« おしゃべりたちの、ものいわぬ競演 | トップページ | 屋根の下の巴里 »

オンチ君とギョウテン君

大型連休中に、録画していた映画「沈まぬ太陽」を見た。

山崎豊子原作の長編小説を映画化したものである。

妻は、小説も読破しており、映画も連休前にすでに見ていた。

「え?まだ小説読んでないの?日本国民なら全員読んでるはずですよ」と、いつものようにイヤミな言い方。ま、たしかに山崎豊子が国民的作家であることに異論はないが。

小説を読んでから映画を観た方がいいのかな、とも思ったが、あの長編小説をはたして読破できるかどうか自信がなかったので、まずは映画を見ることにした。

「沈まぬ太陽」は、架空の航空会社「国民航空」という大企業で、労組の委員長として会社と対立し、左遷の憂き目にあいながらも会社と戦い続ける人物・恩地元(おんちはじめ)を軸に、「親方日の丸」企業の体質と腐敗の構造を描いた長編小説である。架空の物語、といいながら、例によって山崎豊子の周到な取材にもとづいており、「事実にもどづく」と、冒頭ではっきりとうたわれている。恩地元のモデルとなった人物も存在する。

小説の中核の一つは、1985年に起きた御巣鷹山のジャンボ機墜落事故である。映画も、そのエピソードを軸に話が展開していく。520名の命を奪った未曾有の大事故の際に、企業がとった行動はどのようなものだったのか?遺族たちに対してとった、企業のトップたちの行動は、いままさに進行中の、大企業が起こした大事故に対して、トップたちがみせる姿勢を彷彿とさせる。震災後だったら、あまりに生々しくて、放映されなかったかも知れない。

そして思う。山崎豊子だったら、いま進行中の大事故と、その大事故をもたらした企業や政府、そしてマスコミの腐敗の構造を、どう描いてくれるのだろうか、と。

小説では、ふたりの登場人物が、とりわけ対照的に描かれている。

ひとりは、主人公の恩地元(おんちはじめ)である。労組の委員長として活躍するが、やがて会社に疎んじられ、アフリカに10年間左遷される。山崎豊子はこれを「現代の流刑者」と表現する。日本に戻った恩地は、御巣鷹山の事故の遺族担当係を命ぜられ、事故の被害者の遺族たちと向き合うことになる。映画では、渡辺謙が演じた。

もうひとりは、行天四郎(ぎょうてんしろう)である。最初は恩地とともに労組で活動をするが、やがて執行部にとりいり、あらゆるものを踏み台にして出世していこうとする。常に権力のニオイをかぎつける男である。どんな狭い世界にも、どんな小さな組織にも、こういった手合いはいるものだ。私自身も、そんな腐りきった人物をこれまで幾度となく間近に見てきた。映画では、三浦友和が演じた。

映画を観たが、「渡辺謙がかっこいい」に尽きる。で、小説を読んでみたが、もう恩地の役は渡辺謙以外には考えられない。完全に私の頭の中では、恩地元=渡辺謙である。というか、あの映画のキャスティングは、行天四郎=三浦友和、国見会長=石坂浩二などを含め、かなり小説のイメージに近い、と思う。

というわけで、映画を観てから小説を読むのも一興である。

さて小説には、4時間弱の映画ではとても語り尽くせないようなエピソードが山のようにあり、しかもどれもが生々しい。たしかに妻がいうように、「国民なら全員読むべき」本だ。ま、それは大げさだとしても、組織の中で仕事をしている人間であれば、必ず読むべきバイブルである!

で、思ったのは、「俺はオンチ君になりたい!間違っても、ギョウテン君みたいにはなりたくない!」ということだ。

「オンチ君のように、スジを通す人間でありたい!」ということだ。

誇り高く生きよう!オンチ君のように。

…ん?だが、一歩引いて考えてみれば、これって、任侠映画を観たあとに「俺は高倉健になりたい!」というのと同じ心理ではないか?

なんのことはない、私はたんに「渡辺謙になりたい!」だけなのかも知れない。

|

« おしゃべりたちの、ものいわぬ競演 | トップページ | 屋根の下の巴里 »

映画・テレビ」カテゴリの記事