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2010年9月

夢を託した100円を

どうにもこうにも、やる気が出ない。

私の場合、新学期が始まる直前になると、いつもこんな気分になる。

世に「五月病」というのがあるが、私の場合は、「三月病」「九月病」である。

先週の土曜日(25日)も、学生11人と一緒に、まる1日、隣県までタプサ(踏査)に出かけたが、私自身、なんとなくテンションがあがらず、学生たちには申し訳ない気がした。踏査じたいは、たいへん充実したものであったのだが。

1週間ほど前に浅草に行って以来、iPodに入っているビートたけしの「浅草キッド」(ビートたけし作詞・作曲)を、くり返し聞いている。

この歌を聴けば、浅草の仲見世や浅草寺の風景がよみがえる。歌詞の中に、浅草の風景が上手にちりばめられているのだ。

何より、これは、圧倒的に「芸人賛歌」である。

芸人がこの曲を聴いたら、間違いなく泣くのではないか。

名曲であるがゆえに、いくつかのカバー曲が出ている。私も、ごくたまにカラオケに行くと、この曲を歌うことがある。だが、この曲は、ビートたけしが歌ってこそ、説得力がある。

この歌が愛されているかぎり、ビートたけしは「芸人の星」として、君臨しつづけるであろう。

歌詞は、漫才コンビの相方への思いを綴っているような内容だが、歌の最後の

「ひとり訪ねたアパートで

グラス傾け懐かしむ

そんな時代もあったねと

笑う背中が揺れている」

は、ビートたけしの師匠、深見千三郎とのエピソードがもとになっている、と、どこかで聞いたことがあった。不確かな記憶だが。

おそらく、浅草でのさまざまな人との思い出が、重層的に歌われているのかも知れない。

さて、1週間ほど前に浅草に行ったときに、浅草寺で、ふと、この歌の一節を思い出した。

「夢を託した100円を

投げてまじめに拝んでる

顔に浮かんだおさなごの

無垢な心にまた惚れて」

これは、浅草寺でのことを歌っていたんだな。

Photo 私は財布から100円玉を取りだし、賽銭箱にそれを投げて、手を合わせた。

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帰国のたより

キョスニム。

私たち、韓国に無事到着しました。帰りの飛行機の中では、キョスニム夫妻に対する感謝の気持ちでいっぱいでした。おかげで私たちは、本当に気楽に東京見物をできたんですが、迷惑ばかりおかけしたのではないか、と、いささか心配しています。

ふりかえってみると、したいお話ももっとたくさんあったように思いますし、写真ももっとたくさん撮ればよかった…という名残惜しさもあります。次にまた、機会があるだろうと思います。大切な因縁を、大事にしまっておきます。

今回の旅行では、学んだことがたくさんあります。日本を見ながら、それに、サチョン オンニ(いとこのお姉さん)夫妻とキョスニム夫妻を見ながら…。多くのことを教えてくれた旅行だったと思います。

ここ韓国は、雨がたくさん降ったためか、天気がとても涼しくなりました。個人的には、東京も早く涼しくなってくれたらと望んでいます。

韓国はいま、チュソク(秋夕)です。日本はまだ暑いですが、お二人も、心だけは豊かな中秋になられることをお祈り申し上げます。

奥様にも、私たちが無事帰国したということを伝えてください。オンニ(姉)も、必ず伝えてくださいとお願いしていました。

本当に、ありがとうございました。(2010.09.22.20:24

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でくのぼうの東京案内

9月21日(火)

語学院の3級のときに習ったナム先生が、オンニ(姉)と一緒に、東京に遊びに来るという。

韓国はいま、チュソク(秋夕)という連休である。日本でいえば、お盆にあたる。その連休を利用して、東京に観光にいらしたのであった。

ナム先生のサチョ オンニ(いとこのお姉さん)が、いま東京に住んでいていて、そのサチョン オンニのところに泊りに行くのだという。

近いうちに東京に遊びに行きたい、という話は、昨年11月の4級期末試験のマラギ(会話)試験のときに、聞いていた。

さらに、今年の1月末の、「最後の同窓会」のときにも、「サチョン オンニが東京にいるので、いつか東京に遊びに行きたい」とおっしゃっていた。

私はそのたびに、「東京に来る機会があれば、連絡ください。私たちが案内しますから」と約束した。

そしてその約束通り、ナム先生が東京に来て、私たちが案内をすることになった。

事前のメールで、「新宿と渋谷と原宿には行きたいと思うんですけど、それ以外にどこかキョスニムのオススメのところがありますか?」と聞かれたので、

「浅草がソウルのインサドンみたいな感じでいいと思います。そしてそこから、水上バスでお台場に行くのがよいかと思います」と答えた。

「19日、20日と、1泊2日でサチョン オンニと温泉に泊まり、20日は温泉から帰ったら新宿と渋谷を見てまわります。キョスニムは、21日に浅草を案内していただけますか?」

そして今日、そのルートをご案内することになったのである。

朝9時に渋谷のハチ公前で待ち合わせて、銀座線に乗って浅草に向かう。

浅草に着いたのが、9時40分すぎ。ちょうど、仲見世のお店が開きはじめる時間だ。

2010_09210006

雷門から、仲見世をゆっくりと歩き、みやげもの屋をのぞいたり、冷たい抹茶を飲んだり、人形焼きを食べたり、揚げ饅頭を食べたりしながら、浅草寺に向かう。

浅草寺をお参りした後、花やしき、木馬館、浅草演芸ホールなどを横目で見ながら、六区ブロードウェイを歩き、入山せんべいで焼きたての煎餅を食べる。

20100924001121_61870782 そうこうしているうちに、お昼である。お昼は、雷門の前で蕎麦を食べ、デザートにあんみつを食べる。

午後1時20分、浅草から水上バスでお台場に向かう。

Dsc07857 水上バスは、松本零士先生のデザインによる近未来の形をしている。韓国でも、「銀河鉄道999」は有名である。

隅田川の川幅の狭さ、かかっている橋の低さに、あらためておどろく。ソウルの漢江(ハンガン)とはくらべものにならないほど、小さい川であることを実感した。

水上バスに乗ること50分。お台場海浜公園に着いた。

2010_09210029 デックス東京ビーチにある「台場一丁目商店街」をゆっくりと見学し、パレットタウンに移動。

17~18世紀のヨーロッパの街並みをイメージしたヴィーナスフォートの中の、カフェ広場でひと休みする。

ロンチョン君はソウルにある大学の大学院に行ったそうです」

「クォチエンさんとリペイシャン君は、同じ大学に入って、今もうまくいっているようです。あと、ル・タオ君とそのヨジャチング(ガールフレンド)も、同じ大学に通ってます」

多くの中国人留学生たちが、通っていた語学院のあった大学に入学できたらしい。

ル・ルさんとタンシャオエイ君は、別れちゃったんですよ。ル・ルさんは、第一希望の大学に入学できたけど、タンシャオエイクンはダメだったみたいです。で、ル・ル氏は、いま、韓国人のナムジャチング(ボーイフレンド)とつきあっているそうです。勉強もよくできたけど、恋多き女性ですよね」

えぇ!あんなにラブラブだったふたりが別れたのか!これは衝撃だった。

アン先生は、ダイエットに成功して、ビックリするくらい痩せちゃったんです」

これにもおどろく。

そんな、語学院の近況を聞いているうちに、4時半になった。

夕方5時。「ゆりかもめ」と地下鉄を乗り継いで、表参道、原宿へとむかう。原宿に、ぜひ行ってみたかったのだそうだ。

竹下通りを歩き、原宿駅の前にあるレストランで、夕食をとる。ハンバーガーセットである。

食べながら、韓国のテレビの話題になる。

私が帰国してから最終回を迎えた大人気シットコム『屋根を突き抜けてハイキック』の、衝撃的な結末を聞いて、驚愕する。

あと、キム・ジェドン氏がテレビ番組のすべてを降板した話など。

原宿駅から渋谷駅まで歩き、午後8時、渋谷駅でお別れした。

お二人は翌日(22日)の昼、日本を出発されるという。

「たくさん見て、たくさん食べました。ありがとうございました」と先生。

「テグに来たら、必ず連絡してくださいよ」とオンニ。

「気をつけて韓国にお帰りください」

…と、ここまでが、東京案内の一部始終である。こぶぎさんのアドバイスのおかげもあり、浅草とお台場の主要なところを押さえることはできた。

さて、ここからは反省会。

案内していて、自分がつくづく「でくのぼう」だな、ということを実感する。

まず、韓国語でうまく説明ができない。

もともと、とくに女性と話をするのが苦手なうえに、それが韓国語ということになると、どういったことを話していいか、まったくわからなくなるのである。

結局、同行してくれた妻に、ほとんどを頼ってしまった。

それに、こぶぎさんのアドバイスがあったとはいえ、やはり細かなところで、いろいろと道に迷ったりする。

念のため、東京観光のガイドブックを2冊買って、それを見ながら案内したのだが、それ以上に、私があまりにも東京を知らなすぎた。

ナム先生は、文庫本よりも小さいサイズの、韓国語のガイドブックを持っていらしたが、むしろその本の方が使えたようだった。

それと食べ物。

昼間はそばを食べたが、口に合ったかどうかはわからない。デザートのあんみつは、寒天を残しておられた。韓国では寒天を食べないようで、寒天は、口に合わなかったらしい。

夕食は、食事する店が原宿にほとんどなかったせいで、レストランでハンバーガーを食べることになった。

もう少し、日本的で、美味しい食べ物をごちそうしたかった、と後悔した。

今回、東京を案内してみて、自分がいかに東京のことを知らなかったかが、わかった。

2010_09210003おそらく、最初で最後になるであろう、ナム先生とオンニの東京旅行。

「東京にいらしたら、ご案内します」という約束を果たしたことだけが、せめてもの達成感である。

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完全なる休日

9月20日(月)

鈴井貴之『ダメダメ人間 それでも走りつづけた半生記』(メディアファクトリー、2010年)読了。

私が40歳にして韓国への留学を決めた背景の何割かに、この人の影響があったことは、認めざるを得ない。

「何割か」というのは少し大げさだとしても、40歳にして韓国留学が実現した私が、やはり40歳にして韓国に1年近く映画留学したこの人のことを、強く意識していたことは、否定できない。まあ、一ファンとして、一方的に因縁めいたものを感じていただけにすぎないのだが。

私は、「ミスター」こと鈴井氏が、韓国で、どのようなことを体験したのか、そして、なにを感じたのかについて、知りたかった。

この本の中では、ごく一部であるが、韓国へ映画留学したときの体験が率直に書かれている。

この中で鈴井氏は、韓国人に「思いがけないこと」を言われ、そして思いがけない仕打ちを受けて、思い悩んだことを告白している。

そして、そのことをきっかけに、本来の映画の勉強とはまったく違う次元で、自分自身とは何か、そして、「日本人」とは、「韓国人」とは、について、自問自答をくり返すのである。

鈴井氏が韓国人に言われた「思いがけないこと」は、実は、私も、韓国滞在中に何度か言われたことであった。韓国に長期滞在している日本人ならば、誰もが突き当たる経験なのだろう。

やはり「ミスター」もそうだったのか…。よくぞ書いてくださった。「ミスター」の煩悶は、私自身の煩悶でもあった。

さらに私をして共感せしめたのは、帰国前後に自分自身の中に芽生えた「葛藤」である。

「それ(帰国)は決して晴れ晴れとした気持ではなかった。帰国しても暫く、経験したことを整理するのに時間を要する。いや、今も整理しきれていないのかもしれない。それだけ貴重な体験になったことは事実だ」

「帰国してからも僕は煮え切らなかった。(中略)韓国での体験は貴重なものであったが、それ相応のダメージも受けていた。自分の無力さ、このまま表現者としての道を歩むべきだろうか、と根源的なことさえも疑い始めていた。さらに帰国した僕を待ち構えていたものは“期待”であった。体験したことの“成果”が要求された。スキルアップするために韓国へ行ったのだから当たり前のことであるのだが、僕は怖気付いていた」

私が帰国する前後も、まさに同じような気持ちだった。そのことは、この日記にも書いている。そして、韓国で体験したことは、いまだに私の中で整理できていない。

「ミスターさん、私も、同じ40歳のときに韓国に留学して、あなたと同じような思いを体験したんですよ」と、伝えたいのだが、伝えるすべがない。

「共感」こそ、力である。

さてこの本を一読して、鈴井氏がこれほどまでに「葛藤」し、思い悩む人であるとは思わなかった。私以上に、マイナス思考の人間がこの世にいたのだな、ということを知り、少なくとも私にとっては、勇気づけられた本であった。

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時代はこぶぎさんに追いついた

数日前、地元にある本屋で本を立ち読みしていると、えらく耳なじみのある曲が流れてきた。

韓国の女性歌手グループ、「少女時代」の歌だ!

そういえば、「少女時代」は、ついに日本でデビューしたんだっけな。

韓国留学中、町を歩いていると、そこかしこから流れてきた、「少女時代」の歌。

語学院の留学生たちと行ったノレバン(カラオケ)でも、中国人留学生の女子たちが、よく歌っていたっけ。「Gee」とかを。

おかげで、「少女時代」の歌のいくつかは、今でも耳について離れない。

それが、日本でも日常的に聞けるようになるとは!しかも、私の住んでいるような地方都市でも、街中で「少女時代」の歌がふつうに流れるとは、なんとも感慨深い。

これを待ち望んでいたんじゃないのか?こぶぎさん。

10年以上前から、K-POPに注目していた、こぶぎさん。時代は今、やっと、こぶぎさんに追いついたのだ。

私自身は、韓国滞在中、K-POPを熱心に聞いていたわけではなかった。

だが、語学院の授業で聞いたイ・スンチョルの曲「ソリチョ(叫ぶ)」がすごくよくて、それからというもの、そればかり聞いていた。

いまでも、日に一度は、「ソリチョ」を聞く。

ちなみに、「少女時代」が歌う「少女時代」という曲は、イ・スンチョルの同名曲をカバーしたものである。

イ・スンチョルを、日本のミュージシャンにたとえると、スターダストレビューの根本要氏が、いちばんピッタリくるのではないか、と思う。

男性ボーカルの中でも、キーが高いという点や、ライブでこそ力を発揮するという点などが、共通している。それに、曲調も、スタレビのそれに近い。

試みに、スタレビの根本氏が、イ・スンチョルの「少女時代」を歌っているところを想像してみるがよい。じつにしっくりとくるのだ。

このことを、スタレビのファンであり、イ・スンチョルのファンでもある妻に確認したところ、大きくうなづいた。だから私の見立ては間違っていない。

これからも、イ・スンチョルに愚直に注目していこう。

悔やまれるのは、韓国滞在中に、イ・スンチョルのライブに行けなかったことである。

韓国で、イ・スンチョルのライブに行くこと。これが、当面の私の夢である。

ライブで「ソリチョ」を聞いたら、おそらく泣くだろうな。

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得意の下見

最近、軽いウツ気味のせいか、日記もどこか暗い。

というか、書けば書くほど、自分の深層にあるダメな部分が明らかになっていくようで、よくないなあ。

やはり日記を公開する、というのはよくない。

来週、語学院の3級のときの先生だったナム先生が、日本にいらっしゃることになった。

で、東京の浅草とお台場を案内することになった。浅草を見たあと、水上バスでお台場に行く、という計画である。

だが、実は、浅草にはもうずいぶん行っていない。お台場に至っては、行ったことすらない。

案内します、といったが、実はまったくわからないのである。

どうしよう、と困っていたところに、研究室に4年生のA君とKさんがやってきた。

「今度、韓国からいらっしゃる先生を浅草に案内しようと思うんだが、どうだろう。面白いと思ってくれるかなあ?」

ここ最近、就職活動で東京を往復している二人なら、何か情報があるだろう、と思って、思わず聞いてみた。

A君は困った様子で、

「さあ、…人によるんじゃないですか」

と答えた。そりゃそうだな。

それに、冷静に考えれば、30年も東京で暮らしていた私が、就職活動で数回、東京を往復した学生に聞くような質問ではない。

「じゃあ、お台場はどうだろう?」

今度はKさんが答える。

「日本のテレビのことがわかってないと、キビしいかもしれませんね。何しろお台場といえば、テレビ局ですから」

なるほど、そうか。それは困ったな。

「でも、お台場に行くと、東京タワーとスカイツリーをいっぺんに見られるところがあるそうなんです」

それも、韓国の人が見て喜ぶかどうか…。

私は急に不安になった。

妻に電話をする。

「ナム先生ご一行を浅草とお台場にご案内する、て言ってしまったんだけど、実は浅草もお台場も、どこを案内していいかまったくわからないんだ」

「ふーん」妻は何かに気がついた。

「あ、また『お得意の下見』ですな」

馬鹿にしたような口調で言った。まだ、私は何も言っていない。だが、妻は私の性格をよく知っていて、「この人、絶対に前の日に下見に行こうとしているな」と思ったのである。

私はよく、人を案内するときに、案内するルートにそって事前に下見することがある。妻もそれにつきあわされたことがあり、ウンザリしているのだろう。

そもそも、私の性格じたいが、極度の不安症なので、出かける前にガスの栓をしめたかとか、家の鍵をしめたかなど、などを、何度も確認するのだ。

雨が降らないのに常に傘を持ち歩いたり

それらと同じで、「ちゃんと案内できるだろうか?」と不安になり、あらかじめ下見をしておきたい、という強い衝動にかられるのである。

だが、「そんなの、出たトコ勝負じゃん」と思う妻からすれば、つきあいきれん、というわけである。

それに、同じ場所に2度行こうとする心理が、妻にはまったく理解できないのだろう。

「どうぞどうぞ、ひとりで行ってください。浅草から水上バスにでも何でも、乗ってください」

妻はつきはなすように言った。

「それに、ドタキャンになる可能性だって、あるんだよ。『やっぱり銀座が見たいです』とか」

なるほど、たしかにそうだ。

「わかった!そこまで言うんだったら、絶対に下見になんか行かない!」

結局、話し合いは決裂したが、うーむ、この不安症、何とかならないものか。

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滑舌

9月16日(木)

この夏3度の韓国出張をすべて終えて、なんだか抜け殻のようになってしまった。

やるべき仕事はいくつもあるのだが、まったくやる気がおこらない。

毎学期行われている授業についてのアンケートがかえってきたので、見ると、

「もっと大きい声で話してほしい」とか、

「もっとはっきりとしゃべってほしい」

といった回答がみえる。

だいたい、この種の回答が、毎学期みられる。

わかってる。わかってるんだよ。

なにしろ、小学校の時から、同じことばかり言われつづけているのだから。

小学校4年生のとき、学級委員をやらされた。

その年の秋、全校で、仮装行列、という行事ががあった。クラスごとにテーマを決めて扮装し、校庭をねり歩いて、どのクラスがいちばんよかったかを決める、というものである。

その時の学級委員の仕事は、自分のクラスの人たちが校庭をねり歩いているあいだ、自分のクラスの仮装のコンセプトだとか、見どころ、といったものを全校児童1200名の前で説明する、というものだった。いわゆる、プレゼン、というやつである。

他のクラスの学級委員は、事前にしっかりと原稿をつくり、それを元気に読み上げていた。おそらく、先生の指導が入っていたのだろう。

え?みんな準備してたのかよ。聞いてないぞ。事前の準備をまったくしなかった私は、私の番が来ると、何をしゃべってよいか全くわからず、しどろもどろで終わってしまった。

これにキレたのが担任の男の先生である。

「何で事前に準備しないんだ!それに、ぼそぼそしゃべらないでもっとはっきりしゃべれ!」

おかげでうちのクラスは大恥をかいたじゃないか、といわんばかりに、私の頭をグーで何度も殴った。

それからしばらくの間、私がぼそぼそとしゃべるたびに「もっとはっきりしゃべれ!」と、その先生は、私の頭をグーで殴った。

これが小学校4年生のときの話。

中学2年の時に、生徒会長をやらされた。

私が通っていた中学校は、当時、手のつけようもないほど荒れていた中学校で、生徒会長のなり手が誰もいなかった。それで、仕方なく私がやる羽目になったのである。

憂鬱だったのは、月に2回、月曜日の朝に「生徒集会」というものがあって、そこで、「生徒会長のあいさつ」というのを、15分間くらいしなければならなかったことである。

正確に言うと、毎週月曜日に体育館で朝礼が行われるのだが、2週に1度ずつ、交互に、「校長先生のあいさつ」がある「全校朝礼」と、「生徒会長のあいさつ」がある「生徒集会」が行われていたのである。

だから月に2度、全校生徒600人の前で、訓辞めいたあいさつをしなければならないのだ。

これが私にはたまらなくイヤであった。とくに月曜日の「生徒集会」を翌日に控えた日曜日の夕方、ちょうどサザエさんの終わるころは、かなり憂鬱な気分になった。だからそれ以降、私は「サザエさん」を見ていない。見ると憂鬱になるからだ。

いま思うと、よく登校拒否をしなかったものだと思う。

月に2度のペースで、15分間、全校生徒600人の前でどんなことを話したのか、いまとなってはまったく覚えていない。話したとしても、荒れていたうちの中学では、誰ひとりまともに話を聞いていた生徒なんて、いなかったんだと思う。

ただ覚えているのは、「あいさつ」が終わって壇上をおりたあと、友だちに、

「どうだった?」

と聞くと、

「ボソボソしゃべっていて、まったく聞き取れなかった」

と言われたことである。

生徒会長なんて馬鹿らしいや、と思い、その後はその種のことには一切かかわらないことにした。

だから、私にとって「しゃべる」というのは、極度のコンプレックスなのだ。

そんな私が、いまは人前でしゃべる仕事をしているのだから、よくわからない。

じつはいまでも、大勢の人前でしゃべるたびに、激しい劣等感に襲われている。そのたびに、あの、小学校4年生のときの仮装行列の場面がよみがえるのである。

私が、渥美清の啖呵売のセリフや、綾小路きみまろのよどみない漫談、上岡龍太郎の立て板に水の話術、といったものに、強くあこがれるのも、私には決して真似できないことだからである。

さて、困った。

10月に行われる、昔の仲間の楽団の演奏会で、司会をすることになった

滑舌の悪い私が、なんで引き受けちゃったんだろう、と激しく後悔している。

どうせまた私が落ち込むだけだし、みんなにも迷惑がかかるなあ。

それにもう一つ困ったことが。

まったくやる気が起こらないせいもあり、いま、本業の原稿そっちのけで、司会の原稿を書いている。

演奏する曲の由来なんかを調べながら書いているうち、例の凝り性が出てきて、どんどん長くなっていくのだ。

(こりゃ、下手すると演奏時間よりも司会がしゃべる時間の方が長くなるんじゃなかろうか…)

はたして、司会はうまくいくのか?

そして、かんじんの、本業の原稿は大丈夫なのか?

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やはり雨のソウルより

9月11日(土)

慶州での実質3日間にわたる調査が終わり、ソウルへ向かう。

この間、実にさまざまな細かいトラブルがあった。

それらをひとつひとつ調整していったのが、共同研究チームの幹事である、最年少(26歳)の好青年、Cさんであった。

「どうして(僕ばかりが)こんな目にあわなければならないんでしょう?」

2日目の朝食のときだったか、Cさんはぼそっとつぶやいた。何ごとにも前向きなCさんにはめずらしいつぶやきである。

たしかに、国を越えて共同研究を行うことは、想像を絶する困難がともなう。まだ大学院生のCさんにとって、ふたつの国の事情にはさまれながら、その困難を一手に引き受けるのは、荷が重すぎるのであろう。だが私たちも、彼の人のよさに、つい、甘えてしまうのだ。

私自身も、その国を越えた交流の難しさを、肌身にしみて感じていた。体面を重んじるこの国で、忍耐強くその習慣に寄り添っていくことに、しだいに疲れを感じはじめたのだ。

「どうしてこんな目にあわなければならないんでしょう?」

それは、私の感じたことでもあった。

今回の旅も、夜は連日の会食である。相変わらず私は慣れない。相手の気分がよくなるように話すすべを持っていないのだ。本当に、情けないことだと思う。

その最後の会食である今日、となりの席にいたわが師匠が、私にぼそっとおっしゃった。

「これから、変わっていくさ」

私が不思議そうな顔をしたのを見てか、師匠が続けた。

「あなたをはじめとして、このチームにいる若い人が、どんどん韓国で勉強したい、って言っている。そうやって、お互いが切磋琢磨していけば、韓国と日本との関係も、変わっていくさ」

はたしてそうだろうか。私は楽観的にはなれなかった。師匠が続ける。

「というより、変わっていかなきゃ、ダメなんだよ。いまの学界の状況を考えたら、みんな自分たちのことしか考えていない。そんな学界に、未来なんてない」

それはそのとおりだった。韓国に留学してからというもの、同業者たちのドメスティックな発想に嫌気がさして、「もうあんなところにはもどれないな」と思った。

その意味で、私の韓国留学は、なにものにも代えがたいものであった。

しかし一方で、私自身の力の限界も感じていた。はたして、この私に変える力なんてあるのだろうか?と。そして、この国の人たちとわかりあえる日が来るのだろうか?と。

…と、まあいつものように悲観的になって、会食も終わり、ホテルに着いたのが夜10時。ソウルが雨だったことが、なおさらそうさせたのかもしれない。

部屋に入ると、韓国で使っている携帯電話にメールが来た。

「キョスニム(教授様、私のあだ名)!慶州からソウルへ行かれたんですね?暑いし雨も降って大変だったでしょう。今日は十分に休んで、明日気をつけてお帰りください」

語学院の4級のときのキム先生からだった。この秋に出産予定のキム先生は、ここ数日の私の韓国語日記を読んでくださっていたらしい。

キム先生に電話をかけてみた。

「キョスニム!夜分遅かったんで、電話をしたらまずいかな、と思って携帯メールにしたんですよ」と先生。

「そうでしたか。メールありがとうございます」と私。

「本当は車の運転ができれば、慶州を車でご案内したかったんですけど」

テグから慶州は、車で1時間ほどのところである。

「そうでしたか。…チョムソンデ(慶州の天文台の遺跡)の前に、喫茶店があったでしょう」と私。

「ああ、知ってます。オペラ歌手がいる」

「そうそう、あそこで、コーヒーでも飲みたかったですね」

「今度いらしたら、きっとそうしましょう。私、赤ちゃんが生まれたら、父が車を買ってくれるそうなんです。そうしたら、ナンピョン(夫)と、赤ちゃんをつれて、車でキョスニムご夫妻を慶州にご案内するのが夢なんです」

「そうでしたか」

「だから、赤ちゃんが生まれたら、見に来てくださいね」

「わかりました」

電話を切り、ホテルを出てコンビニに買い物に行った。

雨はあがっていた。

もう少し、この国の人たちととうまくやっていけるかな、と思った。

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欲の重さ

9月9日(木)

昨日から韓国に滞在している。この夏、3度目の韓国である。

自分では旅慣れているつもりだが、いつも荷物だけは、旅慣れない感じである。必要以上のものを持っていってしまうのだ。

いや、これは旅に限ったことではない。日常生活においてもそうである。

私がリュックを背負っている姿を見た人は、必ずといっていいほど「それ、重そうですね。何が入っているんですか?」と聞いてくる。たいした物は入っていないのだが。

「それは、欲の重さだよ」と、妻は言う。なるほど、言いえて妙である。かばんの重さは、欲の重さを示しているのかもしれない。

先ごろなくなった、韓国で有名な僧侶兼随筆家のポプチョン僧侶の代表的随筆集に『無所有』という本がある。所有にこだわらず、すべてを捨てて生きろという教えが書かれているが、私はそれを3種類(原書、日本語翻訳版、小説版)持っている。『無所有』を3冊持っているとは、なんと本末転倒なことか。

今日、私たちの研究チームに韓国留学中のときの私の指導教授が合流されて、夕食をご一緒した。

私の指導教授は、その業界でもかなり力のある方である。大学や学会などで数多くの要職をつとめられている。

慕う人も多いが、敵も多い、と聞いた。たぶん、イメージ的には、「剛腕」という言葉がふさわしいかもしれない。「剛腕」という言葉で連想される政治家を思い浮かべればよい。

しかし、1年以上、そばで話を聞いていて、実はきわめて内省的な方だ、ということに気づいた。

そして、人間を、実によく見ておられる。

たしかに強引なところがあるが、人間的魅力にあふれた方なのだ。

その点を知らない人にとっては、単なる「剛腕」にしかうつらず、敬遠する人がいるのかもしれない。

だが、知っている人にとっては、魅力的な人なのだ。敵が多い反面、それ以上に慕う人が多いのは、理由があることなのだ。

いい師にめぐまれたものだ、と思う。

夕食のときも、指導教授の話の面白さに、すっかり引き込まれた。

夕食後、食堂を出て指導教授とお別れするときのこと。

「リュックが重そうだな」と先生が私におっしゃった。

「ええ、いろいろと入っていますので」と答えると、

「欲の重さだな」

とひと言だけおっしゃった。

なんと、妻と同じことをおっしゃったぞ!

やはり私の指導教授だ!私のことを、実によく見ていらっしゃる。

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足痛の理由

96日(月)

午前中、病院に行く。木曜日に受けた血液検査の結果を聞きに行くためである。

「不思議ですねえ」血液検査の結果を見ながら、先生が首をかしげた。

「数値が高くないんです」

足の痛みの原因だと思われていた○○の値が、ふつうだ、というのである。

「そればかりじゃありません」先生が続けた。

「肝臓の数値も、コレステロールの数値も、いたってふつうです。これでは、健康そのものです」

私は、先生が持っていた、血液検査の結果の紙をのぞきこんだ。

そこには、過去にその病院で検査した結果もならべてある。

見ると、たしかに前回はかったときよりも、すべての数値が下がっていて、正常の範囲内になっているのである。

というより、これまでの数値が異常であった。

これまで家族にも内緒にしていたのだが、もうずっと以前から、血液検査をするたびに、肝臓の数値や、コレステロールの数値が、ビックリするくらい高かったのだ。今までよくそれで生きていたな、というくらいの数値である。

そのことを誰にも言えず、私自身も、最近は見て見ぬふりしていたのだ。

が、今回は、ビックリするくらい数値が下がっている。いったいこれはどういうわけだろう?

前回、この病院で血液検査をしたのが、韓国渡航前である。もう2年以上も前のことだ。

では、韓国留学を境に、健康になったのか?

いや、帰国したあと、5月だったか6月だったかに職場の定期健康診断で血液検査をした。たしかそのときの結果は、やはり数値が高かったと思う。「…思う」と書いたのは、結果がきても、見て見ぬふりをしていたためである。

ということは…?

7月からはじめた、スポーツクラブだ!

スポーツクラブに通って運動していたことは、やはり効果があったのだ!

しかし、ここで新たな謎がうかびあがる。

まずひとつは、私の体重が、スポーツクラブに通って以降、減るどころか、どんどん増えていっているのである。「シェイプアップコース」のトレーニングをしているというのに、どういうわけだろう?それに、体重が増えているにもかかわらず、あらゆる数値が下がっているのは、なぜだろう?

そしてもうひとつ、こちらの方が大きな問題なのだが、すべての数値が正常であるにもかかわらず、左足に激痛が走ったのはなぜだろう?

「炎症を示す数値だけが高いんです」と先生は続けた。

「○○の値が高くないんで、いままでのお薬を出さなくても大丈夫かな、とも思うんですけど、どうしますか?」

「不安なので、薬を出してください」

「わかりました」

数値が下がったのは喜ばしいことだが、かえって足が痛くなった理由が不明になってしまったのが不安である。やはりストレスか?

ここ最近の出来事をふりかえってみよう。韓国からの帰国直後の30日(月)に痛くなったのだから、韓国での出来事がストレスになった可能性は十分に考えられる。

それに加え、93日(金)、4日(土)には、気が重い学会がひかえていた。べつに私が発表するわけではなかったが、なんとなく、学会の雰囲気になじめず、参加するのがイヤだったのである。そのことがストレスとなったのではないだろうか。

4日、学会が終わってから、これまでのストレスをいったんリセットしようと、温泉に泊まった。これはよかった。

そして翌5日(日)、地元にもどり、ささやかな集まりで2時間ほど話をし、終わってから、仲間たちとささやかな打ち上げ。これもよかった。

ということは、ストレスのピークはやはり、韓国から帰国する前後の、約1週間ほどだった、ということになる。

ストレスのピークはいったん去り、足の痛みも感じなくなったのであった。

さて、6日夜。

ポーツクラブの効果がこれで証明されたのだから、スポーツクラブに行こう!と思い立つ。2週間ぶりである。病み上がりなので無理はしたくないのだが、今日行っておかないと、またしばらく行けなくなる。

なぜなら、8日早朝にはまた韓国へ出発しなければならないからである。そのため翌7日には地元を出て、東京に行かなくてはならない。

2時間ほど、汗を流す。

さて今回は、12日までの、仕事の予定がつまった旅である。またストレスをためて帰ってくるのだろうな。やはり左足が痛くなるのだろうか。

どうかこの日記が「左足闘病日記」になりませんように。

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続・面接必勝法

9月1日(水)

韓国から帰国したあと、突然左足が痛くなった。例の病気である。動くのが、かなりしんどい。

昨日、かかりつけの病院に行くが、「今日は予約でいっぱいです。明日来てください」という。

そんなこと言われても、こっちは痛くてたまんないんだけどな。

「どうしてもダメですか」

「ダメですね。午後の予約にキャンセルが出れば別ですけれど」

「じゃあ、せめて薬だけでも出してもらえませんか」

「それも無理ですね。それにいま、先生は手術中ですし」

いま、先生の判断を仰ぐことはできない、ということらしい。

「じゃあ、ほかの病院を紹介してください」

「私の判断ではなんとも…」

たしかに、受付の人では無理なことはわかっていた。しかし状況は、それどころではないのだ。

結局、なしのつぶてだった。

今日の午前中、ようやく診察を受け、薬をもらう。痛み止めの薬をふだんの倍飲んで、職場に向かった。

午後の会議を無事終え、たまっている原稿を書こうかと思っていると、ドアをノックする音がした。

4年生のA君、Kさん、Nさん。いつもの3人である。

私に不味いラムネを味見させた、「ラムネ3兄弟」である。

「実はお願いがあるんです」という。

「こんど、Kさんがはじめて就職の面接試験を受けるんです。それで、面接の練習をお願いできませんか」とA君。

私に、面接担当者の役になってくれ、というのだ。

「いままでボクとNさんが、面接官の役になって練習していたんですけど、学生どうしだとどうも緊張感がなくって…」

そんなA君とNさんは、すでに何度も、面接を受けている経験があった。だから、面接がどんな雰囲気だとか、どんな質問が出るか、といったことは、熟知しているのである。

だが、いかんせん友達どうしの練習では、緊張感に欠ける、というのだ。

そこで、急遽、面接の練習がはじまる。

もちろん、私の研究室は散らかっていてダメなので、他の部屋を使わせていただくことにする。

ドアをノックして入ってくるところからはじまる。本番さながらの練習である。私が面接の主担当、A君が副担当になり、Nさんは書記である。

手もとの「面接カード」をみながら、質問をはじめる。

Kさんは、どんな質問にも、よどみなく答えていた。これまで相当準備していた様子がうかがえる。

だがこれでは練習にならない。想定にない質問をしなければ意味がない。

「『最近関心をもっていること』に○○○とありますね」と私。

「はい」

「では○○○の対策に必要なことを、3つあげてください」

唐突に「3つあげろ」とは、意地悪な質問だが、それでもKさんはよどみなく答えたのである。

そんなこんなで、20分の面接時間が終了。

かなりよくできていた。

面接終了後、他の2人からもKさんにコメントがあった。「一番初めの練習のときよりも、格段によくなった」と、高評価である。

すごいな、と思うのは、あたりまえのことだが、3人が3人とも、真剣にとりくんでいる、ということだ。前向きな姿勢もすばらしい。

書記を担当したNさんは、面接のあいだ、やりとりの様子を克明に書きとめ、それを終わってからKさんに渡していた。今回の練習をふまえて、さらに上をめざすために、である。

短期間で格段によくなっていく、というのも、理由があることなのだ。

うーむ。やはり学んだのは私の方だったな。

やってみて、こちらもいろいろなことがわかった。

「3つあげる」方式は、なかなかいいんじゃないか?

たとえば、「どうしてわが社で働こうと思ったのかを教えてください」(民間)とか、「わが町(県)の魅力はどういうところにあると思いますか」(公務員)といった質問が仮に出たとする。

「3つあります。それは、…」

と、答えを常に3つ用意しておけば、ほとんどどんな質問にも対応できるのではないだろうか。まさか、「4つあげなさい」とか「5つあげなさい」と指定する質問は出ないだろう。

それに、最初に「3つあります」と述べた方が、聞いている方も頭の整理がしやすい。

次に、長所や短所を述べる場合である。どういう点を短所として述べるべきかについては、前に書いた

その、短所を述べる場合、具体的な例をあげたほうがわかりやすいかも知れない。

たとえば、

「自分は慎重すぎる点が短所です」

と言ったとする。だがこれだけでは漠然としていてよくわからない。

「この前も、家のガスの栓を閉めただろうか、とか、家の鍵を閉めただろうか、といったことを、何度も何度も戻って確認したせいで、バスに乗り遅れてしまいました」(これは私の実話)。

こういった実例をあげれば、聞いている方もわかりやすい。それに、この種の実例は、一種の「あるあるネタ」として受け入れやすいのである。

そしてなにより重要なこと。

それは、「場数をふむこと」である。

向上心をもってくり返し練習することだ。

Kさんは、それを証明してくれたのである。

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