« 再開と再会 | トップページ | 満開御礼 »

老先生の初恋

私は、お年寄り、といっては失礼かも知れないが、古稀を過ぎた年齢の老先生に気に入られることが多い。

女性にはからっきしモテないのだが、おじいさん先生にはどうやらモテるようなのである。

先日も、関西在住の、おそらく80歳は過ぎているであろう、大家の先生からお手紙をもらった。その先生は、私にとっては、歴史上の人物といってもいいくらいの大家の先生で、講演会などで遠目に拝見したことはあったが、面識はなかった。書物の上で、日ごろから尊敬している先生である。

その大家の先生から、「日ごろあなたの研究には啓発されています」という趣旨のお手紙をいただいたのである。どこでどう、私のことを知ったのかわからないが、ふだん、叩かれたり無視されたりしてばかりいる私の研究を、お天道様はしっかり見てくれているんだな、などと、柄にもなく思ったりしたものである。

さて、これも先日のことである。

ひょんなことから、古い資料を整理する作業をお手伝いすることになった。段ボール数箱分の資料を、いるものといらないものに分ける、という作業である。

だがその資料は、私が生まれるはるか以前のものばかりで、私にその判断ができるはずもない。そこで、私が尊敬する、これまた大家の先生に、その作業をお願いすることにした。その古い資料には、その先生と関わりの深いものばかりが残っていたので、その先生に判断していただくことが、なによりふさわしいことでもあった。

段ボールの中に入っていた雑多な資料を、「これはいる」「これはいらない」と、その先生が振りわけていく。すごいなと思ったのは、そこに残されている資料が、いつ頃の、どこの、何に関するものかを、瞬時に思い出されることである。やはりお願いしてよかったな、と思った。

段ボールの中には、さまざまな古い写真も残っていた。先生はそれらを、「これはいる」「これはいらない」と、瞬時に振りわけていく。

その時、先生の手がとまった。

パーティの時のスナップ写真のようである。当然、モノクロである。

「何かのパーティでしょうか」私が聞いた。

「そのようです」と先生。

先生がじっと見つめていたのは、何枚かあるうちの2枚の写真である。1枚は、大勢の人が並んでいるところに混じって、ひとりの女性が写っている写真。もう1枚は、その同じ女性が、ひとりで写っている写真である。ひとりで写っている方の写真は、ややピンぼけである。

「この人は、○○さんといいます」先生が、写っている女性を指さして、その女性のフルネームをおっしゃった。「ついこの前、亡くなられました」

「そうですか…」私は何と答えいていいかわからない。

「東京にいるだんなさんのところに、この写真を送ってあげましょう。あまりいい写真がないって言ってたから…。こっちの写真(ひとりで写っている方の写真)がピンぼけなのは、惜しいですね」

先生はそうおっしゃると、その2枚の写真をご自分のカバンに入れた。

「この方、東京に嫁がれたのですか?」私は聞いた。

「ええ。でも出身はこちらです」先生は答えた。

その後も、「いる」「いらない」の仕分け作業が進み、なんとかその日のうちにメドがついたのであった。

さて、数日後。

先日の資料整理の際に私と一緒に立ち会っていた方と話す機会があった。その方は、資料整理の作業が終わったあと、老先生をご自宅まで車でお送りしたという。

「先日、作業が終わって、先生をご自宅まで車でお送りしたときに、先生が車の中で、あの写真のことをずっと気にかけているご様子だったんです」

「あの写真?」私は聞いた。

「パーティで女性が写っている写真があったでしょう」

「ああ、あの2枚の写真ですね」

「車の中で、あんまりあの写真のことばかり先生がおっしゃるので、『その方、どういうお方なんですか?』とたずねてみたんです」

「ほう、それで?」

「そしたら、『僕の初恋の人だよ』とおっしゃったんです」

「初恋の人、ですか…」

「私、それを聞いて、びっくりしちゃって…。まさかあの先生の口から『初恋』って言葉が出るなんて…」

たしかにそうだ。ちょっとイメージしにくい。だが、大家の老先生だろうが誰だろうが、初恋は、誰にでも訪れるものなのだ。

「その女性の方は先生の幼なじみで、先生の若いころの活動の、よき理解者でもあったそうなんです」

「そうだったんですか…」

私は、先生がその写真を見つけたときの様子を反芻した。「東京にいるだんなさんのところに送ってあげなければ…」たしか先生はそうおっしゃった。

幼なじみで初恋の相手だったその女性が、結婚して東京に行くことになったとき、先生はどんなことを思ったのだろう、そして、たぶん半世紀ほどが過ぎて、亡くなったその方の写真を見つけたとき、先生はどんなことを思ったのだろう、などと、私は思いをめぐらせた。

たぶん、私にはとうてい達しえない境地である。

私ももっと年をとれば、この境地に達することができるだろうか。

|

« 再開と再会 | トップページ | 満開御礼 »

職場の出来事」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 再開と再会 | トップページ | 満開御礼 »