雪を連れていく
2月11日(金)
「雪を連れていく」といっても、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」のラストシーンのことではない。
…相変わらずわかりにくいことを書いているな。
雪の降る勤務地を逃れて東京に行ったら、雪が降っていた、というハナシである。つまり雪も一緒についてきたのだ。
「雪を連れてきたね」とは妻の弁。
もう勘弁してくれよ~。これでは何のために東京に来たのかわからない。
東京までの新幹線の中で、高野秀行『幻獣ムベンベを追え!』を読了。
その後、同氏の『アジア新聞屋台村』を読みはじめる。のっけから、笑いが止まらなくなった。
前者と後者では、文体が少し違う。前者は事実を淡々と述べていて比較的あっさりしているのに対し、後者はやや作り込んでいる。前者が大学在学時代、後者はもっと後に書かれたものなので、年齢を重ねて文体に磨きがかかった、というべきか。妻はあっさりした文体が好きなようだが、私はどちらかといえば、後者の「くどい」文体の方が好きである。
『ムベンベ…』は、大学時代、探検部に所属していた著者が、探検部の仲間たちとともにアフリカのコンゴにいると言われている怪獣「ムベンベ」を探しに行ったときのことを記録した、レポートである。
過酷な自然環境、しかも、まったく異なる風習を持つ地域で、大学生の彼らは、抱腹絶倒というべき、さまざまな体験をする。
読んでいて、自分の大学時代のことを、少し思い出した。
私は大学4年間、発掘のサークルに所属していた。
毎年夏休みになると、2週間、長くて1カ月ほどの、発掘調査に出かけた。
私たちは大学1年から3年までの3年間、夏休みに山梨県の山の中で調査を行った。そこは、戦国時代の有名な大名がもっていた「隠し金山」があったとされ、そこで本当に金の採掘が行われていたのかどうかを確かめる、という調査をしたのである。
「隠し金山」というくらいだから、人目のつかない、山深いところにある。電気も水もない山奥である。ある年は山中にテントを張り、沢の水でのどの渇きをしのぎ、ある年は、地元に住む水源管理のおじさんの家の離れを借りて、そこをベースキャンプに、毎日、山中を調査したのである。
電気もない山の中だから、夜は漆黒の闇である。テレビも新聞もないから、世の中でどんなことが起こっているかわからない(たかだか2週間~1カ月程度のことなんだが)。数日に1度程度、山を下りて食料の買い出しに行くのがせめてもの楽しみだった。
食事は自炊で、当番制である。数日に一度、炊事当番となって、その日は調査をせずに炊事に専念することになっていた。
夜は、テレビもラジカセもないから何もやることがない。仕方がないので酒を飲むしかない。あとは、歌謡曲の歌詞を書いた分厚い本を片っ端からめくりながら、アカペラでみんなで歌を歌を歌うことくらいしかやることがなかった。
いま思い返せば、次元はまったく違うが、高野氏がやっていたことと、あまり変わりないようにも思える。
大学2年のとき、私はそのサークルの会長になった。その年の夏休み、昨年に引き続いて「隠し金山」の調査を行った。
地元の水源管理のおじさんの家の「離れ」の小屋を借り、そこをベースキャンプにして、毎日、車で調査現場に向かうことになった。といっても、調査現場までは車で入れないから、車の入れる山道のところで降ろしてもらい、そこから山道を30分くらいかけて歩いて、現場に向かった。
車は、地元の役場で借りた、廃車寸前の「ハイエース」という、10人乗りくらいのバンである。
当然、運転も私たちがやらなければならない。だが、私を含めてみな、免許を取ったばかりなので、(オートマではなく)マニュアルの大きな車を、しかも山道で運転することには全然慣れていなかった。私も一度、脱輪したことがある。
ある日のことである。
いつものように山中での調査が夕方に終わった。
調査が終わるころ、ベースキャンプの小屋で食事の準備をしている炊事係がハイエースを運転して、調査現場の近くの、車が入れる山道まで迎えに来ることになっていた。だがその日は、いつまでたってもハイエースが来ない。
しばらくたって、あたりが暗くなり始めた頃、その日の炊事係だったSがとぼとぼと歩いてやってきた。車で来た気配はない。
「車はどうした?」みんなが不審に思って聞く。
「来る途中で崖から落ちた」
「ええぇぇ!!!???」
Sの言葉に、一同は状況が飲み込めない。
「どういうことだ?」
「山道を運転してたら、途中でハンドルを切りそこなって、崖から転落したんだ」とSが説明する。
「で、お前は…?」
「幸い、車が下まで落ちずに木に引っかかったんで、自力で車のドアを開けて、崖をよじ登ってきた」
なんと!運転していた彼は、奇跡的に崖から転落した車から、脱出できたというわけだ。
もし、転落した車が木に引っかかることなく崖下に転落していたら…、そしてそこに我々が全員乗っていたとしたら…。
あわや、大惨事である。
とにかく、Sが助かってよかった。
さて、この事故を知らせる手だてがない。1989年当時は携帯電話なんてなかったし、もしこの時代に携帯があったとしても、この山中では圏外で使えなかっただろう。
すると1年上の先輩のKさんが、
「僕が水源管理のおじさんのところまで走って伝えてくる!」
と言い出した。
「Kさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫。高校時代、陸上部で長距離の選手だったから」
そう言うと、Kさんは颯爽と山道を駆け下りていった。
Kさんのおかげで、事故の話が集落に伝わり、それを聞いた人たちが車で私たちを迎えに来てくれ、無事に戻ることができた。
翌日、明るくなってから事故現場へと向かった。
見ると、ハイエースが崖のすぐ下の木に、かろうじて引っかかっているのが確認できた。もしここに引っかからなければ、ひとたまりもなかっただろう。
水源管理のおじさんがどこからかクレーン車を調達してくれて、ハイエースをつり上げることができた。
もともと廃車寸前である上に、崖から落ちてさらにぼろぼろになったハイエースだったが、つり上げられた後も、私たちの大切な交通手段として調査の最後まで活躍した。
ただ、クレーン車による引き上げの代金として、調査の予算50万円のうちの25万円もかかってしまった。つまり、調査に必要なお金の半分が、クレーン車代で消えてしまったのである。調査期間の後半には食料を買うお金が底をつき、渓流釣りで釣れた魚を食料にした。
それと、伝令として走ってくれた先輩のKさん。
山道を走ったことが原因で、持病のぜんそくが悪化して、数日間、ベースキャンプの小屋で寝込んでしまった。
私たちは、そんなことを知らずに、Kさんに伝令をお願いしてしまったのである。知っていたら、止めていたであろう。
「どうして言ってくれなかったんですか!わかっていたら代わりの人間が行ったのに」
「いやあ、大丈夫だと思ったんだがねえ」
どこまでも人のよいKさんであった。
この年の調査は、本当にいろいろなトラブルにたたられた。だがみんな無事に調査を終えることができたのは、本当に奇跡だった。
ほかにもいろいろなことがあったが、しだいに記憶の彼方へと遠ざかってしまった。あのとき、しっかり記録をつけていればなあ、と『ムベンベ…』を読みながら、悔やんだのであった。
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