新築ホテルマンの憂鬱
8月26日(金)
23日(火)と24日(水)の2日間で、プヨ、コンジュ、イクサンと、イさんのミッションをクリアした私たちは、24日の夜にソウルに着いた。25日(木)の午前中に博物館に行き、そこで友人のイさんやキムさんに再会し、今回の調査に関する便宜をはかっていただいたり、資料を提供していただいたりした。愚鈍な私に対しても何から何まで親切にしていただいて、本当に充実した時間だった。
25日(木)の夜、ソウルのホテルに戻ると、テレビの様子がおかしい。リモコンのボタンをいろいろと押してみるが、テレビが映らない。
フロントに電話をかけて「テレビが見られないんですけど。それに、リモコンの操作の仕方もわかりません」と言うと、「すぐに部屋にうかがいます」という。
日本のインターネットサイトから予約したこのホテルは、開業してまだ1カ月という新築ホヤホヤのホテルである。そのせいか、泊まってみるといろいろと不具合なところがあり、いかにも突貫工事で仕上げたといった感じである。
しばらくして、トントン、とドアを叩く音がした。
開けると、20代後半くらいと思われる若いホテルマンが立っていた。
「トゥロオセヨ(入ってください)」私は韓国語で、テレビの様子を説明した。
「韓国の方ですか?」若きホテルマンが私たちに聞いた。「日本人ですよ」と答えると、ホテルマンは「どうして韓国語がそんなにお上手なんですか?」と驚く。別に上手なわけではないのだが、日本人と韓国語で会話できることが珍しかったようである。ソウル随一の繁華街・明洞(ミョンドン)に立っているホテルだから、宿泊客のほとんどは、日本語しか話さない日本人観光客なのだろう。
テレビのリモコンを操作しながら、その若きホテルマンは驚くべき告白をした。
「このホテルはできて1カ月でしょう。私は1カ月前に、英語がすこしできる、という理由で、このホテルに採用されました。英語で外国人観光客に応対するためだったんですが、開業してみると、宿泊客のほとんどが日本人観光客で、しかも英語がほとんど通じないことがわかりました。結局、私の英語はなんの役にも立たなかったんです。だからいま、あわてて日本語の勉強を少しずつしているところです」
突貫工事なのは、施設だけではなく、従業員もそうなのだな、と思った。「出たとこ勝負」「見切り発車」という言葉が頭に浮かんだ。いかにも韓国らしい。
「ここに来る前は何をしていたんですか?」私たちが聞くと、
「フィリピンに渡って美容室の事業をしていたんですが、うまくいかなくて…」という。
ということはつまり、ホテルマンとしてもド素人、というわけである。
「日本語がなかなか覚えられなくて」と若きホテルマン。「そうだ、この機会に、ひとつうかがってもいいですか?」
「何でしょう」
「『カードキヌン オットッケ ハショッソヨ』は、日本語で何というのでしょうか?」
「『カードキーは、どうなさいましたか』ですよ」妻はそう答えると、ハングルでその発音を書いてホテルマンに渡した。
すると若きホテルマンは、「カードキは、どうなしゃいましたか…」と、くり返しハングルを読みながら練習した。
「そういうトラブル、よくあるんですか?」
「ええ、あります。でもこれで大丈夫です。ありがとうございました」
それにしても、ホテルマンが宿泊客にこんなフランクに話しかけるなんて、日本では考えられない。このホテルが、やはり「突貫工事」で「見切り発車」していることをうかがわせた。
それで思い出した。
以前、韓国に滞在していたとき、よく行く喫茶店の若き店長が、私に聞いてきた。
「『ここでお飲みになりますか』は、韓国語でなんと言うんですか?」
その若き店長は、日本語ではっきりと「ここでお飲みになりますか?」と言ったあと、これを韓国語で言うとどうなりますか、と、韓国語で聞いてきたのである。私は「『トゥシゴ カシゲッスムニカ?』です」と答えた。
若き店長は続けて、「じゃあ、『おかけになってお待ちください』は、韓国語でなんと言うんですか?」と、またはっきりと日本語で「おかけになってお待ちください」と言った。
そして「『アンジャソ キダリシプシオ』です」とまた私が答えた。
不思議に思っていると、その若き店長は、「実は以前、5年ほどソウルの明洞(ミョンドン)の喫茶店で働いていたことがあるんです。明洞には日本人のお客様がたくさんいらっしゃるので、日本語の挨拶を教えられたんです。でも今となっては、どの挨拶がどの意味なんだかわからなくなってしまいました」と告白した。
そんな話を、以前この日記に書いたことがある。
おそらくこの若きホテルマンも、何年か後には、「『カードキーはどうなさいましたか』は韓国語で何という意味でしょうか。むかしホテルに勤めていたころ、日本人のお客様がたくさんいらっしゃるので、日本語の挨拶を教えられたんです。でもいまとなってはどんな意味なのかわからなくなってしまいました」と、知り合った日本人に聞くのかも知れないな、と、ひとりほくそ笑んだ。
さて翌朝。
フロントでチェックアウトをすませて、荷物を預けて出ようとすると、フロントが何やら騒がしい。見ると、従業員たちが口論を始めている。宿泊客への対応をめぐっての口論のようである。
「やっぱり日本のホテルではあり得ないよね」と妻。たしかに従業員どうしがフロントで公然と口論している姿は、日本では考えられない。
そうか。
このホテルは、従業員みんなが、いろいろなところから寄せ集められたド素人の若者たちなんだな。試行錯誤しながら頑張っている様子がよくわかる。
まるでドラマ「高原へいらっしゃい」を地でいくようなホテルだな。ま、わかる人だけがわかればよろしい。
これから先、このホテルがどうなっていくのか、少し楽しみである。
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