ケナリも花、サクラも花
3月1日(月)
語学院の4級の授業のときである。
韓国人のナンピョン(夫)を持つ日本人のカエ氏と、在日僑胞について話をしたことがあった。
その数日後、カエ氏が鷺沢萌『ケナリも花、サクラも花』(新潮文庫)という薄い文庫本を貸してくれた。
それまで私は、鷺沢萌の文章を読んだことがなかった。私と同じ年齢の作家だったよな、というくらいのイメージしかなかった。
それと、たしか数年前、自殺した、というニュースを読んだことがある。
「彼女、祖母が韓国人のクォーターだったそうなんですよ。で、在日僑胞として韓国語を学ぼうと、韓国に留学したときのエッセイがこれです」とカエ氏。
「お読みになるとわかると思いますけど、読んでいるとちょっと繊細な部分があって…彼女が自殺してしまったのも、そういう繊細さが関係しているのかも知れません」
私は、本を借りたまま、返すきっかけを失ってしまい、4級の授業が終わってしまった。その後、カエ氏と会う機会もなく、連絡先もわからなかったため、借りた本を日本まで持ってきてしまった。
借りた当初、ざっと読んではいたのだが、帰国後の今日、東京から勤務地まで戻る新幹線の中で、あらためてその本を読むことにした。
鷺沢萌は、1993年の1月から6月まで、ソウルのある大学に留学し、語学堂で、韓国語を勉強した。そのときの体験を中心に綴ったのが、この本である。
あらためて読んでみて、私がこの1年で感じたことと、ほぼ同じようなことを感じていることに驚く。
とくに、私がこの日記では書けなかった韓国生活における「負の部分」を、鷺沢萌はじつに率直に、そして冷静に書いている。そう、私が本当に書きたかったのは、実はこういう「思い」だ。
1年3カ月の韓国滞在を経たいま、私は全身でこの本の内容を受けとめることができた。
ただ、彼女が在日僑胞であることによる、さまざまな「思い」については、たぶん、私の想像をこえるものである。
同じ4級のクラスに、在日僑胞のホン・スンジ氏がいた。
彼と最初に会ったのは、2級の時である。中国人学生のチングが、「隣のクラスに日本人がいますよ」と紹介してくれ、休み時間に、少しばかり立ち話をした。
彼が聞いてきた。「どうして、韓国語なんて勉強しようと思ったんです?」
「韓国の歴史を勉強したいと思って…」そう言って、私は彼に名刺を渡した。「で、あなたは?」
「僕、実は在日なんです。それでいちおう、韓国語を勉強しようと思って…」
「どうしてソウルではなくて、大邱に?」
「最初はソウルで3カ月、語学を勉強してたんですけど、親戚が大邱に住んでいるもんで、こちらに移ってきました」
日本の大学を卒業してまだまもない彼は、そう言った。
そして、4級の時に同じクラスになった。
しかし4級に上がった彼は、授業も休みがちで、授業に出席したとしても、韓国語をあまり話そうとはしなかった。といって、もともとが決してふまじめだったわけではない。3級までは、成績優秀者として奨学金をもらっていたのである。それに、大阪人なので、元来は「よう喋る」タイプの青年なのだろうと思う。だがなぜか、4級のクラスでは、あまり喋ろうとはしなかった。まあ、韓国の大学に入学するわけではないから、必要な韓国語はもう十分に習得した、と考えたのかも知れない。
そんなこともあり、授業中、彼とあまり話す機会がなかった。そして彼は、昨年の12月に日本に戻った。
昨年秋のマラギ大会の時に、とある大学の在日僑胞の学生がとても印象的なスピーチをしたのを聞いてから、在日僑胞について少し関心を持つようになった。そうそう、たしかそのときの話を、なんかの時にカエ氏に話したのがきっかけで、鷺沢萌の本を貸してくれたのだ、と記憶する。
いちど、在日僑胞がかかえるさまざまな「思い」について、スンジ氏本人に話を聞いてみたいな、とも思っていたのだが、はたしてそうすることが、よいことなのかどうかが躊躇されて、結局、何も聞かずじまいになってしまった。「在日僑胞」とひとくくりにして彼を見てしまうことが、失礼なことなのではないか、などと思ったりしたためである。
鷺沢萌の本を読みながら、思い出したことがあった。
4級の授業で、「将来の夢は何ですか?」と先生が聞いてきたときのことである。
スンジ氏は「野球選手になりたいです」と答えた。
「それは子どものころの夢でしょう!現実につくことができる職業を言いなさいよ!」
と先生がさらに聞くと、彼は、
「いえ、まだ夢はあきらめてませんから」
と冗談交じりに答えた。
そのとき、私を含めた周りの人間は笑ったが、このはぐらかしたような答えが、実は日本社会において在日僑胞の就職が難しいという現実を、念頭に置いてのものである、とみるのは、穿ちすぎだろうか。
4級の授業の最終日、やはり照れ隠しに書いたと思われる私へのメッセージ、
「めっちゃ有名な学者さんになったら、何でもいいんで僕を使ってください!」
も、いまになって、そんな感じがしてきた。
かえすがえすも、彼の連絡先を聞いておかなかったことが悔やまれる。
スンジ氏はいまどうしているのだろう。
カエ氏は、たくましく生きていると思うけど。
そんなことを考えているうちに、新幹線は駅に到着した。大雪である。
駅から乗ったタクシーの運転手さんが言う。
「昨日までは、全然雪が降らなかったんですけどね。今日の夕方から、急に降りはじめました」
やはり、雪が出迎えてくれたか。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 鉱脈(2022.08.27)
- 記憶狩り(2022.08.15)
- ラジオパーソナリティーと文筆活動(2022.08.15)
- ヨカナーンの首(2022.08.09)
- 秘密の花園(2022.08.01)
コメント