« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月

締めはとんこつラーメン

8月30日(火)

8月29日(月)から、福岡入りしている。

20名以上の同業者たちと福岡県内の数カ所をまわり、共同調査である。

朝から夕方までじっくり調査するのは疲れるが、終わると地元のお店で打ち上げである。

私の場合、遠方での調査の楽しみは「食」にあるといってよい。

先日の韓国での調査では、やはり美味しいものを食べすぎた。その反省もあり、「福岡では絶食するぞ!」と妻に宣言して出発したのだが、なかなかそういうわけにもいかない。

30日(火)に入った店では、呼子のイカの活き造りが出た。私の大好物のイカである。

ゲソの部分はあとで天ぷらにしてくれるのだが、これもまた美味い。

私がひそかに尊敬している、研究仲間のTさんが言う。

「呼子のイカも美味いけどね、静岡に網代ってところがあるだろ。そこの、なんて言ったっけな…。店の名前が思い出せない…。そこで食べるイカの方がもっと美味いよ。東京からだったら、そこのイカを食べた方がいい」

Tさんもまた、「食」にこだわる人である。振り返ってみれば、私が信頼を寄せている人は、妻、師匠、先輩、友人、すべて、「食」にこだわっている人であることに気づいた。

しばらくあれこれ話していると、Tさんが突然声をあげた。

「思い出した!○○だよ!」

「何です?いきなり」

「網代で美味しいイカを食わせる店の名前だよ!」

まじめな議論をしている最中も、網代のイカ料理の店の名前を思い出そうとしていたらしい。

私は箸袋に、その店の名前をメモした。

美味しい魚料理とお酒を堪能し、夜10時頃解散する。

宿に戻った私は、昨日に続いてどうしても「とんこつラーメン」のことが気になり、フラフラとラーメン屋を探しに行った。だって福岡といえば、とんこつラーメンでしょう。

…あれ、おかしいな。数日前に「絶食宣言」したはずなんだが。

まあいい。調査は残すところあと1日。なんとか踏んばろう。

| | コメント (0)

女子マラソンに釘付け

8月27日(土)

朝起きたら、テレビで「世界陸上2011」の女子マラソンをやっていた。

見ていて、テレビに釘付けになった。

選手たちにではない。選手たちが走っているまわりの風景に、である。

私がかつて1年3カ月ほど住んでいた、韓国・大邱市の市街地がコースになっている。

ふだんスポーツ番組は、ワールドカップはおろか、オリンピックすらも見ない。その私が、今日ばかりは、2時間以上もマラソンを見つづけている。

ずっと風景を追いかけていると、見なれた景色が見えてきた。

私が休みの日のたびにブラブラ歩いていた、大邱の中心街、「中央路(チュンワンノ)」の町並みである。中央路は、女子マラソンのコースになっていたのだ。

選手たちの足並みにあわせて、沿道の風景がどんどん流れていく。

(あのスタバによく行ったっけな…。あ、隣のロッテリアにもよく行ったぞ。あのパン屋さんでパンを買ったなあ。あ、家に帰る時に使っていたバス停だ!)

流れていく沿道の風景は一瞬しか映らず、しかも町並みにさしたる特徴があるわけでもない。しかし、私にとっては、とても意味のある風景なのだ。

(それにしても町がずいぶん綺麗になったなあ)

そんなことを思いながら見ていくと、やがて見なれた大きな建物が一瞬見えた。

「アカデミー劇場」だ!大邱の中央路に昔からある映画館である。

私は映画を見るとき、中央路にあるこの「アカデミー劇場」で映画を見ることにしていた。時代はシネコン全盛で、すっかりシネコンに押されてしまっていたが、逆にお客さんが少ないので、落ちついて見ることができたのである。落ち込んだときに、この映画館で映画を見て、気持ちが救われたこともある

ところがその「アカデミー劇場」も、私が大邱を離れることには、客の入りが悪くて閉館になってしまったと聞いた。

だが建物はそのままだった。

そんな感慨にひたりながらの、2時間半。マラソンには、いろいろな楽しみ方があっていい。

| | コメント (0)

韓国を食べ歩く

今回の韓国の旅は、食事も充実したものとなった。

私はこれまで、韓国滞在中の食事の記録をほとんど残していないが、今回ばかりは残しておくことにしよう。

20110827180206_61870782

8月22日(月)夕食

(左上)テジョンのホテルの近くで食べたフグ料理。フグプルコギである。

(右上)同じく、チリタン(ふぐちり鍋)。このほかに、この店ではフグの天ぷら、フグの皮の和え物など、フグづくしのコース料理が出た。2人で38000ウォン。日本円にして、2人で3000円というところか。初日にして、すでにお腹はパンク状態である。

8月23日(火)昼食

(左下)プヨの食堂で、サムゲタンを食べた。1人10000ウォン。日本円にして、800円くらい。日本では考えられない値段である。

8月23日(火)夕食

(右下)テジョンのホテルの近く、前日のフグ料理屋の隣の店で、念願のサムギョプサルを食べた。サムギョプサルとは、豚の三枚肉の焼き肉である。韓国といえば牛肉の焼き肉を連想しがちだが、本当はこちらの方が安くて美味しい。もちろん、焼酎と一緒だと最強。値段は1人前9000ウォン。つまり1人800円もあれば、お腹いっぱいである。

20110827181029_61870782_2   

8月24日(木)昼食

イクサンで、コングクスを食べる。コングクスの「コン」とは大豆。「ククス」は麺。簡単に言えば、冷たい豆乳をスープにしたうどんである。これが美味しくて、体にもよい。日本でなぜ流行らないのか、不思議でならない。

8月24日(水)夕食

ソウルの明洞(ミョンドン)に宿を取り、その近くにある有名なタコ料理の店に行く。ソウルに行くと必ず寄るところで、韓国の南にある木浦(もっぽ)でとれるテナガダコを料理してくれる店である。

ここで、サンナクチ(タコの躍り食い、18000ウォン、写真左上)と、ヨンボタン(テナガダコの鍋、32000ウォンくらい、写真右上)を食べる。

8月25日(木)朝食

明洞のお粥の店でカムジャジョク(ジャガイモのお粥)を食べる。7000ウォン。

8月25日(木)昼食

博物館の食堂で、全州ビビンバ。8000ウォンだが、友人におごってもらった。

8月25日(木)夕食

(写真左下)明洞でフェ(刺身)の定食を食べる。ひとり17000ウォン、つまり1300円くらいだが、やはり十分にお腹いっぱいになる量であった。

韓国の刺身が好きなのは、白身の淡泊な味の魚を、コチュジャンにつけて食べると最高の味だからである。これに韓国焼酎があれば、もう何も言うことはない。

8月26日(金)昼食

(写真右下)明洞で安東(アンドン)チムタクの店に入った。2人で22000ウォンなり。つまり1700円程度。安東は地名。チムタクは辛い鶏肉料理のこと。大邱に滞在していたとき、1週間に1度くらいのペースで食べていた、思い出の料理である。

今回の旅行で、食べたいと思っていた料理の多くを食べることができたが、ジャージャー麺が食べられなかったのは、少し心残りである。

| | コメント (0)

新築ホテルマンの憂鬱

8月26日(金)

23日(火)と24日(水)の2日間で、プヨ、コンジュ、イクサンと、イさんのミッションをクリアした私たちは、24日の夜にソウルに着いた。25日(木)の午前中に博物館に行き、そこで友人のイさんやキムさんに再会し、今回の調査に関する便宜をはかっていただいたり、資料を提供していただいたりした。愚鈍な私に対しても何から何まで親切にしていただいて、本当に充実した時間だった。

25日(木)の夜、ソウルのホテルに戻ると、テレビの様子がおかしい。リモコンのボタンをいろいろと押してみるが、テレビが映らない。

フロントに電話をかけて「テレビが見られないんですけど。それに、リモコンの操作の仕方もわかりません」と言うと、「すぐに部屋にうかがいます」という。

日本のインターネットサイトから予約したこのホテルは、開業してまだ1カ月という新築ホヤホヤのホテルである。そのせいか、泊まってみるといろいろと不具合なところがあり、いかにも突貫工事で仕上げたといった感じである。

しばらくして、トントン、とドアを叩く音がした。

開けると、20代後半くらいと思われる若いホテルマンが立っていた。

「トゥロオセヨ(入ってください)」私は韓国語で、テレビの様子を説明した。

「韓国の方ですか?」若きホテルマンが私たちに聞いた。「日本人ですよ」と答えると、ホテルマンは「どうして韓国語がそんなにお上手なんですか?」と驚く。別に上手なわけではないのだが、日本人と韓国語で会話できることが珍しかったようである。ソウル随一の繁華街・明洞(ミョンドン)に立っているホテルだから、宿泊客のほとんどは、日本語しか話さない日本人観光客なのだろう。

テレビのリモコンを操作しながら、その若きホテルマンは驚くべき告白をした。

「このホテルはできて1カ月でしょう。私は1カ月前に、英語がすこしできる、という理由で、このホテルに採用されました。英語で外国人観光客に応対するためだったんですが、開業してみると、宿泊客のほとんどが日本人観光客で、しかも英語がほとんど通じないことがわかりました。結局、私の英語はなんの役にも立たなかったんです。だからいま、あわてて日本語の勉強を少しずつしているところです」

突貫工事なのは、施設だけではなく、従業員もそうなのだな、と思った。「出たとこ勝負」「見切り発車」という言葉が頭に浮かんだ。いかにも韓国らしい。

「ここに来る前は何をしていたんですか?」私たちが聞くと、

「フィリピンに渡って美容室の事業をしていたんですが、うまくいかなくて…」という。

ということはつまり、ホテルマンとしてもド素人、というわけである。

「日本語がなかなか覚えられなくて」と若きホテルマン。「そうだ、この機会に、ひとつうかがってもいいですか?」

「何でしょう」

「『カードキヌン オットッケ ハショッソヨ』は、日本語で何というのでしょうか?」

「『カードキーは、どうなさいましたか』ですよ」妻はそう答えると、ハングルでその発音を書いてホテルマンに渡した。

すると若きホテルマンは、「カードキは、どうなしゃいましたか…」と、くり返しハングルを読みながら練習した。

「そういうトラブル、よくあるんですか?」

「ええ、あります。でもこれで大丈夫です。ありがとうございました」

それにしても、ホテルマンが宿泊客にこんなフランクに話しかけるなんて、日本では考えられない。このホテルが、やはり「突貫工事」で「見切り発車」していることをうかがわせた。

それで思い出した。

以前、韓国に滞在していたとき、よく行く喫茶店の若き店長が、私に聞いてきた。

「『ここでお飲みになりますか』は、韓国語でなんと言うんですか?」

その若き店長は、日本語ではっきりと「ここでお飲みになりますか?」と言ったあと、これを韓国語で言うとどうなりますか、と、韓国語で聞いてきたのである。私は「『トゥシゴ カシゲッスムニカ?』です」と答えた。

若き店長は続けて、「じゃあ、『おかけになってお待ちください』は、韓国語でなんと言うんですか?」と、またはっきりと日本語で「おかけになってお待ちください」と言った。

そして「『アンジャソ キダリシプシオ』です」とまた私が答えた。

不思議に思っていると、その若き店長は、「実は以前、5年ほどソウルの明洞(ミョンドン)の喫茶店で働いていたことがあるんです。明洞には日本人のお客様がたくさんいらっしゃるので、日本語の挨拶を教えられたんです。でも今となっては、どの挨拶がどの意味なんだかわからなくなってしまいました」と告白した。

そんな話を、以前この日記に書いたことがある

おそらくこの若きホテルマンも、何年か後には、「『カードキーはどうなさいましたか』は韓国語で何という意味でしょうか。むかしホテルに勤めていたころ、日本人のお客様がたくさんいらっしゃるので、日本語の挨拶を教えられたんです。でもいまとなってはどんな意味なのかわからなくなってしまいました」と、知り合った日本人に聞くのかも知れないな、と、ひとりほくそ笑んだ。

さて翌朝。

フロントでチェックアウトをすませて、荷物を預けて出ようとすると、フロントが何やら騒がしい。見ると、従業員たちが口論を始めている。宿泊客への対応をめぐっての口論のようである。

「やっぱり日本のホテルではあり得ないよね」と妻。たしかに従業員どうしがフロントで公然と口論している姿は、日本では考えられない。

そうか。

このホテルは、従業員みんなが、いろいろなところから寄せ集められたド素人の若者たちなんだな。試行錯誤しながら頑張っている様子がよくわかる。

まるでドラマ「高原へいらっしゃい」を地でいくようなホテルだな。ま、わかる人だけがわかればよろしい。

これから先、このホテルがどうなっていくのか、少し楽しみである。

| | コメント (0)

市外バスの喧騒

8月23日(火)

朝8時、携帯電話の呼び出し音がけたたましく鳴った。

電話をとると、ソウルの博物館に勤める友人のイさんからである。

イさんとは、25日の午前中に博物館でお会いしましょうと約束していた。

「いま、メール拝見しました。無事到着したようですね」

イさんには、韓国に到着した昨日の晩、職場のPC宛てにメールを送ったところだった。ということは、朝8時にはすでに出勤しているということである。

イさんはこの7月末まで日本に1年間滞在していたが、日本語の勉強をみっちりしたわけではないので、私との会話は韓国語である。

「こちらでの予定はどうなっていますか?」

「今日はこれからプヨ、そして明日はコンジュで調査です」と私。

「いまはどこに泊まっているんですか?」

「大田(テジョン)です」

テジョンは、韓国のほぼ真ん中に位置する中核都市で、私たちがこれから行こうとするプヨやコンジュに行くには便利な位置にある。

イさんは、プヨやコンジュで見るべき資料や、そのアクセス方法などを丁寧に教えてくれた。

「それから、プヨやコンジュだけではなく、イクサンにも行くといいですよ。いま、ふだん見られない資料を見ることができます」

説明を聞いてみると、たしかに興味深い資料である。

ということで、私たちは急遽、イさんのアドバイスにしたがって予定を変更して、この日にプヨとコンジュに行き、翌日にイクサンに行くことにした。かなりのハードスケジュールである。

「じゃあ25日にお会いしましょう」

電話を切ったあと、妻が言った。

「寝起きに韓国語で通話させられるなんて、まるで『起床ミッション』だね」

「起床ミッション」とは、韓国KBS放送のバラエティ番組「1泊2日」を意識した言葉である。この番組の中で、旅先での朝、起床時間に音楽で起こされたタレントが、ディレクターの考えたミッション(指令)をクリアしないと、朝ごはんが食べられない、というお決まりの場面があるのだが、…ま、こんな説明をしたところで、たぶん誰もわからないだろう。

だがふりかってみると、今回は結果的にイさんが考えたミッションを私たちがクリアする、という旅になってしまっただから、やはりこの電話は「起床ミッション」だったのだ。

さて、あわてて身支度をして、バスに乗って最初の目的地、プヨに向かう。

テジョンからプヨまでは、バスで1時間半ほどである。韓国では、路線バスや長距離高速バスのほかに、町と町を結ぶ「市外バス」というものがある。日本でいえばさしずめ「都市間バス」にあたるものだろう。

テジョンとプヨを結ぶ市外バスには、韓国滞在中も何度か乗ったことがあるので、よく知っていた。

バスに乗って30分くらいたったころであろうか。バスの運転手(アジョッシ)と、一番前の席に乗っていたおばさん(アジュンマ)が、口げんかをはじめた。

それも、バス中にひびきわたるような大きな声で、である。

ケンカの発端はよくわからないのだが、どうやら運転手が乗客のおばさんに不用意な発言をしたらしい。私が聞き取れたのは、

「アジョッシに私の何がわかるのよ!」「それが客に対する言い方なの!?」

というアジュンマの怒鳴り声と、

「こっちはアジュンマのことを思って言ってやってんだ」という運転手の反論である。

しかもビックリすることに、どちらも引き下がらないのである。ふつうこういう時は、運転手が客の文句に対して、たとえ非がなくとも「すいません」とかなんとか言って、その場をおさめるべきだと思うのだが、運転手も頭に血がのぼっているのか、つい、アジュンマに対して反論してしまうのである。

そんな激しい押し問答がもう30分も続いている。バスの中では30分間、怒号が飛び交っているのである。

「私たち、プヨにちゃんと着けるかなあ」と妻が心配した。

「どうして?」

「だってこのままだと、運転手がバスを止めて『オモテへ出ろ!』と言いかねないよ」

たしかに、そうなりかねないような雰囲気である。

すると、後方の座席に座っていた別のおばちゃんが前の席の方に歩いてきた。二人のケンカを見かねて、仲裁に入ったのである。

「あんたたち、みっともないからやめなさい!」

おばちゃんの仲裁により、なんとか休戦する。

それにしても不思議なのは、アジュンマはあれだけ運転手に悪態をついているのに、決して一番前の席から移らない、ということである。ふつう、あれだけ怒っているんだったら、運転手と口も聞きたくないはずだから、後方の座席に移りそうなものだが、何食わぬ顔をして一番前の席に座り続けている。

「不思議だなあ」私が言うと、

「ケンカ慣れしているんじゃないの」と妻が言う。

たしかにそうだ。よくもまあ30分も次から次へと相手を罵倒する言葉が出てくるものだ。日ごろからケンカ慣れしているからかも知れない。

バスの中にようやく平和が戻ったそのとき、今度は通路をはさんで私の隣に座っていたヨボヨボのおじいさんが、私に話しかけてきた。

「あのう…、これなんだが」

おじいさんはそう言うと、病院の診察の時の領収書明細を私に見せた。

「この明細の見方がよくわからないんだが…、これだと、本人が払う金額ってのは、いったいいくらになるのかね」

そんなもん、外国人の私が見てわかるわけがない!だいたい、韓国の医療制度自体をよく知らないのだ。

「外国人なのでわかりません」と答えると、

「えっ!?耳が遠いもんでねえ。もっと大きな声で言ってくれないか」

「外国人なのでわかりません!」

するとおじいさんは、今度は前の方に歩いていって、運転手の真後ろの席に移った。

「運転手さん、この明細なんだが…」運転手にも同じ質問をした。

「じいさん!運転中に話しかけないでくれませんか。…それにいまは、気が立っているんで、そんなものに答えられないね!」運転手もご立腹の様子。それはそうだろう。

だがおじいさんもめげない。

「じゃあ運転手さん、ちょっと回り道して、保健所で下ろしてくれないかい」

「ダメです!」

まるで志村けんの老人コントのように、ヨボヨボながらも傍若無人なおじいさんである。

昨日のリムジンバスとはえらい違いである。

そんなこんなで、バスは予定通り1時間半後に、無事、プヨに到着したのであった。

| | コメント (0)

リムジンバスの奇跡

8月22日(月)

朝、羽田空港に向かうために、最寄りの駅でリムジンバスを待つ。

雨が降っているせいか、駅前の狭いロータリーは、自家用車やタクシーでいっぱいである。加えて夏休みのせいか、空港リムジンバスを待って並んでいる人も多い。

やがて、リムジンバスが来た。

大型バスは、混雑する自家用車の間を縫うように、狭いロータリーの一角にある停留所に止まった。

「すごいねえ。自家用車にぶつかるかと思ったけど、ギリギリのところで止まるんだねえ」と妻。

「さすが大型バスの運転手だ。世の中でいちばん尊敬している職業は、大型バスの運転手だよ」と私が言うと、妻は「また始まった」という表情をした。

だが、私が大型バスの運転手の技術を尊敬していることは事実である。

バスには、予想外に多くの人が乗り込んだ。私たちは幸い予約していたので、前のほうの席に座ることができたが、あとから来た人は、席が足りなくなり、補助席を使わなければならないほどであった。

そればかりでない。荷物を入れるトランクも満杯になったようで、あぶれた荷物がバスの中に運ばれた。

すると、私の前にいるおじさんが大声を出した。

「それ、俺の荷物だぞ!どうしてトランクに入れないんだ!」

あぶれてバスに運ばれた荷物は、前に座っているおじさんのものだった。

運転手が言う。「申し訳ございません。トランクがいっぱいでして」

「バスの中に置いたら、走っている間に俺の荷物が倒れるじゃないか!」

おじさんはなぜかものすごく怒っている。

大人げないおじさんだなあ。トランクに入れたって倒れるものは倒れるのに。まったくわがままな客だ、と思っていると、

「大変申し訳ございません。私の席の横に置いて、倒れないように注意いたしますので」

と、実に丁寧に、運転手席の横にその荷物を置いた。

そして出発する。

運転手は車内放送で、首都高速で2件の事故渋滞があり、到着が遅れる可能性があることを説明した。

雨は降るし、客は多いし、首都高速は渋滞するしと、運転手にとっても乗客にとっても、最悪のコンディションである。

走行中、運転手が再び車内放送をする。

「事故渋滞が解消されないため、いつものルートを変更して、銀座経由で空港に向かいます」

リムジンバスにはよくあることなのだろうが、このルート変更が功を奏した。

ルートを変更したことにより、車がスムーズに流れ始めたのである。

バスがレインボーブリッジにさしかかったころ、私は「あること」に気づいた。

バスは、ほぼ予定の時間通りに、空港に到着した。まずは国内線ターミナルである。

バスが発車する前に怒っていた前の席のおじさんは、バスを降りるときに、なぜか満面の笑みをたたえて運転手に挨拶した。

「さきほどはごめん。どうもありがとう」途中のレインボーブリッジから見たお台場の景色が、おじさんの心を癒したのだろうか、と私は想像した。

「いいえ、こちらこそ、大変申し訳ございませんでした」運転手は深々と頭を下げた。

さて、バスが終点の国際ターミナルに着いた。運転手は、バスを降りて、私たちの荷物をトランクから出してくれた。

私は思い切って、運転手に話しかけた。

「あのう…。間違っていたらごめんなさい。ひょっとして、○○中学出身ですか?」

運転手はびっくりした顔をして私を見た。「そうですよ。どうしてそれを…?」

「私はあなたの同級生ですよ」私は自分の名前を名乗った。

そこで彼は、ようやく私に気づいたのである。

そう、運転手は、私の中学校時代の同級生だったのだ!

「久しぶりだねえ」中学卒業以来の再会である。

「どうしてわかったの?」

「運転手席の後ろに名前が書いてあったでしょう。あれでわかった」

中学時代、彼はどちらかというと目立たない存在で、実はほとんど話をしたことがなかったのだが、中学時代の面影をわずかにとどめている顔、車内放送の声、そしてネームプレートの名前が結びついて、一気に記憶がよみがえったのであった。

「ふだんはこの路線を運転しないんだけどねえ。…これからどこに行くの?」

いつの間にか中学時代のような「ため口」に戻った。

「韓国だよ。おかげで余裕をもって空港に着けたよ。ありがとう」

「気をつけて」

同級生は、バスの中に戻っていった。

「すごいねえ。こんなことって、あるんだねえ」横で一部始終を見ていた妻が驚いた。「いつから気づいていたの?」

「首都高を走っているときだよ」

「27年も前の同級生の顔と名前を、よく覚えているねえ」

「運転手のネームプレートのところに、名前が「毅」とあったんだ。実はこの「毅」という名前が妙に印象的でねえ。それで「毅」という漢字を覚えたくらいだ」

人間の記憶というのは、実に面白いものである。あることがきっかけになって、忘れていた記憶が一気に呼び戻されるのだから。

それよりも私にとって印象的だったのは、中学時代、どちらかといえば目立たなかった同級生が、いま現在、大型バスの運転手として最善を尽くしている姿である。

午後、私たちは無事、韓国に到着した。

| | コメント (2)

しばらく旅に出ます

8月21日(日)

夕方、妻の同僚の家にお呼ばれしたので、二人で行くことにした。

妻の同僚のだんなさんがイスラム研究者で、「イラン風の煮込みシチュー」を作ってご馳走してくれるのだという。

基本的に妻も私も、友だちが極端に少ないので、他人様(ひとさま)の家に呼ばれるということはまずない。どちらかというと苦手でもあるのだが、私たちのような非社交的な人間をわざわざ呼んでくれることに感謝し、ご厚意に甘えることにした。

家に行くと、ほかに妻の同僚2人も来ていた。合計6人での会食だが、いずれも私の知っている人たちばかりだったので、気兼ねなくお喋りすることができた。

台所では、妻の同僚のだんなさんのMさんが、1人で黙々と料理を作っている。まるでタモリさんみたいだ。

海外に留学した経験のある人ばかりで、話題は自然と、異文化体験の話になる。とくに、食文化の違いや、研究の作法をめぐる違いは、汲めどつきぬ話題である。

Mさんの料理を堪能したあと、Mさんも交えてお酒を飲みながら話をする。

「国際学会で発表することって、世間的には評価が高いじゃないですか。でも、あんないいかげんなものはありません」とMさん。

これにはみんなが同意した。これは国際学会で発表した多くの研究者が感じていることではないだろうか。

Mさんは、中東で行われたある国際学会での体験を話した。

「以前、中東で行われた国際学会のセッション(分科会)に何気なく参加したときに、広い会場に聴衆が、中国人と、トルコ人と、私の3人しかいなかったんです」

「ほう」

「会場がそれだけ寂しいと、途中で抜けるわけにはいかないじゃないですか。仕方がないのでその会場で座っていると、発表者が冒頭で、『私はアラビア語が苦手なので、フランス語で発表をします』と突然言いだしたんです」

「ほう」

「それを聞いた途端、中国人とトルコ人が席を立って出ていっちゃった」

「じゃあ、その会場で残ったのは1人だけですか」

「ええ、私は出るタイミングを逸して、結局その場に残ることに…。フランス語はちょっとだけかじってましたから、幸い、言っている内容はなんとなくわかったんです」

それだけでも、けっこうすごい。

「でもそのセッションには、司会者も来なかったんですよ」

「ええぇぇっ!じゃあ1対1ですね」もはや学会の体をなしていない。

「そうです。で、その人は発表が終わると、じっとこちらを見ているので、そうなると質問しなければ収まりがつかないでしょう。仕方ないので、たどたどしいフランス語で質問したんです。あれにはまいりました」

私も韓国で似たような経験があったので、この気持ちはよくわかる。

「海外の学会に呼ばれて行く方はまだいいです。もっと大変なのは、海外から研究者をこちらに呼ぶ場合です。せっかく国際学会で招聘しても、ドタキャンされる場合がありますからね」

たしかにそういう話は、よく聞く。

「ギリギリまで来るか来ないかわからないんです。第一、『いつの飛行機で来るのか』と問い合わせても、なしのつぶてのことが結構あります」

「そうですか」

「こちらで国際学会をするために、中東のある国から研究者を呼んだときに、いつまでたっても連絡が来ないので、『これは得意のドタキャンか!?』と半ばあきらめていたら、学会の直前になって、自家用ジェット機で突然やってきたんです」

「ええぇぇっ!それはすごい話ですね。そんな突然なのに、空港もよく着陸を許可しましたねえ」

「そのときは国交省から外務省に問い合わせが行ったりして、まあ大変でした」

うーむ。スケールが違う。

ほかにも文化の違いに翻弄されるMさんの話を聞いたが、私はMさんがむしろそれを楽しんでいるように思えて、なんとなくうらやましかった。

私が韓国で体験したことなど、それに比べればスケールが小さい。

小さな違いにくよくよ悩んでいるようでは、異文化間のコミュニケーションなど、とれるはずもないのだ!

…というわけで、しばらく旅に出ます。久しぶりの韓国です!

| | コメント (0)

伝説は作られる

8月19日(金)

同世代の友人と、「オールナイトニッポン」のテーマ曲「ビター・スウィート・サンバ」の話になった。

あの曲が流れると、反射的に青春時代の思い出がよみがえる。

もともとそんなに有名な曲じゃなかったと思うのだが、オールナイトニッポンを通じて、私たちの世代では知らない者がいないくらい、有名な曲になった。

40年以上たってもまだ番組のテーマ曲になっていることなど、当初は誰が想像しただろう。

もともと、違う曲をかけるはずが、ディレクターが間違ってレコードのB面の曲をかけてしまったことが始まりだ、という都市伝説があるそうだが、それは後から付加された伝説であろう。

それで思い出した。

私は高校時代、吹奏楽部に属していた。

高校2年の春休みになると、吹奏楽部の定期演奏会を仕切る立場になるのであるが、その演奏会の一番最後、アンコールもすべて終わった最後に、「ブラックサム」という曲で締めよう、ということになった。そしてその曲を、同期のワタナベが編曲することになった。

私は知識がないのでまったくわからなかったが、その曲は、もともと金管アンサンブルの曲なのだが、それをワタナベが、木管楽器や打楽器を含めた吹奏楽用に編曲して、全員で演奏できるようにしたのである。

実際に演奏してみると、余韻を感じさせる、とてもいい曲だ、と思った。いまでもその曲を聴くと、「ビター・スウィート・サンバ」のように、高校時代を思い出すから不思議である。

さてその「ブラックサム」という曲は、とても好評で、それ以降も10年以上にわたって、高校の定期演奏会の最後の曲として必ず演奏されるようになった。ワタナベの編曲した譜面が、代々受け継がれるようになったのである。

実は驚くことにいまでも、毎年の演奏会でその曲は演奏されている。正確に言うと、高校の現役生たちによる定期演奏会ではいまは演奏されなくなったのだが、高校を卒業したOBが結成した楽団(OB楽団)がそれを引き継ぎ、いまでも演奏会の最後の曲として続いているのである。

じつに25年も続いていることになる。

私は、ほかの楽団がこの曲を演奏しているのを聞いたことがないから、もともとはそれほど有名な曲ではないのだと思うのだが、うちの高校の吹奏楽部OBならば全員が知っている、「青春の曲」なのである。

だが、この曲が演奏されはじめて数年がたつと、この曲を誰が編曲したのかなどということは、まったくわからなくなってしまった。後輩たちはいつしか、「この『ブラックサム』はS先輩が私たちの楽団のために編曲した伝説の曲だ」と、うわさするようになったのである。

「S先輩」というのは、私よりも2学年上の先輩で、高校卒業後に芸大の作曲科に入って、その後、ソロCDを何枚も出すプロのミュージシャンになった方である。高校時代から抜群の音楽的才能を発揮していて、楽団の伝説的存在となっていた。

事情を知らない後輩たちの間では、「ブラックサム」はいつの間にかそのS先輩が編曲した、ということになっていたのである!

さて、今年の5月。

OB楽団の演奏会に、じつに20年ぶりくらいに、ワタナベが聞きに来てくれた。ワタナベは大学院卒業後に会社員となり、いまもずっと社会人の楽団でホルンを吹き続けている。

演奏会が終わって会場を出ると、ワタナベがいた。

「『ブラックサム』、まだ続いているんだね」

ワタナベは照れくさそうに言った。

「後輩たちは、あの曲をS先輩が編曲したと思っているんだぜ。ワタナベが編曲したってこと、ちゃんと言わないといけないな」と私が言うと、

「でも、たぶんそのおかげで、いままで演奏され続けてきたんだろう。だからこのままS先輩の編曲ってことにしておいた方がでいいんじゃないの」

ワタナベは照れ隠しに、なかば自虐的に言った。

いまは音楽が趣味のサラリーマン。家庭ではたぶん、ふつうのお父さん。

そんなワタナベが25年前に編曲した曲が、いまも多くの人に愛され続けている。

私はそんな彼を、とてもうらやましく思う。

そんな作品を1つでも残せたら、どんなに素晴らしいことだろう、と思うのだ。

| | コメント (0)

ああ!串揚げ

ちょっと戻って、8月8日(月)のこと。

居酒屋で学生たちと前期の授業の打ち上げをしていたとき、イベントサークルに所属している3年生のCさんが私に言った。

「この前、市会議員さんに連れられて、串揚げ屋さんに行ったんです」

聞いてみると、市内でも有名な高級串揚げ屋さんらしい。

串揚げとは、新鮮な野菜や肉や魚介類を串に刺して、薄くパン粉をつけてカラッと揚げた、贅沢で上品な料理である。

さまざまな素材が次々と串揚げになって出てくる。ひとつとして同じものが出てこない。ひとつひとつの串揚げについて、「これは塩でお食べください」とか、「これはソースでお食べください」とか、「これはそのままでお食べください」とか、素材によって味付けを変えて食べるように指示される。食べ終わったころを見はからって、また別の串揚げが出され、「もうお腹いっぱいだ」というところで、ストップをかけるのである。

あれって、際限なく食べても、ひとつとして同じ素材は出てこないのだろうか?その探求心から、ついつい、食べすぎてしまう。

当然、食べた分だけ料金が加算されていくので、「いま、いくらくらいだろう」などと、財布の心配をするようなセコい人間が食べる料理ではない。つまり、お金を気にせず食べることができなければならないのである。

その意味で「串揚げ」は、私の中では「カウンターですしを食うこと」と双璧の、「ガッハッハおじさん」が食べる料理なのである。

Cさんを高級串揚げ屋さんに連れていった市会議員という方は、きっと「ガッハッハ」な人なんだろうな、と想像した。

「私が大学生の時なんて、串揚げなんて食べたこともなかったよ」と私。

「でも、美味しかったですよ」

「そりゃあ、美味しいだろうよ。何たって、私は世の中で串揚げがいちばん好きな食べ物なんだから」相変わらず私も少し大げさである。「私が串揚げを食べたのなんて、たかだかここ数年のことだよ。しかも、よっぽどのことがないと食べに行かないぜ」

「そういうものですか」

「そういうものです」

そんな会話をしているうちに、久しぶりに串揚げが食べたくなった。

私がたまに行く串揚げ屋さんは、東京駅の地下の食堂街にある串揚げ屋さんである。というか、その店しか知らない。

そして8月13日(土)。

祖母の新盆の帰り、妻と私の妹と3人で電車に乗って東京に向かう。

「このぶんだと、ちょうど東京駅で晩御飯、て感じだね」と妻。「3人で何か食べましょう」

私は串揚げのことを思い出した。

「じゃあ、東京駅の地下で串揚げを食べよう」

言ってから、少しばかり懐具合が気になった。

「いいねえ、じゃ、おごりということで」と妻。

えええぇぇぇ!串揚げを提案したことを、少し後悔した。

しかし、ここで串揚げを食べないと、「Cさんに負けた」感じもするしなあ。

東京駅に着いて串揚げ屋さんに入る。いつもは、会社帰りのガッハッハおじさんたちであふれているが、この日はお盆休みということで、静かである。

久しぶりに串揚げの「おまかせコース」を堪能した。料金を気にせずにね。

会計?もちろん、私が全部払いましたよ。たぶん、妹の方が稼ぎがいいと思うのだが。

この次に串揚げを食べるのは、いつのことになるやら。

| | コメント (0)

夕食難民

8月17日(水)

午後、車で50㎞離れた「前の職場」に向かう。

昨日の火曜日から今週の土曜日まで、ここで「夏季集中クリーニング」が行われている。被災資料のクリーニング作業を、朝9時から夕方4時まで、集中的に行う、というものである。「集中講義」ならぬ「集中クリーニング」。このネーミングがまたいい。

なぜこの時期に、ここで集中クリーニングが行われるのか。いきさつを説明すると長くなるが、数年前にここを卒業したAさんが、職場の夏休みを利用して、ぜひクリーニング作業をしたい、と言ってきたのだという。現在勤務している東京から、夏休みを利用してはるばるクリーニング作業のためにこの地にやって来るというのだ。その心意気に打たれた元同僚のKさんが、Aさんの滞在中に朝から夕方までクリーニング作業を行う「夏季集中クリーニング」をすることを思いついた、というわけである。

ただ問題なのは、この時期、現役の大学生たちは帰省していて、ほとんどここには残っていないということである。それでも卒業生のAさんは、1人になってもかまわないからクリーニング作業をしてみたい、というのだから、筋金入りである。

私は、卒業生のAさんと、元同僚のKさんに敬意を表して、本日の午後、少しだけ、クリーニング作業をお手伝いすることにしたのである。

前の職場に到着すると、作業をしていたのは、KさんとAさんを含めた3人。やはり人数は少なかったようだ。

それでも、Aさんは今回のクリーニング作業のために、汚れを落とすためのより効果的な方法を模索していて、それが私にはたいへん勉強になった。

夕方、作業が終わったあと、KさんやAさんと話をしているうちに、いつの間にか午後6時近くになっていた。「夕飯を食べに行きましょう」とKさんが提案する。

「何がいいでしょうかねえ」

「おそばにしましょうか。ここから山の方に行ったところに、美味しいおそば屋さんがあるそうです」とKさん。

「場所は知ってますか?」運転手は私である。

「むかし連れていってもらったことがあるくらいで、詳しくはわかりません。たぶん、行ってみれば場所を思い出すと思います」

ということで、とりあえず、私の車で、Kさんの言うそば屋に行くことにした。

だが、気がかりなことがひとつあった。

道がわからないこともさることながら、このあたりのそば屋はたいてい、午後の2時か3時くらいで店じまいしてしまい、夜は営業していないところが多いのである。いまから10年ほど前に、この地に2年半ほど住んでいたので、よく知っていた。

「まだ開いてますかねえ。このあたりは昼だけしか営業しない店が多いですよ」と私。

「そうかも知れませんねえ。ま、とりあえず行くだけ行ってみましょう」

なんとかKさんの記憶をたよりに、目的地のそば屋に着いた。かなりうら寂しい場所である。だがその店には「水曜定休日」という札がかかっていた。

「定休日ですかあ」営業時間を云々する前に定休日だったとは…。いま来た道を戻り、町の方に向かう。

「どうしましょうか」車中であれこれと店の候補をあげるが、どれもぱっとしない。

私が思い出した。

「そういえば、ここをまっすぐ行くとM駅の方に行きますよね」

「ええ」

「たしかその駅前に、美味しいラーメン屋さんがありましたよね」

「ああ、ありましたありました。S亭ですね」

「そこにしましょうか」

「そうしましょう」

しかし、カーナビも地図もないので、やはり記憶をたよりにM駅をさがし、周辺をぐるぐる回りながら、ようやくM駅に着いた。

「おかしいですねえ。たしかこの辺にあったと思うんだが」

「聞いてきましょう」Aさんが車を降りて、犬の散歩をしていたおばさんのところに走った。

ほどなくしてAさんが戻ってきた。

「たしかにここにはS亭がありましたが、数年前に、隣県に移転したそうです」

えええぇぇぇぇぇっ!!移転!?

振り出しに戻る。

ビックリすることに、この町は、午後7時になると、たいていの食堂が閉まってしまうのである。すでにもう6時45分である。

車であてもなく走ってみるが、たしかにめぼしい食堂は、みな閉まっていた。

「どうしましょうか」

「近くにNというそば屋さんがあります。そこならまだ営業しているはずですから、そこにしましょう」

「そうしましょう」この時点で、テンションはだいぶ落ちていた。こうなったら、もうどこでもよい。

おそば屋さんに到着。看板に「そばと割烹」とあり、お酒と、ちょっとした小料理も食べられるそば屋、ということらしい。こぎれいな店である。

「小さい店なのに、ずいぶん混んでますねえ」お店の駐車場は、ほぼ満車だった。

お店に入ると、やはりお客さんで賑わっている。お盆の休みのせいかも知れない。カウンターの内側には、店の主人とおぼしきおじさんと、おかみさんとおぼしきおばさんがいた。夫婦で切り盛りしているお店のようである。

テーブル席に座り、そばの注文をしようとすると、店のおかみさんらしき人が私たちに言った。

「すいません。今日、お客さんが多いもので、お出しするのに少々お時間がかかりますが、それでもよろしいですか」

「私たち、そばを注文するだけですけど…、どのくらい時間がかかりますか?」

「そうですねえ…。30分くらいかかると思います」

えええぇぇぇぇっ!!!さ、30分!

そばを食べるのに30分待つのか…。

「どうしましょう。やっぱり出ましょうか?」とKさん。

「でもここを出てもあてがないでしょう」ということで、待つことにした。

ところが、待っている間、AさんやKさんとのお話がことのほか面白く、すっかり時間を忘れてしまった。

「お待たせいたしました~」

話に夢中になっていると、おかみさんがそばを持ってきた。

ふと時計を見ると、7時50分。

この店に入り、席に着いたのがちょうど午後7時だったから、50分も待たされたことになる。

そばを食べるのに50分も待たされたのは、近年にない記録である。

AさんやKさんとのお話に夢中になって時間を忘れていたことが救いだった。

午後8時45分。思いのほかお話が盛り上がり、おそば屋さんを出た。

お二人とお別れして、帰り道の車の中で、久々に思い出したことがあった。

10年前、2年半ほどこの町に住んでいて、どうしてもなじめなかったことが二つあったことを。

ひとつは、食堂の多くが夜7時になると閉まってしまうこと。

そしてもうひとつは、注文をしてから品物が出てくるまで、30分以上待たされることがとても多かったこと。

| | コメント (0)

新盆

8月13日(土)

朝、新幹線で東京に向かう。

昨年10月、母方の祖母が99歳で大往生を遂げた。この夏は新盆なので、線香をあげに来てほしい、と母に言われ、東京から鉄道で1時間半以上かかる、隣県のS市に行くことになったのである。

正午、東京駅に着き、妻と待ち合わせる。

「最近は鉄道よりも、東京駅の八重洲口から出ている高速バスに乗った方が便利だ」という、S市に住む叔父の言葉を思い出し、高速バスで行くことにした。

ところが、八重洲口を出ると、ビックリするくらい暑い。それに、バスは指定席券を買うのではなく、バス停に並んで、車内精算するのだという。

行ってみると、これまたビックリするくらいの行列である。

帰省客が多いから仕方がないのかも知れない。炎天下、並んで待っていると、ようやくバスが来た。

客が次々とバスに乗り込む。妻が乗り込み、次に私が乗り込もうとすると、運転手が制止した。

「お客さんすいません。満席です」

えええぇぇぇぇっ!なんと私の前で、満席になってしまったのである。

「二人一緒に乗れないと困るんですけど」

「でも満席なんです。すいません」

「臨時便とかはないんですか?」

「すいません。いま会社と連絡がとれないもので…」

会社と連絡がとれない???運転手のわけのわからない言い訳を聞いて、バスに乗るのをあきらめた。私たちの後ろにも、ズラッと人が並んでいる。

「こりゃあダメだ。鉄道で行くことにしよう」つくづくバス運がない。

急いで東京駅に戻り、鉄道で向かうことにした。

午後4時すぎ、S駅に着いた。S駅では、叔父が車で迎えに来ていた。

「エライ目にあいました。何しろバスに乗ろうとしたらすごい行列で…」

「そうだろう。あそこは殿様商売だからねえ。こんなときでも、臨時便を出そうなんて発想がないんだ」

叔父の家に着くと、すでに親戚がずらっと揃っていた。

「遠いところ、大変だったねえ」

父母や妹は、すでに到着していた。

考えてみれば、お盆に母方の親戚が勢揃いするなんて、何年ぶりだろう。私が子どもの頃は、毎年お盆になると必ず、家族で母の実家に泊まりがけで遊びに行ったものだが、私が大学生くらいになると、私自身が母の実家に行く機会がほとんどなくなり、次第に親戚で集まることもなくなっていった。

だから、お盆にこうして集まるのは20年以上ぶりくらいなのだ。

線香をあげると、叔母がスイカを持ってきてくれたので、それをいただく。

「どうする?これから墓参りに行くかい?」と母。

「せっかく来たんで、行こうよ」と私。

「じゃあみんなでお墓参りに行って、それで解散だ」

「なんだい。それじゃあまるで、私はここにスイカを食べに来ただけだな」と私。一同は笑った。

「ところで、今年は新盆でしょう」私は続けた。「25年くらい前におじいちゃんが死んだとき、新盆のときにお墓に灯籠みたいなもの立てなかったっけ?」

新盆には、高灯籠という背の高い灯籠を立てる風習がある。あの世に行ったばかりの仏様が、迷わずに戻ってこられるようにと、新盆にかぎって背の高い灯籠をお墓に立てるのである。そのことを思い出したのである。

「あら、そういえば、おじいちゃんの新盆の時、そんなことやったわねえ。あんたに言われるまですっかり忘れてた」と叔母。「あんた、よく覚えてるねえ」

「だってそのとき、灯籠を買いに行かされたもん」

当時高校生だった私は、祖母に付き添って灯籠を買いに行ったのである。だからよく覚えていた。

「オレたちも全然覚えてないよ」同世代の従兄弟が口をそろえて言う。

「ここにいるみんなが忘れてたよ。あんたやっぱり、学者だねえ」叔母が私をからかった。「ま、今回は用意できなかったから仕方ない」と、高灯籠は見送られた。

夕方5時、親戚一同が車に分乗し、車で20分ほどのK町にあるお墓へと向かう。S市の隣にあるK町は、母の実家と、祖父母の墓があるところである。

叔父の車に乗った私は、叔父から3月11日の震災の話を聞く。

「ここはほとんど報道されなかったけど、地震による液状化現象がひどくってねえ。それに、全壊した家も何軒かあった。利根川に架かる大橋も、いまだに通行止めなんだ」

「それじゃあここは、完全な被災地じゃないですか」私は驚いた。

「これから行くうちのお墓も、いくつかあるうちのひとつの墓石が、倒壊したんだ」

母方の実家のお墓には、いくつか墓石が並んでいて、その中には、江戸時代に作られた墓石もあった。倒壊した墓石は、江戸時代に作られた、一番古い墓石であった。

「直しようがなくってね。結局、粉々にして土にもどすのがいいって、お寺に言われたんだ」

震災のつめあとは、こんなところにも残っていた。

K町のお寺に到着すると、お墓参りに来た人で、お墓はごった返していた。このお寺がこんなに多くの人で賑わっていることなど、これまでに見たことがないほどである。

1 次々と、提灯を持った家族連れが、お墓にやってくる。みんな、ご先祖様を迎えにやってくるのだ。

これは、私が高校生くらいまで、お盆にこの町に来るたびに見ていた光景である。

お盆の入りの夕方になると、あちこちの家から家族が提灯を持って、歩いてお墓までやってくる。そしてお墓にお参りすると、ご先祖様をお迎えする意味でろうそくに火をつけ、提灯にともし、ふたたび歩いて家に戻る。家からお墓までの往復は、必ず歩きでなければならない。だから、お盆の入りの夕方には、ぞろぞろと提灯を持った家族連れが歩いているのを、よく見かけたのである。

「25年前と少しも変わってない…」私はまるで、時が止まったかのような錯覚におちいった。

そんなことを思いながら、お墓に至る道を歩いていると、ある家族連れとすれちがった。墓参りを終えて、家路に戻る人たちである。

ろうそくをともした提灯を持っているのは、まだ小学校に上がる前くらいの、小さな子どもである。

その子どもが、お寺の石段を踏みはずし、もんどり打って転んでしまった。ところが驚いたことにその子どもは、自分が持っている提灯を、決して落とすことなく、ろうそくの火を守ったのである。

まわりにいた大人たちは、子どもが転んでも泣かなかったこと、そして提灯の灯を守り抜いたことをたたえた。その子にとってみれば、提灯の灯の意味などよくわからなかったのかも知れないが、うっかり落としたら大変なことになる、という感覚だけはしっかり持っていたのであろう。

2 やがて私たちもお墓に着き、ひとりひとりお線香をあげた。ふと見ると、叔父が言ったとおり、一番古いとおぼしき墓石が、無惨にも壊れていた。

「おばあさん、よかったねえ。みんながこうして来てくれたよ」叔母が線香をあげながら、祖母の墓に話しかけた。

「提灯は持ってこなかったけど、仕方ないよね」高灯籠も提灯もない、きわめて略式の新盆である。

こうして、墓参りも終わり、一同はそれぞれ自分の家に戻った。私は、わずか1時間半ほどの滞在だった。

翌日の新聞に、「今年の夏休みはどう過ごしますか」というアンケートで「帰省する」と答えた人の割合が過去最高であるという記事をみつけた。記事ではその理由を「震災により家族の絆が深まったからではないか」と分析していた。

その分析の当否はともかく、お盆の墓参りが、昔ながらの風習とともにいまも根強く続いていることを、久しぶりに目の当たりにしたことはたしかである。転んでも提灯を手放さなかったあの小さな子が、立派な大人になる頃にも、この風習は続いているのかも知れない、と思った。

| | コメント (2)

ちょっとだけふり返る、夏

8月12日(金)

2週間遅れてはじまった前期の授業が、今日でようやく終了である。

といっても、まだ成績評価という重い仕事が残っていて、なかなか解放感に浸れない。それに、不愉快なことや、心配事も尽きない。

しかし、そんなことばかり思っていても仕方がない。ここはひとつ、いいことだけを考えよう。

というわけで、ちょっとだけ、前期の出来事をふり返ることにする。

5月半ばからはじめた、「津波で被災した資料のクリーニング作業」は、もともと世話人代表のKさんの呼びかけではじまったものである。

最初、このブログにはその作業のことを書かないつもりでいたのだが、私の日常生活の中で占める割合がだんだんと大きくなっていき、書かずにはいられなくなった。むしろこの作業の様子を、私なりの目線で描いてみたい、と強く思うようになったのである。そう、ちょうど、韓国留学中の語学学校の様子を私なりの目線で描いてみたい、と強く思ったのと同じように。

ただそのせいで、無許可でここに登場させてしまった関係者には、いたくご迷惑をおかけしたのではないかと恐れる。不愉快な思いをさせてしまったらごめんなさい。

「丘の上の作業場」に集まってくる人たちは、みな、いい人ばかりである。それぞれが、自分の持ち場で、やれることをやる、という気持ちに撤している。何より誰も偉ぶらないところがすばらしい。「偉ぶる人」が大の苦手な私が、この場所を居心地良く感じるのも、そのおかげである。

集まるべくして集まった人たちなんだな、と思う。

週2回、「丘の上の作業場」に通って、他愛もない話をしながら作業を進めていくうちに、自然と信頼関係が生まれてくる。職業や年齢を超えて、である。ふらっとやってくる人も、なぜか自然にとけ込んでゆく。それもまたいい。

集まる年代は、おもに20代から40代。私は最年長の部類に属するが、とくに20代の学生や社会人の人たちが、継続的に参加しているのは、何より心強い。

3カ月近く続けてみて、参加する人たちの雰囲気は「あったまって」いき、ひとつの形になりつつある。「組織が育つ」というのは、なるほどこういうことをいうのか、と実感する。

7月の終わりにバーベキューをした日のことである。

世話人代表のKさん。

「丘の上の作業場」の総責任者のYさん。

「中堅・若手社会人チーム」のMさん。

私を含めて、ほぼ同世代のいい年齢のオジサンが、若者たちにまじってビールを飲んでいた。

「オッサン4人で写真を撮りましょう」私が提案する。

「それはいいですねえ。ふつうだったら、この4人が顔を合わせることなんてありませんよ」とMさんが言った。

たしかに4人は、職場も違えば、専門分野も違う。この作業がなければ、こんなに頻繁に顔を合わせることもなかっただろう。

「貴重な写真になりますね」

写真に写るのが苦手だという世話人代表のKさんも、この時ばかりは写真に入る。

41 「はい、では撮りま~す」

パシャッ!

うーん。4人とも、たんなる酒飲みのオッサンだが、いい表情をしている。お見せできないのが残念だが。

さて、夏休みをはさんで、今後この活動はどうなっていくのか。できればこのまま、この雰囲気で続いていってほしい。

というわけで、ブログのカテゴリーに「クリーニング作業」というのを新たに設けました。これからもこの作業が続くことを願って。

これからも、学生のみなさんの参加を、心よりお待ちしています。

ではよい夏休みを!

| | コメント (0)

夜空会合

8月11日(木)

震災から5カ月が経った。

今日の夕方は、「丘の上の作業場」でいつも通りのクリーニング作業のあと、月に1度の「定期会合」を行うことになっていた。月に一度、自分たちの活動を報告しあい、これからの方針を立てていくことで、自分たちのいまの状況を確認する機会である。

元同僚のKさんも、この会合のために、職場から50㎞離れたこの「丘の上の作業場」にやってきた。

作業を早めにきりあげ、午後7時、屋外の作業場で、世話人代表のKさんが持ってきたノートパソコンとプロジェクタをセットしはじめた。

「どこに映すんですか?」

「この白い扉にです」

白くて大きな建物の扉は、パソコンの画像を映し出すのにおあつらえ向きの大きさである。

そのまわりにイスがならべられ、さながら野外で映画を観るような雰囲気である。

「これからホラー映画でもはじまりそうですね」と社会人のMさん。

Photo 「青空会合」ならぬ、はじめての「夜空会合」がはじまった。

現地に行って、被災した資料を救出した際の写真が、白くて大きな扉に映し出される。写真を見るかぎり、かなり命がけの作業のように見受けられた。

命がけ、という意味では、Uさんの車が、救済活動からの帰り、高速道路を走行中に突然煙をふいて止まってしまった体験談も語られた。

「高速を走っていたら、突然前の方から白い煙が出てきて、しばらくすると『ボン!』と大きな音がしたんです。それであわてて車を止めて、JAFを呼びました。

Photo_2 JAFが来るまで、なすすべもなく待っていたときに撮ったのがこの夕景です」同乗していたWさんが写真を映しだしながら説明した。

もともと年季の入った車だそうだから、故障も想定内のことだったのかも知れない。しかし今もUさんは、修理をしてその車に乗り続けているというから驚きである。

それにしても、Uさんをリーダーとする「中堅・若手社会人チーム」は、通常の仕事のかたわら、まるで使命感にかられたかのように、何度も現地へ足を運んで、過酷な資料救済活動を続けている。その行動力には、頭が下がるばかりである。

会合の最後に、白い扉に次のようなメッセージが映し出された。

「皆勤賞のMさん。エジプトに気をつけて行ってらっしゃい」

「中堅・若手社会人チーム」の中でも大車輪で活躍しているMさんは、明後日から2週間、エジプトに調査に出かけるという。世話人代表のKさんが、最後にサプライズメッセージを用意していたのである。

「これ、ささやかですが餞別です」世話人代表のKさんからMさんに餞別がわたされると、拍手が起こった。

「ありがとうございます。行ってきます」

「丘の上の作業場」は、これからしばし、お盆休みである。

| | コメント (0)

吾輩は老猫である

8月11日(木)

猫を飼っている友人と話をすると、飼っている猫の写真をたくさん見せてくれる。

猫を飼っている人は、自然と猫を撮りたくなるものらしい。

で、見せてもらうと、「うちの猫の方がかわいい」と、誰しも思う。私もそう思う。

だが、妻の家で飼っている猫は、いまやすっかり老猫になってしまい、ややふてぶてしい感じになってしまった。だから最近は、他人様(ひとさま)の猫でも、飼いはじめたばかりの小さな猫の方がかわいく思えるときがある。

妻の家にいるオスの猫は、私が結婚する前からいるから、もう11年以上も生きている老猫である。つまり、家では私よりも先輩である。名前を「まあぶる」という。家族はみな「まあちゃん」と呼んでいるが、私はなんとなく「まあちゃん」とは呼ぶのが照れくさく、「まあぶる先生」と呼んだりしている。

だから、妻の家での序列は、父>母>妻>妻の妹>まあぶる先生>私>妻の妹の夫(あだ名は「課長」)となる。家では、私は完全に見下された存在なのである。

いちばん悲惨なのは、妻の妹の夫(「課長」)である。もともと猫嫌いの上に、家族の序列では一番下だから、猫との関係は最悪といってよい。

課長も課長である。「あの猫、お腹空いてるんじゃないですかねえ」とか、「さっきから猫がずっとボクのところに来るんですよ」と、やたら「猫」呼ばわりする。猫とはいえ家族の一員なのだし、名前もついているんだから、「まあちゃん」とか、「まあぶるさん」とか、名前で呼んでやれよ、と、さすがの私も思う。たぶんまあぶる先生も、「オレのこと猫っていうな!名前で呼べよ」と思っているに違いない。些細なことだが、そういうところに、課長がまあぶる先生に見下される原因があるのではないか、と思う。

さて最近、まあぶる先生について驚くべき話を聞いた。

妻の話によると、以前は、部屋の冷房をつけると、冷房を嫌って冷房のついてない部屋に逃げていったのだが、今年の夏あたりから、冷房のついている部屋の、いちばん風のあたるところにじっとするようになったという。

つまり、身体がすっかり、冷房に慣れてしまったというわけである。

そればかりではない。

扇風機を消して部屋を出たはずなのに、部屋に戻ると、なぜか扇風機がつけっぱなしになっている、という日が、ここ最近続いていた。

ある日妻が部屋に入ると、衝撃的な瞬間を目撃する。

110708_212401 まあぶる先生が、みずから扇風機をつけて、風のあたるいちばんいい場所を陣取って昼寝をはじめたのである!

なんという老獪な猫!猫も人間と同じように、年をとればどんどん老獪になってゆくのだ。

さて、こんな柄にもない「猫エッセイ」を書いたのは、昨晩、「まあぶる先生が飛び上がって私に抱きついてきた」という夢を見たからである。人間でも猫でも、夢の中に登場してくると、とたんに気になる存在になるものである。

次にまあぶる先生に会えるのは、いつだろう。

| | コメント (0)

なつかしい卒業生

8月8日(月)

お昼過ぎ、携帯電話が鳴った。

「2004年に卒業したSといいます。覚えていらっしゃいますでしょうか」

「おぅ!S君。覚えてるよ」

「実はいま、生徒たちを連れて、この大学に見学に来ているんです。先生、いまの時間はお忙しいですか?」

「2時までなら大丈夫だよ」

「そうですか。研究室にうかがってもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「そうですか、じゃあ、すぐにうかがいます」

S君は、私がこの職場に移ってからの、実質的な最初の指導学生である。この学年は4人ほど受け持ったが、卒業してからは、そのうちの誰とも会ったことはなかった。

ほどなくしてS君がやってきた。

「お久しぶりです。先生」

「久しぶりだなあ」

大学時代、ロックバンドをしていたS君だったが、いまは髪も黒く、黒縁の眼鏡をかけて、スーツを着ている。県内の高校で教師をしているS君に、大学時代のラフなスタイルの面影がないことに、少しばかり時の流れを感じた。

「大学、けっこう変わりましたね」とS君。「でも先生の研究室は、ちっとも変わっていない」

「あいかわらず散らかっているだろう」

いまは連れてきた生徒たちの自由時間だというので、椅子に座ってしばらく話をすることにした。

「大学時代、もっと勉強すればよかったなあって、後悔しているんです」

椅子に座るなり、S君は言った。

いまだから書けるが、S君は同期の中で、いちばん卒論の出来が悪く、最後まで私を手こずらせた。卒論発表会の席で、私は彼に、かなりきつい質問を浴びせた記憶がある。S君は私の質問に答えることができず黙り込んでしまい、ちょっと言いすぎてしまったかなと、後々までそのことが、心に引っかかっていた。

だがS君は、その後高校の教師となって、大学時代に専攻していた分野を教えているというのだから、人生というのは、本当にわからない。

「誰だって卒業したら、そう思うものだよ。私だって大学時代、ほとんど授業に出てなかったし」と私。大学時代、授業にほとんど出なかったのは、本当の話である。

「オレ、授業をやるたびに、自分はなんてダメなんだろうって思うんです。こんなことしか教えられない、とか、オレみたいな人間が生徒に教える資格なんかあるんだろうか、とか」

「授業をやると、自分の不十分さが身に染みてわかるだろう。私だって、毎回そう思っているよ。毎回授業が終わったあとは、軽く死にたい気持ちになるもの」

「先生もそうですか」S君は笑った。

「そうだよ。でも、そう思っているくらいがちょうどいい。ヘンに自分に自信を持つようになったら、それこそ終わりだ」

「オレ、…本当は先生に電話しようかどうしようか迷ったんです」

「どうして?」

「いまのオレは、先生に合わす顔がないんじゃないか、って」

「……」

「でも、思いきって来てみてよかったです。今度は先生のお時間のあるときにまたおうかがいして、じっくりお話ししたいです」

「お酒でも飲みながらね」

次の予定があるというので、S君は研究室を出た。

それにしても、今年は本当に、なつかしい卒業生たちによく会う。

死期が近いのだろうか?

|

電話災難

8月6日(土)

恒例の「演習の補講」の日。今学期は補講期間がないので、土曜日に補講をすることになった。休みにもかかわらず、学生たちには申し訳ないことをした。私の無能さをのろうばかりである。

ここ最近、なんとなく集中力を欠いているのは、歯が痛いからである。8月の後半から出張が続くため、いま治しておかないと大変なことになる。

「韓国に行く前に歯医者に行った方がいいよ。飛行機に乗ると、気圧の関係でものすごく歯が痛くなるよ」と、妻にも脅かされた。

結局、この一言が決め手になって、歯医者に行くことにした。

だがひとつ問題が。

かかりつけの歯医者に行くとなると、診察中にまたあの先生の、底の浅い政治談義を聞かされることになる。それを思うと、憂鬱でたまらないのである。

しかし背に腹は代えられない。ここはひとつ、あきらめるしかない。

ということで、補講の休憩時間に、予約の電話を入れることにした。

「…はい、もしもし」

お婆さんの声である。

「もしもし、あのう、○○歯科医院さんですか?」

「もしもし?」

「もしもし、○○歯科医院さんですか?」

「はい、そうですが」

明らかに、ご高齢のお婆さんが電話に出ている。ちょっと耳が遠い感じである。

「診療の予約をしたいんですが」

「えっ?」

「診療の予約です!」

「えっ?もしもし」

よ・や・く!

「あぁ、予約ですね」

ようやく聞こえたようである。

「何時頃になさいますか?」

「今日は何時まで診療しているんですか?」

「えっ?もしもし、もしもし、ちょっと電話が遠いんですが」

ちょっとこみ入ったフレーズを言うとすぐこうである。遠いのはあんたの耳の方ではないか、と思いつつ、大きめの声で言う。

こえますかぁ

「はぁ、聞こえました」

なんじまでぇ、やってますかぁ

「あ、夕方6時頃までやってます」

「じゃあ、6時でお願いします」

「えっ?…あら、聞こえないわねえ」

ろ・く・じ

「6時ですか?」

「はい」

「お名前は?」

そこで私は何度も自分の苗字を言ったが、やはり全然聞き取ってもらえない。わたしはすっかり意気消沈してしまった。

固定電話が悪いのかも知れないと思い、携帯電話でかけなおすことにした。

「すいません。いったん切って、またかけ直します」

「えっ?」

かけなおします!

「あ、タカハシさんですね」

タカハシさん???いったいどこをどう聞けば、「かけなおします」を「タカハシです」と聞き間違えるのだろう。私の苗字は、タカハシとは全然違うのだ。

いいえ、違います!か・け・な・お・し・ま・す

「はい、タカハシさんね…。じゃあ下のお名前は?」

私は呆れて電話を切った。

携帯電話でもういちどかけ直すも、結果は同じ。電話のせいではなかった。それでも苦労して、なんとか苗字までは伝えることができた。

これは私の滑舌が悪いからなのか?あるいは私の声のトーンが聞きとりづらいのか?

そういえば、以前この歯医者に来たとき、受付にいたお婆さんが電話を受けながら、「えっ?えっ?」と何度も聞き返していた。あの婆さんだったか。

どうして耳の遠いお婆さんに電話番なんかさせたのだろう。

さて、夕方6時。歯医者に行くと、受付に誰もいない。奥で受付の婆さんの喋り声が聞こえる。

(なんだよ。患者が来たっていうのに…)

ふとみると、受付のテーブルに診察予約表がおいてあった。

見てみると、夕方6時のところに私のフルネームが書いてある。

(おかしいなあ。さっきの電話では苗字しか聞き取れなかったはずなのに…)

過去の診察記録から私だということがわかったらしい。

このお婆さん、ひょっとして有能な受付係なのかもしれない。

さて、例によって1時間ほど待たされて、診察がはじまる。今日は、歯医者の先生の「女性にモテた自慢話」を延々と聞かされた。私の最も苦手な話題である。

「はい、では口をお開きくださ~い」と歯医者の先生。

そんなことを言われても、あんたの話には閉口するよ。

| | コメント (0)

孤独な夏祭り

8月5日(金)

今日から3日間、夏祭りである。

市内の目抜き通りを、地元の各種団体が踊りを踊りながらパレードする、というもの。数年前までは、ほとんど興味がなかったが、卒業生や学生など、知り合いが踊るようになってから、見に行くようになった。

昨年は学生に誘われて見に行ったが、今年は孤独に見に行くことにする。今年の夏祭りでは、この3月に卒業したSさん(リーダー)や、3年生のN君が踊るはずである。Sさんは、この4月からうちの職場の職員になり、今回は職員として職場の団体に参加する。N君は、大学の夏祭りサークルの会長である。

考えてみれば、おっさんが一人で夏祭りに行くことほど淋しいことはない。

家からとぼとぼと歩き、パレードが行われている目抜き通りに到着。しばらく沿道を歩いていると、うちの職場の部局長であるW先生と出くわした。

「病院の帰りにちょっと立ち寄ったんです。うちの職場の踊りがもうすぐ見られるんじゃないかと思って」とW先生。

「今年はお出にならないんですか?」と私。うちの職場も、この夏祭りに毎年参加しており、部局長は立場上、踊りを踊らなければならなかったはずである。

「昨年、タバコをやめてから6キロ太りましてねえ。身体がきつくて、今年は遠慮したんです」たしかに、長時間踊り続けるのは、身体にこたえるのだろう。

考えてみれば、W先生もひとりで夏祭りを見にきた孤独なおっさんである。

孤独なおっさん同士、夏祭りを見ているのがだんだんいたたまれなくなってきた。

1 そのうち、うちの職場の一行が踊りを踊りながらこちらに向かってくる。

「いよいよですね」と言ったとたん、音楽が止まった。小休止の時間である。

よりによって、私の目の前で踊りが止まってしまうとは。

音楽が止まって小休止の時間になると、前の団体とを間隔をつめるために、みんなが前の方に走り出してしまう。うちの職場の職員たちは、ササッと私の前を走りすぎていった。

これはいかん。これでは何のために見に来たかわからんではないか、と、あわてて沿道を併走する。

すると、卒業生のSさん(リーダー)が、私に気がついたらしく、手を振ってくれた。そして私のところに駆けよって、うちわをくれ、すばやく列に戻った。

こんな人混みの中で、よく気がついたもんだ。

再び音楽が鳴り、踊りが再開された。踊っている様子を一生懸命写真におさめようとしたが、なかなかうまくいかなかった。

2 しばらくすると、今度は市内の某企業の踊りが見えてきた。この会社には、この6月に結婚したばかりの、卒業生のIさんが勤めている。

するとまた音楽が止まり、小休止の時間となった。Iさんの姿が見えたので、「Iさん!」と声をかけると、Iさんがこちらに気がついた。

「先日はありがとうございました」とIさん。「先生のブログ読みました」

「ええぇぇ!読んだの?!」

同期の江戸川君から聞いたのだろうが、そのこと自体は問題ではない。

話せば長くなるが、先日、「場違いな会合」で講話をした話を書いた。

実はそのきっかけとなったのが、Iさんであった。Iさんの結婚式の時に読まれた私のサプライズメッセージを、披露宴に出席されていたIさんの会社の上司のTさんがたまたま聞いて、私に講話の依頼をしようと思われたらしい。

つまり、私に講話の依頼をされたTさんというのは、Iさんの会社の上司なのである。

ひょっとしてTさんも、私のあの「屈折した文章」をお読みになったのだろうか?だとしたら気を悪くされたのではないか…、という妄想にとらわれ、私は急に心配になった。やはり、迂闊なことを書くものではない。

「支店長も一緒に踊ってるんですよ」とIさん。「支店長!支店長!先生です」Iさんが上司のTさんを呼んだ。

Tさんが私に気づくと、「この間はどうもありがとうございました。この間のお話、たいへん好評でした」とおっしゃっていただく。どこまでも実直な方である。

「こちらこそありがとうございました」私は、ひたすら恐縮するばかりであった。

ここでどっと疲れが出て、お腹が空いたので、豚の串焼きと生ビールを買うことにした。おっさんがひとりで、豚の串焼きと生ビールを買うほど切ないものはない。

3 ほどなくすると、うちの職場の学生サークルの踊りが見えてきた。あわててビールを飲みほし、踊りを見ることにする。

この夏祭りサークルの踊りは、いつ見ても美しく、潔い。

踊りに見とれていると、列の最後の方で、3年生のN君が、大きな傘をふりまわしながら、一心不乱に踊っていた。

その姿を確認して、私は夏祭り会場をあとにした。

| | コメント (4)

味のしない鰻丼

8月3日(水)

ひょんなことから、「場違いな会合」で、講話をすることになってしまった。

「場違いな会合」というのは、肩書きの立派な人たちばかりが集まる会合である。

私はつねひごろから、オッサンには「ガッハッハな人」と、「そうでない人」の2種類がいると思っている。当然私は、後者である。

で、こういった会合に参加される方は、たぶんみんな「ガッハッハな人」なんだろうな、と勝手に思いこんでいる。つまり、私がとても苦手なタイプである。

本来ならばお断りしたいところだったのだが、依頼をしてきた私と同世代のTさんという方が、「ガッハッハ」な感じがまるでなかったのと、「いちどガッハッハな世界をのぞいてみたい」という好奇心とから、お引き受けすることにした。

「場所はホテルの宴会場で行います。会合の時間は12時半から13時半までの1時間なのですが、最初の30分は、みなさんで一緒に食事をして、後半の30分で、先生にお話しいただきます」と、依頼人のTさん。ホテルで食事をしたあと講話をするなんて、ちょいとしたディナーショーならぬ、ランチショーである。

「そうしますと、私が話す時間は30分ですね」

「そうです。ひとつだけお願い申し上げたいのは、必ず13時半までに会合を終わらせなければなりませんので、時間厳守でお願いしたいということです」

「だいたい何人くらいの方がいらっしゃるのでしょうか」

「50人くらいだと思います」

50人の立派な方々の前でお話をするのか。

「12時頃に車でお迎えにあがります」という。

そして12時、職場の建物を出ると、前に大きな黒塗りの車が止まっていた。

「どうぞお乗りください」

いままでに乗ったことのない高級車に乗って、会場となるホテルまで移動する。これがじつに快適である。

(立派な方々は、毎日こんな車に乗っているのか…)

あっという間に会場に到着した。

宴会場にはいくつもの円卓があり、一番前に座らせられた。すでに多くの人がお見えになっている。

ビックリしたのは、うちの職場の社長、それに前社長までいるではないか。

(まいったなあ…)とたんに緊張した。

12時半に会合が始まる。まわりを見渡すと、明らかにご年配の立派な方々ばかりである。たぶん私が一番若い。

会合が始まると、いくつものセレモニーが行われる。そのどれもが私のような凡人には新鮮な、というより奇異なもので、記録にとどめておきたいのだが、差し障りがあるのでやめておく。

それにしても、いつまでたっても食事が出てこない。そうこうしているうちに、12時50分になった。私が講話をはじめる10分前である。

「あのう…」私は横にいたTさんに聞いた。「今日は時間が押しているんでしょうか?」

「いいえ、ふだん通りですよ」とTさん。

ようやくセレモニーが終わり、司会の方が言う。

「さてみなさんお待たせいたしました。今日のランチは鰻丼でございます!」

テーブルに鰻丼が並べられ、ようやく食事がはじまった。

うなぎは好物だが、なぜか全然味がしない。極度の緊張のためであろう。

しかも、13時半までに絶対にこの会合を終わらせなければならないと言われているので、私の講話を予定通り13時から始めるには、10分で鰻丼を平らげなければならないことになる。

まったく味を感じないまま、10分で鰻丼を平らげた。ほかの立派な方たちも、ふつうに鰻丼を10分で平らげていた。

なるほど、昔から「早メシ早○○、芸のうち」というが、出世するような人は、ご飯を食べるスピードが速いんだな、と実感した。

食べ終わるやいなや、私の講話がはじまる。講話のテーマは、最近私たちがとりくんでいる資料救済の活動についてである。

パワーポイントで画像を見せながら説明するが、極度の緊張で、口の中がビックリするほど乾いてしまい、うまく舌がまわらない。

今回の活動を通して学生をはじめとする若い世代がどれだけ真摯にとりくんでいるか、ということを具体的な体験を紹介しつつ説明していったのだが、この内容がご年配の「立派な方々」にどの程度伝わったのか、まったく見当もつかない。そもそもこういった問題にどの程度関心があるのかすら、あやしい。

たぶん、あまり伝わってないんだろうな、と思いながら、30分無我夢中で話し続けた。

そして最後に、作業に関わっている学生たちの写真を大きく映し出す。

「私が誇るべき学生たちです」

…万感の思いを込めて言ったつもりだが、あまり反応がない。やはり伝わらなかったか。私は、せっかく呼んでいただいたTさんに申し訳ないなあと思った。

でも、言いたいことを言ったから、よしとしよう。予定の30分があっという間に終わり、会合は終了した。

ひとつ言えることは、「私は絶対に出世するタイプではない」ということ。もう2度と呼ばれることはないだろうが、とても貴重な体験をさせていただきました。

| | コメント (0)

井戸端会議の一端

夕方の作業には、井戸端会議がつきものである、と書いた。この2日間で可笑しかった会話を書きとどめておく。

月曜日、3年生のO君とS君の会話。

O「この前さあ。後輩がオレの名前を『キョウヘイ』だと思っていて、軽くショックだった」

S「おまえの下の名前、『コウヘイ』だもんな」

O「うわぁ!うっそ!信じられねえ。オレの名前は『タカヒロ』だよ」

S「おまえ、『タカヒロ』だったの?」

O「まじかよ!おまえ、2年間オレの名前を『コウヘイ』だと思ってたの?」

S「うん」

O「マジないわ~。おまえ、『友達』から『知り合い』に格下げね」

翌火曜日、社会人Mさんとの井戸端会議。

この前のバーベキューにはビックリしました」とMさん。

「何がです?」

「肉を焼くのに、生木を使ってたことにです」

「そういえば使ってましたね」

「ふつう、バーベキューには炭を使いますよね」

「そう言われればそうです」

「なんで生木を燃料にしているんだろう、とずっと不思議に思って見てました。ふつうバーベキューには炭を使うのに」

「炭も使ってはいましたが、たしかに生木を使っていたのはヘンですね」

「おかげで、肉の表面がビックリするくらい焦げてました。ソーセージなんか、表面が焦げてるからいいかな、と思って食べてみたら、中身が全然焼けてなかったり」

「あれは卒業生のT君が準備したんですよ。当初は鍋を使った煮物も考えていたようです。鍋も借りてきてましたから」

「たしかにあれじゃあ、煮物のセットですよ。しかしだからって、バーベキューに生木を使うことはないでしょう。生木を使ったバーベキューなんて、見たことがありません」

「バーベキューが終わってから、体が燻されたようなニオイになったのは、そのせいですね」

「生木」という言葉が何度も飛び交っているのが、なんとなく可笑しい。

| | コメント (0)

イカの恨み

8月2日(火)

「いちおう、言っておきますけど」

夕方、「丘の上の作業場」で作業中、世話人代表のKさんが私のところに来て言った。

「私、イカのぽっぽ焼き、食べてませんから」

「ええぇぇぇ!食べてないんですかっ?」

先日、作業メンバーの慰労の意味で行われた河原でのバーベキューの際に、新鮮なイカを食べたことは、前に書いた

バーベキューに集まった人数は27人。そして、「海の近くの町に住むTさん」から、差し入れとして送られてきたイカの数は20杯。つまり、ぽっぽ焼きはふつうに分配しても、平等にはいきわたらない計算になるのである。

それなのに私は、イカの姿をしたぽっぽ焼きを2つも食べたのである。

よりによって、世話人代表のKさんがイカのぽっぽ焼きにありつけなかったとは。

「輪切りにして焼いたものは食べましたけど」

聞いてみると、20杯のイカのうち、10杯をぽっぽ焼きにして、残りの10杯は輪切りにして焼いた、というのである。

ということは…。

私は10杯のイカのぽっぽ焼きのうち、2杯も食べた、ということになるではないか!5分の1のぽっぽ焼きを平らげたのである。

「僕も輪切り焼きだけでしたよ」と4年生のT君。なんと、バーベキューの準備で走りまわっていたT君も、ぽっぽ焼きにありつけなかったのだ。

ふだん、獅子奮迅の活躍をしている人たちがぽっぽ焼きにありつけず、役立たずの私が2つも食べるなんて、世の中とはなんと理不尽なことよ。

「別に気にしてませんから…。ブログにも書かなくていいです」

そういうKさんは、そうとう気にしている様子であった。

| | コメント (0)

傘を持つと雨が降らない

8月1日(月)

午後の授業。そういえば、月曜日の授業はここ2回連続で、途中から大雨だった。今日もそうなるかも知れないと思い、念のため傘を持って教室のある建物に向かう。

ところがこういう日に限って、雨が降らなかった。

今日は月曜日なので、夕方からいつもの作業である。ちょうどこの時間、うちの部局で「震災ボランティア報告会」というのをやることになっていて、学生たちがこれまでそれぞれ取り組んだボランティア活動の報告をするという。4年生のT君も私たちの活動について報告することになっていたが、せっかくだから、報告会に来たみなさんに作業を実際に見てもらったらどうか、同じ建物の中でやっているんだし、と提案したところ、見学にくることになったらしい。

しばらく学生たちと作業をしていると、「報告会」に出席している人たちが、作業しているところにゾロゾロとやってきた。

見ると、管理職ともいうべきえらい人たちや、そのほか数多くの同僚もいる。

人に覗き込まれながら作業をする、というのは、かなり恥ずかしい。見られると、刷毛の使い方も、なんとなくヘンな感じになってしまう。

ひとしきり見学が終わると、またゾロゾロと報告会会場に戻っていった。

みんなが帰ってから少しして、ある妄想にとらわれた。

それは、見学に来た同僚たちが私を見て、「うぁ~、あいつ、俺たちが見学に来るのを知ってるもんだから、はりきって学生と一緒に作業なんかしてるよ~」と思ったんじゃなかろうか、という妄想である。同僚たちは私が週3回の作業をしていることなどまったく知らないから、「みんなが見学に来ているときだけパフォーマンスをするあざとい同僚」と思ったのではないか。

そのことを、3年生のO君や2年生のTさんに話すと、

「そんなことありませんよ。それは考えすぎですよ」と言う。

だが、3年生のS君は、「いや、たしかにそう思ったかも知れないっすね」と言う。

もともとS君は、わりと何も考えずに言いたいことを言うタイプである。その性格をプラスととるかマイナスととるかは、たぶん人によって評価が分かれるだろう。

「そんなこと言っちゃダメですよ」とTさんがフォローをするが、それが余計に、私を追い込んでゆく。

ああ、今日見学に来た同僚たち、絶対にそう思ってたんだろうな…。ま、別にわかってもらおうとも思っていないのだが。

そんなつまらない妄想にとらわれて、今宵も更けてゆく。

「ポケットの 汗で壊れた カードキー」 鬼瓦(汗かき川柳)

| | コメント (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »