« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

生きものの記録

3月31日(木)。東京から勤務地に戻ってきた。

黒澤明監督の映画「生きものの記録」(1955年)は、おそらく黒澤監督の映画の中でもっとも地味で、もっとも当たらなかった映画である。

脚本を担当した巨匠・橋本忍が、「『生きものの記録』の興行の失敗は想像を絶するひどさで、こんな不入りは自分の過去の作品にも例がなく、私にはその現象が信じられなかった」(『複眼の映像 私と黒澤明』文春文庫)と述懐するほどである。

傑作「七人の侍」の次につくられた映画だから、なおさらその地味な印象が際立つ。

原水爆や放射能の恐怖におびえた老人(三船敏郎)が、しだいにその被害妄想をふくらませ、ついには全財産をなげうって、家族を引きつれてブラジルに移住しようと計画を立てる。

しかし老人の子どもたちは、自分たちの財産をなげうってまでブラジルに行きたいとは思わない。やがて子どもたちは、極度の被害妄想にとりつかれた父親と対立するようになり、老人はしだいに孤立を深め、ついには発狂してしまう。

なんとも暗くて地味な内容だが、この映画が作られた背景には、1954年に太平洋のビキニ環礁で行われた水爆実験で、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が死の灰をあびて被曝した事件がある。

そのころ、黒澤明の映画音楽を担当していた早坂文雄が、水爆実験のニュースに「こう生命をおびやかされちゃ、仕事はできないねえ」と黒澤にもらしたことがきっかけで、この映画の構想ができあがった、といわれている。

早坂文雄は黒澤明の映画音楽を数多く担当し、二人は盟友と呼ばれる関係であった。だが早坂は、この映画を製作している途中、結核で死んでしまう。早坂の葬儀で、黒澤は人目もはばからず泣きつづけたという。「生きものの記録」のクレジットには、「音楽 早坂文雄」のところに「(遺作)」と表示されている。

この映画が当たらなかった理由を、橋本忍は「企画の誤りと脚本の不備」にあった、と書いている。「脚本の不備」は措くとして、「企画の誤り」とはすなわち、この映画のコンセプトが、決定的に誤っていた、ということである。橋本は述べる。

「原爆に被曝した人は気の毒で、こんなにも悲しいという映画なら、作り方しだいで当たる可能性もなくはない。だが原爆の恐怖にとりつかれた男の生涯 -人類が保有するもっとも不条理なもの、その原爆にはいかに対処し、いかに考え、いかに解決すべきかなどの哲学が、映画を作るお前らにあるはずがないと、観客は頭から作品の正体を見抜き、徹底した白眼視の拒絶反応で一瞥すらしないのだ」

これと同様の批評が、映画評論家の佐藤忠男の意見である。佐藤は失敗の理由を、

〈世界的な規模において政治のあり方をどう変えてゆくか、というところにしか解決の道のあり得ない原水爆戦争の問題を、ある特殊な一家族の家庭内のトラブルの問題にしてしまったことである〉(小林信彦『黒澤明という時代』文藝春秋より引用)

とまとめている。ただし佐藤は、

〈しかし、失敗作であるにもかかわらず、これは黒澤明にとってもっとも重要な作品のひとつであり、興行的に成功した彼の他の多くの作品などより、ずっと貴重な、誠実な魂をもった作品だと思った〉と評価しており、小林信彦もこれと同様の感想を持っている。

逆に言えば、原水爆や放射能の恐怖そのものではなく、その恐怖をめぐる人々の心の動きに焦点を当てたことが、この作品のキモである。いま私たちが直面している問題を考えるとき、この視点は、決して間違ってはいなかったのだ、と思う。

なにより黒澤明は、盟友・早坂文雄の「こう生命をおびやかされちゃ、仕事はできないねえ」という言葉から着想を得てこの作品を作ったことを、忘れてはならない。脚本に関わった橋本忍をはじめとして、観客に至るまで、ほとんどの人びとは、早坂の抱いたこの不安を、この当時において、現実の問題としてくみとることができなかったのではあるまいか。

だが、早坂の抱いた不安は、まさに今の私たちのとりまく状況を説明しているように思う。

私たちはようやく、早坂文雄の感性に気づきはじめたのだ。

だから今こそ、「生きものの記録」を見るべきである。

| | コメント (0)

手回しシュレッダー

3月29日(火)

久しぶりに自分の実家に帰る。

5実家の近くを歩いていて見つけたフェイスハウス(しつこいなあ)。

だんだん顔だかなんだかわかんなくなってきた。

この日記には書かなかったが、2カ月ほど前の1月17日(月)に、父が手術をした。

1月5日(水)のことだったか。職場の研究室で、4年生の卒論指導をしていると、電話が鳴った。母からである。

深刻な声で、父の手術に関して、医者の先生がぜひともおまえに説明したいそうだ、と言う。

しばらくして、医者の先生から電話が来た。

「手術じたいはむずかしくないものですが、持病をかかえているために、手術中や手術後に、危険な状況におちいる可能性があります。かといって、放っておくと、この先の治療がかなり大変なものになります。手術をするかしないかを、よく考えて決断してほしい」ということだった。

「電話ではよくわからないので、直接お会いしてお話を聞きたい」と私。

2日後の1月7日(金)の夕方、東京に戻り、病院で1時間ほど、医者の先生の懇切な説明を聞いた。

「ご本人は手術を受ける気満々でしたよ。『だって、手術しなきゃ、オレ、死んじゃうんだろ』っておっしゃってましたから」と医者の先生。

父らしい言い回しだ。父がやる気ならば、こちらが何も言うことはない。

だがさすがの内弁慶な私も、この時ばかりはいろいろな考えがぐるぐると私の頭の中をかけめぐった。

1月17日(月)、約4時間の手術が終わり、術後の回復も順調だった。そして10日ほどたって退院した。

それから2カ月、今のところ、父は何の問題もなく、ふつうの生活をしている。

そして私は2カ月ぶりに、実家に帰ったのである。

前にも書いたように、父は、暇をもてあますことにかけては、右に出る者はいない。退院後も、あいかわらず暇をもてあましているようである。

今日も、私が実家の居間で昼寝をしようと横になっていると、耳元でシャカ、シャカ、シャカ、と音がする。気になって眠れない。

シャカ、シャカ、シャカ、シャカ…

「うるさいなあ」

あまりに気になって起き上がると、父が何やら作業をしていた。

「何だよ?それ」

「手回しシュレッダー。買ってきたんだ」

父は、手動のシュレッダーを買ってきて、それで一生懸命、いろんな紙のゴミをシュレッダーにかけているのだ。ハンドルを手でくるくると回すと、紙が細く切り刻まれる。シャカ、シャカ、シャカ、という音は、その音だったのだ。

「何でそんなことやってるの?」

「だって、個人情報が書いてあったりするだろ。そういったものがもれたら困るから」

あのねえ。わが家みたいな一般家庭で、機密漏洩の恐れがある書類なんて、ないでしょう!そのエネルギーを、手回し懐中電灯とか、手回しラジオに使ったらどうだ。

シャカ、シャカ、シャカ…

父はひたすらシュレッダーのハンドルをまわし続ける。細く切り刻まれた紙が、ビックリするくらいの量になっていく。

暇をもてあましてどうでもいいことをする、という父の癖(へき)は、退院後も変わらない。

すっかり日常にもどったのだな、と安心した。

それよりも、3月11日の地震を経験してからというもの、2カ月前の私の心の動揺など、たいしたことではなかったのだ、と、今になって思う。

| | コメント (0)

飛行時間は45分

3月28日(月)

朝8時半、ガソリンを入れようと、車で近くのガソリンスタンドに行く。すると、すでに長蛇の列である。しかし、ガソリンがまったく手に入らない、ということではないらしい。

待つこと2時間、ようやくガソリンを入れることができた。

待っている間、暇だったので、あたりを見回すと、フェイスハウスがあるではないか。思わず写真を撮った。

3巻をした四角四面の頑固オヤジ。

4こちらは、ちょっと目と目の間が離れている人。

ガソリンを入れ終わってホッとしていると、妻からメールが。「用事がないなら東京に帰ってくれば?」

別に用事がないわけではないのだが、たしかに地震が起こってから以降、まったく勤務地から外に出ていない。ここらあたりで家族に顔を見せておかなければ、次はいつになるかわからない。先日、無事に卒業生を送り出したことだし、少し休暇をもらって、勤務地を離れても許されるだろう。

それに、東京の状況も気になる。

インターネットで調べてみると、13時40分発の飛行機の便に空席があるという。帰りの便も確保できそうである。

ということで、急遽、飛行機で東京に帰ることにした。

インターネットで往復の予約をすませ、職場に行ってひとつ用事をすませ、また自宅に戻って火の元と戸締まりを確認して、車で空港に向かう。当然、東京へ行くことなど考えていなかったから、着の身着のままの出発である。2時間かけて入れたガソリンは、空港までの移動に役に立った。

13時40分をちょっと過ぎて、飛行機が離陸する。機内アナウンスが流れる。

「飛行時間は、45分です」

ええぇぇっ!よ、45分!速いなあ。ふだんなら新幹線で3時間もかかるのに。

交通事情はあいかわらず悪いのにもかかわらず、ふだんより早く着くとは、何となく複雑な気持ちである。

あっという間に東京に着いた。今日の午前11時頃に東京行きを決断してから、4時間もたっていなかった。

| | コメント (0)

減らず口、あるいは顔っぽく見える家

地震が起こってから、ツイッターはさまざまな流行語や名言を生みだしたらしい。

全然知らない人のツイッターで、たまたま見つけたつぶやきが、ストンと心に落ちる。

「どうして「がんばれ日本」に心が浮かないのか。なぜ「ひとつになるために」「団結力」「共に生きよう」……そういったキャッチコピーに不愉快なものを感じるか。それは、この国に住む人はいつも少数の異質な人を排除して「ひとつ」「団結」を作ってきたからだ。包括的「ひとつ」ではなく排他的なのだ」

ほうれん草が風評被害でまったく売れないとニュースで見て、ほうれん草をめったに買わない私も、アッタマきたんで買うことにした。もっとも、地元産だが。これからどんどんほうれん草を食べることにしよう。

そのことを妻にメールで言うと、さっそく返事が来た。

「シュウ酸が含まれているから、食べ過ぎると結石になるよ」

……まったく反論の余地なし。減らず口とはこのことである。というか、私の「極端」な性格をよく知っている。

3月27日(日)

午前中、歩いて近くのスーパーに行くと、灯油を1人18リットルまで販売するという。急いで灯油タンクを家から持ってきて、灯油18リットルを手に入れた。

宣伝すると人が殺到するので、全然宣伝していない、という。つまり、情報は自分で手に入れろ、ということらしい。

隣近所にまったく知り合いがいない私からすれば、なおさら、自分で情報をとりにいかなければならない。

そこで次に、近くのガソリンスタンドまで歩いていくと、車が長蛇の列である。

交通整理をしている店員さんに、「何台くらい並んでるんですか?」と聞くと、「200台くらいです」と答えた。

「明日も営業しているんですか?」

「ええ、明日もやります」

頑張ればガソリンは手に入るかもしれない、ということか。だが並ぶのがなあ…。食堂でも何でも、並ぶのがキライなのだ。ということで、並ぶかどうか迷い中。

歩きついでに、散歩しながら、写真を撮ることにする。

以前から気になっていたことがあった。近所に、「顔っぽく見える家」があるのである。

「顔っぽく見える家」は、「フェイスハウス」ともいい、伊集院光氏が考案した写真のジャンルである。

これは、日ごろ見慣れている景色が、見方を変えれば全然違う世界に見えるという、いわば思考実験である。言い換えれば、妄想ともいう。

Photo_3  この機会に、写真を撮ってみるが、はたして顔っぽく見えるかどうか…。

Photo_4 2

「小錦っぽい」とは妻の評。

「顔っぽく見える家」のうちはいいが、「家っぽく見える顔」に見えるようになったら、妄想も重度だそうだ。

| | コメント (2)

見たこともない季節

3月26日(土)

どうでもいいことだが、実は私、武田鉄矢があまり好きではない。

ドラマ「白夜行」の刑事役は、どう考えてもミスキャストである。

ま、それはともかく、でも唯一すごいなあ、と思うのが、海援隊の「肩より低く頭(こうべ)をたれて」という歌である。

小学生の時に見た映画「ガラスのうさぎ」のエンディングで使われていた歌である。たぶん、「ガラスのうさぎ」という映画は、私と同年代ならば、みんな見ているはずである。そして男の子だったら、主役をつとめた蝦名由紀子に、恋をしたはずである(いまは芸能界を引退している)。

『ガラスのうさぎ』は、1945年3月10日の東京大空襲で家族をなくした少女が、さまざまな困難を経ながらたくましく生きていくという、高木敏子のノンフィクションである。いま調べてみたら、1977年に刊行され、第24回青少年読書感想文コンクールの課題図書となっているから、この当時の小学生は、たぶんみんなこの本を読んだのだと思う。1979年に映画化されているから、私は小学校5年生の時に映画を見ていることになる。

主役をつとめた蝦名由紀子は、私よりも少し上の年齢だが、小学校5年生の私にとっては、ほとんど初恋の人だったといってよい(しつこいな)。

この映画は、戦争ですべてを失った少女が、終戦後、少しずつ希望を見いだし、前を向いて歩いてゆくところで、エンディングをむかえる。その時に流れる歌が、海援隊の「肩より低く頭(こうべ)をたれて」という歌なのである。

この歌はほとんど無名だが、「贈る言葉」とか「人として」とか「思えば遠くへ来たもんだ」などよりも、はるかに名曲だ、と、個人的には思う。なにより歌詞がすばらしい。

いまこそ武田鉄矢は、この歌を歌うべきなのではないのか?「贈る言葉」ではなく。

いや、今が「その時」でないのだとしても、いずれ歌わなければならない歌だと思う。

「焼けた大地に 砕けたガラス

涙のように 輝いた

私はここから 歩きだす

声あるならば 大地を語れ

見たこともない 季節のことを

声あるならば 大地を語れ」

いま私たちは、「見たこともない季節」の中にいる。そして、声ある者は、「見たこともない季節」のことを、語り継いでいかなければならない、と思う。

| | コメント (3)

卒業式!

3月25日(金)

「なごり雪」とは、伊勢正三が生み出した言葉だろうか?

だとすれば、伊勢正三に感謝しなければならない。

雪国の人間からすれば、雪は必ずしも歓迎されるべきものではない。彼が九州出身だったからこそ、生み出された言葉かも知れない。

今朝は、雪が降り、すぐにとけた。「落ちてはとける雪」は、「なごり雪」と呼ぶにふさわしい。

本来ならば、卒業式が行われる日である。だが地震の影響で、卒業式は中止になった。その代わりに、大学の中で、学位記が事務的に配布されることになった。

事情はどうであれ、今日は記念すべき卒業の日である。私は久しぶりにネクタイを締めて、職場に向かう。

午前中、実直なA君が研究室にやってきたので、一緒に写真を撮る。彼は4月から故郷の長野県の職員として働くことになっている。「こういう機会なので」と、彼も背広を着てきた。

午後、4年生数名が研究室をおとずれる。Sさん(リーダー)、Kさん、Nさん(天然)、A君(元局長)、Wさん、Sさんといった人たち。

このうち、NさんやWさんは袴を着ていた。

先日、Sさん(リーダー)から来たメールに、「何より袴を着ることができないのが残念です。祖父母も私の袴姿を見ることができないのを残念に思っているようでした」とあった。たぶんこれは、ほとんどの女子学生たちの思いだろう。この思いがおそらくは、Sさんが1年後の卒業祝賀会をめざすきっかけとなったのである。

この4月から故郷の町の職員としてはたらくKさん。Kさんの故郷の町は、地震や津波、原発事故の被害を直接的に受け、いまは役場の機能そのものが、他の自治体に移っている。はたしてKさんが4月から職員として働けるのか、心配だった。

「やっと役場から電話が来ました」とKさん。「4月からさっそく働いてもらうので、作業着で来てくれと。それと、当分は家に帰れない可能性もあるので、着替えをたくさん持ってくるようにとも言われました」

さっそく最前線ではたらくのか。故郷を愛し、故郷に愛されたKさんのことだから、きっと大きな戦力となるだろう。

「なんか、卒業したっていう感じがしません。これから社会に出るという実感がわかないんです」とA君(元局長)。これはみんなの思いだろう。

3月11日の前と後とでは、何もかも変わってしまった。これから少しずつでも、失われた時間を取りもどさなければならない。「1年後の卒業祝賀会」の実現は、そのきっかけにもなるだろう。

「みんなで写真を撮ろう」私が提案する。

研究室では狭いので、廊下で写真を撮っていると、同僚が通りかかった。

「せっかくなんだから、こんなところで撮らずに、教室かどこかで撮りなさいよ」

そういわれればそうだ。なにもこんなうす暗い廊下で撮る必要などない。ということで、演習でよく使った教室に移動する。

黒板に、SさんとNさんがチョークで大きな字を書いた。

「2011.3.25 卒業式」

その黒板の前で、記念撮影をした。

ささやかだが、これが今年度の、私たちの卒業式である。

Photo

| | コメント (1)

相馬野馬追、2005年夏。

2005年の相馬野馬追を撮影した写真が大量にあったことを思い出した。福島県の浜通り北部で毎年7月23日、24日、25日の3日間にわたって行われる相馬野馬追は、東北地方の夏祭りのひとつとして有名である。いちど見てみたいなあと思いつつ、なかなか叶わず、2005年、2日目の本祭りだけだったが、ようやく見ることができたのであった。その時に感激のあまり、写真を何枚も撮りまくったのである。長らく未整理のままにしていたが、この機会に何枚かを紹介することにする。

2005年7月24日(日)

相馬野馬追は、初日の宵祭り(相馬市)、2日目の本祭り(南相馬市原町区)、3日目の野馬懸(南相馬市小高区)からなる。2日目の本祭は、騎馬武者たちが野馬追祭場地(南相馬市原町区の雲雀ヶ原祭場地)まで行軍する「お行列」からはじまる。

2

午前11時頃、野馬追祭場地に行列が到着する。

2_3

祭場地を見渡すことができる山上に御本陣が置かれ、相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の神輿が御本陣に運ばれる。

Photo_3

午後12時少し前、御本陣に安置された神輿の前で、拝礼する。 

Fukase

このとき偶然、卒業生のF君に会った。私のゼミではないが、私の授業を受けていた学生である。彼はこの町の出身で、卒業後に地元に戻ったのだ。おーい、元気かー?

Photo_4

午後1時頃、「甲冑競馬」がはじまる。甲冑を着た武者を乗せた10頭の馬が、1周1000mを走って速さを競う。これが10回行われる。

Photo_5

Photo_6

甲冑競馬が終わると、今度は1時半すぎから、「神旗争奪戦」がはじまる。打ち上げられた花火からひらひらと落ちてくる御神旗を、騎馬武者たちが奪いあう。青は相馬中村神社、赤は相馬太田神社、黄色は相馬小高神社の御神旗である。2枚のうち上は、青の御神旗を、下は黄色の御神旗を争奪している場面である。御神旗が空中を舞っている様子が、わかるかな?

Photo_7

2_4

個性ゆたかな旗をなびかせ、広い祭場地を縦横無尽に走りまわる騎馬武者たちの姿は、見ていて本当に美しい。

Photo_8

御神旗を勝ちとった騎馬武者は、御本陣のある山頂まで荒々しく駆け上る。

Photo_10

御神旗が御本陣に渡されると、騎馬武者は安堵の表情をうかべる。この一連の流れが、20回(御神旗は40本)にわたって行われる。

Photo_11

祭に参加した子どもたち。おーい、元気かー?

2_5

そして祭で活躍した馬たち。君たちも元気かー?

Photo_13

今回の地震は、地域の人々がこれまでつちかってきた、有形無形の文化までをも根こそぎ奪ってしまった。近い将来また、上の写真のように、ここにたくさんの人が集まって、みんなが笑いあえるお祭りを迎えられる日が来るだろう。そのことを信じよう。

| | コメント (0)

サクサクしっとりきなこ

3月22日(火)

午後、4年生のSさん(リーダー)、Sさん(しっかり者)、A君の3人が研究室にやってきた。昨日から、在来線がようやく復旧し、Sさん(リーダー)は、久しぶりに大学に来たのだという。

例の、引越荷物の問題は、解決の方向に向かったようだ。

「おかげで、荷物の問題はなんとかなりそうです。ありがとうございました」

先週の水曜日の会議終了後、「4年生が、アパートから退去するように言われているのに、引っ越しのめどが立たず困っている」と、事務長に相談してみたところ、「本部にかけあってみましょう」とおっしゃってくださり、引越荷物の仮保管場所を大学で確保してくれることになった。「親分肌」の見た目通り、事務長は頼りになる。4月で異動してしまうのが本当に惜しい。

やっぱり言ってみるものだなあ、思いを言葉にすれば、道は開けるのだ。

スモールライト」が必要なくてよかったね、と言おうとしたが、大人げないのでやめた。

雑談をしていると、4月から県庁に勤めることになるA君の携帯電話が鳴った。

電話を終えてもどってきたA君が言う。

「研修は4月18日からだそうです。辞令を受け取る4月1日から、研修のはじまる18日まで、いったい何をしたらいいんでしょうね」とA君。

「つまり18日までは全く役に立たない、ということか」と私。

「ええ。18日まで、ボクはまったく使い物にならない、ということですよ。だったら、その期間、給料は半分でもいいから、救援活動をしたいですね」

殊勝なことを言う。みんな、いいヤツらばかりだ。

だが、慌てることはない。

これから、君たちがやるべきことは山ほどある。この4月から、無事に新しい人生をはじめることのできる君たちには、これからきっと、大きなはたらきをしてもらうことになるだろう。

その時が来るまで、いまの気持ちを忘れずに、力を蓄えておこう。

「先生、ドーナツを1つどうぞ」とSさん(リーダー)。

駅前のチェーン店のドーナツ屋で買ってきたドーナツを、1ついただく。久しぶりのドーナツだなあ。ありがたい。

「あ、それと、Nさん(天然)が先生にと、これを」

見ると、私の好物の「サクサクしっとりきなこ」(100円)である。袋には紙が貼ってあって、「引越荷物の件ではありがとうございました」とNさんのメッセージが書いてある。

ここ最近、Nさんは天然ぶりを炸裂していたので、バツが悪くて研究室に来れなかったのだろう。

それにしても、私は「サクサクしっとりきなこ」が相当好きだと思われているらしい。「サクサクしっとりきなこ」さえ与えておけば機嫌がいいだろう、ということか。実際、機嫌はいいのだが。

それに、私のここ最近のはたらきが、Nさんには「サクサクしっとりきなこ」1袋分だったんだな、と思い、思わず苦笑した。まったく、憎めない連中だ。

| | コメント (0)

被災地に寅さんを!(追記あり)

3月21日(月)

昨日は散髪をしたおかげでスッキリした。そろそろ日常生活にもどらなければならない。

今日も午前中から市内を歩く。今日は、駅の方まで行ってみることにした。

地震の時、私は駅ビルにいた。駅ビルのCDショップで、1枚のCDを買うか買うまいか迷っていたのである。(ま、いいか)と買うのをあきらめ、駅の改札口に降りるエスカレーターに乗っていたときに地震が起こった。

こういうときに自粛してしまうのは、かえって地元の経済を停滞させてしまう、と思い、あのとき迷ったあげく買わなかったCDを買うことにした。ま、たんに買いたかっただけなのだが。

駅の反対側に出て歩いてみるが、おどろくほどひっそりとしている。そのままあたりをひとめぐりし、昨日と同様、市役所に向かう。当然のことだが、やはり閉庁である。

その後、目抜き通りの本屋に立ち寄る。すると、DVDマガジン「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」が置いてあるのを見つけた。地震で入荷されていないだろうと思っただけに、(地元経済のため)と言い聞かせて、さっそく買うことにした。

「男はつらいよ」の最後の作品「寅次郎紅の花」では、震災にあった神戸で寅次郎がボランティアをする、という場面がある(私は未見)。当時、復興の途中にあった神戸の人々にとって、寅さんが来たことは、ずいぶんと励みになったという。

文化人たちは、これを「テキ屋の聖化」となかば冷ややかに評したが、フーテンが聖化される、というのは、なにも寅次郎にかぎったことではない。

被災地、あるいは避難した場所で生活している方々が、どのような思いでいらっしゃるのか、私の想像を超えるものなので、軽々しく推測することはできないが、長期間、緊張を強いられる生活がよくないことは、間違いない。

避難している子どもたちに絵本を送って喜ばれたり、アニメのDVDを上映して喜ばれたりしている、というニュースはよく聞く。では大人は?

「寅さん」こそは、いま見るべき映画ではないか?

テレビでもいい、避難所の仮設スクリーンでもいい。いま「寅さん」をこそ、上映すべきなのではないか。

先週、そんな話を、たまたま研究室に来た2年生の学生にしてみたら、

「寅さん、てなんですか?」

と聞かれた。そうか、もう寅さんは、いまの大学生にはわからないのだな。

いまや渥美清はいない。だが、彼が残した「男はつらいよ」は48作品もある。これを毎日1作品ずつ見続けたとしても、1カ月半は十分に楽しめる。1週間に1度見たとしたら、約1年間楽しむことができるのだ。

山田洋次による、笑いとペーソスにあふれたストーリー展開、そして「寅のアリア」と呼ばれる渥美清の語り口、そして各地に残る美しい風景…。とくに渥美清の芝居には、そのバカバカしさに笑わされ、やがて泣かされる。たぶん、この地震で失われてしまった何かを取りもどすきっかけになるのではないだろうか。

「寅次郎忘れな草」をあらためて見たが、やはり面白い。

浅岡ルリ子演ずる「リリー」がマドンナの第1弾である。浅岡ルリ子はこのシリーズに4回ほど出演しているが、なかでも2回目の「寅次郎相合い傘」が、シリーズ中の最高傑作であるとよく言われている。

だが、この「忘れな草」も、なかなかいい。これが、被災地や避難場所で見ることができたら、きっと元気が出るのではないか、と考えるのは、被災地や避難場所の実情を知らない者の、身勝手な意見だろうか。

以下、「忘れな草」より一場面。このセリフが一流の監督と役者たちによって魂を吹きこまれると、人の心を揺さぶるものになるのだ。

さくら「お兄ちゃんはさ、カラーテレビもステレオも持ってないけど、そのかわり、誰にもない、すばらしい物を持ってるものね」

寅「何だよ、えっ? …あっ!おまえ、俺のカバン、調べたろ!」

さくら「違うわよ、形があるものじゃないのよ」

寅「なんだい、屁みたいなものか?」

さくら「違うわよ!つまり、…愛よ。人を愛する気持ち」

タコ社長「そう!…それはいっぱい持ってるよ!」

寅「なんだばかやろう。どうしておまえにそれがわかるんだよ」

タコ社長「ほんとだよ」

博「いや、さくらの言うとおりですよ。そりゃあどんな高いお金を出しても買えないものですよ」

寅「なんだよ、見たようなこと言うなよおまえ、へへへ」

おいちゃん「そうか、そんなに高いもの持ってるか。だったらさ、さしずめ寅は上流階級か」

全員「いやだ、アハハハハ」

(追記)

読者から、「この日記を書いた日と同日の朝日新聞に、山田洋次監督のインタビュー記事が載っていましたよ」とご指摘をいただいた。なんとも運命的なものを感じたので、インタビュー記事の一部を引用する。

「阪神大震災の後、神戸市の長田地区で映画を撮りました。焼け出された人たちから「寅さんに来てほしい」という声があがったのです。

僕は、あんな無責任な男の映画を被災地で撮るなんて、とんでもないことだと思い、最初はお断りしました。

でも、訪ねてきてくれた長田の人たちが、口々に、こうおっしゃるのです。

『私たちが今ほしいのは、同情ではない。頑張れという応援でも、しっかりしろという叱咤でもありません。そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々おもしろいことを言って笑わせてくれる、そういう人です。だから寅さんに来てほしいのです』

寅さんのような男が、そばにいることが何かの慰めになるのならば。そう考え直して、撮影に向かいました。

あの焼け跡であった出来事を思うと、撮影していて、僕らはとてもつらかった。でも、長田の人たちはとても温かかった。ここで助け合い、支え合って生き抜いてきた人たちです」(朝日新聞2011年3月21日朝刊、山田洋次監督「想像することでつながりたい」)

| | コメント (0)

チャーハン

3月20日(日)

「忘れた頃に更新する」でおなじみのこぶぎさんのブログで、私のハンバーグ弁当に刺激されたのか、炊飯器でケーキを作った写真を載せていた。題して「こっちも料理ショー」

Photo別に対抗しようというわけではないのだが、念願の卵が手に入ったので、チャーハンを作ってみた。いい歳をしたひとり暮らしのオッサンの「自炊ブーム」が来た、ということか。

午前、義援金を持っていこうと、市役所まで歩いていった。平日は職場との往復だったので、市内に出るのは久しぶりである。

市内の目抜き通りを歩いていると、後ろから声をかけられた。

「市役所はこの先ですか?」

振り返ると、団塊の世代の夫婦、といった感じの方である。

「そうです。この通りをもう少し行った左側です。私も市役所に行くところです」と私が言うと、

「もしかして、どこかから避難されてきた方ですか?」と聞かれた。

「いえ、ここに住んでいる者です。…ひょっとして、どこからかいらっしゃったんですか?」

「ええ、福島です」

「そうですか。避難所にいらっしゃるんですか?」

「いえ、息子がたまたまこっちの大学にいて、アパートを借りているんで、とりあえずそこに避難しています」

「失礼ですが、福島のどちらですか?」

「南相馬市です」

「そうですか。南相馬市の何区でしょうか」

「小高区です」

「とすると、南の方ですね」

「ええ、原発の近くです。だから、当分は戻れんのです。いっそ、このあたりに居を構えようかと思って。いつまでも息子のところにいるわけにもいきませんし。それで、市役所に行って、どうすればよいのか聞いてみようと」

「そうでしたか。私の知り合いにも、原町区の方がいて、県外に避難されました」

「そうでしょう。いまはとにかく、知り合いをたよって全国どこへでも避難しないと…。私も早く落ち着く先を見つけて、身内を呼び寄せなければなあと思ってるんです。高齢者もいますしね」

市役所に到着した。

だが、市役所は閉まっていた。休日だから当然といえば当然である。

「閉まってますねえ」

「さっき地図で調べたら、この近くに不動産屋さんがあるみたいなので、そっちに行ってみます。どうもありがとうございました」

そう言うと、ご夫婦は不動産屋に向かった。

結局、何もお役に立てなかったなあ。

いま来た道を南に引き返すと、目抜き通りには多くの人々が行き交っている。

(この方たちもどこかから避難してこられたのだろうか…)などと考えながら歩いていると、中心街が終わったあたりで、4人家族(両親と、高校生くらいの娘2人)らしき人たちとすれ違った。

「会津と変わらないか…。ね」お父さんが、娘たちに言う。

「うん、そうだね」娘が答えた。

4人は、目抜き通りを北に進み、デパートのある中心街の方へと歩いていった。

| | コメント (0)

漫才台本

3月19日(土)

コ「ただいまご紹介にあずかりました、K高校器楽部OBのコバヤシと申します」

私「同じくMと申します。私たちは、高校時代、器楽部吹奏楽団に所属していて、オオキ君とフジイさんの1学年上の先輩にあたります。本日は、まことにおめでとうございます」

コ「高校時代の二人をよく知る者として、実は私にスピーチの依頼があったわけですけれども、実は、私は高校時代のことをほとんど覚えておりませんで、それで、同期の中でも、一番長い時間をともにしたM君と二人で、スピーチをすることになったわけです」

私「よろしくお願いします」

コ「早速ですがM君、お二人は、高校時代どういう人だったでしょうか」

私「とても目立つお二人だった、と思います」

コ「ほう、目立つお二人。お二人ともですか。これはまた、どういうことでしょうか?」

私「まずフジイさんについて、今でも覚えていることがあるんですが、私たちが高2の、夏の合宿のときのことです。お二人がまだ高1だったときです」

コ「たしか長野県の車山高原というところでしたね」

私「そうです。その近くに白樺湖、という湖があるんですが、ちょうどそのとき、「オーストラリアフェスティバル」とかいうイベントが行われていて、そこで、私たちの楽団に出演依頼が来たのです」

コ「そんなことありましたっけ?」

私「ええ。私たちの楽団は急遽飛び入り参加して、1曲か2曲、野外のステージで演奏しました」

コ「あー、なんとなく思い出してきました」

私「お客さんがけっこう来ていたんですが、演奏が終わったあと、その観客が、なぜか、フジイさんのまわりに集まってきたんです」

コ「ほう、それはまたなぜです?」

私「可愛かったからです」

コ「可愛かったから?」

私「ええ。観客たちは、一番前の席にフルートを吹いているとても可愛い子がいる、ということに気づいて、まわりにビックリするくらい人が集まってきたんです。そしたらそのとき、フジイさんは、あんまりびっくりして、泣いてしまったんです」

コ「なるほど。そういうことがあったんですか。つまりそれだけ、目立つ存在だった、ということですね」

私「そういうことです」

コ「じゃあ、オオキ君の方はどうですか?彼はどっちかというと、地味な印象だったと思うんですが…」

私「いや、目立ってましたよ」

コ「そうでしたっけ?」

私「あれは、私たちが高2の時の文化祭です。お二人が高1の時です」

コ「そのときに、なにかありましたっけ?」

私「ジェイガーの『第二組曲』という曲を演奏中に、その事件が起こりました」

コ「事件?」

私「曲の最後に、一拍沈黙があって、『ジャン!』と終わる、というものだったんですけど、つまり、最後、みんなで『ジャン!』と音を出す直前の1拍は、誰も、何も音を出してはいけない、という曲だったんです」

コ「たしかそうでした」

私「で、全員が休まなければならないその1拍のところで、当時テナーサックスを吹いていたオオキ君は、「プ」と、1拍早く出てしまったんです」

コ「つまり、『…(一泊沈黙)ジャン!』ではなく、『プ!』『ジャン!』となったわけですね。思い出しました」

私「ひとりだけ、絶対に音を出してはいけないところで、出してしまった。…だから、彼は目立つ存在だった、というわけです」

コ「それは『目立つ』の意味が違うでしょう!もっとほめるべきところはないんですか?」

私「じゃあ今度は、あなたがオオキ君のいいところを言ってくださいよ。あなたも同じテナーサックスだったじゃないですか」

コ「そうですねえ…。オオキ君は、…リズム感が悪かったですね」

私「それじゃあ、さっきの話と同じじゃないですか!」

コ「でもそれが一番の印象です。吹奏楽をやりたい、と言っていたわりには、全然リズム感がなくて、最初は、テナーサックスを持たせずに、ドラムスティックを持たせてリズムの練習ばかりさせていました」

私「そうでした。音楽的センス、という点では、フジイさんと対照的ですね」

コ「そうです。いま思うと、オオキ君はどうして、吹奏楽なんかをやろうと思ったんでしょう?」

私「それは、…フジイさんと出会うためじゃないでしょうか」

コ「なるほど、うまいこといいますね。でも結局、オオキ君のいいところをまだ何も言っていませんね」

私「あります、あります。思い出しました!」

コ「なんですか?」

私「オオキ君は私たち二人と違って理系なんです。だから、たぶん機械とかに強い」

コ「それがいいところですか?」

私「ええ。反対に、フジイさんは機械関係がまるでダメだ、と聞きました」

コ「ほう、たとえば」

私「今でこそ、携帯電話とかパソコンとかを使っておられますけど、ついちょっと前までは、メールの使い方が全然わかんなかったんだそうです。フジイさんと連絡をとろうと思ったら、いちいち自宅にFAXを送らなければならなかったんです」

コ「それ、本当ですか?このご時世に信じられませんねえ」

私「本当ですよ。その前は伝書鳩だったんですから」

コ「そりゃないでしょう」

私「もっと前は、糸電話でした」

コ「いい加減にしなさい!」

私「でもこれからは、オオキ君がいるからもう安心です。わからないことがあれば、すべて彼が解決してくれるんですから」

コ「そう考えると、本当に対照的なお二人ですね。じゃあ最後に一言ずつお祝いの言葉を申し上げましょう」

私「夫婦というのは、同じ価値観を持つことだけでなく、違う感性を認め合うことも大事なことだと思います。私には対照的なお二人のように見えますが、それだけに、これからお二人がお互いによい影響を与えながら歩まれていくことと思います。また、そのことを私たちも期待しております。…では、コバヤシ君」

コ「右に同じです」

私「何も考えてないじゃないですか!」

コ・私「本日は、まことにおめでとうございます。ありがとうございました」

…オオキ君、フジイさん、これが、披露宴当日に私たちがやるはずだった「漫才スピーチ」の台本です。1週間遅れですが、ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに。

| | コメント (1)

ハンバーグ弁当と中国茶

3月17日(木)

昨晩、職場の帰りに行きつけのスーパーに立ち寄ったら、ひき肉が売れ残っていた。他の食料品は全くないが、肉だけはまだいくらかは供給があるらしい。

さっそく夕食でハンバーグを作ってみた。どこのレストランよりも、美味しいハンバーグであった。

Photo_2 ということで、今日の昼の弁当は、ハンバーグ弁当である。

いままでのおかずは、「マカロニサラダのマカロニだけ(野菜なし)」というやつだったが、今日はそれにハンバーグが加わった。それに、ハムも手に入ったので、「マカロニサラダのマカロニだけ、ハム付き」となった。味見をしてみたが、ハムが入っているのといないのとでは、味が全然違うなあ。

職場に行こうと思って外に出ると、やはり大雪である。

(まいったなあ…)

2 野ざらしにしてある拙車に、かなり雪が積もっている。いつでも車の応援要請に応えられるように、とりあえず雪かきをすることにした。

しかし、エンジンをかけて車を暖めながら、なんて暢気なことはできない。スコップで車の雪をはらい、駐車スペースの雪をとりはらう。

雪かきをしながら思う。学生のころ、まさかこんなことをするなんて思ってもいなかったなあ。私は子どものころ、わがままで、典型的なガリ勉で、運動嫌いだったのだ。それがいまは、過酷な自然や災害とむきあいながら生きているんだからなあ。…思わず自分のいまの置かれている状況に笑ってしまう。

職場に行くが、同僚はほとんど来ていない。ま、ガソリン不足だから仕方がない。

事務室に行くと、「先生、これ、卒業祝賀会が中止になったので返金です」と、封筒を渡された。ずいぶん早い対応だ。

「あのぅ…、これ、義援金にまわせませんか?」と私。

「ええ、そういう声もいただいているんですけど、うちの職場ではまだそういうこと(義援金を受けつける体制)について何も決まっていないもので…とりあえずお返しします」

どうもよくわからない。返金については対応が早いのに、義援金の体制はまだ何もできていないのだという。

誤解のないように言うと、これは事務職員さんの責任では決してない。昨日の意志決定の会議で、なぜ、そういうことについて話し合われなかったのだろう?まっ先に話し合うことって、そういうことなんじゃないだろうか。

だんだん腹が立ってきた。

いかんいかん。このブログでは愚痴は書かないことにしていたんだった。

お昼になり、ハンバーグ弁当を食べながら、いただいた中国茶を入れて飲む。やはり美味しいなあ。

Photo_3 4年生からもらったマグカップには、「ありがとう。こころをこめて」と書いてある。

先週にこのマグカップをもらった時点と、地震が起こってからは、「ありがとう」の意味あいが、ちょっと違ってきているのかも知れないな、と思いながら、温かい中国茶が飲める幸せをかみしめた。

ガソリン不足で自宅から身動きのとれない4年生のSさん(リーダー)からメールが来た。「私の妄想話です」とことわったうえで、次のような内容のことが書いてあった。

このたびの災害で、卒業式と祝賀会が中止になったことは、不謹慎かも知れないが、とても残念に思う。でも、できれば1年後くらいに、私たちの卒業祝賀会を開きたい。それが、私たち学生や、そのご家族たちにとって、小さな希望になるのではないか、と。

Sさんは、あくまでも妄想です、と、何度もことわったうえで、上のように書いてきたのである。

でも、妄想は言葉にしないと、実現はしない。むかしから「言霊」という言葉があるでしょう。だからここに書かせてもらいましたよ。

それに、この状況下で卒業式や卒業祝賀会について考えることは、ちっとも不謹慎ではない。卒業は、祝福されるべきものである。人生で大事な瞬間だからこそ、祝福されるのだ。結婚式だって、同じだ。

1年後に卒業祝賀会、いいじゃないか。やろうじゃないの。

「これはひとりの人間には小さな妄想だが、みんなにとっては大きな希望である」

なんてね(「これはひとりの人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」というアポロ11号のアームストロング船長の言葉のパクリ)。

Sさんはこの4月から、この職場の職員となる。まさにうってつけの人材だ。

「ひょっとして、あなたはそのために、4月からこの仕事につくことになったのかもしれません。だとしたらこれはやはり、運命ですね」

Sさんへの返事の最後に、私はそう書いた。

返金されたお金は、1年後に行われる祝賀会までとっておくことにしよう。

| | コメント (6)

温かいお茶

3月16日(水)

午前、職場に行こうと外に出ると、大雪である。

(何でこんなときに降るかなあ)

せっかく歩きやすかった路面が、また一面の雪に覆われていた。ふだんの倍の時間かかって、職場に到着した。

今日は、新しいことに挑戦する。それは、「研究室でお湯を沸かしてお茶を飲む」ということだ。

私はそもそも、温かいお茶を飲む習慣があまりない。それに加えて、研究室が散らかっているので、お湯を沸かすポットを置くスペースすらない。だから、もう何年も、自分の研究室で温かいお茶を飲んだことがなかったのだ。

だが、そうも言っていられなくなってきた。節電のため暖房をあまり使えないということになると、あとは身体の中から暖めるしかない。

さいわい、道具はそろっている。2、3カ月ほど前だったか、職場の廊下のゴミ置き場のところに、ポットが捨ててあった。ふつうに考えればゴミなのだが、そのポットには、「まだ使えます」と書いた紙が貼ってあった。

(まだ使えるのか…)

例によって私は、この先使うあてのないそのポットを、自分の研究室に持って帰ったのである。

それに、先週の卒論発表会のあと、4年生たちからもらったマグカップがある。このマグカップは、地震で本が散乱したあの研究室にあって、奇跡的に無傷だったのである。

先日、同僚からおみやげでもらった中国茶もある。あとは急須がそろえば、なんと贅沢な中国茶が飲めるのだ。

今日は急須がなかったので、さしあたりティーバッグのお茶ですませることにする。

お昼休み。家から持ってきた日の丸弁当を食べながら、温かいお茶を飲む。

うーむ。やはり温かいお茶はいいなあ。こんなことなら、もっと早く研究室で飲めるようにしておけばよかった。

お茶を飲んでいると、4年生3人が来た。A君と、Sさん(しっかり者の方)、そしてNさん(天然)である。

いま、卒業を控えている4年生には、ひとつの問題が起きている。

それは、住んでいるアパートをひきはらって新天地に引っ越さなければならないにもかかわらず、地震の影響で、引っ越しができるかどうかわからないことである。人手不足、交通網の遮断、そしてガソリンの枯渇など、さまざまな問題が背景にある。

大家さんにしてみれば、今度は新入生が入居してくるわけだから、4年生には予定通り出ていってもらいたいと思っている。だがそうなると、家具類や荷物の行き場がなくなってしまうのである。

「なんとか、一時的にでも家具や荷物を保管できる場所はないでしょうか?」とSさん。

うーむ。どうしたものか。たぶんこれは、この地域に下宿する4年生全員が抱えている問題だろう。

…と、ここで余震が起こった。

「あぶないから廊下に出よう」研究室から廊下に出た。

「いちおう、上の人に話してみるよ」と私。

「スモールライトがあればいいんですけどね」とSさん。

スモールライト?…ああ、ドラえもんのひみつ道具のことか。

「スモールライトがあれば、家具を手のひらに乗せて持っていけるんですけど」

またくだらない話がはじまったぞ。

「それか…」今度はNさん。

「自分自身が巨大になって、2歩くらいで実家につければいいと思いませんか?ドン、ドンって」

「それじゃあ、足跡で大きな穴ができてしまって、住民に迷惑だろ!」とA君が、わけのわからないツッコミを入れる。

「そりゃそうですね。アハハ、スミマセン」3人の笑い声が、節電中で真っ暗な廊下に響く。

あのねえ。昨日たしかに「こういう状況でも笑いは必要だ」とこの日記に書いたが、君たちは少し慎んだ方がいいよ。

「ささ、会議がはじまるんでね」と、私は3人の「ありもしない話」を打ち切った。

13時半から会議。

さながら「会議は踊る」といった感じである。え、こんなときにそんな議論?いま、もっと話し合わなきゃいけないことがあるんじゃないの?と思ったが、これ以上書くと愚痴になるからやめておこう。

会議が終わり、研究室に戻って、再び温かいお茶を飲む。やはり温かいお茶はいいなあ。

明日は、急須を持ってきて中国茶を入れよう。

こういう状況下では、1日にひとつずつ、楽しみを増やしていくとよい。

| | コメント (0)

さばシチュー

3月15日(火)

午前から、職場に待機する。といっても、いろいろなことが気がかりで仕事が手につかない。

午前10時、仕事をしながら、韓国KBSで生放送している「日本大地震 私たちの愛を集めよう」という特別番組を見る。韓国全土で生放送されている番組を、インターネットで見ることができるのである。

KBSは韓国の国営放送。そのKBSで、およそ8時間にわたって、地震で被害にあった日本に募金する、というチャリティー番組が行われたのだ。

日本の24時間テレビのような感じで、韓国の主要都市に募金箱が置かれ、人々がならんで募金している。韓国人だけではなく、韓国に在住する日本人もインタビューに答えていた。なかには、被害の激しかった都市に実家のある人がいたりして、連絡できないことのもどかしさを韓国語で訴えていた。募金する人ひとりひとりが、日本へ激励のメッセージを送っている。

こういう番組をやっていることを、日本ではどれくらいの人が知っているのだろう。偽善といわれようが何だろうが関係なく、ちょっとうるっときた。

さて、夕方5時半すぎ。

学生のSさんが体調不良を訴えて、研究室にやってきた。Sさんは、地震以降、心労が重なっていたので、それが体調不良を引き起こしたのだろう。病院に何軒が電話をかけて、いまから診察してもらえるかを問い合わせた。すると、ある病院が、いまから行けば診察してくれるという。

だがその病院までは、少し距離がある。私はガソリン節約のために歩いて通勤しているので、車が使えない。困った。

するとSさんは、午前中に同僚のMさんの車で市役所に行ったという。Mさんなら、気心も知れているし、話のわかる人である。ダメもとで研究室に行ってみると、「お安いご用ですよ」という。

そこで、Mさんの車で、Sさんと病院に向かう。そして無事診察を終え、薬をもらって、職場に戻った。

Mさんの研究室に戻ると、Mさんの主宰する研究会の学生2人と、隣県から避難してきたという学生1人が、夕食を作っていた。その学生はここで夕食をとったあと、市内の避難所に泊まるのだという。

「一緒に夕食を食べていってくださいよ」とMさん。

ちょうど、炊飯器のご飯が炊きあがり、カセットコンロを使って作ったシチューができあがったところだった。お言葉に甘えて、夕食をいただくことにする。

「肉がなかったんで、代わりに缶詰のさばの水煮を入れました」

なるほど、「さばシチュー」か。

これがなかなか美味い。これ、売れるかもしれないぞ。

総勢6人での食事。考えてみれば、こんな大勢で食事をしたのは、先週の追いコン以来である。とくに地震以降は、ひとりで白飯にごま塩をかけて食べる生活が続いていたのだ。だからいっそう美味しく感じたのかもしれない。

食事をとりながらSさんが、4年生の先輩方がいかに可笑しな人たちであるかを、思い出し笑いしながら話した。私も負けずに、4年生ひとりひとりについて、おもしろ可笑しく話すと、Sさんはそれまでの心労を忘れたかのように大笑いした。周りの人たちも、それにつられて大笑いする。

避難所の生活も、十分な暖かさと十分な食事があれば、こんなふうに笑いあえることもあるのではないだろうか、と思った。

病院で診察を待っている間、Sさんは言った。

「この状況、いつまで続くんでしょうか…」

いつまで続くのだろう。私にもわからない。

だが、そういう状況だからこそ、ときに笑うことは大切なのだ。

桂枝雀師匠も言ってたではないか。「すべての笑いは、緊張と緩和から生まれる」と。

また明日もがんばろう。

| | コメント (0)

いつも心に「天然ボケ」を

3月14日(月)

学生のメールの中に、「電話とメールはダメでも、Webは大丈夫だった。とくにツイッターとミクシーの存在は大きかった」とあった。

地震直後から、ブログの更新をひかえようかと思っていたが、これを読んで、むしろ更新した方がよいのではないかと思うようになった。私もいよいよツイッターをはじめようか、とも思ったのだが、いまからはじめる余裕はない。

それに、こういうときこそ、心のゆとりが大事ではないだろうか。不安と緊張ばかり強いられるのは、決してよいことではない。

ということで、これからどんどん更新していくことにする(といっても、有益な情報は何ひとつ書けないので、不謹慎だと怒られたらやめます)。

朝9時、職場に到着。まず散乱した研究室の本を片付ける。

11時から、臨時の会議が開かれた。今後の対応の検討。それを受けて、学生の安否確認をはじめる。

本来なら、個人的にもっと早くはじめればよかったのかもしれないが、まずは家族の間での安否確認が最優先だと思っていたので、控えていた。

安堵、不安、喜び、心配、笑い、涙…。1日のうちに、これほどさまざまな思いが交錯したことはない。

だがこういうときこそ、笑える力が必要だ、とも思う。

夕方、4年生のNさんから無事を伝えるメールが来た。Nさんは、学生の間では、いわゆる「天然」として有名である。

以下、Nさんと私とのメールのやりとりをそのまま掲げる(一部改変、顔文字は省略)。

N「地震のあとも元気に過ごしています。私たちを心配してくださってありがとうございます。先生はけがとか具合は大丈夫ですか?」

私「連絡ありがとう。私は全く大丈夫です」

N「よかったです。揺れが大きかったので、本棚が倒れて先生が本につぶされるのでは……とみんなで心配していました」

私「そうか。みんな私が研究室にいたと思っていたんですね。地震当時はY駅にいました」

N「駅だったんですか!じゃあ、どこかに向かうところで地震が来たってこと…なんですか?」

私「東京です。新幹線に乗る20分前に地震にあいました」

N「えーーーーー!先生、新幹線に乗ってる途中じゃなくてよかったですね… というか東京ですか!ということは、どうやってこちらに帰ってきたんですか??」

私「だからY駅にいたんですってば!」

N「ああ~。なるほど!あほでスミマセン(笑)。 じゃあ東京での予定はだめだったんですね」

このあと、私はバカバカしくなって返事を出すのをやめた。

いつも心に「天然ボケ」を。

| | コメント (0)

記録

2011年3月11日(金)

明日行われる後輩の結婚式に出席するため、午後2時半すぎ、Y駅に到着。ここから、3時5分の新幹線に乗って、東京に向かうことになっていた。

(まだちょっと時間があるな)

駅ビルの本屋で時間をつぶす。2時45分頃、

(そろそろ駅に向かおうか…)

と、エスカレーターに乗って改札口がある階まで降りる途中。

2時46分。

携帯が鳴り出した。緊急地震速報である。

私の前にいた若い女性たちの携帯も鳴っている。

「え、うそ、地震?」

やがてその小声は、悲鳴に変わっていった。

かなり大きい揺れ、しかも長い時間である。

身の危険を感じ、慌てて駅の外に出る。

駅前のロータリーには、すでにたくさんの人が集まっている。

振り返ると、駅の建物が大きく揺れている。

大きな揺れだったが、周囲を見回すと、建物が倒壊する、といったようなことはない。

ロータリーにしばらく待機し、落ち着いてから、再び駅の改札口に向かう。駅は停電である。

「ただいま点検中のため、運転を見合わせております。復旧はいつになるかわかりません」

だがこの時点では、少し待てば復旧するのではないか、という楽観的な認識があった。

午後3時すぎ。私は予定の新幹線を1本遅らそう、と思い、とりあえず自宅と職場の状況を確認するために、駅からタクシーに乗った。

タクシーで自宅に戻る途中、道路沿いのホテルで、晴れ着を着た人々がホテルの外に集まっている。

「今日、卒業式だったみたいですね」と運転手。「こんなに揺れたのは、生まれてはじめてです」以後、何回かタクシーに乗ったが、どの運転手さんも同じことを言っていた。

道すがら、道路沿いの建物に目をやると、すべての建物の電気が消えている。全域が停電であることを知った。

まず自宅に到着。停電だが、とくに異常がないことを確認する。

次に職場に向かう。裏門から入ると、すでに事務職員の人たちが建物の外に避難している。

「大丈夫ですか?」事務職員のHさんとDさんに聞く。

「ええ、いま、男の人たちが建物の中に入って、確認しているところです」

自分の研究室がある建物に向かうと、すでに同僚たちが建物の外に出て待機していた。

しばらくしてから、建物の中に入り、自分の研究室を確認する。

やはり停電で、本棚から本が落ちて床に散乱していた。

(せっかく昨日掃除したのに…)

しかし、これだけですんだことは幸いだった、というべきであろう。

床に散乱した本をもとにもどそうとしたが、余震が続いているので、すぐにやめて建物の外に出ることにした。

だがこの時点でやはり、私を含めた同僚たちは、事態をやや楽観的に考えていたのではないかと思う。なにしろ、まったく情報がないのだ。

午後4時、たまたま大学の構内にいたタクシーをつかまえて、ふたたび駅に向かう。

当然ことながら、事態は何も進展していない。

(深夜バスなら、東京に行けるだろうか)

駅から歩いて、近くのバスターミナルに向かう。

すると、長蛇の列である。隣県のS市に帰る人たちでごった返していた。私を呼ぶ声がするので、見ると、S市在住の、同僚のSさんとYさんである。

「バス、どうなってますか?」私が聞くと、

「高速道路が通行止めで、運転を見合わせているらしい。とりあえず並んでいるんだけど」

このぶんでは、東京行きのバスなんて望むべくもないだろうな、と思い、再び、駅に戻ることにした。

駅に向かう道すがら、後ろから私を呼ぶ声がする。振り返ると、今度は同僚のIさんだった。Iさんは、職場から50㎞はなれた自宅に鉄道で帰るつもりらしい。

「新幹線も在来線もダメみたいですよ」と私。

「やっぱりそうですか。念のため、駅まで行って確認してみましょう」

駅に着くと、先ほどより多くの人たちでごった返していた。

電気がないので放送もできず、柱のところに、模造紙で「お知らせ」が貼ってある。

先ほどまで「運転を見合わせております」と黒マジックで書かれていたところに、抹消の線が引かれ、赤マジックで「終日全面運休」と書きなおしていた。

「これはもうダメですね」と私。

「そうですね。私、帰る方法をもう少し考えてみます」とIさん。駅でIさんとお別れし、再びタクシーで自宅に向かう。この間、携帯電話がまったく通じないので、自宅からかけてみようと思ったのである。

自宅に戻り、実家や妻の携帯に電話をかけようとしたが、停電のため、当然、まったく通じない。

その後、もういちど自家用車で職場に向かうが、ほどなくして自宅に戻り、自宅の駐車場で、カーラジオを聞く。とにかく、この間、まったく情報がなかったのだ。

被害の状況はまだよくわからなかったが、この一帯全域が停電であること、復旧の見込みが立っていないことを知る。

ラジオでは、さかんに「災害伝言ダイヤル」や「災害伝言板」の活用を呼びかけていたが、なにしろ電話も通じず、携帯からインターネットにも接続できないこの状況では、まったく意味をなさない。「公衆電話から無料で電話がかけられます」とも呼びかけているが、そもそも、どこに公衆電話があるのかもよくわからない。

午後6時すぎ。とりあえず自宅に入り、懐中電灯を探す。ようやく見つけた大きな懐中電灯は電池切れだった。

だが、2,3カ月ほど前にたまたま100円ショップで買った小さい懐中電灯がかろうじて見つかる。

(たのむ、ついてくれ…)小さい懐中電灯の明かりがついた。あとはこれが命綱である。

暖房も使えないので、とにかく布団をかぶってじっとしているほかない。折しも今日は、雪が降っていたのである。

じっとしているうち、いつの間にか眠ってしまう。目が覚めたのが午前0時前。

携帯電話で妻や実家に連絡をとろうとするが、まったく通じない。

(そういえば、明日の件をコバヤシに言っておかないと…)

と、コバヤシの携帯電話にかけると、つながった。

「あ、つながった」

「おまえ、大丈夫か」

「とりあえず無事だ。でも停電で、状況がまったくわからなくって…とにかく真っ暗で動けないんだ。カーラジオを聞けばいいんだろうが、真っ暗で、そこまで行くのもどうもね」

「そうか。テレビを見ていたが、大変なことになっているぞ」

コバヤシはテレビで見た情報を教えてくれた。

「おまえ、いまどこだ?」

「福岡に戻ってきた。今日、出張先の広島から新幹線で東京に行くつもりだったんだが、東海道新幹線がとまってしまって、新大阪からひきかえしてきた。明日の結婚式は無理だろう」

「だから携帯が通じたのかもな」

「そんなことより、はやく実家に連絡してやれよ、俺なんかどうでもいいから」

「いや、まったく通じないんだ。悪いが、そっちから、私の実家にかけてみてくれないか。無事だと伝えてくれ」

「わかった」

翌朝、12日。

午前8時25分。電気が復旧する。

テレビをつけ、大変な事態になっていることを知る。

妻の携帯にかけてみると、つながった。

「あ、ようやくつながった」

おたがいの無事を確認し合う。

「今朝、実家のお母さんからうちに電話があったよ。コバヤシさんから、無事だという電話をもらったって」

コバヤシ、実家に電話をかけてくれたんだな。ありがとう。

妻も、職場で地震にあい、同じく都内に勤務している妻の妹と合流し、家に帰れずに、職場の近くの友人の家に泊まったのだという。妻は、この間の報道の内容を伝えてくれた。

「はやく実家に電話してあげなよ」

「でも、通じないんだよ」

「食料とかは?」

「備蓄なんてしてなかったからなあ」

「スーパーに行ってみたら?」

午前10時、歩いて近所のスーパーに行く。

すると長蛇の列である。カセットコンロのガスと、単一の乾電池(懐中電灯用)が、猛烈な勢いで売れてゆく。私は、かろうじて単一乾電池の最後の4個を手に入れた。

乾電池のほかに、当面の食糧として、カップラーメンや缶詰を手に持てる範囲で買うことにする。お客さんの数が多すぎて、買い物かごがなかったためである。

被害の大きかった隣県のS市に本社があると思われる人たちも、手分けして食糧や水を買い込んでいた。これから車で、食糧や水を運ぶのだろう。

会計の列に並んでいるとき、店内に放送が流れた。

「赤い長財布の落とし物が届けられました。お心当たりの方は、サービスカウンターにお越しください」

こんなパニック状態の中でも、落とし物の財布をちゃんと届ける人がいるのだな。あたりまえのことなのだが、このような状況下でも、秩序が保たれていることに、なぜだかホッとした。

1時間ほど並んで、会計を済ませた。

帰って、パソコンのメールをチェックすると、高校時代の部活の同期のSから「大丈夫か?」とメールが来ていた。

私よりも心配なのは、同じく高校時代の部活の同期のTである。Tは、被害が大きかった隣県のS市にいて、いま、S市にあるローカル局のアナウンサーをしている。

そのTからも、忙しいなか、昨日深夜の時点でメールが来ていた。

「ご心配ありがとうございます。僕は発生時会社にいましたので、そのまま緊急放送対応中です。家族も無事です。僕はずっと家に帰れません。悪夢のような被害が出ています」

想像を絶する状況になっていることを実感する。

さて、相変わらず、実家とは連絡がとれない。

いちおう、こっちの無事は知っているはずなのだが、なんとか、直接に無事を伝えたい。

近くの警察署に公衆電話があるはずだ、と思い、警察署まで歩いてゆく。果たして、公衆電話があった。

実家に電話をかけると、呼び出し音が鳴るが、電話に出る気配がない。

(いったいどこに行ったんだ?)

公衆電話からの電話をあきらめ、もう一度、ダメもとで携帯電話から母の携帯に電話をかける。

しばらくして、呼び出し音が鳴った。

(通じた!)

「もしもし」

午後2時49分。地震が起きてから24時間が経過していた。

| | コメント (0)

感謝・心配・希望

3月13日(日)

地震直後より、さまざまな方から安否をたずねるメールをいただいた。とくに、東京にいる友人をはじめとして、韓国の語学院の先生や研究者からも、心配のメッセージをいただいた。感謝にたえない。私はまったく大丈夫です。

なによりも心配なのは、被害のとくに大きかった地域に実家のある学生が多い、ということである。学生は、そして御家族は、大丈夫だろうか。それがいちばんの気がかりである。

高校時代の同級生がいま、隣県のS市で地方局のアナウンサーをやっている。地震直後から、隣県の状況をテレビで休む間もなく伝えている。自分の住んでいる地域が悪夢のような惨状に変わりゆく姿を、どのような思いで伝えているのかと思うと、胸が痛む。状況をわかっていない東京のキー局が、センセーショナルな映像ばかりを流して、本当に伝えるべき必要な情報を被災地に伝えられないことにいら立っているのではないだろうか、と思うと、なんとも無念である。

「津波で壊滅した」という地域の知り合いの安否がずっと気になっていたが、今朝、ご自身のブログで「自分も家族も無事だ」と書いていて安堵した。のちに携帯にメールをいただき「いま市内の施設で、市外から避難してきた人たちを受け入れている」とも。現場では、被災した人々がお互い助け合っている。それに、ライフラインが途絶えている中では、ご自身の無事を伝えることすらままならなかっただろう。私自身、どうすることもできないのが歯がゆい。

昨日、スーパーは長蛇の列。だがみんな整然と並んでいる。私も並んでいると、店内で放送が流れた。

「赤い長財布の落とし物が届けられました。お心当たりの方は、サービスカウンターにお越しください」

こんなパニックみたいな時でも、落とし物の財布をちゃんと届ける人がいるのだ。あたりまえのことなのだが、このような状況下でも、秩序が保たれていることに、なぜだかホッとした。

希望はある、と思おう。

| | コメント (3)

片付け一夜漬け

3月10日(木)

県内の高校1年生が、総合的学習とやらで、私の研究室に「職場インタビュー」に来るという。

「何人ですか?」

「4人です」

「よ、4人!?」

困った。私の研究室は、ビックリするくらい散らかっている。学生と話すときは、いつも立ち話なのだ。4人はおろか、1人が座るスペースを確保するのがやっとである。

だがお客さんである高校生と、さすがに立ち話というわけにもいかない。私の職業に対するイメージが悪くなるのも困るしなあ。ということで、前日、一夜漬けで研究室を片付けることにした。

どんどんモノを捨てればよいのだが、一枚一枚の書類にも愛着がわいてしまい、どうしても捨てられない。

「自分の部屋は他人が掃除するにかぎる」と、ある人がエッセイで書いていたが、その通りだと思う。

それで思い出した。

大学の1学年上の先輩、Sさんのことである。

Sさんとは、年齢がほぼ同じだと言うこともあって、仲がよかった。Sさんが4年生の時、卒論が間に合いそうにない、ということになり、徹夜でお手伝いしたことがある。結局、その卒論は不合格となったのだが。で、翌年、Sさんと私はそろって大学院に進学した。

そのSさんが、数年後、就職が決まり、四国のK県に引っ越すことになった。私は、その引っ越しの手伝いもすることになったのである。

いかにも「○○荘」といった感じのぼろアパートの部屋に行くと、アパートが傾くんじゃないか、というくらいの本やガラクタが散乱していた。

ありとあらゆる書類がとってある。大学入学時のオリエンテーションパンフレットとか。

「こんなのいるんですか?」

「いるよ。とにかく段ボールに詰めて」

言われるがままに段ボールに詰めた。

極めつけは、流しの戸棚から、「峠の釜めし」の駅弁の容器が、5,6個出てきたことである。

北関東出身のSさんは、帰省するたびに、名物の「峠の釜めし」を買って食べていたのだろう。

「こんなのもK県に持って行くんですか?」

「持って行くよ」

「え、どうしてです?」

「だって、これで米を炊くかもしれないじゃん」

ええぇぇぇぇ!そんなこと、絶対あり得ない。釜めしの容器でご飯を炊く機会なんて、絶対ないだろう。

のちのち必要になるかもしれないからとっておく、というのは、ゴミ屋敷のオヤジの発想である。

「全部ですか?」

「全部」

私はだんだん腹が立ってきた。1つならまだしも、5,6個あった「釜めし」の容器をなにも全部持って行くことはないだろう。

あまりに腹が立ったので、Sさんが目を離しているすきに、釜めしの「うつわ」と「ふた」を、全然別の段ボールに、バラバラに梱包してやった。

(これで、段ボールをあけたときに、「あれ?うつわはあるけどふたがない」とか、「ふたはあるけどうつわがない」となって、さぞかし困るだろうな、ククク)

なんとも地味な嫌がらせである。

一事が万事そんな感じで、ほとんどのモノを捨てることなく、段ボールに詰めるだけ詰めて、K県まで運んでいったのであった。

さて、それから数年後。

Sさんが、結婚することになった。いまから10年以上前のことである。相手は、K県の職場で知り合った女性である。

そして私は、Sさんの結婚式に招待された。Sさんからの電話。

「披露宴で、カラオケを歌ってくんないかなあ」

「カ、カラオケですか?何でまた」

「いや、新婦の友人が何人かで、『てんとう虫のサンバ』を歌うっていうんだよ。そうなると、新郎側も1人カラオケが歌う人間がいないと、バランスがとれないだろう」

「で、なんで僕が?」

「だって、お前しかいないじゃん」

よくわからない理屈だが、たしかその前の年に私は、同じく大学院の先輩の結婚披露宴で、司会をさせられた。どうもこの時期、私は「披露宴要員」だったらしい。

「ついでにスピーチも頼む」

なんとも厚かましい先輩だ。

ということで、1曲歌うためにはるかK県まで向かうことに相成ったのである。

(俺は売れない演歌歌手か!)と苦笑した。

スピーチでは、例の「釜めしのうつわとふた」の話をした。

「あのときの『釜めしのうつわとふた』は、うまく見つかりましたか?」

高砂に座っていたSさんは、気まずそうな顔をした。

スピーチが終わり、次はカラオケである。

(地方都市のホテルで、食事をしているお客さんたちの前で、おしゃべりをして歌を歌うなんて、まるでディナーショーだな…)私は、自分がいま置かれている状況が可笑しくてたまらなかった。

歌った歌は、松山千春の「長い夜」。なぜこの曲を選んだのかは、よく覚えていない。

いま思えば、無難に「乾杯」を歌えばよかった。

(そういえば、Sさんとはもう10年くらい会ってないなあ)

…そんな思い出にふけっていると、気がついたら片付けの手がとまっていた。

(いかんいかん)

かくして夜は更けていった。

そして今日の午後、高校生4人が研究室にやってきた。

前日の努力のかいがあり、なんとあのむさ苦しい研究室で、奇跡的に4人と座って話ができたぞ!

書類が山と積まれていたテーブルも、だいぶ片付いてすっきりした。

今年の目標は、研究室の中で、お湯を沸かしてお茶を飲むことである!

| | コメント (0)

平八の言葉

借り物だが、本当はこっちが「おくる言葉」。

「いいか、敵は怖い…誰だって怖い…しかしな…むこうだってこっちが怖いんだ」

「…話すというのはいいものでな…どんな苦しいことでも話をすると少しは楽になる」

いずれも、黒澤明監督の映画「七人の侍」の中で、侍のうちの1人、平八(千秋実)が言ったセリフである。

詳細は映画「七人の侍」を見よ。

「七人の侍」を見ずして、世を厭うなかれ。世を厭う前に、「七人の侍」を見よ。

学生たちと話をしていて面白いのは、「自分はこういう人間だ」「自分の将来はこうだ」という、思いこみのようなものがあって、それが話をしていくうちに、しだいに何かときほぐされていくような感じになっていく、ということだ。

先日の追いコンで学生と話しているときも、そんなことがあった。

ひとりで考えてばかりいると、どうしても考えが凝り固まってしまう。だが他人と話をすることで、あたかもお茶の葉が開くがごとく、あるいは、固形スープがお湯に溶けていくかのごとく、凝り固まっていたものがときほぐされてゆくのだ。

平八の言葉は、そのことを教えてくれる。

私自身も学生時代は思いこみの固まりで、「自分の進む道はこれしかない」なんて思っていたが、いま思えば、なんと狭小な考えだったろう、と、悔やむことしきりである。

「七人の侍」を見ずして、世を厭うなかれ。世を厭う前に、「七人の侍」を見よ。

| | コメント (0)

おくる言葉

3月7日(月)

朝9時からはじまった卒業論文発表会が、夕方6時前にようやく終わった。

今年度の担当は私で、発表レジュメの印刷・製本、当日の準備、進行などに追われた。

発表の数日前から、「学生がほとんど来ないんじゃないんだろうか」とか、「発表者がみんなサボるんじゃないだろうか」などという不安に襲われ、眠れなかったが、蓋を開けてみたら、発表者27名、聴衆110名で、しかもほとんどの人たちが最後まで残ってくれた。

レジュメ集を120部印刷しておいたのは正解だった。

レジュメ集、といっても、みんなから集めた原稿を印刷してたばねて、表紙をつけてホッチキスで綴じただけの簡易なものだが、私が担当の年は、表紙だけは、少しばかり凝ることにしている。卒論を書いた4年生に対して敬意を表する意味で、というのはややキザったらしいが、せっかくの卒論発表会だから、少しでも後に残るようなレジュメ集にしたい、というのが本音である。

今年度の表紙に「アレ」を使ったのは、その前の日に向田邦子脚本のNHKドラマ「阿修羅のごとく」を見たから、という単純な理由にすぎない。

ともかく、終わってようやく肩の荷がおりた気がした。昨年10月の、演奏会の司会をした後のような放心状態に陥る。いわゆる「真っ白な灰」というやつである。

午後6時、研究室で茫然としていると、4年生たちが5人ばかり来た。

「これ、先生にお礼の品です」

開けてみると、小さなフォトフレームと、マグカップである。

フォトフレームの中に入っていた絵の脇には、

「福は笑顔が大すきだから しんどい時も笑顔笑顔」

と書いてある。

まるでここ最近の私の仏頂面を見すかしたような言葉に、思わず笑ってしまった。

今年の4年生にはさんざん困らされ、最近のどんよりした気持ちも、それが原因だったのだが、最後も、してやられたな。

どんよりした気持ちも、ひとまず今日で終わりにしよう。

ということで、追いコンに参加する。場所は駅前の居酒屋である。

4年生の挨拶がひととおり終わり、次に教員による「おくる言葉」である。6人のうち、なぜか私が最後に喋ることになった。

「先生はオオトリですね。ということは、他の先生方のお話もふまえて、ちゃんとまとめなければなりませんね」隣に座っていた2年生のN君が私に言う。

「こら!ハードルを上げるんじゃない。プレッシャーがかかるじゃないか!」

他の同僚たちは、卒業生や在学生に、教訓になるようなちゃんとしたお話をした。

そして最後に私の番。

「私が小学生のとき、祖母と同居していたんですが、その祖母が、当時70歳くらいだったかなあ、プロレスの大ファンだったんです。

いまの70歳のようにかくしゃくとしていたわけではなく、そうとう腰の曲がったおばあさんだったんですけど、プロレスの番組がはじまると、とたんに元気になって、当時のジャイアント馬場だとか、アントニオ猪木だとかの試合を見ながら、まるで自分が戦っているかのように、テレビの前で大声を出して応援していました。

プロレスの番組が終わると、まるで戦い終えたかのように、おばあさんはぐったりしていました。手強い敵と戦った場合は、とくにぐったりしていました」

一同は、キョトンとしている。

「何でこんなことを思い出したのかというと、この数カ月間、みなさんの卒論のお手伝いをしていた私が、まさにそういう状況だったからです。自分が卒論を書いていたわけではないのにもかかわらず、まるで私がいくつもの卒論を書いているかのような気持ちになって、ぐったりしました。自分自身がプロレスをした気分になってぐったりする、という祖母の気持ちが、よくわかりました」

(わかりにくいたとえだったかな?)と反省したが、言い出してしまったことは仕方がない。私は最後に言った。

「今年の敵はとくに手強かったなあ。でも、今日で肩の荷がおりました」

真意がどのくらい伝わったかはわからないが、聞いていた4年生たちは苦笑していたから、ある程度は通じたのだろう。

最後の最後、困らされた4年生たちに一矢報いようと思ったが、Keiさんのように上手くはいかないものだ。

1次会で帰ろうと思っていたが、肩の荷がおりたせいか、足どりが軽くなり、2次会に出て夜12時まで飲んだ。

| | コメント (0)

電話3

3月4日(金)

うーむ。じつに困った。

例の、披露宴のスピーチの件である。

高校の1つ下の後輩である、オオキとフジイさんの披露宴で、私が高校時代の親友・コバヤシと二人でスピーチをしなければならなくなった、ということは、前に書いた

どうもそのことが、みんなの広く知るところとなったらしい。

同期の盟友・フクザワ、1つ下の後輩のモリカワさん、2つ下の後輩のゴン、さらには7つ下の後輩のチエさんなど、関係者から、「漫才スピーチ、楽しみにしています」とか、「漫才スピーチ、頑張ってください」というメッセージが入ったメールが来るのだ。

モリカワさんに至っては、「念願がかなってよかったですね」とまで書いてある。断っておくが、べつに念願だったわけではないぞ!

それに、なぜかみんな「漫才スピーチ」と書いている。いつから披露宴で「漫才」をするってことになったんだ?

じつに困った事態である。これではスピーチの「ハードル」が、どんどん上がっていってるではないか!

それもこれも、披露宴のスピーチを二人でやらせてくれ、と当人たちに頼んだコバヤシの責任である。

ここはひとつ、電話をしてガツンと言っておかなければならない。

…と思っていた矢先に、携帯電話が鳴った。コバヤシからである。

「お前、またブログに書いたな」とコバヤシ。「呆れてものも言えないが、つい読んじゃったよ」

やはりまんざらではないようだ。

「そんなことより、お前の提案のせいで、俺たちが『漫才スピーチ』するってことが、みんなに知られてしまったぞ!どうしてくれるんだ。これじゃあ、下手なスピーチはできないじゃないか!」私は、言いたかったことを言った。

「たしかに責任の半分は俺にある」とコバヤシ。「だがな。お前にも責任の半分はあるぞ」

「どうして?」

「あんな風にブログで煽ったら、誰だってスピーチを頼まざるをえないだろ。俺はたんに二人でスピーチすることをオオキに提案しただけなのに、何だよ『仰天提案』て!あいかわらず表現が大げさなんだよ!だいたい俺は、『漫才をしたい』とは、ひと言も言ってないからな。たんに『スピーチをしたい』と言っただけだ。それをお前が、『漫才』なんて書くから、ややこしいことになるんだ」

「だってお前、『漫才をやる』と、たしかに言ったぞ」と私。

「いや、言ったのは俺じゃない。正確には、オオキが『お二人がスピーチをすると漫才になってしまうので困ります』と言ったんだ。それをお前が脚色して、『漫才』とか『漫才スピーチ』とか書いたのがいけないんだ」

たしかに私が過去に書いた日記を読み返すと、「漫才」とか「漫才スピーチ」という言葉を使っている。

ということは、「漫才スピーチ」というのは、私自身の造語だったということか。

いや、いまそんなことは問題ではない。問題は、いつの間にか「漫才スピーチ」が当日の列席者たちから期待されてしまっている、ということなのだ。

「どうしてくれるんだ…。これじゃあハードルが上がりすぎだ。だから俺はやりたくなかったんだ…」と私。

「いや、くり返すが、そんなことは絶対にない。お前は絶対にやりたいはずだ」コバヤシも意固地である。「お前なら何か面白いことを言ってくれる、と周囲が期待している。お前もそのことが分かっていて、まんざらでもない、と思っている。…つまりお前は、プライドをくすぐられると踊りを踊り出す人間なのだ!」

コバヤシは、私の本質を見事に言いあてた。これには反論の余地がない。

「…たしかに、俺はこれまで、披露宴のスピーチを7回ほどしたことがある。それに披露宴の司会が1回に、カラオケが1回」私はこれまでの「披露宴スピーチ歴」をふりかえった。

「ほれみろ。今まで断らずにやってきた、ということは、頼まれてまんざらでもない、と思っていたからだ。ほんとうにイヤだったら、ふつう、そんなにひきうけないぞ」

もう私には返す言葉がない。

「ところでお前、この電話のやりとりをまたブログに書くんじゃないだろうな」コバヤシはたたみかけるように言った。

「そんなこと、書くわけないだろ。だいいち、そうそうオオキの披露宴の話ばかりを書いていられないよ。いちおうこっちは、いろいろと目先を変えながら、ネタのバランスを考えて書いてんだよ」と私の反論。だがこの反論も無駄だった。

「いや、前回の記事からはけっこう時間が経っているから、そろそろこの披露宴ネタを書いてもいい頃合いだ」

なんと、コバヤシは私のブログのネタのバランスを、ちゃんと考えていたのだ!

「でも絶対に書くなよ。明日、朝起きてブログが更新されているなんてことがないようにな!」コバヤシは念を押した。

術中にはまっているのは、コバヤシなのか?私なのか?

| | コメント (6)

思い立ったが吉日…か?

3月2日(水)

気分を切りかえるためにも、何か新しいことをはじめなければならない。

同僚が「英会話でも始めたらどうです?」と勧めてくれた。

考えてみたらこの仕事、これからは英語で話ができないと生き残れなくなるかもな。

周りには英語をふつうに話せる人が多い。かねがね「うらやましいなあ」と思ってきた。

でもなあ。韓国語だと、「この人と韓国語で話がしたい!」という強い動機があるから意欲がわくのだが、英語となると、「この人と英語で話がしたい!」という人がいない。

仮に私がミュージシャンだったら、海外のアーチストと話がしたい、と思って英語を勉強しただろう。だが残念なことに、私はミュージシャンではない。

…などと屁理屈を並べたてながら、これまで英語の勉強をサボってきたのである。

しかしそうも言っていられない。

聞くと、ラジオ講座の「実践ビジネス英語」あたりを聞いている同僚がけっこういるという話である。

思いたったが吉日である。ここはひとつ、本屋に行ってラジオ講座のテキストでも買って勉強してみることにするか。

またはじまった。「カタチから入るタイプ」の私の性格が。

本屋に行くと、英語のラジオ講座といっても、いろいろな種類があることをはじめて知る。むかしは、「基礎英語」と「続基礎英語」と「英会話」くらいだったと思ったんだが。

(これが「実践ビジネス英語」のテキストか…)と手にとる。

(む、難しい…)

というか、そもそも私の英語のレベルがどのくらいなのか、全然見当がつかないのである。

その横に、今度は「入門ビジネス英語」のテキストがある。

(「入門」だったら大丈夫だろうか…)と手にとる。

(でもなあ、同僚の多くが「実践ビジネス英語」で勉強しているのだとしたら、「入門」で勉強するってのは、「負け」のような気がするなあ)

ほーら出てきたぞ。ヘンなプライドが。

(ここは無理してでも「実践ビジネス英語」に挑戦してみるか…)

こうなると、いつもの悪い癖である。

(いや、ここは判断がつかないから、とりあえず「入門」と「実践」2冊を買って、実際に講座を聴いてみてから判断してみよう)

ということで、2冊を手にとった。ふとその横に目をやると、「英会話」というテキストがある。

(「英会話」か…。そういえば、そもそも英会話を勉強したい、と思ってたんだよな。ついでだから、「英会話」のテキストも…)

ということで、3冊を手にとった。すると、

「『ビジネス英語』なんて、絶対に必要ないと思うよ」

誰かの声が聞こえた。振りかえってみるが、誰もいない。

「絶対に必要ないって!」

誰だ?うるさいなあ。

もう一度「ビジネス英語」のテキストを見ると、「契約を交わす」とか、「電話会議をする」とか、「業績評価を行う」とか、日本語でもしたことのないようなテーマの英語表現がとりあげられている。

たしかにこの先、私が英語で契約を交わしたり、業績評価をしたりすることは、絶対にないだろう。

(ここはいったん、頭を冷やそう)

3冊のうち、「実践ビジネス英語」と「入門ビジネス英語」をもとあった場所に戻した。

それにしてもさっきの声は…?

韓国語の勉強をはじめようと思って韓国語のテキストをたくさん買いこんだときに、「そんなにたくさんのテキストは必要ない」と言われたときの妻の声に、よく似てたなあ。

ま、思いとどまっただけでも成長したということだろう。

ついでだからほかのところも見ていると、「男はつらいよ」のDVDマガジンの最新刊が出ていた。

「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」だ!沢田研二と田中裕子が共演したやつ。

創刊号から買っていた私は、すかさず購入した。

家に戻り、さっそく英会話の勉強をしようと思ったのだが、

(英会話はいったん置いといて、寅さんを見よう。いったんね、いったん)

この「いったん」がよくない。

見はじめたらとまらない。

(やっぱり寅さん、面白いなあ)

いちど最後まで見て、それが終わったら今度は、面白かった場面をセレクトしてもう一度見直す。

「寅さんは、恋をしたことがありますか」と、沢田研二扮する三郎青年が寅さんにたずねる場面。寅さんの反論の言葉がすばらしい。

「オイ、コラ、お前、誰に聞いてるんだ!『恋をしたことがありますか』?俺から恋をとってしまったら何が残るんだ。三度三度飯を食って、屁をこいてクソをたれる機械。つまりは造糞機だよ。なあ、おいちゃん」

「…バカだねえ」おいちゃんが呆れる。

むかしこの映画を観たとき、このセリフまわしが面白くて、暗記したもんだったなあ。渥美清が言うと、どことなく品があるから不思議である。

そんなことをつらつら思いながら、気がつくと、けっこうな時間が経っている。

「うわぁぁぁ!もうこんな時間かぁぁ!」

結局この日、英会話の勉強はできなかった。

おかしいなあ。寅さんのセリフはすぐに覚えられるのに。

| | コメント (3)

往復100㎞の友情

3月1日(火)

午前、所用で、じつに何年かぶりに、前の職場を訪れた。

現在の職場から前の職場までは、車で片道50㎞の道のりである。

所用をすませたあと、Yさん、Kさん、そしてこぶぎさんとで昼食をとった。

「1時半から会議があるので」とこぶぎさん。

私も、昼食を食べたら、すぐに勤務先に戻らなければならない。

あわただしい時間だったが、こぶぎさんは、ここ最近の私の日記から、私がいろいろと悩んでいることを察したらしい。ご自身も似たような「曲がり角」にあるという。

「この前、北海道までフェリーで行ってね」とこぶぎさん。

「へえ、フェリーで」

「そのとき、『船中八削』っていうのを考えたんだ」

「船中八策?」

「サクは削るの削ね」

その発想が、こぶぎさんらしくていい。彼の考えた「船中八削」は、私にもあてはまりそうだ。

あっという間に1時半近くになった。

「あ、会議に行かなくちゃ。じゃあ、続きは晩メシで」とこぶぎさん。

「え?」

「夕方、そっちに行くよ」

なんと、会議が終わってから、今度はこぶぎさんがわたしの勤務地に来るという。

「Kさんも、行くでしょう?」

ということで、Kさんも含めた3人で、夕食をとることになった。

私は50㎞かけて職場に戻り、あれこれと仕事をしていると、あっという間に6時半になった。

こぶぎさんの車が職場に到着し、3人で近くのファミレスに向かう。

あとは、例によって、延々と四方山話。

この時期のミステリー」の謎解きとか、インフルエンザワクチンの話とか、ハッピーバースデーの謎の解明とか。ま、話題の多くはこの日記の裏話だった。

「内容じたいがミステリー、というのが面白いですね。まるで筒井康隆の小説のようです」とKさん。

そうか、このジャンルはすでに筒井康隆が開拓していたのか。

「ハッピーバースデイの謎は、共同研究したら面白いですね」と、これまたKさん。

「いいですね。やりましょう」

いろいろと話をしているうちに、どん底だった気持ちがだんだん晴れてゆく。

気がつくと夜12時近くになっていた。

「じゃあまた」

こぶぎさんとKさんは、また50㎞かけて、自宅に戻った。

往復100㎞をかけての夕食。いや、昼間の私の往復を合わせると、1日に200㎞を移動しての、昼食と夕食である。予想外の展開だったが、このタイミングで四方山話ができたことに感謝した。

考えてみれば、どん底のような気持ちだったこの日、前の職場の友人や今の職場の友人にどれだけ励まされたことだろう。

もちろん、妻の電話にも励まされた。これは、言っておかないと。

学生時代からの友人も悪くはないが、職場で得た友人も、相当いいものだ。

| | コメント (2)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »