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2010年4月

講演会リハビリ

4月29日(木)

数日前、同僚のAさんが研究室にいらした。

「29日、空いてる?」

「ええ、空いてますよ」

「29日に、Nさんが美術館で講演をするそうなんだよ」

Nさんというのは、職場の同僚である。美術館の特別展にあわせた講演会が開かれるという。

「で、Nさんに内緒で、講演会を聞きに行こうと思うんだけど、どう?」

「いいですね」

私も少し経験があるが、一般向けの講演会で、職場の同僚が聞きにくる、というのは、意外と恥ずかしいものである。前もって知っていれば、あるていど覚悟はするのだが、いきなり同僚がいたりすると、少しやりにくかったりするのだ。Aさんは、そのことをねらい、仲のよいNさんに「軽いドッキリ」を仕掛けるつもりなのだろう。もちろん、講演の内容が興味深いから、というのが、大前提にあるのだが。

でも、門外漢の私をなぜさそってくれたのだろう。

ひょっとして、休日になると引きこもる、という最近の私の状況を見かねて、外に出るためのきっかけをあたえてくれたのではないか。つまりは、リハビリである。

私は、Aさんの心づかいに感謝した。

「あくまでも、Nさんに内緒だよ」と、Aさんが念を押す。

「わかりました。ちょいとしたドッキリですね」と私。ドッキリといっても、ダマされる方もその自覚がないくらいの、ユルいドッキリなのだが。

さて当日。

少し早めに会場について、特別展の展示を見ていると、同僚のSさんがいた。たぶん私と同様に、Aさんの「ユルいドッキリ計画」に誘われたのだろう。

少し遅れて、Aさんがいらした。

「いやあ、受付でNさんに見つかっちゃったよ」

言い出しっぺのAさんが、いきなりNさんに見つかってしまったらしい。

「見つかっちゃダメじゃないですか!ドッキリになりませんよ」と私。かくして、「ユルいドッキリ計画」は失敗した。

講演会場に行くと、どちらかといえば地味なテーマであるにもかかわらず、お客さんでほぼいっぱいである。

お客さんの層を見て驚いた。

若い人が多い。しかも若い女性が、である。なかには、女子高生もちらほらいるではないか。どちらかといえば地味で難しいテーマであるにもかかわらず、なぜなのだろう。

「きっとNさんのファンクラブの人たちだろう」と、Aさんが冗談交じりで言う。なるほど、そうなのかもしれない。

それにしても、私がたまにやる講演会とは、お客さんの層が全然違う。

まず、私の講演会には、そんなにたくさんの人が来ない。それに、お客さんのほとんどが、かなりのご高齢の方である。少し大きめな声で話したり、大きめな字で書いたりしなけれならない場合がほとんどである。

この会場では、講演の最中に聴衆の方の補聴器がハウリングする、なんてことはないんだろうな。

もうひとつ驚いたこと。

それは、来ている人の服装がおしゃれである、ということだ。

AさんもSさんも、休日の私服がおしゃれであることに驚いた。おしゃれ、というより、こざっぱりしている、というべきか。さすが、この分野の専門家はセンスが違うなぁ。

そればかりではない。聞きに来ている他のお客さんもまた、どことなくこざっぱりしている。

ジャージを着て講演会を聞きに来たのは、私だけのようである。

さて、講演の内容の方は、Nさんのよどみないお話にすっかりと魅了された。門外漢の私にも、十分に楽しめる、知的興奮に満ちたお話であった。

(Nさんはふだんこんなに面白い講義をやっているのか。それにひきかえ俺ときたら…)と、軽くへこみもしたのだが。

講演会が無事終わり、Nさんを含めた4人で居酒屋へ。

5時から飲みはじめ、気がついたら10時をまわっていた。

前回の日記に、一緒に飲む相手がいない、などと書いてしまったが、そんなことはないかも知れない、と思いなおした夜だった。

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一番弟子

4月23日(金)

お昼休み、前の職場の同僚だったKさんから電話が来た。

「10年前に卒業したMさんから、私のところに電話がありました。Mさんのこと、覚えてますか」

Mさんは、私がはじめてこの仕事に就いたときに受け持ったゼミ生である。前任校では、卒業年である2年生になると、どこかのゼミに属することになる。私が赴任した年、2年生だった彼女は、私のゼミに所属し、ゼミ長(学級委員のようなもの)をつとめた。

その後、彼女は専門の勉強を続けたいと、他県の4年制大学に編入した。今は、隣の県で、専門をいかした仕事に就いている。私は、1年間だけの指導教員だった。

「この週末にこちらで学術シンポジウムが開かれる、ということで、こちらに来るそうなんです。で、久しぶりに先生にお会いしたい、ということで、私の職場に電話が来たんです。明日の夜、時間空いてますか?」

学術シンポジウムが開かれるなんて、知らなかったな。

「ええ、空いてますよ」

「ああ、よかった。出張とか入っていたらどうしようか、と思ってました。なにしろ、急に連絡があったものですから」

「大丈夫ですよ。ここ最近、あまり出歩いてませんから」

実際、ここ最近の週末は「引きこもり」のような生活が続いている。週末になると、まったくやる気が起きなくなるのである。

「じゃあ、明日7時に待ち合わせましょう…。あ、そうだった。今日の夕方にまたお会いするんでしたね」

「えっ?今日の夕方って?」

「今日の夕方、そちらで会議があるじゃないですか。私、用があるので、少し遅れてうかがいます」

すっかり忘れていた。そうだった。今日の夕方は会議があった…。

前の職場の同僚のKさんは、私の職場まで、鉄道で1時間かけて会議のために来ることになっていたのである。

夕方、会議でKさんとお会いする。会議が短時間で終わった後、駅前の小さな飲み屋のカウンターで、2時間半ほど語らいあいながら飲んだ。

「ま、明日も飲むので、これくらいにしておきましょう。明日話すことがなくなったら困りますし(笑)」

私には行きつけの店、というものがないし、だいいち、ふだん、一緒に飲む相手がいない。そんな中で、Kさんは貴重な友人のひとりだった。お客さんが来ると私が必ず案内する(というより、私はその店くらいしか知らないのだが)、日本酒と料理がおいしい店で、久しぶりにじっくりと話しながら飲んだ。

4月24日(土)、夜7時。

前日のKさんに加え、隣の県から来た卒業生のMさんを加えて、3人で駅前の居酒屋に入る。昨日とは、別の店である。

「私、もう今年で30歳ですよ」

相変わらず元気なMさんである。

「すいません。フライドポテト注文してもいいですか?好きなもので…」

彼女の「フライドポテト好き」は学生時代から有名である。彼女は、出てきたフライドポテトをひとりで平らげた。相変わらずである。

ほとんどの卒業生が、大学で専攻した研究とは関係のない仕事に就く。だがMさんは卒業後、不安定な身分ながらも8年間、自分の専門に関わる仕事に携わってきた。いや、正確に言えば、私の専門分野ではなく、彼女が編入した大学のときの専門分野である。私は、大学2年生の時の1年間、指導教員をつとめたにすぎない。しかし彼女は、今でも私を「先生」として立ててくれている。

私にとっては、この仕事に就いて初めての指導学生、ということもあり、おこがましいことかも知れないが、ひそかに彼女を「一番弟子」だと思っている。因習的な学閥意識が大嫌いな私だが、なぜか、漠然とそんなことを考えていたのである。

数年前、ある地方都市で行われた学術シンポジウムで、わが師匠が講演にいらしたとき、同じ県内に勤務していたMさんが講演を聞きに来ていて、そこで久しぶりに再会した。そのとき私は、Mさんを師匠に紹介した。自分の一番弟子が、専門をいかした職場にいることを師匠に紹介できたことは、なんとなく誇らしかった。

「あのとき私、せっかく紹介していただいたのに、名刺を作っていなかったんですよ。名刺を作っていればよかったって後悔して、あの後あわてて名刺を作りました」と、Mさんが述懐する。

「同業者の方にお会いして、先生のもとで学びました、と、先生のお名前を出すと、いろんな人から『おお、そうか』と言ってくださるんです」と、Mさんが続ける。

「どうせ、悪い噂でしょうに」と私。

そんなことはありませんよ、とMさんは気をつかって答えてくれたが、そのとき私が思ったことは、「Mさんにとって、私の名前を出すのが後ろめたくなるような人間にだけは、ならないように心がけよう」ということだった。最近、ひどくウツ気味の私は、「一番弟子」に励まされたのである。

ただ、4時間近く3人で話した内容はといえば、そのほとんどが、それぞれの職場の愚痴などの、暗い話。未来は、決して明るくない。でも、そんな話を、対等にできるようになったんだなあ。

夜11時をまわり、駅前で解散。

「楽しい時間でした」とKさん、そしてMさん。

「私もです」と私。

来週からまた、それぞれの持ち場で頑張らねば、ね。

私も、あと少しだけ、頑張れるような気がした。

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誤作動の理由

朝、私が住んでいるアパートの外で、ピーピーピーピーと、警報機の大きな音がした。

朝からうるさいなあ。何だろう、と思っていると、消防車のサイレンが近づき、やがて私のアパートの前でとまった。

どうやら、うちのアパートの火災警報機が鳴ったらしい。

「今月で2回目かよ…」

そういえば先週も、やはり朝にアパートの外の火災警報機が鳴って、消防車が来ていた。そのときは、誤作動とやらで、原因が分からないまま、消防車は帰っていった。

今度もまた、誤作動かもしれない。やれやれ、と思いながら表に出ると、消防車が一台とまっていて、消防署員の方が建物の周りを調べている。

近所の人たちも、何事が起こったのか、という感じでアパートの近くに集まってきている。

やがて、パトカーも1台やってきて、警察官も2名待機した。

さらには、なぜか、テレビカメラを持ったテレビ局のカメラマンも1人いて、うちのアパートを撮影している。たまたまそこに居合わせたのか、あるいは、消防車に同行して取材していたのか、わからない。

見たところ、別に、建物から炎や煙が出ているわけではない。ニュース映像にもならないことは、明白である。先週と同じ、誤作動であることは、容易に想像できた。

それにしても、警察官やテレビカメラマンまで来るとは、おおごとになってしまったものだ。

「どうしたんです?」私は消防員の方に聞いた。

「火災警報機が鳴っている、と通報がありましてね。…お宅は、大丈夫ですか?」

「ええ」

「通報されたのはどなたですか?」

「私です」

表に出ていた、隣の部屋の奥さんが答えた。

「たしか、先週も火災警報機が鳴りましたよね」

「そうなんです。で、今日も鳴ったので、おかしいな、と思って通報しました」

「でも、火災の様子は確認できませんね」

消防員の方が不審がる。

「念のため、連絡先をうかがってもよろしいですか?」

消防員の方が、第1通報者の奥さんに尋ねる。

「お名前は?」「電話番号は?」「年齢は?」「お勤めは?」

名前と電話番号まではまあよい。だがなにも年齢や職業までたずねることはないだろう、と思いながら、いったん自分の部屋に入り、仕事に行く仕度をして、再び部屋を出た。

勤務先へ行く道すがら、思い当たることが…。

私は、朝、風呂に入ることにしている。私の部屋の風呂は、お湯が出る水道の蛇口をひねって、お湯を入れる、という実に単純な仕組みである。

しかし、細かな温度調節ができない。出てくるお湯がとても熱いため、いったんお湯を出した後、今度は水を出して温度を調節しなければならない。

で、今日、お湯を出しているとき、たしか風呂場の扉を開けっ放しにしていたな。

そこで、7年ほど前に入居したときに、ガス会社の人から言われたことを思い出した。

「天井に火災探知機がついています。煙に反応しますが、お湯の湯気にも反応しますので、たとえば、横のお風呂場の扉を開けたままお湯を使ったりしますと、その湯気に反応して、警報機が鳴る場合がありますから、注意してください」

アパートの外の警報機が鳴った時間、ちょうど、お風呂にお湯を入れていたような…。

まさか、…まさか、ね。

そんなに湯気も出てなかったし。

断じて私のせいではないが、第1通報者だった隣の奥さんが、消防員の人に疑いの目で見られていたのは、ちょっと気の毒だったな。

そして、断じて私のせいではないが、今度からは、いちおう風呂場の扉を閉めて、お湯を入れることにしよう。

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通信添削、はじまる?

あいかわらず、韓国語日記を続けている。

ほとんど読まれることのない日記だが、語学院の2級の時の先生であった大柄の先生と、4級の時の先生であった「よくモノをなくす先生」は、いまでも読んでくれているようで、たまにコメントをくださる。

もう一人、この日記の読者がいらっしゃる。

ソン先生といって、やはり語学院の先生なのだが、実は、私はこの先生を知らない。習ったことのない先生なのである。

語学院の韓国語の先生の顔は、ほとんど知っているので、顔を見ればわかると思うのだが、名前を知らない先生もけっこういて、どうも名前と顔が一致しない。

どうして、その先生が、私の日記を読んでいるということがわかったのか。

韓国語の日記を書いているミニホムピィ(自分のミニホームページのこと)には、ブログと同じように、記事に対して他の人がコメントを書きこめる欄がある。

「大柄の先生」や「よくモノをなくす先生」は、しばしばそのコメント欄に、コメントを残してくださるのだが、実は、コメント欄以外にも、メッセージを残す方法がある。

「チョクチ」と呼ばれるもので、日本語で言えば、「一言メッセージ」というものである。

この「一言メッセージ」は、コメント欄のように、公にされるものではなく、日記主のみが読めるようなしくみになっている。

私は最初、そんな機能があることなど全然知らなかったのが、あるとき、たまたま「チョクチ」というコーナーに、メッセージが入っていることに気づいた。それが、ソン先生のメッセージだったのである。今年の1月、まだ韓国に滞在中の時であった。

ソン先生は、「たぶん私のことはご存じないでしょう。キョスニムが語学院の1級の時のマラギ(会話表現)の試験の時に、試験監督をしました」という。

だが、申し訳ないことに、まったく記憶にない。

「この日記のことは、クォン先生(大柄の先生)からお聞きして、それ以来、読んでます」

大柄の先生の交友関係から考えると、たぶん、あの先生かな、と、なんとなく思い当たる先生は頭に浮かんだ。

だが、確証がつかめない。帰国前に一度、語学院の韓国語の先生方の部屋にお別れの挨拶にいったときも、その先生がどなたなのか、わからなかったし、先生もご自分から名乗られることはなかった。いまもって、その先生がどなたなのか、わからない。

で、その先生は、ごくごくたまに、ほんとに忘れた頃に、「一言メッセージ」に、メッセージを残してくださる。

「いつも一方的に読ませてもらってばかりで申し訳ないので…」とおっしゃって、私の日記の、文法的な誤りや語法の誤りを、指摘してくださるのである。

「受動態と進行形は、一緒に用いることはできないんですよ」とか。

そのたびに、そのご教示に感謝して、日記の文章を修正するのである。

さて昨日、久しぶりにソン先生から「一言メッセージ」が入っていた。

「あの、…失礼でなければ、メールアドレスを教えていただけないでしょうか。このまえ書かれた日記を修正したいのですが、『一言メッセージ』では、字数制限があって、意を尽くせないので」

ちょっとドキッとした。ひょっとして私の日記は、間違いだらけなのだろうか。

こちらとしては、自分の書いたものがどのくらい間違っているのかを知るチャンスでもあるので、メールアドレスを教えることにした。

すると今日、早速メールが送られてきた。

「一つ一つ言葉で説明するのが大変なので、全体を通して見ることにしました」

ワードのファイルが添付されている。

添付ファイルを開くと、私が先日書いた日記、「初恋は、1級の先生」の文章の全文が引用されている。そして間違った表現の箇所に線が引かれ、その下に修正案が書かれていた(そもそも、先日書いた「初恋は、1級の先生」というユルい文章は、韓国語日記用に書いた文章なのであった)。

修正箇所は、予想していたほど多くはなかったが、どれも「なるほど」と思うものばかりである。まるで、作文の授業で添削されているがごとくである。

こんなくだらない文章をマジメに添削していただくことじたい、ありがたいことなのだが、どうしてそこまでしてくれるのだろう。

おそらく、語学の先生の性(さが)、というのだろうか。私の稚拙な文章を読みながら、隔靴掻痒というか、読んでいてイライラしたのではないか、と想像する。

これについては、私にも経験がある。

大学院生のとき、韓国人留学生のチューターを長い間担当していた私は、彼の書く日本語の論文を読んで、表現のおかしいところを直すお手伝いをしていた。

ところが、これがまさに隔靴掻痒。読んでいて、「イーッ」という感じになるのである。ほかに表現しようがないが、「イーッ」という感じ。

10年も日本に留学していた彼の文章ですら、そんな感じである。1年しか韓国語を勉強していない私の韓国語の文章が、しかも韓国語のプロの先生にとって、心地よいはずがない。たぶん、そうとう珍奇な文章になっているに違いないのである。

なんとなく心地悪くて、「ここをこう直せばいいのに…」と、つい言いたくなってしまうのが人情というものであろう。

それで、つい、文章をいじりたくなってしまうのではないだろうか。

しかしそのおかげで私も、韓国語の作文を、タダで指導していただける恩恵にあずかることになる。

「ときどき、時間があるときに、文章をまた修正させていただきます」と先生。私はご教示に感謝した。

たぶん、また忘れた頃に、添削していただけることだろう。

それにしても、ソン先生は、どなたなのだろう。

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初恋は、1級の先生

「語学院の学生は、1級の先生に恋をする」

これは、韓国滞在中、語学院のある先生から聞いた言葉である。

また、しばらく4級を担当して、久しぶりに1級の担当になった先生に、聞いてみたことがある。

「1級はどうですか?学生が韓国語を全くわからないから、使う語彙が限られたりして、大変でしょう」

「でも、楽しいですよ。1級の学生たちは、『語学院で先生がいちばん美人です』と言ってくれるんです。4級の時は、全然そんなことを言われたことがなかったんですけど」

なるほど。そう言われてみれば、中国人学生たちを思い返してみても、1級の時に習った先生に恋い焦がれる、というケースが多いようだ。

ホ・ヤオロン君が、1級のときに習った「猟奇的な先生」に恋い焦がれたというのは有名な話だし、マ・クン君が好きだったナム先生も、1級の時の先生だった。

「ひな鳥は、初めて見たモノを母親だと思う」という、有名な理論があるが、あるいは、この理論で説明できるのかもしれない。

しかし私は、もう少し違う説明ができるように思う。

たとえば私は、韓国映画を見ていて、ソン・ガンホのせりふがほぼ聞き取れる。それは、私がソン・ガンホのファンであり、彼のせりふを一生懸命聞き取ろうとしているからである。

また、私が尊敬している韓国の指導教授は、慶尚道訛りがひどい先生で有名だが、帰国するころには、教授のお話をだいたい聞き取ることができるようになった。

同性、異性を問わず、好きな人に対しては、その人の話し方の特徴をつかむ努力を、知らず知らずのうちに行っていて、その結果、自然と聞き取ることができてしまうのではないだろうか。

反対に、嫌いな人や苦手な人の話している言葉は、なかなか聞き取ることができない。これも、私が何度か経験したことである。

つまり、「好きな人の話=聞き取りやすい」というわけである。

では、1級の先生を好きになる、というのは、どういうメカニズムによるものなのか。

韓国語が全くわからない1級の時に、頼みの綱となるのは、1級の先生である。1級の学生からしてみれば、韓国語を一番聞き取ることができる人が、1級の先生なのである。

そこで、「好きな人の話=聞き取りやすい」というメカニズムがたたき込まれている脳が、「聞き取りやすい人=好きな人」という、関係が逆転した信号を出してしまうのではないだろうか。

なんだかよくわからなくなってきたな。「ひな鳥は、初めて見たものを母親だと思い込む」という理論と、たいして変わらないな。

要するに私が言いたいことは、語学が上達するためには、その人(人びと)に興味を持つ、ということである。

ん?これでは、「語学が上達するためにはその国で恋人をつくればよい」と、巷間で言い古されていることともたいして変わらないな。

いや、「その国の異性とつきあう」というのは、あくまでもその一例。重要なことは、その国の人たちに興味を持つ、ということなのだ。

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ハウステンボスはなぜモテる

4月16日(金)

私と妻が韓国の語学院の4級のときに習ったキム先生(よくモノをなくす先生)が、4月25日に結婚なさる、という。

先生、といっても、私や妻よりも、年下である。キム先生も、夫になるというナムジャチングも、現役の大学院生である。キム先生は、結婚を前に、語学院の先生をお辞めになった。

多分に社交辞令が含まれていると思うが、キム先生は、私たち夫婦を「人生の指針」と考えている、という。「結婚したら、お二人のように、いつか外国に行って勉強したい」のだそうだ。

日本への帰国直前、「実は結婚することになりました!」という知らせをもらい、語学院で習ったお礼と結婚祝いをかねて、婚約したお二人と、私たち夫婦とで、一緒に食事をした

「新婚旅行、どこにしようか迷っているんです」とキム先生。

アメリカ、ヨーロッパ、日本、インド、ハワイ、ベトナムなど、さまざまな候補地があがる。

「もし新婚旅行が日本に決まったら、連絡ください。私たちが案内しますよ」と、その時私たちは言った。

帰国直後、キム先生からメッセージが来た。

「新婚旅行、日本に行くことにしました!アメリカもヨーロッパもやめて、日本を選択しました。まず九州の大分県湯布院温泉と長崎ハウステンボスなどで3日すごした後、東京に3日滞在しようと思います。東京滞在中に、お二人にお会いできれば幸いです。細かい予定が決まったらまた連絡差し上げます!」

一生に一度の新婚旅行として選んだのは、日本だった。決めた理由の何%かに、私たちの存在があるのだとしたら、私たちもまんざらではない。東京で会ったら、どこを案内しようか、などと、想像がふくらんだ。

さて、1カ月後、キム先生から再びメッセージが来た。

「新婚旅行についてお知らせします。旅行社の職員が、長崎ハウステンボスから東京に移動するのは、大変だからやめろ、と言うんです。私たちも食い下がったんですが、旅行社の職員は、1カ月ほどかけて私たちを説得したんです。やれ、料金が高くなるだの、体がしんどくなるだの…。どうしても方法がみつからず、東京に行けなくなってしまいました。とても残念ですけど、次の機会ということで…」

ま、九州3日、東京3日、という計画を聞いた時点で、うすうす、こりゃ無理かもしれない、とは思っていたが、まさか本当に中止になるとはね。

でも待てよ。

ハウステンボスをやめて、東京にする、という選択肢はなかったのか?

どうしても、ハウステンボスをはずせなかったのだろうか?

ハウステンボスに負けるとは、うーむ、やはり私たち夫婦は、二人そろって人望がないんだな。

私は、ハウステンボスに行ったことがないのでわからないのだが、ハウステンボスって、そんなに魅力のあるところなんだろうか?

そういえば、韓国滞在中、いろんな人から、日本での観光旅行でハウステンボスに行った、という話を聞いたことがある。

それだけではない。大分とか熊本を旅行した、という話もよく聞いた。とくに、別府温泉とか、熊本城とか、阿蘇山など。

ひょっとして、韓国の人たちにとって、ハウステンボスとか、別府温泉とか、阿蘇山とか、熊本城は、超有名な観光名所なのではないだろうか。

1級のときの「ベテランの先生」も、たしかハウステンボスに行った、という話をされていた。あと、熊本と阿蘇山。

授業中に、学生に熊本城の写真をみせて、「日本でいちばん有名なお城です」と説明されていた。日本でいちばん有名なお城は、たぶん姫路城だと思うのだが…。

日本に行くなら、まずハウステンボス、という意識があるのだろうか。

いや、ひょっとして、韓国の旅行社は、長崎や大分や熊本あたりと結託していて、韓国人の観光客を、そのあたりに誘導するのに一役買っているのではないだろうか?

だから、キム先生が「東京に行きたい」といっても、旅行社の職員が「それよりも、ハウステンボスをじっくり見た方が…」などと言って、1カ月もかけて説得したのではないか?

これは、ぜったい結託しているぞ…と、例によって、ひとり妄想をふくらませる。

妄想はともかく、韓国の人たちに、ハウステンボスはなぜモテるのか?

「ブルー・ライト・ヨコハマ」の謎が解決したと思ったら、また新たな謎が生まれてしまった。

〔付記〕いつも以上にとりとめもない話だが、横溝正史の「車井戸はなぜ軋る」という小説のタイトルをもじって、「ハウステンボスはなぜモテる」というタイトルが思い浮かんじゃったので、つい書いてしまった。

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メモ2

4月15日(木)

やはり日記というのは、つけておくもんだね。

韓国滞在中の、昨年の2月19日、1泊2日の大学院生ワークショップに出かけたときの日記で、次のようなことを書いた。

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朝9時に大学に集合。大学院生だけかと思ったら、教授先生や、OBの方(研究者)もいらっしゃっていた。総勢22名が、5台の車に分乗して出発する。

それにしても4時間の行程は長い。私の乗った車は、一見恐そうな50歳くらいの先生の運転である(のちに、先生ではなく、大学院生であることが判明する)。

その恐そうな方が、私に気を遣ったのか、話しかけてきた。

「『ブルーライト・ヨコハマ』、知ってますか?」

ええ、と答えると、

「歌っていた女性は何という名前でしたか?」

突然の質問にとまどうが、なんとか思い出し、

「いしだあゆみです」

と答えた。どうもその方は、その歌がひどくお気に入りらしい。

「そうそう、そうでしたね。その方は、もう結構なお年でしょう」

「ええ、今はたぶん、60歳くらいだと思います」

(中略)

世代的にまったく異なるが、「ブルーライト・ヨコハマ」を知っていてよかった。自分が「芸能通」であったことが、これほど役立ったことはない。

(中略)

夕食後、再び船橋荘に戻り、2次会が始まる。焼酎をたらふく飲み、大学院生たちと語り合う。といっても、もっぱら私が聞き役に回ってしまうのだが。

そのうち、誰かが箸でリズムをとりながら、歌を歌い始めた。そして予想通り私にも「何か日本の歌を歌ってくれ」と、リクエストがきた。

仕方がないので、「ブルーライト・ヨコハマ」を、むちゃくちゃな歌詞で歌った。

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私はこの時、たんに「この方は、いしだあゆみのファンなのかな」と思っていた。

しかし今日、図書館で田月仙著『禁じられた歌 ー朝鮮半島 音楽百年史ー』(中公新書ラクレ)をなにげなく読んでいて驚いた。

「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、「韓国人がもっともよく知る日本の歌」である、と紹介されているのである。

1980年代後半まで軍事政権下だった韓国では、歌は規制の対象であった。ましてや日本の歌は、もってのほかであった。

そんな中、1968年末に発売されたいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(なんと私がちょうど生まれたころの歌だ)が、海を渡り、韓国へ「突然舞い降り、瞬く間に人から人へと伝わっていった。歌は韓国全土に大きな波のうねりのごとく広がったのである」(前掲書)。海賊版などの非合法な形でたちまち広まったこの歌は、1970年代の若者たちの誰もが歌える歌にまでなっていく。

この歌が、なぜこれほどまでに人気を博したのかはよくわからない。この歌のもつ魅力というほかないのだろう。傑作なのは、大統領と同じ名前のパク・チョンヒという人が、1972年、日本からカセットテープを持ち帰って、みんなで歌を歌ったときのエピソードである。

「今でもはっきり覚えているのは、割り箸でキムチチゲの鍋をたたきながら、皆で歌を歌ったことだ。パクは箸でリズムを取りながら、大好きだった日本の歌『ブルー・ライト・ヨコハマ』を歌った。友人たちも、うろ覚えの日本語歌詞で、一緒に合唱したという」(前掲書)

なんと、ここに書かれていることは、私が昨年ワークショップの飲み会でやったことと、まったく同じではないか!というか、宴会の席で箸で食器をたたいてリズムをとりながら、むちゃくちゃな歌詞で「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌う、というのは、昔から韓国で行われている、「ブルー・ライト・ヨコハマ」の正しい歌い方だったのだ!

著者はさらに、2000年にドラマの撮影で韓国をはじめて訪問したいしだあゆみと、撮影所で会ったときのエピソードを書いている。

「長い間日本の歌が禁止されていた韓国で、もっとも多くの人々が口ずさんでいた日本の歌が『ブルー・ライト・ヨコハマ』なのだということを、直接ご本人にお伝えしたかった。しかし、すさまじいハードスケジュールの中、あっという間に撮影は終了し、私は、韓国での次の公演を急ぎ、言いそびれたまま、撮影所をあとにした」(前掲書)

いしだあゆみが2000年まで韓国を訪れたことがなかったことや、せっかくのチャンスに著者が言いそびれてしまった、というのが、なんともほほえましいエピソードである。

なお、その本の隣に並んでいた寺脇研著『韓国映画ベスト100』(朝日新書)もなにげなく読んでいると、ソン・ガンホ主演の韓国映画『大統領の理髪師』を見たときの、山田洋次監督のコメントが紹介されている。この映画を観て、山田監督は「韓国にも渥美清みたいな役者がいるんだね」と驚いたのだという。

これについても、過去の日記に書いている。というか、俺は山田監督と同じ思考様式なのか?敬愛するソン・ガンホ先生については、またあらためてじっくり書くことにしよう。

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いよいよ新学期

4月12日(月)

いよいよ今日から、新学期の授業がはじまる。

先週1週間は、オリエンテーションで、なんとなく落ち着かない日々が続いた。しかもそれらにかなり主体的にかかわらなければならない立場だったから、それなりに神経を使い、週末は、抜け殻のようになってしまった。

「先週の木曜日(8日)、1年生のオリエンテーションで司会をしながら会場を見渡していたら、知っている4年生に激似の新入生がいたので、終了後、『ひょっとして、○○さんの妹ですか』とたずねたら、『そうです。ひょっとして先生は、サンカクブチシンジュウキョウの先生ですよね』と聞き返された話」

とか、

「先週の金曜日(9日)、同僚Sさんの昇進祝いで、べろんべろんになるまで酔っぱらったSさんが、3次会の帰りがけに、店のレジの前で大の字になって寝てしまった、ということを、今日(12日)、本人に言ったら、『まったく覚えていないんです』と言われた話」

などは、面白いのだが、書くのが面倒なので、詳しくは書かない。

さて、今日の夕方、短期留学生のオリエンテーションがあった。

私も、韓国から来た留学生1人の指導教員になっていたので、参加する。そこではじめて、私が指導教員となる留学生、M君と会う。

日本語はほぼ完璧である。

ちょっと韓国語で会話してみたいな、という欲求はあるのだが、それは、留学生にとっては、迷惑この上ないことなので、ぐっとこらえる。

なぜなら、彼は日本語を勉強しにやってきたのだから。日本語で会話をすることが、彼らにとっては何よりの勉強なのだ。

私が通っていた語学院の先生もそうだった。たとえ、先生が日本語や中国語を知っていたとしても、そんなことはおくびにも出さずに、すべて韓国語で指導されていた。これはたぶん、語学の先生の鉄則であろう。

妻がソウルにいたとき、日本語を学んだ韓国人の知り合いが、やたら日本語で話しかけてきたのには閉口した、と言っていた。日本語を学んだ彼らからすれば、学んだ日本語をネイティブの人を相手に試してみたい、というのは、よくわかる。だが、外国語を学ぼうとしている人からすれば、迷惑この上ないことなのである。

だから、韓国語を封印して、会話をすすめる。

「日本のドラマを見て韓国語を勉強したんです」と、M君。

「どんなドラマを見たの?」

「『コード・ブルー』です」

こおど・ぶるぅ?

どんなドラマなのか、私は全く知らないので、話がそれ以上ふくらまない。

「韓国で『コンブエ シン(勉強の神)』は見たんだけどね」

「ああ、日本の『ドラゴン桜』が原作のやつですね」

「見た?」

「『コンブエ シン』は見てないんですけど、『ドラゴン桜』は見ました」

私は、「ドラゴン桜」の方を見ていないんだけどな。

なんとなく、会話が平行線のまま、オリエンテーションがはじまった。

途中、司会の先生が、

「日本に滞在中は、危険な行為をしてはいけません。『バンジージャンプ』とか、『カヌーで川下り』とか」

とおっしゃったことに、みんなが爆笑する。

まさか、バンジージャンプなんかしないだろう、ということなのだろう。

しかし私は、韓国の語学院で経験している。

いや、正確には私が、ではない。私のチングの、中国人留学生が、である。

Photo あれは1級の時の野外授業。ウバンランド、という遊園地に行ったとき、大邱タワーにのぼった。

「大邱タワーで、バンジージャンプが体験できます」と書いてある。

(まさか、挑戦するやつなんかいないだろう)

と思いつつ、大邱タワーを降りて、外を歩いていると、「ギャー」という悲鳴が。

見上げると、語学院の中国人留学生が、バンジージャンプをやっているではないか!

おいおい、大丈夫か?異国の地で、バンジージャンプに挑戦するなんて、たいした度胸だ、と呆れつつも、感心した。

だから、司会の先生が例に出した「バンジージャンプ」は、決して極端な例ではない、と、私には思えたのである。

「何か、質問ありますか?」と司会の先生。

M君がすかさず手をあげる。

「あの…スキーもダメでしょうか」

これにも一同が爆笑。そりゃそうだ。世界的にも有名なスキー場を抱えているこの地で、スキーを封じられてしまっては、何のためにここに来たのか、わからない。

「スキーは、大丈夫でしょう」と先生。

オリエンテーション終了後、M君に研究室に来てもらって、今後のことなどについてお話をする。

携帯電話の番号など、連絡先を教えあうことになった。

「あの…、赤外線通信は可能でしょうか?」とM君。

赤外線?たしか、携帯電話にそんな機能があったような…。

やってみるが、どうもよくわからない。

「ちょっと貸していただけますか?」とM君が言うと、私の携帯電話をササっといじって、赤外線通信をあっという間に終えてしまった。

私も、韓国の携帯電話を使ったことがあるが、異国の携帯電話を使いこなすのは、なかなか大変である。しかも彼は、まだ日本に来たばかりである。

「よく、そんな機能まで知っているね」と私。

「こういうこと、けっこう好きなんです」とM君は答えた。

もう、教えることなんて、何もないな。というより、日本で取り残されているのは、この私の方なんだな。

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メモ

4月10日(土)

むかし読んだ、小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮社)を再読する。

その中で、山田洋次監督の喜劇映画「運が良けりゃ!」について触れているくだりがある。山田監督の、初期の作品である。

ちなみに私は10年以上前、この映画がテレビで放送されたときに見たことがある。

「五つの落語を使って〈長屋の四季〉を描いた喜劇だが、〈落語というものは、非常に高いモーパッサンぐらいまでいく芸術〉と山田(洋次監督)は語っていた」(小林氏、前掲書)

小林氏が引用した、山田監督の言葉に目がとまる。

落語とモーパッサン。以前読んだときにはまったく気がつかなかった言葉である。

韓国留学中、語学院の2級の授業で、モーパッサンの「首飾り」という小説を読んだことがある。私はそれまでモーパッサンの小説をちゃんと読んだことがなく、この有名な「首飾り」という小説も、韓国語、しかも2級(初級)レベルの語彙ではじめて読んだのである。

その時のことは、この日記にも書いたが、その中で私は、「なんとなく落語になりそうな話である」と書き、その親和性について簡単に論じている。しかしこの直感にはほとんど自信がなく、私自身の「了見が狭い」のではないかと疑い、「フランス文学愛好者から、叱られるかもしれない」とも書いている。

しかしそんなことよりも前に、すでに山田監督は、落語とモーパッサンの親和性について語っていたのである。

私などよりはるかに落語や文学に造詣の深い山田監督の言葉。

それに対して、落語や文学に疎く、ましてやモーパッサンの小説を韓国語の2級(初級)レベルの簡単な翻訳で読むという「いびつな出会い」をした私。

「オレの感性も捨てたもんじゃないな」

と、心の中で小躍り。

少し嬉しかったので、ここに書きとめておく。

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語録

4月1日(木)

「就職活動って、恋愛に似ていると思うんです」

研究室にやってきた新4年生、Sさんの言葉。

「履歴書はラブレター、面接は告白でしょう。気に入られようと、精一杯のラブレターを書いて、告白をする。…で、問題は、フられるときです」

「ふむふむ」思わず身を乗り出してSさんの話を聞く。

「この前、○○(会社名)から、『もし○日までに連絡がこなかった場合は、ご縁がなかったということで』と言われたんです。これって、失礼なことだと思いません?恋愛でいえば、せっかく気に入られようと一生懸命にラブレターを書いて告白したのに、『○日までに返事がなかったら、断ったと思ってくれ』と言われてるようなものでしょう!」

「なるほど」

「会社の中には、不合格者にもちゃんと通知を出すところもあるんですよ。それがふつうですよねえ」

「そりゃそうだね」

「こちらにしても、はっきりとフってくれないと、次の恋に進めないじゃないですか。…だからその会社は、告白したけど、ちょっと嫌いになりました」

なるほど。就職活動は、恋愛ねえ。

恋愛している最中も、相手のちょっとした言動がイヤになって、恋が冷める、なんてことを聞いたことがある。就職活動でも、相手のちょっとした言動にショックを受けたり、腹が立ったり、なんてことは、よくあることなのだろう。

「で、就職は、結婚のようなものだと思うんです」Sさんが続ける。

「ま、ご縁があるとかないとかいう言い方をするからねえ」と私。「実際に就職した先は、いいところも悪いところもあるけど、その中で居心地のよさを見つけながら、うまくやっていくしかないのかもしれないね」

まさに結婚と同じだ。

印象的な話だったので、Sさんに許可をもらい、ここに書きとどめておく。

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黒澤明、生誕100年

ひきつづき、現実逃避日記。

タイトルに「黒澤明」の名前が入っている本を見ると、つい買ってしまう病気である。

ま、「黒澤明」の名前が入っていなくても、本を見ると、つい買ってしまう病気なのだが。

私は、べつに黒澤明の映画マニアというわけでは決してない。だが、どういうわけか、黒澤明に関する本を読むのが好きである。ひょっとすると、映画の作品それ自体を見る機会よりも、黒澤明に関する本を読む機会の方が多いのではないか、と思うほどである。

今年は、黒澤明生誕100年だそうで、黒澤明に関する本が数多く出版されている。

小林信彦『黒澤明という時代』(文藝春秋)もその一冊である。

私は、小林信彦氏の『天才伝説 横山やすし』(文藝春秋)という本が、めちゃめちゃ好きである。いつか、このような語り口で、同時代史の本を書いてみたい、と、本気で思う。

小林氏にはこのほかに、同じ手法で書いた『おかしな男 渥美清』(文藝春秋)という本もある。今度の本もその延長線上にあたると思われるから、さしずめ、同時代史評伝の3部作というところか。

ただ、『天才伝説 横山やすし』の時のようなインパクトは、残念ながら、ない。それを、「衰え」とみるのか、対象との距離間の違いとみるのかは、意見の分かれるところであろう。

それにしても、小林氏の語り口による黒澤明論というだけでも、読む価値は十分にあると思う。

そうだった。今回は、小林信彦氏の話ではなく、黒澤明の話。

生誕100年にあわせて出版された大部なシリーズが、浜野保樹編『大系 黒澤明』(講談社、全4巻)。これまでの黒澤の発言や周囲の証言を集めた全集。黒澤明の人生を網羅した決定版といってよい。

時間を見つけては、少しずつ、拾い読みしているところだが、これがやはりおもしろいのである。

なぜ、黒澤明に関する本を読むのが好きなのか。

ひとつは、映画の創作の過程のエピソードが面白い、ということ。

もうひとつは、黒澤明ほど、「ノリに乗っている時期」と、「どん底」の時期の落差が激しい人も、いないと思うからである。賞賛と批判の落差もまた、激しい人だな、と思う。

作品に対する、周囲の貶誉褒貶の評価の激しさも相まって、黒澤明の人生は常人にははかりがたいばかりに展開するのである。

もちろん、世界のクロサワと、凡庸な私とでは、全く次元の違う人生なのだが、それでも、いろいろな人の証言を通じて明らかになる黒澤明の人生にふれると、「俺も頑張ろう」という気に、少しなるのである。

それと、あらためて驚いたのは、

「羅生門」を撮ったころが40歳。

「生きる」を撮ったころが42歳。

「七人の侍」を撮ったころが44歳。

つまり私たちがよく知る「傑作」を連発するのは、40代になってからなのである。

さらに、

「用心棒」を撮ったころが51歳。

「椿三十郎」を撮ったころが52歳。

「天国と地獄」を撮ったころが53歳。

と、50代もまた、ノリに乗っている。

「デルス・ウザーラ」に至っては、63歳~65歳の時の仕事。

63歳で「デルス・ウザーラ」だぜ。

40歳そこそそで、「疲れた」なんて、言ってられないね。枯れるにはまだ早い。

やっぱりもう少し頑張ろう、という気になるね。

老後は、すでに買い揃えている『全集 黒澤明』(岩波書店、全7巻)に載っている、黒澤明の全脚本を読むことに決めていたが、この年齢から、老後のことを考えるのはやめにしよう。

だって黒澤明は、80歳を過ぎて、ようやく「もう私には時間がない」と口にしたそうだから(小林、前掲書)。

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検索ワードで遊ぶ

めちゃくちゃ忙しい、というわけではないが、どうも今週は落ち着かない。こんなとこで、こんなことを書いている場合ではないのだが、つい逃避したくなる。

あまりよい趣味とはいえないので気がひけるが、ブログのアクセス解析で、「検索ワード(フレーズ)」というのがある。

どういう検索ワード(フレーズ)で、このブログにたどり着いたか、がわかるものである。

つまり、何かについて調べようとして、ある言葉を検索したとき、たまたま、このブログにたどり着く、というケースがあるようなのである。

いわば、このブログの常連さんではなく、「一見さん」といったようなものか。

たぶん、たいていは、自分が調べたいと思っていたこととは、まったく関係ないことがこのブログには書いてあるので、何の役にも立っていないと思うのだが。

面白いのは、いくつかのワードを組み合わせた、検索フレーズである。最近多いのは、

「アバター 最悪」

というフレーズ。この検索フレーズで、このブログにたどり着く人が、けっこういる。

たぶん、映画の「アバター」の内容が最悪だ、と思った人が、辛辣な「アバター」評を見ようと検索したのだろうか。

そして、私の「最悪のアバター体験」にたどり着いたものと思われる。

しかし、このときの私の日記は、映画の内容ではなく、映画館の隣に座っていた団体が最悪だった、と書いていたのであって、たぶん、検索した人の期待に添えない内容だったことだろう。

「アバター」でいえば、なぜか

「アバター H列」

という検索フレーズもあった。「H列」は、おそらく映画館の席の列を示しているのかと思われるが、なぜ「H列」というピンポイントの席を検索したのか、よくわからない。

で、偶然なことに、私が「アバター」を見ていたときに座っていたときが、H列であった。それで、私のブログにたどり着いたのであろう。何という偶然か。そして、なぜ「アバター H列」というフレーズで検索をかけようとしたのか、謎である。

けっこう前から、コンスタントにあらわれている検索フレーズが、

「ハナ肇 銅像」

である。初期の頃に書いた「ハナ肇の銅像」にたどり着くわけだが、これもおそらく、検索した人が期待していた内容とは、ほど遠いものだろう。それにしても、「ハナ肇の銅像」のことが気になっている人が、いまでもけっこういることに驚く。

ちょっと前には、

「ペ・ヨンジュン」

という検索ワードもけっこうあった。実は「いまさら『ヨン様』」という日記を書いたとき、アクセス数が過去最高を記録したのである。この日記では、韓国の俳優の名前をけっこうあげているのだが、それによってアクセス数が上がる、なんてことはない。やはりペ・ヨンジュン氏は別格である。ペ・ヨンジュン氏の人気の凄さを思い知らされた。

さて、最近の検索フレーズ一覧を見ていて、最もわからなかったのが、次のフレーズである。

「フィリピン人と、急に連絡がつかなくなってしまった」

えぇ!???何でこのフレーズで、このブログにたどり着いたんだ?

調べてみると、「気分は名探偵」という日記にたどり着いたようだ。「フィリピン人」「連絡」といった言葉が出てくる。

それにしても、この検索フレーズは謎である。

いったい何のために、このフレーズを検索にかけたのだろう。

急に連絡がつかなくなったフィリピン人を捜すためだろうか?

それにしては、「フィリピン人」というのはアバウトすぎやしないか?

しかも、このブログにたどり着いたところで、急に連絡がつかなくなったフィリピン人について、手がかりがつかめるはずもない。なにしろ、根も葉もない想像を書いているにすぎないのだから。

うーむ。どうもよくわからん。

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学生街の四季

「学生街に 雪どけ春が来て

またあらたな顔が ふえたわ

ひと月前に 涙のさよならが

街中あふれていたのに」

      (岩崎宏美「学生街の四季」〔作詞:阿久悠〕)

私は、この歌をリアルタイムで聴いていない。

はじめて聴いたのは、学生時代がとっくに終わり、教員になってからである。

たぶん、私より少し上の世代の人が、よく聴いた歌なのだろうと思う。

でも、この時期になると思い出す歌。

この歌を、今の学生が聴いたら、どんなことを感じるのだろう。

「坂道くだり 角のコーヒーショップ

英語のカセット ひとりで聴いていたら

ガラスの窓に 夏の光がさして

心が少しやわらぐ」

とか、

「図書館前の 薄い陽だまりの中

就職試験をあれこれ思いながら

誰かがポツリポツリ弾いているギター

涙をうかべ聞いてる」

といったところ。「カセット」とか「ギター」が時代を感じさせるが、ここに歌われている「思い」は、今の学生も変わらないのではないだろうか。

「学生街に吹雪の冬が来て

みんなストーブ囲み 集まる

別れのときが 来るのを知りながら

ビールのジョッキを あげたわ」

なんてところも。

なぜか、教員になってからこの歌を聴いた方が、グッとくるような気がする。

雪国で暮らしていると、なおさらグッとくる。

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何を見ても思い出す

こういうのを、「逆ホームシック」とでも言うのだろうか。

信州滞在中のことである。

車を運転しているとき、妻が、車のオーディオを使ってある曲をかけた。

イ・スンチョルの「ソリチョ」というバラードである。直訳すると「叫んで」というタイトル。

この曲は、たぶん、韓国にいる間に、私がいちばん聞いた韓国の歌である。語学院の授業でこの曲を聴いて以来、「いい曲だな」と思い、以来、散歩の時にはipodに入れておいたこの曲を繰り返し聞きながら、大学構内を歩いたのである。つまり、この曲を聴くと反射的に、通っていた大学のさまざまな風景が浮かぶのだ。

そのためだろうか。心の準備もないままに、不意にこの曲を聞いたせいで、なにかこみ上げてくるものを押さえることができなくなってしまった。

「悪いけど、この曲、やめてくれないかな。運転できなくなるよ」と私。

「え?何で?名曲じゃん」

妻もまたこの曲が好きだった。

名曲なのはわかってるよ。だけどそういう問題じゃないんだな、と思いつつ、結局、最後まで聞くことになった。

夜、久しぶりにDVDで韓国映画「ブラザーフッド」(原題「太極旗を翻して」)を見た。朝鮮戦争に翻弄される兄弟を描く映画で、韓国で史上最高の興行収入を記録したことで有名である。

Photo_3 私はこの映画じたいに、さして思い入れがあるわけではない。ただ、語学院に通っていたころ、野外授業でこの映画のロケ地に行ったことがある。私が、4級の時である。

そのことをふと思い出し、ロケ地がどのように映っているのかを確かめたくて、もう一度見ることにしたのである。

Photo_4 野外授業の時には、「チャン・ドンゴンが映画のなかで乗った汽車」というものに乗った。映画では、その汽車が一瞬だけ映し出された。だが、確認できたのはそれだけで、そのほかはほとんど確認することができなかった。

さて映画の最初のほう。兄弟が戦争に徴発される前の日常生活を描いたシーンを見ていると、チャン・ドンゴンとウォン・ビンの兄弟のもとへ、アイスキャンディを売り少年がやってくる。そしてチャン・ドンゴン扮する兄が、ウォン・ビン扮する弟にアイスキャンディを買い与えている。

「あっ!」横で見ていた妻が言った。

「そういえば、汽車のなかで、あのアイスキャンディ、売りに来ていたよね」

確かによく見ると、少年が持っていた大きな箱にたくさん入っていたアイスキャンディの形は、野外授業の時に乗った汽車の中で買ったアイスキャンディと、同じ形をしていた。大きな箱に入れて売りに来ていたところも、よく似ていた。

それを見て、そのときの光景を思い出した。

Photo_5 私はこのとき、客車のなかではなく、客車と客車の連結部分に出て、外の空気を感じながら、汽車の外を流れる風景を楽しんでいた。同じことを考える人が何人もいて、語学院の先生方をはじめ、何人かの学生が、客車の外に出て、狭い連結部分に立っていたのである。

そこに、アイスキャンディを売りにアジョッシ(おじさん)がやってきた。

私の横に立っていた4級3班のパンジャンニム(班長殿)のロンチョン君が、アジョッシを呼び止め、アイスキャンディを5本くらい買った。

そして買ったアイスキャンディを、そこにいた人たちに、すべて分け与えてしまったのである。

私が不思議だったのは、ロンチョン君が自分の分を買わずに、他の人たちにすべてあげてしまった、ということであった。

私がそのとき思ったのは、こういうことだった。

たぶん彼は、自分も食べようと、自分の分を含めて5本買ったのだろう。だが、行きがかり上、買ったアイスキャンディをすべて他の人にあげてしまったのではないだろうか。つまり自分を犠牲にしたのである。

善良なロンチョン君のやりそうなことである。私は、客車に入ろうとするアジョッシを呼び止め、アイスキャンディを2本買った。そしてそのうちの1本を、ロンチョン君に渡した。

ロンチョン君は、照れくさそうにそれを受け取った。

妻の「あ、アイスキャンディ」という言葉に反応して、そのときの記憶がよみがえってきたのである。

映画が見終わり、布団のなかで寝ながら、鷺沢萌の短編小説「故郷の春」(『ビューティフル・ネーム』新潮文庫)を読んだ。

在日僑胞の若い男性の独白、という形で進んでいくこの小説を読みながら、今度は、4級3班で一緒だったホン・スンジ氏のことを思い出す。

小説のなかで、主人公は、在日僑胞として経験してきたこと、感じてきたことのさまざまを、独白する。

そして大学を卒業した直後、もう一つの故郷の言葉である韓国語を勉強しに韓国へ留学した、というくだりを読んで、あっと思った。

これはスンジ氏のことではないか

もちろん、この小説の主人公は1970年生まれということになっていて、スンジ氏の年齢よりもはるかに上である(むしろ私の年齢に近い。というより、鷺沢萌氏の年齢に近いというべきか)。

だが、大学を卒業して韓国への語学留学を考えた、という主人公の人生は、スンジ氏のそれと全く同じである。つまり、ここで語られている主人公が、10代、20代に感じてきたことは、スンジ氏の感情の移り変わりそのものを示しているのではないだろうか?

ほとんど会話を交わすことのできなかった、スンジ氏の心の中を、少しはかいま見ることができたのではないか、などと、勝手なことを考える。

鷺沢萌の小説には、在日僑胞をテーマにしたものが多い。それは、彼女自身の根源の問題とも、関わるものである。だからこそそれは、同じ立場の人びとに共感を与えるものであったろうと想像する。

ふと思う。スンジ氏は、この小説を読んだだろうか、と。

小説のタイトル「故郷の春」は、韓国の有名な童謡のタイトルであり、小説中にもその歌詞が紹介される。この童謡も、語学院の時にテキストに出ていた。

私の頭の中で、韓国での1年3ヶ月が、ぐるぐるとまわり続ける。当分、消えそうにない。

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御柱祭!

4月2日(金)~4日(日)

今年は、信州・諏訪で、7年に一度の御柱祭(おんばしらまつり)が行われる。

韓国からの帰国直後、そのことを妻の両親から聞いた。

そして、その御柱祭を見に行こう、というのが、義理の両親の提案。

2日(金)、3月末に日本に帰国した妻と一緒に車で信州に向かう。

午後3時過ぎ、すでに信州に来ていた義理の両親と合流する。

私は、御柱祭について、恥ずかしながらほとんど知識がなかった。テレビでは、何度か見たことはある。

御柱祭は、諏訪大社の神事で、7年ごとに社殿を建て替えることになっている。それにあわせて、社殿の四隅にあるモミの木の柱を、立て替えることになっているのだそうである。重さ10トンを超えるモミの巨木を、山から切り出し、それを神社まで人力で運ぶ神事、それが御柱祭である。

ややこしいのは、諏訪大社は、上社と下社に分かれていて、さらにそれがそれぞれ、2つの宮に分かれている、ということである。上社本宮が諏訪市に、上社前宮が茅野市に、そして下社春宮と下社秋宮が下諏訪町に所在している。

御柱祭では、そのそれぞれの宮の社殿の四隅に立てる柱を、山から切り出して、運ばなければならない。つまり、全部で16本の木を運び出すのである。

当然、1日では終わらないから、数日かけて運ぶことになる。4月の第1週の週末に上社の8本、第2週の週末に下社の8本の木を山から里へ運び出す「山出し」が行われ、さらに5月の第1週の週末に上社の8本、第2週に下社の8本の木を、それぞれの神社まで曳いて、社殿の四隅に立てる「里曳き」が行われる。1カ月あまりをかけた盛大なお祭りが催されるのである。

私たちが見に行くのは、4月第1週の週末に行われる上社の「山出し」である。

2日(金)、8本のモミの巨木の幹が、1日かけて山から里に順々に運び出される。

夕方、御柱の先頭にあたる「本社一ノ宮」の柱を運んでいる行列になんとか間に合う。

2 柱の周りを、黄色い法被を着た男どもがたくさん取り囲んで、藁で編んだ綱でもって巨木の柱を引っ張っている。運んでいる柱の二カ所に、「めどでこ」と呼ばれる木で作ったV字の造作物があって、そこに何人もの男どもが乗って、威勢のよい声で行列を盛り立てている。

うーむ。なんと荒々しい祭だろう。

やっていることといえば、単に巨木の柱を人力で運ぶ、ということだけで、それだけでも苦痛であるはずなのに、その柱の上には、何人もの男どもが乗っているわけだから、引っ張る方としては、迷惑この上ない話である。

しかしそう言ってしまっては身も蓋もない。常識ではおしはかれないのが、祭というものである。

翌3日(土)。

この日のメインは、「木落とし」と「川越し」である。「木落とし」とは、山から里へ運んだ巨木を、坂から一気に落とすというイベント。そして「川越し」とは、巨木を曳きながら川の中に入り、巨木を向こう岸に運ぶというイベントである。

よくテレビで見るのは、巨木の「木落とし」の部分ではないだろうか。ただし、テレビでよく見る「木落とし」は、下社の「木落とし」で、それこそ荒々しい男たちのイベントの象徴である。ただ、私たちがこれから見る上社の「木落とし」は、下社のそれに比べて、坂の長さがやや短く、下社のそれに比べて、やや迫力に欠けるという。

1本目の「木落とし」が朝10時から、宮川小学校の横の「木落とし坂」で行われると聞いた。以降、1時間おきに、計4本の巨木が落とされる。前日の夕方、いちおう下見をして、見学ポイントも確認した。

だが、木落とし坂を間近に見るためには、桟敷席を買っておかなければならない。聞くと、1人1時間、すなわち、1回の木落としをみるのに、5000円かかるという。そこであっさりとあきらめ、無料で木落としを見ることのできるポイントを探す。

すると、川の対岸の、かなり遠くまで行かないと、みることができないことが判明した。でも仕方がない。

翌朝、「木落とし」が始まる1時間ほど前の9時くらいに見学ポイントに到着すると、すでにそこは多くの人で埋め尽くされていた。もう少し早くくればよかったかな、とも思うが、1時間以上も立ちっぱなしで待っているのは、かなりつらいものがあるので、これまた仕方がない。
1 1本目、ややフライングして、予定の10時よりも数分前に「木落とし」が行われた。

一瞬の出来事である。

昨日間近でみた巨木も、ここからみれば爪楊枝のような大きさである、といえばやや大げさか。いずれにしても、1時間待った末の、あっけない終わり方だった。

終わって、見学していた人々が引き上げる。それとひきかえに、別の人々がやってくる。1時間後の、2本目の「木落とし」を見る人びとである。

なかには、こんな人もいた。

10時ピッタリに私が立っている前の列に入り込んだ熟年夫婦。

「いよいよ10時だな。もうすぐ木落としが始まりますよね」

「いえ、1本目ならさっき終わりましたよ」と私。

「ええ?!せっかく来たのに…」

その2人が、1時間後の2本目の木落としまで待っていたのかどうかはわからない。

さて、私たちは場所を変えて、今度は橋の上から2本目の木落としを見ることにする。といっても、相変わらず、「木落とし坂」からはかなり離れたところである。

2本目の「木落とし」は、予定の11時になっても始まらなかった。見学者たちも次第にイライラしてきた。「いいから早く落とせ!」とブーイングの声。

なにしろ、遙か遠くから見ているので、現場でなにが起こっているのかわからない。なにか、トラブっているのだろうな、というのは何となくわかるのだが、そのトラブルがいつ解消されるのか、そして、いつ「木落とし」が始まるのかが、まったくわからないのである。

2_2 結局、予定より15分遅れで木落としが始まる。しかも、巨木は大きく右に傾き、なんかグダグダな感じで、坂を下りて行ってしまった。

橋の上では再びブーイングの嵐。

「明らかに失敗だよな」と、見終わった人々が口々に言っていた。待たされたことのストレスもあったのだろうが。

私たちは昼食後、今度は「川越し」の会場となる宮川へと向かう。午前10時に「木落とし」した1本目の柱が、今度は川を渡ることになるのだ。

会場になる宮川の土手に着くと、すでに信じられないほどの人の数で埋めつくされていて、もはや川を見ることすらできない。

1本目の柱は、黄色い法被を着た多くの男たちに曳かれながら、ゆっくりと土手に近づいた。そして、男たちが川に入りスタンバイして、いよいよ、柱が川を渡る。

Photo だが、このときの様子は、まったく見ることができなかった。腕を思いっきり空に向かって伸ばして、上からテキトーに写真を撮ることでしか、「川越し」の様子を探ることはできなかったのである。

午後3時前、1本目の柱の「川越し」が終わり、先ほど「木落とし」を見た橋のところまで戻ると、遙かに見える「木落とし坂」に、まだ1本の柱が、今にも「木落とし」が始まりそうな雰囲気で、スタンバイしていた。

午後1時に予定していた4本目の柱の「木落とし」が、大幅に遅れているようだ。2時間もの遅れである。

せっかくだからということで、橋の上で4本目の「木落とし」を見ることにする。だが例によって、今か、今かと見学者たちは待っているが、なかなか木が落とされない。

Photo_2 3時過ぎ、ようやく「木落とし」が始まった。今まで見たなかで、いちばんきれいに落ちたのではないかと思う。ただ、2本目の失敗があったせいか、心なしかそぉーっと落とした、という感じで、やや迫力に欠けていた。

「今度はきれいすぎてダメだな」と見学者たちの声。じゃあいったいどうすればいいんだ。まったく、見学者たちは勝手なものである。

というわけで、御柱祭の見学はこれにて終了。翌4日(日)にも、残りの4本の木落としと川越しがあったのだが、もう、これで十分だ。

日曜日、信州をあとにする。これを書いている今、顔がものすごくヒリヒリする。どうやら、土曜日に一日中野外でじっと立っていたので、顔が日焼けしてしまったようだ。

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人情話の名手

『ケナリも花、サクラも花』を読んで以来、鷺沢萌の文体に惹かれて、彼女の小説を読むようになった。

その名前からくる印象から、若者の恋愛小説なんかを書く流行作家だったのかな、と勝手に想像して、これまで、手にとって読もうとすらしなかった。

しかしその先入観が、まったくもって間違っていたことを知る。

最近読んだのは、『さいはての二人』(角川文庫)、『帰れぬ人びと』(文春文庫)、『ウェルカム・ホーム!』(新潮文庫)など。

ある文庫本の巻末の解説に、「鷺沢萌は、人情話の名手である」と書かれていた。

なるほど、人情話か。

たしかに、これまで読んできたものから考えると、人情話、という言い方は、ピッタリくる。いわば彼女は、人情話の希代の語り手である。

そして私は、そもそも人情話が好きなのだ。考えてみれば、映画とかドラマでも、基本的には人情話が好きである。鷺沢萌の語り口に惹かれるのも、そのせいであろう。

ただし、同じ人情話、といっても、その解説者が鷺沢萌とならべてあげていた、浅田次郎の語り口には、それほど惹かれない。

なぜだろう。この違いは。

鷺沢萌が、私と同い年であったという、いつもの「ひいき目」からきているものなのか。

あるいは、文章からうかがえる感性に共鳴しているせいなのか。

いずれにしても、久々に、私にぴたりとはまった作家であった。

この先、この人情話の名手は、巧みな語りにどのように磨きをかけていくことになったのだろう。

それがいま、叶わなくなってしまったのは、かえすがえすも残念である。

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