8月13日(土)
朝、新幹線で東京に向かう。
昨年10月、母方の祖母が99歳で大往生を遂げた。この夏は新盆なので、線香をあげに来てほしい、と母に言われ、東京から鉄道で1時間半以上かかる、隣県のS市に行くことになったのである。
正午、東京駅に着き、妻と待ち合わせる。
「最近は鉄道よりも、東京駅の八重洲口から出ている高速バスに乗った方が便利だ」という、S市に住む叔父の言葉を思い出し、高速バスで行くことにした。
ところが、八重洲口を出ると、ビックリするくらい暑い。それに、バスは指定席券を買うのではなく、バス停に並んで、車内精算するのだという。
行ってみると、これまたビックリするくらいの行列である。
帰省客が多いから仕方がないのかも知れない。炎天下、並んで待っていると、ようやくバスが来た。
客が次々とバスに乗り込む。妻が乗り込み、次に私が乗り込もうとすると、運転手が制止した。
「お客さんすいません。満席です」
えええぇぇぇぇっ!なんと私の前で、満席になってしまったのである。
「二人一緒に乗れないと困るんですけど」
「でも満席なんです。すいません」
「臨時便とかはないんですか?」
「すいません。いま会社と連絡がとれないもので…」
会社と連絡がとれない???運転手のわけのわからない言い訳を聞いて、バスに乗るのをあきらめた。私たちの後ろにも、ズラッと人が並んでいる。
「こりゃあダメだ。鉄道で行くことにしよう」つくづくバス運がない。
急いで東京駅に戻り、鉄道で向かうことにした。
午後4時すぎ、S駅に着いた。S駅では、叔父が車で迎えに来ていた。
「エライ目にあいました。何しろバスに乗ろうとしたらすごい行列で…」
「そうだろう。あそこは殿様商売だからねえ。こんなときでも、臨時便を出そうなんて発想がないんだ」
叔父の家に着くと、すでに親戚がずらっと揃っていた。
「遠いところ、大変だったねえ」
父母や妹は、すでに到着していた。
考えてみれば、お盆に母方の親戚が勢揃いするなんて、何年ぶりだろう。私が子どもの頃は、毎年お盆になると必ず、家族で母の実家に泊まりがけで遊びに行ったものだが、私が大学生くらいになると、私自身が母の実家に行く機会がほとんどなくなり、次第に親戚で集まることもなくなっていった。
だから、お盆にこうして集まるのは20年以上ぶりくらいなのだ。
線香をあげると、叔母がスイカを持ってきてくれたので、それをいただく。
「どうする?これから墓参りに行くかい?」と母。
「せっかく来たんで、行こうよ」と私。
「じゃあみんなでお墓参りに行って、それで解散だ」
「なんだい。それじゃあまるで、私はここにスイカを食べに来ただけだな」と私。一同は笑った。
「ところで、今年は新盆でしょう」私は続けた。「25年くらい前におじいちゃんが死んだとき、新盆のときにお墓に灯籠みたいなもの立てなかったっけ?」
新盆には、高灯籠という背の高い灯籠を立てる風習がある。あの世に行ったばかりの仏様が、迷わずに戻ってこられるようにと、新盆にかぎって背の高い灯籠をお墓に立てるのである。そのことを思い出したのである。
「あら、そういえば、おじいちゃんの新盆の時、そんなことやったわねえ。あんたに言われるまですっかり忘れてた」と叔母。「あんた、よく覚えてるねえ」
「だってそのとき、灯籠を買いに行かされたもん」
当時高校生だった私は、祖母に付き添って灯籠を買いに行ったのである。だからよく覚えていた。
「オレたちも全然覚えてないよ」同世代の従兄弟が口をそろえて言う。
「ここにいるみんなが忘れてたよ。あんたやっぱり、学者だねえ」叔母が私をからかった。「ま、今回は用意できなかったから仕方ない」と、高灯籠は見送られた。
夕方5時、親戚一同が車に分乗し、車で20分ほどのK町にあるお墓へと向かう。S市の隣にあるK町は、母の実家と、祖父母の墓があるところである。
叔父の車に乗った私は、叔父から3月11日の震災の話を聞く。
「ここはほとんど報道されなかったけど、地震による液状化現象がひどくってねえ。それに、全壊した家も何軒かあった。利根川に架かる大橋も、いまだに通行止めなんだ」
「それじゃあここは、完全な被災地じゃないですか」私は驚いた。
「これから行くうちのお墓も、いくつかあるうちのひとつの墓石が、倒壊したんだ」
母方の実家のお墓には、いくつか墓石が並んでいて、その中には、江戸時代に作られた墓石もあった。倒壊した墓石は、江戸時代に作られた、一番古い墓石であった。
「直しようがなくってね。結局、粉々にして土にもどすのがいいって、お寺に言われたんだ」
震災のつめあとは、こんなところにも残っていた。
K町のお寺に到着すると、お墓参りに来た人で、お墓はごった返していた。このお寺がこんなに多くの人で賑わっていることなど、これまでに見たことがないほどである。
次々と、提灯を持った家族連れが、お墓にやってくる。みんな、ご先祖様を迎えにやってくるのだ。
これは、私が高校生くらいまで、お盆にこの町に来るたびに見ていた光景である。
お盆の入りの夕方になると、あちこちの家から家族が提灯を持って、歩いてお墓までやってくる。そしてお墓にお参りすると、ご先祖様をお迎えする意味でろうそくに火をつけ、提灯にともし、ふたたび歩いて家に戻る。家からお墓までの往復は、必ず歩きでなければならない。だから、お盆の入りの夕方には、ぞろぞろと提灯を持った家族連れが歩いているのを、よく見かけたのである。
「25年前と少しも変わってない…」私はまるで、時が止まったかのような錯覚におちいった。
そんなことを思いながら、お墓に至る道を歩いていると、ある家族連れとすれちがった。墓参りを終えて、家路に戻る人たちである。
ろうそくをともした提灯を持っているのは、まだ小学校に上がる前くらいの、小さな子どもである。
その子どもが、お寺の石段を踏みはずし、もんどり打って転んでしまった。ところが驚いたことにその子どもは、自分が持っている提灯を、決して落とすことなく、ろうそくの火を守ったのである。
まわりにいた大人たちは、子どもが転んでも泣かなかったこと、そして提灯の灯を守り抜いたことをたたえた。その子にとってみれば、提灯の灯の意味などよくわからなかったのかも知れないが、うっかり落としたら大変なことになる、という感覚だけはしっかり持っていたのであろう。
やがて私たちもお墓に着き、ひとりひとりお線香をあげた。ふと見ると、叔父が言ったとおり、一番古いとおぼしき墓石が、無惨にも壊れていた。
「おばあさん、よかったねえ。みんながこうして来てくれたよ」叔母が線香をあげながら、祖母の墓に話しかけた。
「提灯は持ってこなかったけど、仕方ないよね」高灯籠も提灯もない、きわめて略式の新盆である。
こうして、墓参りも終わり、一同はそれぞれ自分の家に戻った。私は、わずか1時間半ほどの滞在だった。
翌日の新聞に、「今年の夏休みはどう過ごしますか」というアンケートで「帰省する」と答えた人の割合が過去最高であるという記事をみつけた。記事ではその理由を「震災により家族の絆が深まったからではないか」と分析していた。
その分析の当否はともかく、お盆の墓参りが、昔ながらの風習とともにいまも根強く続いていることを、久しぶりに目の当たりにしたことはたしかである。転んでも提灯を手放さなかったあの小さな子が、立派な大人になる頃にも、この風習は続いているのかも知れない、と思った。
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