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リムジンバスの奇跡

8月22日(月)

朝、羽田空港に向かうために、最寄りの駅でリムジンバスを待つ。

雨が降っているせいか、駅前の狭いロータリーは、自家用車やタクシーでいっぱいである。加えて夏休みのせいか、空港リムジンバスを待って並んでいる人も多い。

やがて、リムジンバスが来た。

大型バスは、混雑する自家用車の間を縫うように、狭いロータリーの一角にある停留所に止まった。

「すごいねえ。自家用車にぶつかるかと思ったけど、ギリギリのところで止まるんだねえ」と妻。

「さすが大型バスの運転手だ。世の中でいちばん尊敬している職業は、大型バスの運転手だよ」と私が言うと、妻は「また始まった」という表情をした。

だが、私が大型バスの運転手の技術を尊敬していることは事実である。

バスには、予想外に多くの人が乗り込んだ。私たちは幸い予約していたので、前のほうの席に座ることができたが、あとから来た人は、席が足りなくなり、補助席を使わなければならないほどであった。

そればかりでない。荷物を入れるトランクも満杯になったようで、あぶれた荷物がバスの中に運ばれた。

すると、私の前にいるおじさんが大声を出した。

「それ、俺の荷物だぞ!どうしてトランクに入れないんだ!」

あぶれてバスに運ばれた荷物は、前に座っているおじさんのものだった。

運転手が言う。「申し訳ございません。トランクがいっぱいでして」

「バスの中に置いたら、走っている間に俺の荷物が倒れるじゃないか!」

おじさんはなぜかものすごく怒っている。

大人げないおじさんだなあ。トランクに入れたって倒れるものは倒れるのに。まったくわがままな客だ、と思っていると、

「大変申し訳ございません。私の席の横に置いて、倒れないように注意いたしますので」

と、実に丁寧に、運転手席の横にその荷物を置いた。

そして出発する。

運転手は車内放送で、首都高速で2件の事故渋滞があり、到着が遅れる可能性があることを説明した。

雨は降るし、客は多いし、首都高速は渋滞するしと、運転手にとっても乗客にとっても、最悪のコンディションである。

走行中、運転手が再び車内放送をする。

「事故渋滞が解消されないため、いつものルートを変更して、銀座経由で空港に向かいます」

リムジンバスにはよくあることなのだろうが、このルート変更が功を奏した。

ルートを変更したことにより、車がスムーズに流れ始めたのである。

バスがレインボーブリッジにさしかかったころ、私は「あること」に気づいた。

バスは、ほぼ予定の時間通りに、空港に到着した。まずは国内線ターミナルである。

バスが発車する前に怒っていた前の席のおじさんは、バスを降りるときに、なぜか満面の笑みをたたえて運転手に挨拶した。

「さきほどはごめん。どうもありがとう」途中のレインボーブリッジから見たお台場の景色が、おじさんの心を癒したのだろうか、と私は想像した。

「いいえ、こちらこそ、大変申し訳ございませんでした」運転手は深々と頭を下げた。

さて、バスが終点の国際ターミナルに着いた。運転手は、バスを降りて、私たちの荷物をトランクから出してくれた。

私は思い切って、運転手に話しかけた。

「あのう…。間違っていたらごめんなさい。ひょっとして、○○中学出身ですか?」

運転手はびっくりした顔をして私を見た。「そうですよ。どうしてそれを…?」

「私はあなたの同級生ですよ」私は自分の名前を名乗った。

そこで彼は、ようやく私に気づいたのである。

そう、運転手は、私の中学校時代の同級生だったのだ!

「久しぶりだねえ」中学卒業以来の再会である。

「どうしてわかったの?」

「運転手席の後ろに名前が書いてあったでしょう。あれでわかった」

中学時代、彼はどちらかというと目立たない存在で、実はほとんど話をしたことがなかったのだが、中学時代の面影をわずかにとどめている顔、車内放送の声、そしてネームプレートの名前が結びついて、一気に記憶がよみがえったのであった。

「ふだんはこの路線を運転しないんだけどねえ。…これからどこに行くの?」

いつの間にか中学時代のような「ため口」に戻った。

「韓国だよ。おかげで余裕をもって空港に着けたよ。ありがとう」

「気をつけて」

同級生は、バスの中に戻っていった。

「すごいねえ。こんなことって、あるんだねえ」横で一部始終を見ていた妻が驚いた。「いつから気づいていたの?」

「首都高を走っているときだよ」

「27年も前の同級生の顔と名前を、よく覚えているねえ」

「運転手のネームプレートのところに、名前が「毅」とあったんだ。実はこの「毅」という名前が妙に印象的でねえ。それで「毅」という漢字を覚えたくらいだ」

人間の記憶というのは、実に面白いものである。あることがきっかけになって、忘れていた記憶が一気に呼び戻されるのだから。

それよりも私にとって印象的だったのは、中学時代、どちらかといえば目立たなかった同級生が、いま現在、大型バスの運転手として最善を尽くしている姿である。

午後、私たちは無事、韓国に到着した。

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コメント

優しい気分になれるおはなしですね。私も最近、何年かぶりで同級生と再会しました。何年たっても面影って覚えててくれるんですよね。何気ないエピソードの中にホッとするおはなしが織り込まれていて、いつもほほえましい気分になれます。ありがとうございました。

投稿: Na | 2011年8月23日 (火) 10時32分

私の中学は、1学年が250人くらいいて、なかでも彼はほとんど目立たない存在でした。卒業後も会うことなく、すっかり忘れてしまったのですが、なぜか記憶がよみがえったんですねー。帰りのリムジンバスの中でも、つい運転手の名前を確認してしまいました(笑)。

投稿: onigawaragonzou | 2011年8月27日 (土) 22時00分

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