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妄想文壇

6月29日(水)

太宰治に関して、思い出したことを書く。

子どもの頃に読んだ本の中に、次のような話があった。

あるとき、菊池寛と太宰治がバーに飲みに行った。当時文壇で華々しい活躍をしていた菊池寛は、有名人であったためか、そういうお店に行くと女性によくモテた。当時まだ無名だった太宰はまったくモテない。そのことを苦々しく思っていた太宰は言った。

「菊池さん、別にあんたに魅力があるからモテてるわけじゃないぜ。『菊池寛』という名前があるからモテてるだけだぞ」

すると菊池寛は答えた。

「バカヤロウ。『菊池寛』という名前だってオレのもんだ」

細部は忘れてしまったか、たしかこんな話だったと思う。

これが本当にあった話なのかどうかよくわからないが、私はこのエピソードがなぜかとても好きだった。

それからしばらくして、菊池寛の「忠直卿行状記」という短編小説を読んだ。

剣術の上手な若い殿様、忠直卿。彼が家来たちと試合をして片っ端から打ち破った日の夜、得意満面に庭園を散歩していたら、庭の暗闇の奥から家来たちの会話が聞こえた。

「どうじゃ、殿のお腕前は? 真実のお力量は?」

「以前ほど、勝ちをお譲りいたすのに、骨が折れなくなったわ」

家来たちは苦笑した。

そのヒソヒソ話を聞いてからというもの、忠直卿の行状は一変した。自分の剣術の腕はたいしたことはないのか?という思いにとらわれた忠直卿は、家来たちに真剣勝負を挑んだ。だが家来たちは、やはり本気に戦ってくれない。狂った忠直卿は、家来たちを斬りまくり、次々と家来たちを死においやる。こうして忠直卿はおそるべき暴君となり、ついには家も断絶させられた。

…言わずと知れた、菊池寛の代表作である。

さてそれからまたしばらくして、今度は太宰治の短編小説「水仙」を読んだ。

そこで私は、衝撃を受ける。

その小説の冒頭で太宰は、菊池の「忠直卿行状記」を取りあげ、「はたして忠直卿の剣術の腕は、本当に凡庸なものだったのか?実は忠直卿の腕は天才的で、家来たちは負け惜しみから、忠直卿の剣術の腕を大したことはないと言っていたにすぎなかったのではないか」という疑念にとらわれるのである。

「とすると、慄然とするのだ。殿様は、真実を掴みながら、真実を追い求めて狂ったのだ。殿様は、事実、剣術の名人だったのだ。家来たちは、決してわざと負けていたのではなかった。事実、かなわなかったのだ」(「水仙」)。

この言葉に慄然としたのは、むしろ私である。私の中で、菊池寛の「忠直卿行状記」を通じて馴染んでいた忠直卿のイメージが、太宰の手によって、ガラリと変わってしまったからである。

このあとこの小説は、忠直卿とはまったく無関係の、ある女性の物語を叙述していくことになるのだが、私にとっては、小説の本編よりも、その物語の導入として書かれた忠直卿についての新たな解釈の方が衝撃的であった。

なぜ太宰はこの小説の冒頭で、わざわざ菊池寛の「忠直卿行状記」を引きあいに出したのか?

太宰治は、菊池寛に猛烈に嫉妬していたのではないだろうか。

完璧ともいえる短編小説を書き、文壇で華々しい活躍をしていた菊池寛に対して、太宰はコンプレックスを感じていたのではないだろうか。そのコンプレックスが、菊池寛とはあえて異なる解釈を試みさせ、さらにはこの小説「水仙」を書く原動力となったのではないか。

…「水仙」をはじめて読んだとき、そんな妄想が頭をよぎった。おそらく、子どもの頃に読んだバーでのエピソードが頭にあったからであろう。だがなにぶん、近代文学史にも文壇事情にもまったく疎い身で、しかも不確かなエピソードをたよりににしているので、いまとなっては確かめる術もない。

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コメント

はじめまして、初めてコメントを書かせていただきます。Fと申します。
ブログの内容に関して質問させていただきます。
ブログ冒頭の、バーにおける太宰治、菊池寛のエピソードについてお聞きします。
このエピソードの出典となった本を探しております。
もし本のタイトルなどご記憶でしたら、教えていただけますでしょうか。タイトルをご記憶でない場合でも、本を特定できるような情報(著作者、出版年、出版社、他に載っていたエピソード、太宰治について書かれた本だったのか、それとも菊池寛について書かれた本だったのか、等々、些細な事でも構いません)などがあれば教えてもらえないでしょうか。
勝手なお願いで申し訳ございませんが、もし教えていただけましたら、大変助かります。
よろしくお願いいたします。

投稿: F | 2017年6月16日 (金) 12時16分

コメントありがとうございます。

それが、思い出せないのです。ただ、記憶違いかも知れませんが、いまから35年くらい前の少年期に、私はNHKの鈴木健二というアナウンサーの書いたエッセイを猛烈に読んでいた時期があって(おもに大和出版、という出版社のエッセイですが)、ひょっとしたらそのエッセイのどこかに書いてあったんじゃないかなあ、と言う気がしています。

投稿: onigawaragonzou | 2017年6月18日 (日) 22時40分

ご返信が遅くなり申し訳ございません。
回答ありがとうございます。
鈴木健二をキーワードに探してみたいと思います。
もし今後、何か他に思い出しましたら、教えていただけると幸いです。

投稿: F | 2017年6月23日 (金) 14時44分

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