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生きものの記録

3月31日(木)。東京から勤務地に戻ってきた。

黒澤明監督の映画「生きものの記録」(1955年)は、おそらく黒澤監督の映画の中でもっとも地味で、もっとも当たらなかった映画である。

脚本を担当した巨匠・橋本忍が、「『生きものの記録』の興行の失敗は想像を絶するひどさで、こんな不入りは自分の過去の作品にも例がなく、私にはその現象が信じられなかった」(『複眼の映像 私と黒澤明』文春文庫)と述懐するほどである。

傑作「七人の侍」の次につくられた映画だから、なおさらその地味な印象が際立つ。

原水爆や放射能の恐怖におびえた老人(三船敏郎)が、しだいにその被害妄想をふくらませ、ついには全財産をなげうって、家族を引きつれてブラジルに移住しようと計画を立てる。

しかし老人の子どもたちは、自分たちの財産をなげうってまでブラジルに行きたいとは思わない。やがて子どもたちは、極度の被害妄想にとりつかれた父親と対立するようになり、老人はしだいに孤立を深め、ついには発狂してしまう。

なんとも暗くて地味な内容だが、この映画が作られた背景には、1954年に太平洋のビキニ環礁で行われた水爆実験で、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が死の灰をあびて被曝した事件がある。

そのころ、黒澤明の映画音楽を担当していた早坂文雄が、水爆実験のニュースに「こう生命をおびやかされちゃ、仕事はできないねえ」と黒澤にもらしたことがきっかけで、この映画の構想ができあがった、といわれている。

早坂文雄は黒澤明の映画音楽を数多く担当し、二人は盟友と呼ばれる関係であった。だが早坂は、この映画を製作している途中、結核で死んでしまう。早坂の葬儀で、黒澤は人目もはばからず泣きつづけたという。「生きものの記録」のクレジットには、「音楽 早坂文雄」のところに「(遺作)」と表示されている。

この映画が当たらなかった理由を、橋本忍は「企画の誤りと脚本の不備」にあった、と書いている。「脚本の不備」は措くとして、「企画の誤り」とはすなわち、この映画のコンセプトが、決定的に誤っていた、ということである。橋本は述べる。

「原爆に被曝した人は気の毒で、こんなにも悲しいという映画なら、作り方しだいで当たる可能性もなくはない。だが原爆の恐怖にとりつかれた男の生涯 -人類が保有するもっとも不条理なもの、その原爆にはいかに対処し、いかに考え、いかに解決すべきかなどの哲学が、映画を作るお前らにあるはずがないと、観客は頭から作品の正体を見抜き、徹底した白眼視の拒絶反応で一瞥すらしないのだ」

これと同様の批評が、映画評論家の佐藤忠男の意見である。佐藤は失敗の理由を、

〈世界的な規模において政治のあり方をどう変えてゆくか、というところにしか解決の道のあり得ない原水爆戦争の問題を、ある特殊な一家族の家庭内のトラブルの問題にしてしまったことである〉(小林信彦『黒澤明という時代』文藝春秋より引用)

とまとめている。ただし佐藤は、

〈しかし、失敗作であるにもかかわらず、これは黒澤明にとってもっとも重要な作品のひとつであり、興行的に成功した彼の他の多くの作品などより、ずっと貴重な、誠実な魂をもった作品だと思った〉と評価しており、小林信彦もこれと同様の感想を持っている。

逆に言えば、原水爆や放射能の恐怖そのものではなく、その恐怖をめぐる人々の心の動きに焦点を当てたことが、この作品のキモである。いま私たちが直面している問題を考えるとき、この視点は、決して間違ってはいなかったのだ、と思う。

なにより黒澤明は、盟友・早坂文雄の「こう生命をおびやかされちゃ、仕事はできないねえ」という言葉から着想を得てこの作品を作ったことを、忘れてはならない。脚本に関わった橋本忍をはじめとして、観客に至るまで、ほとんどの人びとは、早坂の抱いたこの不安を、この当時において、現実の問題としてくみとることができなかったのではあるまいか。

だが、早坂の抱いた不安は、まさに今の私たちのとりまく状況を説明しているように思う。

私たちはようやく、早坂文雄の感性に気づきはじめたのだ。

だから今こそ、「生きものの記録」を見るべきである。

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