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2010年12月

仕事納め

12月28日(火)

2010年、仕事納めの日。

しばらく音沙汰のなかった出版社2社から、「原稿はどうなっていますか?」という催促メールが来た。

仕事納めの日に、「駆け込み催促」をしてきたのだろうか?だったら、慌ただしい仕事納めの日なんかではなくて、もっと早く催促してくれればいいのに…と、自分の原稿が遅いのを棚に上げて、パソコンの画面に向かって文句を言う。

4年生には、「年内に1度、卒論の進捗状況を報告しなさい。できたところまでを、1度は見せに来なさい」と言っておいた。仕事納めの今日が、事実上、年内最後の日である。

なんだ。これではまるで、出版社が私に「原稿の進捗状況を知らせてください」と言ってきたのと同じではないか。思わず苦笑した。

午後、4年生の数名が、卒論の下書きを持ってきたので、読んでいると、廊下をドタドタと走る足音が聞こえ、やがて私の研究室の前で止まった。

「よかった。先生、いらっしゃったんですね」

3年生のSさんである。就職活動で忙しく飛びまわっているSさんが、先日「年内に1度先生のところにうかがいます」とメールをよこしたのだが、なかなか時間が合わなかった。仕事納めの午後、ようやく私をつかまえられたのである。

卒論を読むのを中断し、最近の就職活動の様子についていろいろと話を聞いた。

就職活動は、大人が考える以上に大変で、精神的に追いつめられることもしばしばである。とくにこの不景気の時代には、本人の精神力の強弱とは無関係なところで、問答無用に追いつめられるのである。

「この前、初めて3年生だけで集まって、忘年会をやったんです」とSさん。

「その時、同期の友達といろんなお話しをして、悩んでいるのは私だけじゃない、ということに気づいて、気持ちがとても楽になったんです」

そう。そうなんだ。「悩んでいるのは自分だけじゃない」という、こんな簡単な真理に、人はしばしば気がつかない。

そして、「話をする」ことで、抱えている悩みのいくぶんかは、解消されるのだ。

「年が明けたら、またうかがいます」Sさんは研究室を出た。

ふたたび卒論の下書きに目を通し、ひとりひとりにアドバイスをする。

終わってから携帯電話を見ると、留守電が1件。メールが1件入っていた。

留守電の主は、昨年度の卒業生のT君。メールの主は、6年前の卒業生のH君である。2人とも、実に久しぶりに連絡をくれたのだった。

偶然なことに、その2人は、いまは教師として教壇に立っている。留守電とメールは、その近況報告だった。

卒業年度の違う卒業生が、同じタイミングで、「現在教師をしています」という近況報告をしてくれたのが、なんとも嬉しく、そして不思議な感じだった。

これも、仕事納めの日だったからだろうか。

H君からのメールに、こうあった。

「先生が執筆した本を、帰省先の本屋でたった今購入しました。これからコーヒー片手に読むところです」

たぶん、最も幸せな読まれ方だろうな、と思った。

仕事納めの日。職場は静かだったが、私にとっては、慌ただしく、そして不思議な1日だった。

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ミヤモトさんサミット

いまの私は、高野秀行氏の本に相当かぶれてしまっているな。

「いまの仕事を辞めて、俺も高野さんみたいに、辺境作家になる!」

と、電話で妻に宣言すると、

「もうなってるじゃん」と、あっけなく言われた。

そうだった。私がいま住んでいるところは、辺境といわれてもおかしくない場所だ。

私は居ながらにして、すでに「辺境作家」になっていたのだ!

そんな冗談はともかく。

六本木の放送局のバブル期の深夜番組に関して、もうひとつ思い出したことがある。

いちど引き出しが開くと、いろんなことを思い出すなあ。

話は高校2年のときに遡る。

私が所属していた吹奏楽部に、ビックリするくらいかわいい1年生が入部してきた。ミヤモトさん、という女の子である。

ちょっとしたアイドルよりも、はるかにかわいい子である。

2年生の男子生徒たちは、その話題でもちきりになった。ま、共学の高校で、よくありがちなことだ。

話題にする、といっても、誰も、そのミヤモトさんとつきあおうとか、告白しようとか、そんな勇気はなかった。

かくいう私も、そんなかわいい子と話をする勇気なんぞ、これっぽっちも持ちあわせていない。ハナから試合放棄である。

部活の帰りによく立ち寄る喫茶店では、毎回のように2年生の男子生徒たちによる「ミヤモトさんサミット」が開かれるのである。

そして話が盛りあがると、同期の中でいちばん活動的なSが、「おい、ミヤモトさんの家に電話をかけようぜ!」と提案した。

当時、携帯電話なんてものはなかったから、電話をかけるとすれば、自宅に直接かけるしかない。

男子生徒たち、いや、バカ男子生徒たち数人が、電話ボックスにすし詰めになって、ミヤモトさんの家に電話をかけた。

そこで、どんな会話をしていたのかはわからない。なにしろ私は、バカバカしいので外で待っていたからだ。

そもそも、私みたいなダメ人間がミヤモトさんと話ができるはずはない、と思い込んでいたので、部活の練習中も、ほとんど話をしたことなどなかった。

話らしい話をしたのは、たった1度だけである。

2年生の春休み(正確には、3年生になったばかりの4月)、年に1度の定期演奏会が開かれた。わが吹奏楽部、年に1度の最大イベントである。2年生はこの演奏会を最後に、事実上、引退することになっていた。

演奏会が無事終わり、打ち上げが行われた。もっとも、高校生だから、打ち上げの場所は当然、居酒屋ではなく、ファミレスのようなお店である。

おそくまで打ち上げが行われたあと、私は、同じパートの後輩たちを引きつれて、ラーメンを食べに行くことにした。打ち上げの締めにラーメンなんて、いまと変わらない、オッサンのような発想だが。

するとミヤモトさんが、違うパートに属しているにもかかわらず、「私も連れていってください」という。

そこで、わがパートの後輩数人に加え、ミヤモトさんをも一緒にラーメンを食べに行くことになった。

別にそこで何かを話した、というわけではない。ミヤモトさんは、たんにラーメンを食べたかっただけなのだろう。でも、ほかの男子生徒連中がこのことを知ったらうらやましがるだろうなと、少し誇らしく思った。

ま、これはこれでいかにも高2の男子が陥りそうな勘違いなのだが。

さて、そのミヤモトさんは、高2になってから、お父さんの仕事の関係で、福岡に引っ越すことになった。

ミヤモトさんが吹奏楽部にいたのは、わずか1年間。同期の男子生徒たちは、わずか1年間の夢を見たのであった。

それからというもの、私たちはすでに高校3年になって受験勉強が忙しくなり、ミヤモトさんのことなど、次第に忘れていった。

ところが、その後、驚愕の事実を聞くことになる。

同期のマイケル(マイケル・ジャクソンに雰囲気が似ていたので、こう呼ばれていた)が、なんとミヤモトさんに会うために、夜行列車に乗って福岡まで行った、というのである。

わが仲間の中で、いちばん硬派でシャイ、といわれていたあのマイケルが、よりによって、同期の連中のなかでいちばん大胆な行動に出たのである!

ミヤモトさんは、ひとりの硬派でシャイな高校3年生を、そこまで変えてしまったのか!まさに「魔性の女」である。

高校卒業後、みんなが大学に入学すると、同期の男子連中が吉祥寺の居酒屋に集まって飲むことになった。

そのとき、ミヤモトさんの話題が出た。

「あのときのマイケルの行動には、びっくりしたよなあ」

「まさか夜行列車で会いに行くとはなあ」

「…おい…」思いつめたように、Sが口を開いた。

「ミヤモトさんに、電話してみないか」

「電話…って、いま、福岡だぞ」

「大丈夫。俺、電話番号、知ってるんだ」

まったく高校の時と変わらないではないか。私は呆れて、勝手にやれ、という感じだった。

店を出た連中は、電話ボックスを見つけると、例によってすし詰めのように何人も入り、言い出しっぺのSが電話をかけ始めた。

呆れた私は、外で待っていた。

なにやらみんなで会話をしていたが、どんな会話をしたのかは、よくわからない。

その後も、大学時代を通じて、年に1度か2度、吉祥寺の居酒屋に集まって飲んだが、次第に、ミヤモトさんの話題はしなくなっていった。

さて、卒業後の進路が決まった大学4年のとき、みんなで集まろう、ということになった。例によって、吉祥寺の居酒屋である。

そこでまた、衝撃的な事実を聞く。

またしてもSである。

「お前ら、ミヤモトさん、いま何やってるか知ってるか?」

またミヤモトさんの話かよ!

Sが続ける。

「俺、この前テレビ見て、ビックリした。お前ら、○○、ていう深夜番組、知ってるだろ?」

「知ってる。だって俺、その番組、出たことあるもん」私が言った。その番組は、私がかつて出演したことのある、深夜の生放送番組だった。

「たまたまその番組見てたらさあ、…ちょうどその時、『めざせ青年実業家!大学生対抗、ビジネス新企画プレゼン大会』みたいなことやってたのよ」

いかにもバブル期にふさわしいような企画である。

「あ、それ、俺も見た!」今度はAが、その話に乗ってきた。SとAは、顔を見合わせた。

「そこに○○大の3年生のヤツが出ていて、そいつがまあ、軽薄な感じのヤツだったんだが…」

みんなが固唾をのんでSの話を聞き始めた。

「そいつの傍らに、そいつの『彼女』ってことで、ミヤモトさんが出ていたんだよ!」

「そうそう、出てたんだ!」Aが合いの手を入れる。

「ちょっと待って!ミヤモトさん、東京に戻ってたの?」誰かが聞いた。

「そうなんだよ。東京の大学にいたんだよ」

Sは続ける。

「で、ここからが重要なんだが、…ミヤモトさん、高校時代の面影なんて、全然なかったぞ!」

「そうそう、俺もビックリした」Aがまた合いの手を入れた。

「すっかり変わり果てていたんだ」

一同が沈黙する。

「それ、本当にミヤモトさんだったのか?」私が半信半疑に聞くと、

「間違いない。同姓同名だったし、年齢も同じだし…。あとで調べてみると、ミヤモトさん、たしかにその大学に入学していたんだ」とS。

Sだけでなく、Aまでもが、ミヤモトさんの変貌ぶりを強調していたので、Sの思い込み、ということではないのだろう。

あんなにかわいかったミヤモトさんが、なぜ変貌してしまったのか?久しぶりに「ミヤモトさんサミット」がはじまった。

「きっと、その軽薄な大学生とつきあうようになって、ケバくなっちゃったに違いない」

「そうだそうだ!」「あんな男とつきあうからだ!」

あいかわらず、どうでもいい会話が続いた。

いずれにしても、これでようやく、連中は「ミヤモトさん幻想」の呪縛から解放されたのだ。

それからというもの、「ミヤモトさんサミット」も、開かれることはなくなった。

それよりなにより、その連中で集まって飲む、といったことも、行われなくなった。

いまはみな、いいオッサンになっている。

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バブル深夜番組青春記

12月26日(日)

高野秀行『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)読了。

うーむ。あいかわらず面白いなあ。だが、読めば読むほど、同じ時代に「青春」をすごした人間として、自分の大学生時代は、なんてつまらなかったのだろう、と思う。

自分にも、高野氏に近い体験はなかったかなあ、と必死に思い出してみる。

近い体験はさしあたり思い浮かばなかったが、大学1年の時に、1度だけ、テレビに出たことを思い出した。

バブル全盛期は、どの放送局も深夜番組に力を入れていた。六本木にある放送局では、金曜深夜に、識者が夜通し討論するという政治討論番組が大当たりして、平日の月~木の深夜も、似たような生放送の討論番組のようなものをはじめた。といっても、政治や社会についての討論番組ではなく、特定のテーマに関するこだわりの人びと(マニア)が集まって、その人たちのこだわりを語り合う、という形式の番組である。

月~木の帯番組だったが、曜日ごとに司会者が違っていて、のちに県知事をつとめることになる男性芸人とか、のちに「1番じゃなきゃダメなんですか?」という迷言を残す大臣になる女性タレントとか、のちに北海道の牧場経営者になる男性歌手とか、いま考えてみると、「上昇志向の強い」「野心のカタマリ」のような3流芸能人たちが日替わりで司会をつとめていた。たぶんみんな、この深夜の番組から這い上がろうとしていた連中だったんだと思う。

そんな番組から、とあるテーマについて語り合うという企画があるというので、私に出演依頼が来たのである。

当時、私はそのテーマに関して雑文を書いて雑誌に発表していたりしていたので、それがどこかで目にとまったのだろう。現役の大学生、というのも、もの珍しかったに違いない。

こんな経験はめったにないだろう、と思い、その番組に出ることにした。

電話をくれたAD(アシスタントディレクター)と、事前に、喫茶店で打ち合わせをした。ADは、私よりやや年上、といった感じの若いあんちゃんだった。

こんな大学生にもわざわざ事前に打ち合わせをするくらいだから、番組を作るのも大変だろうな、と思った。

「大変ですねえ」と私。

「ええ、もう3日ほど徹夜しています」そのADのあんちゃんはげっそりした顔で答えた。

「私のほかに、どんな人が出るんですか?」

「フリーの動物評論家の先生と、自衛隊の元幕僚長の方と、…」

キワモノばかりである。私もそう思われているんだな、と思った。

しかし不思議なもので、そのADのあんちゃんと打ち合わせをしているうちに、なんとなく同志のような気がしてきた。向こうもそう思っていただろう。なにしろ、ほかの出演者(いずれも素人だが)はオッサンばかりだが、私だけが、唯一の若手で、年齢も近かったからである。

そして本番当日。

夜11時半ごろ、放送局に入った。本番は、深夜1時ごろからだったと思う。

放送局の会議室みたいなところに集められた。動物評論家とか、自衛隊の元幕僚長とか、変わった肩書きをもつその道のマニアが4,5名くらいがいただろうか。私以外は、みんなかなりのオッサンである。そしてしばらくして、この日のチーフディレクターが現れた。

チーフディレクターが番組の段取りみたいなことを説明した。その間、ADのあんちゃんは黙って弁当を運んだりしている。

なるほど、放送局は完全なタテ社会なんだな、と思った。

深夜に弁当を食わされたあと、スタジオに入った。

円い大きなテーブルに各自が着席すると、ほどなくして、司会者の3人がスタジオに入った。

このとき、私ははじめて司会者のタレントたちを目にしたのである。

(なあんだ。司会者のタレントとはまったく打ち合わせというものがないんだな。ぶっつけ本番なんだな)と思った。

その時の司会者は、当時有名だった航空評論家の男性、そして、のちに北海道で牧場を経営するようになる男性歌手、それとバブル期を象徴するようなモデル出身の女性タレントだった。

番組がはじまった。

どんな内容だったが、いまとなってはほとんど記憶がないが、ひとりひとり、そのテーマに関して自分の思いを語ったり、司会者の質問に答えたり、というものであったかと思う。私もそのテーマに関して、カメラの前で話さなければならなかった。動物評論家や、自衛隊の元幕僚長といったキワモノたちが、滔々と自説を開陳した。私の順番は、最後だった。

どの出演者も変わった人ばかりだった。みんなオッサンだから、与えられた時間を無視して、言いたいことを言う。その中で、いちばん年長だったおじいさんは、自分の番の時に、言いたいことを言ったあげく、それが終わると、本番中に居眠りをしてしまった。そりゃそうだ。深夜1時過ぎなんていったら、ふだんなら寝ている時間なのだ。

「本番中に寝ないでくださいよ~。まったく、自分が話しているときにはあんなに元気だったのに~」と、司会者の1人が持ち前の東北弁でツッコミを入れた。

そして深夜3時半ごろ、いよいよ私の番である。カメラの前で話すなんて、とてもできない、と思っていたが、語っているうちに、しだいに当初の緊張も忘れていった。

どのくらい経っただろうか。ADのあんちゃんが、スケッチブックのような画用紙にマジックで大きく字を書いて、私に見せた。

「よくわかりました。ありがとうございます」

そろそろ終わってください、という意味だな、と思い、すぐに話をまとめた。

それから、どのようにして番組が終わったのか、覚えていない。

番組が終わったときは、すでに早朝という時間になっていた。

帰り際、玄関でADのあんちゃんからタクシーチケットをもらった。

チケットを渡しながら、ADのあんちゃんが私に言った。

「こんど、うちの番組でUFOをメインにした企画があるんですけど、UFOとかって、興味ありますか?」

「ないこともないですけど…」

「もしよかったら、ぜひまた出てください。また一緒にお仕事したいものです」

「はあ」

私は煮え切らない返事をして、タクシーに乗り込んだ。

六本木からタクシーに乗り、約1時間ほどかけて自宅に戻った。外はすっかり明るかった。

翌日、大学に行くと、同じクラス(当時、第2外国語に応じてクラス編成がなされていた)の仲間たちの態度が急に変わった。番組を見ていた人がいたようだ。それまで、私はクラスでもまったく目立たない存在だったが、急に、なれなれしく話しかけてきたのである。

それも、ふだん私が「いけすかねえ」と感じているヤツに限って、親しげに話しかけてきた。

そのとき、「テレビなんて、くだらねえや」と思い、テレビに出たことを、ひどく後悔した。

それ以来、テレビに出たことはない。

さてその後、バブル崩壊とともに、その深夜の帯番組はなくなってしまった。だがその放送局は、UFOとか超常現象といった番組を今度はゴールデンタイムであつかうようになり、それに出ていた素人たちが、タレント並みのあつかいを受けるようになっていった。

いま、思い返す。

もし、あの時、「UFOとかに興味がありますか?」とADのあんちゃんに言われて、ウソでも「すごく興味があります。実はUFOマニアなんです」と、強烈に自分をアピールしていたら、その後の私は、どうなっていただろうか、と。

それと、あのADのあんちゃんは、あれから出世したのだろうか?

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無冠の帝王

12月24日(金)

クリスマスなんて言ったって、どうってことはない。

そういえば、昨年のクリスマスは、韓国で大学教授にビックリするくらいの量のアワビ料理をご馳走になった。思えばあれが、人生で最高に贅沢なクリスマスだったかも知れない。

今年のクリスマスは、妻と吉祥寺をあてもなくぶらぶら歩きながら、夕方に、吉祥寺でもいちばん有名な焼鳥屋に入る。

学生時代、吉祥寺でよく飲んだものだが、この有名な焼鳥屋には入ったことがなかった。いつか入ってみたい、と思っていた。

おりしも今日はクリスマス。クリスマスといえばとり肉、ということで、生まれてはじめて、念願の焼鳥屋に入った。

といっても、おしゃれとは真逆な、おじさんが立ち飲みのついでに焼き鳥をつまむような安い店である。言ってみれば、庶民的な雰囲気がウリの店であった。

焼き鳥を焼く煙に燻されながら、ハイボールを片手に焼き鳥をつまんだ。

そのあと、喫茶店に立ち寄り、かたちばかりのケーキを食べ、クリスマスイブは終了した。

12月25日(土)

夜、ケーブルテレビのあるチャンネルで、「2010 KBS芸能大賞」という番組を生放送する、というので、見ることにした。

KBSとは、韓国の国営放送である。毎年年末になると、KBS、MBC、SBSといういわゆる韓国の三大ネット局は、「芸能大賞」というプログラムを放送する。

これは、その年に、その放送局で放送された作品や、活躍した芸能人を、アメリカのアカデミー賞のような形式で表彰する、という番組である。日本でいえば、レコード大賞みたいなものか。ただ、レコード大賞は、音楽に関するものだけだが、この場合は、放送された番組や、出演した芸能人を対象にした賞である。「バラエティ部門」と「ドラマ部門」があり、この日、私が見たのは「バラエティ部門」である。「ドラマ部門」は、大晦日に生放送されるという。

放送局にとっては、4時間にわたる生放送で、多くの有名芸能人が集まるのだから、一種のお祭り、といってよい。ただその一方で、一種のセレモニーなので、番組じたいは、そんなに面白い内容ではない。

だが、生放送だ、ということと、生放送であるがゆえに字幕が出ない、ということで、なんとなく韓国にいる雰囲気が味わえるのではないか、と思い、後半の2時間くらいを見ることにしたのである。

韓国のバラエティ番組は、日本のバラエティ番組以上に、出演するタレントの数が限られている。だから、実はどの放送局でも、出ている顔ぶれはほとんど一緒である。それどころか、ここ数年、メインのMCの顔ぶれはほとんど変わらない。だから、別にだれが大賞を取っても驚くようなものではなく、数人の有名MCの間で大賞を回しているな、という印象がぬぐえない。だからあまり面白くないのである。今年も、昨年と顔ぶれがほとんど変わらない。

最高の賞は「大賞」(1人)なのだが、そのほかにも、「最優秀賞」(男女各1人)「優秀賞」(男女各1人)、「視聴者が選ぶ番組賞」、「特別賞」「チームワーク賞」など、じつに多様な賞がある。予定調和のように、ほぼバランスよく、賞が与えられる。「チームワーク賞」なんて、言ってみれば「がんばったで賞」とか「アットホーム賞」みたいなもんだ。

だいたい、放送局がいちばん力を入れている(金をかけている)番組が賞をとるのはあたりまえのことで、マッチポンプというか、自作自演というか…。

それにしても、放送局が、自らの番組に賞を与える、なんて手前味噌な番組は、日本ではほとんど考えれない。むかし流行った、NG大賞くらいなものか。どうして韓国では、放送局がこぞって、こういう企画をするのだろう?

「韓国の芸能界では、放送局の力が強いからだよ」とは、妻の推理。

日本の芸能界は、芸能プロダクションの力が圧倒的に強い。芸能プロダクションの力関係によって、出演が決まることはよく知られている。だが韓国では、芸能プロダクションよりも、放送局の力が強いのだ。だから、放送局は芸能人をかかえ込もうとするのだ、という。

「なるほど、放送局が芸能人に賞を与えることによって、芸能人に忠誠を誓わせる、てわけね」こんなところにも、日韓の芸能文化の違いがかいま見られて面白い。それにしても、本当に賞を与えるのが好きなんだな。

各賞には、アカデミー賞のように、各賞ごとに男女各1名の有名芸能人がプレゼンターとなるが、大賞などの重要な賞のさいには、そのプレゼンターが、芸能人ではなく、放送局の社長や本部長、といったオジサンになる。しかもその横には、きれいで華やかな女性芸能人を必ずつけるのである。あれは絶対、社長の趣味だな。ま、放送局が与える賞なのだから、文句を言う筋合いではないが。

合間合間に行われるコントも、はっきり言ってあまり面白くない。言葉が正確にわかれば面白いのかな?と妻に聞くと、

「いや、言葉が正確に聞き取れてもつまらないと思うよ」という。相変わらずの毒舌である。

コントの水準は、日本の方がはるかに高いのではないか、と思う。韓国ではシットコムが面白いのにもかかわらず、不思議である。

そんな中で、今回見ていて、唯一面白い、と思ったのは、ギャグマン(韓国ではコメディアンのことを、こう言う)のパク・ミョンスである。

韓国の「バラエティ番組のMC勢力図」はいたって簡単である。現在、カン・ホドンとユ・ジェソクという対照的な個性を持つ2人のMCが韓国のバラエティ番組の2トップで、韓国のテレビ界を席巻している。それに女性MCのパク・ミソンを加えると「ビッグ3」となる(あくまでも私の見立て)。

パク・ミョンスは、その次くらいの位置にいるギャグマンである。

ところがこのパク・ミョンス、賞にノミネートされるたびに、賞を逃す。

大賞をめざそうとすると、カン・ホドンやユ・ジェソクに阻まれ、その下の「最優秀賞」をねらおうとすると、下から上がってくる人気急上昇のタレントに持っていかれる。昨年、今年と、そんな光景をよく見かけるのだ。

賞の発表の直前、「今度こそは俺の番だ」と言わんばかりに、用意していた目薬を差して泣く準備をする。だが、お約束のように、プレゼンターは別のタレントの名前を読み上げる。その瞬間、恨めしそうな顔をする。そして隣にいるユ・ジェソクが「まあまあ落ち着け」とばかりに、パク・ミョンスをなだめるのである。カメラは、パク・ミョンスの一連の行動を、合間合間にいいタイミングで映し出す。

もはや完全な「お約束」だが、この「お約束」がたまらなく可笑しい。パク・ミョンスというキャラクターが、その可笑しさを後押ししている。

こうなったら、彼には賞をとってほしくないな。ずーっと、このキャラクターを維持してほしい、と思う。

彼は、「賞をもらえない」というところに、賞に値する可笑しさが存在するのである。それは同時に、「賞を与える」という価値観へのアンチテーゼでもあるのだ。私はそれを誇るべきことだと思う。

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のろわれたテーマ?

12月23日(木)

4年生たちはいま、卒論がいよいよ大詰めである。

クリスマスイブの前日の今日、しかも祝日であるにもかかわらず、大学に来てパソコンと格闘している。

数日前の夕方だったか、4年生のNさんが研究室にやってきた。

「卒論に必要な雑誌論文を探しているんですけど、見つからないんです」という。

聞くと、有名な雑誌に乗っている論文である。

「その雑誌なら、大学図書館にあるでしょう」

「たしかに雑誌のバックナンバーはあるんですが、わたしが欲しい論文の号だけが、なぜかないんです」

「たしか、前にも同じようなことがあったよね」

「ええ」

Nさんは以前にも、今回の論文とは別の雑誌論文を探しているとかで、私の研究室にやってきた。その論文が載っている雑誌を探してみると、たしかにその雑誌は大学にバックナンバーがあるのだが、やはりその時も、その論文が載っている号だけなかったのである。

「不思議なこともあるもんだ」と私。

「いったい、どういうことなんでしょう?」Nさんがいぶかしむ。

自分がほしい論文が載っている雑誌の号だけがたてつづけに見つからないことに、Nさんは不審の念を抱いたようだった。

「これは何かの陰謀でしょうか?」とNさん。その仰天の発想に、私は笑いそうになるのをこらえた。

「たしかに、Nさんが論文を借りだそうとするたびに、事前に何者かによってその論文の載っている雑誌が消されているようだね」私は、Nさんの「陰謀説」に話を合わせることにした。

「どうしてですか?私の取り組んでいるテーマに問題があるんでしょうか?」

「うーむ。その可能性はあるな。国家の暗部に触れるテーマだからね」

実際、そんなテーマでは全然ないのだが、私が大げさに言うと、Nさんは、

「ひえー!やめてくださいよ!怖すぎます」

と、すっかりビビってしまった。

ちょっとおどかしすぎたかな、と反省。しかし、こんな子供だましのウソで怖がるNさんもNさんである。

ところで、Nさんの心配は杞憂に終わった。

その翌日、大学の近くにある県立図書館で、探していた論文の載った雑誌が、いとも簡単に手に入ったからである。

だから、決して「のろわれたテーマ」なんかではなかったのだ。

そんな陰謀説のことを忘れたかのように、今日もNさんは休日を返上して、学生研究室で卒論と格闘していたのであった。

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弥生ちゃん

マツコ・デラックスを見るたびに思い出す。

弥生ちゃんのことを…。

弥生ちゃんは、私の高校時代の、女性の体育の先生である。フルネームは知らない。私たち生徒はみんな、弥生ちゃん、と呼んでいた。

当時、都立高校には教員の人事異動の制度がなく、その高校にいたければ、何年でもいられたのだという。おそらく弥生ちゃんは、もう何十年も、この高校にいたのだと思う。

一説によれば、大学を卒業してすぐ、この高校の体育教師となり、以来ずっと、この高校にいるのだという。

そしていつの頃からか、弥生ちゃん、と呼ばれるようになった。私たちも、先輩たちがそう呼んでいるのにならって、弥生ちゃん、と呼んでいた。

弥生ちゃんは、体育の先生である。それも、「創作ダンス」の授業を担当していた。

私が高校生の頃、女子生徒には「創作ダンス」の授業があった。男子生徒にはそんな授業はなく、「柔道」の授業があった。だから、私たち男子生徒は、弥生ちゃんの授業を受けたことはない。ただ、女子生徒はもれなく、弥生ちゃんの授業を受けていた。

弥生ちゃんは、すがたかたちが、いまのマツコ・デラックスにうり二つである。もっとも、当時はマツコ・デラックスなんていなかったから、スターウォーズのジャバ・ザ・ハットにたとえてみたり、あるいは、髪の毛をなぜか金髪に染めていたから、当時流行していた大柄の女子プロレスラーにもたとえてみたりした。

だから、たとえ授業を受けていなくとも、とても目立っていたのである。

それだけではない。弥生ちゃんは、とてもこわい先生だった。

たとえば、学校の廊下を走ったりしているのを見ると、

「ちょっと!あんたたちぃ!廊下を走るのをやめなさい!」

と、すごい形相で怒鳴る。その怒鳴り声は、校舎の1階から3階まで響き渡った。

その声を聞いた私たちは、「おお、こええ。またはじまった」と顔を見合わせた。

「ちょっと!あんたたちぃ!」

これが、弥生ちゃんの口癖だった。というか、男子生徒たちは、この怒鳴り声しか聞いたことがない。

男子生徒たちには、不思議だった。

いったい、あのジャバ・ザ・ハットみたいな体型で、どうやって「創作ダンス」を教えているのだろう?と。

とても、ダンスをやるような体型ではなかったのである。

といって、恥ずかしくて女子生徒に聞くこともできない。

そこで、こんな都市伝説が生まれた。

弥生ちゃんは、もともとは、とても痩せていて、ダンスの上手な美人だった。ところが、あるとき、好きだった男性にフラれたことがきっかけで、急に体型が変化し、いまのような体型になってしまったのだ、と。

こんな噂がまことしやかにささやかれた。だが、その真相を確かめた者はいない。

「ちょっと!あんたたちぃ!」

いったい何人の生徒たちが、怒鳴られたことだろう。私も一度、すごい形相で怒鳴られた覚えがある。うっかり、廊下を走っているとき、弥生ちゃんに出くわしてしまったからだ。

さて、私が高校2年のときだったか、3年のときだったか、記憶が定かではない。

弥生ちゃんが、定年退職で、高校を去ることになった。

「もうそんな年齢だったのか…」私たちは意外だった。なにしろ、「ちょっと!あんたたちぃ!」の声が、ビックリするくらい元気だったからである。

3学期の修了式の最後に、司会の先生が言った。

「今年度で退職する先生に、最後のご挨拶をいただきます」

定年退職する先生たちが、体育館の壇上に上がって、生徒からひとりひとり花束を受け取り、全校生徒の前で、最後のあいさつをされた。

そして最後に、弥生ちゃんのあいさつ。

しばらく沈黙が続いたあと、弥生ちゃんは突然、その場で泣き崩れた。

花束を持ったまま、わんわん泣きはじめたのである。

それはふだんの怒った顔ではない。子どものようにくっしゃくしゃになった泣き顔である。

それを見ていた女子生徒たちも、泣きはじめた。

いや、たぶん、その場にいた人たち全員が泣いたのではないかと思う。

弥生ちゃんの最後のあいさつは、言葉にならないまま、終わった。

私には、弥生ちゃんが、まるでなにかから解放されたようにみえた。

修了式が終わり、弥生ちゃんが壇上から下りると、女子生徒たちがさけんだ。

「弥生ちゃーん!」

すると、弥生ちゃんの顔から、これまで見たことのないような笑みがこぼれた。

ほどなくして、弥生ちゃんのまわりに、たくさんの女子生徒たちが群がって、楽しそうにおしゃべりをはじめた。

弥生ちゃんも、とても楽しそうにおしゃべりしていた。

その後、私は弥生ちゃんにお目にかかることはなかった。

いまから、25年も前の話である。

マツコ・デラックスを見るたびに思い出す。

弥生ちゃんのことを…。

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やっぱり、というニュース

基本的に、このブログではニュースはとりあげないことにしているが、こんなニュースを見かけたので、以下に紹介する。

http://news.nifty.com/cs/world/chinadetail/rcdc-20101220000/1.htm

「韓国なんか大嫌い!」と言い残して帰国する中国人留学生たち-韓国メディア (Record China)12月20日(月)0時58分

2010年12月15日、韓国紙・朝鮮日報は「『韓国なんか大嫌い』と言い残して離れていく中国人留学生」と題した記事を掲載した。反韓感情を抱いたまま帰国する中国人留学生が増加している現状を報じた。18日付で環球時報が伝えた。

記事によると、韓国の大学で学ぶ中国人留学生は年々増加している。その一方で、語学力不足で授業についていけず、「韓国は嫌いだ」と言い残して学業半ばで帰国する中国人留学生も増えているという。

成均館大学中文系の教授が1200人の中国人留学生を対象に実施した調査結果によると、彼らの反韓感情は大学3年と大学4年の頃にピークを迎えている。「韓国の大学は中国人留学生を募集することには熱心だが、入学後はまったく無関心になる」と同教授。韓国の4年制大学で、1000人以上の中国人留学生を抱える大学は6校あるが、中国人留学生のための学習指導計画を立てている大学はほとんどないという。

「成績も良くないのに奨学金を手に入れている」との理由で中国人留学生に反感を抱いている韓国人学生も少なくないという。「韓国人学生は私たちを貧乏人だと決めつけているから嫌い」と話すのは中国人留学生のAさん。中国の裕福な家庭で育ったAさんは「借家に住んでいる韓国人学生がどうして私たちをさげすんだ目で見るのか理解できない」と不満げに話した。(翻訳・編集/本郷)

この話題については、1年ほど前に、すでにこの日記で以下の2回にわたって指摘しているので、参照されたし(といっても、書いたのは1年ほど前だが、公開したのはつい最近である)。

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文化系スポ根ドラマ

私は、気に入った映画やドラマを何度も見る。

気に入った場所にも、何度も行きたい、と思う。

だが妻は、そんな私の行動を「考えられへん」と言う。「限られた人生なのだから、ひとつでも新しい映画やドラマを見た方がいいじゃないの」。

何度も同じ映画を見る、というのは、人生においてもったいない、というのだ。「守りに入っている」「守旧的」とも非難される。

これは自分だけなのだろうか?不安になったので、忘年会の折に同僚に聞いてみると、「同じものを何度も見るなんて、たしかに考えられませんねえ。でもたしかに、家族の中に、同じものをくり返し見る者もいて、なんてもったいないんだろうと思います」という。

なるほど、どこでも同じ問題を抱えているようだ。いずれにせよ、「同じものをくり返し見る」というのが、私だけではないことに安心した。

だが、問題はそれだけではない。

映画やドラマに対する趣味が、私と妻とではまるで違うのだ。

妻は、「どんでん返しに次ぐどんでん返し」的な、先の展開が読めないような物語が好きなのだが、それに対して私は、「ダメな人たちが、さまざまな問題にぶちあたりながら、それを少しずつ克服していき、最終的には絆を強めていく、という群像劇」が好きなのだ。

いままで見た日本のドラマでベスト3をあげろと言われれば、

「高原へいらっしゃい」(山田太一脚本、田宮次郎主演、1976年)

「寂しいのはお前だけじゃない」(市川森一脚本、西田敏行主演、1982年)

「王様のレストラン」(三谷幸喜脚本、松本幸四郎主演、1995年)

うーむ。どれも同じ傾向のドラマだな。じつに偏っている。

20100106_1919909 そんな私がいま見ているドラマが、「ドラゴン桜 韓国版」(原題「コンブエ シン」(「勉強の神」))である。

韓国滞在中、リアルタイムでさんざん見たドラマなのだが、たぶん、これまで見た韓国ドラマの中で、いちばん好きなドラマであり、日本でDVDが出たのを知って、さっそく購入し、くり返し見ているのである。

「考えられへん」と妻が思う理由のひとつは、同じドラマをくり返し見る、という行為が、まったく理解できない、という点。

もうひとつの理由は、「ほかにもいろいろ面白いドラマがあるのに、なぜこのドラマを面白いと思うのか?」という点。

だが、このドラマは、私が好きな、、「ダメな人たちが、さまざまな問題にぶちあたりながら、それを少しずつ克服していき、最終的には絆を強めていく、という群像劇」というタイプに、ピッタリとあてはまるのだ。

しかも、このドラマのテーマは「受験勉強」である。

運動が苦手だった私は、野球やサッカーをテーマにした「スポ根もの」は、あまり得意ではない。

私が高校時代にやってきたことといえば、「吹奏楽」と「受験勉強」。だから、これらを題材にした話ならば、あるていど感情移入できるのである。いってみれば、「文化系スポ根もの」である。

しかも、このドラマは、登場人物の演技がどれもすばらしい。なかでも、ハン・スジョン先生役を演じたペ・ドゥナの演技は、秀逸である。

いま、「好きな女優はだれですか?」と聞かれれば、日本の女優などには目もくれず、迷わずペ・ドゥナと答えるだろう。

なかでも印象的なのは、第13話で、ペ・ドゥナ演じるハン先生が自分のカメラで、生徒5人の入学願書用の写真を撮るというシーン。

生徒の顔写真を自分のカメラで撮る、というだけの、なんでもないシーンなのであるが、しかしハン先生は、ファインダーごしにのぞいたひとりひとりの生徒の顔を見ながら、感極まって涙を流してしまう。それまでみんなで一緒に頑張ってきた思い出が、よみがえってきたのである。

あんな芝居ができる日本の女優を、私は知らない。まさに、神がかった演技である。

私は、最近このドラマを見ては、泣いている。嗚咽、といった方が近いかも知れない。

そんな、キム・スロ(日本のドラマでは阿部寛が演じた、本ドラマの主役)と同世代のアジョッシ(おじさん)である。

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「バブル期大学生」の文体

12月18日(土)

「面白いから読んだ方がいいよ」

と、先日東京に戻ったときに妻が貸してくれた本。

高野秀行『異国トーキョー漂流記』(集英社文庫)

失礼ながら、初めて聞く著者名である。

妻がすすめる本に、基本的にハズレはないのだが、初めて聞く著者名であることと、いま、韓国ドラマ「コンブエ シン(「勉強の神」、「ドラゴン桜}の韓国版ドラマ)」のDVDを毎日見ているので、この本は後回しになっていた。

そのことを妻に白状すると、

「考えられへん」

と怒られた。関西出身にもかかわらず関西弁が喋れない妻は、こういうときだけ関西弁になる。いまの学生言葉で言えば、

「マジ、ないわ~」

といったところであろうか。

なぜなら、「コンブエ シン」は、韓国滞在中、リアルタイムで見ていたドラマだったからである。韓国で見たドラマを、日本に戻ってDVDでくり返し見る、ということが、妻にとっては「考えられへん」ことなのである(これについては別の機会に書く)。

そんなのを見るくらいだったら、貸した本を読め、ということなのだろう。

これ以上引きのばすといよいよ怒られそうなので、今日の午前中、この本を読みはじめることにした。

読みながら、何度も吹き出しそうになった。以下、少しネタバレ。

1966年生まれの著者は、ほぼ私と同世代といってよい。大学時代、「探検部」というサークルに所属していた彼は、アフリカのコンゴという国に、「ムベンベ」という謎の怪獣を探しに行く、という壮大な計画を立てる。

…これだけでも、変わった人だなあ、と思うのだが、彼はこの計画を実行するためにまず、コンゴの公用語であるフランス語を学ぶことにするのだ。

さらには、コンゴとザイールの共通語であるリンガラ語を学んだり、アマゾン探検のためにスペイン語を学んだりと、日本にいていろいろな言語を習得するのである。

探検だけではない。学生時代、フランス文学科にいた彼は、コンゴ人が書いたフランス語の大河小説を日本語に翻訳し、それを「フランス文学」だと言いはって卒論を書き、見事卒業する、というはなれわざも見せる(のちにこれが日本で出版され話題になる)。うーむ。牧歌的な時代だったなあ。

その過程で知り合った、さまざまな国の人たちとの交流を描いたのが、この本である。海外での「異文化体験」ではなく、東京を舞台にした「異文化体験」である。外国人を通してみると、東京は「トーキョー」という異国の地になるのだ。

何なんだろう、このパワーは?それでいて、まったく肩ひじの張らない文章。読みながら思わずニヤリとして、最後にはいろいろなことを考えさせられる、という、笑いとペーソスが入りまじった構成。

これこそが、私が韓国語学院日記でめざしていた文体ではないか。というか、この世代特有の文体なのか?

もっとも、私の韓国留学日記などは、足もとにも及ばない。そもそも、経験のレベルが、まったく違うのだ。

同じ「バブル全盛期」を大学生として生きたのに、この違いは何なんだろう。

私の20代は、何とつまらなく、無為に過ごしてきたことか…。

ただ、いまのこのご時世で、こんな破天荒な大学生活を行うことは、まず無理なのではあるまいか。いまは、将来に対する漠然とした不安がある。だが、私たちの頃は、「ま、なんとかなるだろう」と思えたからこそ、「アフリカのコンゴに怪獣を探しに行く」などというバカバカしい計画を本気で立てることができたのかも知れない。そんな、バブル全盛期の大学時代のことを思い出させる。

著者略歴のところを見てみると、「2006年『ワセダ三畳青春記』で第1回酒飲み書店員大賞受賞」とある。

…「酒飲み書店員大賞」って、何?

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コメント王

12月13日(月)

先週、韓国語による語学院日記が完結した!

昨年8月から、韓国語のサイトで韓国語日記をつけはじめたのだが、韓国語の勉強が一段落した昨年11月からは、「このブログで書いてきた、1級1班から4級3班までの語学院日記を、すべて韓国語に翻訳しよう」という壮大な計画を思いたち、まるで写経をするがごとく、このブログで書いてきた「韓国留学日記」を、ひとつひとつ翻訳してきた。

約1年かかり、ようやくそれが完結したのである。

これまで韓国語で書いてきた日記は、350篇以上にのぼる。もっとも、その中には、現在の出来事を書いた日記なども含まれている。現在や過去を行ったり来たりする日記を書いていたのである。

何度も、やめてしまおうと思ったが、続ける原動力となったのが、語学院の先生からいただくコメントだった。日記には、ブログと同様、コメントを書く欄がある。

とくに、3級の時のナム先生には、数えきれないほどのコメントをいただいた。

ナム先生は、月に2,3度、日記をまとめ読みしてくれて、各日記にできるだけコメントをつけてくれるのである。

「まるで小説を読んでいるようです」(「マ・クン君からの手紙」)

「『缶コーヒーの実弾』って、おもしろい表現ですね。どうしてこんな表現が思い浮かぶんです?」(「缶コーヒーの連鎖」)

「ハハハ、大福もちを食べて『禁断の味』だなんて!なんとおもしろい日記でしょう」(「ニセのあんパン」)

「うわー、本当に本当に本当に本当に本当に本当にすごいです!!!これを読みながら、驚いて笑っちゃいました」(「名前が覚えられない! 」)

「このとき、番組を見ながらノートに一生懸命メモしていらっしゃいましたね」(「雨の日は、ビデオ鑑賞」)

「まさか、そんなことがあったなんて…。でもチャン・チンをあたたかく見てやってください」(「あなたならどうする? 」で、チャン・チンさんが私を53歳だと思っていたことに対して)

「映画の一場面みたいですね」(「傘がない」)

「ハハハ、リュ・ジュインティンの話がとっても笑わせますね」(「3級6班の人びと」)→「リュ・ジュインティンさんは、遠い国のお姫様みたいな雰囲気の人でしたね。他の人と感性が違っていて(つまり、天然、という意味)」(私の返答コメント)→「遠い国のお姫様…ピッタリの表現です!」(ナム先生の返答コメント)

「最後の一文がとってもいいですね。私の心も温まるようです」(「あったまる」)

「まさか、私の頭に浮かんだ、あの学生ですか…?」(「カンニングはダメよ」)

「『ワン・ウィンチョ君と顔を見合わせた』というところが、すべてを物語ってますね。まさに『ああ、料理教室!』です」(「ああ、料理教室!」)

「私もワン・ウィンチョ君のことは残念だったなあと思います。あんなに一生懸命韓国語を勉強したのに、期末試験を受けないで…。説得を試みたのですが、ダメでした。いまは、そこで一生懸命頑張っていると信じるしかないですね」(「留学生模様」)

「私もこの問いにすぐには答えられないですね。多くの悩みを投げかけてくれる文章です」(「幸せってなんだっけ?」)

「私、本当にこの広告が画期的だと思いました。いま3級の副教材には、この『モリエ ポム(頭の春)』の広告が例文として載っているんですよ。いま見ても相変わらず面白い!」(「テレビ通販番組を作ろう」)

「ル・タオ君は4級の時も私のクラスでした。あんなに気をもんで進級したのに、4級の授業にはほとんど来なかったんですよ。たぶん大学入学が決まったからでしょう」(「試験狂騒曲」)→「本当に、あの時の心配はなんだったんでしょうね」(私の返答コメント)

「とうとう3級6班日記が終わってしまったんですね。キョスニムのおかげで、大切な思い出がよみがえりました。本当にありがとうございました」(「期末考査(3級) 」)

「記憶の引きだしが開く」という表現がとてもいいですね」(「思い出の引きだし」)

これらは、コメントのごく一部。

(めんどくさいからやめちゃおうかな)と思った矢先に、決まって、ちょうどいいタイミングでナム先生からコメントが入る。だから、やめるにやめられなくなってしまったのである。

ナム先生に次いでコメントをいただいたのが、2級の時の「大柄の先生」ことクォン先生。ごく一部を紹介する。

「本当はあの時、私もお腹が空いていたのです。でもチャン・イチャウのためを思って私が犠牲になったのです」(「ニセのあんパン」)

「韓国語の先生もすごいかもしれないけれど、韓国語の先生たちを読者にしているキョスニムもすごいと思いますよ。大変だったらゆっくりと進めてくださいね」(「先生も、大変なのだ」)

「とても面白い(?)料理教室だったでしょう。猛暑の中で礼儀作法を習ったことはいまでも忘れません」(「ああ、料理教室!」)

「ときどきワン・ウィンチョ君のようなケースがあって残念ですね。でも、どんな場であっても、そこで一生懸命勉強して、素敵な人間になってくれるだろうと思うことにしています」(「留学生模様」)

「結婚の条件、2つめと3つめなら自信があります!」(「結婚の条件」)

クォン先生は、コメントに「食いしん坊キャラ」がときどき出る。あと、その日の大邱の天気を教えてくれたり、「身体に気をつけてくださいね」と、身体を気づかってくれるコメントも多かった。

最後は、4級の時のキム先生(「よくモノをなくす先生」)。最近、赤ちゃんを出産したため、そちらにかかりきりになり、ほとんど読んでいないようだ。おそらくそれどころではないのだろう。これまた、ごく一部を紹介する。

「私が犯人かもしれません」(「私のあだ名は「キョスニム」」キョスニム(私)を表現するのに、お腹が出ているというポーズをする先生がいる、ということに対して)

「ときどきお腹の中赤ちゃんがいることを忘れて飛び跳ねたりしています」(「よくモノをなくす先生」)

「プハハハ!最近の私の生活の中で一番笑った話です」(「アイスアメリカーノ・妄想篇」)

私の韓国語日記は、いちおう、韓国人の先生たちに伝わっていたようだ。

ふだん語学院で、読むと頭がクラクラするような中国人留学生たちの作文をたくさん読まなければならないのに、この上、義務でもなんでもない、外国人(つまり私)の長いだけのおぼつかない文章を読んで、励ましのコメントを定期的にくれるのは、ありがたい。

人間、ちょっとした励ましが大きな原動力となるのだということを、あらためて思い知らされる。

さて、これからの韓国語日記は、どうしようか。

4級3班の最後の日のことを書いた日記(「さよなら4級3班!さよなら語学院!」)のコメント欄に、まず2人の先生がコメントを寄せてくれた。

「ついに語学院日記が終わりましたね。この間、本当に面白く読ませてもらいました。あとはこれを本にして出版する仕事が残ってますね」(ナム先生)

「もう、このオモシロ日記の連載が終わってしまうのですね。単行本として刊行されるのを首を長くして待ちます」(キム先生)

そこには、「もうこのあきれるほど長くて、韓国語のおぼつかない日記を読まなくて済むのだ!」という解放感というか、安堵感、といったものが感じられた。

語学院日記がひとまず終わってホッとしているのは、書き手の方ではなく、読者の方だったのかもしれない。

私が、「まだ後日談(裏話)が残ってますけど…」と、返答のコメントを書くと、

「後日談、た、楽しみにしています。寒いので風邪に気をつけてください」(クォン先生)

「わ、私も裏話を期待しています…」(ナム先生)

やっと終わってホッとしているのに、この上、まだ読ませるのかよ!

…と思っていらっしゃるんじゃなかろうか、と、例によってまた被害妄想が広がったのであった。

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モギ裁判

12月10日(金)

6年前の卒業生たちによる同窓会に、ちょっと遅れていった理由は、うちの職場の学生が年に1度主催している「モギ裁判」の公演を見にいったからである。

授業に出ている学生がこれにかかわっている、ということを聞いて、はじめて、モギ裁判公演を見にいこうと思ったのである。

1時間くらいで終わるのかな、と思っていたら、なんと、途中10分間の休憩をはさんでの堂々の2時間公演。ある架空の事件をテーマにした裁判劇なのだが、思った以上に、演劇的要素が強いものなんだな、と感心した。

見ながら、(私だったら、こういう演出をするのになあ)と思う場面もしばしばあったが、それはそれ。全部を学生たちが手がけている、ということに意味があるのだろう。

だからキャストも、20歳そこそこの学生たちが、20代から70代までの登場人物をすべて演じることになっているのだ。

休憩時間に、同僚Yさんが言う。

「35歳、って設定で、あのしわだらけの顔はないですよねえ」

35歳という設定で演じていた学生の顔は、たしかにしわの多いメイクだった。

「そうですよねえ」と私。「あれでは全国の35歳に失礼です」

「それに、あの70歳の被告人」と、今度は同僚Kさん。

「うちの母と同じくらいの年齢ですけど、あんなヨロヨロした歩き方はしません!もっとかくしゃくとしています」

たしかにそうだ。

いったい、20歳そこそこの目に、私たちは、どう映っているのだろう?

「ひょっとして」と私。

「彼ら学生たちの目には、私たちもあんなふうに映っているのかも知れません」

ガーン!3人が3人ともショックを受けた。

くどいようだが、私は福山雅治と同い年なんだぞ!

さて、公演が終わり、舞台上の小さなスクリーンに、エンドクレジットが流れる。

この公演にかかわったすべての人たちの名前と顔、さらには、この公演の準備風景を写した写真が、次々とスクリーンに映しだされる。バックには、小田和正の歌が流れていた。

そこに写っている学生たちは、さっきの老け顔のメイクとは似ても似つかない、屈託のない20歳の学生の顔だった。ふつうの大学生の顔だった。

なんか、「キョスニムと呼ばないで!」のDVDを思い出しちゃったなあ。おそらく、これもムービーメーカーで作ったんだろうな。

私は公演終了後のアンケートに、「メイクが老けすぎのように思います」「エンドクレジットがよかったです」と書いた。

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卒業生たち

12月10日(金)

6年前に卒業した卒業生が、5人集まって、ささやかな同窓会を開いた。私を含めた3人の教員にも声をかけてくれた。

今回の同窓会を企画したI君、長野から、車で6時間かけてこのためだけに来てくれたYさんをはじめ、5人。みんな泊まりがけで来てくれた。

ほかにも同期が何人もいるのだが、都合で来られなかったのは残念。

この卒業生たちは、2年前、私が韓国に留学する直前、私のために壮行会を開いてくれた。

もっとも、私をネタにして、みんなが各地から集まって同窓会を開いた、ということなのだが。

それだけ、結束が固い学年だったのだ。

卒業して6年。言いたいことが言える関係になった。

この瞬間ばかりは、この稼業についてよかった、と思う。

ありがとう。またいつか、集まって語りましょう。

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人生はトゥルーマンショー

アメリカ映画は、あまり好きではないので、ほとんど見ない。

でも、ときどき、破格におもしろい映画に出会うことがあるので、やはり侮れない。

最近の映画でもっとも気に入ったのは、妻にすすめられて見たジョニー・デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」。といっても、「最近の映画」とはいえないな。つまりそれだけ、アメリカ映画を見ていないのだ。

以前見た映画で、もう一度見てみたいな、と最近むしょうに思うのが、ジム・キャリー主演の「トゥルーマンショー」。

1998年当時、劇場で見て、けっこう衝撃を受けた。

ときどき、「いまの私の状況は、ひょっとしてトゥルーマンショーなのではないか?」と思う瞬間がある。

まあ、言ってみれば、韓国滞在中の出来事をブログに逐一書き続けたことも、軽めの「トゥルマンショー」と言えなくもない。

人生とは、大仕掛けの舞台のようなもの。

近いうちに、この映画を見なおしてみよう。

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歌とおじさん

私と同世代のAMラジオDJが、最近、こんなことを言っていた。

「この年(厄年前後)になると、もう流行を追いかけようとは思わない。よく、おっさんとかで、最新の歌なんかをカラオケで歌ったりしている人がいるけど、『ふつうの生活していたら、その歌、ぜったい耳に入ってこないこないよね。わざわざ自分から掘っていったんでしょう(「掘る」という表現が、このDJらしくてなかなか面白い)』って思っちゃう。カラオケのためにわざわざ新しい歌を覚えたりするおっさんって、なんかキモチワルイ」

そういえば、むかしの勤め先にもいたな。

50歳くらいの同僚が、カラオケで福山雅治氏の「桜坂」を歌っていた。

福山雅治氏(以下、敬称略)は、私と同い年(!)という理由で、応援することにはしているが、歌をどっぷり聴こう、とまでは思わない。

というか、福山雅治の歌を、ふだんから積極的に聴いているおっさんなんて、いないんじゃないだろうか?

あくまでも「カラオケ仕様」の歌だ、という思いが、どこかにある。

たとえば、フラワーカンパニーズの歌に心を揺さぶられるおっさんはいても、福山雅治の歌に心を揺さぶられるおっさんは、あんまりいないんじゃなかろうか。

これは私の偏見か?

とにかく、カラオケで福山雅治の「桜坂」あたりを歌うおっさんは、「ふだんから福山雅治を聞いている人」ではなく、「カラオケのために聞いている人」という気がしてならないのである。

誤解のないようにいうが、これは福山雅治が悪いのではなく、福山雅治の歌を歌うおっさんが悪いのである。福山雅治が歌ってこその「桜坂」である。

何が言いたいかというと、おっさんになったら、ふつうに生活していて入ってこないような歌を、無理に掘らない方がよい、ということ。

ちなみに、私のiPodには、韓国の女性歌手グループ「少女時代」のアルバムや、中川翔子のアルバムが入っている。

これは、ふつうに生活していて入ってきたのだから仕方がない(苦笑)。

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アジアで一番こわい町

ラジオのニュースで、韓国に修学旅行に行く予定だったある高校が、例の「砲撃戦」騒ぎで修学旅行を中止した、と伝えていた。

ここまでは、よくある話である。

だがこの高校は、昨年、その生徒たち(当時高校1年)を連れて、中国に修学旅行に行く計画を立てていた。

ところが、「新種のインフルエンザ」騒ぎで、中国修学旅行は中止になった。

そこで、次の年(つまり今年)、2年生になった生徒たちを連れて、中国に修学旅行に行く計画を立てた。

ところが、例の「領土問題」騒ぎが起こり、再び、中国修学旅行は中止になった。

そこで急遽、韓国への修学旅行を計画した。

ところが、こんどは韓国で「砲撃戦」騒ぎが起こり、またまた中止になってしまったのだ。

楽しみにしていた生徒たちは、ガックリとしたという。

うーむ。高校側の気持ちもわからなくはない。

だが、高校側がそのていどの認識なら、最初から海外なんかに連れて行かなければいいのに、と思う。

マスコミの過剰なあおりに踊らされすぎてはいないか?

たぶん、いま中国や韓国に行っても、まったく問題ないように思う。危ないところにさえ近づかないようにすれば。

私の1年間の韓国滞在経験からいって、今すぐ何かが起こる、などということは考えられない。ふつうにしていれば、何の問題もないように思う。

むしろ、日本の方が危険なのではないか?

そう思ったのが先週の金曜日(12月3日)の夜。

東京に戻り、サムギョプサル(豚の三枚肉の焼き肉)が食べたいと思い、夜7時半、妻と新宿・歌舞伎町で店を探すことにした。韓国料理屋がこの辺りに集中しているからである。

久しぶりに歌舞伎町を歩いて驚いた。

こわい!とってもこわいのだ!

道を歩いていると、ふつうの居酒屋の店員が、3メートルおきくらいに客引きをしている。

北京のワンフーチンや韓国のソウルやベトナムのホーチミンやタイのバンコクの繁華街にもこれほどの客引きがいなかったよなあ、と思いながら歩いていると、前に黒い服を着たいかにもな感じの男の人が歩いている。

すると、客引きの店員が、「どうも、おはようございます」と、その男の人に向かって深々とお辞儀をした。

だ、誰なんだ!?この人は?それに夜なのに「おはようございます」って…。

「前の人、誰だろう?この辺を見回っている警察かな」と私。

「そうは見えなかったけど」と妻。「そうじゃない方の人じゃない?」聞こえたら困るので言葉を選んだ。たしかに、警察に向かって「おはようございます」とは言わない。

私が学生時代の歌舞伎町は、こんなんじゃなかったような気がする。終電がなくなって、朝まで安居酒屋「北の家族」にいても大丈夫だったぞ。

とにかく早く店を決めなければ、身ぐるみをはがされそうな勢いである(あくまでもイメージ)。とりあえず、サムギョプサルの店をみつけて飛びこんだ。

その店じたいは、とても優良な店なのだが、韓国のサムギョプサル屋に比べて、かなり値段が高い。

物価の違いもあるので、仕方がないことであるとは重々承知している。だが、韓国では、2人で2000円も出せば腹一杯食べられるサムギョプサルが、新宿で6600円とは、ちょっと腑に落ちない。サムギョプサルとは本来、安いお金で腹一杯食べられる、学生のための焼き肉なのだ。

現象的にみれば、これはぼったくりではないか。歌舞伎町という場所が、なおさらそんな思いにさせる。

私にとって、アジアで一番こわい町は、歌舞伎町である。

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週末を乗りきる

12月4日(土)

先週に引き続き、新幹線を乗り継いで7時間かかる場所。

年に一度、全国から同業者が200人以上集まって、土、日に会合が開かれる。言ってみれば、年に一度の「同業者祭り」である。

もともと大人数の会合が苦手な上に、それが同業者の集まりということになると、なおさら憂鬱な気分になる。

1年で最も「自分はこの世界に向いてないなあ」、「才能がないなあ」、「力が足りないなあ」、「全国にこんなにたくさんの同業者がいるんなら、俺、いらねえんじゃないの?」と感じる2日間。

とくに初日の夜の、立食形式の懇親会では何を話していいのかわからなくなる。

だから、この2日間、どうやってやり過ごそうか、と、そればかりを考えてしまうのだ。

ところが不幸中の幸いというか、今年の会合には韓国での指導教授を始め、韓国でお世話になった先生方が、来賓としてこの会合に参加されることになった。

夜の立食形式の懇親会で、久々に指導教授の先生やそのほかの先生方とお話することができた。

幸い、同業者のなかで韓国語を話せる人間がほとんどいないので、私はもっぱら、韓国からいらした先生方とお話したり、日本の同業者との間で簡単な通訳をしたりしていたら、あっという間に懇親会が終わった。

同じ会合に参加していた妻も、やはり韓国からのお客さんとひたすら話をしている。

いつもなら、気まずいので、誰と話すわけでもなくバイキング形式の料理をひたすら食べたり、ビールを飲み続けたりするのだが、今年は、ほとんど何も食べていない。

「私なんか、会費が5000円なのに、懇親会で唐揚げ1個しか食べてないよ。1個5000円の唐揚げって、どんだけ高い唐揚げなんだ?」と妻。話に夢中なあまり、やはり何も食べられなかったようだ。

私も妻も、人づきあいが苦手な方だが、それでもまだ妻の方がはるかにマシである。とくに、韓国語を話せるようになってからは、積極的に人とコミュニケーションをとるようになったのではないか、と思う。

私の方は相変わらず社交性ゼロだが、今回だけは韓国からのお客さんとお話できたことで、いつものいたたまれない気持ちを、いくらか紛らわすことができた。

韓国語を勉強してよかった、と、つくづく思った。

懇親会が終わり、韓国のある先生が私をからかった。

「韓国にいらした頃は、韓国語ができないからあまり喋らないのかな、と思っていたんですが、日本でも無口なんですねえ。ひょっとして日本語を忘れてしまったんですか?」

懇親会のあいだ、同業者とほとんど話をしていなかったことをよく観察しておられた。もともと社交性のない人間であることが、とうとうバレてしまったようだ。

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誇るべき連携

12月1日(水)

「とあるテーマで講演会を開かなければならないんですが、講師をしていただける先生で心当たりの方はいませんか?」

「とあるテーマ」とは、職場環境、就学環境を守るための根幹にかかわるテーマである。担当委員である同僚が私に聞いてきたのは、以前このテーマで、私が講師の先生を見つけてきた、という経緯からである。

おひとり、講師としてお呼びしたい先生がいた。そのテーマに関しては超有名な、東京の大学のK先生である。

お忙しい方だし、うちの職場に縁もゆかりもない方なので、来ていただけないかも知れないな、と思いながらも、ダメもとで提案してみた。

すると、関係する同僚たちの連携プレーによって、K先生を講師としてお招きすることが実現したのである。

大げさなことをいえば、私にとってこれは小さな奇跡であった。

講演会前日の火曜日(11月30日)の夜、K先生を交えて懇親会を開くことになった。私は担当委員でもなんでもなかったのだが、いちおう提案者、ということで、ご厚意に甘えて参加させていただくことになった。

なにしろ、本で読んだことしかなく、面識のない先生なので、どのような話をしてよいのかわからない。そこで、お会いしたら、そのテーマに関して、先生にこんなことを聞いてみようとか、こんな相談をしてみよう、などということを、あらかじめ考えて、懇親会にのぞむことにした。

しかし、それは良い意味で裏切られた。

懇親会は、じつに和やかに進んだ。講演会のテーマとなるような深刻な話題はいっさい出ず、楽しいよもやま話が続いた。

K先生は、ものすごい立派な肩書きを持っていながら、全然偉ぶっておられない。こちらが出す、どんな話題にも、寄り添うように対応される。

翌日(講演会当日)、昼食もご一緒したが、その時もまた同様であった。

お聞きすると、お仕事で全国を飛びまわっておられるという。この穏やかな先生の、どこにそのパワーがひめられているのだろう、と思わずにはいられないくらい、穏やかな先生である。

夕方、講演会がはじまった。

とてもいい講演会だった。

だが、残念だったのは、講演会に出席した同僚がかなり少なかったことである。

「K先生のお話を聞かないのだとしたら、じゃあいったい誰の話に耳を傾けるのか?!」

もはや打つ手はない。

結局、何も変わらないのだ。

私が描いている理想とは、ほど遠い。

もちろん私も、そんなに簡単に理想に近づくとは、思っていない。

たびたびで恐縮だが、黒澤明監督の映画「生きる」を思い出した。

以下は、完全なネタバレ。

余命幾ばくもない市役所職員・渡辺勘治(志村喬)は、最後に自分のなすべきこととして、町に小さな公園を作ることを決意する。

今まで「無気力」「縦割り行政」「たらい回し」の権化ともいえる市役所では、公園ひとつ作ることすらままならなかったのだが、渡辺は最後の力をふりしぼって、市役所中を駈けずりまわり、公園を完成させ、絶命する。

通夜の席で、渡辺勘治が公園づくりにかけた想いが次々に明らかになり、参列していた市役所の同僚たちが、渡辺のとった行動に感動する。

「僕アやる!断じてやる!」

「そうだ!渡辺さんのあとに続け!」

「よし、僕も生まれ変わったつもりで」「やるぞ!」

「頑張るぞ!」

渡辺のとった行動を称賛する同僚たち。「無気力」「縦割り」「たらい回し」との訣別を決意する同僚たち。

しかし、である。

明くる日から、何ごともなかったかのように、市役所ではまた、「無気力」「縦割り」「たらい回し」がくり返される。

映画はその現実を映し出す。

これが現実である、と思い知らされる場面である。

だが、映画はここで終わらない。

通夜の席で、たったひとり、心の底から渡辺の行動に心を揺さぶられた同僚がいた。

この同僚だけは、いとも簡単に市役所の日常に戻ってしまったわけではなかった。

渡辺のとった行動を、渡辺が作った公園で遊ぶ子供たちを見ながら、噛みしめるのであった。

映画はここで終わる。

渡辺のとった行動は、たしかに、ひとりの人間の心を揺さぶったのだ。

そのことをこそ、誇るべきなのではないか。

志をともにする同僚たちの連携により、この講演会が実現できたことを、誇ろう。

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復調のきざし

11月30日(火)

この2カ月ほど心がなんとなくどんよりしていたが、少しずつ持ち直しつつあるようだ。

研究室に、学生をはじめ、いろいろな人が来て、いろいろな話を聞いたり話したりするおかげであろうか。

先週の授業のあと、研究室の扉のところで、3年生の2人と話しこんでいると、4年生のSさんが、

「世代交代ですね」

と言いながら、研究室に入ってきた。

そういうSさんは、今年の4月、5月、6月と、頻繁に研究室にやってきては、就活の状況を報告した。就活は、想像以上に精神的に辛い部分があり、話すことで、いくらか気が晴れたのだろう。

Sさんだけではない。ほかの4年生も、逐一報告に来ていた。

これからは、いまの3年生が、そうなっていくのだろう。Sさんの言った「世代交代」とは、そういう意味である。

といっても、私は、もっぱら聞き役で、たいしたアドバイスができるわけでもない。だが、もっともらしいことを学生に向かって言っているうちに、なんだか自分も励まされているようになるから不思議である。

毎度毎度、芸人のたとえを引き合いに出して恐縮だが…。

むかし、上岡龍太郎が、ダウンタウンの松本に、「弟子はとった方がええ」とアドバイスしていたのを思い出した。

「自分の芸を弟子に継がせようとか、そういう意味で言っているのではない」という。

「弟子に言った言葉は、全部自分にはね返ってくる。だから、弟子に語りかけることが、実は自分に語りかけることになるのだ」

たしか、そんなことを言っていたと思う。

なるほど、それで私は、学生と話していて、励まされているのかも知れない。

先週末(27日、28日)、勤務地から新幹線を乗り継いで7時間かかる場所まで、共同研究のメンバーで調査に行ったときのことである。

日曜日の夕方、調査が終わり、バスと鉄道を乗り継いで、京都駅にむかう。そこから私は、新幹線を乗り継いで勤務地まで帰ることになっていた。

新幹線の指定席をとっていたのだが、わが師匠が「東京駅まで一緒に帰ろう」とおっしゃったので、自由席に変更してご一緒することになった。調査がうまくいったので、ビールと駅弁を買い込んで、2人でささやかな打ち上げである。

考えてみれば、もう10年以上、師匠と調査に行くと、そんなふうに道中でいろいろな話をする。いや、正確にいえば、私はもっぱら聞き役で、ほとんどは、師匠がお話になるのを「はあ」「そうですね」と、あいづちをうつだけなのであるが。

不思議でならないのは、座持ちが悪く、気の利いた返しもできないような愚鈍な私を見はなすことなく、10年以上もそうやって私にいろいろとお話しになる、ということである。

ひょっとして師匠は、私に向かって話すことで、ご自身に言い聞かせているのではないだろうか。

自分自身の立ち位置を確認するために。

そんな気がしてきた。

若い頃には、気がつかなかったことである。

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