3月23日(火)
ソウル3日目。
今回のソウル旅行で、いちばんやりたかったこと。
それは、観劇である。
大邱にいる1年3カ月の間、いちど芝居を見てみたかったのだが、結局、その機会は訪れなかった。私はそのことを後悔した。
ところが、そのチャンスが訪れた。
三谷幸喜原作の傑作芝居「笑の大学」が、ソウルでロングラン公演されている、というではないか。
私は、舞台そのものは見たことはないのだが、初演を収録した放送をビデオにとって何度も見ていたし、再演を収録したDVDも、何度も見ていた。
「笑の大学」は、戦争の足音が聞こえてきた昭和15年、喜劇を続けようとする劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(つばきはじめ)と、時局柄、喜劇を上演中止に追い込もうとする警視庁検閲係の向坂睦男の二人が、1冊の喜劇台本をめぐって、警視庁の取調室を舞台に繰り広げる、可笑しくも切ない、二人芝居の傑作である。初演、再演とも、椿役を近藤芳正が演じ、向坂役を西村雅彦が演じた。
この傑作芝居が、韓国ではどのように上演されるのか、しかも、日本でしかわからないような設定を、どのように改変していくのか、さらには、韓国人の観客は、どこに笑い、どこに笑わないのか。それは、日本人の笑いと同じなのか、違うのか、など、興味はつきない。
日本では、この2人の役を、近藤芳正と西村雅彦だけが演じていたが、韓国では、いくつものコンビが、代わる代わる演じている。つまり、公演の日によって、演じる役者が違うのである。
しかも、公演をする劇場は、2カ所である。テハンノ(大学路)という場所と、カンナム(江南)のコエックスアートシアターという場所。テハンノは、ソウルの中でも、昔から小演劇がさかんに行われている場所。日本でいえば、下北沢みたいなところか。
で、カンナムのコエックスは、最近できた、巨大で、ちょっとおしゃれなショッピングモール。日本でいえば、…何だろう。よくわからない。何とかヒルズとか、お台場とか、何とかサカスとか、そういうところだろうか。
つまり、毎夜、ソウル市内の2カ所で、「笑の大学」のロングラン公演が行われているのだ。
あらかじめ、ソウルにいる妻に頼んで、カンナムのコエックスアートシアターの方のチケットを、予約してもらった。
実は、妻はすでに一度、テハンノで「笑の大学」を見に行っていた。同じ場所、同じ役者ではつまらないので、今回は、カンナムにしたというわけである。
この時の役者は、向坂役がジョン・ウンイン。椿役がキム・ドヒョン。
と書いても、ここを読んでいる人は、ほとんどわからないだろうな。
ジョン・ウンインの方は、テレビドラマや映画でよく見かける役者である。たまたま前々日、ビデオCDでソン・ガンホ主演の映画「反則王」(2000年)を見ていたら、ジョン・ウンインが出演していて、「あ、明後日の芝居で観る人だ!」と思い、ちょっと感動した。
と書いても、マニアックすぎてますますわからないだろうな。
椿役のキム・ドヒョンは、舞台を中心に活躍されているようで、テレビや映画ではほとんど見かけない。
会場は、役者の肉声が十分にとおるくらいの小劇場である。日本でいえば、シアタートップスくらいの大きさか(といっても、行ったことがないのでよくわからない)。
私たちは、前から2列目という、実に贅沢な席に座った。
夜8時。いよいよ開演。(以下、ネタバレを含みます。あと、この芝居を見たことのない方は、何のことを書いているのか、サッパリわからないかもしれません)
セットといい、台詞といい、原作とほとんど同じである(ただし、向坂と椿の立ち位置が日本とは逆)。そう、設定は、韓国に置き換えているのではなく、日本そのままなのだ。
でも、そうなると、椿が書いてきた台本「喜劇 ロミオとジュリエット」を、向坂に「この時節に西洋の芝居を上演するのは問題だ。設定を日本に置き換えてもらいたい」と注文されたあと、設定を「貫一お宮」に置き換える、というくだりは、どうなるのだろう。韓国人が、「貫一お宮」を知っているはずがない。
案の定、この部分は変わっていた。向坂は、「恋愛劇でなく、復讐劇の『ハムレット』に変えろ!」と注文をつけ、それを受けた椿が、「喜劇 ハムレットとジュリエット」と、なんだかよくわからない台本に書き換える。
次に気になったのは、劇団「笑の大学」の看板役者、青空寛太、通称アオカン(もちろん、舞台には登場しない)の決め台詞の「さるまた失敬!」と、舞台上で必ず行うという「座布団まわし」というのがあるのだが、これも韓国ではわかりにくいだろう。
これも案の定、「さるまた失敬!」「座布団まわし」はなく、「入れ歯が落ちる」というギャグに換えられていた。
あと、警官役で登場する「オオガワラ」という名前が、馴染みがないためか、韓国人に馴染みがある日本人名「ナカムラ」に換えられているなど、細かな変更点はあるものの、基本的には、日本版にかなり忠実である。
ただ、1点、大きく異なっていた点があった。
日本版では、向坂が、「台詞のどこかに、『お国のため』という言葉を入れてください。3回繰り返しましょう。『お国のため。お国のため。お国のため』。できれば、観たあとに観客の心が奮い立つようであればなおよろしい」と注文をつけるくだりがある。
これに対して椿は、これを何とか笑いの方向に持って行こうと考える。例えば、こんな感じ。
「お宮さん、僕はお国のために戦っていきます。僕はお国のためなら死んでもかまわない。お国のため…」
そこへ、貫一を呼ぶ母の声。
「貫一さん、ご飯よ。今日はあなたの好きなスキヤキよ」
「お宮さん、僕はお肉のために戦っていきます。僕はおニクのためなら…」
向坂に叱られた椿は、さらに考える。
「お宮さん、僕はお国のために戦っていきます。僕はお国のためなら死んでもかまわない。お国のため…」
そこへ、1人の女性が登場。
「あ、おクニちゃん!」
ここまで聞いて、向坂が椿に聞く。
「ここに出てくる、おクニちゃんというのは、誰ですか」
椿が答える。「いちおう、貫一の二番目の恋人、ということになっているんですけど」
またしても向坂は激怒。椿の再考。
「お宮さん、僕はお国のために戦っていきます。僕はお国のためなら死んでもかまわない。お国のため…」
「このためですか?」と、お宮が懐から甘栗を取り出す。
「お宮さん、それはクリだよ」
みたび向坂が激怒。「お宮は、どうしてそんなに都合よく甘栗なんか持っているんですか!」
この一連のシーンは、この芝居の前半部のいちばんの盛り上がり、といってもよい。
韓国版では、これが、書き換えられている。
「お国のため」ではなく、「天皇陛下万歳!」となっている。
つまり向坂は、「台詞のどこかに、『天皇陛下万歳!』という言葉を入れてください。3回繰り返しましょう。『天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!』。できれば、観たあとに観客の心が奮い立つようであればなおよろしい」と注文をつけるのである。
これに対して椿は、これを何とか笑いの方向に持って行こうと考える。
考えたあげく、「馬を準備しろ、天皇陛下万歳、天皇陛下万歳、天皇陛下万歳、さあ出発だ」と、これをなんと馬の名前にしてしまうのである。
「そんな長い名前の馬はない!」と、向坂に指摘された椿は、今度は、「天皇」「陛下」「万歳」という3頭の馬の名前にしてしまう。
これもよくできた笑いである。それにしても、なぜこの部分を換えたのだろう。
ひとつは、日本版では、この部分(「お国のため」)がダジャレによる笑いになっているので、韓国語では置き換えにくかったためだろう。
ただもうひとつ、ここの部分の台詞の変更には、日韓の意識の違いをめぐる、大きな問題がひそんでいるように思うが、これ以上はここでは書けない。
次に、観客の反応を見てみよう。
向坂と椿が、僧侶とお宮に扮して芝居をするシーン。お宮が毒を飲むふりをして、睡眠薬を飲むことにするのだが、その薬を、僧侶が用意する。
僧侶(向坂)「この薬を飲めば、眠るように死ぬことができるのだ!」
お宮(椿)「死んだらダメじゃないですか!」
僧侶「間違った…死んだように眠ることができるのだ!」
椿「本当に大丈夫なんでしょうか」
僧侶「安心しなさい。ネズミと犬と猿に動物実験を行って、ネズミと犬は大丈夫だった」
お宮「で、猿は?」
僧侶「猿は残念ながら死んだ」
お宮「人間に一番近い猿が死んだらダメじゃないですか!」
というシーン(記憶をたよりに書いているので、正確ではないかも)。
ここまで書いて伝わったかどうかわからないが、これは、漫才である。この芝居のなかで、最も漫才的な要素が入っているシーンであるといえる。
日本版では、お宮を演じる椿こと近藤芳正が、実に適切なツッコミを入れていて、それが観客の笑いを誘っていた。
韓国版でも、台詞じたいはほぼ同じだったのだが、ツッコミが弱すぎて、漫才になっていないのである。したがって、この2人の掛け合いに、観客は思ったほど笑っていない。
むしろ、僧侶役の向坂がこの台詞を言っているとき、青空寛太の持ち芸である「入れ歯が落ちる」というギャグを入れており、観客は、むしろそっちの方を笑っていた。
これにはちょっと考え込んでしまった。
この部分は言葉の掛け合いの面白さであり、台詞をかなりはっきり言わなければ、その面白さが伝わらないのではないか、と思うのだが、むしろ、むりやり入れ歯のギャグを入れてしまったことで、肝心の台詞が聞き取りにくくなり、言葉の掛け合いが不十分になってしまっている。
むしろ、入れ歯が落ちる笑いの方を、優先してしまっているのである。
実は、このシーンだけではなく、向坂と椿による漫才のような掛け合いはほかにもみられるのだが、韓国版では、その部分がかなり弱い。「ツッコミ」というよりも、単なる「間違いの指摘」のようなソフトな感じなのである。
観客も、役者が、笑わせるためにわざと間違えた台詞なのか、あるいは本当に間違えてしまったのか、とまどっているようでもある。
ここで思う。韓国の笑いには、日本の笑いのような「ツッコミ」の文化がないのではないか、と。
観客側だけでなく、演出側も、この言葉の掛け合いの面白さよりも、入れ歯が落ちるギャグの方を、強調するように演出したふしがある。
逆に言えば、三谷幸喜氏の脚本には、シットコムの形態をとりながらも、その中に漫才的な笑い、つまり、日本的な「ツッコミ」の文化が、かなりちりばめられていたのだ。
韓国と日本の笑いの違い。そのことを発見しただけでも、大きな収穫だった。
さて、芝居の方は、というと、2人の役者の実に見事な演技とコンビネーションのおかげで、笑いっぱなし。あっという間の100分だった。幸福な100分。
とくに、テレビや映画で観ていたジョン・ウンインの演技を、ものすごい間近で観られたことが、何よりの幸福であった。これから、ずっと彼に注目していくことにしよう。
そして気がついたら、開演前の「台詞が聞き取れるだろうか」という心配が嘘のように、ほとんど台詞を聞き取ることができていた。むしろそのことに感動した。もっとも、日本版の芝居を何度も観ていて、台詞を覚えていたから、脳内字幕で観ていたことになるのだろうが…。
ともあれ、1年にわたる韓国語の勉強の成果としての韓国版「笑の大学」。これは、私にとっての、最高のご褒美である。
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