やはり雨のソウルより
9月11日(土)
慶州での実質3日間にわたる調査が終わり、ソウルへ向かう。
この間、実にさまざまな細かいトラブルがあった。
それらをひとつひとつ調整していったのが、共同研究チームの幹事である、最年少(26歳)の好青年、Cさんであった。
「どうして(僕ばかりが)こんな目にあわなければならないんでしょう?」
2日目の朝食のときだったか、Cさんはぼそっとつぶやいた。何ごとにも前向きなCさんにはめずらしいつぶやきである。
たしかに、国を越えて共同研究を行うことは、想像を絶する困難がともなう。まだ大学院生のCさんにとって、ふたつの国の事情にはさまれながら、その困難を一手に引き受けるのは、荷が重すぎるのであろう。だが私たちも、彼の人のよさに、つい、甘えてしまうのだ。
私自身も、その国を越えた交流の難しさを、肌身にしみて感じていた。体面を重んじるこの国で、忍耐強くその習慣に寄り添っていくことに、しだいに疲れを感じはじめたのだ。
「どうしてこんな目にあわなければならないんでしょう?」
それは、私の感じたことでもあった。
今回の旅も、夜は連日の会食である。相変わらず私は慣れない。相手の気分がよくなるように話すすべを持っていないのだ。本当に、情けないことだと思う。
その最後の会食である今日、となりの席にいたわが師匠が、私にぼそっとおっしゃった。
「これから、変わっていくさ」
私が不思議そうな顔をしたのを見てか、師匠が続けた。
「あなたをはじめとして、このチームにいる若い人が、どんどん韓国で勉強したい、って言っている。そうやって、お互いが切磋琢磨していけば、韓国と日本との関係も、変わっていくさ」
はたしてそうだろうか。私は楽観的にはなれなかった。師匠が続ける。
「というより、変わっていかなきゃ、ダメなんだよ。いまの学界の状況を考えたら、みんな自分たちのことしか考えていない。そんな学界に、未来なんてない」
それはそのとおりだった。韓国に留学してからというもの、同業者たちのドメスティックな発想に嫌気がさして、「もうあんなところにはもどれないな」と思った。
その意味で、私の韓国留学は、なにものにも代えがたいものであった。
しかし一方で、私自身の力の限界も感じていた。はたして、この私に変える力なんてあるのだろうか?と。そして、この国の人たちとわかりあえる日が来るのだろうか?と。
…と、まあいつものように悲観的になって、会食も終わり、ホテルに着いたのが夜10時。ソウルが雨だったことが、なおさらそうさせたのかもしれない。
部屋に入ると、韓国で使っている携帯電話にメールが来た。
「キョスニム(教授様、私のあだ名)!慶州からソウルへ行かれたんですね?暑いし雨も降って大変だったでしょう。今日は十分に休んで、明日気をつけてお帰りください」
語学院の4級のときのキム先生からだった。この秋に出産予定のキム先生は、ここ数日の私の韓国語日記を読んでくださっていたらしい。
キム先生に電話をかけてみた。
「キョスニム!夜分遅かったんで、電話をしたらまずいかな、と思って携帯メールにしたんですよ」と先生。
「そうでしたか。メールありがとうございます」と私。
「本当は車の運転ができれば、慶州を車でご案内したかったんですけど」
テグから慶州は、車で1時間ほどのところである。
「そうでしたか。…チョムソンデ(慶州の天文台の遺跡)の前に、喫茶店があったでしょう」と私。
「ああ、知ってます。オペラ歌手がいる」
「そうそう、あそこで、コーヒーでも飲みたかったですね」
「今度いらしたら、きっとそうしましょう。私、赤ちゃんが生まれたら、父が車を買ってくれるそうなんです。そうしたら、ナンピョン(夫)と、赤ちゃんをつれて、車でキョスニムご夫妻を慶州にご案内するのが夢なんです」
「そうでしたか」
「だから、赤ちゃんが生まれたら、見に来てくださいね」
「わかりました」
電話を切り、ホテルを出てコンビニに買い物に行った。
雨はあがっていた。
もう少し、この国の人たちととうまくやっていけるかな、と思った。
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