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2010年8月

大雨のソウルより5 東大門市場

8月28日(土)

ソウル最後の夜。

やり残していたこととは、「東大門市場でかばんを買うこと」だった。

東大門市場(トンデムンシジャン)は、ソウルでも有数の市場である。とりわけ若者向けの衣料品などをあつかっている店が多く、最近は巨大なビルの中に、若者向けの衣料品小売店が所狭しと店を開いている。日本の観光客が、必ずといっていいほど訪れる場所である。

韓国留学中に、東大門市場でかばんを買った。これがひどく気に入って、毎日、大学に通学するたびに持っていった。ところが帰国してから、このかばんが壊れて使えなくなってしまったのだ。

そこで、また気に入ったかばんを見つけよう、と東大門市場に向かったのある。

東大門市場は、宵っ張りの町である。夜、いや深夜こそが、もっともにぎやかになる。私が着いた夜10時半頃も、やはり多くの人でごったがえしていた。

とあるビルに入り、5階のかばんフロアーに行く。

間口2間くらいの小さな小売店がひしめいている。歩いていると「シャチョウサン!いいかばんがありますよ。ちょっと見ていってください」と、日本語でしきりに声をかけられる。

私はこれがたまらなくイヤである。いろいろと話しかけられたら、おちおち商品を見ることもできない。

いつのころからか、「東大門市場では、日本語で話しかけられる店の商品は買わないようにしよう」と、思うようになってしまった。まったく、へそまがりである。

ある店の前でかばんを見ていると、「男性用かばんをお探しですか?」と、店員の若者が韓国語で声をかけてきた。

「うん。軽いかばんがほしいんだけどね」と韓国語で答えると、

「近ごろのかばんはどれも軽いですよ。これなんかどうです?最近出たデザインで、どんな服装にも合います」

若者が、早口の韓国語でいろいろと説明し始めた。早口だったが、わりとわかりやすい説明だった。

すると、どこからか同僚らしき若者があらわれ、説明しているその若者に声をかけた。

「おい、何やってんの?こっち手伝ってくれよ」

「待ってよ。いまお客さんに説明しているんだから」

「なんだい、日本人のお客さんか?」

「いや、ウリナラ(韓国)の人だよ」

なんと、私を韓国人だと思ってくれたらしい。

このまま韓国人で通そうと思ったが、それは良心がとがめた。

「実は日本人ですよ」

「え?そうだったんですか?韓国語がお上手だったのでウリナラの人だと思ってました」

これで、若者に対する好感度がさらにアップした。よし、この店でかばんを買うことにしよう。

若者の熱心な説明を聞き、いちばんおすすめのかばんを買うことにした。

値段交渉も、不愉快になることなく、実にスムーズに進む。

55000ウォン(約5500円)を40000ウォン(4000円)にまでまけてもらい、交渉成立。

こういうときは、実に気分がいい。

建物を出て、ホテルまでの道のりを20分かけて歩いて帰った。

気分がいい、ソウル最後の夜。

この1週間、いろんなことがあったが、最後の夜に救われたな。

しかし。

翌日(29日)、帰国の日。

仁川空港で時間があったので、最後の買い物でもしようと、空港の近くまであるEマートに行くために、タクシーに乗ったが、そこで3000ウォン(300円)ほどぼったくられた。

ま、昨晩、気分のよい思いをしたので、これくらいは仕方がないか。

人生、悪いこともあれば、いいこともある。

そして、いいこともあれば、悪いこともあるのだ。

(後記)

帰国後、体調を崩し、左足が猛烈に痛くなった。また例の病気が出たらしい。韓国は私の寿命を確実に縮めているようだ。

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大雨のソウルより4 巡見(タプサ)

8月28日(土)

2日間にわたる学術会議は終わったが、まだもうひとつ行事が残っていた。

それは、巡見である。主催者が、会議に招いた中国人と日本人の研究者に対して、いわば1日観光に連れていってくれる、という行事である。ここまでが、今回の公式行事である。

この日、妻は日本に帰国した。「鼻うがい」の先生の運転で、私ともうひとりの日本人研究者、そして中国人研究者3人が同行する。

朝9時半、ホテルを出発。最初に、世界遺産の昌徳宮に向かう。

しかし外は大雨である。さらに不思議なことに、私以外のほとんどの人が、傘を持ってきていない。

天気予報で雨が降る、とわかっているのに、どうして傘を持ってこないんだろう?不思議である。

昌徳宮は、見学する時間が決められていて、ガイドさんの引率にしたがって、団体で順路をまわらなければならない。好き勝手にまわってはいけないのである。

何度か行ったことのある昌徳宮だったが、改装工事が終わり、これまで見られなかった部分を見ることができたのは幸いだった。

しかし、である。

このガイドさん、じつに熱心な方で、本来1時間のコースであるところを、倍の2時間もかけてまわり、ゆっくりと説明されたのである。

しかもこの大雨の中である。

これには閉口した。

中国人の研究者の方々も、びしょぬれである。

なにも、こんな大雨の中で、熱心に説明しなくてもよいだろうに。

これで午前中がつぶれ、カルグクス(うどん)を食べたあと、次の目的地、インチョン(仁川)にある山城に向かう。

大雨のため道が混んでいて、到着したのが午後4時近く。山城、というくらいだから、山の上にある城である。

まさかこの大雨では登らないだろう、と思っていたら、なんと!車から降りて登りはじめたぞ!

私も、今回のために買った新品の靴をできるだけ汚さないように気をつけながら歩いた。

そして夕食は、インチョンにある中華街。

インチョンは、日本でいえば横浜のような町である。ここにチャイナタウンが形成され、いまではそこが中華街になっている。韓国で唯一の中華街だという。

そこで山東料理をいただくが、中国語もまったくわからず、韓国語もおぼつかないので、まったく会話に参加することができず、黙々と食べるよりほかなかった。

午後8時、食事が終わり、ソウルのホテルに戻り、午後9時過ぎ、ようやく解放された。

大雨にはたたられるし、ほかの人たちとはコミュニケーションがとれなかったし、なーんにもいいことがなかったな、とまたまた落ち込んだ。

ホテルの部屋にもどり、メールをチェックすると、韓国語の語学院の3級クラスのときのナム先生から、メールが来ていた。

以前、3級のときの授業で、「テレビ通販番組を作ろう」という練習があって、その時に私が「モリエ ポム(頭の春)」という名の架空の毛はえ薬のCMを作った、という日記を書いた。

そして、その日記を韓国語に翻訳して韓国語日記に載せたところ、担任だったナム先生から「『モリエ ポム』は、いまでは3級の副教材に例文として使わせてもらっています」とコメントが入っていた。そのこともこの日記に書いた

で、実際にいま語学院で使っている3級の副教材に載っている、という証拠を、写真にとって、送ってくださったのである。

メールには「いま、ソウルにいらっしゃるんでしょう。残りの日程をよく過ごされてください」と書かれていた。ここ数日の私の韓国語日記を読んでいただいたらしい。

そういえば、私の携帯電話が復活していたことを思い出す。

せっかくだから、ナム先生に電話をすることにしよう。

思いきって電話をしてみると、先生の弾んだ声が聞こえた。

「ソウルにいらっしゃるんですよね。今日、メールで副教材の写真を送ったんですよ」と先生。

「ええ、受け取りました。それを見て電話をしたんです」

「あまり写真の写りがよくないでしょう」

「いえ、よく見えました。読みながら、つい笑ってしまいましたよ」

不思議なことに、さっきまで、韓国語が全然出てこなかったのに、この電話では、それなりに韓国語が出てくる。

「実はチュソク(秋夕)のとき、授業がうまく休講になって連休になれば、オンニ(姉)と東京に行こうかと思っているんですよ」

チュソクとは、日本でいうところのお盆休みにあたるものである。今年のチュソクは9月21日(火)からの3日間である。前日の20日(月)の語学の授業がうまいこと休講になれば、6連休となるから、その機会に東京に行こうというのである。ただし、いまの時点で、この日が休講日になるのかどうかは、わからないのだという。

「月曜日に授業がないといいですね」と私。

「そうですね。もし東京に行けることになったら、また連絡差し上げます」

「その時は連絡ください。私たちも必ず時間を作りますから」

そういって電話を切った。

こうなったら、ついでに4級のときの先生にも電話をかけてみよう。

妻と私が習った、キム先生である。いまは語学院をやめられて、秋に出産予定である。

電話をかけると、「いま風邪をひいていて…」と体調が悪そうな声が聞こえた。

まずかったな、と思い、「どうか身体に気をつけて」といって、そうそうに電話を切った。

だが、2人の語学の先生の声を久しぶりに聞いたおかげで、これまでのうちひしがれた心が、取りもどせたような気がした。先生、とは、そういうものなのだろう。

そうだ、もうひとつ、やり残していたことがあった。夜10時すぎ、ホテルを出た。(つづく)

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大雨のソウルより3 国際学術会議

8月26日(木)

午前10時半、いよいよ国際学術会議がはじまる。

国際、といっても、参加国は韓国と中国と日本。それに聴衆は、毎度のことながら、関係者以外、ほとんどいない。

5時過ぎに1日目の日程が終了。大雨の中、夕食会場に向かう。

例によって、2次会と続くが、10時過ぎ、ようやく解放される。

ホテルに戻り、午前2時頃まで、明日の発表のための韓国語原稿を仕上げる。

8月27日(金)

午前9時半、2日目の日程が始まる。

私の発表は3本目。何とか時間通りに読み上げ、そのあとの個別の討論も、韓国語で乗りきった。

これでお役御免か、というと、そうではない。午後の2本の研究発表をはさんで、最後に「総合討論」のパネラーとしてふたたび壇上にあがらなければならない。

この討論、というのが、たまらなくイヤである。

発表じたいは、極端にいえば、原稿を読み上げればいいのだから、それほど問題はない。だが、討論は、どんな質問が来るかわからない。つまり、どこから矢が飛んでくるかわからないのである。それに対してその場で韓国語で答えなければならないのだ。

午前中の個別の討論の際にも、あらかじめ用意されている以外の質問も出されたりして、かなりあせった。

もうひとつ、プレッシャーのかかることがあった。

それは、総合討論の司会者が、留学先の大学で私が一番お世話になった教授である、ということである。

ご自身の体験から、私に「語学の勉強は、半年ではなく1年続けなさい」とおっしゃって、入国2日後から大学の語学院に私を連れて行っていただいた先生。

その先生と、偶然にも、同じ壇上にならぶのである。

その先生の前で、下手なことをすれば、私がその先生の顔に泥を塗ることになる。

それに、先生の教えを守って1年間韓国語の勉強を続けることができたことに対して、少しでも恩返しがしたい。これは本音であった。

総合討論がはじまり、何度か司会者の先生が、私に質問をふった。私も必死に韓国語で答えた。伝わったのかどうかはわからないけれど。

2時間にわたる総合討論が終了。

最後に、司会の先生が、壇上にいる一人ひとりを、ねぎらいの意味をこめて、あらためて紹介した。

私の番のとき、先生がおっしゃる。

「ミソンセン(これは司会者の先生が、私につけた呼び名である。ソンセン=先生の意)は、昨年1年間、韓国で韓国語を勉強して、今回、韓国語による発表の公式デビューでした。発表だけでなく、討論も韓国語でなされました。どうかみなさん拍手を!」

会場から拍手をいただく。

最後に先生はつけ加えた。

「実は、私の大学で勉強していたんですよ」

そのお言葉が、すこし誇らしげに聞こえたのは、私だけかもしれない。

そしてこの言葉を聞いた瞬間、いままでの緊張がいっきにとけて、涙がこみあげてきた。

疲れていたせいかもしれない。

これで恩返しができた、と思ったからかもしれない。

いずれにしても、私にとって、これ以上望むべきものは、何もなかった。けっして盛会とはいえない学術会議だったけれど、聞いてもらうべき人たちに聞いてもらえたのだ、と思う。

午後7時頃から、会食がはじまる。マッコルリをしこたま飲む。2日間のシンポジウムが終わって気がゆるんだのか、撃沈した人たちもいた。1年の勉強で学会発表と討論を韓国語でしたことに対して、いろいろな人たちから過分のお褒めもいただいた。

ところが、話はここで終わらない。

2次会でのこと。

私より10歳ほど上の、ある先生から懇々とお説教される。

簡単に言えば、

「韓国語で上手に発表しましたねと褒められたからといって、いい気になっているんじゃねえよ!そんなこと、何の意味もない。何のために韓国語を勉強してきたんだ?韓国人と議論をするためだろ?それなのに、あの逃げ腰の発表は何だ!」

こんな書き方をすると、酒によってくだを巻いているようにも聞こえるが、もちろん、こんな下品な言い回しはしていないし、その方は、悪酔いしていたわけでもない。もっと紳士的におっしゃったのだが、内容は、こんな感じである。

ふだんなら、「おまえに言われたくないよ!」と思いたいところなのだが、おっしゃった方が、秀才だなあと日ごろから敬意を表していた先生だけに、その分、ショックを受ける。

奈落の底に突き落とされた感じだ。

そうか、オレが韓国語を勉強したことはまったく意味がなかったんだな、という思いと、オレにだって言い分はある、という思いが交錯して、言葉にならない。

(オレは、この先韓国でやっていく自信がないな…やはり向いていなかったのだ)

深夜2時半、ようやく解放された。

ホテルに戻ったあとも、私の1年間は何だったんだろう?と、マイナス思考がグルグルと回り始めた。(つづく)

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大雨のソウルより2 国際学術会議前夜

8月23日(月)~29日(日)

今回の旅のいちばんの目的は、26日、27日の二日間、ソウルにある私立大学で行われる国際学術会議で、研究発表することである。

少し早めにソウル入りしたのは、少しでもソウルで自由な時間がほしかったからである。

たんに学会の日程に合わせてソウル入りすれば、自由時間がまったくなくなることは、明らかであった。だから早めに来たのである。

そして今回のさらに重要な目的は、研究発表も討論も、すべて韓国語で行う、ということであった。

学会前日の25日(水)の夜6時から、海外から来る中国人研究者、日本人研究者の歓迎晩餐がある、というから、私たちにあたえられた自由時間は、25日の夜6時までである。

23日は、到着早々本屋に行き、本を大人買いした。夜は念願だったサンナクチ(タコの踊り食い)を堪能。

24日はソウルからバスを乗り継いで2時間半ほどかかる、独立記念館をはじめて訪れた。ソウルからの距離の遠さには閉口したが、予想以上に面白いないようにあふれていた。夜はソウルに戻り、サムギョプサル(豚焼肉)を堪能し、東大門市場で「スポーツマッサージ」なるものをはじめて体験した。

25日はカンナム(ハンガンの南側の地域)の蚕室(チャムシル)周辺を散策。

かくして、あっという間に自由時間が終わった。

夜6時。泊まっているホテルにもどり、主催者の先生や、今回発表する先生方とお会いする。

今回この国際学術会議を企画されたのは、私が韓国滞在中にお世話になった「鼻うがい」の先生である。

会うなり、明日からはじまる国際学術会議の論文集をいただく。分厚い本である。

「今朝、原稿を印刷屋に預けて、さっきできあがったんです」と先生。

なんと、わずか1日足らずでこの立派な製本の本が仕上がるとは!韓国にしかできない芸当である。

それにしても、こっちはすでに1ヵ月も前に原稿を送っているというのに、結局最後までみんなの原稿が集まらず、ぎりぎりになってドタバタと仕上げたんだな。やはり韓国らしい。

ところで、である。

この時点で私たちは、どのような形で国際学術会議が進められるか、について、いっさい知らされていない。私の発表が2日目の午前中だ、ということだけは知らされていたが、発表時間が何分だとか、討論者(発表の内容についてコメントしたり質問したりする人)が、どのような質問を予定しているか、などといったことは、まったく知らされていないのである。

まあ、それはいつものことだからよしとしよう。

「鼻うがい」の先生がおっしゃる。

「すいませんが、いただいた原稿には韓国語の翻訳文がありませんので、発表のときにご自身で翻訳してください」

ええええぇぇぇぇ!?聞いてないよ!

1ヶ月ほど前に原稿を送ったとき、てっきり韓国語に翻訳してくれるものだと思っていた。発表当日は、その翻訳してくれた原稿を読みあげればよい、と高をくくっていたのだ。

だから原稿を送ったときのメールで、「もし韓国語の翻訳文が完成したら、添付ファイルで送ってください」とお願いしておいた。あらかじめ、読む練習をしておくためである。

だが、翻訳文はまったく送られてこなかった。そりゃそうだ。だって、もともと作る予定がなかったのだもの。

だったら、そのことをせめて事前に言ってほしかった。こっちにも「心の準備」というものがあるのだ。

さて困った。

これから、2日後の朝までに、韓国語の原稿を作らなければならない。その上、討論者が発表文を見て書いてきたいくつかの質問にも、韓国語で回答を用意しなければならない。

だが、ひとたび学会がはじまってしまうと、夜は必ず晩餐、そして2次会が待っている。

はたして、韓国語の翻訳原稿は完成するのか?(つづく)

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大雨のソウルより1 携帯電話

8月23日から1週間、ソウルに滞在した。この間、毎日、スコールのような大雨に悩まされた。

1週間、実にさまざまな出来事があった。そのすべての出来事を列記しても、退屈きわまりないだろう。いや、そもそもこれから書くことも、第三者が読めば退屈きわまりない文章である。

今回の旅で実感したこと、それは、月並みだが「人生、悪いこともあればいいこともある」ということだ。

今回の旅でまずしなければならなかったことは、妻が韓国で使っていた携帯電話を、再び使えるようにすることだった。

妻が韓国で使っていた携帯電話をめぐるトラブルについては、すでにこの日記に書いた

到着後、妻が携帯電話会社に電話をして、使えるようにしてもらおうと聞いてみると「できません」とあっけない返事。在留期間が過ぎてしまったので、契約を一方的に打ち切った、というのである。

どういうこっちゃ?在留期間を過ぎても使えるようにと、わざわざ銀行口座からの引き落としという面倒な手続きをしてまで契約したというのに、これではまったく意味がないではないか!

妻も必死に食い下がるが、なしのつぶてである。妻の怒りはおさまらなかった。

しかし、である。

今度は、私が韓国で使っていたプリペイド式の携帯電話が、使えるようになった。

プリペイド式の携帯電話は、3ヵ月以上使用していないと使えなくなる、と言われていたので、あきらめていた。しかしある人から、「中国では、3ヶ月を過ぎても、新たにお金をチャージすれば使えるようになるよ。韓国でもできるんじゃない?」という話を聞き、ダメもとで携帯電話のお店で聞くことにした。

すると「できますよ」という。

かくして、私の携帯電話が復活した。

あてにしていた妻の携帯電話の契約が打ち切られ、あきらめていた私の携帯電話が使えるようになったのだから、まったく、世の中とはよくわからない。

人生、悪いこともあればいいこともある。-このささいな出来事が、そのはじまりであった。

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出発前日

8月22日(日)

明日から1週間、ふたたび韓国である。

その前に、東京で、ひとつ約束が入っていた。

もう20年も前のこと、高校を卒業した仲間たちと、吹奏楽団を作った。年に一度のペースで、演奏会を行った。同じ高校を卒業した後輩たちが次々と入ってくれたおかげで、今に至るまで続いている。

最初の10年近くは、私も毎年演奏会に出演していたが、東京を離れてからというもの、演奏会に出演することができなくなった。

今年も10月に、私がかつて所属していた吹奏楽団の演奏会が開かれる。私が東京を離れてから10年、演奏会の舞台に立つことはなかったのだが、この10月、十数年ぶりに、演奏会の舞台に立つことになったのである。

といっても、演奏者としてではなく、司会者として、である。

今日は、その打ち合わせとして、演奏会を取りしきる後輩たちと打ち合わせである。

今年の演奏会は、例年と異なり、演出に趣向を凝らすのだという。これまでは、どちらかといえば、淡々と曲紹介をするのが司会者の役目であったが、今回はそういうことではないらしい。時間も比較的余裕があるので、存分に司会をやってほしい、というのである。

「どういうふうにするかは、基本的に先輩におまかせします」

なんと、丸投げされてしまった。どんなことを話すのかは、私次第、というわけだ。

「先輩なら、何とかしてくれるでしょう」

おいおい、オレをあんまり過大評価するなよ。

しかし、基本的に、こういう仕事はきらいではない。

実は、話芸、というものにあこがれている。

話芸で凄いな、と思った人は数多くいるが、そういう人の中には、バンドの司会とか、歌の司会が原点だ、という人がいる。上岡龍太郎氏はたしか、ロカビリーバンドの司会のアルバイトが芸能活動の原点だったと記憶している。綾小路きみまろ氏も、歌の司会者だった。

音楽会の司会、ということでいえば、子どものころに見ていたテレビ番組「題名のない音楽会」の黛敏郎氏の司会は、絶品だった。音楽よりも、その語り口に魅せられた。

だから、音楽会の司会というのは、私にとって憧れであった。

その夢が、かなうのだ。

その機会を与えてくれた仲間たちに感謝。

打ち合わせをしてみると、準備に時間もなく、私にとってかなり荷が重い仕事であることは実感したが、なんとか「よい演奏会だった」と思ってもらえるようにがんばろう。

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楽園

8月15日(日)

お盆休みは、特筆すべきことがなかった。

強いて言えば、あるところから「お盆明けまでに、100字前後の文章を100個以上書いて出してください」という依頼が来て、「オレは駆け出しのフリーライターか?」と思いながら、ほとんどの時間をそれに費やしたことだ。

仕方がないので、見たドラマの話をしよう。

民放の地上波で、テレシネマという、日韓共同制作のドラマシリーズが、日曜の夜に放送されている。

日本人の脚本家の脚本を、韓国人のスタッフとキャストでドラマ化する、というシリーズらしい。

M_71902_p10_175346_choooomomo88 私がみたのは、岡田惠和脚本、キム・ハヌル主演の「楽園」というドラマである。

先週、前編を見て、この日、後編を見た。

数々の韓流ドラマを見つくしている妻は、この種のドラマに難色を示す。

日本人の脚本家によるドラマの展開のさせ方や、語りのペースというのが、どうにも肌に合わない、というのだ。なにより、その照れくさい語り口が、お気に召さないらしい。韓国のドラマに、すっかり慣れてしまったためであろう。

かくいう私は、実はそうした照れくさいドラマが嫌いではない。

実際にドラマを見てみる。

妻がいうように、ストーリーは、明らかに日本的な展開のドラマである。韓流ドラマフリークの妻が物足りなさを感じるのも、わからなくもない。

だが私は、十分に満足した。

一つは、キム・ハヌルがきっちりと仕事をしていたからである。私にとって、キム・ハヌルは、「ザ・女優」というべき位置にいる人で、キム・ハヌル先生がいい仕事をしてくれさえすれば、私は満足なのである。

もう一つ、お盆のこの時期に、ちょっと照れくさくなるような展開のドラマを見ることは、悪くない。夏休みのテンションで見るには、ちょうどいいドラマなのだ。

さて、その「楽園」とは、どのような内容のドラマなのか。

刑務所を出所したひとりの女性(キム・ハヌル)が、たまたまみつけた「楽園」と書かれたチラシを手に、人生をやりなおそうと、小さな島にわたる。そこには、かつてその島を楽園にしようと夢みた若者たちがいた。つぐなったはずの罪に苦しみ続ける女性は、その島に住む人々とふれあいながら、徐々に自分の心を取り戻していく。

ごくごく簡単にいえば、そんな内容である。

このドラマに、こんなシーンがある。

出所したばかりの女性は、たまたま汽車のなかでとなりあったアジュンマ(おばさん)から、たくさんの花の種を買う。その花の種をたずさえて、小さな島にわたるのである。

やがてその女性は、島のあちこちに、その種をまく。ドラマのラストでは、彼女がまいた種が黄色い花となって、森のなか一面に咲きほこるのである。それはまるで、彼女が夢みた楽園であった。

これが実に美しい。

いや、そもそもこのドラマ全体が、じつに美しい風景でいろどられているのだ。それだけでも、このドラマは、見る価値がある、と個人的には思う。

あの島は、どこなのだろう?韓国にある島であることは間違いない。いちど、訪れてみたいものだ。

さて、翌日(16日)。

滞在先(日本のとある場所)の周辺を車で走っていると、途中、森の中に入った。

「あれ?」横に座っていた妻が言う。

道路の両側に広がる森を見ると、なんと、昨日のドラマで見たのとそっくりな風景が広がっているではないか!

Photo 森の中に、いちめんに咲きほこる黄色い花。

思わず車をとめて、森の中にしばしたたずむ。

「楽園」は、ここにあったのか?

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お盆休み前の、長い1日

8月12日(木)のつづき。

明日から職場は完全閉庁である。つまりお盆休み。

今日のうちに、できるだけ細々とした仕事を片づけておこうと、ずぶ濡れになった調査現場から戻った私は、いったん家に戻り、着がえとシャワーをすませて、職場に向かった。

研究室で仕事を始めようとすると、2年生のCさんがやってきた。

「集中講義が、やっと終わりました」

9日(月)から受けていた集中講義が終わってホッとしたのだろう。よもやま話をする。

「あ、5時ですね。友だちと食事の約束があるので、これで」

と言って、研究室を出ていった。

なあんだ。友だちと会うまでの暇つぶしだったのか。ま、面白かったからいいか。

引きつづき、修了生のTさんが来訪。久しぶりにいろいろと話をする。

Tさんが帰ったあと、椅子の下を見ると、日本酒が入った紙袋が置いてある。

はて、誰の忘れ物だろう?

Tさんの忘れ物に違いない、と思い、携帯のメールで尋ねると、「私じゃないです」との返事。

ということは、Cさんか。

Cさんにメールで問い合わせると、

「忘れました!父に持って帰ろうと思っていたんです」という。

お盆の帰省の折に、お父さんに持って帰る日本酒だったのだな。

だとすれば、おおごとである。明日から16日まで職場は完全閉庁。私もしばらくは不在である。今日のうちに渡さなければ、お盆明けになってしまい、まったく意味がない。

「お盆明けでもいいです」とCさんは言うが、せっかくのお土産である。そんなわけにはいかない。

電話でCさんに聞くと、大学の近くの繁華街で食事をしている、というので、届けることにした。

繁華街にある本屋の前で日本酒を渡すと、「お礼です」と言って、プリンをいただき、かえって恐縮する。

久しぶりに繁華街の本屋まで歩いてきたので、せっかくだからと思い、文庫本の小説を1冊買って、近くの喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら読むことにした。

するとCさんからメールがきた。

「先ほどは助かりました。父には日本酒とともに先生のこと話しておきます(笑)」

またまた恐縮。

喫茶店の閉店時間がせまってきたので、歩いて職場に戻る。

昼間とはうって変わって、涼しい風が心地よい。

長い1日だった。仕事はほとんどできなかったけど。

「荷が重い原稿」は、明日がんばることにしよう。

私の帰省は、明後日である。

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トツカ山・点の記

8月12日(木)

2週間ほど前だったか、勤務地にある別の職場の先生から、

「8月の前半に、学生たちと一緒に古墳の測量調査をしていますので、近くにいらしたときはぜひお立ち寄りください」と、お誘いのメールが来た。毎年夏に恒例の調査実習である。

韓国から帰国後、その先生にお会いする機会がなかったこともあり、いちど挨拶をかねて調査現場を訪れなければ、と思っていた。

昨日、午前中の会議が終わったお昼過ぎ、車で調査現場まで向かうことにした。現場は、私の職場から車で1時間くらいのところである。

ところが現場の近くまで行くと、突然、大雨が降り出した。

これがゲリラ豪雨、というやつか?

現場の先生に電話すると、「調査を中断して、車の中で待機している」とのこと。やむなく、引き返すことにした。

そして今日の午前、再び調査現場に向かう。

測量調査は、小高い山のふもとで行われていた。山道を少し歩いた、林の中である。

山道の脇に車を止め、ドアを開けて車を降りたとたん、驚いた。

ビックリするくらいの量の蚊が私のまわりに集まってきたのである。

それに昨日のゲリラ豪雨と、近づいている台風の影響で、ものすごい湿度の高さである。

どのくらいの蚊の量かというと、

むかし、子どものころ見ていたアニメで、主人公が蜂の大群に追いかけられるシーンのとき、蜂の大群が「人文字」ならぬ「蜂文字」で、「←」とか、「?」とか作りながら追いかけていたよね。あんな感じの量。

あいかわらず、たとえがわかりにくいか。

とにかくすごい量の蚊なのである。

久しぶりに先生に再会し、調査の様子をうかがう。

「もう1カ所、上の方でも測量調査しているんですけど、せっかくですから見に行きませんか?」と先生。

今度は山の中腹にあるもう一つの調査地点に向かう。

標高じたいは全然高くないのだが、昨日のゲリラ豪雨の影響で、道がぬかるんでおり、滑り落ちないように気をつけながら、のぼっていく。

加えて、ものすごい高い湿度で、たちまち大汗をかく。

そしてその汗をかぎつけたのか、大量の蚊が寄ってくる。

全然たいした山じゃないのに、何でこんなに大変なんだ?

数日前、木村大作監督の映画「剣岳・点の記」をテレビで見たばかりだったので、なんとなくそれが思い出された。たしかあれも、山を測量する、という話だったよな。

いわば「トツカ山・点の記」だ。もっとも、敵は吹雪でも雪崩でもなく、湿気と蚊だが。

そんな中でも元気に調査をしている学生のみなさんに脱帽。

見学を終えて、下山すると、ビックリするくらいの汗の量である。

どのくらいの量かというと、服を着たまま、プールに飛び込んで50メートルを泳いだくらい、服が濡れている。この夏の最高記録かも知れない。

みなさんとお別れして、車で職場に戻る途中、コンビニに寄って、飲み物を買おうとしたが、「さすがにこのずぶ濡れの姿では、不審者かあるいは何かの被害者とまちがわれて通報される可能性があるな」と思い、やめた。

いったん家に戻り、着替え、洗濯、シャワーをすませ、職場に向かった。(つづく)

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子どもの頃のウソ知識

8月8日(日)

すき焼き食べ放題屋さんにて。

「動物のサイっていますよね。子どもの頃、サイのメスがカバだと思っていたんです」と4年生のA君。

なるほど。子どもの頃のその思い込み、なんとなくわかる。

でも、こうした子どもの頃の間違った思い込みは、たいてい、正しい知識が入ってしまうと、脳の中で上書きされてしまって、忘れ去られてしまうものだ。

だから、このたぐいの話を大人になっても覚えている、というのは、かなり貴重なのである。

「子どもの頃、童謡『ふるさと』の歌詞『ウサギ追いし』を『ウサギ美味し』と思っていた」

「子どもの頃、童謡『浦島太郎』の2番の歌詞『帰ってみれば こはいかに』を、『恐いカニ』だと思っていた」

なんてのは、よくある話。

「子どもの頃、メンマは割り箸を醤油で煮こんだものだと思っていた」

とか、

「子どもの頃、キクラゲをペンギンの肉だと思っていた」

といったたぐいも、ウソ知識である。

すると、今度はNさんが言う。

「私、子どもの頃、水戸黄門を見ていて、どうして印籠は格さんしか持たせてもらえないんだろう?と思っていたんです。そのことを母に聞くと『それはね、助さんがバカだからよ』と教えられました。それからしばらくは、水戸黄門で助さんが出てくるたびに(ああ、この人はバカなんだ…)と思っていました」

なんとも助さんに対して失礼な話だが、それはともかく、子どもの頃のウソ知識は、親がうえつけたものである、というのも、ひとつの特徴である。

こうした、「子どもの頃のウソ知識」を思い出したり、収集したりしてみたい。

いろいろな人に聞いてみよう。

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夏祭りな日々

8月6日(金)

早朝の新幹線で、東京から勤務地に戻る。午後から、勤務地で補講をするためである。

といっても、今学期、休講をしたわけではない。あらかじめ担当を割り当てていた学生の発表が終わらず、学生の最後のひとりが発表を終えるまで、補講をすることになったのである。

午後、職場に到着。それにしても暑い。たちまち大汗をかく。

同僚や学生は、私のあまりの汗に、完全にひいていた。

午後1時半過ぎから、補講が始まり、休みをはさみつつ、5時半すぎに終わった。

「先生、今日はお祭りに行かないんですか?」と、4年生のSさん。

そういえば、昨日から勤務地で夏祭りが行われていた。毎年行われている有名な夏祭り。今日はその2日目である。

夕方、ポッカリと予定が空いているには空いているが、この暑さである。

「この暑さだし、どうしようかなあ」

「でも、私たちにとっては最後ですから」とSさん。

そうか。

私にとっては、毎年訪れるものだが、4年生にとっては、最後の夏祭りである。

そこで、忘れかけていたことを思い出した。

韓国に滞在していた1年3カ月間、身のまわりに起こるいろいろな出来事を、「これが最後かもしれない」と思いながら、1日1日をかみしめるように生きた。

韓国での思い出が愛おしいのは、そのためである。

日本に戻って、そのことを忘れかけていた。

「じゃあ、行くことにしよう」

だが、この暑さに加え、多数の人出が予想される。熱中症には万全の対策をとらなければならない。

職場からいったん家に戻り、着替えることにした。

速乾性のTシャツに半ズボン、そして、以前いただいた「首もとひんやりベルト」を首に巻きつけて、夏祭りの会場まで歩く。

この「首もとひんやりベルト」は実にいい。この暑さでもまったく苦もなく歩ける。

会場に着くと、すでに祭りははじまっていた。しかしすごい人出で、学生たちがどこにいるのかわからない。

電話をかけてみるが、音楽がうるさくて声が全然聞き取れん。

ようやく、チェーン店のドーナツ屋さんの向かいにある建物の階段の踊り場にいることが判明。行ってみると、4年生のSさん、Kさん、T君、A君、Nさん、そして3年生のSさんとTさんがいた。

みんなクスクス笑っているが、たぶん私の熱中症対策の格好が可笑しかったのだろう。

そういえばここに来るまでの間も、すれ違う若者たちがクスクスと笑っていたが、あれは私の授業をとっている学生かも知れない。

ビールを飲みながら祭りを眺めるのも、悪くない。

この日、この夏いちばんの37.2度を記録した。

8月8日(日)

職場のオープンキャンパスの日。いわば職場の「夏祭り」である。

あいかわらず暑い。

朝9時から3時過ぎまで担当の仕事をつとめる。

うーむ。いろいろと言いたいことはあるが、公の場で、きちんと言うことにしよう。

終わって研究室でグッタリしていると、いつもの4年生の一団がやってきた。

しばらくよもやま話をしたあと、「今日、Sさんの誕生日なんです」という。

夜、Sさんの誕生日祝いということで、彼らとまちなかにくりだしてすき焼き食べ放題の店に行く。

しかし最近、ずいぶん遊ばれてる気がするなあ。

ま、夏祭りだからいいか。

明日から、ちゃんと仕事しよう。

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思い入れのある場所

8月5日(木)

8月3日、4日の2日間にわたるナジュでの調査は、充実したものだったが、それだけにかなりハードなものだった。

夏の猛暑が、体力と精神力をうばったのかも知れない。

それに加えて、(先方との)いまだに慣れない会食が続く。

さすがに4日の夜は、風邪をひいたときのような悪寒が走り、右足が痛くなった。

例の持病が出たのかも知れない。

満身創痍で、最終日を迎えた。

朝8時50分、ナジュを出発して、KTXでソウルに向かう。

ソウルの博物館に挨拶に行くためである。

お昼には、偉い方々との会食があるという。

もう、韓国に滞在していたときから何度も経験してきたことだが、この会食というものに、いまだに慣れない。

私はこの職業に向いてないのではないか、と、そのたびにいつも思う。

そのストレスが、足を痛めたのだろう。

連日のハードな日程にもかかわらず、研究チームでいちばんの若手のCさん(26歳)は、心なしか元気である。

Cさんについては、以前もこの日記にも書いたことがある

Cさんに会えば、誰でも彼のファンになってしまうのではないか。そう思わせるほどの好青年である。

背が高くスマートで、人づきあいはいいし、謙虚で、よく働く。誰にでも好かれるタイプである。

かくいう私も、彼にはずいぶん、精神的な面で救われた。

彼は、私が留学していたのと同じ時期、半年間だけ、ソウルにある博物館に研修に来ていた。そこで、たちまち信頼を得て、博物館中の人気者となる。誰もが彼を慕い、彼が韓国を離れるとき、誰もが別れを惜しんだ。

その彼が、今回は私たちの研究チームの幹事として、切符の手配や会計など、旅の全般の事務処理を一手に引き受けている。とにかくよく働くのだ。好かれないはずがない。

ソウルへ向かう彼の顔は、どことなくにこやかだが、カバンが重そうだ。

「カバンが重そうだね」と言うと、

「ええ、中に焼酎が20本はいっていますから」

「に、20本!?」

「博物館の方へのおみやげです。博物館の方の中には、全羅道出身の方が何人かいらっしゃって、全羅道の焼酎を差し上げれば喜ばれるかな、と思って」

昨日まで調査していた全羅南道のナジュで、いつの間にか彼は焼酎を買い込んでいたのだ。彼らしい気のつかいようである。

どことなくにこやかなのは、久しぶりに研修先のみんなに会えるからなんだな。そのことは、私にも十分すぎるほど、よくわかった。

博物館に到着。偉い方との会食のあと、オープン直前だという新しい展示コーナーを見てまわることになった。オープンまであと数時間。外国の大使も参加するというオープンセレモニーを前に、職員が最後の追い込みをかけている。

その間、Cさんは、つぎつぎとかつての研修先の仲間たちと再会する。

「おお!Cさん!」と職員の人が口々に声をかける。

「Cさん!昨年のときみたいに手伝ってよ!いま、オープン直前で大変なんだから!」

冗談とも本気ともつかないお願いに、Cさんは苦笑した。

(Cさんにとって、この博物館での半年は、本当に充実していたんだな)

「うらやましいなあ」

私はつい、彼に口走ってしまった。

すると彼は、一瞬、すまなそうな顔をした。

「大邱のときは、とても残念でしたね。せっかくいらしたのに時間がなくて…」

彼は、私の「うらやましいなあ」の言葉の意味を、すぐに理解した。初日の大邱で、せっかく母校に来たのに、自由時間が全くなかったことの寂しさを、彼は知っていたからである。

「そうだねえ。ちょっと残念だった」

そんなことを私が彼に言ってみたところで、彼にはなんの責任もないことなのだが。

でも彼は、私の気持ちを、おそらく誰よりも理解しているだろう。同じ時期に、韓国で勉強して、さまざまな刺激を受けた人間として、である。

「9月にまた韓国に調査に来ますよね。そのとき、なんとか先生が大邱に行く時間が作れないものか、検討してみます」

彼は私にそう言った。

冷静に考えれば、研究チームによる共同調査旅行で、そんなことはできるはずもないのだが、私はその言葉だけで十分であった。

私に「思い入れのある場所」のあることを、知っている人間がいる、というだけで十分である。おそらくそれは、彼自身が「思い入れのある場所」を持っているからだろう。彼にとっては、この博物館こそが、筆舌に尽くしがたいほどの思い入れのある場所なのだ。

またもや私は、彼の言葉に救われた。

この先、彼に何度救われることになるのだろう。

夜8時、ソウルの空港を出発。短くて濃い調査旅行が終わった。

夜10時過ぎ、日本に戻ると、不思議と足の痛みが消えていた。

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どしゃぶりがなければ

8月2日(月)

いつもの研究チームで、韓国に調査旅行である。今回は8人。

やはり予想していたとおり、まったく自由時間のない旅であった。

初日、朝4時に起きて、早朝の飛行機でソウルに向かう。そこから鉄道で大邱にむかう。私が1年3カ月通っていた大学である。たまたまそこで開かれる、とある行事(調印式)に参加することになっていた。

夕方4時。東大邱駅に到着するやいなや、先方の大学の方が迎えにきていて、バスに乗せられて、大学に向かう。バスは、大学の中にある博物館に向かった。

私が研究室を借りていた博物館である。私が1年3カ月過ごした場所。

バスは、大学の正門を入る。滞在中、いつも散歩をしていたキャンパスが目に入る。私は窓の外を目で追った。

しかし、感慨に浸っている余裕はない。あっという間にバスは博物館に到着した。

到着早々、調印式が始まる。この厳かな行事の当事者でもない私が、なぜ参加しているのかは、説明が面倒なので省略する。

6時前、厳かな儀式が終了した。すると、「6時半から会食を予定していますので、6時にここを出ます。玄関のところにバスを用意していますので、それに乗ってください」と。

またもや感慨に浸る暇もなく、玄関に向かう。

すると、玄関に、守衛のアジョッシ(おじさん)が立っていた。

「アジョッシ!」

私はかけ寄って、握手をした。5カ月ぶりの再会である。

その光景を不思議そうな顔をして見ていた周りの人たちに、アジョッシが説明した。

「この人、1年間、ここにいたんだよ」

バスに乗り込んで、そのまま夕食会場へ。夕食には、私の指導教授をはじめとする、お世話になった先生が何人か来ていて、うれしい再会となった。

その後、2次会に連れて行かれ、なんだかんだで、夜11時にようやく解放された。

お世話になった先生方と再会できたとはいえ、厳かな公式行事である。私がここに再訪して本当にやりたかったことは、自分が暮らしていた場所の空気を再び感じたい、ということだった。

できれば、学んだ語学院に再訪したい、という強い気持ちもあったが、それがかなわないであろうことは、ある程度予想していた。

だがせめて、1年間暮らしたときのあの空気感を、もう一度味わいたい、と思ったのである。

私はこの場所に、筆舌に尽くしがたいほどの、思い入れがある。

それは、他の誰もが、想像もつかないものではないだろうか。

ホテルの部屋に戻ると、いてもたってもいられなくなり、すぐにホテルを飛び出した。

タクシーを拾って、大学の北門をめざす。私がよく通った喫茶店がある場所である。

タクシーに乗り込むと、雨が降り出した。その雨は、目的の場所に近づくにつれて、強くなっていく。

大学の北門でタクシーを降り、北門の横にある「カフェC」という喫茶店に入った。

私が深夜12時頃まで、語学の勉強をしたり、原稿を書いたりした場所である。

大金持ちになったら、この喫茶店を買い取ろう、となかば本気で考えた場所である。

11時20分、喫茶店にはいると、当時と同じ店員がいた。実直そうな、若い男性店員である。

「何にしますか?」

「アイスアメリカーノください」

「閉店は12時ですけれど、それでもよろしいですか?」

「ええ、大丈夫です」

彼は、私のことを覚えていたのだろうか?お久しぶりですね、という表情をしたような気もするのだが、こちらの思いこみかも知れない。

私がいつも座っていた場所に座ると、店員がアイスアメリカーノを持ってきてくれた。「ごゆっくりどうぞ」

韓国語の宿題も、荷が重い原稿もない私は、ひたすらアイスアメリカーノを飲んだ。

飲みほして、店を出た。

すると、雨あしがさらに強くなっている。どしゃぶり、といった感じである。

(これでは、散歩するどころではないな…)

散歩を断念して、タクシーに乗り込んだ。「ホテルまで行ってください」

ま、あの喫茶店で、あの時のようにアイスアメリカーノを飲めただけでも、よしとするか。

ひょっとすると、このどしゃぶりは、早くホテルに戻れ、という啓示だったのかも知れない。

つまらん感傷に浸るな、という啓示。

どしゃぶりがなければ、私は一晩中、あの辺をあてもなく歩きまわっていたかも知れない。

それを思うと、どしゃぶりにも感謝をしなければならない。

夜12時。ホテルに着いてタクシーを降りると、雨は小雨になっていた。

こうして、私のささやかな自由時間が終わった。

翌朝8時50分、私たち研究チームは、東大邱駅を出発し、KTXで全羅南道のナジュに向かった。(つづく)

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