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2つのガマ

6月23日(木)

ラジオのニュースを聞いて気がついた。今日は沖縄慰霊の日だ。1945年6月23日、沖縄における地上戦が終了したとされる日である。

先日、研究仲間のTさんと飲んだときに、Tさんから聞いた話を思い出した。

沖縄には、「ガマ」と呼ばれる洞窟が数多くある。戦争中、人びとは米兵から逃れるために、ガマに避難していた。

ある集落に、2つのガマがあり、その集落の人びとは、2つのガマに分かれて避難していた。そこに米兵がやってきて、その集落をたちまち包囲してしまう。人びとは身動きがとれなくなり、いよいよこれまで、と思われた。

一方のガマには、ハワイ移民帰りの2人の老人がいた。人びとからふだん「非国民」扱いされていた2人は、ハワイでの生活経験から、「米兵は、手向かわなければ殺さない」ことを知っていた。2人は、ガマの中で自決を決意している人たちを根気強く説得し、ガマを出て、米兵と英語で交渉する。「このガマには民間人しかいない」と。

2人の交渉は功を奏し、このガマに避難していた約1000人は、自決という道を選ぶことなく、全員助かったのである。

さて、もう一方のガマには、海外における日本軍の残虐行為を見てきた在郷軍人や従軍看護婦がいた。彼らは、もし我々が投降したら米兵も日本兵と同じことをするだろうと考えた。「投降して捕虜になったら、きっと辱めを受ける。それは生きていることよりもつらいことだ」と、暗いガマの中で、その言葉が響き渡る。人びとは、自決の道を選ぶことになる。

その方法は、それはそれは悲惨なものだった。手榴弾や銃でひと思いにと思っても、そんなものはない。ある者は、ガラスビンのかけらで動脈を切り、ある者は、縄で首を絞め、ある者は、化学繊維のふとんを焼いて、その煙を吸って、苦しみながら絶命した。

子どもの首を絞めて殺す親もいた。死んでゆく子どもの様子を見て、自分は死にきれないと思った者もいた。こうして、このガマでは約140人中、80人以上が死んだ。その6割以上が、18歳以下の子どもたちであったという。

1つの集落の、2つのガマが、生死を分けたのである。

私たちは、何を守るべきなのか。どう守るべきなのか。

時々、このことを思い出さなければならない、と思う。

久しぶりに、岡本喜八監督の映画「激動の昭和史 沖縄決戦」を見ることにしよう。

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