黒澤本の白眉
6月4日(金)~6日(日)
研究会のため、上京。
土曜日に行われた公開研究会には、思いのほか多くの人が集まっていた。私は、韓国からの帰国後はじめて、これだけ多くの「業界人」の前に姿をみせたことになる。
ま、そんなことは別にどうでもよい。あとは、あいかわらず寒天ゼリー作りである。
帰りの新幹線の中で、橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』(文春文庫)を再読。
私が黒澤本(黒澤明に関する本)を好きで読んでいる、という話は、前に書いた。
橋本忍のこの本は、黒澤本の中でも白眉である。
橋本忍は、言わずと知れた、日本を代表する脚本家である。私が「スゲエ」と思う日本映画の脚本は、みな、橋本忍が書いている。「七人の侍」「砂の器」「日本のいちばん長い日」等…。
この本も、「スゲエ」と思う。
黒澤明と橋本忍の才能のぶつかりあい、なんて、考えただけでもワクワクする。それを橋本忍自身が、一流の視点と筆力で書いているのだから、面白くないはずがない。
黒澤明監督独特の、完璧主義的な脚本作りには、唸らされる。映画とは、たとえ監督ひとりの才能が卓越していたとしてもダメなのだ、総合芸術なのだな、ということがよくわかる。
とくに、「七人の侍」の完成にいたるまでのエピソードは、何度読みかえしてもいい。
同業者(この場合、映画監督や脚本家、という意味ではなく、私の同業者、という意味)は、絶対に読んだほうがいい。そして、肝に銘じるべきである。というか、当然読んでるはずだよな。
野村芳太郎監督が橋本忍に対して語った、「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」という言葉も、印象的である。
野村監督は、橋本脚本の「羅生門」「生きる」「七人の侍」という名作さえ、ない方がよかったのだ、という。本来ならば黒澤明監督は、純粋に映画の面白さだけを追求すれば、それだけで十分に世界の映画の王様になれたはずだった。虚名ではない、真の意味での王様である。だが橋本脚本によって、映画とは無縁の、思想とか哲学、社会性をもちこんだことにより、それが後年、黒澤明の映画に重くのしかかってしまったのではないか、という。
むろん、橋本忍自身が書いている文章であることをさし引いて考えなければいけないが、それ以上にこの本には、黒澤映画の光と影が、率直に描かれているのである。
そして、まるでひとつの脚本を書いているかのような語り口に、ひきこまれる。
さらに驚くべきは、この本が、80歳を過ぎてから書かれているということ。80歳を過ぎてからのこの筆力には、ただただ驚愕するしかない。
何度でも読み返したくなる本である。
…ん?なんか、アマゾンのカスタマーレビューみたいで、いやだな…。
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