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2010年3月

帰国後、1カ月

3月28日(日)

東京近郊で小さな研究会。

私がひそかに尊敬している、年齢が私より1つ上のT氏の発表は、東アジアのフィールドを縦横無尽に駆けめぐり、かつ、文献を渉猟するという、あいかわらずの刺激的な内容だった。5年がかりの地道な調査成果が、壮大なスケールの発表に結びついていた。

(自分には、あんな研究は絶対にできないだろうな…)

それでなくても、韓国にいる1年3カ月を通して、さらに帰国して1カ月たった今も、本業に対する自信を失いかけている私には、いろいろと考えさせられることが多い。

お笑い芸人の山崎邦正氏が、落語家になった、という記事をどこかで読んだ。

彼はなにかのインタビューで、「立川志の輔師匠の『鼠穴』を聞いて感動した」みたいなことを答えていた。それが彼にとって、落語をめざす原動力にもなったのであろう。

志の輔師匠の「鼠穴」。私も好きな落語のひとつである。

一方で、元落語家だった伊集院光氏が、「志の輔師匠の独演会を聞きに行って、『ああ、早いうちに落語をあきらめていてよかった』と思った」と、最近どこかで語っていた。

面白いものである。

同じ志の輔師匠の落語を聞いても、「オレのめざしているのはこれだ!」と落語家への決意を固める人もいれば、「落語をあきらめてよかった」と、夢を放棄したことの正当性を再確認する人もいる。

しかも、二人は同い年。ちなみに、私はその1学年下。

いろいろなとらえ方があるものだ。

一般的には、前者は「前向きな考え方」、後者は「後ろ向きな考え方」ということになるのだろうか?

いや、私はそうは思わない。どちらかが正解で、どちらかが間違いだ、とは思わない。

なぜなら、どちらも、人生の選択の岐路に立たされていることには変わりないから。

さて、私はどちらだろう?もし私が落語家をめざすとして、志の輔師匠の落語を聞いたら、どっちの思いを抱くだろう?そして今の私は?

いやいや、まだ結論を出すのは早い。なにしろ、帰国してまだ1カ月しかたっていないのだから。

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卒業祝賀会

3月25日(木)

卒業式、卒業祝賀会の日である。

午後1時すぎ、卒業祝賀会がはじまる。

しかし、テーブルの席が足りないようで、卒業生たちが右往左往していた。

ポツリ、ポツリと、各テーブルに1席ずつくらい、席は空いているのだが、せっかくの祝賀会で、誰も知らない人に囲まれてぽつんと座る、というのも、いたたまれないだろう。せめて、親しい友達が1人でもいてくれた方がよい、と思うのが人情というものだ。

右往左往している卒業生に、私の座っている席を譲ることにした。私が席をひとつ譲れば、そのテーブルは2人分空くことになり、少なくとも友達どうし2人が座れる計算になる。せっかくなら、同じ専攻の友達どうしが集まって座れればよいのだろうが、どうも会場が狭くて、そういうわけにはいかない。

それでもなんとか、2人の卒業生が並んで座ることができたようだ。

さて、困ったのは私である。今度は私が右往左往する羽目になってしまった。

近くにある、まるまる空いているテーブルに座ろうとすると、「このテーブルは職員用のテーブルなのでダメです、センセ」と職員の方に言われる。

「あっちの方に、空いてる席がありますよ、センセ」

「あっちって、どっちです?」

「右の方ですよ、センセ」

空いている席にとりあえず座ってください、ということらしい。

言われるがままに右の方にいくと、空いている席などない。どんどん右の方に歩いていくと、会場の、いちばん右端のテーブルに来てしまった。

会場の右側は、私が所属する学科ではない、別の学科の席である。つまり、私が所属する学科のテーブルから、いちばん離れたところまで来てしまった。

(「どこでもいいから空いてるところに座りやがれ」ということなのだな。1年3カ月も日本を不在にして、卒業生の指導をしていたわけでもないのだから、これくらいの仕打ちは仕方がないことなのかな)と、例によって被害妄想をふくらませる。

まわりは、別の学科の全然知らない卒業生や保護者のお母さん。一言ふたこと、会話を交わすが、長く続くはずもない。向こうにしても、全く知らないおっさんから気安く話しかけられる、というのも、あまりいい気持ちがしないだろう。

どうも私は、こういう「いたたまれない」経験が多い。過去に何度か、「出席者に知り合いが全くいない披露宴」というものに参加したことがあって、早く逃げ出したい気分でいっぱいだった。今回のこの仕打ちも、それに似ている。

もともと儀式ばったことが大嫌いな私が、こういう仕打ちを受けてしまうと、心がボッキリと折れてしまうものである。今日も、この時点で私の心はボッキリと折れてしまった。

(よし、こうなったら、誰にも見つからないようにしてやる!)

と、例によって、ヘソがヘンな方向に曲がり始める。

出てきたぞ、例の厄介な病気が。

しかし、やることといったら、出された料理を平らげるか、ビールを飲むか、ビンゴゲームのシートに書かれている数字を凝視するか、しかない。

それでも、途中、私の居場所を見つけてくれた卒業生が何人か来てくれた。これは、素直に嬉しかった。

本当は、自分の方から、卒業生たちの方に言って声をかけたりすべきなのだろうが、すでに一度曲がってしまったヘソである。もう、もとには戻らない。厄介な性格である。

(ま、卒業生たちの元気な姿を遠くから見られただけでもよしとするか。そもそも、儀式ばった席が嫌いなんだし、ここで儀式ばった言葉をかける必要もなかろう)

と思い直し、そそくさと会場をあとにした。

でも、大人なのだから、きちんとあいさつはしておかなければならない。ここを見ている卒業生は、もうほとんどいないかも知れないけれど。

卒業生のみなさん、ご卒業、おめでとうございます。

またどこかで、お会いしましょう。

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韓国版「笑の大学」(ネタバレ注意!)

3月23日(火)

ソウル3日目。

今回のソウル旅行で、いちばんやりたかったこと。

それは、観劇である。

大邱にいる1年3カ月の間、いちど芝居を見てみたかったのだが、結局、その機会は訪れなかった。私はそのことを後悔した。

ところが、そのチャンスが訪れた。

Photo_3 三谷幸喜原作の傑作芝居「笑の大学」が、ソウルでロングラン公演されている、というではないか。

私は、舞台そのものは見たことはないのだが、初演を収録した放送をビデオにとって何度も見ていたし、再演を収録したDVDも、何度も見ていた。

「笑の大学」は、戦争の足音が聞こえてきた昭和15年、喜劇を続けようとする劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(つばきはじめ)と、時局柄、喜劇を上演中止に追い込もうとする警視庁検閲係の向坂睦男の二人が、1冊の喜劇台本をめぐって、警視庁の取調室を舞台に繰り広げる、可笑しくも切ない、二人芝居の傑作である。初演、再演とも、椿役を近藤芳正が演じ、向坂役を西村雅彦が演じた。

この傑作芝居が、韓国ではどのように上演されるのか、しかも、日本でしかわからないような設定を、どのように改変していくのか、さらには、韓国人の観客は、どこに笑い、どこに笑わないのか。それは、日本人の笑いと同じなのか、違うのか、など、興味はつきない。

日本では、この2人の役を、近藤芳正と西村雅彦だけが演じていたが、韓国では、いくつものコンビが、代わる代わる演じている。つまり、公演の日によって、演じる役者が違うのである。

しかも、公演をする劇場は、2カ所である。テハンノ(大学路)という場所と、カンナム(江南)のコエックスアートシアターという場所。テハンノは、ソウルの中でも、昔から小演劇がさかんに行われている場所。日本でいえば、下北沢みたいなところか。

で、カンナムのコエックスは、最近できた、巨大で、ちょっとおしゃれなショッピングモール。日本でいえば、…何だろう。よくわからない。何とかヒルズとか、お台場とか、何とかサカスとか、そういうところだろうか。

つまり、毎夜、ソウル市内の2カ所で、「笑の大学」のロングラン公演が行われているのだ。

あらかじめ、ソウルにいる妻に頼んで、カンナムのコエックスアートシアターの方のチケットを、予約してもらった。

実は、妻はすでに一度、テハンノで「笑の大学」を見に行っていた。同じ場所、同じ役者ではつまらないので、今回は、カンナムにしたというわけである。

Photo_4 この時の役者は、向坂役がジョン・ウンイン。椿役がキム・ドヒョン。

と書いても、ここを読んでいる人は、ほとんどわからないだろうな。

ジョン・ウンインの方は、テレビドラマや映画でよく見かける役者である。たまたま前々日、ビデオCDでソン・ガンホ主演の映画「反則王」(2000年)を見ていたら、ジョン・ウンインが出演していて、「あ、明後日の芝居で観る人だ!」と思い、ちょっと感動した。

と書いても、マニアックすぎてますますわからないだろうな。

椿役のキム・ドヒョンは、舞台を中心に活躍されているようで、テレビや映画ではほとんど見かけない。

会場は、役者の肉声が十分にとおるくらいの小劇場である。日本でいえば、シアタートップスくらいの大きさか(といっても、行ったことがないのでよくわからない)。

私たちは、前から2列目という、実に贅沢な席に座った。

夜8時。いよいよ開演。(以下、ネタバレを含みます。あと、この芝居を見たことのない方は、何のことを書いているのか、サッパリわからないかもしれません)

セットといい、台詞といい、原作とほとんど同じである(ただし、向坂と椿の立ち位置が日本とは逆)。そう、設定は、韓国に置き換えているのではなく、日本そのままなのだ。

でも、そうなると、椿が書いてきた台本「喜劇 ロミオとジュリエット」を、向坂に「この時節に西洋の芝居を上演するのは問題だ。設定を日本に置き換えてもらいたい」と注文されたあと、設定を「貫一お宮」に置き換える、というくだりは、どうなるのだろう。韓国人が、「貫一お宮」を知っているはずがない。

案の定、この部分は変わっていた。向坂は、「恋愛劇でなく、復讐劇の『ハムレット』に変えろ!」と注文をつけ、それを受けた椿が、「喜劇 ハムレットとジュリエット」と、なんだかよくわからない台本に書き換える。

次に気になったのは、劇団「笑の大学」の看板役者、青空寛太、通称アオカン(もちろん、舞台には登場しない)の決め台詞の「さるまた失敬!」と、舞台上で必ず行うという「座布団まわし」というのがあるのだが、これも韓国ではわかりにくいだろう。

これも案の定、「さるまた失敬!」「座布団まわし」はなく、「入れ歯が落ちる」というギャグに換えられていた。

あと、警官役で登場する「オオガワラ」という名前が、馴染みがないためか、韓国人に馴染みがある日本人名「ナカムラ」に換えられているなど、細かな変更点はあるものの、基本的には、日本版にかなり忠実である。

ただ、1点、大きく異なっていた点があった。

日本版では、向坂が、「台詞のどこかに、『お国のため』という言葉を入れてください。3回繰り返しましょう。『お国のため。お国のため。お国のため』。できれば、観たあとに観客の心が奮い立つようであればなおよろしい」と注文をつけるくだりがある。

これに対して椿は、これを何とか笑いの方向に持って行こうと考える。例えば、こんな感じ。

「お宮さん、僕はお国のために戦っていきます。僕はお国のためなら死んでもかまわない。お国のため…」

そこへ、貫一を呼ぶ母の声。

「貫一さん、ご飯よ。今日はあなたの好きなスキヤキよ」

「お宮さん、僕はお肉のために戦っていきます。僕はおニクのためなら…」

向坂に叱られた椿は、さらに考える。

「お宮さん、僕はお国のために戦っていきます。僕はお国のためなら死んでもかまわない。お国のため…」

そこへ、1人の女性が登場。

「あ、おクニちゃん!」

ここまで聞いて、向坂が椿に聞く。

「ここに出てくる、おクニちゃんというのは、誰ですか」

椿が答える。「いちおう、貫一の二番目の恋人、ということになっているんですけど」

またしても向坂は激怒。椿の再考。

「お宮さん、僕はお国のために戦っていきます。僕はお国のためなら死んでもかまわない。お国のため…」

「このためですか?」と、お宮が懐から甘栗を取り出す。

「お宮さん、それはクリだよ」

みたび向坂が激怒。「お宮は、どうしてそんなに都合よく甘栗なんか持っているんですか!」

この一連のシーンは、この芝居の前半部のいちばんの盛り上がり、といってもよい。

韓国版では、これが、書き換えられている。

「お国のため」ではなく、「天皇陛下万歳!」となっている。

つまり向坂は、「台詞のどこかに、『天皇陛下万歳!』という言葉を入れてください。3回繰り返しましょう。『天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!』。できれば、観たあとに観客の心が奮い立つようであればなおよろしい」と注文をつけるのである。

これに対して椿は、これを何とか笑いの方向に持って行こうと考える。

考えたあげく、「馬を準備しろ、天皇陛下万歳、天皇陛下万歳、天皇陛下万歳、さあ出発だ」と、これをなんと馬の名前にしてしまうのである。

「そんな長い名前の馬はない!」と、向坂に指摘された椿は、今度は、「天皇」「陛下」「万歳」という3頭の馬の名前にしてしまう。

これもよくできた笑いである。それにしても、なぜこの部分を換えたのだろう。

ひとつは、日本版では、この部分(「お国のため」)がダジャレによる笑いになっているので、韓国語では置き換えにくかったためだろう。

ただもうひとつ、ここの部分の台詞の変更には、日韓の意識の違いをめぐる、大きな問題がひそんでいるように思うが、これ以上はここでは書けない。

次に、観客の反応を見てみよう。

向坂と椿が、僧侶とお宮に扮して芝居をするシーン。お宮が毒を飲むふりをして、睡眠薬を飲むことにするのだが、その薬を、僧侶が用意する。

僧侶(向坂)「この薬を飲めば、眠るように死ぬことができるのだ!」

お宮(椿)「死んだらダメじゃないですか!」

僧侶「間違った…死んだように眠ることができるのだ!」

椿「本当に大丈夫なんでしょうか」

僧侶「安心しなさい。ネズミと犬と猿に動物実験を行って、ネズミと犬は大丈夫だった」

お宮「で、猿は?」

僧侶「猿は残念ながら死んだ」

お宮「人間に一番近い猿が死んだらダメじゃないですか!」

というシーン(記憶をたよりに書いているので、正確ではないかも)。

ここまで書いて伝わったかどうかわからないが、これは、漫才である。この芝居のなかで、最も漫才的な要素が入っているシーンであるといえる。

日本版では、お宮を演じる椿こと近藤芳正が、実に適切なツッコミを入れていて、それが観客の笑いを誘っていた。

韓国版でも、台詞じたいはほぼ同じだったのだが、ツッコミが弱すぎて、漫才になっていないのである。したがって、この2人の掛け合いに、観客は思ったほど笑っていない。

むしろ、僧侶役の向坂がこの台詞を言っているとき、青空寛太の持ち芸である「入れ歯が落ちる」というギャグを入れており、観客は、むしろそっちの方を笑っていた。

これにはちょっと考え込んでしまった。

この部分は言葉の掛け合いの面白さであり、台詞をかなりはっきり言わなければ、その面白さが伝わらないのではないか、と思うのだが、むしろ、むりやり入れ歯のギャグを入れてしまったことで、肝心の台詞が聞き取りにくくなり、言葉の掛け合いが不十分になってしまっている。

むしろ、入れ歯が落ちる笑いの方を、優先してしまっているのである。

実は、このシーンだけではなく、向坂と椿による漫才のような掛け合いはほかにもみられるのだが、韓国版では、その部分がかなり弱い。「ツッコミ」というよりも、単なる「間違いの指摘」のようなソフトな感じなのである。

観客も、役者が、笑わせるためにわざと間違えた台詞なのか、あるいは本当に間違えてしまったのか、とまどっているようでもある。

ここで思う。韓国の笑いには、日本の笑いのような「ツッコミ」の文化がないのではないか、と。

観客側だけでなく、演出側も、この言葉の掛け合いの面白さよりも、入れ歯が落ちるギャグの方を、強調するように演出したふしがある。

逆に言えば、三谷幸喜氏の脚本には、シットコムの形態をとりながらも、その中に漫才的な笑い、つまり、日本的な「ツッコミ」の文化が、かなりちりばめられていたのだ。

韓国と日本の笑いの違い。そのことを発見しただけでも、大きな収穫だった。

20100320_1269053015さて、芝居の方は、というと、2人の役者の実に見事な演技とコンビネーションのおかげで、笑いっぱなし。あっという間の100分だった。幸福な100分。

とくに、テレビや映画で観ていたジョン・ウンインの演技を、ものすごい間近で観られたことが、何よりの幸福であった。これから、ずっと彼に注目していくことにしよう。

そして気がついたら、開演前の「台詞が聞き取れるだろうか」という心配が嘘のように、ほとんど台詞を聞き取ることができていた。むしろそのことに感動した。もっとも、日本版の芝居を何度も観ていて、台詞を覚えていたから、脳内字幕で観ていたことになるのだろうが…。

ともあれ、1年にわたる韓国語の勉強の成果としての韓国版「笑の大学」。これは、私にとっての、最高のご褒美である。

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ゲストハウスは消えたのか

3月22日(月)

ソウル旅行2日目。

ソウルへ来て、訪れてみたいところがあった。

ソウル市の西側に位置する、新村(シンチョン)という町である。

実は5年前に一度、新村に来たことがある。前の職場の元同僚が、大学の実習で学生をソウルに連れて行ったときに、私もついていったのだが、そのときに宿泊した場所が新村だった。

その同僚と最後に行った韓国旅行だ、という点でも思い出深いのだが、なにより、泊まったところが、これまでにない、強烈な印象を残したという点でも、思い出深かった。

その場所を、「ワウ・ゲストハウス」という。

ホテルでもモーテルでもない。一見、下宿屋、といった感じの家である。新村は、近くに延世大学や西江大学など、多くの大学がある「学生の町」である。当然、学生が宿泊したり滞在したりする下宿屋も多かったのであろう。

「ワウ・ゲストハウス」は、貧乏な学生が泊まるための下宿屋、という表現がピッタリの場所だった。この場所を選んだのは、いうまでもなくこの旅行を企画した元同僚である。連れていかれる学生たちの中には、海外旅行がはじめてだった者も多かったはずで、いきなりあそこに泊まらされたのには、さぞ面食らったであろう。

もっとも、その元同僚も、韓国留学時代は新村に住んでいたそうだったから、いま思えば、自分の留学体験を、少しでも学生たちに伝えたかったのかも知れない。

たしかに、あまり快適とはいえないゲストハウスだったが、そのゲストハウスのおかみさんであるアジュンマ(おばさん)が、とてもいい人だったことは、せめてもの救いだった。

あれから5年。その場所にもう一度訪れてみたい、と思った。

5年前の旅行には、妻も一緒に参加していたから、2人で、記憶を頼りに、そのゲストハウスを探すことにした。

しかし、その場所が、全然見つからない。延世大学の西側だったな、ということと、「(旧)城山会館」という建物が近くにあった、ということだけは覚えているのだが、あの時、どこをどう通って、「ワウ・ゲストハウス」にたどり着いたのか、ちっとも覚えていないのだ。

なにより驚いたのは、目印にしていた「(旧)城山会館」なる建物が、すでに存在していない、ということである。ここでひとつ、手がかりを失ったことになる。

ではもうひとつの、延世大学の西側である、という記憶はどうか。

「たしか、延世大学の西側の道が急な坂になっていて、そこをのぼっていった記憶があるんだけど」と妻。

見ると、たしかに上り坂がある。この道かも知れない、と思い、坂道をのぼりはじめた。

「そして、たしか右側にキンパプ(のり巻き)の店があったよね」

…しかし、そんな店はどこにもない。おしゃれなコーヒーショップがあるだけである。

「で、キンパプの店のところを、左に曲がった、と思うんだけど」

…左に曲がる道も存在しない。

「でも、たしかにこの辺だと思うよ。こんな感じの雰囲気だったし」と私。

とりあえず、周辺を歩いてみることにするが、どうもそれらしいものが見あたらない。

歩いているうちに、大きな建物が目の前にあらわれた。「リビングテル」とよばれる、簡易宿泊施設である。まだ完成して間もないようである。

場所的には、この建物の付近なのだが…。

ひょっとして、この建物を建てるために、立ち退いたのか?

かつて、大学の周りには、賄い付きの下宿屋がたくさんあったのだが、生活スタイルの変化により、共同生活を強いられる下宿屋は次第に減り、コシウォン、コシテル、リビングテル、といった、簡易な個室の受容が増えてきたのだという。

この「リビングテル」がある場所に、私たちが泊まった「ワウ・ゲストハウス」があったのだとしたら、この変化は、じつに象徴的である。

結局、「ワウ・ゲストハウス」の場所を確認できないまま、新村をあとにした。

痛感したのは、ソウルの町の変貌ぶりである。もはや、記憶をたどる糸口すら存在しない。

もし、この次に新村を訪れる機会があったとしても、「ワウ・ゲストハウス」の場所をたずねることはないだろう。

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小さな同窓会

3月21日(日)

今日から、3泊4日でソウルに行く。3週間ぶりの韓国である。

妻が3月末までソウルに滞在している。新学期が始まる前でもあるし、ソウルで、いくつかやってみたいこともあったので、この機会に、ソウルに行くことにしたのである。私にとっては、もはや大阪や九州に行くような感覚である。

この日の夕方、妻は、韓国語5級クラスの時の同窓生の中国人、ポンリンさんとソウルで会うことになっているのだという。なんでも、妻がまだ韓国にいることを知り、「帰国前に一度会いましょう」といって、わざわざ大邱からソウルまで来てくれる、というのだ。ちょうど私も、夕方に仁川空港に着くので、そこに同席することにした。

4時半過ぎに仁川空港に到着。そこからバスに乗り、待ち合わせ場所であるカンナム(江南、ソウル市を流れるハンガン〔漢江〕の南側の地域をいう)のレストランに向かう。

6時半過ぎ、レストランに到着すると、すでにみんなが揃っていた。妻と、ポンリンさん、そして、ポンリンさんのナムジャチング(ボーイフレンド)。

ポンリンさんのナムジャチングは、韓国人で、大学院生である。この日ポンリンさんは、ナムジャチングの車で、大邱から4時間かけて、わざわざ妻に会うために、ソウルに来たのだ。

「本当は一度、나츠코 씨を家に招待して、中国料理をごちそうして差し上げたかったんですけど、それができなかったので、こうして会いに来ました」とポンリン氏。나츠코 씨とは、妻の名前である。

私は、語学院でポンリンさんと同じクラスになったことはないが、以前に何度か会っていた。最初にあったのが、1級1班の時、マ・クン君の部屋で、鍋をしたときである。同じアパートに住むポンリンさんも一緒に、鍋を囲んだのである。このときマ・クン君は、彼女を「このアパートのヌナ(お姉さん)です」と、紹介した。

「覚えてますか?マ・クン君の部屋で、一緒に鍋を食べたこと」と私。

「覚えてますよ。マ・クン君、中国に帰ったんですよ。やっぱり韓国語がどうしてもダメだったみたいです。彼、すごく人はいいんですけど、全然勉強しなかったんですよ」

マ・クン君は、韓国の大学に入学することをあきらめ、とうとう中国に帰ってしまったのか…。

ポンリンさんは、他の中国人留学生にくらべて、若干年上である。中国で大学を出て、就職の都合で、韓国にやってきた。そこで韓国語を勉強しているうちに、韓国にのめり込んでしまい、会社をやめ、今度は、韓国の大学に学士入学を考えているという。

たぶん、私がいままで語学院で会ってきた中国人留学生たちの中で、最も積極的で前向きな人である。多くの中国人留学生たちが、大邱からほとんど出ることもなく、引きこもった生活をしているのに対し、彼女は、積極的にいろいろなところに出むき、いろいろなことに挑戦する。実際、妻に会いに、ソウルまで来ているのが何よりの証拠だ。

今学期の開講式では、みんなの前で、韓国の伝統的な踊りを披露したのだという。

「今学期も、語学院の授業に出ているの?」

「ええ、3回目の5級です」

語学院は、5級クラスまでしかなく、それ以上の級に上がることはできない。だから彼女は、最上級のクラスを3回連続で出ているのだ。実際、彼女の韓国語はとても上手であり、もう授業に出る必要はないと思うのだが、彼女は授業に出ることが好きなのだろう。

彼女が5級のクラスであると知り、聞いてみたいことがあった。

「ひょっとして、ロンチョン君は、5級にいる?」

「ええ、いますよ。彼はわが班のパンジャン(班長、学級委員のこと)です」

えぇ!あいつ、今学期もまた班長なのかよ!先学期も、そして私と同じクラスだった先々学期も、さらにその前も、彼はずっと、パンジャンだった。人並みはずれて善良な人間なのだが、遅刻や欠席が多いのはパンジャンとして問題だった。ともあれ、4級のクラスを3回くり返した彼が、ようやく今学期、5級に上がったということを聞いて、ひとまず安心した。

「先生は、誰なの?」私が聞く。

「オ先生とカン先生です」

「カン先生!」と私は思わず叫んだ。「2級の時に習ったよ。語学院で、いちばん面白い先生だ」

「ええ、いつも慌てていらっしゃいます」

「そうでしょう。せっかちな先生でしょう」

語学院の消息を聞くのは、やはり楽しい。

「いまももちろん楽しいんですけど、나츠코 씨と同じクラスにいた頃が、いちばん熱心に勉強していたと思うんですよ。あのクラスのチングは、本当にみんなよく勉強していました」

まだ、半年もたっていない頃のことを、彼女はやたらと懐かしんだ。

「これからはどういうことをやってみたいの?」

「私、韓国だけでなく、日本のことも勉強して、これから、中国と韓国と日本を結びつけるような仕事をしたいんです」

ちょうど、私が漠然と考えていたようなことを、彼女はもっとバイタリティある言葉で語ったのである。

いい意味で「野心」を持っている彼女ならば、おそらくその夢は実現するだろう。これからの彼女の活躍が楽しみである。

気がつくと、8時をまわっていた。

「これから大邱に帰ります。明日、語学院の授業がありますから」

店を出て、車に乗り込む2人。

「気をつけて帰りなさいよ」

「お元気で」

かくして、「小さな同窓会」はお開きとなった。私たちは、彼女の心遣いに感謝した。

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ベルナール・ベルベール

3月20日(土)

次の日記はソウルから帰ってから書こうと思っていたが、忘れないうちに書きとめておく。

今ではすっかり誰も読まなくなった韓国語日記だが、私がまだ韓国にいた1月末ごろ、韓国語日記を熱心に読んでいた、4級の時のマラギ(会話表現)の先生(「よくモノをなくす先生」)が、私の韓国語日記を読んで、次のようにおっしゃっていた。

「ベルナール・ベルベールの小説みたいですね」

「誰です?その人は」と私。

「知りませんか?フランスの作家ですよ。韓国ではとても有名です」

その先生は、かつて私が書いた「アイスアメリカーノ・妄想篇」「汗かきのメカニズム・妄想篇」を読んで、そう思われたらしい。

「ベルナール・ベルベールの作品に『木』という短編小説集があって、その中に、皮膚が透明で、内臓が透けて見える人の話があるんです。『妄想三部作』を読んで、それを思い出しました」と先生。

その後、もう一度、その先生の口から「ベルナール・ベルベール」の名前が出た。帰国直前に、語学院の先生方数人と、食事に行ったときである

私の韓国語日記のことが話題に出て、そこで再び、その先生は「ベルナール・ベルベール」の話題を出した。

「キョスニムの韓国語日記、ベルナール・ベルベールの小説っぽいでしょう」と、その先生が、他の先生に確認する。

そこで、他の先生が同意したのかどうかは定かではないが、「ベルナール・ベルベール」の小説じたいは読んでいたらしく、そうとう有名な作家なんだな、と、その時思った。

そこまで言われると、どんな小説を書いている作家なのか、気になる、というものである。さっそく、書店に行って探すことにする。

すると、書店の一角に、「ベルナール・ベルベール」の本のコーナーがあって、本が平積みになっている。

相当な人気なんだな。

薦められるがままに本を買ってしまう、という私の悪い癖に、妻が呆れる。

「やめておいた方がいいと思うけど」

「どうして?」

「だって、ベルナール・ベルベールなんて、聞いたこともない作家だし、韓国でだけ売れてるフランス人作家なんて、明らかに胡散臭いよ」

たしかにそうだ。「ベルナール・ベルベール」という作家は、日本では聞いたこともない。それに「ベルベール」という名前が、青空球児好児の「ゲロゲーロ」となんとなく響きが似ていて、つい力が抜けてしまう。ま、それは関係ないことだが。

最後の食事会の時の話で、ベルナール・ベルベールの小説の中には、韓国人が登場する話があると、ある先生がおっしゃっていた。とすればこの作家は、明らかに韓国の市場に迎合しているのではないだろうか。たとえて言えば、日本の市場向けに作られたハリウッド映画の中に、日本の俳優が登場するように。

「それに、透明な皮膚の人の話なんて、どう考えても(私の)日記の作風とは違うと思うよ。先生は、日記をかなり誤解して読んでいるのかも」

それもそうだ。どこをどう読めば、透明な皮膚の人の話が、私の日記の作風とかかわるのかも、よくわからない。「人造人間キカイダー」じゃないんだから。

1010706746 でも、これもなにかの縁だと思って、『木』という本を買うことにする。しかし、すぐには読む気にならず、ダンボールの奥底にしまって、帰国前に、日本に郵送してしまった。

帰国後も、この「ベルナール・ベルベール」のことがずっと気になっていた。

そして今日、フランスに長期留学経験のある2人の同僚と一緒に昼食に行く機会があったので、思い切って、「ベルナール・ベルベール」のことを聞くことにした。

でもなあ。

『真っ白な灰』事件」の後遺症を引きずっている私は、「そんなことも知らないの?」とまた言われそうで、一瞬、聞くのがためらわれた。

だが、思い切って聞いてみると、やはり2人は「知らない」という。

昼食から戻った直後、好奇心が旺盛な同僚のAさんは、やはり気になったらしく、「ベルナール・ベルベール」の公式ホームページ(もちろんフランス語)があることを突きとめ、メールで知らせてくれた。

さっそくそれを見ると、予想どおり、ちょっと「アレ」な感じのする作家である。3人の意見は一致した。

となると、私の韓国語日記がベルナール・ベルベールの作風と似ている、と韓国語の先生に指摘された私は一体…?

不安になり、ダンボールに入ったままの『木』を取り出し、とりあえず「透明皮膚」という短編小説だけを、流し読みすることにした。

結論。私の韓国語日記と、ベルナール・ベルベールの作風とは、全然違う!

で、次に問題になるのは、なぜ、ベルナール・ベルベールが、日本では全く知られていないのに、韓国でこんなにもウケているのか?ということである。

これは、別の意味で面白いテーマだな。

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東アジアの笑いを…、めざせるか?

3月18日(木)

気がついたら、前回の日記(「東アジアの笑いをめざせ!」)が、400本目の記事だった。

よく続いたものだ。お金をもらっているわけでもないのに。

私のことをよく知る家族は、私が人一倍、怠惰でずぼらであることを知っている。

にもかかわらず、どうして続いたのか、よくわからない。

私には、ヘンな意地みたいなものがあって、ある時期から、「書き手が飽きるか、読み手が飽きるか」と、誰も頼んでいないのに、勝負しよう、と思ったふしがある。

「これは、書き手と読み手の根競べだ!」と。

だから、うんざりするような、しかも、覚えにくい中国人の名前が数多く登場するような、複雑な話を、これでもか、と書き続けた。

ところが、帰国してみて、まだ飽きずに読んでくれている人がいたことに、少し驚いた。

本当はひっそりとやめてしまおう、と思っていたが、せっかく読んでくれた人との「縁」を断ち切ってしまうというのも、なんとなくもったいない気がする。

それに、3月末をもってお別れしてしまう人たちもいるとなると、なおさらである。

ま、韓国とかかわる話を中心に、もう少し続けてみることにしようか。

それと、韓国語日記も、昨年の8月初めから書き始めて、気がつくと記事が200本を超えていた。

こちらの方は、書き始めた当初は数行、ひどいときには1行で終わったこともあったから、実質は、150本くらい、といったところだろうか。

11月以降は、日本語の日記を翻訳して順次載せることにしたから、しだいに1日あたりに書く分量は、日本語の日記と変わらない程度になった。

日本語の日記ならまだしも、韓国語、しかも、勉強して1年くらいの外国語で日記を書き続ける、ということこそ、私にとっては不思議である。

「ふつうはそこまでやろうとは思わないよ」とは、先日会ったこぶぎさんの話。

怠惰な私が、どうしてここまで続いたのだろう。

夕方、ある院生の方が、ある用事で研究室にやってきた。そういえば、この院生の方は、「笑い」を研究対象にしていたな、と思い出し、私が韓国で体験したさまざまな「笑い」について、お話しした。前回書いた、「東アジアの笑い」について考えていることも、お話しした。

気がついたら、研究室で1時間くらい立ち話をしてしまった。

やはり、喋っていると、考えがまとまってくるものである。あれこれと喋っているうちに、なぜ私が、これほどまでに日記にこだわっていたのか、が、なんとなくつかめてきたのである。

私は、この1年3カ月を通じて、歴史認識については中国人や韓国人と永遠に分かり合えないかも知れないけれど、「笑い」であれば共有できるかも知れない、と、心のどこかで思っていたのかも知れない。それは、語学院で過ごした1年の間に感じたことであった。

つまり、「笑い」こそ、東アジアを結ぶ力があるのではないか、と。

そんなことを、なかば冗談、なかば本気で考えはじめていたのである。

この日記がひたすらこだわったのも、そこだったような気がする。

そして、韓国語日記。

読者はきわめて少ない。しかも、少ない読者のほとんどは、語学院でお世話になった先生方。

ある先生は、「夜中に(私の日記を)まとめて読んでいたら、笑いがとまらなくなって、オモニ(お母さん)にでも見つかったらどうしようかと思った。気がついたら朝の5時になっていた」とおっしゃっていた。

むろん、お世辞が多分に含まれた言葉だが、自分の笑いの感性や表現は、韓国でも受け入れられるのだ、ということがわかり、「韓国人を笑わせる韓国語日記」を、いまもめざして書き続けているのだ。

もっとも私の帰国後は、忘れられたのか、飽きられたのか、うんざりしたのか、読んでいる人はほとんどいなくなってしまったが。

それでもよい。しばらく、書き続けよう。

あらためて思う。東アジアに共通する「笑い」とは、どんなものなのか?

…そのことをたしかめに、21日(日)から24日(水)まで、ソウルに行ってきます!

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東アジアの笑いをめざせ!

3月15日(月)

夜7時、前の職場の同僚2人と、久しぶりに待ち合わせる。

職場が変わってからというもの、2人とは、半年に1回くらい、会って食事をしながらひたすら話をする。私の数少ない友人のうちの、2人である。

帰国後、一度ゆっくり話をしよう、ということになり、集まることになったのである。

この日も、ファミレスで、7時から夜中の2時近くまで、実に7時間近く話した。

2人とも、この日記の読者だが、とりわけ、「こぶぎ」氏は、きわめて熱心な読者である。

日記に書いた話のほとんどを、覚えている。そればかりではない。韓国語の日記も、たまに見ているという。

私は、韓国語で書けないような内容を日本語の日記で、日本語で書けないような内容を韓国語の日記に書いたりしているので、彼はその両方、つまり、私のウラもオモテも知り尽くしている、ということになるのだ。

不思議なもので、長い間ブログを書いていると、いつしか、公開している、という意識が薄れてしまい、しだいに書いていいことと悪いことの区別が、つかなくなってしまうような気がする。たとえていえば、長時間飛行機に乗っていると、しだいに、自分が空の上を飛んでいる、という意識が薄れてしまい、地上にいるかのように錯覚してしまうように(相変わらず、たとえがわかりにくい)。

だから、この日記には、私の精神状態とか、きわめて内的な部分といったものが、知らず知らずのうちにあらわれていると思うのだ。心理学者でもある彼にとっては、格好の研究対象、といえるかも知れない。

「ブログに書けなかったようなことを聞かせてほしい」とのリクエストに、いろいろと話しているうちに、あれこれと思い出してきた。不思議なもので、喋ってみると、いろいろなことを思い出すものだ。話をしながら、「これはひょっとしてカウンセリングか?」などと思ったりする。

思い出したことで、この日記に書ける話を書くことにしよう。

「ブログを読んでいると、どうも語学の勉強、というより、笑いの勉強をしに行った、という感じだね。あれじゃあ、まるでコントの台本だ」と、こぶぎ氏が言う。

彼は私の日記を、中国、韓国、日本の「笑い」に関する教材として、読んでいたのだという。

中国、韓国、日本。東アジアに共通する笑いは、存在するのか?

そのことで、思い出したことがあった。

これは、私が直接体験したことではない。私の妻が、体験したことである。

妻が、5級のクラス、つまり、韓国語の最上級のクラスの授業を受けたときのことである。

そのクラスで、「グループ発表」という授業があった。

クラスの20名弱の学生を、いくつかのグループに分ける。1グループは5名程度である。

その5名が、何かについて調べ、それを発表する、という演習。

しかし、ただみんなの前で口頭で発表するだけではつまらない。そこで、さまざまな工夫を凝らすことになる。

手っとり早いものとしては、パワーポイントを使った説明など。

凝ったものとしては、寸劇を交えたり、インタビューをビデオにおさめて、それをみせながら発表する、というもの。

ちょうど、10月の終わりごろのことだったか。語学院に通う多くの留学生たちが、大学入学のための面接試験に追われていた時期のことである。

妻のグループは、グループ発表のテーマを、「面接試験必勝法」とした。留学生たちが、その時、一番関心のあるテーマでもあった。

問題は、発表の仕方である。

さまざまな議論の末、「誰かが面接官、誰かが受験生に扮して、寸劇を交えながら、面接試験の心得を解説する」という形式をとることに決まった。

ただ、その場で芝居をするのは恥ずかしいので、あらかじめその寸劇をビデオにおさめて、それをスクリーンで上映しながら、適宜解説を加えていくことになった。

で、その寸劇には、「悪い受験生」と「よい受験生」を登場させて、「悪い受験生」が、面接試験でとる態度をまず見せて、その受験生の、どこが悪いかを解説した上で、次に、「よい受験生」の面接態度を見せる、という構成がとられることになった。

ここまでの説明は、わかるかな?

たとえば、「面接の部屋に入る時の態度」という場合。

まず、「悪い受験生」が、ノックも挨拶もせずに部屋に入ってくる。面接官の先生が「座ってください」と指示する前に椅子に座り、足を組む。

という映像を流す。

「これではいけませんね。ノックをしてから部屋に入り、面接官の先生が、『座ってください』とおっしゃってから座りましょう」

とか何とか、その場で解説を加え、その後にこんどは「よい学生」が、面接の部屋にはいるときの映像を流す、という段取りである。

うーむ。ますます説明がややこしくなってきたな。

ま、こんな感じで、面接試験で想定されるさまざまな状況を、「悪い受験生」と「よい受験生」が演じていくのである。

構成と演出、そして撮影を、妻が担当するという。

私も、ひとつだけ、ネタを提供した。

以前、3級のマラギ(会話表現)の試験で、リ・プハイ君とペアになったときのことである

与えられた設定をもとに、2人で会話をしている最中、リ・プハイ君の携帯電話が鳴って、あろうことか、彼がその携帯電話に出て通話をはじめた。試験の最中にもかかわらず、である。

その話をすると、「悪い受験生」の見本として、さっそく台本に盛り込まれた。

こうして、いくつかの状況を想定して、「こんな時、どのような態度で臨んだら、面接官の先生に好印象を与えることができるか」という「面接試験必勝法」の台本を作り上げた。

演者も決まる。面接官の先生役が、モンゴル人のフーランさん。「悪い受験生」役が、語学院きっての好青年、エンロン君。そして、「よい受験生」役が、中国人の女子学生(名前は失念)。

語学の授業が終わった夕方、教室を借りて、撮影が行われた。撮影と演出も、妻である。

撮影が終わったあと、ビデオを見せてもらって驚いた。

これが、実によくできているのである。

演者の演技も上手だし、「カット割り」もすばらしい。

なにより、笑えるのだ。

「もしも、面接の途中で携帯電話が鳴ったら」とか、「もしも、面接官にちんぷんかんぷんな質問をされたら」とか、「もしも、面接官に学費や生活費のことを聞かれたら」とか、いかにもありそうな状況設定で、かつ、それに対するふたりの受験生の対応も、対照的で実に面白い。

一番の傑作は、「もしも、面接官の先生の訛りがひどくて聞き取れなかったら」という設定。

モンゴル人のフーランさんが、キツい大邱訛りで質問したのも笑えたが、それに対する「悪い受験生」ことエンロン君の、「え?何だって?わっかりませーん」みたいな反応が、実に面白い。

笑いながら思う。これって、「ドリフ大爆笑」の「もしものコーナー」ではないか!(わかる人だけわかればいい)。

一見、「もしも訛りのひどい面接官の先生がいたら」は、笑いに走るためだけの設定のようにも思えるが、実は、こういう状況はよくあるのだ。とくに、韓国の中でも、とくに訛りがキツいとされている大邱周辺の大学には、このようなことが、実際によくあるという。

さて、このグループ発表。私は本番当日に聞くことはできなかったが、案の定、好評だったようである。この発表を見ていたある先生は、妻に「こういう仕事(映像作家や構成作家)に向いていると思いますよ」とおっしゃったという。

この話は、ここで終わらない。

この「面接試験必勝法」が、あまりに好評だったために、11月30日に行われた語学院の開講式の時に、再演されたのである。そう、私が修了生代表として「最後のあいさつ」をした、あの開講式の時である。

韓国語の先生たちと、1級から5級までの学生たちがいる前での再演。

やはりウケていた。

とくに、訛りのキツい面接官のくだりは、韓国人の先生方のあいだでは大ウケだった。フーランさんの大邱訛りが、それだけ完璧だった、ということであろう。

…ちょっと長くなったな。こぶぎ氏と話していて、以上のことを思い出したのである。

「考えてみれば、すごいと思いません?モンゴル人と中国人が、韓国語で会話をする寸劇(コント)を、日本人が構成、演出して、それを、韓国人の先生とか、各国の留学生が大笑いするんですよ」と私。

そこから、「アジアに共通する笑いをつくりあげるには、どうすればよいか」という話になる。どうも私の感触では、中国人のシュールなボケを、感情表現が豊かな韓国人がツッこむという笑いを、日本人が構成・演出する、という形が、いちばんふさわしいのではないか、という気がしてきた。

東アジアの人たちが、力を合わせて、共通の「笑い」をつくりあげる。

これって、私の理想とするところかも知れない。何とかできないものかな、と、なかば本気で考えはじめた。

「やっぱり、語学ではなくて、『笑い』を勉強しに行ったんじゃない?」

こぶぎ氏は、私にそう言った。

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漫画リハビリ

「『真っ白な灰』事件」のショックから、「そうだ、久しぶりに漫画を読もう」と思い立つ。

私は漫画をほとんど読まない。

だが、子どものころ、漫画家に憧れたことがある。

小学校5年生のころだったか。

当時『週刊少年ジャンプ』を発刊していた集英社が、「手塚賞」「赤塚賞」という、10代の新人漫画家を発掘する新人賞を主催していた。手塚賞は、少年向けのストーリー漫画、赤塚賞は、少年向けのギャグ漫画というように、ジャンルわけされていた。

小学校5年の私は、友だちと二人で、無謀にもこの賞に応募することにした。いや、正確にいえば、漫画好きの友だちに誘われて、応募させられる羽目になったのである。

松本零士の「戦記もの」に傾倒していたその友だちは、戦記ものの漫画を描いて手塚賞に応募した。応募を考えるくらいだから、絵はけっこう上手かった。

それにつきあわされる私は、仕方なく、手塚賞ではなく、赤塚賞に応募することにした。どんな内容のものを描いたか、ほとんど覚えていないが、たしか、顔が「釜飯の釜」の形をしているおじさんが主人公の、ギャグ漫画だったと記憶する。「釜飯おじさん」である。

むろん、そんな漫画が入選するはずもなく、漫画家の夢は潰えてしまった。

このあと、中学生になって、ミュージシャンになろうと、今度は音楽好きの友だちと、坂本龍一にデモテープを送ったのだが、これもなしのつぶてだった。これはまた、別の話。

まあそんなことはよい。

最近、どうしても読みたい漫画があった。

8ddf82c694b1 落合尚之『罪と罰』(双葉社)である。

現在、『漫画アクション』に連載中のこの漫画。ドストエフスキーの『罪と罰』を、設定を現代の日本に置き換えた、いわゆる翻案もの。

なぜこの漫画を読もうと思ったか。

それは、作者が、私の高校時代の部活の1年上の先輩だからである。

落合先輩は、ブラバンで、トランペットを吹いていた。

個人的に、あまり話したことはないが、独特の感性を持った人で、面白い人だな、思っていた。

高校卒業後、大学に入り、漫画家をめざしている、と聞いた。いやすでにもう、漫画家になっていたのかも知れない。

でも、実際に、どの雑誌に漫画が載っているのか、よくわからなかった。

高校卒業後はまったくお会いしていない。ただ、あれは、大学時代だったか。OBとして、後輩がやっている定期演奏会を聞きに行ったときに、一度だけ演奏会場でお会いしたことがある。

そのとき、聞いてみた。「いま、漫画は描いているんですか?」

すると先輩は、

「充電中」

とだけ答えた。

(なんだよ、いきなり充電中かよ!)と、そのとき強く思ったことを覚えている。

最近、その先輩のことを思い出し、(いまも漫画を描いているのだろうか…)と思って調べてみると、『罪と罰』という漫画を連載していることを知る。

しかもそれが、いま大変な評判になっている、というではないか。

ラジオで伊集院光氏が絶賛していた、とも聞いた。

帰国後、最初に読む漫画はこれにしよう、と決め、本屋に向かう。

東北の地方都市の本屋にもかかわらず、なんと平積みになっているではないか。

ちょっと感動ものである。

どちらかといえばマイナーで、寡作という評判の先輩が、いよいよブレイクしたか!

さっそく、これまで出ている巻を読み始める。

一気に読んでしまった。面白い!

こりゃ、絶対、いずれドラマ化か映画化されるだろうな。

それにしても、申し訳ない。

おそらくは、入念な準備と相当な手間をかけて描かれた漫画を、一晩で読み流してしまうのだから。

一コマ一コマに込められた思いが、一瞬のうちに過ぎ去ってゆく。

漫画家とは、なんと、割に合わない商売なのだろう。

オリンピック選手が頑張っているのを見て、「私も頑張ろう」とは思わないが、高校の時に、多少なりとも話したことのある先輩が、いい作品を描いているのをみると、「私もいい仕事をしよう」という気に、ちょっとなるね。

それと、小学校の時、「釜飯おじさん」なる漫画を描いて漫画家をめざそうとした軽率な行為を、お許しください。漫画家なんて、そんな軽はずみになれるものじゃないんですよね。

ああ、第8巻が待ち遠しい。

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膝が痛い

3月9日(火)

数日前から、右膝が痛い。

痛い、というより、激痛、である。

どのくらい痛いか、というと、歩くのが億劫になるくらい。

階段を上り下りすると、一歩一歩あるくたびに右膝に激痛が走る。

右膝を強打した記憶はないから、おそらくは、例の病気かも知れない。

頼みの綱の、痛み止めの薬を飲んでも、痛みが治まる気配がない。

韓国滞在中は、薬をほとんど飲まなかったにもかかわらず、幸いにも、例の発作がほとんどおきなかった。

帰国早々に起こった、というのは、やはり、環境が変わったためであろうか。

それにしても、いままでは足の指の付け根だったものが、いよいよ膝に来た、ということか。不気味である。

やはり、薬をサボっていたのがいけなかったのだろう。

さて今日の夕方、3年生が、「お帰りなさい会」をしてくれる、という。

学生が、研究室までわざわざ迎えに来てくれて、駅の近くの居酒屋へと向かう。

3年生を中心に、14名が集まってくれた。みんな、私なんかよりはるかに忙しいはずなのに、ありがたいことである。

いま、3年生は、進路にむけて、かなり忙しい。

「公務員組」と「民間組」によって、その活動内容はずいぶんと違うようだ。

失礼なことかも知れないが、私は、進路に関する彼らの話を聞くのが、とても楽しい。

私自身、大学時代に、就職活動というものをまったく経験したことがないので、彼らの、真剣でありながらも、その中で起こるさまざまな出来事を聞くのが、とても楽しいのだ。

「この前、学生研究室に入ったら、真っ暗な部屋の中で、○○君がソファーで、真っ白な灰になっていたんですよ」

就職活動で、精神的に追いつめられた友人の様子を、同じ3年生のA君はこのように比喩した。

この、「真っ白な灰」という表現が、いかにも可笑しく、さっそく、ソウルにいる妻にスカイプで話すと、

「その表現、て、けっこう漫画なんかで見たりするよ」と妻。

なるほど、漫画的表現、ということか。漫画をほとんど読まない私には、新鮮な表現であった。

真剣で、必死だからこそ、可笑しい。

もちろん、当事者は、大変なのだろうが、そこを一歩ひいて、眺めてみる。

それだけで、ずいぶん、精神的に楽になるのではないか。

韓国での私の生活が、そうだった。

しかし彼らは、それ以上の世界と、いま、向き合っている。

彼らの話を聞いているうちに、そのことに気づく。

膝の痛みをすっかり忘れた、楽しい時間。

夜12時、居酒屋の外に出ると、外はすっかり大雪である。

膝の痛みを再び感じながら、学生たちと一緒に、歩いて帰った。

〔野暮な追記(3月11日)〕

読者の方から、「真っ白な灰」という比喩は、「あしたのジョー」の名セリフから来ているのではないか、というご指摘を頂戴しました。自身の漫画知識のなさを反省し、今後は、少しずつ漫画を読もうかと、決意した次第です。

激痛の右膝は、「ダメもと」で飲んだ小田原名物「ういろう」のおかげか、少しずつですが、痛みがひきつつあります。

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キョスニムに戻った日

3月3日(水)

朝9時から卒業論文発表会。夕方5時半過ぎに、終了する。

終了後、席を立とうとすると、私を呼ぶ声がした。

「キョスニム!キョスニム!」

4年生のT君だった。あいかわらず声がデカい。

「…そう呼んだら、マズかったですか?」

彼は「キョスニムと呼ばないで!」のエピソードを読んでいたらしい。

「いや、全然かまわないよ。もうキョスニムに戻ったんだから」

「キョスニム」は直訳すると「教授様」。意味からすれば権力的な呼称でイヤなのだが、音のひびきがちょっと間抜けているので、気に入っていた。

夜7時から、大学の近くの居酒屋で、追いコンがはじまる。総勢50名以上の学生が集まった。

学生たちとの久しぶりの対面である。

「ブログ、読んでました」と、何人もの学生から言われる。自分の指導学生ではない、他の学生たちも読んでくれていたので驚いた。いったい、どこまで知られているのだろう。

みんなの楽しげな姿を見ながら、どうしても気になることがあった。

以前、私と同世代の深夜ラジオDJが、こんなことを言っていた。

「自分が以前、ヘルニアで入院して、ラジオのレギュラーを休んだとき、代役の人が番組をやっているのを聞きながら、『自分がいなくても、世の中、何ごともないようにすすんでいるんだな』ということに気づき、落ち込んだ。もうあんな思いは、2度としたくない」と。

私の場合も同じである。

韓国へ行った当初、「自分がいなければ、学生は困るのではないか」と思い込み、メールやスカイプを駆使して、必死で卒論指導をした。

しかし、時間がたつにつれ、どうやら私がいなくとも大学はうまくいっているのではないか、という思いが強くなってきた。

だから、帰ってきたとしても、私のいる場所はもうないのではないか、と。

そのことを、なかば自嘲気味に、大学院生のD君に話すと、

「そんなことありませんよ」

と彼は言う。「みんな、待っていたんですから」

やがて、4年生が、ひとりひとりあいさつをしたあと、後輩が4年生にプレゼントを渡す、そして、今度は4年生が、教員に対して、プレゼントを渡す、という一連の「儀式」が行われた。

1年3カ月のあいだ、何の役にも立てなかったこの私にも、プレゼントを用意してくれていた。ツボを押さえたプレゼントに感謝。プレゼントには、カードが添えられて、メッセージとともに私の似顔絵が描かれていた。

「これ、ボクが描いたんですよ」と、T君。

そしてみんなで記念撮影。

やはり私の居場所は、ここなのかも知れない、と思い直す。

2次会、3次会と続く。3次会で、前に座った4年生のS君が、「先生がブログの中で書かれていない、韓国の『負の部分』についても読んでみたいです」という。

彼も読者だったとは知らなかった。

酒が進んだこともあり、韓国で体験したこと、感じたことを、話しはじめる。

しかしほどなくして、得意げになって話していた自分に、自分の中にいるもうひとりの自分がささやく。

(1年3カ月滞在したぐらいで、韓国をわかった気になってるんじゃねーよ!)

不思議なものである。韓国について話したいこと、知ってもらいたいことは、たくさんあるのだが、自分がそれを話すに足る人間なのか、という思いも生まれて、話すのがためらわれてしまう。

この先、韓国で感じたことを、学生たちにどのように伝えていけばよいのだろう。私にはわからなくなってしまった。

4年生のKさんが言う。

「先生のブログを友だちに見せたら、『マイナス思考の人だね』って言うんですよ。私は全然そうは思わないんですけど」

彼女もまた、この日記のディープな読者だった。

でもね、Kさん。

今日のこの日記を読んでもらえばわかるように、私はやはり「マイナス思考」の人間なんですよ。

その友だちの言っていることは正しい。

ただ私は、同時に「単純な人間」でもあるのです。

3次会は、午前4時近くまで続いた。

翌4日(木)

午後、3年生3人が、研究室に訪れる。

「オレら、(帰ってくるのを)本当に待っていたんです」

2時間以上、いろいろな話をする。A君の観察眼、人物評は、あいかわらず面白い。そして3人の丁々発止の会話を楽しんだ。

帰りがけ、3人は「サクサクしっとりチョコ」を置いていってくれた。

以前、私が「サクサクしっとりチョコ」は美味い、といっていたことを覚えてくれていたようだ。

お礼を言うと、A君は言った。

「ちょっと遅めのバレンタインディです」

やはり、私の居場所は、ここなのかも知れない。

しかしそれにしては、この研究室は散らかりすぎている。

少なくとも3人は座って話せるくらいに、少し研究室を片付けることにしようか。

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ケナリも花、サクラも花

3月1日(月)

語学院の4級の授業のときである。

韓国人のナンピョン(夫)を持つ日本人のカエ氏と、在日僑胞について話をしたことがあった。

その数日後、カエ氏が鷺沢萌『ケナリも花、サクラも花』(新潮文庫)という薄い文庫本を貸してくれた。

それまで私は、鷺沢萌の文章を読んだことがなかった。私と同じ年齢の作家だったよな、というくらいのイメージしかなかった。

それと、たしか数年前、自殺した、というニュースを読んだことがある。

「彼女、祖母が韓国人のクォーターだったそうなんですよ。で、在日僑胞として韓国語を学ぼうと、韓国に留学したときのエッセイがこれです」とカエ氏。

「お読みになるとわかると思いますけど、読んでいるとちょっと繊細な部分があって…彼女が自殺してしまったのも、そういう繊細さが関係しているのかも知れません」

私は、本を借りたまま、返すきっかけを失ってしまい、4級の授業が終わってしまった。その後、カエ氏と会う機会もなく、連絡先もわからなかったため、借りた本を日本まで持ってきてしまった。

借りた当初、ざっと読んではいたのだが、帰国後の今日、東京から勤務地まで戻る新幹線の中で、あらためてその本を読むことにした。

鷺沢萌は、1993年の1月から6月まで、ソウルのある大学に留学し、語学堂で、韓国語を勉強した。そのときの体験を中心に綴ったのが、この本である。

あらためて読んでみて、私がこの1年で感じたことと、ほぼ同じようなことを感じていることに驚く。

とくに、私がこの日記では書けなかった韓国生活における「負の部分」を、鷺沢萌はじつに率直に、そして冷静に書いている。そう、私が本当に書きたかったのは、実はこういう「思い」だ。

1年3カ月の韓国滞在を経たいま、私は全身でこの本の内容を受けとめることができた。

ただ、彼女が在日僑胞であることによる、さまざまな「思い」については、たぶん、私の想像をこえるものである。

同じ4級のクラスに、在日僑胞のホン・スンジ氏がいた。

彼と最初に会ったのは、2級の時である。中国人学生のチングが、「隣のクラスに日本人がいますよ」と紹介してくれ、休み時間に、少しばかり立ち話をした。

彼が聞いてきた。「どうして、韓国語なんて勉強しようと思ったんです?」

「韓国の歴史を勉強したいと思って…」そう言って、私は彼に名刺を渡した。「で、あなたは?」

「僕、実は在日なんです。それでいちおう、韓国語を勉強しようと思って…」

「どうしてソウルではなくて、大邱に?」

「最初はソウルで3カ月、語学を勉強してたんですけど、親戚が大邱に住んでいるもんで、こちらに移ってきました」

日本の大学を卒業してまだまもない彼は、そう言った。

そして、4級の時に同じクラスになった。

しかし4級に上がった彼は、授業も休みがちで、授業に出席したとしても、韓国語をあまり話そうとはしなかった。といって、もともとが決してふまじめだったわけではない。3級までは、成績優秀者として奨学金をもらっていたのである。それに、大阪人なので、元来は「よう喋る」タイプの青年なのだろうと思う。だがなぜか、4級のクラスでは、あまり喋ろうとはしなかった。まあ、韓国の大学に入学するわけではないから、必要な韓国語はもう十分に習得した、と考えたのかも知れない。

そんなこともあり、授業中、彼とあまり話す機会がなかった。そして彼は、昨年の12月に日本に戻った。

昨年秋のマラギ大会の時に、とある大学の在日僑胞の学生がとても印象的なスピーチをしたのを聞いてから、在日僑胞について少し関心を持つようになった。そうそう、たしかそのときの話を、なんかの時にカエ氏に話したのがきっかけで、鷺沢萌の本を貸してくれたのだ、と記憶する。

いちど、在日僑胞がかかえるさまざまな「思い」について、スンジ氏本人に話を聞いてみたいな、とも思っていたのだが、はたしてそうすることが、よいことなのかどうかが躊躇されて、結局、何も聞かずじまいになってしまった。「在日僑胞」とひとくくりにして彼を見てしまうことが、失礼なことなのではないか、などと思ったりしたためである。

鷺沢萌の本を読みながら、思い出したことがあった。

4級の授業で、「将来の夢は何ですか?」と先生が聞いてきたときのことである

スンジ氏は「野球選手になりたいです」と答えた。

「それは子どものころの夢でしょう!現実につくことができる職業を言いなさいよ!」

と先生がさらに聞くと、彼は、

「いえ、まだ夢はあきらめてませんから」

と冗談交じりに答えた。

そのとき、私を含めた周りの人間は笑ったが、このはぐらかしたような答えが、実は日本社会において在日僑胞の就職が難しいという現実を、念頭に置いてのものである、とみるのは、穿ちすぎだろうか。

4級の授業の最終日、やはり照れ隠しに書いたと思われる私へのメッセージ

「めっちゃ有名な学者さんになったら、何でもいいんで僕を使ってください!」

も、いまになって、そんな感じがしてきた。

かえすがえすも、彼の連絡先を聞いておかなかったことが悔やまれる。

スンジ氏はいまどうしているのだろう。

カエ氏は、たくましく生きていると思うけど。

そんなことを考えているうちに、新幹線は駅に到着した。大雪である。

駅から乗ったタクシーの運転手さんが言う。

「昨日までは、全然雪が降らなかったんですけどね。今日の夕方から、急に降りはじめました」

やはり、雪が出迎えてくれたか。

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コヒャン(故郷)に帰る

2月28日(日)

朝8時過ぎ、大学院生のウさんから携帯電話にメールが来る。

「何時頃、出発しますか?」

大学のゲストハウスに車で迎えに来て、東大邱(トンテグ)駅まで、乗せていってくれる、という。

「では、10時に来てください」と、返事を書く。

この日、私は釜山(金海)空港から成田空港へ、そして妻は、ソウルへ向かうことになっていた。

10時、ウさんの車に荷物を積んで、出発。

この前、教えていただいたとおりに、妻が家でお好み焼きを作ってみたんですよ」

運転しながら、ウさんが言った。

「でも、あまりうまくいかなかったみたいです。やはり、作っていただいたお好み焼きは、美味しかったです」

東大邱駅に到着。ここで妻と別れる。妻はあと1カ月、ソウルですごすことになっていた。

そして私は、東大邱駅の近くの高速バスターミナルに向かう。

「まだ少し時間がありますね」

ウさんはそう言うと、缶ビールとピーナッツを買った。

「最後に、一杯やりましょう」

ビールを飲み干し、ウさんと別れ、バスに乗り込む。

11時に出発したバスは、1時間20分ほどで釜山空港に到着。さまざまな手続きを済ませ、2時20分、成田空港へ向けて飛行機は離陸した。

そして2時間後の4時20分、成田空港に到着。

飛行機を降り、約1年ぶりに、日本で使っている携帯電話の電源を入れる。

どうやら、まだ使えるようだ。

実家の近くまで行くリムジンバスに乗り込み、さっそく、あちこちに帰国の報告のメールでも打とうか、と思ったが、報告をすべき友人を、ほとんど持っていないことに気づく。

そもそも、携帯のメールアドレスを知っている人が少ないのだ。

やはり、友だちが少ないんだな。私は。

そこで、わが師匠にメールを打つことにした。

1年3カ月の滞在を終えて、先ほど成田空港に到着しました。落ちついたらいずれご挨拶にうかがいます、と。

すると、しばらくたって、師匠からメールの返事が来た。

私は、師匠から、携帯のメールをいただいたことは、ほとんどない。たいていは、メールではなく、通話である。そりゃそうだ。だって、メールを打つなんて面倒な作業をするより、直接通話した方がはやいもの。

メールをいただいたのは、師匠が携帯電話をはじめて買ったときに、「携帯買いました。はじめてメール送信します」と、私あてに試験送信をされたとき以来、ではないだろうか。

師匠らしからぬ、比較的長いメールだった。

内容は、無事戻られてなによりです、貴重な体験を積まれてこれからの活躍が楽しみです、ということと、先日お送りした「荷が重い原稿」に対する、好意的な感想が述べられていた。

ふだん、面と向かってそんなことをおっしゃらない方だけに、なんとなく面はゆい。いやむしろ、メールだからこそ、おっしゃったのかもしれない。

私は、師匠が携帯電話のボタンを押しながらメールを作成している姿を想像して、ほくそ笑んだ。

気がつくと、バスはすでに都内に入り、あたりはすっかり暗くなっていた。

久しぶりに見る東京の夜景は、じつに美しかった。

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