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2011年5月

みんな私が悪いのだ!

5月31日(火)

つくづく自分は、事務処理能力がないと思う。

今年度からある仕事を引きついだ私は、午後、必要な手続きがあって郵便局に行った。「必要な手続き」とは、「振り込み用紙に口座番号と加入者名を印字してもらう」という手続きである。

本来ならばもっと早く手続きに行けばよかったのだが、得意の「先送り」で、今の今まで先延ばしにしていた。

それほど面倒な手続きではないだろうと思い(そもそもそう思っている私が悪いのだが)、「印字をお願いしたいんですけど」と振り込み用紙を見せながら窓口で尋ねると、

「その口座は、うちの郵便局のものでしょうか?」と職員さんが言う。そこまで確認してこなかった。その点も、私が悪い。

「すいません。仕事を引きついだばかりでわからなくて…。たぶん職場から一番近い郵便局なので、そうだと思うんですけど…。あのう、ここでそれを調べることはできないんでしょうか?」

「ちょっとお待ちください」

職員さんは、台帳のようなものを奥から取り出して調べはじめた。

「…確かにうちの郵便局ですね。では、こちらの申請書に、必要事項を記入してください」

申請書を受けとった。

「この欄に届け出の印鑑をお願いします」

「印鑑も必要なのですか?」

「はい」

知らなかった。簡単に手続きできると思い込んでいた私が悪かった。

「すいません。印鑑を持ってこなかったので、出なおしてきます」

郵便局を出る前、念のため職員さんに尋ねた。

「あのう、これ、どのくらいでできあがりますか?」

「そうですね…。1週間はかかります」

「い、1週間ですか!?」思わず声を上げてしまった。

「まず、この書類を隣県の事務センターに送って、残高を確認してもらって、大丈夫であれば、代金の引き落としの手続きや印字作業をして、送り返してもらいますので、どうしても1週間はかかります」

このITの世の中で、1週間かかるとは!!作業自体は、そんなに難しいものではないはずである。

せっかちな韓国だったら、たぶん1時間もかからないでできあがるぞ。

以前だったら、お役所仕事だと思ってあきらめるが、何年か前から、民営化したんだよね!?

…という言葉がのど元まで出かかったが、悪いのは私の方なのだと思い、グッとこらえた。

とりあえず印鑑を取りに職場に戻った。

申請書類に不安なところもあり、何人かの同僚に聞きに行ったりして、ちょっと手こずってしまった。

これが命取りになる。

ふたたび郵便局に行くと、

「4時を過ぎましたので、受付は終了しました」

ええぇぇぇ!!そんなこと、聞いてないよ!

聞いてない私が悪いのだが、終了時間が近づいていたのなら、「窓口は4時で終了しますので、お急ぎください」とか何とか、ひと言あってもよかったのに…。

「どうしてもダメですか」食い下がる私。

「すいません。…もう閉めてしまいましたので」

やはりお役所仕事だ。うちの職場だって、5時を過ぎても職員さんがいれば、申請書を受けつけてくれる場合があるぞ。民営化したんじゃないのか?

…という言葉がのど元まで出かかったが、悪いのは私の方だと思い、グッとこらえた。

「町の中心部にある中央郵便局ならば、6時まで開いておりますので」と職員さん。

今からそっちへ行けってか?!

私はできれば今日中にこの仕事を済ませたいと思っていたので、仕方なく言われたとおり中央郵便局まで行くことにした。

窓口に申請書を出す。「これ、お願いします」

「口座は、うちの郵便局でしょうか?」と職員さん。

「いえ、違います。○○郵便局です。4時になって、受付が終了してしまったので、こちらを紹介されたんです」と私。

「そうですか…」職員さんは困った様子。

「いちおうお預かりすることはできるんですが、このご印鑑が届出の印鑑であるのかを確認する作業が、こちらではできないんですよ」

「どういうことですか?」

「つまり、これは○○郵便局の口座なので、印鑑が届出のものかどうかを確認できるのは、○○郵便局だけで、うちではできないんです。あと確認できるのは、隣県の事務センターだけです。ですので、うちでお預かりした場合、隣県の事務センターに送って、もし間違いがなければ、そのままそこで印字の作業に入りますが、もし届出印が違う、ということになった場合は、いったんこの書類が送り返されて、もう一度書類を作成していただくことになります」

それを聞いて、急に不安になってきた。捺した印は、本当に届出印なのか、自信がなくなってきたのである。こんなことなら、さっきの郵便局で、届出印かどうかだけでも確認してもらえばよかった…。というか、さっきの郵便局ではそんなことひと言も言ってなかったぞ。

「じゃあ聞きますが、もし…、もしですよ。この印鑑が間違っていたとすると、どのくらいでそれがわかるのですか。」

「これを隣県の事務センターに送って、向こうで確認したあと、送り返されてきますので、3,4日はかかると思います」

ええぇぇぇ!!

「…さっき、印字ができて送られてくるまで1週間かかるって、言われたんですが」

「そうですね。そのくらいかかりますね」

「とすると、もし印鑑が間違っていたら、いったんそれが送り返されて、また申請して、最終的には10日以上はかかる、ということですか?」

「そうなりますね」

なんというアナログなシステムだ!「白やぎさんからお手紙着いた 黒やぎさんたら読まずに食べた 仕方がないのでお手紙書いた さっきの手紙のご用事なあに?」的なやりとりではないか!(よくわからん)

民営化したんですよね?!

…という言葉がのど元まで出かかったが、悪いのは私の方なのだと思い、グッとこらえた。

ここではっきりと、捺した印鑑が届出印だということが確信できていればいいのだが、なにしろ引きついだばかりなので、絶対に間違いない、とまでは言いきれない。

「わかりました。じゃあ、もういいです…」

私は申請書を出さずに、中央郵便局をあとにした。

ここでボッキリと心が折れてしまい、今日はもうこの仕事をする気がなくなった。

悪いのは私。すべてこの私ですよ。手続きについて何も知らなかったこの私が悪いのです。職員さんにも丁寧な対応をしていただきました。でも、「十分な説明を受けないまま、たらい回しにされた」ような気分になってしまったのは、一体なぜだろう?

ま、ここでネタにしたから、いいか。

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なんだかんだと理由をつけて

5月30日(月)

「事を左右(そう)に寄せ」。古い記録に出てくる常套句。意味は「あれこれと理由をつけて」。

授業でやりましたな。試験に出ますよ。

人間は人生の大半を、あれこれと理由をつけてやり過ごしている。

というか、人間は「あれこれと理由をつける動物」である。

私と同世代のラジオDJがこんなことを言っていた。

「ちょっと昔は、『運動中に絶対水を飲むな』と言われていたが、いまは『運動中は水分補給を欠かしてはいけない』と言われている。まあこれは明らかに後者が正しいとしても、『筋肉痛があることで筋力がつく』という意見もあれば、『筋肉痛はたんなる筋肉の損傷だから、筋肉痛になるまで運動をしてはいけない』という意見もある。さらには、『音楽を聴きながら運動をするとよい』という人もいれば、『音楽は運動に効果なし』という人もいて、いったいどっちを信じていいのかわからない。こんな曖昧なことでは、運動をしても効果があらわれるとは思えないので、オレはもうジムに行くのをやめた」

結局、ジムに行きたくないことを、なんだかんだともっともらしい理由をつけて正当化しているのである。

私もまったく同じだ。

ここしばらく、ジムに行っていないことを、震災のせいにしたり、「最近はちょっとしたボランティアなんかもしているので…」なんて、もっともらしい理由をつけているのだが、要は行きたくないことの理由を探しているのだ。

この週末もまったく運動できなかったのは、「雨が降っていたから」という理由である。

そして今日も雨。

これではいかん。このままでは、ズルズルと何もしないまま終わってしまう。

ということで、久々に、スポーツジムに行くことにした。といっても、たいした運動をしているわけではないのだが。

あれこれと理由をつけてはサボり、いや、それではイカンと思い直し、心を入れかえようと誓う。

厄年を過ぎても、日々、このくり返しである。たぶん、ずーっと、こんなふうに過ごすのだろう。

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どしゃぶりの週末

この週末、東京はずっとどしゃぶりだった。結局、買い物に出た以外はまったく外出しなかった。こんなときは、あまりいいことがない。

5月29日(日)

朝、遅くに目を覚まして1階に下りると、妻の妹が来ていた。

プチ夫婦げんかをして、プチ家出をしたらしい。「行き先を告げずに出てきました」とのこと。ま、この夫婦ではよくあることだ。

昼食をみんなで食べながらよもやま話。

「何か趣味をもちたい」と義妹。

「語学なんかどう?韓国語とか」と妻。

「手垢にまみれた外国語は、今から勉強したくない」と義妹の反論。妻も私も、韓国語を勉強しているし、最近は妻の母も韓国語を勉強している。みんながすでにこぞって勉強している中で、出遅れて勉強をはじめるのは屈辱なのだろう。「手垢にまみれた」とは、そういう意味である。

「じゃあ中国語は?中国映画を字幕なしで見られるくらい勉強するとか」

「中国映画に興味ないし」

「じゃあ、広東語は?香港映画だと、広東語を勉強しておいた方がいいよ」

「だから香港映画にも興味ないんだってば!」

ということで、語学はあえなく撃沈。

「楽器をはじめるのはどう?学生時代に楽器をしてたじゃない」と妻の母。

「音がうるさくて練習する場所がないでしょう」

「じゃあ、手芸とかは?」何を隠そう、手芸サークルの顧問である私の提案。

すると、みんながフフッと笑いだした。

「それはやめた方がいいね」妻と妻の母が口をそろえて言う。

「どうして?」

「じゃあ、この子が中学の時の家庭科の授業で作ったエプロン、見てみる?」

そういうと、妻の母は、どこからか義妹が中学の時に作ったというエプロンを持ってきた。

「…たしかにこれはひどいですねえ」

「でしょう?」

「じゃあ、絵を描くとかは?」と再び私。

「だから、このエプロン見たら、ダメだってわかるでしょう」

「あ、…そうですね」

義妹は無類の不器用なのだ。

なかなかいいのが思いつかない。

「書道とかは?」と妻の母。

「書道ねえ。たしかにちょっとやってみたい気がする」と義妹。

「せっかくだから、書道じゃなくて、写経にしたら?」と妻。

「写経か…」まんざら悪くない、という義妹の顔。

「そうだ!米粒に写経するってのはどう?」と、私がたたみかけた。

「……」

ちょっと調子に乗りすぎた。話題を変えることにした。

「そうそう、語学っていえば、英語を勉強したいと思ってるんだけど、ニンテンドーDSだったら、英語の勉強ができそうな気がする」

ニンテンドーDSを買いたい、というのを、暗にほのめかした。

「何それ?どういうこと?」とあいかわらず、妻はそういうことにキビシイ。

「だから、ニンテンドーDSがなければ、英語の勉強ができないんだってば!」

われながら、かなり大人げない理屈である。

「DSですか?だったら、ウチにあるの、貸しましょうか?」と義妹。

「え、持ってるの?」

「私のではなく、課長のですけど」

課長とは、義妹の夫のあだ名である。ヒラ社員なのだが、見た目が課長っぽいのでそう呼ばれている。だが私には、義妹の夫が課長顔には見えない。

「え?いいの?」

「大丈夫ですよ。どうせ飽きちゃってるんだし。最近は3DSが欲しいなんてのたまっとります」

ということで、プチ家出中の義妹は、家に一時帰宅し、課長(義妹の夫)の許可をもらわず、DSを私に貸してくれた。

「マニュアルとかはないの?」私はバブル世代のマニュアル世代なのである。

「そんなものありません。やっているうちになんとかなるでしょう」

「それにしても、本当に借りちゃっていいのかなあ」

「かまいやしません。…もしうちらが財産分与だなんだってことになって揉めたら、返してください」

おいおい、穏やかでないなあ。

「そのうち、DSを勝手に貸したことが原因で、この夫婦が裁判沙汰になったりして」と妻が脅かす。

「おいおい、勘弁してくれよ。そんなの、借りたって気が重いばっかりだよ」

「結局、なんだかんだで、課長に3DSを買ってあげることで決着がついたりして。そうなったら高くつくねえ」さらに妻が脅かす。

借りたって、ちっとも楽しめないじゃないか。

まあいいや、帰りの新幹線の中で、少しやってみることにしよう。これで新幹線での楽しみができた。

夕方、新幹線に乗り込む。

すると、通路をはさんだとなりの席に、日ごろお世話になっている地元の老先生おふたりが、偶然いらっしゃった。

そして終点まで老先生のお話をうかがい、DSどころではなかった。

やっぱりどしゃぶりの日は…。

(なんとなく向田邦子風に書いてみました)

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いまさら「告白」

5月28日(土)

週末は東京。

もう半年くらい前から、懸案の事項があった。

湊かなえの小説『告白』の韓国語訳版を読む、ということである。韓国滞在中に、妻が買った本である。

妻が「これ面白いから読んだ方がいいよ」という。日本でそうとう話題になった小説である、というくらいは、知っていた。

「日本語版(つまり原作)じゃダメなの?」と聞くと、

「日本語版は読んでないからわからない」という。誤解のないようにことわっておくが、妻は日本人である。たんにあまのじゃくなだけである。

で、ことあるごとに「『告白』は読んだ?」と聞かれ、そのたびにはぐらかしていた。

この小説は、昨年に松たか子主演で映画化され、公開された。妻に「映画も面白いよ」とすすめられたが、それも二の足を踏んでいた。あるラジオDJが、「この映画はすごくよくできているし、面白いんだが、登場人物を誰も好きになれない」というニュアンスのことを言っていて、何となく後味の悪い映画なのだろうか、と勝手に思いこんでいたからである。

だが辛口批評家の妻が面白いというからには、やはり面白いんだろうと思い直し、この週末に見ることにした。

で、感想。この映画、そうとう面白い。面白い、といういい方は語弊があるかも知れない。とてもよくできている。

とくに最初の30分は圧巻である。

「これ、最初の30分だけでも、十分面白いね」と妻にいうと、

「もともと、この小説が最初に発表されたときは、映画の最初の30分にあたる部分だけだったんだけど、面白さが評判になって、続きが書かれたらしい」とのこと。なるほど、そういうことか。

これで、韓国語訳版『告白』を読むモチベーションが上がった。

ちょっと待て。いま気づいたぞ。最近妻がすすめた映画「沈まぬ太陽」も「告白」も、いずれもその年の日本アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞している作品ではないか。ふだん、妻も私も「日本アカデミー賞だなんて、『戸越銀座』じゃあるまいし(この意味、わかるかな?)」などとバカにしていただけに、「日本アカデミー賞の最優秀作品賞だから面白いと思ったんじゃないの?」と思われると、すこし悔しい。

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ラガーシャツで「くらや」へ!

5月26日(木)

昨日、思いがけず、大学時代の教育実習のことを思い出した。

思えば、大学4年間の中で、教育実習のあの2週間が一番楽しかったなあ。

母校だったから、なおさらだったかもしれない。

同学年の知り合いもいたが、当時は1浪、2浪はあたりまえだったので、先輩や後輩もいた。知り合いはごくわずかで、ほとんどが、教育実習ではじめて会う人ばかりだった。私は1浪しているので、同期のほかに、1学年下の後輩もいたし、1学年上の先輩もいた。

実習生は、教科ごとに大部屋に集められ、授業のない時間は、もっぱらよもやま話である。高校時代に顔を合わせたことがなくとも、だいたい、思い出話は一緒である。

「高校の裏にあった『くらや』によく行ってチェリオを買ってきましたなあ」

「そうそう、休み時間に、上履きのままでね。裏門を飛び越えたりして」

「くらや」とは、高校の裏にあった駄菓子屋である。まだ、周りにコンビニが全然なかった頃、うちの生徒御用達の店であった。

「チェリオ」とは、清涼飲料である。人工的な色をした飲み物で、当時は細長いビンに入っていた。私たちはあれを水がわりに飲んでいた。今でもあるのかなあ。

2時間目と3時間目の間の休み時間は15分。その15分の間に、「くらや」にチェリオを買いに行く。だが、バカ正直に正面玄関で靴に履きかえて、正門を出て、裏にまわって、「くらや」に行ったら、15分では教室に戻ってこれなくなる。そこで、上履きのまま、いつも閉まっている裏門をのりこえて、「くらや」に直行したのである。

だがそのことが問題になった。そりゃそうだ。閉まっている裏門をのりこえて出たり入ったりしている様子は、周りから見たら、まるで学校に不法に出入りしているように見えて不気味である。どうやら近所からクレームが来たようで、学校からたびたび禁止令が出たのである。

だったら、いっそ裏門を開放すればいいじゃん、と思うのだが、警備上の問題から、そうもいかないらしい。

あるとき、生徒会長選挙で、

「私が生徒会長になったら、休み時間に裏門を開放するように、先生方にはたらきかけます!」

と公約した候補者がいた。それくらい「上履きのまま裏門をのりこえて『くらや』に行く」ことは、生徒たちの間で常態化していたのである。もちろん目的の大半は、「チェリオ」を買うことである。

…そんな思い出にひたっていると、向かいに座っていた実習生のA氏(今となっては名前も覚えていない)が私に言った。

「久しぶりに、やってみませんか?」

「え?何を?」

「上履きのまま裏門をのり越えて『くらや』に行くことをですよ!」

「バカな!見つかったら、即、実習取り消しになりますよ。だいいち、こんなふうに背広を着ていたら、一発でばれるじゃないですか」

「大丈夫ですよ」そういうと、A氏は、カバンからラガーシャツをとりだした。

「これに着替えて行けば、大丈夫です」

「どうしたんです?それ」私は尋ねた。

「実は僕、高校時代、ラグビー部だったんです。で、放課後にラグビー部の生徒を指導しようと思って持ってきたんですよ。これに着替えれば、実習生とは思われないでしょう。現役の高校生だと思われますよ」A氏は得意満面である。

「でもそれじゃあ、こんどは現役のラグビー部の生徒が疑われますよ」と私。裏門を乗り越えた犯人がラガーシャツを着ていた、なんてことが目撃されたら、真っ先に疑われるのはラグビー部の生徒である。

「大丈夫ですよ。上手くやりますから」A氏は背広から素早くラガーシャツに着替えると、

「じゃ、行ってきます」と言って、部屋を出て行った。

しばらくして、部屋の扉が開いた。

「買ってきました。いやあ、楽しかったなあ」とA氏。「これ、チェリオです」

A氏は人数分のチェリオを買ってきてくれた。久しぶりに、細長いビンに入ったチェリオを飲んだ。

そのA氏が、その後、教師になったのかどうかはわからない。というか、教育実習が終わってからというもの、ほとんどの実習生とは、それっきりである。

その後しばらくたって、駄菓子屋「くらや」は店じまいしたという。

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1日だけの恩師

5月25日(水)

午後、長くてツライ会議。

その中で、「教育実習」の話が出た。

今年度から、学生は母校での教育実習ができなくなり、近隣の学校で行わなければならなくなった。それにともなって、実習生が行う「研究授業」を指導教員が参観することになった、という。

「母校での教育実習」、「研究授業」、「指導教員による参観」…。

ボンヤリとした頭で聞いていた私は、自分が教育実習をした時のことを思い出した。

今から20年ほど前、大学4年の時のことである。

母校の高校に教育実習に行くことになった。教育実習生の一覧表が配られ、私のところを見ると、指導教員の欄に見知らぬ先生の名前が書いてある。Fという先生である。

調べてみると、心理学の先生である。私の専攻とはまったく異なる先生である。

これは、あとで調べてわかったことだが、F先生は有名な社会心理学者であった。そればかりか、F先生のお父様は、法医学の草分け的存在の方で、戦後の数々の重大事件に法医学者として血液鑑定をされた方である。私でも知っている法医学者である。つまり、根っからの学者一家である。

私の大学は、教授はもっぱら自分の研究に打ち込み、学生はほったらかしだったから(それが許されていた大学だった)、教育実習の指導教員などといっても、まったくの名目にすぎないものであった。おそらく、機械的にふりわけられたのだろう。だから私とはまったく無縁の先生だったのである。

指導教員は名目上のものだ、ということは、暗黙の了解だった。

だが、それでもいちおうは指導教員なのだから、形だけでもご挨拶に行こうと思い、F先生の研究室を訪ねることにした。

F先生は、白髪の紳士、といった感じの穏やかそうな先生である。私が、「教育実習に行くことになり、先生が指導教員ということだったので、ご挨拶にうかがいました」と言うと、

「それでわざわざ来てくれたのか。そうかそうか。わざわざ挨拶に来たのはあなたくらいなものだよ」

とにこやかにおっしゃった。

「で、どこの高校に行くのかね?」

「都立K高校です」

「K高校…」F先生は何かを思い出したようだった。

「K高校に、F谷君という英語の先生がいなかったかね?」

「ええ、いらっしゃいました。私、3年間習いました。とてもお世話になった先生です」

ふいにF谷先生の名前が出て、びっくりした。F谷先生は、私が高校時代、強く影響を受けた先生のひとりである。

とにかく変わった先生で、いわゆる受験英語のようなことは一切しない。まったく自由奔放に英語の授業をする。授業中に、いろいろな学問の話をしてくれて、それがとても刺激的でおもしろいのだ。

だが、まじめに英語を勉強しようとする生徒たちからは、どちらかというと煙たがられていた。「もっと受験に役に立つことを教えろよ」とか、「授業中に関係ない話が多すぎる」とか。

高校3年の土曜の放課後、F谷先生による自主講座が行われた。「ベーシック英語」という講座である。

「ベーシック英語」とは、普通の英語とは違い、850語の単語だけを使って、すべての表現をするという、人工言語のことである。いってみれば、エスペラント語のようなものである。

この「ベーシック英語」は、1つでも多く英単語を覚えなければならない受験英語とは、真逆の言語体系である。当然、この講座に参加する生徒など、ほとんどいなかった。私を含め、わずか数名であった。そりゃそうだ。高校3年だもの。でも私は参加し続けた。私には、F谷先生が受験英語のアンチテーゼとして「ベーシック英語」を教えているようにも思えた。F谷先生も私も、あまのじゃくだったのだ。

「F谷先生をなぜご存じなんですか?」私はF先生に聞いた。

「あれは、私の教え子だよ」

そうか、それで合点がいった。F谷先生は授業中、やたらと心理学の話をされていて、それがたまらなくおもしろかったのだが、そもそもが心理学者だったのだ。

F谷先生は、私が高校を卒業した後、高校をやめて大学の先生になった。

ひとしきり、F谷先生の話で盛り上がった。

「そうか、K高校か…。君、研究授業はいつかね?」

F先生は唐突に私にお尋ねになった。

「最後の週の金曜日です」

「よし、では君の研究授業に行くことにしよう:」

ええぇぇ!ビックリである。そもそも名目上の指導教員なのだから、わざわざ研究授業を見に行く必要なんてないのだ。

「わざわざいらっしゃるんですか?」私は思わず聞いてしまった。

するとF先生がおっしゃった。

「私は今年度で、この大学を定年退職する。私はこの年齢まで、毎週金曜日の大学院の演習を1度も休講にしたことがない。それは私の誇りだ…。だが、君が金曜日に研究授業をする、というのなら、私は大学院の演習を休講にして、君の研究授業を聞きに行くことにしよう」

えええぇぇぇぇ!!重い!重すぎる!

長年F先生が築き上げてきた、大学院の演習の皆勤記録が、教育実習の研究授業ごときのために、定年退職を目前に途絶えてしまうなんてえぇぇぇ!

私は一気に汗が噴き出した。

「そ、そんな…休講だなんて…。いいんでしょうか?」思わず私は尋ねた。

「君がF谷君の教え子だって聞いたら、行かないわけにはいかないだろう」

F先生はにこやかに答えた。

さて、驚いたのはわが母校の先生たちである。

まさか、大学から偉い先生が研究授業を聞きに来るなんて思わなかったから、さあ大変!

校長先生なんか完全にテンパっちゃって、教頭先生と一緒に玄関の外に出てF先生をお出迎えしたり、校長室で上等のお菓子を出したりと、コントのようだった。

さて、研究授業の方はというと。

教育実習生たちの中で一番最後の研究授業だったこともあって、たくさんの先生方や実習生たちが見に来てくれた。そして大団円を迎えた。

あとにも先にも、あんなに充実感のある授業ができたことはない。

授業が終わり、校長室にいらっしゃるF先生にご挨拶に行った。

「僕はこの方面には門外漢だがね。…でも、聞いていてよく分かったよ。とてもおもしろかった」

私はホッとした。この場に、F谷先生もいらっしゃればなあ、と思った。

そして帰り際、

「来てよかったよ。本当によかった」

そう言って、F先生は玄関をお出になった。

「ありがとうございました」

私はF先生の後ろ姿に、深々と頭を下げた。

その横で、校長と教頭も、深々と頭を下げていた。

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グッとくるツボ

5月24日(火)

あいかわらず疲れているし、これといって面白い出来事があったわけではないので、今宵も、歩いて帰る道すがら考えた、どうでもいい話をひとつ。

小説でも映画でも、私は「師弟モノ」に弱い、ということに気づいた。つい先日この日記に書いた浦沢直樹の漫画『マスターキートン』の中の「屋根の下の巴里」というエピソードも、典型的な「師弟モノ」である。

たびたびこの日記に登場する黒澤映画には、師弟を軸にした話が多い。「七人の侍」も、言ってみれば志村喬が師で、三船敏郎が弟子である。「酔いどれ天使」も「野良犬」もしかり。「赤ひげ」も純然たる「師弟モノ」だが、これは三船敏郎が「師」の立場であることもあり、なんとなく好きにはなれない。

…ということは、たんに私は志村喬が好きだということか。そういえば、「男はつらいよ」に登場する志村喬も、寅次郎にとっては師匠のような役割である。

やはり私にとっては、志村喬がツボなのかも知れない。ま、それはともかく。

黒澤明が愛してやまなかった山本周五郎の小説にも、「師弟モノ」がある。

私は山本周五郎の小説をあまり読んでいるわけではないが、「内蔵允留守」(『深川安楽亭』新潮文庫)とか、「鼓くらべ」(『松風の門』新潮文庫)なんてのは、読んでいてグッとくるね。

山本周五郎が一貫して描いているのは、「地位や名声に拘泥しない師」である。「常に物事の本質を追い求める師」である。どんな立場にあろうとも、道を究めようとする力強さが、山本周五郎の描く師にはある。そこにグッとくるのである。

それは、山本周五郎自身がいかなる文壇の賞も固持し、一貫して市井に生きる人びとの姿を温かい眼差しで描き続けたことと無関係ではないだろう。

山本周五郎を読めば、権力にすり寄ったり、実力以上の名声を追い求めようとしたりする人間が、いかに姑息で、薄っぺらく、さもしい人間であるかがよくわかる。

人生に迷ったときには、山本周五郎を読め。

揺るがない本質を見きわめたかったら、山本周五郎を読め。

…と言いたいところだが、人にはそれぞれグッとくるツボが違うから、大きなお世話か。

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ひいきの店

5月23日(月)

週が明けたが、咳がまだ止まらない。

心なしか、私の周りに、私と同じ咳をしている人が増えたような気がする。風邪をひいた、という人もいるようだ。

ひょっとして、私がゴホゴホするたびに、深刻な病原菌をまき散らしているのではないか?

そもそも私は、マイナスオーラのかたまりなのである。

書いた本は売れない講演会には客が来ない、イベントに行くと雨が降る、等々。

そんな中のひとつに、「ひいきの店が潰れる」というものがある。

若い頃、社会人になってオッサンになったら、なじみの居酒屋の1つぐらいできるのだろうか、と思っていた。そう、たとえば高倉健主演の映画「居酒屋兆治」とか、安倍夜郎の漫画「深夜食堂」(ドラマでは小林薫が主演)に出てくるような、カウンターだけの居酒屋。

だが、そもそも私の性格から考えて、なじみの店に通って酒を飲む、なんてことが考えられない。基本的に、非社交的な人間なのだ、私は。

そんな私にも、町に1軒だけ、なじみとまではいかないが、ひいきにしている居酒屋があった。

気のおけない友人とお酒を飲むときや、遠方から来たお客さんを接待するときなんかに使う店である。私にとって、ごくたまにしか行かない、それはそれは、大事な店だった。それこそ、オヤジがひとりで切り盛りして、カウンターと、テーブル席が2つばかりしかない、小さな店である。

その店は何といっても料理と酒が美味い。それに店のオヤジがよけいなことを言わない。まさに私にとって、理想の店である。そんな店で、数少ない、気のおけない友人と語りながら舌鼓を打つなどは、まさに至福の時間である。

だが今年の初めくらいだったか、その店を切り盛りしていたオヤジが急逝したという。あんなに元気で、しかもまだ若かったのに…。

当然、店はたたんでしまった。

店のオヤジが亡くなってしまったこともショックだが、それによって店がなくなってしまったこともショックだった。この、非社交的な私が、奇跡的に出会った「ひいきの店」である。私はすっかり心が折れてしまった。

さて先日(5月6日)。

東京で研究会があったおり、研究仲間のTさんが、

「来月、仕事でそっちに行くので、また飲みましょう」

と言ってきた。Tさんは昨年も、仕事の関係でうちの職場に来て、夜、一緒に飲みに行ったのだった。場所は当然、私のひいきの店である。

「あの店、よかったよねえ。お酒も料理も美味しくて」

「はあ、でももうあの店、ないんですよ」

「え!?」

「店のオヤジが死んじゃって…」

Tさんは残念そうな顔をした。

この会話を横で聞いていたわが師匠。

「あんたのなじみの店、すぐなくなっちゃうね」とからかい半分で私におっしゃった。

「え?そうですか?」

「だって、あの店もそうだっただろう」

思い出した。まだ私が前の職場にいたころ、わが師匠が一度いらしたことがあった。その時、私がその町で唯一ひいきにしているお店にお連れしたのである。カウンターと、狭い座敷がある、小さな居酒屋である。やはり料理とお酒の美味しい店だった。

その店も、ほどなくして、潰れてしまったのである。

「あんたのなじみの店は、どんどん潰れていくなあ」

…私には返す言葉もなかった。

やはり私には、マイナスオーラがあるようだ。

以前テレビを見ていたら、ある女性タレントが「私がファンになるバンドは、必ず解散する。だから、いろんなバンドから、頼むからファンにならないでくれと言われている」と、半ば冗談で言っていたを見たことがあるが、まさにそんな感じである。

このことを妻に話すと、

「そのうち、店に入ろうとしたら、あわてて店を閉められたりするんじゃないの?」

と、あいかわらず口が悪い。

そんなことはともかく、遅くなってしまったが、ひとりで店を切り盛りしていたオヤジの冥福を祈ろう。

オヤジ、今までありがとう。料理と酒、美味しかった。

オヤジの店に代わるようなひいきの店を見つけるのは、私にとっては至難の業だよ。

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開かないフタはない

5月22日(日)

巷では「トイレの神様」とかいう歌が流行っているそうだが、私にとっていま必要なのは「やる気の神様」である。

とにかく能力に比してやるべきことが多いので、週末が近づくたびに「よし、今週末は人が変わったようにたまった仕事を片づけるぞ!」と思うのだが、いざ土曜日になると、身体が鉛のように動かなくなってしまう。

ま、日曜日があるからいいか、と思って、日曜日になると、「午前中は休んで、午後からがんばろう」となる。で、あっという間に夕方。

そんなふうに「僕の一日がすぎてゆく」(井上陽水の歌からの抜粋でございます)。

ああ、韓国にいた頃は輝いていたなあ。それが今じゃあ、このていたらく。日記の質も落ちる一方だ。

ということで、週末は何一つ面白いことがなかったので、どうでもいい話をひとつ。

5月の大型連休、東京から車でこっちに戻ってくる途中、サービスエリアで「ほたるいかの沖漬け」の瓶詰めを発見。お酒の四合瓶みたいな、細長い瓶に入ったものである。

私は「ほたるいかの沖漬け」に目がないので、見つけるとすかさず買った。で、冷蔵庫に保存し、今日いよいよ、瓶を開けてほたるいかの沖漬けを食べることにした。

ところが、である。

瓶のフタが、ぜんぜん開かない。ピクリとも動かないのである。

まあこんなことはよくあること。素手で開けようとするから滑ってしまってダメなんで、ハンカチとかゴム手袋とか、なにかそういったものを使ってフタをまわせば開くだろう。

と思って挑戦するが、やはり開かない。ピクリともしないのである。

何度も挑戦しているうちに、握力がだんだん弱くなってきた。

(ダメだ。これでは悪循環だ。もう開く気がしない…)

いっそのこと、瓶をたたき割って中の沖漬けを取り出そうか、とも本気で考えたが、そんな手荒なマネはやめた方がよい、だいいち、割れたガラスが沖漬けの中に紛れ込んだら食べられなくなるぞ、と思いなおし、あきらめた。

(困ったなあ…)

そうだ!世の中には、インターネットという、大変便利なものがある。

私はさっそく、「瓶の蓋 開かない」と検索したところ、さっそくヒットした。同じことで悩んでいる人は、たくさんいるようである。

まっ先に出てきたのは、「誰かが質問して、それを誰かが答える」というサイトである。私が日ごろ、「質問する方も質問する方だが、答える方も答える方だ。こういうところに質問したり、答えたりする人の心理がわからん」と不思議に思っているサイトである。

「瓶のフタがピクリともしません。どうしたらいいでしょう」という、私とまったく同じ悩みに対して、多くの人が答えていた。

「開かないフタを開ける便利グッズがあります」とか、「大丈夫、2人いれば開きます」とか、私にとっては役に立たない答えばかり。

こんなことのために、わざわざ便利グッズ屋さんをさがしたいとは思わないし、ひとり暮らしをしている身で「2人で開ける方法」を聞いても、まったく意味がないのである。

(困ったなあ…)

すでにもう30分近くたっていた。

(万策尽きたか…)と天を仰ぎ、瓶のフタに手をかけると、

スルッ。

あれ?!瓶のフタが開いたぞ。どういうこっちゃ!?

原因がわかった。

私はほたるいかの沖漬けの瓶を、冷蔵庫の中でキンキンに冷やしていたのである。そうすると冷蔵庫の中で金属のフタが冷やされ収縮し、瓶を締めつけてしまい、開かなくなってしまったのである。

逆にフタを温めれば再び膨張するわけで、私があれこれと試行錯誤しているうちに時間が経ち、自然とフタが温まり、開いたという次第。

結論は、まあ落ち着け、ということですな。

そういえば一昨日、「就活がこのまま終わる気がしません」といって研究室に来た学生に、

「終わらない就活はないのだ」

と言ったばかりだった。瓶のフタも同じである。

開かないフタはないのだ!落ち着けば、必ず開くのだ。

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すっかりその気で

5月20日(金)

「ここ1,2週間、咳が止まんなくってね。…たぶん、死期が近いんだと思うんだけど」

アサイチの授業で開口一番、そう言うと、学生たちはゲラゲラ笑った。

授業の最後に集める出席カードの裏に、「本日の講義は非常に楽しかった。脱線して興味を引く話をもっとしてもらっていいのではないでしょうか」と、書いてくれた受講生がいた。

たぶん、昨日聞いた落語が、アサイチの授業に影響したのだろう。まったく、影響を受けやすい自分自身の性格には呆れてしまう。

「『丙午(ひのえうま)の女は夫を食い殺す』、…なんて申しましてね」

授業中、干支(えと)の説明のところで、ふと口をついて出た。これは、ご存じ、映画『男はつらいよ』の寅さんの口上からの抜粋である。

もちろんこれ自体はまったくの迷信である。丙(火の兄)と午は、火性が重なり、その年に生まれた人は気性が激しい、などと言われるようになった。

だからこの年は、出生数が他の年に比べて格段に少ない。私の2学年上が1966年の丙午の年に生まれた人たちだったが、他の学年に比べて1クラス少なかったことをよく覚えている。この迷信は、つい最近まで真に受けられてきたのだ。そういえば、この年に生まれた人は、私の周りにあんまりいないような気がする。

そこから、ひとしきり干支にまつわるエピソードなど。ま、こんなムダ話が、ウケたのかも知れない。

しかし根がマジメなためか、あんまりムダ話をするタイプではない。もちろん、その衝動はあるのだが、いちど堰を切ると、とめどもなく話が脱線してしまいそうな気がするので、自分をおさえているのである。他の同僚は、授業でどのくらい話が脱線したりするんだろう。

落語と寅さんで思い出した。昨日の歌丸師匠の落語会で、恥ずかしながら「左甚五郎・竹の水仙」を初めて聞いたが、この話って、シリーズ最高傑作の呼び声が高い「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」の中に上手く取り入れられているなあ、ということに気づいた。落語に造詣の深い山田洋次監督ならではの、落語へのオマージュだと思う。

うーむ。まだまだ勉強が足りないなあ。

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笑点の奇跡

5月19日(木)

あいかわらず、咳が止まらない。止まらないどころか、授業中に学生がヒクほど咳き込み、学生たちの目はテンになっていた。

そんなことより、今日の夜は、桂歌丸師匠、高座60周年記念の落語会である!

落語を生で聞くなんて、何年ぶりだろう?10年はゆうに越えているかも知れない。

ゲストは林家たい平師匠である。つまり、笑点メンバーの競演でもある。

といっても、このところずっと、「笑点」を見ていない。私の中では、司会が三波伸介でなくなり、座布団運びが松崎真でなくなってから、すっかり「笑点」熱が冷めてしまった。

思春期くらいになって、巷に漫才ブームが起こったり、新しいお笑いが溢れたりするようになると、「笑点の笑いは古いしダサイ」などと考えるようになって、しだいに「笑点」を敬遠するようになった。

しかし、「笑点」とは不思議な番組である。県民会館に向かって歩いている途中で、こんなことを思い出した。

小学校の時、オリモ君という友だちがいた。オリモ君のお父さんは、小学校の先生をしていて、とてもマジメで、厳格な方だった。家に遊びに行って、お父さんがいたりすると、悪ふざけができない感じになるくらい、折り目正しくて、ちょっとこわい感じの印象があった。

オリモ君のお父さんは毎年夏になると、群馬県の霧積温泉というところに泊まりにいくのだが、なぜか私も、オリモ君と一緒に、毎年、霧積温泉に連れていってもらっていた。

ある夏の霧積温泉でのことである。

旅館の部屋でくつろいでいると、その厳格なオリモ君のお父さんが、「笑点がはじまるぞ」といって、テレビをつけた。そして、テレビの前で寝そべって、「笑点」を見はじめたのである。大喜利のコーナーになると、食い入るようにテレビを見つめた。

当時は小圓遊師匠の全盛期で、得意の「若旦那」キャラで、

「ボク、今まで箸より重い物を持ったことがないの~」

とかなんとか言うと、オリモ君のお父さんは

「ガハハハ、な~にキザなこと言ってんだよ!おんもしれえなあ」

とか、歌丸師匠と小圓遊師匠の例のバトルが始まると、

「ガハハハ、いいぞいいぞ、もっとやれ!」

とか、大笑いしながらテレビにツッコミを入れるのである。

ふだん、クスリとも笑わない厳格なお父さんが、笑点を見てゲラゲラ笑っていることに、私はショックを受けた。

(たしかに笑点は面白いが、そんな爆笑するほど面白いか?小圓遊が若旦那を気取ったり、歌丸と小圓遊が喧嘩したりするのは、演出だろうに…)

と、むしろ小学生の私の方が、一歩引いて見ていたくらいである。

「笑い」からいちばん遠い位置にいると思われるオリモ君のお父さんが、笑点に釘付けになり、人目もはばからず大笑いするのは、どうしてなんだろう。

その答えが、今日、出たような気がした。

いやあ、面白かった!1500人くらいいたお客さんが、すっかり、たい平師匠や歌丸師匠の芸に魅了されていたぞ!もちろん、私もである。

今日の演目は、次の通り。

一、対談(桂歌丸・林家たい平)

一、「浮世根問」 柳亭小痴楽

一、「不動坊」 林家たい平

一、「竹の水仙」 桂歌丸

20代の落語、40代の落語、70代の落語、それぞれ持ち味が違っていて、同じ落語というジャンルでも、こうも違うものか、と思わせる。

小痴楽さんは、20代前半らしい勢いのある落語。

今回、たい平師匠の落語をはじめて聞いたが、一瞬でファンになってしまった。私と年齢があまり変わらないが、1500人の客の心を一気につかむ立て板に水の話芸には、嫉妬すら感じた。ネタに入ると、良質のコメディを見るがごとき面白さ。授業で、あんな感じでしゃべれたら、絶対学生にウケるだろうなあ…。

そして歌丸師匠!一編の喜劇映画を見ているように、その世界に入り込んでしまった。それに、75歳であの滑舌のよさは半端ねえ!

たい平師匠も、歌丸師匠も、一瞬のうちに、1500人の観客を、自分の世界観の中に引きこんでしまう。私自身もどっぷりと、その世界観の中にひたってしまい、まんまとダマされてしまうのだ。

これだよ、これ!これこそ私のめざしていたものだ。よし、オレはたい平師匠みたいになるぞ!(また始まった)。

ということで、あっという間の2時間半。十分楽しませていただきました。

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屋根の下の巴里・補足

5月18日(水)

数日前くらいから、なぜか浦沢直樹の漫画『マスターキートン』の「屋根の下の巴里」というエピソードがしきりに思い出され、そのことを昨日の宴会で、学生たちの前で話した。

いつまでたっても大学に就職できない考古学者、キートンは、あるとき、パリの社会人大学の非常勤講師の口を見つける。そこで、社会人たちを前に、考古学を講義することになった。

ところが運の悪いことに、その社会人大学は、もうじきとりこわされることになった。せっかく、意欲のある人たちの前で、自分の好きな専門の講義ができることになった矢先なのに、と、キートンは自分の運の悪さをのろった。

自分は研究者としてはたしてモノになるのだろうか?心が折れそうになったキートンは、ふと、自分の師匠である、ユーリー・スコット先生のことを思い出す。スコット先生は、第二次大戦中のロンドンで、瓦礫と化した大学で、社会人たちを前に、瓦礫からとりだした教科書の土埃をはらいながら、最後の最後まで授業を続けたのである。

そして自分もまた、社会人大学がとりこわされる最後の最後まで、授業を続けることを決意するのである。

…とまあ、こういう地味な話なのだが、私はこれを、たぶん原作の漫画を読むよりも前に、当時テレビ放映されたアニメで見たと記憶する。いまから12,3年ほど前のことである。

なぜこの話が印象深かったかというと、当時私も、キートンと似たような境遇だったからである。まだ定職についておらず、はたして自分がモノになるのかどうか、不安な日々を過ごしていた。しかもこのとき私も、非常勤講師として社会人大学で教えていたのである。

キートンも、その師匠であるユーリー・スコット先生も、研究者としてはむしろ不遇といえる人生を送っている。だが、誰よりも誇り高く生きているではないか。私はこのとき、実在するどの先生よりも、ユーリー・スコット先生に励まされたのである。

そうだ、私は12年前のあのとき、「オレはキートンになる!」と誓ったのだ!

そのことを思い出した。

それがいまや、オンチ君になりたい!などと言っているのだから、時の流れとは恐ろしい。というか、たんに影響を受けやすい単純な人間なのね、私は。

それに、私とキートンは似ても似つかない。キートンのようにスマートでもないし、サバイバル能力もない。似ているのは、「やたら物をすぐにポケットに入れる」という癖くらいなものである。

さて、宴会の時に話したことが、どれだけ学生に伝わったのはわからないが、まあそんなことはどうでもよい。

話し終わると、3年生のN君が、「浦沢直樹、いいですよね」と言ってきた。『プルート』を読むと、彼が天才だということがわかりますよ」

「へえ、そうか。じゃあ今度読んでみるよ」

『プルート』は、手塚治虫の『鉄腕アトム』のエピソードのひとつを、浦沢直樹がリメイクした作品である。

そこからひとしきり、N君たちと手塚治虫の話になる。

「手塚治虫は短編もいいですよね」

「そうそう、『ザ・クレーター』は傑作だよね」

「あ、それ、僕も好きです」

どうも感性が合うようだ。

さて今日の午後、某所で講演の仕事があり、それが無事終わったので、自分へのご褒美、などというとキモチワルイが、帰りに大手古本チェーン店に立ち寄って、「屋根の下の巴里」がおさめられている『マスターキートン』第3巻を買うことにした。いてもたってもいられなくなったのである。

久しぶりに読んでみると、原作とアニメとは、微妙にセリフが異なっていることがわかった。昨日書いたのは、アニメ版のセリフである。

原作では、キートンは社会人学生たちを前に、講義の最後をこう締めくくる。

「人間は一生、学び続けるべきです。

人間には好奇心、知る喜びがある。

肩書きや、出世して大臣になるために、学ぶのではないのです…

では、なぜ学び続けるのでしょう?

………

それが人間の使命だからです」

このセリフに、また泣いた。

こんなセリフ、いつか言ってみたいなあ。

そのときは、最後の最後、私自身が去ってゆくときだろうなあ。

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屋根の下の巴里

5月17日(火)

私はふだん、漫画をほとんど読まないが、浦沢直樹の『マスターキートン』は、以前、好きで読んでいた。

『マスターキートン』の主人公は、考古学者の平賀・キートン・太一で、考古学ではメシが食えないので、保険の調査員をして生計を立てている。英国特殊部隊にいた経験も持つ。その主人公の身のまわりに起こる、さまざまな事件や出来事を描いたヒューマンドラマである。

その中に、「屋根の下の巴里」というエピソードがある。私が一番好きなエピソードである。

キートンが考古学の研究を続けたい、と思う大きな理由の1つに、大学時代に人生を変えた師、ユーリー・スコット教授の存在があった。

第二次世界大戦中の1941年、ロンドンはドイツ軍の空襲にあい、壊滅的な被害を受ける。大学もまた、瓦礫と化してしまう。

大学の瓦礫を片づける1人の男性、その男性のもとに、自分の家の瓦礫の撤去に一区切りをつけた住人たちが集まってきた。

その男性こそが、若き日のユーリー・スコット先生である。

瓦礫の上に立つ先生は集まってきた人たちに言った。「さあそれでは諸君、授業をはじめよう。あと15分ある」

こんな時に授業を?と、いぶかしむ人々。

「敵のねらいは、われわれ英国民の向上心をくじくことだ。そこで私たちが学ぶことを放棄したら、それこそヒットラーの思うつぼだ。今こそ学び、この戦争のような、殺し合い憎しみ合う人間の愚かな性(さが)を乗越え、新たな文明を築くべきです」

先生の言葉は、瓦礫に覆われたロンドンの町にこだました。

ユーリー・スコット先生は、あるとき、当時学生だったキートンに言う。

「人はその意志さえあれば、いつでも学ぶことができる」と。

キートンは、ふと、この師の言葉を思い出し、落ち込んだ自分を奮い立たせるのである。

最近、なぜかこのエピソードが思い起こされてならない。

…なんてなことを、今日の「2年生歓迎会」のご挨拶でお話ししましたとさ。

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オンチ君とギョウテン君

大型連休中に、録画していた映画「沈まぬ太陽」を見た。

山崎豊子原作の長編小説を映画化したものである。

妻は、小説も読破しており、映画も連休前にすでに見ていた。

「え?まだ小説読んでないの?日本国民なら全員読んでるはずですよ」と、いつものようにイヤミな言い方。ま、たしかに山崎豊子が国民的作家であることに異論はないが。

小説を読んでから映画を観た方がいいのかな、とも思ったが、あの長編小説をはたして読破できるかどうか自信がなかったので、まずは映画を見ることにした。

「沈まぬ太陽」は、架空の航空会社「国民航空」という大企業で、労組の委員長として会社と対立し、左遷の憂き目にあいながらも会社と戦い続ける人物・恩地元(おんちはじめ)を軸に、「親方日の丸」企業の体質と腐敗の構造を描いた長編小説である。架空の物語、といいながら、例によって山崎豊子の周到な取材にもとづいており、「事実にもどづく」と、冒頭ではっきりとうたわれている。恩地元のモデルとなった人物も存在する。

小説の中核の一つは、1985年に起きた御巣鷹山のジャンボ機墜落事故である。映画も、そのエピソードを軸に話が展開していく。520名の命を奪った未曾有の大事故の際に、企業がとった行動はどのようなものだったのか?遺族たちに対してとった、企業のトップたちの行動は、いままさに進行中の、大企業が起こした大事故に対して、トップたちがみせる姿勢を彷彿とさせる。震災後だったら、あまりに生々しくて、放映されなかったかも知れない。

そして思う。山崎豊子だったら、いま進行中の大事故と、その大事故をもたらした企業や政府、そしてマスコミの腐敗の構造を、どう描いてくれるのだろうか、と。

小説では、ふたりの登場人物が、とりわけ対照的に描かれている。

ひとりは、主人公の恩地元(おんちはじめ)である。労組の委員長として活躍するが、やがて会社に疎んじられ、アフリカに10年間左遷される。山崎豊子はこれを「現代の流刑者」と表現する。日本に戻った恩地は、御巣鷹山の事故の遺族担当係を命ぜられ、事故の被害者の遺族たちと向き合うことになる。映画では、渡辺謙が演じた。

もうひとりは、行天四郎(ぎょうてんしろう)である。最初は恩地とともに労組で活動をするが、やがて執行部にとりいり、あらゆるものを踏み台にして出世していこうとする。常に権力のニオイをかぎつける男である。どんな狭い世界にも、どんな小さな組織にも、こういった手合いはいるものだ。私自身も、そんな腐りきった人物をこれまで幾度となく間近に見てきた。映画では、三浦友和が演じた。

映画を観たが、「渡辺謙がかっこいい」に尽きる。で、小説を読んでみたが、もう恩地の役は渡辺謙以外には考えられない。完全に私の頭の中では、恩地元=渡辺謙である。というか、あの映画のキャスティングは、行天四郎=三浦友和、国見会長=石坂浩二などを含め、かなり小説のイメージに近い、と思う。

というわけで、映画を観てから小説を読むのも一興である。

さて小説には、4時間弱の映画ではとても語り尽くせないようなエピソードが山のようにあり、しかもどれもが生々しい。たしかに妻がいうように、「国民なら全員読むべき」本だ。ま、それは大げさだとしても、組織の中で仕事をしている人間であれば、必ず読むべきバイブルである!

で、思ったのは、「俺はオンチ君になりたい!間違っても、ギョウテン君みたいにはなりたくない!」ということだ。

「オンチ君のように、スジを通す人間でありたい!」ということだ。

誇り高く生きよう!オンチ君のように。

…ん?だが、一歩引いて考えてみれば、これって、任侠映画を観たあとに「俺は高倉健になりたい!」というのと同じ心理ではないか?

なんのことはない、私はたんに「渡辺謙になりたい!」だけなのかも知れない。

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おしゃべりたちの、ものいわぬ競演

たいした仕事をしているわけではないのだが、平日の仕事が思いのほか(私にとっては)忙しいうえに、咳風邪が長びき、週末はグッタリである。

それに、そう毎日毎日、面白い出来事があるわけではない。むしろ、その反対のことならば書くことは結構あるのだが、それを書くわけにもいかない。

ということで、話は先週の水曜日(5月11日)にさかのぼる。

午後、4年生のTさんが、研究室にやってきた。

「あのう…、この大学に、蓄音機ってありますか?」

「蓄音機?」

来るたびにTさんは、意外な質問をあびせて私を驚かせる。さすが、お笑いサークルの元会長である。

「どうしてまた蓄音機なんか…。わかった!コントの小道具で使うんでしょう」と私。

「いいえ」Tさんは、持っていた袋から1枚のレコードをとりだして見せた。「このレコードを聴きたい、と思って」

「なんじゃ?これは」私は一瞬おどろき、そして笑った。

Photo_3 「ザッツ!!トーク&TALK in花王名人劇場」というタイトルの、LPレコードである。

「これを聴きたいから、蓄音機を?」

「はい」

「あのねえ。これはLPレコードっていって、蓄音機ではなくて、レコードプレーヤーで聴くものなの。蓄音機は、戦前のSPレコードを聴くためのもので、全然違うものなの」

いちおう説明はしてみるものの、Tさんはいまひとつ要領を得ないようである。Tさんにとってみたら、レコードプレーヤーも蓄音機も同じ時代のものだと思っているらしい。

だがそれは、例えていえば、私とエノケン(榎本健一)が同時代の人、と思っているようなものではないか!

そう思うと、私は少し落ち込んでしまった。

「じゃあ、これは聴けないということですね」とTさん。「これ、市内の古本屋で100円で買ったものなので、先生にさし上げます」

「いや、…こんなのもらっても…」と私。

「でも、聴けないんじゃ仕方ありませんから…。どうぞ」

そういって、受け取る羽目になってしまった。

あらためてレコードジャケットを見ると、それはそれで面白い。

「花王名人劇場」は、日曜日の9時からフジテレビでやっていた演芸番組である。子どものころ、よく見ていたなあ。ジャケットの裏には、「昭和56年11月24日・国立劇場演芸場ライブ」とあるので、私が中1の時か。ということは、たぶん、リアルタイムで見ていたはずだ。

帯には、「おなじみトークマンせいぞろい!!」とあり、トーク(つまりは漫談)のタイトルと、演者が記されている。

「小朝のちょっといい話 パートⅡ 春風亭小朝」

「哀しみのイマージュ 明石家さんま」

「オバンの生態 すどうかづみ」

「評論家を斬る! 桂米助」

「イモの話 ビートたけし」

「モナコナルド 柳家小ゑん」

「わが青春グラフィティ 桂文珍」

そして、ジャケットの表紙には、若かりし頃の演者たちの写真がのっている。

Photo_2 漫談のタイトルを見ながら、(「小朝のちょっといい話」って、そういえば聞いたことがあるなあ)とか、(このころ、さんま師匠は二枚目のモテキャラで売ってたんだよなあ)とか、(米助師匠は、ボヤキ漫談をしてたなあ)とか、(すどうかづみのラジオは、むかしよく聞いたなあ)とか、(文珍師匠の「わが青春グラフィティ」は、いかにも文珍師匠らしいタイトルだなあ)とか、(ビートたけし氏の「イモの話」と小ゑん師匠の「モナコナルド」は、タイトルの意味がよくわからないなあ)とか、いろいろなことが思い起こされてきた。

たぶん、今これらの漫談を聞いたら、面白さはかなりビミョーな気がするのだが…。

そういえば、ビデオデッキが普及していなかった時代は、音楽だけではなく、番組の音声がLPレコードに収録されることが、結構あったな。

「宇宙戦艦ヤマト」なんかは、劇場で映画を1度観て、そのあと映画の音声を収録したLPレコードをくり返し聞いて、セリフを暗記していたっけ。

NHK特集の「シルクロード」も、石坂浩二のナレーションを収録しているLPレコードを買ったことがある。砂漠の砂嵐の音をバックに語る石坂浩二のナレーションを聞きながら、シルクロードの映像を想像したりしていた。

…と、そんな思い出にひたりながら、LPレコードを見つめていると、

「喜んでもらえてよかったです。じゃあ」

といって、Tさんは帰っていった。

なんとかこのLPレコードを聴く方法はないものか。

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何運が悪いのか

5月11日(水)

たとえば、職場やデパートなどの公共のトイレに入って、用を足したあと、トイレットペーパーを使おうとしたら、途中でなくなってしまい、トイレットペーパーを交換する羽目になる。

自分がトイレに入るたびに、いつもトイレットペーパーを交換する役回りになる。

こういうのを、「トイレットペーパー運が悪い」って言いますよね。

では、こういうのは何運が悪いって言うんでしょうか。

コンビニやスーパーで買い物をして、レジで「390円です」と言われる。

で、財布の小銭入れを一生懸命になって探すと、ギリギリ、389円しかない。

レジのところで長時間、小銭入れの中の小銭を数えて、結局1円足りなくて、1万円札を出しておつりをもらう。

私はこんなことが、2日に1度くらいある。こういうとき、必ず、1円か2円足りないのである。

これは「小銭運」が悪い、というのだろうか。

こういう些細な運の悪さにかけては、たぶん私の右に出る者はいない。

今日は、こんなことがあった。

退勤時間を過ぎた夕方、明日と明後日の3コマ分の授業のプリントを印刷しようと、大量の原稿を持って、2階の印刷室の印刷機を使い始めた。コピー機ではなく印刷機を使うのは、印刷部数が多く、コスト面を考えてのことである。

印刷機で印刷をはじめると、ほどなくして「インクを交換してください」という表示が出て、機械が止まった。

自分が使うときにかぎってインクがなくなることは、よくあることである。「トイレットペーパー運」ならぬ、「インク運」がないのである。

またかよ、と思い、さてインクを交換するか、と、新品のインクを探してみるが、いくら探しても、全然見あたらない。

事務室に、残業している職員さんがいたので、

「印刷機のインクが見あたらないんですけれど…」

と言うと、

「すいません。在庫がなくなっちゃったんです」

という。

「えっ?在庫がないっていうことは、全くないってことですか」

「そうです」

「じゃあ、印刷機は使えないってことですね」

「ええ。インクは明日発注するので、早くて明日の午後か、明後日以降か…」

ええぇぇぇぇ!こっちは、けっこう急を要するんだが…。授業のプリントが印刷できないとなると、死活問題である。

10年この仕事をしていて、職場にインクの在庫(買い置き)がまったくなくなったというのは、はじめてである。

震災の影響でインクが不足しているんだろうか?という想像が頭をよぎった。だが、私にとっては、ガソリン不足よりもインク不足のほうが深刻である。なにしろ授業の生命線なのだから。

「すいませんが、4階にも印刷機がありますので、それを使ってください」

「はあ」

4階の印刷機は、私もしばしば使っている。だが、ここ1年くらい、すこぶる調子が悪いのだ。

両面印刷をしようとすると、すぐにオムズカリである。私との相性も悪い。

印刷機は、左側にセットした白紙の紙をローラーを使って1枚ずつ「飲み込み」、中でインクをのせ、右側から1枚ずつ「吐きだす」、という仕組みである。

ところが、私が両面印刷をすべく紙をセットすると、最初の片面は機嫌よく印刷してくれるのだが、ひっくりかえして裏面を印刷すべくセットすると、「めんどっくせえな!」ってな感じで、1度に数枚まとめて飲み込み、数枚まとめて吐きだすのである。

それで結局、印刷されないまま吐きだされる紙が何枚も出てくるはめになる。

…どうもわかりにくい説明だな。

ともかくそんな調子で、4階の印刷機を使うと、必ずトラブルを起こすのである。印刷機の機嫌をとりながら、だましだまし印刷機を使ったとしても、たとえば6枚(両面3枚)の原稿を50部ずつ印刷するのに、1時間近く手間がかかることもある。

だからできることなら、4階の印刷機は使いたくないのだ。

だが背に腹は代えられない。何しろ授業3コマ分のプリントをまとめて印刷しなければならない。

しぶしぶ4階の印刷機を使うことにした。

(頼む。今日は機嫌よく印刷してくれ…)私は印刷機の前で手を合わせた。

だがやはり、印刷機はオムズカリである。「めんどっくせえな!」ってな感じで、一度に数枚の紙を飲み込み、吐きだしている。

「またかよ!いい加減にしろ!」さすがの私もキレた。

「うっせえよ!めんどっくせえもんはめんどっくせえんだよ!」

誰もいない印刷室で、しばし印刷機と口論。

こうなるともう、この印刷機は使う気にならない。もはや打つ手なしである。心がボッキリと折れてしまった。

こういうのを何運が悪いっていうんですか?印刷機運?

さらにどうでもいいことだが、実は私のその日の気分は、天気ではなく、印刷の出来にかなり左右される。

授業のプリントの印刷の仕上がりがよければ、1日機嫌がよいが、逆に上手くいかないと、すこぶる機嫌が悪くなるのだ。

だから、私を殺すには刃物はいらない。ままならない印刷機のひとつもあればいい。

はたして明日は、機嫌がよくなるか?印刷機も、私も。

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自意識過剰のなせる災い

5月10日(火)

いまさら書くまでもないことだが、この日記はもっぱら、私がいかにダメな人間であるかを記すことに主眼をおいている。

夕方、学生たち数人と、市内某所に、ある仕事のお手伝いに行く。

「服が汚れるので、白衣かエプロンを持ってきてください。ゴム手袋とマスクも持参してください」

いったいどんな作業が待ち受けているのかはわからないが、服がそうとう汚れることは確実のようだ。だがあいにく、白衣もエプロンも持っていない。

いっそのこと、作業服を買おう。作業服なら汚れてもかまわないし、これから着る機会も増えるだろう。そこで近くのホームセンターで、安い作業服を買うことにした。

で、夕方、いったん職場から家に戻り、背広を脱いで作業服に着替えて、再び家を出ることにする。

家を出る前に、鏡の前に立って、考え込んでしまった。

似合わないというか、似合うというか…。

これまで、作業服など着たことのない私が作業服をいざ着てみると、なんかヘンな感じである。たとえて言うならば、ふだん背広を着ている大臣が、非常事態が起こったからといって、急に新調した作業服を着たようなものだ、といえばよいか。とにかく、鏡に映る自分の姿がじつに「わざとらしい」のである。

ただ、私の体型は、明らかに「現場監督」体型である。「どちらの現場監督さんですか?」と聞かれかねないくらい、作業着がフィットしていることもまた、事実である。

そもそも、勇んで作業服を着ていって、行ってみたら全然たいした仕事を任されなくって、「あいつ、なにふだん着たこともない作業服なんか着ているんだよ!バッカじゃねえの」などと思われたらどうしよう。

とか、

「作業服が似合いすぎるわりには、全然仕事ができないやつだな!」と、きっとみんなが思うにちがいない。

とか、そんな妄想が頭の中に広がり、作業服を着るのが急に恐くなってしまった。

(やっぱりやめよう)

いったん着た作業服を脱いで、汚れてもいいような私服に着替えた。

おかげで、学生との待ち合わせに5分遅れる始末。

そんな、私の心の葛藤など露も知らない学生たちが、私の車に乗り込み、市内某所の作業場へと向かう。

実際、作業をしてみると、たしかに服が汚れるのを覚悟しなければならない作業だった。

(こんなことなら、やっぱり作業服を着てくればよかった…)

と、いたく後悔した。

日々、こんな「些細な心の葛藤」のくり返しである。

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ライスペーパーの惨劇

5月9日(月)

風邪が全然治らない。市販の薬を飲んでも全然効かない。

ということで、午前中、病院に行くことにした。

ふだん、風邪くらいでは病院に行かないのだが、この時期に風邪を引いてしまうと、のちのちの仕事に差し支える。

病院で薬をもらい、午後の授業をこなし、夕方、ある仕事で片道50キロのところまで車を走らせる。

で、家に戻ったのが9時過ぎ。風邪は治るどころか、ちょっと悪寒がする。

(いまから夕食を作るの、面倒くさいなあ…)と思いつつも、(風邪が治らないのは、野菜が足りないからだ)と思い直し、野菜が多くとれる食事を作ることにした。

そうだ!生春巻きだ。

生春巻きは、サニーレタスだとか、ニラだとか、キュウリだとか、意外に野菜を多く摂取できる。それになにより美味しい。

大型連休中、妻が何度か家で作っていた。私も「エビを煮る」「野菜を切る」くらいは手伝った。

だが、肝心の「ライスペーパーで具を巻く」という作業だけはやらせてもらえなかった。ま、見よう見まねでやればなんとかなるだろう。

ということで、スーパーで食材をそろえることにした。もちろん、生春巻き用のスイートチリソースも買う。

エビを煮るのは面倒だから、代わりに焼き豚を使うことにする。ビーフンはスーパーになく、以前、ひとり鍋をやるときに使ったマロニーが家に残っていたのでそれで代用することにした。

家に帰って、さっそく生春巻き作りのスタートである。

「ライスペーパーは、長時間水につけておくとエライことになるから、具を巻く直前に1枚ずつ水につけた方がいい」という妻の言葉を思い出し、袋から1枚ずつ取り出し、水につけることにした。

ライスペーパーって、最初はプラスチックみたいに堅いのね。少し水につけたくらいでは柔らかくならないなあ、と思ってしばらく待っていると…、

急激に柔らかくなり出した!で、そのあとは皮どうしがひっついてしまって、取り返しがつかない感じになってしまった。

(これか…、妻が言っていたことは)

2枚目からは、サッと水につけ、まだ堅いうちに具をのせていった。具をのせていくうちに、いい感じでライスペーパーが柔らかくなっていく。

だが、なかなかきれいに巻くことはできない。具が多すぎるせいかも知れない。とりあえず、筒状に巻いて、できあがったものから皿にのせていく。

焼き豚も野菜も、ちょっとずつしか使っていないはずなのに、ライスペーパーの使用枚数がどんどん増えてゆく。そしてできあがった生春巻きを、皿にどんどん積んでゆく。

すると、みるみるうちに、ビックリするくらいの量の生春巻きができあがってしまった。数にして、10個くらいはあっただろうか。

皿には、こんもりと生春巻きの山である。

ふだんお店で食べるときだって、多くて2個が関の山である。それを10個って…。

でもまあいいか。食材の量としてはそんなに多くはないはずだから、野菜を多くとるつもりで、すべて食べてしまおう。

さあそれじゃあ食べるとするか、と、皿から生春巻きを1個とろうとして驚いた。

(と、とれない…)

できあがった生春巻きを小さい皿に重ねて積み上げていった結果、いつの間にかライスペーパーの皮どうしがひっついてしまい、生春巻きがとれなくなってしまったのである。10個の生春巻きは、完全に一体化してしまったのだ!

これではまるで、10個の生春巻きではなく、1個の巨大な生春巻きである。

(どうしよう…)

仕方がないので、皿にこんもりと山のようになった巨大生春巻きを、少しずつ突き崩しながら、食べていくことにした。

巨大生春巻きは、見るも無惨な姿で突き崩されていく。

(ひとりでよかった…こんな姿、とても他人には見せられない)

食べるそばからボロボロと崩れてゆく無惨な姿は、もはや生春巻きではなかった。単に生野菜を、スイートチリソースにつけて食べているのと一緒だ。

…風邪がますます悪化した気がする。

今日の教訓はふたつ。生春巻きを作るには、生春巻きどうしがくっつかないくらいの広い皿が必要である。

そしてもうひとつは、マロニーは生春巻きには全然合わない!やはりビーフンでないと。

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復讐にはワルツが似合う

5月8日(日)

一昨日よりめずらしく風邪をひいてしまい、体調がすこぶる悪い。そこで、まったくわからない話を書く。

Photo この大型連休中に、韓流ドラマ「魔王」全20話(オム・テウン、チェ・ジフンが出演、韓国で2007年に放映)を見終わった。

このドラマは、かなり完成度が高い。私がいままで見た韓流ドラマの中でも、屈指の名作である。

日本で、このドラマをリメイクしたくなる気持ちは、よくわかる。いままで、韓国のドラマを日本がリメイクしたものとしては、私の知るかぎり、「ホテリアー」(ペ・ヨンジュン、キム・スンウ、ソン・ユナが出演、韓国で2001年に放映)と「魔王」があるが、いずれも、韓国のドラマとしては、相当完成度の高いものである。リメイク版が成功したのかどうかは、リメイク版を見ていないのでわからない。

ただ「魔王」に関していえば、本家の韓国版を超えるようなものを作るのは、難しいのではなかろうか。

というのも、「魔王」は言ってみれば「復讐劇」であり、この「復讐劇」こそが、韓流映画や韓流ドラマにおける「お家芸」になっているからである。

20090702211_202_0_614a4bffc6e88e26_ たとえば韓国では、日本と同じように朝の連続ドラマが毎日放送されている。だがその内容は、日本とはまるで違う。多くはドロドロとした復讐劇である。しかも、1回の放送が15分などという短い時間ではなく、45分くらいの放送時間がある。つまり朝っぱらから、毎日、ドロドロとした復讐劇を見せつけられるのである。

もともと韓国では、「復讐劇」の裾野が広い、というか、層が厚いといえる。つまり、復讐劇はお手の物なのである。

復讐劇の特徴としては、「過去の秘密を明かさないまま周到で執拗な復讐がくり広げられ、ストーリーが展開していくにしたがい、次第に過去の秘密が明らかにされていく」というパターンが多い。

Old_boy 韓国映画界の巨匠・パク・チャヌク監督に、「復讐三部作」と呼ばれる作品がある。三部作の中でも日本の漫画が原作の「オールド・ボーイ」(韓国で2003年に公開、第57回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞)は、心臓をわしづかみにされるような、衝撃の傑作である。

韓国で東野圭吾原作の「白夜行」が映画化され(2009年公開)、あの長編小説を無理やり2時間におさめたとはいえ、それなりの完成度のものになったことは、復讐劇をお家芸とする韓国映画界だったからこそ、ではあるまいか。

「復讐」を主題にした日本の漫画や小説が映像化される際に、日本よりもむしろ韓国の方が完成度が高いものになることは、日韓の映像文化の違いを考えるうえで、興味深い問題である。

さて、これら良質な復讐劇に共通する、もうひとつの特徴がある。

それは、劇中に「ワルツ」が流れることである。

韓国映画「オールド・ボーイ」の劇中に流れる「Cries of Whispers」(イ・ジス作曲)、ラストに流れる「The Last Waltz」(シム・ヒョンジュン作曲)は、復讐する側とされる側のもつ「やるせなさ」を十二分に表現している名曲である。

Photo_2韓国映画「白夜行」の劇中でも、「햇빛 속으로(日光の中へ) 」というワルツが、やるせない復讐劇を効果的に演出する。

ちなみに「オールド・ボーイ」と「白夜行」は、音楽監督が同じチョ・ヨンウクであり、劇中の音楽的世界観は驚くほど共通している。

韓国ドラマ「魔王」の劇中でも、もの悲しいワルツである「거짓된 사람들(偽りの人びと)」(イ・イム作曲)や、「빗의 수호자(光の守護者)」(ソ・ウンソク作曲)が、復讐者の悲しみを演出する。

「復讐劇」にワルツを効果的に用いる方法は、韓国の映画やドラマではいわばセオリーであるといってよい。復讐者のもっている「やるせなさ」や「むなしさ」を、効果的に表現する役割を果たしているのである。

やるせない復讐劇には、ワルツがよく似合う。

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ああ!かりんとう饅頭

5月5日(木)

あれは今年の卒論提出日直前のことだったから、昨年の年末か、年明け頃のことである。

4年生のSさん(画伯、今年3月に卒業)が、卒論の下書きを持ってきた。添削のためである。

「先生、これどうぞ」

Sさんが卒論の下書きと一緒に差し出したのは、1個の饅頭だった。

「かりんとう饅頭です」

かりんとう饅頭?はじめて聞く饅頭である。たしかに表面は、かりんとうの色をしている。

添削が終わってSさんが帰ったあと、かりんとう饅頭を食べてみる。

これが、とても美味しい!表面の皮はかりんとうの食感と味、そして中は甘さを控えたこしあんである。

私は本来、かりんとうも饅頭も、自分から進んで食べる方ではないのだが、すっかりかりんとう饅頭の虜になってしまった。

だが、どこで売っているのかわからない。Sさんにも聞けずじまいだった。Sさんは福島県出身だったから、たぶん福島の銘菓なんだろう、という推測にとどまった。

さて、この5月の大型連休。車で東京まで帰省したときに、途中、栃木県のサービスエリアに立ち寄った。といっても、ほとんど福島県に近いサービスエリアである。

すると、屋台で「かりんとう饅頭」が売っているではないか!

さっそく1個を購入。保温をしていたので、温かくて美味しい。温めても美味しいことがわかった。

やはりかりんとう饅頭は、福島県の銘菓なのか。

さて、大型連休中、妻と車で長野県に行った。途中のサービスエリアで休憩すると、やはりそこにかりんとう饅頭が売られていた。

私はそこで2個買い、1個を妻にすすめた。

「かりんとう饅頭?何でわざわざかりんとうと饅頭を一緒にする必要があるの?かりんとうと饅頭を別々に食べた方がいいんじゃないの?」と、いつもながら妻が正論を吐く。

だが、味にうるさい妻にも、かりんとう饅頭は好評だった。

しかし、「かりんとう饅頭=福島県銘菓」説は、ここへきて揺らぎはじめた。長野県のサービスエリアでも売っているということは、全国の高速道路のサービスエリアで売っている、ということなのか?

もうひとつの特徴は、たとえば10個入りとか20個入りといった箱に入ったかりんとう饅頭はみあたらず、肉まんのように、保温箱に入って、ばら売りされているものしか見あたらないことである。たぶん、日持ちがしないからであろう。

そして今日。東京から車で戻る途中の、福島県内のサービスエリアで、かりんとう饅頭を発見。4個入りの箱に入っていた。

念のため表示を見ると、製造元は福島県である。やはり福島県の銘菓なのか?

家に戻り、インターネットで調べてみると、「主に福島県で販売されている饅頭菓子」とあった。福島県から火がつき、各地でも作られるようになったらしい。やはり、「かりんとう饅頭=福島県銘菓」説は、正しかったのだ。

というわけで、「かりんとう饅頭」ブームが到来した。もちろん、私に。

というか、世間的にはすでにブームが到来しているのだろうか?流行にうとい私には、よくわからない。

いずれにしても、福島県のかりんとう饅頭は、もっともっと知られてよい銘菓である。

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ふたたびの蝶ネクタイ 自画自賛編

5月3日(火)

もう少し、演奏会のことについて書く。

後半のポップスステージは、前半のカタい感じの演奏とは違うので、少し自由にやってもよい、と言われていた。

そもそも私に司会をやれ、ということは、「型どおりの司会はするな」ということを意味しているんだろうな、と解釈し、ひとつ、企画を考えることにした。

それは、第3部の中間あたりに、「舞台の上にいる団員にインタビューする」という企画である。演奏会も20回という節目を迎えるので、団員の心境を聞く、ということも、悪くはないだろう、と思ったのである。

おそるおそる提案すると、「やってもいいですよ」ということになった。

2曲目の「美女と野獣」が終わったあと、舞台上の団員2人に前に出てきてもらい、私がいくつかの質問をする、という流れである。

リハーサルの段階で、インタビューする2人のうちひとりを、今年高校を卒業したばかりのクラリネットのヤマダさん、もうひとりを、楽団最年長の団員(つまり私と同期)の、フルートのフクザワにお願いした。

つまり、最年少と最年長の2人にインタビューしながら、楽団の特徴である、世代の幅広さを知ってもらいたい、というねらいである。

(これ、ウケるかなあ…)内心、すごく心配だった。私がもっとも懸念していたのは、演奏の流れをいったん中断してこんな企画をすることにより、演奏会の雰囲気をぶち壊しにするのではないか、ということであった。せっかく練習を積み上げてきた音楽を、ド素人の司会者が分不相応の司会をして、演奏会をぶち壊しにしたら、それこそ練習してきた団員たちに申し訳ない。

頼みの綱は、フクザワであった。私はフクザワに全幅の信頼を置いているので、フクザワであれば、機転を利かせた受け答えをしてくれるだろう、と思ったのである。なにより私が昔からやりたかったのは、フクザワとの「掛け合い」で、人を笑わせることであった。それをこの機会に、実現したい、と思ったのである。

本番当日の午前中のリハーサルでやってみると、ヤマダさんもフクザワも、即興の質問にもかかわらず受け答えが素晴らしく、まずまずの手応えである。

さて、本番。3部の2曲目が終わり、ヤマダさんとフクザワが舞台の前に立つ。そして私のインタビューがはじまった。

ここで私は、リハーサルの時とはわざと違う質問をした。

「高校の時に好きだったアイドルは誰ですか?」

「アイドル、というわけではありませんが、宇多田ヒカルとかポルノグラフィティなんかをよく聞いていました」とヤマダさん。

「じゃあ、フクザワさんは?」

「…キャンディーズとピンクレディーです」

期待通りの、世代差がわかりやすい答えをしてくれ、会場もウケていたようだった。

「じゃあ最後に聞きます。将来の夢は何ですか?ヤマダさん」

ヤマダさんは、「将来は研究職について、新薬の開発をしたい」と答えた。

まったく偶然のことに、フクザワは、大学院を出たあと、新薬の開発をする会社につとめていた。

「フクザワさん、そういえば、製薬会社につとめてらっしゃいますよね」と私。

「ええ。私に人事権はありませんが、今日は会場に同僚も聞きに来ておりますので、その節はヤマダさんをどうぞよろしくお願いします」とフクザワ。

これにも会場はウケていた。

「じゃあフクザワさん、あなたの老後の夢は?」「将来の夢」と言わず、「老後の夢」と言うことで笑いをとろうとしたが、会場のウケはいまひとつだった。

「老後ですか…。老後、というわけではありませんが、将来は、この楽団の演奏を客として聴いてみたいですね。でも、演奏も続けたいし…、叶わぬ夢かも知れません」フクザワは答えた。

「舞台にも上がることができて、演奏も聴くことができる方法が、ひとつだけあるんですが、何だかわかりますか?」私は即興の質問をした。

「さて、何でしょう…」私の顔を見たあと、フクザワが言った。「まさか、司会者、ですか?」

ここで会場がまたウケた。

「その通り!いずれ、司会をお願いしたいと思います。…どうもありがとうございました。お二人にもういちど大きな拍手をお願いします!」

会場から拍手をいただき、無事、インタビュー企画は終了した。

さて、演奏会が終わり、打ち上げの席で、何人かの団員が、気を遣ってくれたのか「インタビュー企画は面白かったです」と言ってくれた。

打ち上げが終わってから、居酒屋の外に出ると、打ち上げの時に話す機会がなかったクラリネットのヒグチ君が近づいてきた。

「お疲れさまでした」

「どうも、お疲れさま」

「あれ、よかったです。インタビュー」

「あ、そう。それはどうも」

「あれ、…打ち合わせとかしたんですか?」

「いや、まったくしなかったよ」

「ええ、そうだったんですか!すごいですねえ。フクザワさん」

「え?」

「即興であんな受け答えができるなんて、…フクザワさん、さすがです」

「そ、…そうだね」

なあんだ、オレのことじゃねえのか。フクザワをホメているのか。その受け答えを引き出したのはこのオレだったんだがな。

またちょっと落ち込んだ。

…と、ここまで書いて、前回の記事のコメント欄を見たら、演奏会を聞きに来てくれたゴンちゃんが、「フクザワさんが司会、というのもアリですね」と書いていた。やはり、フクザワの当意即妙の受け答えが、会場ではウケていたようだ。

あのインタビュー企画でカブが上がったのは、フクザワだったんだな。

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ふたたびの蝶ネクタイ

5月3日(火)

高校のOBでつくる吹奏楽団の定期演奏会で、司会をやることになった。昨年の秋に続き、2回目である。

4月30日(土)にリハーサルのときに、ふと、「本番では原稿を持たずに、丸暗記してしゃべったらかっこいいだろうなあ」と思い、

「本番は、原稿を持たずに司会をしようと思う」と、運営担当のチエちゃんに話すと、

「何でそんなに自分でハードルをあげようとするんですか。例年通り原稿を読む形で大丈夫ですよ」

と、たしなめられた。同じことを家に帰ってから妻に言うと、やはり

「バッカじゃないの?そんな苦労しないで、原稿を読めばいいじゃん」

と呆れられる。

しかし私は、どうしても「題名の音楽会」の黛敏郎みたいな司会を、一度してみたいと思ったのだ。

ところが実際に練習してみると、これがなかなか覚えられない。私にとってなじみのない固有名詞が多すぎるからである。それに、年齢のせいもある。

「フィリップ・スパーク作曲の『オリエント急行』」「ナイジェル・ヘス作曲の『イーストコーストの風景』」など、作曲者と曲のタイトルは、自分にとってなじみの薄いものだし、曲の解説にしても、

「ロンドンヴィクトリア駅の賑わいからはじまり、車掌のホイッスル、蒸気機関車の汽笛やスチームの音を表現しながら、列車がヨーロッパの広大な平野や急峻な山々を走る様子が…」

とか、

「ニューヨークシティから車で数時間の小さな島、シェルターアイランドの、厳しくも楽しい冬の週末を描き…」

とか、

「ニューヨーク州北東部に位置するキャッツキル山脈の…」

など、やはりなじみのない固有名詞や、むずかしい言い回しが多い。

仮に覚えたとしても、本番では緊張して、セリフがとんでしまう可能性が高い。

ということで、あっさりと断念することにした。

「なあんだ。やっぱり原稿を読むんですか」と運営担当のチエちゃん。ああ、大口を叩くんじゃなかった…。

演奏会は3部形式に分かれ、私はこのうち1部と3部の司会をした(2部は司会なし)。

第1部は、フィリップ・スパーク作曲「オリエント急行」、保科洋作曲「風紋」、ナイジェル・ヘス作曲「イーストコーストの風景」

第2部は、フィリップ・スパーク作曲「宇宙の音楽」

第3部は、「ディズニー・メドレー」、「美女と野獣」、「私のお気に入り」、「モーニン」、「A列車で行こう」

さて、本番の出来は…

うーむ。やっぱり私がやるべきではなかったな。そもそも、私にはまるで華やかさがないのだ。それに、例によって、滑舌も悪いし声のトーンも低いので、いくら蝶ネクタイをしてごまかしても、クラーい感じになってしまう。

第3部のポップスステージでは、演奏者全員が「楽団オリジナルTシャツ」というラフな格好をして演奏をしているというのに、司会だけ黒いスーツに蝶ネクタイ、というのは、どう考えても雰囲気にそぐわない。

実際、演奏終了後にお客さんに書いてもらったアンケートには、

「なぜ司会者はTシャツを着ないのか」とか、「第3部の雰囲気と司会者が合わない。司会者が演奏会の空気をぶち壊している」など、かなり手厳しいコメントが書かれていた。

「男性だと聞きとりにくいので、司会は女性の方がいいです」という60代男性の感想もあった。

お客さんは、おっさんよりも、見た目や声が美しい女性の方を期待しているのだ。

(もう司会を2度とやることはないだろうな…)と思いながら、「打ち上げ」の席ではほとんど誰ともしゃべらず、ひとり凹んでいたのであった。

…だが、落ち込んでばかりいたわけではない。演奏会には、高校の同期のSとWが来てくれた。Sとは、あの「ミヤモトさんサミット」の議長である。それに、1学年下のモリカワさん、そしてオオキ、フジイさん夫婦も聞きに来てくれた。

演奏会が終わってから、「打ち上げ」がはじまるまで1時間ほど時間があったので、演奏会に参加した同期のフクザワやカトウさんも交えて、ちょっとした同窓会がはじまった。

まあそこで、いろいろと昔話に花が咲くわけだが、その中でも、私が大好きなエピソードがある。フクザワがよくする話である。

うちの同期は、どちらかというと硬派が多く、同じ部活の女子とふつうに話をするというのが、苦手な連中ばかりだった。なかでも、いちばん硬派だったのが、Wであった。

一方で、同期の男子の中で当時、女子と気兼ねなくしゃべっていたのが、フクザワであった。

高校2年の合宿の時、まじめなWが、フクザワに相談したという。

「女子に、どのように話しかけていいかわからない。教えてくれ」と。

当時、女子とふつうにコミュニケーションがとれていたのがフクザワくらいしかいなかったから、思いつめたWは、フクザワから、女子とのコミュニケーションのとり方を伝授してもらおう、と思ったわけである。

フクザワは、この時のことを鮮明に覚えているのだが、相談した当のWは、まったく覚えていないという。

さらに面白いことに、女子とのコミュニケーションのとり方がわからないと悩んでいたWが、同期の中でいちばん早くに結婚したのに対し、フクザワは、いまだ独身だというのだから、人生とは、本当にわからない。

ほかに、オオキとフジイさんのなれそめの話とか、モリカワさんのあいかわらず頓珍漢な話など。

あっという間の1時間だった。

この1時間が、この日でいちばん楽しかったな。

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韓流合宿と巣箱作り

5月1日(日)~2日(月)

「韓流合宿」を敢行!

「韓流合宿」とは、韓流映画や韓流ドラマを集中的に見るという休日の過ごし方のことで、私と妻との間で勝手に名づけているものである。

Photo 今回の「韓流合宿」の目標は、韓国ドラマ「魔王」全20回を、最後まで見る、というものである。

オム・テウン主演の「魔王」は、日本でも数年前にリメイクされたが、オリジナルの韓国版が断然面白いと、妻に何度もすすめられてきた。だが、なかなか見ようというふんぎりがつかず、この大型連休を使って、一気に見てしまおうということになったのである。

「字幕なし」で見るので、セリフを注意深く聞きとらなければならない。節目節目で、「いまのセリフ、だいたいこんなことを言っていたのでしょう?」と、妻に確認しながら見ていく。おかげで、だいぶ聞きとれるようになってきた。

だが問題は、いろいろな俳優が出てくるたびに私が、(この役は日本の俳優が演じるとしたら誰がふさわしいだろう?)などと、ドラマの本筋とはまったく関係ないところで、考え込んでしまうことである。おかげで、重要なセリフを聞き逃してしまったりする。

だが、「魔王」のおもしろさに引きこまれ、どうやら連休中に最終回まで見ることができそうである。

さて、引きこもってドラマを見てばかりでは健康に悪いので、外に出ることにする。

1_2 すると、鳥の巣箱を無料で作らせてもらえるところを発見。さっそく、巣箱作りに挑戦することにした。

巣箱作り、といっても、あらかじめ巣箱を組みたてるための板は切ってあって、あとはそれを釘を打って組みたてるだけである。つまりやることは、板に釘を打ち付ける、という単純な作業だけなのである。

だが、私にとってはこれがなかなか難儀である。

2_2 というのも、私はビックリするくらい手先が不器用だからである。

中学の時に、「技術・家庭」という授業があり、男子は「技術」の授業を受けることになっていた。いってみれば、工作の授業である。

中1の時、私はこの「技術」の授業で、5段階評価の「1」という成績をもらった。つまり、最低の成績である。

3_2 クラスの友だちは、「どうやったら『1』なんて成績をとれるんだ?」と不思議がっていた。なぜなら、そのときの課題は、「板を組み合わせて『お盆』をつくる」という、実に簡単なものだったからだ。私はその簡単な課題すらも、満足に作ることができなかったのである。

さらに恥の上塗りをすると…、

私の祖父は、大工の棟梁であった。つまり大工の棟梁の孫でありながら、お盆一つまともに作れず、「1」という成績をもらってしまったのである。

だから、釘を打って巣箱を作るという簡単な作業ですら、難儀するのである。

5_2 だがどうにかこうにか、巣箱が完成!木にくくりつけて、あとは鳥が来てくれるのを待つばかりである。

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TBSラジオっ子の帰省

4月30日(土)

昔から私は、「TBSラジオっ子」だった。

「こんちワ近石真介(東食ミュージックプレゼントを含む)」にはじまり、「大沢悠里ののんびりワイド(ゆうゆうワイドではない)」、「若山弦蔵の東京ダイヤル954」「雄二・小朝の夜はともだち」「西田敏行のパックインミュージック」「久米宏の土曜ワイドラジオ東京」等々。あと、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」も。

だからいまでも東京に帰って車を運転すると、反射的にカーラジオの周波数を954に合わせる。

今日もお昼前、車に乗ってラジオの周波数を954にあわせたら、永六輔さんのワイド番組が流れていた。

永さんの声、復活したんだなー。一時期、心配したけれど。外山アナは、あいかわらず天然だ。

ちょうど、栃木県益子町からの中継が行われていた。

益子町といえば、益子焼である。毎年大型連休に、陶器市が開かれるというというので、ラジオで紹介されていたのである。

私は不勉強ではじめて知ったのだが、益子焼の歴史は案外新しく、笠間焼(茨城県笠間市)や相馬焼(福島県浪江町)の影響を受けて、いまから150年ほど前にはじまったものであるという。笠間焼や相馬焼とは、いわば兄弟関係にあたるのである。

今回の震災で笠間焼や相馬焼は大きな被害を受けたので、弟分である益子町は、窯の復興を積極的に支援していくのだという。なるほど、焼物を通じた支援のネットワークがあるのか。支援のかたちはさまざまだ。

益子町からの中継が終わり、つづいて、はぶ三太郎さんが「雁風呂」についての解説をしていた。「雁風呂」なんて、ずいぶんマニアックなものをとりあげるなあ。「雁風呂」とは、津軽地方に伝わる古い風習で、私がまだ物心ついていなかった頃に、ウィスキーのCMでとりあげられたことがある。

わずか30分ほどしか聞けなかったが、とりあげた話題がどれもマニアックで面白かった。

ラジオが面白いのは、聞きながら、自分の頭の中で、いろいろな知識の点と点が結びついて、つながっていくことである。そうやって子どもの頃から、ラジオを通じていろいろなことを学んでいたんだな。そのことをあらためて実感した。

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