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2011年2月

「おバカバー」を侮るなかれ

2月28日(月)

韓国から帰国して、1年が経った。

この1年間、無為に過ごしてきたなあ。

少し、英語の勉強でもはじめてみようかな、という気になった。

理由は、「英語を喋っているのを見てかっこいいと思ったから」、という単純な理由である。

韓国語だと、韓国人としか話せないからなあ。

といって、英語で話す相手など全然いないのだが。

そんな帰国記念日というめでたい日に、イヤなことはいったん忘れて、「カバー曲」について考えよう。

昔から洋楽を日本語でカバーする、という話はよくあり、それが時に滑稽な歌を生み出す、という話も、よく知られている。

有名なところでは、ギルバート・オサリバンの名曲「アローンアゲイン」である。

これを、なかにし礼が訳詞したのが、九重佑三子が歌う「また一人」というカバー曲である。

「私としたことが

あなたに棄てられて」

という出だしではじまるこの歌は、原曲の雰囲気とはまったく異なる世界観を表現した曲として、カバー曲愛好家から絶賛?されている。

こういうカバー曲は、一部では「おバカバー」(おバカなカバー曲、という意)と分類されている。

なかにし礼は、原曲の雰囲気を換骨奪胎して、まったく異なる世界観を作り上げる天才で、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」も、原曲の雰囲気とは異なる、国道沿いの怪しげな安ホテルをイメージさせるようなカバー曲に変身させてしまったのである。

もっとも、「ホテルカリフォルニア」じたい、歌詞の意味が難解だといわれているので、それを強引にわかりやすい訳詞に変えたのは、ある意味すごいことではある。

もうひとつ、これは賛否が分かれるかも知れないが、カーペンターズの「イエスタデイワンスモア」をカバーした、内山田洋とクールファイブによる「イエスタデイワンスモア」である。

しかも、歌っているのが、リードボーカルの前川清ではなく、バックコーラスの小林さん、というのがいい。

ムード歌謡でおなじみのクールファイブがカーペンターズを歌う、というだけで、なんとなく滑稽な感じがするが、この曲を滑稽ととるか、哀愁ととるかは、賛否が分かれるかも知れない。私は当然、後者である。

とくに、2番の歌詞の冒頭である、

「なぜに帰らぬ年月はきれいなのだろう

すべては夢のようなもの」

という部分は、何度聞いても、じーんと来る。ちなみにこの部分の原曲の歌詞は、

「Lookin' back on how it was

In years gone by

And the good times that I had

Makes today seen rather sad

So much has changed」

となっていて、直訳すると、

「過ぎ去った日々や楽しかった日々をふりかえると、今、いくぶん悲しく思える。すっかり変わってしまったなあ」

くらいの意味だろうか。うーむ、自信がない。

それを、(誰の訳詞かはわからないが)

「なぜに帰らぬ年月はきれいなのだろう

すべては夢のようなもの」

と訳したのは、すごいと思う。だから私は、この歌を愛してやまないのだ。

前回の日記で「涙そうそう」の韓国語版カバー曲があることを発見し、歌詞に相当な違いがあることがわかったが、考えてみれば、日本の歌が韓国語でカバーされている例は多く、その逆もある。歌詞の違いを見ることで、2つの国の言語や文化のさまざまな特徴が見えてくるのではないか?

これ、絶対に面白いテーマだと思うんだけどなあ。それとも、もうやりつくされているのだろうか。

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韓国版「涙そうそう」

韓国語のお勉強です。

インターネットで調べてみると、「涙そうそう」の韓国語版カバー曲があることがわかった。

「メモリ(메모리,Memory)」という名前の韓国人歌手が歌う、「눈물이 나요」(涙が出ます)という曲である。歌詞は以下の通り。

「하루는 꿈에도 눈물이 나고

또 하루 그대 이름 불러봅니다

세월이 흐르면 잊혀질까요

사랑을 이유로 가려는 그대가

사랑해요 내게 말하던 그대를

이제는 볼 수 없나요

사랑이 아파 내 가슴이 울어요

그리워서 그리워서

너무나 그리워서 눈물이 나요

지나간 추억이 나를 울려요

눈물로 빌어도 올 수 없나요

그대가 없어면 나도 없다고

웃어며 말해주던 너는 어디에

만약에 하루만 살아야 한다면

그대만 바라볼텐데

두 눈을 감아도 느낄 수 있어요

난 그대와 둘이 아니라

처음부터 하나라고 믿었었는데

사랑해요 내게 말하던 그대를

이제는 볼 수 없나요

사랑이 아파 내 가슴이 울어요

그리워서 그리워서

너무나 그리워서 눈물이 나요

그리워서 그리워서

너무나 그리워서 눈물이 나요」

これを訳すと、こんな感じになる。

「夢を見ては涙が出たり

あなたの名前を呼んでみたり

歳月が流れれば忘れられるでしょうか?

愛を理由に行こうとするあなたのことを

「愛してるよ」と私に言ったあなたと

今はもう会えませんか?

その愛が痛くて私の胸が泣きます

恋しくて恋しくて

とても恋しくて涙が出ます

過ぎ去った思い出が私を泣かせます

涙で祈っても戻ってこれませんか?

あなたがいなければ私もいないと

笑って言ったあなたは今いずこ

もしあと一日しか生きられないとしたら

あなただけを眺めていたいのに

両目をとじても感じることができます

私とあなたは別々ではなく

初めから一つと信じていたのに

「愛してます」と私に言ったあなたに

今はもう会えません

愛が痛くて私の胸が泣きます

恋しくて恋しくて

とても恋しくて涙が出ます

恋しくて恋しくて

とても恋しくて涙が出ます」

…とまあ、こんな感じ。

うーん。もとの日本語歌詞と、だいぶ違うなあ。韓国語歌詞は、日本語歌詞にくらべて実に単調である。

前から思っていたことだが、一般に韓国の歌の歌詞は、単調というか、ストレートというか、日本の歌の歌詞にくらべるとかなり単純である。歌詞に使われる頻出語、といったものがあり、この歌にも、そうした頻出語がちりばめられている。

実際にこの歌を聴いてみたが、単調な歌詞のせいで、きわめて平凡な歌になってしまったような気がする、と感じるのは私だけか?

やはり、歌詞は重要なんだな。

ちなみに、この歌をモチーフにして作られた映画「涙そうそう」が、2007年に韓国でも「눈물 주룩주룩(涙ぽろぽろ)」というタイトルで公開されているという。

最後に、日本語の歌詞を韓国語に訳してみた。

「옛날의 앨범을 보면서

'고마워'라고 중얼거렸다.

언제나 언제나 내 가슴 속에서

나를 격려해 주는 그대여.

맑은 날도 비 오는 날도

생각나는 그대의 미소.

추억 멀리 퇴색하더라도

옛모습을 찾아서

가슴 속에 떠올 때

눈물이 나요.

가장 먼저 보이는 별에 기도한다

그것이 내 버릇이 되고

황혼에 올려다보는 하늘.

마음 가득 그대 찾는다.

슬픔에도 기쁨에도

생각나는 저 미소.

그대가 있는 장소에서 내가

보이면

꼭 언젠가

만날 수 있다고 믿고 살아 간다.

맑은 날도 비 오는 날도

생각나는 그대의 미소.

추억 멀리 퇴색하더라도

외로워서 그리워서

그대를 생각나면 눈물이 나요.

만나고 싶어 만나고 싶어

그대를 생각나면 눈물이 나요.

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2月26日に

2月26日(土)

オッサンの感傷ほど世の中で始末に負えないものはない。でも、今日は2月26日なので仕方がない。キモイと思う人は、読まない方がよい。

韓国に滞在中、ほぼ毎晩、大学の構内を1時間以上かけて散歩していた。大学構内は、適度な広さと起伏があり、散歩にはちょうどよいコースだった。

まったくもって柄にもない話だが、散歩しながら、iPodでよく聞いていた曲のひとつが、「涙そうそう」である。

歩きながらというよりも、歩き疲れて、ベンチに腰掛けたときに、夜空を見上げながら、この曲を聴いていたのである。

…ほら、キモイでしょう。

この曲はもともと夏川りみの歌で知ったのだが、作曲者のビギンや、作詞者の森山良子の歌の方が、心に沁みてよい。

聴き込めば聴き込むほど、作詞者の森山良子の歌がやはりすばらしい、と思うようになっていった。編曲は、ビギンの方が好きかもしれない。

とくに、2番の歌詞がすばらしい。

なかでも、

「あなたの場所から私が見えたら

きっといつか会えると信じ生きてゆく」

という部分が好きで、この部分を聞くために、くり返し聞いていたようなものである。

私が作っている韓国語のホームページには、扉のところに「一言メッセージ」みたいな欄があって、そこにこの部分を韓国語に翻訳したものを載せている。自己流の、拙い翻訳である。

あるとき、私の韓国語日記をご覧になっている語学院のナム先生が、「私にとっても意味のある歌詞です」と、この歌詞に言及したコメントを寄せていた。歌詞を載せてはみたものの、訳は拙いし、誰も気にもとめないだろう、と思っていただけに、少々おどろいた。

これについては、思いあたることがある。

一昨年の11月の末、私が語学院の修了式で、学生代表でスピーチをやることになった時のことである。

本番の前の週の金曜日、スピーチ用の原稿を見てもらおうと、語学院の4級でお世話になったチェ先生がいる教員室に持っていったところ、チェ先生が、周りにいた先生を気づかってか、小声で私にこんな話をした。

「これ、キョスニムだからお話するんですけどね」

「何でしょう?」

「ナム先生のお父さんが亡くなったそうです」

「…そうだったんですか」

突然のことで、こういう時、韓国語でどう答えていいかよくわからない。

「ずっと具合がお悪かったたみたいで、看病もされていたそうです。…で、ナム先生は来週1週間お休みするそうです。月曜日の修了式も出られないそうです」

「そうですか…」自分が教わった先生にはスピーチを聞いてもらいたかった、という思いはあったが、こればかりは仕方がない。

「中国人留学生たちはまだ子どもだし、事情を説明することもないでしょうけど、キョスニムには言っておこうと思って…」

「ありがとうございます」

その後、この日記でも書いているように、ナム先生とは何度もお話しする機会があったが、お父さんのことについてお話ししたことはない。

だから、ナム先生がどのようなお気持ちなのかはわからない。だが、あの歌詞が自分にとって意味がある、とおっしゃったのは、そういうことかも知れない、とも思う。

いずれにしても、私の拙い翻訳であるにもかかわらず、しかも、その歌詞がどんなメロディに乗っているのかわからないにもかかわらず、あの歌詞は心に響いたのである。本当の名曲とは、そういうものなのだろう。

「あなたの場所から私が見えたら

きっといつか会えると信じ生きてゆく」

私の場合、この歌詞で思い浮かべるのはOさんである。

Oさん。

韓国から戻って、1年が経とうとしています。

韓国から戻ったら、結局、以前のような自堕落な生活に逆戻りです。変わったようでいて、実は何も変わっていません。体重も、すっかりもとに戻ってしまいました。

ただひとつだけ、留学中にはじめた韓国語日記だけは、続けています。今ではこれだけが、韓国へ留学していたことの、唯一の証です。

心なしか、こちらに戻ってから、彼らの質が少し変わってきたような気がします。

彼らとどう向き合っていけばよいのか、わからなくなってきました。

今までのような向き合い方では、彼らにとってもよくないのではないか、と。

Oさんなら、どうするでしょうね。

「きゃつらは…」と、半ば呆れながら、笑い飛ばすかもしれませんね。

もうお手本にできないのが、少し寂しいです。

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Keiさん

私の通っていた高校は、自由な校風の進学校で、生徒たちもいわゆる「よい子」が多く、実に居心地がよかった。

私は中学時代、市内でも1、2を争う「荒れた中学」にいたので、なおさらそう感じたのかもしれない。

生徒が先生を「○○先生」と呼ばず、「○○さん」と呼ぶのも、この高校の特徴だった。

3年間クラス替えがなく、担任の先生も3年間同じだった。私のクラスの担任はN先生で、生徒たちは、N先生の名前からとって、「Keiさん」と呼んでいた。

現代社会と政治経済を担当されていたKeiさんは、今でも、教師としての私のお手本である。

生徒の自由を最大限に尊重し、ひとりの人間、個人として接する。権威を嫌い、世の中や社会のおかしなところを堂々と批判する。

授業は、決して派手ではないが、ポツポツとお話になる内容がとても面白かった。卒業後に聞いたところでは、授業の内容や組み立てを周到に準備し、話す内容や板書の内容をすべて頭に入れた上で、授業にのぞんだのだという。そういえば、Keiさんが講義ノートを見ながら話していた姿を一度も見たことがない。今でもそれは、まねのできないことである。

社会科教員室に行けば、いつでも雑談に応じてくれる。当時の私の青臭い話にも、笑ってつきあっていただいた。

考えてみれば、当時のKeiさんは、今の私と同じくらいの年齢だったのだな。

私は一度だけ、Keiさんにほめられたことがある。いや、正確に言えば、面と向かってほめられたわけではない。

高1の、たぶん2学期か3学期の、定期試験の時だったと思う。

そのときの現代社会の定期試験では、○×式とか、記号式ではなく、論述式の試験問題が出た。

試験が終わり、翌週の授業の時間、採点された答案が返された。ところが、私の答案だけが返されない。するとKeiさんがおっしゃった。

「今から、解答例を読み上げます」

そうおっしゃると、私の論述した答案を、クラス全員の前で一字一句読み上げたのである。

(われながらずいぶん長く書いたな…)

延々と読み上げられる答案を聞きながら、そう思ったことを今でも覚えている。ということは、当時から私は相当くどい文章を書いていたのだな。

読み終わると、Keiさんは何も言わずにその答案用紙を私に返した。

卒業して10年以上たったあるとき、Keiさんは「これまでの教職経験の中で、あの時の答案を超えるものには出会っていない」と述懐された。

これは、今でも私の自慢である。

さて、3年間クラス替えのなかった私たちのクラスには、問題児がいた。

スガハラとタグチの二人である。

問題児、といっても、「荒れた中学」で3年間を過ごした私からすれば、たいしたことはない。サッカー部に所属していた二人は、10代特有の、抑えることのできないエネルギーを、発散したかったのだろう。教室にペンキで落書きをしたり、窓ガラスを割ったりといった程度のイタズラをした。気に入らない先生に対しては、ちょっとした授業妨害もしていた。彼らの行動は、学年が進むにつれ、エスカレートしていった。

「荒れた中学」を経験している私からは他愛もないことなのだが、「自由な校風の進学校」からすれば、これは一大事である。「自由な校風」を体現しているようなKeiさんにとっても、この問題児たちの行動は、これまでに経験したことのないことだった。

生徒をひとりの人間として尊重すれば生徒たちもわかってくれる、という信念が、揺らぎ始めたのである。

高2の時だったか、あるとき、Keiさんは、息を切らして教室に入ってきた。

「どうすればいいんだ!?…一体、どうすれば…」

入ってくるなり、Keiさんは私たちに向かって大声で叫んだ。

ふだん、まったく取り乱したことのないKeiさんの、はじめて取り乱した姿である。

スガハラやタグチ、さらにはそれを取り巻く連中の問題行動が、ピークに達していたときだったから、Keiさんの「どうすればいいんだ?」という問いかけが、彼らについて言っていることは、容易に想像できた。

「…いや、なんでもない。いいんだ」

Keiさんは、すぐに平静に戻った。ふと、われに帰ったのかもしれない。

その一件以降、Keiさんと、スガハラやタグチとの関係が、どのようになっていったのかは、ほとんど記憶にない。だが相変わらず、Keiさんはスガハラやタグチの行動に悩まされ続けたのだろう。

さて、卒業式の日。会場は高校の体育館である。

「卒業証書授与」では、担任の先生によって生徒ひとりひとりの名前が呼ばれる。名前を呼ばれると、生徒は起立をする。そしてクラスの生徒がすべて起立すると、代表ひとりが壇上に上がり、校長先生から卒業証書を受け取る。

私たちのクラスの番が来た。

Keiさんは、ひとりひとりの生徒の名前を読み上げた。

だが、なぜかスガハラとタグチの二人の名前をとばしてしまった。

名前を呼ばれないかぎり、起立することはできない。スガハラとタグチは、起立することができないのである。

最後の生徒の名前を読み上げたあと、keiさんは言った。

「スガハラ!」

「…ハイ!」スガハラが立ち上がる。

「タグチ!」

「…ハイ!」タグチが立ち上がる。

「以上、3年5組、50名」

Keiさんは、最後の最後に、二人の名前を読み上げたのである。

卒業式が終わり、みんなが教室に戻る。

Keiさんの第一声。

「深い意味はありません」

Keiさんはそう言うと、ニヤッと笑った。

スガハラとタグチは、「してやられた」という顔をした。

教員になったいま、そのときのKeiさんの気持ちが、何となく想像できる。

さんざん困らされた二人に、最後の最後に一矢報いてやろう、という思いとか、さんざん困らされた二人だったが、最後の最後に名前を読むことで、「最後にようやく君たち二人を認めることができた」という思いとか。

それでもKeiさんは、「いや、本当に深い意味なんてなかったんだよ」とおっしゃるかもしれない。

5年くらい前だったか、久しぶりにKeiさんにお会いしたとき、

「スガハラはいま、生き馬の目を抜く金融業界で、世界を飛び回って活躍しているそうだ。あいつ、仕事が楽しくてしょうがないらしい」

と、うれしそうに話しておられた。スガハラはいまでも、keiさんに近況報告をしているようである。

私も、久しぶりに近況報告の手紙でも書いてみるかな。そして今の私の悩みを聞いてほしい、と思う。「今の僕のやり方は、間違っているのでしょうか?」と。

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キョスニムの韓国語

2月21日(月)

昨年4月からうちの職場に留学していた韓国人の大学4年生、M君が、1年間の留学期間を終えて、水曜日、韓国に帰国することになった。

私は彼の指導教員をつとめていたので、6時半から送別会を開くことにした。

M君と、彼のチューターをつとめた3年生のTさんと、私の、3人によるささやかな送別会である。

最後は、この地の郷土料理や地酒を味わってもらおうと思い、駅前の郷土料理の店に入る。サラリーマンのおっさんばかりが集まるような店である。

些細なことだが、この1年間、私はひとつ決めていたことがあった。それは、「M君とは韓国語で会話をしない」ということである。その理由については、以前に書いたことがある

何より、M君は居酒屋で私の与太話を聞きとることができるくらい、日本語の能力が卓越しているのである。いろいろ話していると、本当に彼は好青年だなあ、と思う。

チューターをつとめたTさんも、まじめで前向きな人である。そのTさんが言った。

「昨年の6月、韓国の友人の結婚式に招かれて、大邱に行ったんです」

「へえ、大邱のどこで結婚式だったの?」と私。

「ジェイズホテルです」

「ジェイズホテル!トンテグ駅の近くの?」

「そうです。ご存じですか?」

「ご存じも何も…、私が留学した初日に泊まったホテルが、ジェイズホテルだったんだよ!」

私にとっては思い出深いホテルである。留学初日、こともあろうに学会発表をさせられ、しかも大学の寄宿舎が満室ということで、その日はジェイズホテルに泊まったのである。さんざんな1日だった。

それにしても、大邱の数あるホテルの中から、ジェイズホテルの名前が出てくるとは…。

「世の中ってのは、狭いもんだなあ」

私が感慨にひたっていると、M君が口をはさんだ。

「なんか、ヘンな感じです」

「どうして?」

「だって、韓国人のワタシが全然行ったことがないところの話を、お二人がしているんですから」

なるほど、韓国人をさしおいて、韓国の一地方都市の細かい地理の話を、日本人二人がしているのは、なんか可笑しい。

そのTさんは、ゆくゆくは米国に留学したいのだという。まじめで前向きなTさんなら、きっとうまくいくだろう。

「すいません。お冷やください」Tさんが店の主人に言った。

「オヒヤって何です?」M君が聞いた。

「お水のことだよ」

「お水のことですか!?はじめて知りました。てっきり、冷やすものだから、扇風機かなにかだと思いました」

そうか、「お冷や」なんて言葉は、日本語の授業で習わないんだな。

「滞在中、最後に覚えた日本語だな」と私。

「そうですね」M君は笑った。

いろいろな話をしているうち、気がつくと、9時半近くになっていた。「そろそろ出ましょう」

会計をすませ、店を出る。

最後に私は、M君に言った。

「イベ マジャッソヨ?(口に合いましたか?)」

一瞬おどろいたような顔をしたM君は、答えた。

「マシッソッソヨ(美味しかったです)」

私が彼に話しかけた、最初で最後の韓国語である。

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ナム先生の日本語

昨年9月、韓国の語学院でお世話になったナム先生とオンニ(お姉さん)が日本に観光旅行にいらしたとき、1日だけ、浅草とお台場をご案内したことは、前に書いた

先日、ナム先生のホームページに、その時の写真が、90枚ほどアップされていた。

ホームページには、写真1枚1枚の下に、ちょっとしたコメントを書く欄がある。それをつなぎ合わせれば、りっぱな旅行記になる。ナム先生の「東京旅行記」は、かなりの力作だった。

私たちは1日だけしかおつきあいしなかったが、90枚にわたる写真を順に見ていくことで、その前後の行程もよくわかるようになっている。

日本に到着そうそう、日本に住んでいるサチョンオンニ(いとこのお姉さん)の夫婦に連れられて、熱海の温泉に1泊したことや、そのあと東京に戻り、オンニと二人だけで新宿や渋谷を見てまわったことなど。

日本語が全くわからないお二人は、新宿から渋谷に行くのに、そうとう苦労したらしい。そのときの写真を見ると、「池袋駅」というホームの看板がみえる。ということは、山手線でまったく逆方向に向かってしまった、ということだな。

私たちと別れたあとのことも、写真を見ることで明らかになった。

原宿のレストランでハンバーガーを食べて、その後、原宿から渋谷まで歩き、渋谷駅でお別れした。ここまでは、前に書いた話

だが写真を見て、衝撃の事実を知る。

お二人は、渋谷で別れたあと、今度はサチョンオンニ夫妻に、「刺身」「すし」「ラーメン」をたらふくごちそうになった、というのである。「夕食を2回食べました」とある。

うーむ。やはりハンバーガーは余計だったか、と猛省。

ところでその日の午前、私たちが浅草の仲見世を案内したときの写真の中に、千社札を買っている様子を写したものがあった。

そこで思い出した。あの時、私は「南」と書かれた千社札を見つけて、ナム先生に買ってさし上げたのだった。

ナム先生の姓は、漢字で書くと「南」なのである。

「見てください。ナム先生の姓がありますよ」と私。

「ほんとですね。日本語でなんと読むんですか?」とナム先生。

「ミナミです」

「ミナミ…」

たしかその時、こんなやりとりがあったと思う。

この写真のコメントには、次のようにあった。

「『南』は日本語で『ミナミ』と読むのだとキョスニムはおっしゃった。後ほどサトシから聞いた話では、私の名前を日本語でよむと『ミナミ ヒデサダ』になるという。 私のお気に入りの名前だ」

「サトシ」とは、ナム先生が語学院で教えている日本人学生のことであろう。

それにしても、ミナミヒデサダ、とは…?

ナム先生のお名前は、スジョンとおっしゃり、「秀貞」と書く。つまり名前を日本風に読めば、「ミナミヒデサダ」となるのである。

スジョン、というのは、韓国人の女性によくある名前である。ありふれた名前といってよい。3級6班の自己紹介のときに、先生は「スジョンはありふれた名前なので、気に入らないんです」とおっしゃっていた。

それに対して、日本語の「ミナミヒデサダ」という名前の響きは、新鮮だったのかもしれない。

しかし、「ミナミヒデサダ」は、どうみても、女性の名前というよりは、男性の名前である。それも、強そうな武将にありそうな名前ではないか。

しかし、お気に入りの名前に水をさすわけにもいかないので、このまま黙っていることにしよう。

さて、90枚の写真の中には、私と妻が雷門の前で並んで写っている写真が載っていた。

写真の下には韓国語で、

「今回の旅行で大変お世話になったご夫婦」

と書いてあった。そしてさらにその下には、日本語のひらがなで、

「どうも ありがとうございます!」

と書いてあった。

ナム先生が初めて書いた日本語である。

私はその下に、

「どういたしまして」

と日本語でコメントを書いた。

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本日は快晴なり

2月19日(土)

Photo_2 朝6時54分、上野駅を出発。新幹線でT駅に向かう。

昨日は、東京の隣県で研究会があり上京した。研究会の後、1カ月の滞在を終えて韓国に戻る韓国人の知り合いの送別会があり、上野のホテルに戻ったのが、夜12時近くであった。

早朝に上野駅を出発したのは、朝10時から、勤務地の近くのT町で、近隣の大学の学生たちによる卒業論文発表会があるためである。

今年で6回目を迎えるこの会は、近隣の大学で同じような専門を勉強している学生たちの交流の機会として、毎年この時期に開催されている。地方に住んでいると、近隣の大学で同じような勉強をしていても、交流をはかる機会がほとんどない。まさに「隣は何をする人ぞ」の世界である。近隣の大学の仲間の様子がわかれば、それはいい意味で刺激になる。だからこれは貴重な機会なのである。

私はこの発表会にほぼ毎年、発表者として学生を1人を推薦している。今年も私の指導学生であるSさんを推薦した。

朝9時8分、T駅に到着すると、3年生のE君と2年生のN君がすでに到着していた。発表者のSさんの応援団である。

Photo 前日にT駅の駐車場に置いておいた私の車に乗り、会場に向かう。本日は快晴である。

会場に着くと、すでに発表者のSさんが到着していた。

「昨日、発表の準備をせずに、ドラマを見ちゃったんです。どうしましょう」とSさん。

ま、研究発表の前日なんて、そんなもんだ。

「あと、映画も見ちゃったんです。『白夜行』」

いま、公開中の映画である。

「先生は、『白夜行』見ない方がいいと思います」

Sさんは、私が『白夜行』の原作に思い入れがあることを知っているようだ。

「やっぱりね。じゃあやめとくわ」と私。

発表会が始まった。今年は、近隣の大学の4年生3人と、修士2年1人の合計4人である。

さて、Sさんは、卒論の内容のほぼすべてを1時間にわたって喋りきった。決して早口にならず、終始落ち着いていた。これだけじっくり卒論を発表させてもらう機会は、おそらく他にはないだろう。

発表を聞きながらレジュメを目で追っていくと、何度も読み間違いをしたり、誤字がいくつも判明したりと、何度となくヒヤヒヤしたが、まあそれはご愛嬌。

多少ひいき目かもしれないが、4本の発表の中でSさんの発表が一番レベルが高かったように思う。とまあ、例によって自画自賛。

娘のピアノやダンスの発表をヒヤヒヤしながら見ている親の気持ちって、こんな感じなんだろうか。

午後3時半過ぎ、発表会は終了した。ギャラリーは少なかったが、志と刺激のある発表会だった、と思う。

ひがみ半分で書かせてもらうと、この日、職場ではいくつもの大きな行事があった。その中には、たくさんのお金を使い、有名人や地位のある人を呼んだりする行事もある。私にはまったく興味もないし、関心もない。

この発表会は、そうした派手な行事とは、いわば対極にある。おそらく、こんな行事が行われていることなど、同僚は誰も知らないであろう。だが、もう6回も続いているのだ。

予算がついているわけでもない。当日の参加者から500円ずつ集め、みんながボランティアである。究極の手弁当行事、といってよい。

だが私は、こうした手作り行事が好きである。志のある人たちだけが集まる会。それこそが、理想ではないか。いくらお金を集めたとか、どれだけの人数を集めたとか、どんな偉い人が来たとか、そんなことなど、まったく意味がない。大事なことは、人の心にどれだけ深く刻み込まれるか、である。参加をした人たちが、どれだけ自分の糧にできるか、である。

その意味で、今回の手作り発表会は、発表した人や、それを聞いた人たちに、何かを確実に残しただろう。

そう信じたい。

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仰天提案、決着!

2月14日(月)

3月に結婚式をする予定の、高校時代の1つ下の後輩、オオキからメールが来た。

「ブログ見ました」

え!?オオキがこのブログを見ているとは思わなかった。

昨年10月、高校のOB の演奏会で司会をしたときのことである。1年後輩のオオキとフジイさんが演奏を聴きに来ていた。そのときに、実は私たち3月に結婚式をあげることになりました、という報告を受けたのである。

そしてひとしきり雑談をしている中で、「先輩のブログ、読んでみたんですけど、あまりに長すぎて読む気が失せました」と、ご両人が口をそろえて言っていた。

だからてっきり、読んでいないものだと思っていたのだ。それをいいことに私は、高校時代の親友・コバヤシとのここ最近のやりとりを、書きたい放題書いていたのだ。

それもこれも、全部ご両人につつぬけになってしまったわけである。メールは次のように続いていた。

「そんなに期待しているとは・・・と二人で話しあって、2次会では申しわけないので披露宴でスピーチしていただこう、と意見が一致しました。その方が、皆さんちゃんと聞いてくれますしね。昨日、司会者との打合せで、両先輩が漫才をしてくれるということで、既に話をしてしまいましたので、よろしくお願いします」

うーむ。ご両人が私のブログを読んで「どん引き」していた様子が目に浮かぶなあ…。

それからほどなくして、今度はコバヤシから、オオキに対する返事のメールが来た。

「メンドウな先輩たちですいません。何せ、いつものことながらあいつ(私のこと)が曖昧な態度をとるので、最初から言ってしまえと、スピーチを提案してしまいました。またあいつがグチグチ私に言うことでしょう。それはさておき二次会に参加します。あいつもきっと行きます。ということで、気をつかわせてしまってまことに申し訳ありませんがよろしくお願いします」

ムムムッ!これでは、私が完全にワルモノではないか!まるで「厄介で手に負えない私の性格に、コバヤシがほとほと手を焼いている」とアピールしているようなものである。これでは旗色が悪い。私は怒りにまかせて、二人に返事のメールを書いた。

「ああ、グチグチ言いますとも!これではまるで、私が圧力をかけてスピーチをごり押ししたような流れではないですか!というか、まさかオオキがブログを読んでいたとは思わなかった。前に会ったとき「先輩のブログは長すぎて読む気が失せます」って言ってたよね。それをいいことに、書きたい放題書いていたこっちにも責任はあるのですが…。ということで、私も「主義」を曲げて2次会に出ることにします。よろしくお願い申し上げます」

「いつまでも根に持って未練がましい」「責任のがれをする」「恩着せがましい」といった性格がうかがえるような、最悪の返事である。やはり厄介なのは、コバヤシではなく、私の方なのか?

とにかく、コバヤシの「余計なお世話」からはじまった仰天提案は、一転、採用されてしまったのである。

ああ、しかもこのブログでこれだけ煽ってしまっただけに、これで寒いスピーチだったら、目も当てられないなあ。いまから憂鬱である。休んじゃおうかな。

翌日、オオキからメールが来た。

「相変わらずブログは長すぎて、読む気がしませんが、でもこの件は、どうブログになるのか、楽しみでもあります」

昔から私のことをよくおちょくってたよな!オオキっ!

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ダメ探偵の凡作推理

2月16日(水)

朝。

左足がまた少し痛くなってきたので、車で職場に向かう。

職場の狭い駐車場に入れようとしてバックから車庫入れをしたら、前のバンパーが柵にひっかかり、その上、タイヤが完全に雪道にとられて空回りして、どうにも身動きがとれなくなってしまった。おかげで、駐車場の道を完全にふさいでしまっている。どんなにアクセルを踏んでも、車はピクリとも動かない。勢いよく空回りしている前輪から、煙が出はじめた。

(こりゃまいったな。もうすぐ会議の時間なのに…)

途方に暮れていると、そこにベテランの同僚Aさんと学部長先生が通りかかった。

「手伝いましょう」

何とも恐縮する話だが、お二人に車を押してもらいながらアクセルを踏む。だがタイヤが空回りして全く動かない。

学部長先生が電話をしてくださり、やがて、事務長さんをはじめ、屈強な事務職員さんたちや老練な作業員さんたちも登場。見物人もふくめて、私の車のまわりはたちまち人だかりとなった。

総勢10数名のご協力で、なんとか車は動き出した。

「本当にありがとうございました」

何とか会議には間に合った。こんなことが、ひと冬に1度は必ずあるのだ。そのたびに、自分のでくのぼうぶりをのろってしまう。まったく、恥ずかしいことこの上ない。

午前から午後にかけて、いくつかの会議をこなす。

自称「探偵事務所」(研究室)にて。

「こんなことって、考えられます?」と依頼者K氏。

「考えられませんなあ」と私。

「私の方が、どうかしているんでしょうか?」

「うーん」私は否定も肯定もしなかった。「共謀どころか、同一人物説、ということですか。だとしたら、『落とした人物』がノコノコと会いに来ますかね。だって、昨日の今日ですよ」

「そうですよねえ。でもたしかに似てたんですよ…髪型は違ってましたけど」

「髪型を変えるまで手の込んだ細工をするんだとしたら、そうとうしたたかですよ」

「そうですよね。でもそういう感じの人物には全然みえなかったんです。あと、例のブツを見せたときに、その人物に聞いてみたんです。『なにか改竄されたところはないですか?』と」

「ふむふむ、それで?」

「そしたら、真っ先に『折り目がきっちりしすぎているのがおかしい』と言ったんです」

やはり折り目に注目して正解だったか。

「真っ先に折り目のことを認めた、というのは、どういうことなんでしょう?」

「うーむ。折り目について身に覚えがない、ということは、つまり『拾った人物』が折った、ということでしょうか。とすると、やはり同一人物ではない、ということになりますな。…待てよ。同一人物説に立てば、折り目のことを真っ先に認めることで疑われないように先手を打った、とも考えられる」

私にはもうわからなくなった。

「あ、それと『落とした人物』に会った時、思い出したんです。その人物はたしかにその場にいた、と。私、たしかに見ました」

「いたんですか!?」その瞬間、私の推理は、音を立てて崩れ去った。結局、私の推理は何ひとつ当たっていなかったのだ。

事件は意外な方向に!果たして二人は同一人物なのか?

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本日も来客あり

2月15日(火)

午前中に2時間半近くの会議。午後には1時間半近くの会議、のようなもの。

研究室に戻ると、扉をたたく音がした。3年生のMさんである。

「卒論の相談に来ました」

あ!そうか。3年生は今月末までに卒論の仮題目を提出しなければならなかったんだった!

つい先日、4年生の卒論が終わったかと思ったら、もう3年生の卒論準備か…。

これはもう、完全に「卒論の呪い」だな。「卒論の呪い」が私にとりついているとしか思えない。

とりあえず来週、3年生に集まってもらって「卒論出陣式」を行うことになった。

Mさんがいる間にも、電話やら来客やらの対応に追われる。

Mさんが帰ったあと、しばらくしてから再びドアをたたく音が。今度は同じ3年生のTさんである。

「いま、大丈夫でしょうか」Tさんがおそるおそるドアを開けた。

「大丈夫ですよ。どうして?」

「いま、誰かとお話になってたみたいですから」

「ええぇぇ!誰もいないよ」

「たしかに誰かと話している声が聞こえたんですけど…」

どういうことだ?私が無意識のうちにひとりごとを話していた、ということなのか?

だとしたら、オソロシイ。私も末期症状である。

「とにかく誰とも話してないよ。で、今日はどうしたの?」

すわ、またお笑いサークルがらみの依頼か?と思いきや、

「じつは就職活動の相談で…」という。エントリーシートを書いて後で持ってくるので、添削してほしいのだという。

終わると今度は、近くの同僚が「パソコンの調子がおかしいのでちょっとみてほしい」と。

それが終わると今度は、

「どーもー。○○印刷でーす。遅くなってすいませーん」と、業者。仕事の打ち合わせ。

気がつくともう6時近くである。そういえば依頼者K氏も来るはずだったな。すると依頼者K氏から「さきほどうかがったのですが、来客中のようだったので帰りました」というメールが来ていた。

「例の事件ですけど、今日、『落とした人物』に会ったら、昨日会った『拾った人物』と、顔がそっくりだったんです!これはいったい、どういうことなのでしょう???」

まさか、共謀どころか、同一人物だったってことか???

だとすると、今度はカードの件の説明がつかない。

うーむ。事件はますます混迷を深めてきたな。

頭が痛くなってきた。

外に夕食に出ようと、建物の玄関を出ると、私を呼ぶ声がした。院生のSさんである。

見ると、私の授業を受けていた、3年生のSさんも一緒である。

「私の妹です」と院生のSさん。

「え!?2人は姉妹だったの」全然知らなかった。そう言われれば、同じ苗字である。

「はい。…で、先生にお詫びしなければならないことがあるんです」

「何でしょう」

「昨日さし上げたチョコレートのことなんですが」

昨日はバレンタインデーとやらで、院生のSさんと、3年生のSさんが、それぞれ別々にチョコレートを持ってきてくれた。…とすると、姉妹で持ってきてくれた、ということか。

「あれ、間違いでした」

「え?間違い?もう食べちゃったよ」

「いえ、そういうことじゃないんです」

「どういうこと?」

「私たち、ついうっかり、同じチョコレートをさし上げてしまったんです」

そういえば、院生のSさんと3年生のSさんが持ってきたチョコレートが、まったく同じものだったことを思い出した。

ま、こっちはそんなこと気にしていなかったんだが、姉妹でチョコレートの銘柄がカブってしまったことを気にしていたらしい。「違うチョコレートをさし上げるべきでした」とS姉妹。

「でも、美味しかったですよ」

「すいません。実は先ほど図書館でお目にかかったときに、お詫びしようと思ったんですけど、どのように言っていいかわからなくて」

たしかにそうだ。「チョコレートがカブってしまって申し訳ありませんでした」と言われても、「はぁ?」となってしまうだろうな。

「そんなことより、あなたがた二人が姉妹だった、ということのほうがビックリしました」

「そうですか。では失礼します」

夕食が終わり、研究室に戻る。しばらくすると、さきほどのTさんがエントリーシートを持って研究室にやってきた。

見ると、顔面蒼白である。

「どうしたの?」

「ビックリしました。階段を上がって先生の研究室に行こうと思ったら、いくら探しても先生の研究室が見つからないんです!」

「え?どういうこと?」

「廊下を何回も往復して、ずっと探したんですが、先生の研究室がなかったんです」

よくわからない。

「そしたら、間違えて4階ではなく3階をウロウロしてました」

「なあんだ。階をまちがえていたわけね」

「でも、廊下は真っ暗だったし、誰もいないし、ビックリしたんですよ。私、頭がどうかしちゃったんじゃないかと思って…」

さすがお笑いサークルの会長。やはり独特の感性を持っている。

かくして本日も、夜は更けてゆく。

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屋台村の留学生たち

ひきつづき自称「探偵事務所」(研究室)にて。

「…その人物によれば、父親が2回死んだ、っていうんです」と依頼者のK氏。「そんなことって、考えられるでしょうか?」

「父親が2回も?」と私。「考えられませんなあ。ひょっとするとですよ…」

…もうこのパターンはやめよう。

こんなことをしている暇があったら、本業の原稿を書かなければならないのだが、どうにもうまくいかないのが世の常。

高野秀行『アジア新聞屋台村』は、やはり予想していたとおり、面白い。

アジアのさまざまな地域の人々が登場するこの物語は、韓国の語学学校で勉強していた私にとって、気持ちがとてもよくわかる、という部分が多い。

そしてこの物語には、韓国の女性が登場する。

『異国トーキョー漂流記』を読んだ妻が、「ここに韓国人が登場していないのが残念だったね」と感想をもらしていた。高野氏ならば、韓国人をどう描くだろう?それが、私たちの関心の的だったのである。

さてこの物語は、辺境作家にして貧乏のタカノ氏がふとしたことから、東京にある多国籍新聞社の「編集顧問」になったところからはじまる。

この新聞社は、台湾人の若き女社長が経営する新聞社で、在日のアジア人や日本人向けに、台湾、タイ、マレーシア、インドネシア、ミャンマーなど、多国籍の新聞を発行している。そこには、アジアのさまざまな地域から人々が集い、彼ら「エイリアン」ならぬ「エイジアン」の奔放な行動に、例によってタカノ氏は翻弄されていく。それはさながら、屋台村のような喧騒である。

そこに1人登場する韓国人の女性。タカノ氏はこの女性を、特別な思いで描いている。なみいる「エイジアン」の中で、韓国人女性に特別な思いを抱く、というのは、なんとなくわかる気がするなあ。たぶん、感性がいちばん近いもん。

だが、あちこちに地雷がしかけられている、とタカノ氏は気づく。そのあたりの心の動きも、わかる気がする。

さて、この本を読みながら私が思い出したこと、というか、悔やまれたこと。

韓国滞在中の大学の語学院で、一番上のクラスである5級で勉強できなかったことが、なによりも心残りである。

韓国滞在中の1年3カ月のうち、1年間、大学の語学院に通って韓国語を勉強した。初級であるところの1級クラスから始まり、4級に至るまで、である。

残りの3か月間、5級に進学して韓国語を勉強することも、不可能ではなかった。だが、それをしてしまうと、結局滞在中ずっと韓国語の勉強にしばられることになるので、泣く泣く、5級進学をあきらめたのである。

だが、それがいまになって、心残りになってきた。

というのも、5級には、じつにさまざまな国籍の人たちが学んでいたからである。

1級から4級までのクラスは、私以外は全員中国人、という編成だった。だから、中国人留学生たちの珍奇な行動は飽きるほど見てきたが、そのほかの国の人々と交流をもったことは、全くなかったのである。

私が4級の授業を受けていたとき、妻は、ひとクラス上の、5級の授業を受けていた。そこに集う留学生たちが、なかなか個性的で面白かった。

中国をはじめ、ロシア、モンゴル、ミャンマーといった国から来た留学生たちがいた。それぞれ、国を背負って留学しているので、韓国語がめちゃくちゃよくできる。優秀なのである。

ロシア人の美人女子学生2人(オレーシアさんと、もう1人は名前を失念)は、ふだんは仲がいいのだが、時折まわりが「どん引き」するくらいの大げんかをする、とか、ミャンマーの留学生は、息つぐ暇もないくらいよくしゃべるのだが、ビックリするくらい内容がない、とか、モンゴルから来た女子学生のフーランさんは、そつがない、とか、日本の地方大学3年生のカオリさんは、日本のアニメから抜け出たような格好をしていて、頭のてっぺんから出ているかのような甲高い声色で喋っている、とか、妻の話を聞きながら、「ああ、その場に私がいれば、またオモシロ可笑しく書けるのになあ」と、悔やんだものである。

もう、あんな経験はできないのかなあ、と思うと、少しさびしい。いや、かなりさびしい。

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この時期のミステリー

2月14日(月)

自称「探偵事務所」(研究室)にて。

「こんなことって、考えられます?」と依頼者のK氏。

「考えられませんなあ」と私。

「私に落ち度があったんでしょうか。…でも、ちゃんと確認したんですよ」

「落ち度はなかったと思いますよ」

「じゃあ、いったいどういうことなんでしょう」

「ちょっと拝見」

私は証拠となるブツを受け取り、ふだん資料調査などで使っている虫眼鏡を取り出して、子細に観察した。

「1週間も落ちていたというわりには、ほとんど汚れていませんねえ」

「でしょう」

「それと、この折り目は?」

「拾った人物が持ってくるときにカバンに入れるために折り曲げた、っていうんです」

「それにしては折り目が深いな…。きっちりと折ってある。折ってからだいぶ時間が経っているようにも思えます。それに、折った後に細工をした可能性もある」

私は虫眼鏡で観察しながらつぶやいた。

「だいたい、落としてから拾われるまで、時間が経ちすぎてますね」

「そうですね。1週間以上経っているはずです。…ちょっと不自然な感じがしますよね」

「ひょっとするとですよ…」と私の推理。

「落とした人物と拾った人物が共謀している可能性があります。そう考えれば、すべてのつじつまが合う」

「ま、まさか…では、カードの件は?」

「それも細工をしたと考えられるでしょう」。

「まさか、そこまで…」

「だとすればですよ、その時、その人物はその場にいなかったことになる。これは周到に計画された犯行です!」

「そ、そうなりますね」

「巧妙というほかない。こんな手口は私もみたことがありません」

「私もです」とK氏。「でも、落とした人物も、拾った人物も、そんな悪い人物には思えないんですよ。何でわざわざこんな手の込んだことをしたんでしょう?」

「たしかに…」私の推理はいきづまってしまった。

この時期最大のミステリーは、はたして解決するのか?

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雪を連れていく

2月11日(金)

「雪を連れていく」といっても、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」のラストシーンのことではない。

…相変わらずわかりにくいことを書いているな。

雪の降る勤務地を逃れて東京に行ったら、雪が降っていた、というハナシである。つまり雪も一緒についてきたのだ。

「雪を連れてきたね」とは妻の弁。

もう勘弁してくれよ~。これでは何のために東京に来たのかわからない。

東京までの新幹線の中で、高野秀行『幻獣ムベンベを追え!』を読了。

その後、同氏の『アジア新聞屋台村』を読みはじめる。のっけから、笑いが止まらなくなった。

前者と後者では、文体が少し違う。前者は事実を淡々と述べていて比較的あっさりしているのに対し、後者はやや作り込んでいる。前者が大学在学時代、後者はもっと後に書かれたものなので、年齢を重ねて文体に磨きがかかった、というべきか。妻はあっさりした文体が好きなようだが、私はどちらかといえば、後者の「くどい」文体の方が好きである。

『ムベンベ…』は、大学時代、探検部に所属していた著者が、探検部の仲間たちとともにアフリカのコンゴにいると言われている怪獣「ムベンベ」を探しに行ったときのことを記録した、レポートである。

過酷な自然環境、しかも、まったく異なる風習を持つ地域で、大学生の彼らは、抱腹絶倒というべき、さまざまな体験をする。

読んでいて、自分の大学時代のことを、少し思い出した。

私は大学4年間、発掘のサークルに所属していた。

毎年夏休みになると、2週間、長くて1カ月ほどの、発掘調査に出かけた。

私たちは大学1年から3年までの3年間、夏休みに山梨県の山の中で調査を行った。そこは、戦国時代の有名な大名がもっていた「隠し金山」があったとされ、そこで本当に金の採掘が行われていたのかどうかを確かめる、という調査をしたのである。

「隠し金山」というくらいだから、人目のつかない、山深いところにある。電気も水もない山奥である。ある年は山中にテントを張り、沢の水でのどの渇きをしのぎ、ある年は、地元に住む水源管理のおじさんの家の離れを借りて、そこをベースキャンプに、毎日、山中を調査したのである。

電気もない山の中だから、夜は漆黒の闇である。テレビも新聞もないから、世の中でどんなことが起こっているかわからない(たかだか2週間~1カ月程度のことなんだが)。数日に1度程度、山を下りて食料の買い出しに行くのがせめてもの楽しみだった。

食事は自炊で、当番制である。数日に一度、炊事当番となって、その日は調査をせずに炊事に専念することになっていた。

夜は、テレビもラジカセもないから何もやることがない。仕方がないので酒を飲むしかない。あとは、歌謡曲の歌詞を書いた分厚い本を片っ端からめくりながら、アカペラでみんなで歌を歌を歌うことくらいしかやることがなかった。

いま思い返せば、次元はまったく違うが、高野氏がやっていたことと、あまり変わりないようにも思える。

大学2年のとき、私はそのサークルの会長になった。その年の夏休み、昨年に引き続いて「隠し金山」の調査を行った。

地元の水源管理のおじさんの家の「離れ」の小屋を借り、そこをベースキャンプにして、毎日、車で調査現場に向かうことになった。といっても、調査現場までは車で入れないから、車の入れる山道のところで降ろしてもらい、そこから山道を30分くらいかけて歩いて、現場に向かった。

車は、地元の役場で借りた、廃車寸前の「ハイエース」という、10人乗りくらいのバンである。

当然、運転も私たちがやらなければならない。だが、私を含めてみな、免許を取ったばかりなので、(オートマではなく)マニュアルの大きな車を、しかも山道で運転することには全然慣れていなかった。私も一度、脱輪したことがある。

ある日のことである。

いつものように山中での調査が夕方に終わった。

調査が終わるころ、ベースキャンプの小屋で食事の準備をしている炊事係がハイエースを運転して、調査現場の近くの、車が入れる山道まで迎えに来ることになっていた。だがその日は、いつまでたってもハイエースが来ない。

しばらくたって、あたりが暗くなり始めた頃、その日の炊事係だったSがとぼとぼと歩いてやってきた。車で来た気配はない。

「車はどうした?」みんなが不審に思って聞く。

「来る途中で崖から落ちた」

「ええぇぇ!!!???」

Sの言葉に、一同は状況が飲み込めない。

「どういうことだ?」

「山道を運転してたら、途中でハンドルを切りそこなって、崖から転落したんだ」とSが説明する。

「で、お前は…?」

「幸い、車が下まで落ちずに木に引っかかったんで、自力で車のドアを開けて、崖をよじ登ってきた」

なんと!運転していた彼は、奇跡的に崖から転落した車から、脱出できたというわけだ。

もし、転落した車が木に引っかかることなく崖下に転落していたら…、そしてそこに我々が全員乗っていたとしたら…。

あわや、大惨事である。

とにかく、Sが助かってよかった。

さて、この事故を知らせる手だてがない。1989年当時は携帯電話なんてなかったし、もしこの時代に携帯があったとしても、この山中では圏外で使えなかっただろう。

すると1年上の先輩のKさんが、

「僕が水源管理のおじさんのところまで走って伝えてくる!」

と言い出した。

「Kさん、大丈夫ですか?」

「大丈夫。高校時代、陸上部で長距離の選手だったから」

そう言うと、Kさんは颯爽と山道を駆け下りていった。

Kさんのおかげで、事故の話が集落に伝わり、それを聞いた人たちが車で私たちを迎えに来てくれ、無事に戻ることができた。

翌日、明るくなってから事故現場へと向かった。

見ると、ハイエースが崖のすぐ下の木に、かろうじて引っかかっているのが確認できた。もしここに引っかからなければ、ひとたまりもなかっただろう。

水源管理のおじさんがどこからかクレーン車を調達してくれて、ハイエースをつり上げることができた。

もともと廃車寸前である上に、崖から落ちてさらにぼろぼろになったハイエースだったが、つり上げられた後も、私たちの大切な交通手段として調査の最後まで活躍した。

ただ、クレーン車による引き上げの代金として、調査の予算50万円のうちの25万円もかかってしまった。つまり、調査に必要なお金の半分が、クレーン車代で消えてしまったのである。調査期間の後半には食料を買うお金が底をつき、渓流釣りで釣れた魚を食料にした。

それと、伝令として走ってくれた先輩のKさん。

山道を走ったことが原因で、持病のぜんそくが悪化して、数日間、ベースキャンプの小屋で寝込んでしまった。

私たちは、そんなことを知らずに、Kさんに伝令をお願いしてしまったのである。知っていたら、止めていたであろう。

「どうして言ってくれなかったんですか!わかっていたら代わりの人間が行ったのに」

「いやあ、大丈夫だと思ったんだがねえ」

どこまでも人のよいKさんであった。

この年の調査は、本当にいろいろなトラブルにたたられた。だがみんな無事に調査を終えることができたのは、本当に奇跡だった。

ほかにもいろいろなことがあったが、しだいに記憶の彼方へと遠ざかってしまった。あのとき、しっかり記録をつけていればなあ、と『ムベンベ…』を読みながら、悔やんだのであった。

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電話2

2月10日(木)

今日はなにかと忙しい。

だが、昨日のコバヤシからのメールに返事を書かなければならない。

昨日、コバヤシから来たメールは、次のようなものだった。

「福岡のコバヤシです。どうも。例の披露宴は出席することにしましたが、二次会の方は夜になり、そうなると東京に連泊しなければならず、どうしようか迷っています。貴兄が二次会にも出席するのであれば、私も出席せざるを得ないかと考えておりますが、どうしますか?ちなみに、披露宴での我々のスピーチは漫才になってしまうからという理由で却下されており、二次会でスピーチ=漫才?を期待されているようです。では」

このメールに関する感想は、昨日このブログに書いたとおりである。

今日、私は次のように返事を書いた。

「コバヤシ殿。私は結婚式の2次会に出席しない「主義」なのですが、どうしましょうかね。「主義」を曲げて行くことにしましょうか。しかし、2次会をやるんですか。知りませんでした。驚きです。2次会に参加するのはまあよいとしても、そこで漫才をしても誰も聞かないと思いますよ。やめた方がいいと思うけどなあ。ま、最終判断は貴兄にまかせます。では」

すると、夕方になってコバヤシから返事が来た。

「まずは返信ありがとうございます。でもまったく私のメールに対する回答になっておりませんね。このままメールをやり取りしても事態は進展しないと思いますので、のちほど電話させていただきます。では」

うーむ。あの返答ではやはり埒があかなかったか。

夜になって、コバヤシから電話が来た。

「何なんだあのメールは?取引先の相手の目の前で吹き出しそうになったじゃないか!」

どうやら商談中に私からのメールを見てしまったらしい。

「2次会に行くか行かないかを聞いているだけなのに、何だよ「2次会に出ない主義」って!たかが2次会に出る出ないで「主義」だなんて、相変わらず大げさなんだよ!」コバヤシが呆れて言う。「それになんだよ、最終判断は俺にまかせるって!」

しかし私からしたら、「おしかけスピーチ」を提案したことの方が問題だ。

「何でスピーチをしたいなんて、そんなみっともないこと、こっちから提案したんだ?」私が詰問する。

「だって、お前、やりたいだろ?」

「いや、やりたくなんかないよ」

「いや、お前ならやりたいはずだ」

しばらく押し問答がつづいた。

「本当にやりたくないんだよ」と私。

「でも当日になってみろ。もしお前ではなくてほかの奴がスピーチをしたら、『俺のスピーチの方がもっと上手くできたんだがなあ』と、あとで絶対グチグチ言うに決まってんだ」

「……」

返す言葉がない。たしかにそうやって愚痴る自分の姿が目に浮かんだ。しかし、やりたくないのは真実だ。

「だから俺が気を利かして提案してやったんだ」

いかん、何とか反論しなくては。

「だいたい、スピーチを自分から立候補するなんて、自意識過剰なんだよ!ああいうものは向こうから依頼が来るのを待つもんだ」

「自意識過剰なのはお前の方だろ!…まったくめんどくせえ奴だ」コバヤシは再び呆れた。

「で、けっきょくどうすんだ?2次会行くのか?行かないのか?それによっては、東京に連泊しようかどうしようか考えなきゃいけないんだからな」

「招待のハガキが来れば行こうかとは思うけど、まだ来てないからなあ…」と私。

「なんだい、お前の「主義」はその程度だったのか」コバヤシが私をからかった。

「…ま、2次会に行く行かないにかかわらず、せっかく久しぶりに会うんだし、仲間もたくさん来るだろうから、その日に帰るなんて言わずに、もう1泊していけよ」

「…そうそう、それだよ!」コバヤシが言った。

「え?」

「最初からそう言ってくれれば、こっちだって東京に連泊しようって、決められるんだ。なにもまわりくどく「主義」だ何だなんて言わなくったってよかったんだ」

「…そうか…、そういえばよかったのか」

「そうだよ。よかったよかった、結論が出て。実は電話しても結論が出ないんじゃないかって、心配してたんだ。高校時代なんか、部活のコンパに行く行かないで3時間くらいああでもないこうでもないと長電話してたこともあったしな」

再び私は返す言葉がない。

「とにかく、お前も成長したってことだ。よかったよかった」

かくしてコバヤシとのバトルは終了。3月の再会を約束した。

いかん。コバヤシと電話をすると、高校時代の「厄介でまわりクドくてグチグチした性格」がめいっぱい出てしまうな。

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仰天提案、却下!

2月9日(水)

1カ月ほど前、福岡に住む高校時代の友人、コバヤシから電話があったことは、すでに書いた。

で、その時にコバヤシにこのブログの存在を教えたら、読んだとみえて、数日してからメールが来た。

「オチがあるんだか無いんだかわからないような文章が、相変わらずお前らしい」

という感想と、

「ただ、電話のやりとりの一部始終を書かれたのには閉口した。あれではまるで、オレがダメ出しばかりしているイヤなヤツだと思われるじゃないか」

というクレームが書かれていた。

「閉口した」という言いまわしが、いかにもコバヤシらしい。

ただ、なんだかんだクレームをつけても、メールの様子からはまんざらでもないような感じに思えた。

ということで、続きを書く。

さて、じつはその時の電話の本題というのは、「高校時代の吹奏楽部の1学年下の後輩どうしが、3月に結婚することになった」ということだった。OとFさんである。

OもFさんも、高校時代はもちろん、卒業してからもよく会っていたので、ご両人とも私にとっては「かわいい後輩」である。それは、コバヤシにとっても同じだった。

「そこで提案なんだが…」とコバヤシ。

「披露宴のスピーチで、2人で漫才しよう」

仰天の提案である。

「ま、漫才?正気か?」と私。

「だって、あの2人が結婚するんだぜ。2人をいちばんよく知ってる俺たちが祝福しなくてどうする」

「それはそうなんだが…」

私が意外だったのは、ふだん、そんな気の利いた提案なんぞしたことのないコバヤシが、これまでにないようなハイテンションで、とんでもないことを言いだした、ということである。たぶん、酒でも飲んでいるのだろう。

「イヤだよ、俺」と反論すると、

「またはじまった。イヤだイヤだ、と言いながら、お前、本当はやりたいんだろう。それがお前の性格だ」

さすが、コバヤシは私の性格を知りつくしている。

だが、今度ばかりは、本当にイヤなのである。だいいち、おごそかな披露宴で内輪ウケの漫才をすることほど、寒いことはないのだ。コバヤシにはそれがわかっていない。

ま、めでたい話を聞いて、よっぽど嬉しかったんだろうな、と察した。

さて、今日、コバヤシからメールが来た。

「2次会には出席しますか?貴兄が出席するんなら、私も出席します」という内容である。

2次会も開くのか。はじめて知った。私は結婚式の2次会には、極力出ないことにしているのだが…。

メールには続きがあった。

「ちなみに、披露宴での我々2人のスピーチは、漫才になってしまうという理由で却下されました。でも2次会では期待されているようです」

ええぇぇぇ!?本人たちに提案したのかぁぁぁぁ!?

信じられん。

私はこれまで披露宴のスピーチを頼まれたことが何度もあるが、そのたびに、それがプレッシャーとなって、憂鬱な気持ちになるのだ。だから、祝福したい気持ちはあっても、自分からスピーチをしたいなどと思ったことは、ただの一度もない。

それに、冷静に考えてみろ。披露宴で漫才スピーチが許されるわけないだろ!家族や親族が集まって、一生に一度の大切な思い出の舞台である。高校時代の恥ずかしい話を暴露するようなスピーチをしたら、それこそ台無しである。

それに加えて、結婚する2人は、もはや世間知らずの若者ではない。さまざまな人生経験を経てきた2人である。その分別ある2人に対して、いまさら高校生のノリでしゃべる、というのも、2人に対して失礼である!

じゃあ、少しくだけた2次会でなら大丈夫か?

それも否である。

だいたい、2次会で漫才をしたって、これまた寒いだけだし、そもそも、2次会でのスピーチなんて、誰も聞いちゃいないのだ。

「まったく、厄介な先輩たちだ」と、主役の2人も思っているに違いない。

やめておいた方がいいぞ、静かに祝福すれば十分だ、と思うのだが、はたしてどうなることやら。

例によって、最終的な判断は、コバヤシにまかせよう。

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七五調には御用心

2月8日(火)

前回にひきつづき七五調の話。

最近は散歩をしながら、七五調のことばかり考えている。

七五調のタイトルは、なぜ私の身体にしみついているのか?

バブル期以前の七五調のタイトルを思い出してみた。

近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」(1981年)

チェッカーズの「ギザギザハートの子守歌」(1983年)

テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」(1986年)

これらはいずれも、私が中学校から高校にかけて流行った歌である。なるほど、さがしてみるとけっこうあるもんだな。

しかし、これらの歌は、いずれも私の「七五調原体験」ではない。

では、私の「七五調原体験」は何か?

必死に記憶の糸をたぐりよせると、小学校5年生の時の思い出につきあたった。

小学校5年生の時、学校の課外活動で「音楽鑑賞クラブ」というクラブに入っていた。

「音楽鑑賞クラブ」とは、小学校のクラブ活動の時間に、音楽室でクラシック音楽を聴くという「とっても素敵な」クラブである。

といっても、当時私はそんなにクラシック音楽が好きだったわけではなかった。担任の先生に言われて、仕方なく入っていたのである。

4年生から6年生の3年間、担任だったその先生は、厳格で恐い先生で、私は何度もグーで頭を殴られたことがある

その先生はクラシック音楽がとても好きで、ご自分で「音楽鑑賞クラブ」というクラブを作り、私もそのクラブに入ることになったのである。

最初は先生のすすめるクラシック音楽を聴いていたのだが、そのうち、「次回からは、みなさんのお気に入りのクラシック音楽を聴くことにしましょう。みなさんの好きなクラシックのレコードを持ってきて、その曲をかけながら解説をしてください。ただし、みんなが知っているような有名な曲はダメですよ。あまり知られていなくて、しかも評価の高い曲を選んでください」と、およそ小学生には難題とも思われる課題をつきつけてきたのである。

つまり、ベートーベンの「運命」とか、そういうベタな曲を封じられてしまったわけだ。

困った。全然クラシック音楽なんか知らないのに、「クラシック通」を思わせるような選曲をしなければならない。とりあえず、おこづかいを握りしめて、レコード屋に向かった。

当時はまだCDなんかなかったからね。LPですよ、LP。レコード屋のクラシックコーナーに置いてあるLPのジャケットを片っ端からとりだしては見、とりだしては見、して、やがて1枚のレコードにたどりついた。

ベルリオーズという作曲家の「幻想交響曲」というレコードだ。

Imagescaclwzt7なぜ、そのレコードを選んだかというと、ジャケットの絵がとても綺麗だったからである。それに「幻想交響曲」というタイトルが、文字どおり幻想的で、なんとなく魅力的である。

よし、これなら、「クラシック通」ぶることができるぞ。私はベルリオーズという作曲家のことも、「幻想交響曲」という曲のこともまったく知らないまま、「ジャケ買い」してしまったのである。

次の週のクラブの時間、私はベルリオーズの「幻想交響曲」を紹介した。

「どうしてこの曲が好きなのかい?」と先生。

どうして好きなのか、と聞かれても、私はこの曲にまったく思い入れがないのだ。

「それは、…その…、ジャケットが綺麗だったので…」

「……」

やはり私には、クラシックの素養が全然ないことを悟った。

さて、次の週のことである。

今度は6年生の女子の先輩が担当する番だった。その先輩はとてもやんちゃな人で、およそクラシック音楽とは無縁な生活をしているようにみえる。

「今日は、みなさんにこの曲を紹介したいと思います」

そう言うと、レコードの上に針を落とした。

聞こえてきた曲は、クラシックではなかった。ロックである。

しかも、しゃがれた声で、日本語の歌詞も聞き取りにくい。歌詞の意味もよくわからない。

いったい何なんだ、この曲は!?

その先輩が説明をはじめた。

「この曲は、サザンオールスターズというバンドの、『C調言葉に御用心』という曲です!」

「C調言葉に御用心」???

タイトルの意味すらわからん。

それよりなによりビックリしたのは、「クラシック音楽を選んできなさい」と先生に言われたにもかかわらず、その先輩は、ロックのレコードを持ってきた、ということである。

厳格で恐い先生のことである。いつまた突然怒り出すかもわからない。私はヒヤヒヤした。しかし先輩は、悪びれた様子もなく、嬉々としてその曲がいかにすばらしいかを説明している。

曲が終わった。

……

先生が口を開いた。

「きみ、『C調』という言葉の意味を、知ってるかな?」

「いえ、知りません」

「『C調』とは『お調子者』という意味だよ。『調子いい(ちょうしいい)』という言葉をひっくり返して『しいちょう(C調)』という言葉になったわけだ」

そこから先生は、ひとしきり日本のロック音楽史におけるサザンオールスターズの位置、みたいなことを補足説明していたように記憶する。

「今日は特別です。来週からはまたクラシック音楽を選んでくるように」

音楽鑑賞クラブで、クラシック音楽以外の曲がかかったのは、後にも先にもその時だけである。

サザンオールスターズの「C調言葉に御用心」は、私に鮮烈な印象を残した。

そう、この「C調言葉に御用心」というタイトル。これこそが、私の「七五調原体験」だったのだ!

時に1979年のことであった。

いま考えてみれば、このころのサザンオールスターズの歌のタイトルは、七五調のものが多い。

「気分しだいで責めないで」(1978年)

「思い過ごしも恋のうち」(1979年)

「C調言葉に御用心」(1879年)

「チャコの海岸物語」(1982年)

ひょっとして、「七五調」の語感を私たちの世代に植えつけたのは、サザンオールスターズだったのかも知れないな。

さて、話はここで終わらない。

さらに調べてみると、「バブル期を象徴する映画」の1つである「彼女が水着にきがえたら」(1989年)の挿入歌として、サザンオールスターズの「思い過ごしも恋のうち」と「C調言葉に御用心」が使われていることがわかった。

バブル期の「流行仕掛人」は、じつは古典的な「七五調」を好むような感性の持ち主だったのだ。

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バブル世代の七五調

このブログ、ごく身近な人以外にはまったく宣伝していないので、このブログが何かの影響力を持つ、ということは、まったくない。

それでも、ごくたまに、このブログが何かの役に立ったり、影響を与えたりする、といったことがある。たとえば、最近書いた「いまさらワクチン」は、「いまさら『ヨン様』」に次いで、なぜかアクセス数が多い。ということは、たまたま「いまさら」「予防接種」などと検索して、このブログを読んだ人が、「いまからでもインフルエンザの予防接種を受けても遅くない」と思いなおし、予防接種を受けに行ったりすることもあるのではないだろうか、と想像する。

もっとも、これまで「ブログを読んで予防接種に行くことにしました」と言ってくれた人はいない。だから最近は、自分から積極的にキャンペーンをすることにした。具体的には、研究室を訪ねてきた学生をつかまえて、とくに就職活動をひかえた3年生を中心に、「肝心なときにインフルエンザになったら大変だから、いまからでも遅くない、予防接種を受けなさい」と言う「ブーム」が、私の中に起きているのである。ま、どれだけ効果があるかはわからないが。

ほかにもある。このブログで紹介した映画やドラマを見た、という人もいた。ただ、マニアックすぎてレンタルビデオ屋に置いてなかった、と言ってきた人もいた。

あと最近では、このブログを読んで高野秀行氏の本の愛読者になった、という人もいた。これなんかは、ちょいとした書評なんぞよりも影響力があるんじゃなかろうか。

さて、その高野秀行氏の本について、あることに気がついた。

私が、「三部作」と言っている傑作がある。

『ワセダ三畳青春記』

『異国トーキョー漂流記』

『アジア新聞屋台村』(ただし未読。たぶん傑作だろう)

この「三部作」は、いずれもタイトルが七五調なのである。

このあたりが、いかにも私と同世代らしいな、と思う。

いまの若い世代の人なら、こういう七五調のタイトルはまずつけないだろうな。バブルが崩壊してから大学生になった私の妻も、「内容は面白いが、タイトルのつけ方が古いんだよ!」と思っているに違いない(直接確かめたわけではない)。

私が高野氏の本にしっくりくるのは、文体を含めたこうした「リズム」にあるからなのだろう。

ちょっと話が脱線するが、学生時代に劇団四季の「キャッツ」というミュージカルを見にいったときに、歌われている歌の歌詞が、ほとんど七五調だったことに笑ってしまった。「俺は天下のならず者」とか。アメリカのミュージカルも、日本の作家の手にかかれば、いとも簡単に七五調の日本的な歌詞に変わってしまうのだ。それだけ七五調は、私の身体にしみついている、といってよい。

しかし、バブル世代の私たちにとって、なぜ古典的な七五調がしっくりくるのか?

さきほど散歩しながらそのことを考えるていると、またあることに気づいた。

バブル全盛期に公開された、いかにも「バブルを象徴する映画」は、次の3つだった。

「私をスキーに連れてって」(1987年)

「彼女が水着にきがえたら」(1989年)

「波の数だけ抱きしめて」(1991年)

タイトルが全部七五調ではないか!

バブル全盛期に数々の流行を生み出したことで知られるホイチョイ・プロダクションが制作した映画、いわゆる「ホイチョイ三部作」は、いずれもタイトルがなぜか古典的な七五調なのである(ちなみに、私はこの3部作をいずれも観たことがない)。

そういえば、

「就職戦線異状なし」(1991年)

という映画もあったな。これも七五調だ。この映画なんか、私が大学4年の時公開されているから、ド「ストライク」な映画なのだが、残念ながらこれも観ていない。

つまり、バブル世代にとって、七五調のタイトルは身体にしみついたものだったのだ!

かくいう私も、パク・ヨンギュの歌のタイトルを「今日も私が我慢する」と、わざわざ七五調で翻訳していたことに、あらためて気づく。

そしてお気づきになったかな?今回のタイトルも、七五調である。

そしてこのブログのタイトルも。

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特急のすれ違う駅

1月29日(土)

5日ほど前、隣県のM市のYさんから電話があった。

わが師匠が、M市で講演会をされるので、私にもぜひきてほしい、という電話である。

そういえばそうだった。わが師匠は30日にM市で講演会をすることになっていたんだった。Yさんの電話で思い出した。

私は10年ほど前から、M市のとある仕事をお手伝いしており、Yさんとはそのころからの知り合いである。そしてYさんは、私が師匠に出会うはるか以前から、師匠のことをよくご存じで、今回の講演会も、師匠を慕うYさんのたっての企画で実現したのである。

たまたま予定がなかったので、「うかがいますよ」と言うと、

「前日の夜に先生を囲んで懇親会をやりますので、ぜひそれにも出てください」という。

「わかりました。でも、何のお役にも立ちませんよ」

「いえ、来てくださるだけで結構です」

というわけで急遽、1泊2日のM市行きが決まった。私としても、久しぶりにM市に行けるのは嬉しかった。

隣県、といっても、M市まで行くには、高速バスと鉄道を乗り継いで3時間ほどかかる。「浜通り」といわれるこの地域は、海風は強いが雪がほとんどなく、それだけでもうらやましい。

S駅から特急に乗り、夕方4時13分、M市のH駅に到着した。師匠は反対の東京方面から来る4時14分着の特急でH駅に到着した。両方向から来る特急は、このH駅ですれ違うことになっているのだ。

さて、この日はただ単に飲むために前乗りしたわけではない。懇親会がはじまるギリギリまで、博物館で資料調査をする。師匠らしい時間の使い方である。ご本人は否定されるが、根っからの仕事好きなんだな、と思う。

そして夜7時から懇親会。1次会は偉い方々も集まりやや形式ばった会合だが、師匠の「座持ちのよさ」のおかげで場が和む。私にはまねのできないことだ。私は相変わらず横で、「はあ」「そうですね」と相づちを打つことしかできない。

右隣に座っていたYさんが私だけに聞こえるように耳打ちをした。

「3日くらい前に、先生に『○○さんも講演会を聞きにいらっしゃるそうですよ』と連絡したんです」

○○さん、とは私のことである。Yさんが続ける。

「そしたら先生が、『○○君も来るのか。じゃあ、講演会の内容を練り直さなきゃいけないな』っておっしゃって、今日、新しいレジュメをお持ちになったんです」

「そうだったんですか」

「私、それを聞いて、すごいなって、涙が出そうになりました。だってそうでしょう。○○さんの前で恥ずかしい講演をしたくない、て思って、たぶんこの3日間、先生は必死に内容を考え直されたんですよ。あれだけ頂点を極めた先生でも、まだ弟子には負けたくない、と思って前に進んでおられるんだなあ、と」

なるほど。私は長年のつきあいで、師匠が講演会でどんなお話をなさるのか、だいたい見当がつく。だからこそおざなりの講演ではダメで、なんとか私をギャフンといわせるような講演をしなければ、と思われたのかもしれない。でも、常にそういう気持ちがあるからこそ、頂点を極められたのだろう、とも思う。

「おかげで私たちも、さらに力のこもった、新しい知見に満ちた講演を聞くことができるんです。だから○○さんに来ていただいて、正解だったんです」

なるほど。そういうことか。

「お会いしたら、ぜひこのことだけは言わなきゃ、て思って」

全くお役に立てないと思っていたが、この不肖の弟子、まだ使い道があるようだ。

2次会は気心の知れたメンバーだけで日本酒の美味しい店に行く。夜11時まで、久しぶりに、美味しい地酒だけを飲み続けた。

1月30日(日)

午前中、ひきつづき資料調査。そして、午後1時半から講演会である。

講演会会場に人が入りきらず、外にも席を設けるという盛況ぶりだった。

「こんなことは、この会場開設以来はじめてです」とYさん。

そして熱気のこもった講演会が3時半に終了。Yさんもホッとしたことだろう。

会場をあとにし、H駅へと向かう。

師匠は私が昨日乗ってきた4時13分着の特急で、そして私は師匠が昨日乗ってきた4時14分着の特急で、それぞれ反対方向に帰ることになる。

「ちょうど24時間滞在したことになるなぁ」と師匠。

「そうですね」と私。

そしてそれぞれ、慌ただしく特急に乗り込んだ。

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