12年前の教え
いまから12年ほど前、まだこちらに来る前の話である。
週に1度、東京から特急で片道2時間ほどかかる大学に、非常勤講師として1年間通っていた。
駅をおりると、周囲には何もなく、ただ大学だけが、ポツンとあるような、寂しいところである。
授業のない時間には非常勤講師控室にいるのだが、そこには、やはり東京から2時間ほどかけて通ってきたTさんという非常勤講師の先生が1人いた。本職は企業コンサルタントだとか言っていた。そもそもその大学は、経営系の大学なので、実利的な科目がほとんどで、私のような非実用的な科目を教える人はいなかった。
T先生は、人のよさそうなおしゃべり好きのおっちゃん、という感じで、毎回、私にいろいろと話しかけてきた。私には全く畑違いの方のお話なので、新鮮な気持ちでT先生の話を聞いていた。ちょいちょい、自分の自慢話を差しはさんでくるのがやや鼻についたが、まあそれはご愛嬌である。
その中で、いまでも印象に残っている話が2つある。
一つは、「お礼状の書き方」である。
「何かのときに、お礼状を書く必要にせまられることがあるでしょう。でも、書くのが億劫になるときってありますよね」とT先生。
「ええ。私なんかいつもそうです」
「そういうとき、どうすればいいかわかりますか?」
「さあ」
「私はまず、封書でもハガキでも、お礼状の中身からではなく、まず宛名から書きはじめるんです」
「はあ」
「しかも、どっしりとした、大きな字で書くんです」
「ほう」
「そうすると、お礼状を書かなきゃ、という気になるんですよ」
「はあ、なるほど」
するとT先生は、カバンから封書を取り出した。
「ほら、こんなふうに」
なんと、T先生は、それを実践しているという証拠を、私に見せてくれたのである。
たしかに、堂々たる字で宛名が書かれている。
「すばらしい字ですね」と私が言うと、
「私、書道をやっていましたから」と答えた。
なあんだ、結局、字がうまいことを自慢したかったのか。
それはともかく、そのときは、なるほどなあと思って聞いていたのだが、その後、私がそれを実践することはなかった。
もう一つは、「会社での仕事の交渉術」についてである。
「最近、電子メール、なんてのが流行ってますでしょう」
「ええ」12年前、PCメールが普及しはじめた時期である。
「最近は会社でも、みんな電子メールですませようとする。あれはいけません」
「そうですか」
「あれは顔が見えませんからね。電子メールでやりとりをしていると、そのうちにおたがい顔が見えないもんだから、激昂したりなんかして、まとまる話もまとまらなくなる、なんてことがあるんですよ」
「へえ、そうですか」
「おたがい顔を合わせて話をすれば、何てことないことなんですけどね。電子メールだと、話がこじれるなんてことがよくあるんです」
「なるほど」
「ですから、面倒でも、直接出向いていって、顔を見て話をすれば、すんなりまとまることが多いんです」
「ほう」
そのときは、アナログ世代のやっかみからきているんじゃないか?とも思ったが、いまになってみると、思いあたることが多い。
私の知り合いが本を執筆していたとき、編集者からメールが来るたびに、その理不尽な要求に腹を立てていた。
「でも、実際に会って話をすると、憎めない人なんだよねえ」
とその知り合いは言っていた。
なるほど、編集者が著者と直接会って話をするというのは、実は大事なことなんだな、と、その話を聞いて実感した。
考えてみれば、いまの職場でもそうだ。つい、メールですませてしまいがちだが、何でもかんでも業務命令が一斉メールで送られてくると、だんだん腹が立ってくる。
できるだけ直接会って、顔を見ながら話をする、ということが、やはり大事らしい。
二つめの教えは、いまでも十分実践できそうだ。
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