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2010年11月

Back to 80年代

ドキュメント「キョスニムと呼ばないで!」に使用していた音楽がとてもよかったので、曲名が知りたい、と言ったところ、4年生のSさんが、さっそく使用した音楽のリストを作ってきてくれた。

さすが、仕事が早い。

というか、私のちょっとした発言とかが、4年生の間にたちまち広まっているようで、最近、ちょっとコワい。発言には気をつけないといけない。

それはともかく、私がいちばん気に入った曲が、中川翔子の「空色デイズ」だということがわかり、ビックリした。

テレビで見るイメージとは違い、ちゃんと歌っているではないか。声もすばらしい。

まさに「ちゃんと歌っている」という表現がふさわしい。

もっと評価してしかるべき歌手ではないか。

というようなことを、研究室に来たある学生に言ったところ、それがまたすぐにSさんの耳に入り、中川翔子のCDを貸してくれた。

この情報網の速さは、やっぱりちょっとコワい。

それはともかく、その時のSさんの説明を聞いて、納得したことがあった。

「中川翔子は、松田聖子にすごく憧れているんです。なので、80年代のアイドルの歌に対する思い入れが強いんです。楽曲も、80年代を意識したつくりになっているそうです。私は生まれていなかったんで、わからないんですけど」

なるほど。だから、私の心をガッチリとわしづかみにしたのか。

80年代は、私が、中学生、高校生だった時代である。このときに聴いた音楽が、私のその後の音楽人生を決定づけているのだ。

80年代の坂本龍一は神がかっていたし、80年代の渡辺貞夫は、最も脂の乗っていた時期だった。いまもこの2人の曲は、80年代のものしか聴かない。

80年代といえば、最近、ふと思い出し、映画「コミック雑誌なんかいらない!」(1986年)を見かえした。

内田裕也主演、滝田洋二郎監督の映画。私にとっては、「おくりびと」の滝田監督ではなく、「コミック雑誌なんかいらない!」の滝田監督なのである。

この映画では、内田裕也扮する芸能レポーターが、芸能人や有名人に「突撃レポート」をする、という設定で、80年代に起こった事件や有名人が、虚実入り乱れてスクリーンに登場する。

80年代の世相をあますところなく映し出した映画である。

その中に、内田裕也扮する芸能レポーターが、当時一世を風靡していた女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」に取材に行く、というシーンがある。

内田裕也が「おニャン子クラブ」にマイクを向けてインタビューしている姿が、なんともシュールで面白いのだが、あらためて見て、なによりもビックリしたことがあった。

「おニャン子クラブ」が、ビックリするくらい、歌と踊りがヘタなのだ。いや、ヘタというレベルではない。ドベタである。

ま、いちおう「ド素人」をウリにしていたので仕方がないんだろうが、それにしても、あんなレベルでテレビに出るのは失礼ではないか!というくらい、ヘタである。

なんでみんな、あんなのにダマされていたんだろう?

あれでは、「少女時代」に失礼ではないか!

と、怒りがこみ上げてきた。

80年代のアイドルに憧れている中川翔子は、たぶん、80年代のアイドル以上に、歌が上手いし、ちゃんと歌っている。

そういえば、「少女時代」の楽曲も、80年代っぽい。しかも歌や踊りのレベルの高さは言うまでもない。

だから、アジョッシ(おじさん)の心をガッチリとわしづかみにしてやまないのだ。

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新・内弁慶ブルース

11月21日(日)

母方の祖母の四十九日法要のため、母の実家がある町に向かう。

東京の隣県にもかかわらず、鉄道を4回ほど乗り換えて、片道3時間近くの旅である。

人口6000人ほどのこの田舎町は、私が子どものころによく遊びに行った30年ほど前と、ちっとも変わらない。時が止まったような町である。変わったことと言えば、子どものころによく通った本屋がずいぶん前に店をたたみ、いまはシャッターが閉まったままになっていたことである。

(そういえば、本を出したこと、親に言わなかったな…)

2週間ほど前に、自分の本が出たことを、親にいっさい言っていなかった。それどころか、本を書いている、ということすら、言っていなかった。

さすがにそれはまずいな、と思い、出がけに、カバンの中に1冊、自分の本をしのばせていた。

それを、四十九日法要のあとの「精進落とし」の時にでも、集まった親戚一同に披露しようか、とも考えたが、私は親戚の中でも「変わり者」として通っていて、ヘンに話題になるのもイヤだったので、黙っていた。

「精進落とし」が終わり、一同が解散になったあと、母に「これ」と言って、本をぶっきらぼうに渡した。

すると横にいた妻が、カバンの中から何かを出して、母に渡している。

見ると、「キョスニムと呼ばないで!」と書かれたDVDである。

「これ、学生が、学園祭のときの様子をまとめたDVDです」と妻。

いったい、いつの間に…?

今回、妻に見せようと、「キョスニムと呼ばないで!」のDVDを東京に持っていった。

金曜日(19日)の夜、東京の家に着いたときに、

「これ、学生が作ったDVDなんだけど、見る?」

と、DVDを渡そうとすると、「あとで見るから、そこに置いておいて」という。

あんまり見る気がないのかな、と思っていた。

翌日(土曜日)、

「DVD、見た?」

「うん」

「どうだった?」

「よくできてますな」

いつの間にか見ていたようだ。

それと、妻にしては、かなりの褒め言葉である。そもそも、どんなによい映画やドラマでも、褒める前に、いったんけなさないと気がすまないような辛口批評家なのである。

「眠いんで、寝ます」

とこの日、妻は一日中昼寝した。

私は散歩に出かけ、喫茶店で原稿を書いたりしてすごした。

で、このときにいつの間にか妻は、このDVDをコピーして、しかも盤面に「『キョスニムと呼ばないで!』主演○○」とプリントし、さながら海賊版のごとく、DVDをもう1枚、作っていたのである。

「よくできてるので、ぜひ見てみてください」と、妻が母に言う。

いつもの私なら、内弁慶ぶりを発揮してキレるところである。なにしろDVDの中には、学生たちが私の似顔絵を描いた看板の写真が山ほど登場するからである。恥ずかしくて、とてもではないが親に見せられないのだ。

だが、ここまでされてしまうと、もはや何も言うことはできない。

なぜ妻は、このDVDを私の母に渡そうと考えたのだろう?

自分の話をいっさい親にしない、この私を見かねたのだろうか。

そしてこれを見せることが、親孝行になると思ったのだろうか?

これがはたして親孝行になるのか、私にはよくわからない。

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いけすかねえスポーツ

11月20日(土)

左足が回復してきたので、今週の月曜日から、スポーツクラブ通いを再開した。

1カ月半ぶりくらいのスポーツクラブである。

時間が空きすぎてしまったこともあり、入会当初から続けてきた「シェイプアップコース」は、もうやめることにした。

決められたプログラムにしばられるのはもう御免だ。

これからは、自分のペースで続けていくことにしよう。

「痩せよう」などという野心は抱かない方がよい。

人間、身の程以上の野心を抱くと、ロクなことはないのだ。

さて今日、久しぶりに東京の家に戻ると、妻が「Wii Sports」のテニスをやっている。

「やってみたら?」とすすめられた。

ちょっと前までの私ならば、「やらない」と答えただろう。

高校、大学の頃、テニスやスキーをやるヤツは、いけすかねえヤツ、と、相場が決まっていた。おりしも、「バブルの時代」であった。

「夏はテニス、冬はスキー」といったサークルに入っているヤツは、自分とは対極にいる人間だ、と思いこんでいたのである。

だから、テニスとスキーだけは死んでもやるもんか、と、思ったものだ。

だが、つい先日、クルム伊達公子選手についてのドキュメンタリー番組を見て、

「アンタ、すげえよ!」

と、心の底から尊敬してしまった。私とほぼ同い年の人が、こんなに頑張っているんだな、と、感動したのである。

そんなことがあったので、やることにした。

コントローラーをラケットがわりに、テニスの試合が始まる。

1ゲーム、時間にしてわずか2,3分なのだが、終わると、ゼイゼイと息を切らしてしまった。

実際のところ、それほど力まなくてもラケットにボールを当てることはできるようである。現に妻は、実に軽やかにコントローラーを振っているではないか。だが私はつい本気になってしまい、ラケットがわりのコントローラーを思いっきりブンブン振りまわしてしまう。

それで、たった2,3分の試合でも、ゼイゼイと息を切らしてしまうのである。

私が子どものころ、同居していた父方の祖母が大のプロレスファンで、プロレスの番組を1時間見終わったあと、グッタリしていた。たぶん、テレビを見ながら一緒に闘っていたからであろう。私はどうも、その血を受けついだようである。

4試合くらいやったところで、すでに限界である。

夜、寝るころになって、右肩が猛烈に痛くなった。あまりの痛さに、眠れなくなってしまった。コントローラーを振りすぎたせいだ。

「たかがゲームで、なんで右肩が痛くなるの?」と、妻は訝しむ。

ゲームでさえこれだから、本当のテニスをしたら、どうなるのか?

あらためてクルム伊達公子選手を心から尊敬した。

いけすかねえ、と思い込んでいたスポーツは、実はやってみると意外と面白いのではないだろうか。

いちど、本当のテニスに挑戦したいものだ。

実は、「いけすかねえスポーツ」の中で挑戦してみたいものが、もうひとつある。

それは、サーフィンである。

サーフィンって、やってみると絶対に面白いと思うんだよなあ。

だが、はじめるきっかけというか、言い訳がみつからないので、今に至るまで、実現されないままである。

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「キョスニムと呼ばないで!」DVD完成!

11月12日(金)

夜、大学祭で出店したチヂミの店「キョスニムと呼ばないで!」の打ち上げが行われた。

その席で、今回のリーダーである4年生のSさんから、あるものが配られた。

「売り上げが少しあまったので、そのお金で、DVDをつくりました」

2週間ほど前だったか、「大学祭の時に撮った写真があったらください」と、Sさんが研究室にやってきたので、写真のデータをすべてSさんにさしあげた。

ほかにも、準備段階や大学祭当日に撮影した写真を、みんなから集めたらしい。それに音楽をつけたり、テロップを入れたりして、DVDにしたのだという。

なるほど。それで写真を集めていたのか。

よく、結婚披露宴なんかで、結婚する二人の写真に音楽やテロップをつけたりして上映したりすることがあるが、あんな感じに仕上がったものだろうか。

DVDのケースには、「ドキュメント『キョスニムと呼ばないで!』Season.1」というタイトルが書いてあり、その下に「主演」として、私の名前が書いてある。

主演…?

6時半から始まった打ち上げは、途中、場所を変えながら、11時半すぎに終わった。1次会で久々にマッコルリをしこたま飲んだため、店から家までの40分ほどの道のりを、千鳥足で帰る。

家に戻り、もらったDVDを再生した。

画面に映し出される大きな文字。

「すべては…あのブログから始まった…」

ん?「あのブログ」とは、このブログのことだな。

そして本編が始まる。20分ほどの作品である。

チヂミの開発会議からはじまり、看板の制作、さらには、出店前日の「特製ソース」の開発難航の様子などが、写真とテロップで再現される。

そして大学祭での開店。2日間にわたるドキュメント。

最後に、すべてが終わった後の集合写真。

めくるめく思い出の写真が、つぎつぎと画面に映し出される。

そしてそのバックに流れる音楽。恥ずかしながら、知らない曲ばかりだった。だが、どれもすばらしい選曲である。

イタリア映画「ニューシネマパラダイス」(1989年公開)のラストシーンを思い出した。主人公の映画監督・サルヴァトーレは、幼いころからの「友人」の映写技師・アルフレードの形見として、1本のフィルムを受け取る。

アルフレードの葬儀が終わった後、誰もいない映画館でひとりそれを見るサルヴァトーレ。それは、生前、アルフレードがサルヴァトーレのためだけに編集した名画の映像だった。

めくるめく名画のシーンを、万感の思いを込めて見つめるサルヴァトーレ。

世界の映画史上、屈指のラストシーンである。

こんな、映画のラストシーンみたいなことが、本当にあるんだな。

さて、「本編」が終わり、エンディングクレジットが流れた。

まず、「主演」として私の名が。

そして、「エキストラ」として、このチヂミの店にかかわったすべての学生たち22名の名前が、ゆっくりと、下から上へと流れてゆく。

ゆっくりと。まるでひとりひとりの名前を、かみしめるように。

下から上に流れていくひとりひとりの名前を見ながら思った。

「主演」は、私なんかじゃない。私は、ただでくのぼうのように突っ立っている写真が数枚あるだけだ。

本当の主演は、「エキストラ」と書いてある、22名の学生たちである。写真の中の生き生きとした表情が、なによりの証拠である。

私がこの日記で、冗談半分に「キョスニムと呼ばないで!」というタイトルの小説を書いて、ドラマ化、映画化したい、なんていうバカな夢を書いたもんだから、気を遣って、私を「主演」としてくれたのだろう。

つまりは私の見果てぬ夢を、彼らは実現してくれたのである。

私は、そう理解した。

最初で最後の「主演」作品。

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槍は宝蔵院流

このところ、自信を失う日々。「力が足りないなあ」と痛感する日々である。

そんな時は、テレビ時代劇「新選組血風録」を見ることにする。

1965年にNET(現テレビ朝日)で放送された連続テレビ映画。全26話。いまから45年前、私が生まれる前に放映されていた時代劇である。

私は、司馬遼太郎にも、新選組にも、まったく思い入れがない。だが、この時代劇だけは、称賛してやまない。時代劇、いや、人間ドラマの最高傑作である。これをこえる時代劇を、私は知らない。

おそらく、結束信二の、人間をよくとらえた脚本と、それをみごとに演じた舟橋元(近藤勇)、栗塚旭(土方歳三)、島田順司(沖田総司)、左右田一平(斎藤一)など、俳優陣たちによるところが大きい。まるで、幕末の姿をそのまま映し出したかのごとくである。

なかでも好きなエピソードは、第11話「槍は宝蔵院流」。

宝蔵院流の槍の名手である谷三十郎は、自分の息子を局長・近藤勇の養子にして、近藤と姻戚関係をつくる。その威を借りて、新選組のなかでも権勢をほこっていた。いちおう「槍の名手」と言われているが、本当のところはだれも評価できない。

プライドが高く、自信家で、部下に対しても高圧的である。責任を部下に押しつけたりする。典型的な、自己保身タイプの人間である。

つまり、会社でいえば、「厄介な上司」である。

割を食うのは、年下の同僚、斎藤一。黙々と仕事をして、自己主張をしない斎藤に対して、それをいいことに、谷は斎藤にあらゆる責任を押しつける。

まわりもそのことを知っているが、谷のプライドを傷つけるわけにもいかないので、オモテだって谷を批判することはできない。だが、みんなが苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。

あるとき、谷の率いる七番隊と、斎藤の率いる三番隊に、大坂出張が命ぜられる。谷の率いる七番隊だけでは心許ないから、精鋭部隊である斎藤の三番隊が同行させられることになったのである。

斎藤はいわば、谷の尻ぬぐい役となったわけで、どうにも割を食った、という感じである。

気心の知れた同僚(井上源三郎)が見かねて、「ま、一(はじめ)さん、上手くやんなさい」と慰めると、斎藤は、

「ン?…ま、どうってことないよ。仕事だからね」

と、まるで自分に言い聞かせるように答える。

私はこの、「どうってことないよ。仕事だからね」というセリフが大好きで、そのためだけに、この回を何度も見るのだ。

「ま、どうってことないよ。仕事だからね」

この言葉で、たいていのことは乗りきれるような気がする。

うーむ。文字でわかってもらうのは難しい。実際にドラマを見た人でないと通じない話だな。

で、このあとどうなったかというと…。

ネタバレになるので書かない。

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肩の荷がおりた日

先週の疲労のためか、頭と身体がまったく動かない。頭痛もひどい。授業と会議を最低限にこなすことしかできない。

11月8日(月)

「荷が重い原稿」が、ようやく本になった。

大手出版社の大型企画、というふれこみだが、「負のオーラ」をもっている私がかかわっている本である。本当に売れるのかどうかは、疑わしい。

私の業界には、「売れる本」を書く人と、「売れない本」を書く人がいる。私は当然、後者だ。

その私にとって、たぶん、こんな贅沢な企画に参加するのは、最初で最後だろうな、と思う。

どのくらい贅沢かというと、韓国に滞在していた昨年、編集者が「打ち合わせ」と称して韓国へ2度ほど訪れ、しかも「取材」と称してタクシーを借り切ってあちこち観光するくらい、である。

私がこれまで接してきた出版社や編集者では、まずこんなことは絶対にありえない。

かつて、編集者に一度も会うことなく、メールのやりとりだけで1冊の本を完成させたことがある。つまり、私はそもそもそのていどの扱いをされる人間なのだ。編集者がわざわざ訪ねてくることなど、本来はありえない。

その編集者に聞くと、「いま、○○先生の御本も担当しています」と、超有名な作家先生の名前をあげた。なるほど、有名な作家先生はふだんこういう接待を受けているのか、と、妙に感心した。

大型シリーズだけあって、カラー写真をふんだんに使ったり、表紙を有名な漫画家の先生が描いたりと、とにかく、編集部の力の入れようはハンパではない。私が「荷が重い原稿」と書いたのは、そうした分不相応の世界とかかわってしまったからである。

「荷が重い原稿」は、韓国滞在中、韓国での語学の勉強が一区切りついた今年の1月くらいから書き始めた。

C 予定のない日はほぼ毎日、大学に隣接する「カフェC」という喫茶店で、原稿を書き続けた

本ができあがったのも、あの喫茶店のおかげである。

「本ができたら、あの喫茶店に届けに行かないとね」と妻は言う。ま、行ったところで、先方は何のことやらサッパリ分からないだろうが。

だが、私にはやはり特別な思い入れのある喫茶店なのだ。

C_2なにしろ、8月にこの大学に再訪した際、なんとか時間を見つけて訪れたくらいだから。

ありがとう「カフェC」。今度またお礼にうかがいます。

さて、帰国後も、「荷が重い原稿」は続いた。エピソードを書くときりがないので、ここには書かない。

そしてこの日(8日)、発売日ということで、編集者がわざわざ東京からやってきた。

夜、びっくりするくらい高価なステーキをご馳走になる。

うーむ。やはり作家先生は、ふだんからこんな接待を受けているのだろうか。

「校正のプロの人が言ってたんですけどね」と編集者。

「先生の文章は相当読みやすい、書き慣れている人の文章だ、っていうんですよ」

「そうですか」

「ふだんから、文章をかなり書いておられるんでしょうか」

ドキッ!まさか、この2年間、本業の文章そっちのけで、カネにもならず、読者もいないブログを延々と書いてますから、とは言えない。

(そういえば、今日はブログを始めてからちょうど2周年だった)

「いえ…、その…、昔から書くことが好きでしたから…」とごまかす。

「またぜひいっしょにお仕事したいものです」と編集者。

(実は、韓国に留学していたときに書いていた日記を本にしたいんですが…)

という言葉が、のど元まで出かかって、呑み込んだ。さすがに、そんな厚かましいことは言えない。

そりゃそうだ。厚かましかったら、とっくに売れてるよ。

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コインロッカーが封鎖された日

11月5日(金)

実習4日目、最終日。

この4日間、とくにハプニングなどはなかったが、例年とくらべると、予想外の出来事が多かった。

奈良の異常な混雑ぶりには閉口した。

逆に京都は、ふだんよりも落ち着いた感じだった。これからは、奈良よりも京都だな。

そして最終日。

この日、翌日からの大規模な国際会議の関係で、京都駅のコインロッカーがすべて封鎖されてしまった。

そのことを、前日の夜に学生から聞いて知った。

最終日、京都駅に荷物を預けて行動するつもりが、予定が狂ってしまった。

仕方がないので、必要最小限の荷物だけ残し、着がえなどは、最終日の朝に各自が宅配便で家に送ることにした。

この方法はなかなかよい。来年からは、この方法をとることにするか。

しかし、1人だけ、荷物を送らずに、ぜんぶ持ち歩くという学生がいた。2年生のN君である。

しかもよりによって、N君の荷物は、今回の参加者の中でいちばん大きくて重い。

ほとんどの学生が、キャスター付のスーツケースだったのに対し、N君は、全長1メートル以上はあるであろう、ボストンバッグを肩からかけて登場した。しかも、「鉄球でも入っているのか?」というくらい重いのである。

「何が入っているの?」と聞くと、

「とりあえず、適当につめてきたんです。だから、滞在日数以上の服が入っているかも知れません」という。

私以上に旅慣れない人間がいたのだな。

そればかりではない。

それとは別に持っていた紙袋から、黄色のバカでかいクッションが顔を出している。

「それ、何?」と聞くと、

「往復の深夜バスで寝るときに使うクッションです」という。「いちおう、『萩の月』って呼んでます」

なるほど、「萩の月」ねえ。

実習初日の夕方、飛鳥駅前のレンタサイクル屋さんに自転車を返し、預けていた荷物をおばちゃんからひきとるとき、

「そこの『萩の月』もボクのです」

といって、クッションを返してもらっていたが、関西の人に「萩の月」って言っても、たぶん何のことかわからんと思うよ。

そのN君が、荷物を送らずに、持って移動する、という。

「大丈夫かい?」

「大丈夫です。気合いで乗りきります」

だが、最終日の予定もハードだった。まず朝8時45分から二条城を見学し、その後歩いて御所まで移動し、11時から35分ほど御所の中を見学する。そして京都駅に移動して昼食休憩をしたあと、午後2時から東寺をじっくりと見学する、という日程である。

N君は、この日程をなめていたようだ。

すでに二条城を見学し終わった時点で、バテ気味である。

このあと、30分以上かけて御所まで歩き、まったく座ることなく、ひきつづき御所を歩いて見学する。

出発の時点では大丈夫だと思ったのだろうが、荷物というヤツは、時間がたつにつれて重く感じるようになっているのである。御所の広さが体にこたえたことだろう。

「お昼ご飯を食べたら復活しました」

と、昼食後、元気に復活した様子のN君だったが、午後の東寺の見学の序盤戦から、すでにバテ気味で、ベンチに座り込んでいた。

お昼ご飯で一時的に復活したものの、長くはもたなかったらしい。

「二条城から御所に歩いていく途中で、『ああ、やっぱり宅配便で送ればよかった』と後悔しました」と、ベンチに座っていた彼は述懐した。

東寺の見学が終わり、今度は、東寺から京都駅まで、最後の力をふりしぼって歩く。

午後4時前、解散。今回も無事に終了した。

「深夜バスの出発まで、まだだいぶ時間があるよね。これからどうするの?」

私がN君に聞くと、

「もうどこへも行かずに、喫茶店でも見つけてジッとしています」

という。さすがにどこへも行く気力はないのだろう。

「帰りのバスではもう、『萩の月』は必要ないかも知れません」

そうだろう。ぐっすり眠れるだろうよ。

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町歩きの真骨頂

11月4日(木)午後

お昼を食べてから、さあ、どこに行こうか、と思案する。

このまま喫茶店をハシゴ、というのもつまらない。といって、人の多いところに行くのも、こりごりである。

そうだ、近江八幡に行こう、と思い立つ。以前から行ってみたかった場所である。

1 その理由のひとつは、この町が、ウィリアム・メリル・ヴォーリズ(1880ー1964)という米国人の建築家(のちに日本に帰化)が生涯をすごした町であり、そこには、ヴォーリズが設計した建築が数多く残っている、と聞いたからである。

ヴォーリズは、日本の近代建築を数多く手がけた建築家で、近江兄弟社の創設者の1人としてメンソレータムを日本に輸入した実業家としても知られている。

彼が手がけた建築は、韓国・ソウルの梨花女子大学にもおよんでいる。今年の3月に見に行き、とても印象に残った。

2 それに調べてみると、この人じたいがなかなか魅力的である。この人を軸に、日本の近現代史を描いたら、面白いんじゃなかろうか。

なんてことを考えつつ、近江八幡の町を歩くことにした。

近江八幡はまた、近江商人発祥の地でもある。いまも古い町並みが残っている。

Photo_2 つまり、ヴォーリズの建築がところどころに残り、江戸時代の面影を残す町並みも広がっているのである。

町歩きには、もってこいの場所なのだ。

近江八幡で、もう1カ所、行きたい場所があった。それは、「ボーダレス・アートミュージアム NO-MA」である。

Noma 昭和初期の町屋を改装した展示施設。「NO-MA」は、「MoMA (ニューヨーク近代美術館)」をもじったような名前だが、実はこの展示施設になっている建物が、もとは野間家の建物であったことに由来する。

美術館に入ると、真っ赤なベレー帽をかぶったご婦人が、受付の人となにやら話しこんでいた。美術館めぐりをするのが趣味の方らしい。やはり、美術館めぐりには、ベレー帽が必須アイテムなのか。

1階の展示を見たあと、2階にのぼって展示を見ることにする。だが、2階にのぼると、さすがに昭和初期の建物のためか、私が歩くたびに、ミシミシ、ミシミシ、と床が鳴るのである。しかも、私が体重をかけると床がペコッとへこみ、いまにも床が抜けそうである。

こわくなって、鑑賞もそこそこに建物を出た。

そんなこんなで、あっという間に夕方5時。この町を半日、十分に楽しんだ。

これぞ、町歩きの真骨頂である。

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喫茶店と蝶ネクタイ

11月4日(木)午前。

実習3日目。京都、自由行動の日。

この2日間、とにかく体力勝負の団体行動だった。3日目はいつも、自由行動の日としている。

足の痛みがとれず、午前中は喫茶店で過ごすことにする。

京都に行くと、必ず立ち寄る喫茶店がある。

三条通にある有名な喫茶店。

店の中に入ると、奥に円形の大きなカウンターがある。

そのカウンターの中で、2,3名の店員がひたすらコーヒーを入れている。

言ってみれば、厨房の周りに、客が座るカウンターが取り囲んでいるのである。360度を取り囲む客に見られながら、店員たちは黙々とコーヒーを入れている。

コーヒーを入れる店員は、いずれもおじさんだが、そのおじさんはみな、黒い蝶ネクタイに白衣のようなジャケット、といういでたちで、それがなかなかに格好良い。

私が蝶ネクタイに憧れるのも、以前からこの店員さんたちを見ていたからなんだな、ということに、あらためて気づく。

「喫茶店」というものに対する私のイメージも、この喫茶店が基準になって形作られているようだ。

円形のカウンターに座る客たちは、ひとくせもふたくせもあるようなおじさんたち。黙って新聞を読んだり、もの思いにふけったりしている。常連の客も多いようで、店員は、コーヒーといっしょに、その客の愛読する新聞をサッと差し出したりしている。

私はこの雰囲気が好きで、京都に来ると立ち寄るようになった。抵抗なく入れるようになったのは、私がおじさんになった証拠か。

平日の昼間にもかかわらず、円形のカウンターはほぼいっぱいである。平日の日中から500円のコーヒーを飲みにくるこの人たちは、いったいどういう人たちなんだろう、と想像をめぐらせるのも、また楽しい。

私はここで、山本周五郎の短編集『松風の門』(新潮文庫)を読みながら過ごす。

読んでいて、涙が出てきた。やはり山本周五郎はいいね。

なにしろ、「語り口」がすばらしい。そして、登場人物のだれもが魅力的である。

お昼近くなったので、喫茶店を出ることにした。

席を立って、レジに向かいながら思った。

平日の昼間に、山本周五郎の小説を読みながら涙を流している私だって、まわりから見たら十分に不思議な人間ではないか、と。

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せんとくん狂騒曲

11月3日(水)

今年の奈良は、異常である。

Photo この地に都がつくられて1300周年という記念のため、各地でイベントを行っているが、どこへ行っても、人、人、人、で埋め尽くされている。

ふだんであれば並ばずに入れるようなところでも、入場制限がなされ、30分待ち、40分待ち、といった状態になっている。

大型観光バスも、ひっきりなしにやってきて、強引に駐車しようとする。その姿は、見ていて少しエゲツない。

もちろん、「文化の日」に実習の日程を組んでしまったこっちも悪い。

だが、それは今に始まったことではない。毎年のように、文化の日をはさんだこの期間に実習を行っているが、これほど混雑したことは、いまだかつてなかった。

やはり今年は、異常なのだ。

そしてもうひとつ。

101103_0859010002「せんとくん」が街にあふれている。やたら目につくのだ。

たしかに私も、せんとくんにいくばくか心をうばわれた。私が心をうばわれるくらいだから、人気のほどがうかがえよう。

101103_0901010001 そのうち、ガチャピンみたいになっていくんじゃないだろうか。

それはともかく。

例年とは違い、落ちついて見学することができない。周りにいる多くの人にせき立てられている感じがして、少しイヤになる。

この感じ、以前にも味わったことがあるような。

そうだ!学生時代だ。

私の高校、大学時代は、「バブル経済」の全盛期で、たとえば猫も杓子もスキーに行く、なんてことがあった。ちょうど、「私をスキーに連れてって」なんて映画が流行り、ユーミンの「恋人がサンタクロース」が街中に流れていた時代である。

そういえば、冬になると、渋谷駅からスキー場に行く夜行バスが毎日何本も出ていたな。あれは、今でもあるのか?

私も高校時代、クラスの友人に誘われて断りきれず、渋谷から夜行バスで運ばれてスキーに行ったことがある。

だがその時、私は「初心者コース」で大ケガをしてしまい、さんざんなスキー初体験となった。

高校を卒業して大学に入ったばかりのころ、クラスの友人たちがクラス会をかねて「スキーツアー」を企画した。

そのころ、「スキーに行かないヤツは人にあらず」みたいな風潮があったので、ほとんどのクラスメートが行くことになっていた。「行きたくない」なんて言おうものなら、「なんで?ありえない」と言われる勢いである。だから仕方なく出席の返事をした。

だが、どうしてもスキーに行きたくなかったので、思い悩んだあげく、当日の朝、「風邪をひいていけなくなった」と幹事に電話して、結局ドタキャンした。

「せっかくのスキーに行けなくてもったいないよなあ」とみんなから言われた。だが私は、もったいないとは全然思わなかった。そしてそれ以来、いちどもスキーには行っていない。

いま、あの時のクラスの仲間で、今でもスキーに行っている人って、どれくらいいるのだろう?まったくいないのではないだろうか。

あのときの「スキー狂騒曲」は、いったい何だったんだろう?と思う。

興福寺の国宝館の前で30分近く並びながら、その時のことを思い出したのである。

そうだ、これは「バブル」なのだ。「せんとくんバブル」。あるいは、「1300年バブル」。

「せんとくんって、キモかわいい!」とか、「やっぱ阿修羅像でしょ。阿修羅を見ないなんて、ありえない」とか、みんなが競うようにしてせんとくんにむらがったり、阿修羅像を見たりする。でも、数年後はどうなっているのだろう?

せき立てられるように観光客がおしよせ、奈良の地元の人たちが「わが世の春」を謳歌しているのを見て、私がなんとなく違和感を感じていたのは、こういうことなのだ。

人の多さに足の痛みも加わり、昨日と今日の2日間で、すっかり疲れ果ててしまった。

昨日は朝9時から夕方4時まで自転車をひたすらこぎ続け、今日は、朝8時から夕方の6時30分まで、ひたすら歩き続けた。称えられるべきは、ひと言も文句を言わずついてきてくれた11人の学生たちである。ま、「1300年の節目」という歴史的瞬間を目撃したことにめんじて、ゆるしてもらおう。

明日は京都、自由行動の日。人のいないところに行くぞ、と心に誓う。

それと、もうひとつ誓った。

「スキーをやるんなら、逆に今なんじゃないか?そろそろ、封印を解いてスキーをはじめようか」と。

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旅は続く、痛みも続く

11月1日(月)

昨日夜、勤務地に戻り、今日、仕事をして、荷造りもそこそこに、最終の飛行機で伊丹空港へ。そこから奈良に移動して、宿泊。明日から金曜日まで、学生たちを引率しての実習である。

左足の痛みが、ぶり返してきた。

左足が痛くなると、テンションがガタ落ちになる。

まず、愛想が悪くなるのである。今日、私に会った人たちは、ずいぶん愛想が悪い、と感じたに違いない。

それで思い出した。これもまた、映画「男はつらいよ」の話。

晩年、渥美清が病と闘いながら撮影に臨んでいた、という話は有名である。

体調がつねに思わしくなく、撮影が終わると、すぐさま横になるほどであったという。

地方でロケなんかしていると、たまたま見学をしていた一般人が、渥美清に「寅さ~ん!」と手をふる。

だが、渥美清はそれにまったく答えない。

ファン・サービスを全くしないのである。

それは、映画の中の「寅さん」のイメージとは、正反対である。

見かねた関敬六(コメディアンで、渥美清の浅草時代からの親友。映画「男はつらいよ」でも、「ポンシュウ」というテキ屋仲間の役で出演していた)が渥美に言う。

「おい、手ぐらいふってやれよ。天皇陛下だって手ぐらいふるぞ!」

それに対して渥美は力なく答えた。

「いいんだよ、俺はもう…」

もはや渥美は、ファンに向かって手をふる気力すら、なかったのである。

以上は、小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮社)で読んだエピソード。以前に読んだときの記憶をたよりに書いているので、正確かどうかは自信がない。

もちろん、私の左足の痛みは、渥美清ほど重篤ではないけれど、ここ3週間近く、この痛みとつきあっていると、渥美清のその時の気持ちがよくわかる。

それにしても、薬を飲んでもこれほど長く痛みがひかないのは、今までになかったな。足が痛みだしてからはお酒も飲んでいない。やはりストレスだろうか。

週末ごとに仕事を入れるのは、やはり私の能力をはるかに超えているのだ。しかも一昨日は北関東の某県、昨日は東関東の某県、と、それこそ旅回りの一座のように「公演」したのは、肉体的にも精神的にもツラかった。それが同じ演目ならまだしも、まったく異なる客層を相手に、まったく違う公演をしたのだから、その準備を含めると、相当なストレスだったのだろう。

元来、ガツガツ仕事をする人間ではないので、ムリをすると、必ずどこかにしわ寄せが来るのである。

だが、旅はまだ終わらない。明日の朝から、金曜日までの長い旅。

私にとっては毎年の旅だが、学生たちにとっては1度きりの旅である。

愛想だけはよくしよう。

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