バブル深夜番組青春記
12月26日(日)
高野秀行『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)読了。
うーむ。あいかわらず面白いなあ。だが、読めば読むほど、同じ時代に「青春」をすごした人間として、自分の大学生時代は、なんてつまらなかったのだろう、と思う。
自分にも、高野氏に近い体験はなかったかなあ、と必死に思い出してみる。
近い体験はさしあたり思い浮かばなかったが、大学1年の時に、1度だけ、テレビに出たことを思い出した。
バブル全盛期は、どの放送局も深夜番組に力を入れていた。六本木にある放送局では、金曜深夜に、識者が夜通し討論するという政治討論番組が大当たりして、平日の月~木の深夜も、似たような生放送の討論番組のようなものをはじめた。といっても、政治や社会についての討論番組ではなく、特定のテーマに関するこだわりの人びと(マニア)が集まって、その人たちのこだわりを語り合う、という形式の番組である。
月~木の帯番組だったが、曜日ごとに司会者が違っていて、のちに県知事をつとめることになる男性芸人とか、のちに「1番じゃなきゃダメなんですか?」という迷言を残す大臣になる女性タレントとか、のちに北海道の牧場経営者になる男性歌手とか、いま考えてみると、「上昇志向の強い」「野心のカタマリ」のような3流芸能人たちが日替わりで司会をつとめていた。たぶんみんな、この深夜の番組から這い上がろうとしていた連中だったんだと思う。
そんな番組から、とあるテーマについて語り合うという企画があるというので、私に出演依頼が来たのである。
当時、私はそのテーマに関して雑文を書いて雑誌に発表していたりしていたので、それがどこかで目にとまったのだろう。現役の大学生、というのも、もの珍しかったに違いない。
こんな経験はめったにないだろう、と思い、その番組に出ることにした。
電話をくれたAD(アシスタントディレクター)と、事前に、喫茶店で打ち合わせをした。ADは、私よりやや年上、といった感じの若いあんちゃんだった。
こんな大学生にもわざわざ事前に打ち合わせをするくらいだから、番組を作るのも大変だろうな、と思った。
「大変ですねえ」と私。
「ええ、もう3日ほど徹夜しています」そのADのあんちゃんはげっそりした顔で答えた。
「私のほかに、どんな人が出るんですか?」
「フリーの動物評論家の先生と、自衛隊の元幕僚長の方と、…」
キワモノばかりである。私もそう思われているんだな、と思った。
しかし不思議なもので、そのADのあんちゃんと打ち合わせをしているうちに、なんとなく同志のような気がしてきた。向こうもそう思っていただろう。なにしろ、ほかの出演者(いずれも素人だが)はオッサンばかりだが、私だけが、唯一の若手で、年齢も近かったからである。
そして本番当日。
夜11時半ごろ、放送局に入った。本番は、深夜1時ごろからだったと思う。
放送局の会議室みたいなところに集められた。動物評論家とか、自衛隊の元幕僚長とか、変わった肩書きをもつその道のマニアが4,5名くらいがいただろうか。私以外は、みんなかなりのオッサンである。そしてしばらくして、この日のチーフディレクターが現れた。
チーフディレクターが番組の段取りみたいなことを説明した。その間、ADのあんちゃんは黙って弁当を運んだりしている。
なるほど、放送局は完全なタテ社会なんだな、と思った。
深夜に弁当を食わされたあと、スタジオに入った。
円い大きなテーブルに各自が着席すると、ほどなくして、司会者の3人がスタジオに入った。
このとき、私ははじめて司会者のタレントたちを目にしたのである。
(なあんだ。司会者のタレントとはまったく打ち合わせというものがないんだな。ぶっつけ本番なんだな)と思った。
その時の司会者は、当時有名だった航空評論家の男性、そして、のちに北海道で牧場を経営するようになる男性歌手、それとバブル期を象徴するようなモデル出身の女性タレントだった。
番組がはじまった。
どんな内容だったが、いまとなってはほとんど記憶がないが、ひとりひとり、そのテーマに関して自分の思いを語ったり、司会者の質問に答えたり、というものであったかと思う。私もそのテーマに関して、カメラの前で話さなければならなかった。動物評論家や、自衛隊の元幕僚長といったキワモノたちが、滔々と自説を開陳した。私の順番は、最後だった。
どの出演者も変わった人ばかりだった。みんなオッサンだから、与えられた時間を無視して、言いたいことを言う。その中で、いちばん年長だったおじいさんは、自分の番の時に、言いたいことを言ったあげく、それが終わると、本番中に居眠りをしてしまった。そりゃそうだ。深夜1時過ぎなんていったら、ふだんなら寝ている時間なのだ。
「本番中に寝ないでくださいよ~。まったく、自分が話しているときにはあんなに元気だったのに~」と、司会者の1人が持ち前の東北弁でツッコミを入れた。
そして深夜3時半ごろ、いよいよ私の番である。カメラの前で話すなんて、とてもできない、と思っていたが、語っているうちに、しだいに当初の緊張も忘れていった。
どのくらい経っただろうか。ADのあんちゃんが、スケッチブックのような画用紙にマジックで大きく字を書いて、私に見せた。
「よくわかりました。ありがとうございます」
そろそろ終わってください、という意味だな、と思い、すぐに話をまとめた。
それから、どのようにして番組が終わったのか、覚えていない。
番組が終わったときは、すでに早朝という時間になっていた。
帰り際、玄関でADのあんちゃんからタクシーチケットをもらった。
チケットを渡しながら、ADのあんちゃんが私に言った。
「こんど、うちの番組でUFOをメインにした企画があるんですけど、UFOとかって、興味ありますか?」
「ないこともないですけど…」
「もしよかったら、ぜひまた出てください。また一緒にお仕事したいものです」
「はあ」
私は煮え切らない返事をして、タクシーに乗り込んだ。
六本木からタクシーに乗り、約1時間ほどかけて自宅に戻った。外はすっかり明るかった。
翌日、大学に行くと、同じクラス(当時、第2外国語に応じてクラス編成がなされていた)の仲間たちの態度が急に変わった。番組を見ていた人がいたようだ。それまで、私はクラスでもまったく目立たない存在だったが、急に、なれなれしく話しかけてきたのである。
それも、ふだん私が「いけすかねえ」と感じているヤツに限って、親しげに話しかけてきた。
そのとき、「テレビなんて、くだらねえや」と思い、テレビに出たことを、ひどく後悔した。
それ以来、テレビに出たことはない。
さてその後、バブル崩壊とともに、その深夜の帯番組はなくなってしまった。だがその放送局は、UFOとか超常現象といった番組を今度はゴールデンタイムであつかうようになり、それに出ていた素人たちが、タレント並みのあつかいを受けるようになっていった。
いま、思い返す。
もし、あの時、「UFOとかに興味がありますか?」とADのあんちゃんに言われて、ウソでも「すごく興味があります。実はUFOマニアなんです」と、強烈に自分をアピールしていたら、その後の私は、どうなっていただろうか、と。
それと、あのADのあんちゃんは、あれから出世したのだろうか?
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