も得なかったような気もする。

よくわからない。

確信を得たものはなにひとつなく、煩悶することだけが増えたような気がする。これからも、煩悶し続けるのだろう。

さて、この日記は、どうしよう。

いままで書ききれなかった韓国の印象とか、後日談とかを、細々と書いていこうか。それとも、ひきつづき、日本での出来事を書いていこうか。

何も考えていない。

それよりも、韓国語日記を続けなければならない。

昨日(26日)、語学院の先生数名と、夕食をご一緒したときのことである。

4級の時の文法の先生がおっしゃった。

「先日、미카미씨の日記を読んでいたら、夜が明けてしまったんですよ」

4級の先生お二人のうち、マラギの先生この前、結婚が決まって寿退社した先生)がディープな読者である、ということは知っていたが、文法の先生まで読んでおられたとは、驚いた。

「『韓国語の会話が上達するためにはどうすればいいですか?』『壁に向かって話せばいいでーす』」などと、ずいぶん細かいところまで覚えていらっしゃる。

「実は、私も読者です」

その場にいらした、教わったことのない先生も、カミングアウトした。

さらに、「いつも読んでいます」と、コメント欄にではなく、私信をいただく先生もいる。その先生は、大変申し訳ないことに、お名前と顔が一致しない。

そして今日。

「せっかちな先生でーす」

というコメントが・・・。

2級の時の「粗忽者の先生」である。韓国語に翻訳するときに、「せっかちな先生」となおしたのだが、ご当人がご覧になっていたとは知らなかった。おそらく、昨日の会議でナム先生あたりから聞いたのだろう。

まったく、冷や汗ものである。

これに加えて、2級の時の大柄の先生と、3級の時のナム先生が、かなりディープな読者である。

うーむ。やめるにやめられなくなってしまった…。

いちおう、「一生、韓国語日記書きます」などと、「水曜どうでしょう」ばりに宣言してしまった手前、しばらくは続けなければならないだろう。

10年後も、はたして続いているだろうか。私もわからない。

しかし、人生、とは、おもしろい。

数年前には考えもしなかったようなことが、起こるのだから。

「導かれている」とでも言おうか、「転がってゆく」とでも言おうか。

どこへ導かれるかわからない。どこへ転がってゆくかわからない。

だから、捨てたもんじゃないのだ。

このことだけは、確信できる。

…なんて、教訓めいたことを書くようになったのも、韓国で生活したおかげか。

ひとまず、「アンニョン!韓国」。

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아버지의 '서투른 삶'

우리 아버지는 삶이 서투른 편이다.

아버지는 할아버지가 하신 목수 일을 물려 받지 않고 회사원이 되었다.하지만 회사를 그만둔 적이 많이 있었다.

그래서 실업중에는 어머니 대신 집안 일을 하시곤 했다.

나는 10세 대  '사춘기'때 아버지의 '서투른 삶'이 싫어서 열심히 공부했다.아버지와 다른 인생을 보내기 위해서 학교에 가나 잡에 있으나 공부했다.

내가 대학생 때 아버지에게 대학원에 가서 계속 연구를 하고 싶다고 말했더니 아버지는 아무것도 말씀하시지 않고 등록금을 내 주셨다.

나중에 어머니가 말씀 해주신 이야기에 의하면 아버지는 다른 사람한테 돈을 빌려다가 등록금을 내 주셨다고 했다.

아버지는 사실은 내가 계속 연구하는 것을 싫어하셨다.내가 일찍 취직하면 좋겠다고 생각하셨다.그래도 그런 말을 하시지 않고 내가 하고 싶은 대로 하는 것을 허락해 주셨다.그 때 아버지가 '열심히 해'라고 말씀하신 것이 엊그제 같다.

나는 지금 내가 중학생 때의 아버지와 같은 나이가 되었다.지금 생각해보면 아버지의 인생은 전혀 '서투른 삶'이 아니다.내가 넘을 수 없는 삶이다.그것은 내가 아이를 키우다 보면 더 알게 될지도 모른다.

"내가 넘을 수 없는 아버지의 인생"   

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本当のはじまり

2月26日(金)

あいかわらず、体力の限界、の日々が続く。しかし、お別れのあいさつにまわらなければならない。

午前11時、お世話になった教授と一緒に、八公山のふもとの食堂で昼食をご一緒する。その教授は、私とほぼ同じ世代で、専門も近いことから、親しくさせていただいていた。とくに、研究会や学会があると、誘っていただき、会場まで教授の車で、よく乗せていっていただいていていた。その意味で、私たちをいちばん気にかけてくれていた先生だった。

昼食後、大学にもどり、午後1時半に、語学院に向かう。語学院にお世話になった先生たちに、最後のあいさつをするためである。

この日、3月1日からの新学期を前に、先生方の全体会議がある、とうかがっていた。先生方が全員いらっしゃるこの機会をとらえて、お別れの挨拶をしておこうと考えたのである。

私が教わった先生方に、チョコレートをお渡しすることにした。それだけでは味気ないので、メッセージカードを添えることにする。

柄にもないことをやることに加えて、十分な時間が取れないまま、メッセージを書いた。慌てて書いたので、あるいは文法や単語に間違っているところがあるかも知れないが、もはやそれを判断する元気もない。

午後1時半すぎ、語学院の2階で待っていると、会議が終わり、先生方が会議室から出てきた。先生方は私たちに気づき、私たちも、先生方と一緒に5階の教員室までご一緒した。

5階につくと、先生方は、一目散に教員室へと入っていった。私たちもあとをついていくと、先生方は、私たちのことなどそっちのけで、パソコンの前に群がっている。

そうか。今日は、冬季五輪のフィギアスケートの日だったな。ちょうど、結果が出ているところだったようだ。

「キム・ヨナ。史上最高得点で金メダル!」

先生方が盛り上がっている。タイミングの悪いときに来てしまったものだ。

「あの…」

「あら、ごめんなさい」

ようやく私たちに気がついた。

五輪の結果でいてもたってもいられないご様子だったので、習った先生方にチョコレートをカードをお渡しして、別の部屋に移る。

別の部屋でも、やはりパソコンの前に先生方が集まっている。

同じように、お世話になった先生にチョコレートとカードをお渡しした。

お世話になった先生に対して、緊張のために、きちんとした挨拶の言葉が出てこない。すると,、3級の時にお世話になったナム先生がおっしゃった。

「またお会いできる、と考えましょう。きっと、お会いできますよ」

その言葉に、少しだけ元気をもらう。

そして慌ただしく、部屋を出た。

語学院の建物を出て、構内を歩いていると、私を呼ぶ声がした。

「미카미キョスニム!」

振り返ると、おおぜいの新入生たちに混じって、4級の時のリュ・リンチンさんリュ・チウエさん、そして2級の時のチャン・ハン君がいた。声の主は、リュ・リンチンさんだった。

「今日、大学の入学式だったんです」

入学式が終わって、食品栄養学科の先輩に連れられて、大学の構内を案内してもらっているところだという。

「明後日、日本に帰るんですよ」と私。

「そうですか、…寂しいですね」と、リュ・チウエさんが言った。

「しっかり勉強しなさいよ」

「キョスニムも、お元気で」

そうか。彼らにとっては、これからが本当のはじまりなのか。

彼らの晴れやかな顔を見て、私にとっても、これからが、本当のはじまりなのかも知れない、と思った。

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OQさん

2月26日(金)

今日は、前の職場の同僚、OQさんの命日。

私が、韓国への留学を本気で考えたのは、OQさんと一緒に、それまでに何度も韓国に旅行に行ったことが、大きな理由である。

OQさんとの旅行を通じて、韓国は自分の中で大きな存在となっていった。それは、OQさんの人間的魅力によるところが大きい。

OQさんは、研究者として、教育者として、そしてひとりの人間として、尊敬すべき人物だった。愛すべき人だった。

凡百の研究者にはない構想を持っていた。

OQさんは、40代の時に、韓国に1年間留学した。

この留学が、おそらくOQさんのその後の研究人生に、決定的な変化をもたらしたのだろう。研究の対象は、日本から、韓国をふくめた東アジアへとひろがり、これからまさに、壮大な学問体系が構築されるはずであった。

その矢先、51歳の若さで、突然、この世を去った。いまから4年前のことである。

そのときの気持ちは、語学院の3級の時の宿題の作文で、書いたことがある。

私は、OQさんが、1年間、韓国で何を学び、何を感じたのかを、直接この目で確かめたかった。

できることなら、OQさん以上に、韓国で、多くのことを吸収したい、とも思った。

彼のまなざしを、少しでも受け継ぎたい、と思った。

不遜な考えだ、といわれるかも知れない。

韓国に滞在中、いろいろなことを経験した。ここでは書けないようなことも、たくさん。

そのたびに、「OQさんなら、こんなとき、どんなことを思うだろう」と自問した。

OQさんに対して、恥ずかしくないような、韓国留学にしよう、とも思った。

OQさん。

いよいよ2日後、帰国します。

私が韓国で感じたさまざまなことは、あなたが感じたことと同じだったでしょうか。

私は韓国で、あなたよりも多くのことを吸収できたのでしょうか。

私の1年3カ月の韓国滞在は、これでよかったのでしょうか。

そして、OQさん。

いつか、友人のこぶぎさんが書いてくれたように、私があなたの年齢に追いついたとき、あなたとパンマル(ため口)で、話すようになるのでしょうか。

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もはや限界

2月25日(木)

おおかたの荷物は、22日(月)に、日本に送った。

一昨日、昨日とソウル。そして、今日は、お世話になった大学の先生方に挨拶まわりをする。

「最後の一週間は大変ですよ。送別会続きで」とは、知り合いのアドバイス。だが、思ったほど、送別会は行われなかった。私も妻も、友達がいないからであろう。

それでも、お世話になった方と、昼食や夕食を一緒に食べるだけでも、かなり疲労する。

帰国の準備に加え、休む間もなく挨拶まわりをしたため、さすがの妻もダウンした。

もともと、全く役に立たない私の代わりに荷物の整理をしたりもしていたため、体力的にも限界だったのであろう。これでは、愛想を尽かされたとしても、一言もない。

何もしていない私も、もはや限界。

明日も、挨拶まわりや会食がつづく。

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最後の旅行

2月24日(水)

2年以上も前のことである。

私とほぼ同世代の、ソウルにある大学の先生から、次のようなことを言われた。

「もし、お二人が韓国に長期滞在が決まったら、いちど私の車でドライブしましょう」と。

正確には、私に、ではなく、そのときに横にいた妻に言ったセリフなのだが。

で、運よく二人とも、同じ時期に韓国の長期滞在が決まり、それも、もう終わろうとしている。その先生は、2年以上も前の約束をまだ覚えていて、「帰国前に、必ず約束を果たしましょう」と言っていただいた。

そして今日、その約束が実現したのである。

本当は、12月に実施する予定だったのだが、その日、ソウルに大雪が降ったせいで果たせず、今日までのびのびとなったのである。

行き先は、妻が行きたいところ。「ソウルから少しはなれた、朝鮮王陵に行きたい」と。

朝鮮王陵は、昨年の6月に世界文化遺産に登録された場所である。

朝10時、ソウルを出発。車の運転は、その先生ではなく、先生の教え子である大学院生の方が担当し、総勢4人の日帰り旅行。

その先生は、私より年齢が少し上だが、韓国の学界では、第一人者である。その彼が、愚鈍で「座持ちの悪い」私のために、1日つきあってくれたことに、私は感謝した。

それ以上に感謝したかったのは、運転をしてくれた大学院生の方である。教授に言われたこととはいえ、黙々と仕事をこなす姿勢に敬福した。

それになにより、運転がメチャクチャ上手い。道もよく知っていて、カーナビなしでスイスイと走ってゆく。おかげで、実に快適な旅となった。

たぶん、今まであった韓国人の中で、いちばん運転が上手い人だ。

「どうしてそんなに運転が上手いんですか?」

と聞くと、「軍隊の時に鍛えられましたから」という。たぶん、それだけではないだろう。天性のものがあるのだと思う。

その彼は実は、私が一昨年の11月末に韓国に来たときに、釜山(金海)空港から大学まで、車で私を迎えに来てくれた人であった。彼の運転のおかげで、私は、当日の学会発表に間に合ったのである。

そして、帰国直前の、最後の旅行でも、彼の運転のおかげで楽しい時間を過ごすことができた。

最初に私が韓国に来たとき、韓国語がほとんどおぼつかなかった私のことを知っている彼には、いまの私はどう映っているのだろうか。

聞いてみたい気もしたが、「おかげで、韓国滞在の最後によい思い出になりました」とだけ言って、お別れした。

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今日も長い一日

2月22日(月)

つくづく、自分は引っ越しに向いてない人間だと思う。

研究室に置いていた本をダンボールにつめて、日本に送る作業。韓国でビックリするくらいの数の本を買ってしまったため、日本から持ってきたときの、3倍以上の量になってしまった。

それを、順次ダンボールにつめていくのだが、どの本をどこにつめるか、を考えているだけで、あっという間に時間がたってしまう。

そして、今日、ようやく目途がつき、夕方、郵便局の職員に来てもらって、ひきとってもらうことになった。

午後、いつものように掃除のアジュンマが研究室に来る。

しかし、部屋はダンボールだらけで、掃除ができる状況ではない。

「またあとで来ます」とアジュンマ。

私たちは、「お世話になりました」といって、例の手ぬぐいを渡すと、アジュンマは恐縮されて、研究室を出た。

しばらくして、アジュンマが研究室に戻ってきた。

「あの・・・どうしても気になっていたんですけど、その詰め方では、本と本のあいだがスカスカで、運ぶときにダンボールの中の本が揺れて、傷んでしまうと思いますよ」

私が、本をダンボールにつめている様子を見ていたらしい。

「もっと詰め込まないといけません」

妻も、そうでしょう、とばかりに、アジュンマの意見に同意する。妻もたまりかねていたようだ。

「詰めなおしてもいいですか?」とアジュンマ。

そういうと、アジュンマと妻が、勢いよく、私の本を詰めなおしはじめた。

ここ数日間、考えに考え抜いたあげく分類して詰めた本の秩序が、一瞬にして壊されてゆく。私はわなわなと震えた。

アジュンマにしてみれば、せっかく手ぬぐいをもらったお礼に、何かお手伝いしたい、と思ってくれたのだろう。

最初こそ、「なんてことしてくれるんだ!」と思ったが、おかげで、ダンボールの数がずいぶん減ることになった。それでも、28個にものぼったのだが。

午後4時、箱詰めが終わったころ、郵便局の職員のアジョッシが箱をとりに来た。

妻の荷物と合わせると何と38個のダンボール。しかもそのほとんどが、本である。ふつう、引っ越しの業者だったら、絶対にいやがる客である。

しかしそのアジョッシは、イヤな顔ひとつせず、実に親切に、そして丁寧に、ひとつひとつの箱の重さを量り、料金を算出し、運んでくれた。

ここまでの作業が、約2時間。すでに時計は夕方6時をまわっていた。最後は、守衛のハラボジまでダンボール運びを手伝ってくれた。やはり手ぬぐい効果か。

帰り際に、郵便局のアジョッシが、おみやげまでくれた。何と優しいアジョッシだろう。

「大邱のことでわからないことがあったら、いつでも連絡ください」と、名刺までくれた。

今まで出会った韓国人の中で、いちばん親切で、優しい人かも知れない。

ともあれ、本のダンボール28個を日本に運ぶ、というまったくもって非常識な客であるにもかかわらず、親切な人びとの助けで、なんとか送り出すことができた。

このあと、私たちは、タクシーに飛び乗って、市内のデパートに向かう。

私と妻の両方が習った、語学院の4級の時の先生と食事をするためである。この先生は、今学期をもって語学院をやめ、4月に、かねて交際していたナムジャチング(ボーイフレンド)と、結婚することになった、というのである。お祝いをかねて、お二人を食事に誘うことにした。

デパートで、あわただしくも結婚祝いのプレゼントを買い、お二人と合流。焼肉を食べながら、いろいろな話をする。

「お二人ともを教えたのは、語学院では私だけなんですよ」と先生は、少し誇らしげにおっしゃった。ま、そんなたいした自慢でもないとは思うのだが。

先生はまた、

同窓会登山は楽しかったですねえ。いちばん楽しい思い出です」

とおっしゃった。私たちも、同感である。

「結婚することは、まだ語学院の卒業生たちには言ってないんですよ。ホ・ヤオロン君にも」

たしかに、先生と結婚したがっていたホ・ヤオロン君が聞いたら、ショックだろうな。でもこれで、彼もソウルという新天地で、心おきなく新しい大学生活をはじめられるだろう。

気がつくと10時30分近くになっていた。

「もし、新婚旅行が日本だったら、私たちに連絡ください。案内しますから」

そういって、お二人とお別れした。

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引っ越し、そして料理対決

2月21日(日)

いよいよ、1年以上住んでいたワンルームをひきはらい、大学のゲストハウスに引っ越す日。

なぜ、残りの1週間を、大学のゲストハウスですごさなければならなくなったのかについては、いろいろ事情もあるのだが、まあそれはよい。

荷物をゲストハウスに運ぶのに車が必要なため、大学院生のウさんにお願いしていたのだが、なかなかあらわれない。

午後1時半頃に電話して、「いまから行きます」とのこと。

聞いてみると、昨晩、というか、今朝の5時までソウルで飲んでいて、早朝の高速バスで大邱に戻ってきたらしい。そうとうな二日酔いだったそうだ。

午後3時前に引っ越しは無事終了。ウさんが「いまからドライブしましょう」と。前に妻が、「星州というところにある、ある場所に行ってみたいが、車がないので、今度連れていってください」とウさんに言っていた。その場所に、連れていってくれるという。

妻にとっては念願のその場所に訪れ、大邱に戻ったのが午後6時。さらにウさんが「いまからうちで日韓料理対決をしましょう」と。これも懸案だったものだ。

お宅におじゃますると、栄養士であるウさんの奥さんが、すでにお好み焼きの材料をほとんどそろえていて、「おたふくソース」まであるではないか。薄切りの豚バラ肉も、調達できた。

さっそく、妻と二人で、以前練習したように、お好み焼きを作りはじめる。といっても、実質は、ほとんど妻が作ったのだが。

練習の甲斐あって、お好み焼きはみごと成功。これに対抗して、ウさんの奥さんが作った「パジョン」(韓国風お好み焼き)もいただく。こちらも美味しい。料理の軍配はこちらにあがったが、ウさん夫妻が気を遣ってくださったのだろう。

かくして、「日韓お好み焼き対決」も無事終了。楽しくも長い1日だった。

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2本の手ぬぐい

2月20日(土)

いよいよ明日は、住んでいたワンルームをひきはらう日。

最後の1週間は、大学の寄宿舎で過ごす。

荷物を整理していると、丁寧に包装された手ぬぐい2本が出てきた。

一昨年の11月、私が韓国に来る直前に、「これからお世話になる人に渡すように」と、妻の提案で、デパートで、しゃれた日本手ぬぐいを10本ほど買い、きれいに包装してもらった。

韓国へ到着して、お世話になった人や、これからお世話になりそうな人に渡したのだが、10本のうちの2本が残り、いまのいままでそのままにしてあったのだ。

さて、この2本をどうしようか。せっかくだから、お世話になった人にさしあげることにしよう。

では、誰にするか。

個人的には、お世話になった語学院の先生にさしあげようか、とも思ったのだが、2本しかないので、誰にあげた、誰にあげないということになり、カドが立ってしまう。

「博物館の守衛のハラボジ(おじいさん)と、掃除のアジュモニ(おばさん)にあげたら?」と妻。

なるほど、それはいい。

研究室を借りている博物館は、夕方6時過ぎになると、建物に鍵がかかってしまう。夕方6時以降、翌朝まで、守衛のハラボジがひとりで、博物館を守っているのである。

また、土、日は博物館が休館のため、職員が出勤しない。やはり1日中、建物に鍵がかかり、守衛のハラボジがひとりいるだけである。

私は原稿にせっぱつまると、時間や休日に関係なく、研究室のある博物館にかけこんだ。そのたびに、守衛のハラボジは、面倒くさがらずに、快く鍵を開けてくれたのである。

私のさまざまな原稿がこれまでなんとか進んだのも、ひとえに守衛のハラボジのおかげである、といってよい。

守衛のハラボジは、サトゥリ(訛り)がきつくて、何を言っているのか、最初はよくわからなかった。

だが、コミュニケーションをとっていくうちに、しだいに言っていることがわかってくる。おそらく、私がいちばんコミュニケーションをとっていた韓国人は、この守衛のハラボジだったのかも知れない。

「これ、ソンムル(贈り物)です」と、手ぬぐいを渡すと、守衛のハラボジは照れくさそうに笑いながら、

「アンニョンヒカプシダ」(気をつけて帰ろう)

とおっしゃった。

そしてもうひとり、掃除のアジュンマ。

毎週月曜日の午後に研究室にやってきて、ひとしきり話して帰る、という話は、以前に書いた

この方も、訛りがきつくて、話が聞き取りにくい。

あるとき、掃除のアジュンマが言った。

「私の話、面白くないでしょう」

「いえ、面白いですよ」と私。

「私、外国の人とこんな風に話すのはじめてなんですよ。いつも、研究室でおひとりでいるので、退屈だろうと思って、なんとか面白い話を用意してきているつもりなんですけど…外国の人にとって、こんな話が面白いかどうか…」

そうか、やはり、話すネタをあらかじめ用意しておられたんだな。私はそのとき、掃除のアジュンマの心遣いに心から感謝した。

帰国の荷造りに際しても、あちこちを駆けまわって、ダンボールを調達していただいた。

だから、お世話になったお礼の品をお渡しするのに、いちばんふさわしい人かも知れない。

来週の月曜日、最後の手ぬぐいをお渡しすることにしよう。

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「アボジ」の作文、取りもどす!

2月19日(金)

懸案だった「アボジ」の作文

語学院の主任の先生が、探し出してくださった。

夕方、語学院5階の教員室に行って、ついに「アボジ」の作文を取りもどした。

「ほら、10点満点の10点で、点数の下に『加算点』とあるでしょう。文法的に多少誤りがあっても、内容がすぐれている場合には、加算点が与えられるのです。こんなこと、語学院ではじめてではないかしら」と先生。

「試験の答案用紙は、どのくらいの期間、保管されるものなんですか?」

とたずねると、

「3年です」

という。

「万が一、学生から成績について問い合わせが来たときに、対応できるようにしているんです。ま、いままで、そんなことはなかったんですけど」

…すると、私が過去の試験の答案を見せてくれ、という面倒なお願いをしたのも、語学院はじまって以来、ということか。

ともあれ、これで、思い煩わずに帰国できる。ただ、これを書いている時点で、まだ、「アボジ」の作文は読み返していない。いずれ時間ができたときに読み返して、ここに再録することにしよう。

「日本に帰ったら、アボニム(父上様)に翻訳して、読み聞かせてあげなさいよ~」と先生。

残念ながら、今のところ、そのつもりはない。

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済州島(チェジュド)にやられる

2月16日(火)~2月18日(木)

帰国前に、どうしても行っておきたい場所があった。

済州島(チェジュド)である。

韓国で、最も人気の高い観光地である、といってよい。

1年以上も韓国にいるにもかかわらず、済州島に行かないのは、どう考えてももったいない。しかも調べてみると、大邱空港から頻繁に飛行機が出ていて、1時間で済州島に着くという。

日本から行くことの手間を考えたら、大邱にいるうちに済州島に行っておくべきである。

それに、済州島の独特な民俗にも興味がある。

そこで、帰国直前の慌ただしいなか、2泊3日で済州島を旅行することにしたのである。

済州島に行く前、いろいろな人から、「済州島は、どの季節に行ってもよい」と言われていた。気候が温暖で、冬でもすごしやすい、ということなのであろう。

そこから私は、日本で言うところの、奄美や沖縄、といった南の島のイメージを、漠然と想像していた。

ところが私たちがついた初日は、えらく寒かった。奄美や沖縄どころではない。大邱と変わらぬ寒さではないか。

こごえながら、名所を見学する。初日は、島の北部、済州市をめぐった。

そこからバスで、西帰浦という、済州島の南部の町に移動。私たちが泊まるホテルがある場所である。

西帰浦は、北の済州市よりも、いくぶん暖かいと言われていたが、それでもやはり寒い。西帰浦は、済州島のなかでも、みかんや、「ハンラポン」という柑橘類の特産地だった。「ハンラポン」の「ハンラ」とは、済州島の中央にでんと構えているハンラ山の名前からとったもの。日本の果物でいうところの「デコポン」である。

そこでようやく気づく。そうか。済州島は、奄美や沖縄、というイメージよりも、和歌山、といった方が近いのか。

和歌山だと思えば、この寒さも、納得がいく。

2日目も寒い。

午前、西帰浦市内の名所をまわった後、午後、路線バスを乗り継ぎ、1時間以上かけて、「ソンウプ民俗マウル」という民俗村に行く。ガイドブックによれば、済州島の昔の集落がそのまま残っていて、いまでもそこに人が暮らしているという。ガイドブックでも、「おすすめ度」は高い。

だが、行ってみると、観光客など誰もいない。村の「ボランティアガイド」と名のる人に、「どうやっていらしたんですか」と聞かれたので、路線バスだと答えると、たいそう驚かれた。そうだよな。こんな不便なところは、車か観光バスでくるのがふつうだよな。

その、ボランティアガイドを名のる人に説明を受け、最終的には、値段の高い五味子茶を買う羽目になった。ここらあたりから、ちょっと雲行きが怪しくなる。これって、「無料ガイド」を騙る悪徳商法なのではないか?そういえば、この方、なぜか村の中に入らず、村の外でだけ説明していたな。なぜ、村の中に入って、肝心なところを説明してくれないのだろう。

ひょっとすると、この村の人だ、というのも、嘘なのではないか?

…と、例によって、妄想が広がっていく。

マウルの中をしばし歩いてみたが、どうも映画のセットみたいにウソっぽく思えてくる。本当に、伝統的な村なのか?

何とも不思議な空間であった。

そして、少しばかりの後味の悪さ。

いや、これは、マウルのせいではない。いま思えば、この時点ですでに、体調が悪化していたのかも知れない。

3日目。

朝から妻がダウン。ホテルから一歩も出ることができなくなる。

仕方なく私は、ひとりで付近の名所を見学する。雪が舞って、かなり寒い。それに、ひとりで見学していても、面白くもなんともない。

お昼ごろから、私の体調も悪化しはじめる。全州に行ったときと同じように、原因不明の胃痛である。悪寒もする。「これはやばい」と思い、昼食をとらずにホテルに戻る。

ホテルで荷物を受け取り、バスに乗って、一路空港へ。本当はこのあと、空港の近くの博物館を見学して、、図録をしこたま買い込む予定だったのだが、博物館に行く元気もない。「図録を買うのをあきらめる」くらいだから、そうとうな体調の悪さである。

結局、予定より4時間はやい飛行機に乗って、大邱に戻る。家に戻り、倒れるように眠り込んだ。

数時間眠ったが、あいかわらず胃痛と悪寒がつづく。明日こそは、帰国準備を始めなければならないのに、この状態が続くと厄介である。どうしよう。

そういえば、昨年11月に両親と妹が韓国に遊びに来たときに、母が「体調が悪いときに飲みなさい」と、小田原名物の「ういろう」を渡してくれたことを思い出した。母は、「たいていの体調の悪さは、『ういろう』を飲めば解決する」という、信仰に近いものをもっている。

そのことを思い出し、「ういろう」を飲んで、再び寝た。

すると翌朝、悪寒はすっかりなくなっていた。胃痛は完全に治ってはいないようだが、ふつうに歩けるくらいに回復した。その後も「ういろう」を何度か飲み続け、体調が、なんとかもとにもどった。「ういろう」、侮り難し、である。

21日(日)には、1年以上住んでいたアパートを引き払い、最後の1週間を、大学のゲストハウスですごすことになる。それまでに、荷物をまとめておかなければならない。慌ただしい日々がはじまる。

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旅行前の憂鬱

2月15日(月)

明日から2泊3日で、念願だった済州島に行くというのに、なんとなく心が晴れない。

帰国の準備も進んでいない。

昨日、久しぶりに、大学の北門の前にある喫茶店、「ダヴィンチコーヒー」に入った。

若い店長がいる店である。

「久しぶりにいらっしゃいましたね。この間、忙しかったんですね」

若き店長は、あいかわらず私の顔を覚えていた。

「ええ。実は、今月末に、日本に帰るんです」

そう言うと、若き店長は寂しそうな顔をした。

「そうですか…。寂しくなりますね」

「アメリカーノください」

会計を済ませて、しばらく待っていると、「アメリカーノです」という店長の声。

カウンターに取りに行くと、チーズケーキが添えられていた。

「これ、…私からのソンムル(贈り物)です」

一番安いアメリカーノばかり飲んで、あまりいい客ではなかったんだがな…。

そして今日の夕食。北門の近くにある中華料理屋。清潔な店だったので、しばしば通っていた。

そして、そこのアジュンマと、親しく話をするようになった。とくに妻は、アジュンマに気に入られたようだった。

「今月末に日本に帰るんです」と妻。

すると、アジュンマは、驚いたあと、やはり寂しそうな顔をした。

「もう、大邱には来ることないの?」

「ええ、たぶん」

「じゃあ、もう会う機会がなくなるのね」

ジャジャ麺(1人分2000ウォン)とタンスユク(酢豚)(6000ウォン)を食べて、しめて1万ウォン。会計を済ませるためにレジに向かうと、アジュンマが、店の奥から何か持ってきた。

「これ、私からの気持ちです」

小さな瓶に入った中国酒。たぶん、あり合わせのものだったのだろう。ありがたく受け取った。

以前、妻は、「いつか日本に旅行したい」というアジュンマに、自分の連絡先を教えていた。

「私が日本に行けば、また会えるわよね」

「ええ、ぜひ日本に来てください」

さて、そんな機会は、訪れるだろうか。

人づきあいが苦手ながらも、この町で、いろいろな人びとと知り合った。その人たちと別れることは、「寂しい」というよりも、「もったいない」というのが、正直な気持ちだ。

せっかく親しくなれたのに、たぶん、もう永遠に、会う機会はないだろう。それは、語学院の先生たちや、語学院で知り合った中国人留学生たちについても同じである。

たぶんいま、心が晴れない原因は、そこにあるのだと思う。

人はそれを、「寂しさ」というのだろうか。

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ソルラルひきこもり

2月14日(日)

ソルラル(旧正月)の日。

今年のソルラルは、誰からも声がかからず、といって、帰国準備をやる気も起こらず、家で漫然とすごす。

496302_125317_308 テレビをつけると、ドラマ「勉強の神」の「12話連続放送」をやる、というではないか。

ドラマ「勉強の神」は、いま、韓国で放送中のドラマである。原作は、日本の漫画「ドラゴン桜」。数年前にドラマにもなった。いわば「勉強の神」は、そのリメイク・ドラマである。

そのときの主演は、阿部寛。気のせいかも知れないが、韓国の人たちは、阿部寛が出ているドラマが、けっこう好きなのではないか、と思う。ちょっと前も、同じ放送局で、「結婚できない男」のリメイク・ドラマが放映されていた。

阿部寛は、個人的には、日本でも稀有な俳優なのではないか、と思う。黒澤明監督の「用心棒」とか、「椿三十浪」とかをリメイクするのだとしたら、阿部寛しかいないのではあるまいか。つまり、三船敏郎的な存在感が、彼にはあるのだ。

といっても、私自身、「ドラゴン桜」も「結婚できない男」も、見たことはないのだが。

こちらでは、現在放映中のドラマが、その都度、何度も再放送されるので、放送時間に見ることができなくとも、あとで何度も見ることができる。そうやって「勉強の神」も、リアルタイムではなく、再放送で、何度となく見てきた。

今日は、ソルラルを記念しての、「12話連続放送」なのだろう。つまり、12時間連続で、これまでの放映分を流す、というのである。一度見ているので、見る必要もないのだが、とくにやることもなかったので、漫然と見てすごすことになった。

このドラマが、何度見ても飽きないのは、ひとえに、出演者たちの芝居のうまさによるところが大きい。主演のキム・スロをはじめ、誰もが、適材適所のはまり役で、おそらく日本の「ドラゴン桜」よりも、はるかに安心して見られるのである(「勉強の神」のおかげで、「ドラゴン桜」がこちらでも放送されるようになった。それを1,2回ほど見たが、主演の阿部寛以外は、芝居がどうもねえ、といった感じだった)。

帰国までに、ドラマが最終回を迎えるかどうか、それだけが気がかりである。

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ソルラル前日の晩餐

韓国で二度目のソルラル(旧正月)をむかえる。

2月12日(金)

以前から、大学内や学会などで、すれ違うたびに「今度、一度食事しましょう」と言ってくださる方がいた。私とほぼ同じ世代と思われる、女性の研究者の方である。

はて、どこかでお会いしたかな、と思うが、正確に思い出せない。いろいろ考えてみると、どうも1年ほど前に、一度、学会で名刺交換をした方のようである。私がいまお世話になっている大学で、所属は違うものの、同じ研究分野の研究者の方であることだけは、はっきりしていた。

で、その約束がのびのびになって、今日、実現することになった。

もうひとり、タプサ(踏査)のたびに「今度、マッコルリを一杯やりましょう」といってくれる男性の若い研究者の方もいた。その方と、その女性研究者の方と知り合いのようで、この機会に食事をご一緒にすることになった。それに加えて、タプサの時の「土器探し名人」の方(女性)。この方も、このおふたりと親しいらしい。

その3人のメンバーに、妻と私をくわえた5人で、食事に行くことにする。

私たちは、この3人の方と、これまでほとんど話らしい話をしたことがない。それに、この3人の方に関する情報が、ほとんどこちらにはないのである。はたして、どんな話をすればいいんだろう?場が持つだろうか?と、いささか心配になりながら、韓定食のお店に向かう。

韓国では、まず、しっかり食事をした後に、2次会で本格的にお酒を飲む、という慣習があるようだ。体にはいい慣習である。

韓定食をごちそうになったあと、マッコルリの店に行く。お話を聞いているうちに、いろいろなことがわかってきた。

まず、私と同世代と思われる女性研究者の方は、数年前、日本のある私立大学に1年間、交換研修で滞在されていたという。そのときにお世話になったのが、その大学で教授をされている、私の大学の先輩であった。その先輩と私とは、私がその先輩の結婚式で司会をするくらいの間柄であった。そのことを聞いていたその方は、私が韓国にいるあいだに一度食事をしたい、と思っておられたようなのである。

もうひとりの、男性の若い研究者の方は、中国に2年間留学した経験を持ち、さらに、今は日本語も勉強しておられる。日本のドラマなんか、私よりはるかに見ているんじゃないだろうか、というくらい、マニアである。

マッコルリの店では、もっぱらこのおふたりがお話しされた。おふたりとも留学経験があるだけに、話題は日本や中国との比較におよんだりして、話が面白い。

とくに、私と同世代と思われる女性研究者の方は、日本にいる間、先生や大学院生の方にとてもお世話になったことを、何度も懐かしげに語られた。「今月末も、日本に遊びに行くんですよ。お世話になったみなさんとも会いたいし」

そして今は、車の運転の練習をしているという。「いつか、日本でお世話になったみなさんが韓国にいらしたときに、私が車で案内できるように」

私たちを食事に誘っていただいたのも、そのときの日本での滞在が忘れがたいものであったことが、御縁になったのだろう。

私も日本に戻ったら、同じことをするようになるのだろうな、と想像した。

私たちの最初の心配は、杞憂に終わった。話に夢中になって、気がつくと深夜12時半をまわっており、6時間にわたる楽しい時間が終わった。

2月13日(土)

ソルラル前日。

午後、ソウルの博物館におつとめの研究官の方から、電話が来る。「ソルラルのために、故郷の大邱に戻ってきました。夜から高校の同窓会の約束があるんですが、その前に少し会いませんか?」

昨年のソルラル前日も、この方に1日おつきあいしていただいて、近郊を案内していただいた。今回はあまり時間がないようで、短い時間、お会いすることになった。

夕方5時に待ち合わせると、「食事に行きましょう」という。タクシーで、市内にあるかに料理の店へ。そこで、かにをたらふくごちそうになる。

しばらくするとその店に、その方の高校の同級生の方が2名ほどやってくる。もちろん、私たちは初対面なのだが、同窓生のおひとりは、私たちに、おみやげとしてお酒を持っていらした。縁もゆかりもない私たちに、高級酒を、である。

「ソルラルの前日は、いつも同窓会なんですか?」と私。

「そうです。だいたい、男たちは、ソルラルの前日の夜に集まって、外の店で同窓会をします。その間、妻は、家で次の日のソルラルの料理を準備したりするんです。だから、妻はいつもこれです」

そういうとその方は、人差し指を突き出した両手を頭の上にかざして、鬼の角のようなしぐさを見せた。

なるほど、韓国の奥さんは大変だな。夫は外で遊んでいるのに、自分は夫の実家で正月の準備をしなければならないなんて。その上、ソルラル当日も、1日中働かされるのだ。怒るのも当然である。

さらに同窓生もうひとりも合流。その方は弁護士で、同窓生の集まりは、その弁護士の方の事務所でおこなわれるという。「同窓生の集まりは、弁護士がいる場合は弁護士事務所、医者がいる場合は病院でおこなわれることが多いんですよ」なるほど、弁護士と医者の、社会的地位をあらわすような話である。

同窓会のじゃまをしては申し訳ないと思い、早々に引き上げることにする。

帰りのタクシーのなかで、ふと考える。そういえば、この研究官の方も、日本に1年滞在された経験を持つ。やはり、日本でのよい思い出のおかげで、私たちはかにをごちそうになれたのではないだろうか、と。

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「アボジ」の作文を取りもどせ!

2月10日(水)。ソウルから大邱に向かうKTXの車内にて。

突然の胃の痛みにたえかね、お腹をさすりながら、横に座っている妻に言った。

「ずっと気になっていることがあるんだけど」

「なになに?」

私が話したのは、次のような内容である。

語学院の4級のときに、スギ試験(作文試験)で書いた「アボジ(父)」をテーマにした作文

この日記でもしばしば書いてきたが、私が4級の時に書いた「アボジ」をテーマにした作文は、語学院の先生のあいだでも、かなり話題になり、文法や表現に多少の誤りがあったにもかかわらず、10点満点をいただいた。どうも、内容が胸をうつようなものだったようで、読んでいて泣きそうになった、という先生もいらした。

韓国語のプロの先生を泣かせた作文。私にとっては、いわば、奇跡の作文である。

ところが、私自身、その作文で、どんなことを書いたのか、まったく覚えていない。

試験の当時は、書くことに必死で、いわば精神が高揚していたため、内容については、すっかりと忘れてしまったのである。

宿題として提出した作文は返却されるが、試験の時に書いた作文は、本人に返却されない。いや、作文にかぎらず、試験の答案は、本人に返却されることなく、すべて回収されてしまうのだ。

だから、その「アボジ」の作文が、いま、私の手もとにはないのである。

私は、そのことが、ずっと気になっていた。はたして私は、どんな内容を書いたのだろう。

そのことを確認しないまま、帰国してしまうと、絶対に後悔するだろう。

「だから、なんとかして、「アボジ」の作文を取りもどしたい」

と私は妻に言った。

「もし、このまま帰国したら、数年後、あるいは、親父にもしものことがあったときに、きっと思い出して、悔やむことだろう。そうなれば、あと、頼める先は『探偵!ナイトスクープ』しかない」

唐突な私の発言に、妻は驚いた顔をした。

「『探偵!ナイトスクープ』に、『数年前に私が書いた「アボジ」という韓国語の作文を、見つけてきてほしい』と依頼を出して、小枝探偵あたりと一緒に韓国に飛んで、語学院を久しぶりに訪れる。そこで、『アボジ』の作文を見つけ出し、語学院の先生方の前で、韓国語で読み上げる。さらに日本に戻り、親父の前でその作文を日本語に翻訳して読み上げる。そして、画面がスタジオに戻り、西田探偵局長とざこば顧問が号泣」

かなり具体的な絵まで想像して話すと、妻はあきれた顔をした。

「そのころにはとっくに、試験の答案なんかシュレッターにかけられてるよ。というか、もう今の時点で、シュレッターにかけられてる可能性があると思うけど」

妻は私に冷や水を浴びせる。私の胃はふたたび痛くなった。

「でも、なんとかして、もう一度、あの作文を読んでみたいのだが…」

「とりあえず、4級の時の先生に、メールで聞いてみよう」

そういうと妻は、その作文を採点した4級の先生のところに、携帯のメールを送ることにした。その先生には、妻も教わっていたことがあるので、よく知っている先生だった。

「じつは先生にお願いがあります。以前、語学院の作文試験で夫が書いた「アボジ」についての作文を、もう一度読んでみたいと、夫が言っているのです。そして私もいちど読んでみたいと思うのですが、見せてもらうことはできるでしょうか」

少したって、先生から返事が来た。

「一度採点した試験の答案を、返してよいものか、私にはわからないのです。主任の先生に相談してみないと、何とも言えないと思います」

うーむ。主任の先生、か。ちょっとややこしいな。

語学院には、ひとり、主任の先生がいて、韓国語の授業のあらゆることをとりしきっておられる。その先生は、若くて美人で、エリートなのだが、妻も私も、ちょっと、苦手なタイプであった。

若いながらも、エリートであることの自覚が多少強かったり、韓国の伝統的な家族観とか倫理観をお持ちであったり、女子高生的な感性をお持ちだったり、と、まあ、私たちとは対極にあるタイプの方だな、と、つねひごろ思ってきた。

さらにややこしいことに、最初に依頼のメールを出した先生は、その主任の先生と、同じ研究室の先輩、後輩にあたる関係で、後輩が先輩に相談することが、なかなか難しいような雰囲気をただよわせていた。ふつうは、先輩後輩の関係であれば、相談しやすいだろうと思うのだが、この場合は、どうもそうではないらしい。あるいは、気むずかしい方なのかも知れない。

だから、その先生を介して、主任の先生に聞いてもらうこともなかなか難しいのである。

うーむ。どうしたらよいものか。

すると妻は、ふたたびメールをうちはじめる。

しばらくたって、「どう?これ」といって、そのメールの内容を私に見せた。

「先生、お元気ですか。お久しぶりです。実はひとつお願いがあってメールしました。夫が4級の時の作文試験で書いた「アボジ」についての作文が、先生方のあいだで、とてもよく書けているとほめられたそうです。それで、どのような内容か私もぜひ読んでみたいと思い、もし可能なら、日本に帰国したあと、それを義理の父(注、つまり私の父)に、ぜひ見せてさしあげたいと思います。そのときの作文を、見せていただくことはできるでしょうか」

妻は、主任の先生に直接送るメールを書いていたのだ。

しかもそこには、「義理の父に見せてさしあげたい」とある。伝統的な家族観とは対極にある妻が、ふつうならば決して書かない表現だ。

「つまり、この『義理の父に見せてさしあげたい』というところがミソなわけね」と私。

「そう」と妻は答え、メッセージを送信した。

するとしばらくして、主任の先生から返事が来た。

「そういうお願いなら聞いてさしあげなくちゃね!わかりました。今週は忙しいですが、ソルラル(旧正月)の後まで待ってもらえますか。それまでに探しておきます」

妻のメールは功を奏した。やはり、「義理の父に見せてさしあげたい」というところが効いたのかも知れない。「義理の父を大切に思う嫁の気持ち」が、伝統的な家族観を大事にする主任の先生の心を打ったのであろう。

「悪知恵がはたらくようになったもんだ」と私はつぶやいた。

これで、「アボジ」の作文に一歩近づいた。あとは実際に見つかることを祈るばかりだ。

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雨の全州、肩すかしのソウル

この間の出来事を、メモしておこう。

2月7日(日)夕方6時

こちらの大学の指導教授の先生のお宅に呼ばれて、妻ともども、夕食をごちそうになる。帰国前、ということで、招待していただいたのである。厳しくも暖かい指導教授の先生の話術に、つい引き込まれた4時間半だった。

2月9日(火)

帰国前に、どうしても行っておきたい場所がいくつかあった。そのひとつが、全羅北道の全州である。「食は全州にあり」といわれ、どうしても、いちどはここを訪れてみたかったのである。帰国の準備もそろそろしないといけないのだが、妻はいちど行ったことがあるということで、妻の案内で、全州を1日かけてまわることにする。

朝8時40分、大邱の高速バスターミナルを出発。3時間かけて、全州に到着した。全州は、あいにくの雨模様。

さっそく、「家族会館」という有名な食堂で、「全州ビビンバ」を堪能する。といっても、体調がどことなく悪い感じも手伝って、十分に味わえたかどうかは自信がない。

昼食後、市内を歩いて見学、さらに博物館を見て、図録を山ほど買う。

夜、念願だった、三川洞というところで、「全州マッコルリ」を堪能。堪能しすぎて、泥酔。どうもこのあたりから、体調の悪化が進行したようだ。

2月10日(水)

翌朝、10時30分の高速バスでソウルへ。3時間近くかけて到着。

ここでも目的はおもに2つ。ひとつは、職場の同僚に頼まれたキムチと海苔を買って、発送するというもの。大邱でもできるのかも知れないが、ソウル駅前のロッテマートが比較的簡単にできるので、この機会を利用する。

もうひとつは、夕方、市内の大学の研究会に出席すること。この研究会を主催している方は、10年ほど日本に留学して、私はその間、チューターとして、論文の面倒を見たりしていた。いま彼は、自分の母校にもどって、「研究教授」という肩書きで活躍している。じつは韓国にいたこの1年3カ月、彼とほとんど会っていなかった。帰国前に、一度会っておこうと思い、彼の主催する研究会に顔を出そうとしたのである。

ところが行ってみると、彼はいまアメリカに旅行に行っていて不在であると。仕方なく、研究会だけ参加したのだが、主催者の彼がいないせいか、参加者数も少ない。その上、碩士(修士)課程の2人の学生の発表内容が、はっきり言ってかなり「アレ」な感じで、「いったい何のためにわざわざソウルまで来たのだろう」と、憤慨、とまではいわないが、すっかり意気消沈。ま、キムチと海苔を送っただけでもよしとするか。

研究会が終わり、帰りのKTXの時間までのあいだ、書店に行って、本を衝動買いする。

夜10時のKTXに乗って大邱に向かう。なぜかこのときから、猛烈に胃が痛くなる。大邱に着くころにはもうフラフラである。この胃痛は、韓国へ来てこれまで2度ほど経験したことがある痛みだ。いったい原因は何なのだろう。

翌日(11日)は、猛烈な胃の痛みに悪寒が加わり、おかゆを食べて静養。

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やさぐれ男の風格

2月6日(土)

1_s_1262832449 ソン・ガンホ、カン・ドンウォン主演の映画「義兄弟」鑑賞。

ソン・ガンホのファンである私と、カン・ドンウォンのファンである妻の利害がめずらしく一致した。

アクションあり、男同士の友情あり、軽い笑いあり、といった、韓流やくざ映画の王道である、といったら、単純化しすぎか。私としては、ソン・ガンホの演技の本領が発揮されていさえすればよいので、満足である。カン・ドンウォンの演技が、前回見た「ジョンウチ」にくらべて、格段によくなっている。

ソン・ガンホは、たしか私と年齢が1つ2つしか違わない、と思うのだが、とてもそうは思えないような風格である。

韓国映画の中で活躍する刑事は、なぜかみんなやさぐれている。この映画のソン・ガンホもそうだが、「亀、走る」のキム・ユンソクや、「白夜行」のハン・ソッキュも、一様にやさぐれているのである。そして、上司といつも対立し、上司に叱られると、逆ギレをする、というパターンが、圧倒的に多い。

日本映画に出てくる刑事は、あれほどやさぐれてはいない。

なぜだろう。よくわからない。

もうひとつよくわからないのは、韓国映画のなかで描かれる警察は、きまって、実にふがいない、ということ。あんなに警察がたよりなかったら、あぶなくて安心して生活できやしない、と思ってしまうほどだ。

今回の映画も、それらの法則を、みごとに踏襲している。だから、王道なのである。

そして、やさぐれ男の中でも、ソン・ガンホとキム・ユンソクはずば抜けている。しばらく、やさぐれ男が活躍する映画は、つづきそうな気配。

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かけ橋

2月4日(木)

日本の大学院生のCさんは、昨年6月から11月末までの半年間、交換研修という制度で、ソウルにある博物館で勉強した。

Cさんは、背が高くてかっこいい、さわやかな青年である。人間性もすばらしく、まわりに対する気遣いも抜群である。たちまち、研修先で人気者となる。研修先の誰もが、半年で日本に帰ってしまうことを惜しんだ。

私も、彼と何度か仕事をしたり、旅行をしたりしたが、好青年だな、と、素直に思う。

さて、今日から2日間、忠清北道の清州というところで学会があるので参加にすることにした。

会場で、Cさんと再会する。所用で数日間、韓国に滞在しており、学会があると聞いてやってきたのだ、という。

彼は、学会のスタッフでないのにもかかわらず、さりげなく椅子や机を運んだり、受付を手伝ったりする。それが自然にできるのがすごい。好青年ぶりは、健在である。

私は、こちらに来て、もう何度、学会に参加しただろうか。

この間、かなりこまめに、学会に参加した。日本から長期滞在したこの分野の研究者で、これだけ学会に参加した人間は、まずいないだろう。

そして、学会の内側ともいえる世界にも、何度か立ち合ってきた。

韓国語がわかるようになるにつれ、学会における議論の内容や、内部事情が、わかるようになってきた。そしてそのたびに、「カルチャーショック」を受け、ときに、精神的なストレスを感じたこともある。

知れば知るほど、知らなくてもいいことに遭遇するものなんだな。まさに「アルジャーノンに花束を」だ。

だから学会に参加することは、思いのほか、精神を消耗する。

とくに消耗するのは、学会のあとの懇親会(会食)である。

日本の学会でも懇親会があるが、こちらの懇親会にくらべれば、たいしたことはない。

この日も、1次会で食事、2次会でビールを飲んだあと、3次会でノレバン(カラオケ)に行くことになった。

2次会が終わり、大部分の人が帰ったのだが、私や妻、そしてCさんはつかまってしまい、ノレバンに連行される。

そうしたなかでも、Cさんは、韓国の歌を上手に歌って場を盛り上げる。どこまでも好青年である。

3次会で終わるかと思いきや、4次会にも連れていかれ、夜12時半、ようやく解放された。

韓国の先生方が5次会に向かうなか、私たち「若手」は、歩いて宿舎に向かう。

途中、Cさんが私に話しかけてきた。

「先生」。彼は私をこう呼ぶ。

私からすれば、Cさんは少し年下の後輩、というつもりでいたのだが、20代半ばの彼からすれば、やはり私は「先生」にみえるのだろう。

「この1年3カ月、どうでしたか」

「はっきり言って、大変でした。この1年で、10年分くらいの体験をした感じです」と私。「体をこわさなかったのが、不思議なくらいです」。

「学生の僕が言うべきことではないかも知れませんけど、先生が韓国で勉強されたのは、本当にすごいことだと思います」

例によって、彼の気遣いの発言である。

「どういうことです?」と私。

「僕みたいに、韓国をフィールドに研究している人間が韓国に留学することはあたりまえなんです。でも、先生のように、日本をフィールドにして研究している研究者が、韓国の学界に深く関わる、ということは、いままでほとんどなかったでしょう。じつは韓国の学界にとっていちばん必要とされるのは、まさにそういう研究者だと思うんです」

お世辞のような彼の言葉を聞きながら、思い返す。たしかに、もともと韓国ではなく日本をフィールドとしていた研究者が、韓国の学界にここまで深く入り込む、なんてことは、私の先輩方を見渡してみても、ほとんどなかったように思う。

「先生がこれから、韓国の学界と日本の学界のかけ橋になれば、韓国の学界も大きく変わっていくと思うんです」

愚鈍な私をみかねて、励ましてくれた彼の言葉に、私はなんと答えてよいかわからない。

かけ橋、か。

今日の学会の休憩時間のことである。

学会に参加されていた、研究のための長期休暇で韓国に滞在されているB先生とお話をする。B先生も韓国をフィールドとする研究者である。私と専門は異なるのだが、私が韓国で勉強するうえで、最も影響を受けた先生のうちのひとりである。

B先生は私に、韓国のある学会の、理事になってくれないかとおっしゃった。

「り、理事ですか?」

いきなり面食らったが、冷静に考えれば、日本にくらべて研究者の絶対数が少ないにもかかわらず、学会の数が多い韓国では、それだけ、役付きの会員も多い、ということになる。だから役付きになることは、それほど珍しいことではないのだ。

「たぶん、あまりお役に立てないと思います」と私。だいたい私は、そういうことに向いていない。韓国の濃密な人間関係のなかで、うまくやってゆく自信などないのだ。

「日本との橋渡しみたいなことをやってもらいたいんです。いままでそれを、私ひとりがやっていたんですが、もうひとり必要だ、ということになって…。あなたなら、こちらの(学会の)いろいろな事情についても知っていますし…」

日本との橋渡し、と簡単に言うが、実はいくつもの越えがたい困難があることを知っていた。日本と韓国の、両方の事情を知っているだけになおさらである。やはり知りすぎる、ということは、不幸なことなのだ。自分には、そんな仕事、とてもつとまらない。

しかし、いままで、その先生はおひとりで、その「重い荷物」を背負っておられたのだな、とふと思う。本当の意味での「学恩」を受けている私としては、その先生の背負っているものを、少しでも軽くしなければならないのではないだろうか。先生も、それを望んでおられるのかも知れない、と思い直した。

「わかりました」と私。

それにしても、日本の学界ではほとんど相手にされていない、虫けらのような私が、偉そうに橋渡しだなんて…。さて、これからどうやって、橋渡しをしていけばいいんだろう、と、苦笑せざるを得なかった。

そしてB先生を指導教員としているCさんも、いま、私に同じようなことを言っている。

「かけ橋」という言葉に、ふたたび苦笑する私。

「うっかり韓国に留学してしまったばっかりに、えらいことになってしまったなあ。私に、そんな力なんか、全然ないのに…」

そうつぶやくと、Cさんは言った。

「これから先生は、韓国と日本とのあいだで、今まで以上にいろいろな仕事をされるようになると思いますよ。それで、学界は確実に変わっていくと思います」

私自身は悲観的なのだが、楽観的に考えるのも、彼の持ち味なのだろう。

「ま、これも運命とあきらめて、これから重い十字架を背負っていくしかないのかな…」

と、冗談交じりに言うと、

「僕にできることがあったら、なんでもお手伝いします」

と彼は言った。最後まで、相手を気遣う青年である。そしてその言葉に、少し救われる。

いろいろな人の、さまざまな言葉に励まされた、1年3カ月。

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最悪のアバター体験

2月3日(水)

20100102065858_1_5376 ふと思い立って、夕方、映画「アバター」を見に行くことにする。

理由は単純。「流行に乗り遅れたくなかったから」。妻はすでに1回見ていたが、私は、「別にいいや」という感じだった。しかし、ここで見ておかないと、おそらく日本に戻っても見ないだろうな、と思い、見に行くことにしたのである。

やはりけっこう人気のようで、満席に近い状態。韓国の映画は、すべて指定席である。私たちは、前から8列目あたり(H列)の、画面に向かって右端の席に座ることになった。座席番号でいうと、H列の12番と13番。

映画がはじまる前、私たちの左隣には、会社員のグループが5人ほどやってきて座った。おっさん2人と、わりと若い女性社員3人。

おっさんの中でも、部長らしき人が、真ん中あたりの、いちばんいい席に座る。両隣に若い女性社員が座った。

なかなか文章では説明しづらいが、H列の1~13の座席を図示すると、次の通り。

12345女女部女男×妻私

(1~5はほかの人、「女」は女性社員、「部」は部長、×は空席)

そこへ、遅れて、同じ会社の課長らしきおっさんが入ってくる。彼は、妻の席の左隣、すなわち、空席になっていたところに座った。

12345女女部女男課妻私 (「課」は課長)

すると、少したって、部長らしき人が、そのことに気づいて課長に言った。

「おい、なんでそんな端っこに座ってるんだ?」

さらに部長は、今度はいちばん左に座っていた女性職員に向かって、

「おい、座席をかわってやれ」

と言った。部長に言われた女性は、右端にいた課長と、席を交代させられた。

すなわち、座席は次のようになったのである。

12345課女部女男女妻私

左から6番にいた女性は、右の端に追いやられ、課長は、座席の中央に座ることができたのである。

この一部始終を見ていた私と妻は、この時点でもう不愉快である。なぜ、あとから来たにもかかわらず、課長だ、という理由だけで、いい席に座ることができるのか?そしてそのために、無理やり女性社員が席を交替させられなければならないのは、どういうことなのか?

年下の、しかも女性ということで、あまりにも、理不尽な扱いではなかろうか?

じつは以前、これと似たような場面を見たことがある。

ある学会に参加したときのことである。会場となった大学の学生食堂で昼食をとることになった。参加者がけっこう多かったので、ひとりひとりが食事を受け取るのに、並んで待たなければならなかった。

ここで、おどろくべきことが起こる。私のすぐ前に並んでいた、その業界でおそらく偉いんだろうな、と思う大家の先生が(私はそのとき初対面)、さらにその前に並んでいた女子学生数人に、こう言ったのである。

「おい、お前ら、後ろに並べ」

言われた学生数人は、なんと私の後ろに並ばされたのだ。

日本では、絶対に考えられないことだ。もし日本の大学で、教員が、前に並んでいる学生に向かって「俺の前に並ぶな、後ろに並べ」などと言ったら、大問題である。

しかしこの国では、それが当然のごとく許される。なぜなら、「年上の人は偉い」から。上司と部下、教授と学生、男性と女性のあいだには、歴然とした差があるのである。

だから、部長が、若い女性社員に向かって「課長が端っこに座るんじゃなくて、お前が端っこに座れ」と言ったのは、この国では、当然のことなのである。

不愉快な思いを抱きながら、映画がはじまる。

さらに不愉快なことがおこる。

この会社員6人全員が、映画の最初から最後まで、大きな声で、ずっとしゃべり続けている。なかには、携帯電話の着信メロディがなって、映画の途中にもかかわらず、電話に出てしゃべっているではないか。

映画館で、携帯電話の電源を切るのが当然なのに、その基本的なマナーすら守られていない。

言っちゃ悪いが、3Dだとかなんだとかいって、ふつうの映画料金の倍近くとられているんだぞ。お前らは部長のおごりだかなんだか知らないが、ちゃんと金払って見に来ている周りの人たちのことをまったく考えないのか?

怒りに震えながら、2時間半ほどの映画が終了。

ところで、映画の感想だが。

映像はたしかにすごかった。お金を払って、損をしたとは思わない。

しかし、アメリカ流のストーリー展開には、辟易とさせられた。

「戦うこと」が、そんなに尊いことなのか?

戦争に対する幻想が描かれている、と思えてならない。

ま、下手に流行を追いかけようとした私が間違っていたな。

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お好み焼きを作ろう

2月2日(火)

こちらの大学院に通っているウさんは、私とほぼ同世代。そして彼の奥さんは、栄養士である。

日本の料理にも関心があるという。

韓国に来て間もないころだったであろうか。

「お好み焼きの作り方を知りたいんですけれど」と、ウさん夫妻に聞かれた。

「ええ、教えてさしあげますよ。よく作りますから」と私。

じゃあいちど、わが家で作ってみてください。かわりに、韓国料理をお教えしますから、ということになってしまった。「日韓料理対決をしましょう」

さて、困った。

本当のことをいうと、お好み焼きの作り方を、よく知らないのだ。これまではもっぱら、「お好み焼きの粉」を使って、お好み焼きを作っていたからである。

それにそもそも、お好み焼きに、それほど思い入れがあるわけではない。

子どものころ、「ザ・ベストテン」という番組で、ある有名なバンドの、ボーカルの人が、中継先で、たこ焼きを食べさせられていたのを見た。

司会者が、「たこ焼きは好きですか?」と聞くと、そのミュージシャンは、

「いえ、そんなに好きじゃありません。なんか、たこ焼きとか、お好み焼きとか、食べてもあまり意味がないような気がするんですよね」と答えた。

関西人を敵にまわすような答えだが、湘南あたりが出身のそのミュージシャンにしてみれば、粉食文化には、あまり思い入れがない、ということなのだろう。なぜかこのシーンをいまでも鮮明に覚えていた。

私は「意味がない」とまでは思わないが、そのミュージシャンの気持ちが、なんとなくわかるような気がしたのである。

では、なぜ「作れますよ」などと、嘘をついてしまったのか。

私は、昔からそういう癖があるのである。他人と話を合わせるために、とくにファンでない人を「私もファンなんですよ」と言ってみたり。おかげで、あとで話を合わせるのにえらい苦労する。

このときも、その場でつい「作れますよ」と、言ってしまったのだ。

その後もたびたび、ウさん夫妻から「お好み焼きはいつにしましょう」と聞かれるのだが、そのたびに、あれこれと理由をつけて、先延ばしにしてきた。「お好み焼きには、『おたふくソース』っていう、特別なソースが必要なんですよ。韓国では手に入らないと思いますよ」などと。

そしたら先日、ウさんが、「ついに手に入れました。おたふくソース!」というではないか。

もはや逃げられない。

しかも、帰国までは1カ月を切ってしまった。この1カ月以内に、お好み焼きを作らされることは、明白である。

「自分でまいた種なんだから、自分でなんとかしなさい。私は関係ないから」と妻。

そういう妻は、関西人である。私よりはるかに、お好み焼きに詳しいのだ。

だいぶ前、日本から韓国に遊びに来た友人に、お好み焼きの粉をはじめとする、お好み焼きセットをもってきてもらったので、「それで作ればいいじゃん」と言ったら、ダメだ、と妻がいう。結局、もってきてもらったお好み焼きの粉は、ぜんぶ自分で作って食べてしまった。

しかたがない。ようやく重い腰を上げて、お好み焼きを作る練習をすることにした。見かねた妻も、手伝ってくれることになった。

スーパーで、小麦粉、キャベツ、長芋、豚肉、卵などの材料を買う。最も基本的な、お好み焼きを作ることにする。

妻の母に聞いたところでは、2.2.6.と覚えればよいのだという。

小麦粉200cc、だし汁(水)200ccに対して、長芋6㎝をすりおろす、という割合。

この2.2.6の法則だけを頼りに、お好み焼きを作る。といっても、ほとんど妻に手伝ってもらったのだが。

ためしに、小麦粉400cc、水400cc、長芋12㎝で作ってみる。

この分量でいくと、4枚にわけて作るのがどうやらちょうどよいようだ。そのそれぞれに、卵を1つずつ入れるから、卵4つが必要だということになる。

さて、問題はソースである。

おたふくソースが手に入らなかったので、かわりに、スーパーでふつうに売っていた「トンカツソース」を買う。

ちなみに、韓国の人たちはトンカツが大好きである。ただ、ソースが日本と違って、ドロッとして、やや甘いのが特徴。

で、これをお好み焼きにかけてみたところ、これがけっこう合うのだ。

これなら、「おたふくソース」はなくてもいいな。せっかく苦労して手に入れたウさん夫妻には申し訳ないが。

試行錯誤のうえ、それなりのお好み焼きが完成したが、ひとつ問題が。

韓国には薄い豚バラというのがない。どれも、分厚い肉なのである。

しかたがないので、サムギョプサル(豚の三枚肉)を使ったが、どうもお好み焼きの雰囲気が出ない。それだけが残念である。

こんど、ウさん夫妻には、「韓国には豚バラ肉がないのでお好み焼きは無理です」とごねてみようか。さすがに「いいかげんにしろ!」と言われそうだな。

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