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2011年9月

眼福のひととき

9月27日(火)

7月末に発見した「資料」の調査をしていただこうと、東京からT先生をお招きすることになった。

T先生は、その「資料」の研究の第一人者である。「第一人者」とは、文字通り「第一人者」という意味で、世界のどの研究者よりもこの「資料」に精通しておられる、という意味である。

この「資料」を発見したとき、真っ先に頭に浮かんだのが、「これをT先生に調査していただいて、この『資料』の評価をおうかがいしたい」ということだった。だから、T先生をお招きすることは、私の悲願だったのだ。

研究仲間のHさんを通じて、T先生をお招きすることが実現したのである。

11時45分、駅にお迎えに行くと、すでに先生がいらっしゃった。

「はじめまして」と先生。

「いえ、…実は…、約20年ぶりです」と私。

実は大学3年の時、私は先生の講義を受けていた。だが昔から私は「ダメな学生」だったので、T先生の講義にほとんど出席することなく、結局、履修放棄したと記憶している。いまから思うと、考えられないことである。

その後数年たって先生は大学を定年退職された。もうそれから15年くらいたっているから、お歳は喜寿に近いはずである。だがそうは見えないくらい、お元気にお話しされた。

東京から来た研究仲間のHさんとも合流して、午後1時から職場の図書館の一室で資料調査が始まった。

広げられた資料を目の前に、先生はじつによどみなく、そしてわかりやすく、資料の解説をされた。部屋には私のほかにも、関係する同僚や職員、さらには話を聞いてかけつけてくれた同僚など、10人ほどがいたが、専門外の人たちも聞き入っている。さながら、講義を受けているような感じである。

そして適確に「資料」を見るポイントを説明され、理路整然と、この「資料」の評価をされていったのであった。

それは、先生をお招きする前に、私が素人ながら漠然と感じていた評価と同じだったので、私は安堵した。

先生は「資料」を目の前にして、じつにさまざまなお話をされた。それはどれも、興味深いものばかりだった。

目の前にあるのは古びた「資料」である。別に美術的な価値や骨董的な価値があるわけでもない。専門外の人が見たら、いったいこの「資料」のどこに価値があるのだろう、と思うかも知れない。

だが先生は、そこに生命を吹きこもうとしているように、私には思えた。

そしてその古びた「資料」を通して、その「資料」に関わった人間や社会を見つめているように感じた。

それはあたかも、野球選手が野球を通して人生を語るように、陶芸家が焼き物を通して人生を語るように、である。

先生をお招きして、本当によかった、と思った。

午後4時半、調査は終了した。先生を駅までお送りした。

「今日は本当にありがとう」と先生。

「こちらこそ、今日は本当にありがとうございました」と私。

「おかげで、眼福にあずかりました」

「ガンプク、ですか?」

「眼が幸福だった、という意味の『眼福』です」

先生は、別れ際、嬉しそうにそうおっしゃった。

しかし今日、いちばん幸福だったのは、T先生にご覧いただいて生命を吹きこまれた、あの古びた「資料」だったのではあるまいか。なにしろ50年以上もの間、誰の目にもふれずに、書庫の奥でひっそりと眠っていたのだから。

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あっけない再会

9月26日(月)

午後、職場の図書館で調べものをしていると、思わぬ人に再会した。

先々週、札幌の大学で私の講義を聞いていた大学院生のN君である。

「ビックリした!どうしてここにいるの?」

「こちらで合宿免許をとりたいと思いまして…」

「免許なら、北海道でもとれるんじゃないの?」

「それじゃあ旅行気分が味わえないので」

前にも書いたが、N君は大学2年の時までうちの職場の学生だった。だから彼にとってここはなじみの深い場所なのだ。

先々週、札幌で別れたばかりなのに、なんともあっけない再会である。

合宿免許で滞在する間、空いた時間を使ってこちらの図書館で研究のための資料集めをしているらしい。

「今日、このあと予定あるの?」

「いえ、とくにありませんが」

「今日の夕方、被災資料のクリーニング作業をやるんだけど、やってみない?」

被災資料のクリーニング作業については、札幌での講義の時にも少し紹介していたので、N君も心得ていた。

「参加してもいいんですか」

「もちろん。夕方6時からやるから」

「わかりました」

ということで急遽、北海道から来たN君も作業に参加してくれることになった。

今日はたまたまN君のほかにも札幌出身者が2人も来ていて、作業をしながら札幌の話で盛り上がる。不思議なつながりだなあ、と思った。

「明日も参加します」

作業が終わると、N君はそう言って帰っていった。

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屋根までとんだ

見かけによらず、というか、見かけ通り、というか、疲れやすい体質である。

この夏休みに3週間ほど「旅暮らし」をしていたせいか、せっかくの連休もまったく体が動かない。月末締めきりの仕事にも、まったく手をつけていない。困ったもんだ。

札幌から帰って以降、体がだるい日々が続き、家に帰るとすぐに寝てしまうのだ。

先日の木曜日、数日ぶりに妻に電話をした。

「まあ、台風のご心配をしてくださってありがとうございます」

妻がこういう場合は、たいてい「お前、ちったあ心配しろよ!」という意味である。

ほら、よくコンビニのトイレとかで、「いつもトイレをきれいに使っていただき、ありがとうございます」って張り紙があるでしょう。あれって、「お前、トイレをきれいに使えよ」という意味ですよね。あれと同じ言い方である。

「台風って、どうかしたの?」

「知らないの?東京、大変だったんだから」

たしかに昨日の水曜夜は、台風が関東地方に上陸した日である。だが、地デジ完全移行の日からテレビを見ていない私は、台風の影響で東京がどんなことになっているかなど、ちっとも知らなかったのだ。それに、私がいま住んでいる勤務地は、台風の影響があまりなかったから、あまり台風被害の実感がわかなかった。

「うちの家の屋根瓦が、半分とばされたんだよ」

えええぇぇぇぇ!!!

「そんなに強い風だったの?」

「なんでも、近所で竜巻が起こったんじゃないかって」

た、竜巻?!

「で、朝起きたら隣の家の人が来て、『お宅の家の屋根瓦が、半分ありませんよ』って」

うーむ。ちっとも知らなかった。そんなに深刻な被害があったのか。

あとで写真を送ってもらったのを見ると、たしかに屋根瓦の半分が飛ばされてなくなっていた。

むかしの童謡に、

「シャボン玉とんだ。屋根までとんだ」

という歌詞があったが、小さい頃にこれを、

「シャボン玉が屋根の高さまでとんだ」

という意味ではなく、

「シャボン玉だけでなく、屋根まで一緒にとんでいってしまった」

という意味だとずっと思っていたことを、なぜか思い出した。

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アンニョン!留学生

9月22日(木)

韓国のZ大学から留学生が3人来ることになった。

本当は4月に来る予定だったのだが、震災の影響で、半年遅れて留学することになったのである。

「いよいよ22日に3人がこちらに来るので、駅まで迎えに行こうと思うのですが、先生はどうされますか?」3年生のOさんからメールが来た。

Oさんは先月、2週間ほど韓国のZ大学の短期研修に参加していた。今度来る3人のこともよく知っていたので、駅での出迎えをかってでてくれたのである。

「午後は予定が空いてますから、私も迎えに行きますよ」軽い気持ちで返事をした。本来、私にその義務はないのだが、留学初日というのは、誰でも不安なものであり、私もそれを身に染みてわかっていた。たとえ役に立たなくとも、1人でも多く出迎えの者がいた方が、留学生も安心だろうと思ったのである。

「2時50分にバスが着くそうです」

「どこに?」

「たぶん、駅前のロータリーだと思います」

うーむ。どうも不安である。長距離バスは、駅前のロータリーにとまるとは限らないからである。

職場を2時すぎに出て、Oさんと、すでに4月からこちらに留学しているイさんと3人で、駅前のロータリーで待つことにする。だが、待てど暮らせどバスが来ない。

不安になったので、駅の案内所に聞いてみた。

「あのう…、2時50分に到着する長距離バスは、どこでお客さんをおろすんでしょうか?」

「少々お待ち下さい」案内所の職員が、いろいろと調べてくれた。「駅前のロータリーじゃないですね。銀行の前です」

「そうですか」

あわてて、銀行まで移動する。

そのうちOさんのところに電話が来た。留学生からである。

「バスが遅れているそうです。到着は4時20分になるそうです」

台風の影響だろう。4時20分までドーナツ屋さんで時間をつぶし、再び銀行まで行くと、ちょうどバスが来ていた。

「オンニ(お姉さん)!」とOさんは、バスから降りてきた女の子に声をかけた。3人は無事到着したようである。

さっそく、留学生がこれから1年間生活する寄宿舎へと移動する。

寄宿舎に入ると、寄宿舎を取りしきっているMさんという女性の方が、3人の留学生に、寄宿舎での注意事項を説明した。

この寄宿舎には、世界各国から生活習慣の異なった留学生がやってくる。だから、最初にきっちりと、寄宿舎での規則を厳格に説明しておかなくてはならないのである。

そのうち、続々と留学生がやってくる。連れてきたのは、留学生担当の職員、Kさんである。

「お疲れさまです」

「このあと、また別の留学生を迎えに行かなくてはならないので、また戻ります」

「そうですか。今日は入居ラッシュなのですね」

「ええ、今日は全部で10人の留学生が来ることになっています。昨日来るはずの留学生も、台風の影響で今日来ることになったりして、何時に着くのかわからない学生もいるんです」

「連絡はとれないんですか?」

「ええ、とれない留学生もいるんです」

かなりテンパっているように見受けられた。

なにしろ、3年生のOさんや私まで留学生の出迎えに借り出されるくらいなのだから、うちの職場がいかに人手不足なのかがわかる。今日は留学生を迎える側にとって「てんてこ舞いの日」なのだ。

Mさんの説明がひととおり終わり、各自が部屋に荷物を置く。少し落ち着いてから、ちょっとしたものの買い出しに行く。

これは私の偏見かも知れないが、女子は、買い物をする時間が異常に長い。

洗濯洗剤1つ選ぶにも、匂いをクンクンかいだりして吟味している。

こっちからしたら、別に汚れが落ちればどれだっていいじゃん、と思うのだが、そういうわけにはいかないらしい。

そして選んだのが、「おしゃれ着洗い」の洗剤であった。

「これにするの?」

「ええ、匂いが気に入りました」

「でも、これは『おしゃれ着洗い』用の洗剤で、ふつうの洗剤ではないよ」

「え?そうなんですか?じゃあこっちかな…」

と手にとった洗剤もまた、「おしゃれ着洗い」の洗剤である。

「これも『おしゃれ着洗い』の洗剤だよ」

「そうですか…」どうやら、「おしゃれ着洗い」の洗剤の匂いが、いたく気に入ったらしい。

ようやく買い物が終わり、今度は近くのファミレスで夕食である。

このファミレスには、ドリンクバー、サラダバー、スープバーなどがある。

「ドリンクバーはドリンクが飲み放題、サラダバーはサラダが食べ放題、スープバーはスープが飲み放題という意味ですよ」

「じゃあ私、ドリンクバーにします」そういって注文した学生は、ドリンクバーから、3つのコップにそれぞれコーラ、カルピス、メロンソーダを入れて、テーブルに持ってきた。

そしてテーブルの上に、それぞれ色の違うジュースが入った3つのコップをならべたのである。

「それ…ダメだよ」

「どうしてです?飲み放題でしょう」

「たしかにそうだけど、コップは1人1つと決まっているんだよ」

「そうでしたか。飲みくらべようと思ったので…」

韓国には、日本のファミレスにあたるレストランがないので、私たちがあたりまえと思っているドリンクバーの作法1つとってみても、はじめてきた人にはわからないのである。

なるほどねえ。些細なところに、発見があるなあ。

そんなこんなで、夕食が終わり、寄宿舎まで送り届けたのが夜9時。

今日は長い1日だった。さて、彼女たちにとって、これからどんな1年になるのだろう。

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ローマの祭り

9月21日(水)

朝、高校時代に吹奏楽部で一緒だったワタナベからメールが来た。同期の何人かに送ってきたメールである。

「突然のメール失礼します。近況報告=演奏会の宣伝です。

細々と楽器は吹いていて、半分幽霊団員のようなものですが、たまに演奏会に出ています。

今年は、個人的には念願の「ローマの祭り」を吹けるのが、ちょいとうれしくて、

誰かに自慢?したかったので、先日のOB楽団の件もあったので、メールしました。

ローマの祭り、楽しいです。出来はかなりやばいですが。

このオケは、たいしてうまくもないくせに、難しい曲ばかりやる勘違いしている団体ですが、 今回はチケット無料なのでご容赦ください。

整理券がないと入れませんが、ご希望あればいくらでも用意できます。

ホールも新しいところだし、3連休、暇をもてあましていたら、ご連絡ください」

追伸に、

「先日ブログ見ました。『ブラックサム』のことが書いてあって、ちょっと気恥ずかしいですね」

とあった。

ワタナベらしい書き方だなあ、と思い、ついうれしくなって、お叱りを受けるのを覚悟でそのまま引用させていただきました。

「ローマの祭り」か…。また高校時代のことを思い出したぞ。

高校になってから吹奏楽部をはじめた私にとって、レスピーギのいわゆる「ローマ三部作」(「ローマの松」「ローマの噴水」「ローマの祭り」)は、全然知らない曲だった。というか、私は吹奏楽部に所属していながら、音楽的な知識がほとんどなかったのである。

高校1年、私が吹奏楽をはじめたばかりのころ、ホルンを吹いていた同期のワタナベやSは、音出しの時に、いつもあるフレーズを吹いていた。そのフレーズは、とてもかっこいいものだった。

(いいなあ…)

ワタナベもSも、初心者の私とは違い、中学時代からホルンを吹いているので、そのフレーズをそうとう吹き込んでいる様子がうかがえた。私はいつも、羨望のまなざしで、それを見ていた。

そのフレーズが、レスピーギの「ローマの祭り」の一節であることを知ったのは、それからしばらくたってからのことである。

やがて私も、「ローマ三部作」を聞くようになった。

いつしか同期の連中の間では、「いつか『ローマの祭り』に挑戦したいな」と、「ローマの祭り」が、「悲願の曲」となっていった。

結局、高校時代にその夢はかなわなかった。あまりにも難しい曲だったからである。

だが高2の時だったか、記憶が定かではないが、「ローマの松」の中の一部分、「アッピア街道の松」というところだけ、演奏会で演奏したことがある。

私たちにとって、その曲を演奏したことが、「ローマの祭り」にいちばん近づいた瞬間だったのである。

卒業後に結成されたOB楽団でも、「ローマの松」の全曲を演奏したことはあっても、「ローマの祭り」は演奏していないんじゃないかな。

それほど、「ローマの祭り」は、私たちにとって「見果てぬ夢」の曲だったわけである。

ちなみに私のiPodには、クラッシック音楽はほとんど入っていないが、この「ローマ三部作」は、ちゃんと入っている。

だからワタナベが、「念願の「ローマの祭り」を吹けるのが、ちょいとうれしくて、誰かに自慢したかった」と書いたのは、とてもよくわかるのである。だって悲願だったんだもの。

…そんなことを思い出していたら、同じホルンのSから、ワタナベのメールに対する返事が来た。Sはご存じ、「ミヤモトさんサミット」の議長をつとめた男である。

そこにはやはり、「ローマの祭り」に対する思いと、高校時代の思い出話が綴られていた。

とくにホルン奏者の2人にとって、「ローマの祭り」は格別な思いがあるのだろう。

追伸には、次のようなことが書いてあった。Sも私のブログを読んでくれたらしい。

「『ブラックサム』を聞くと、あの頃を思い出すよね。

卒業やら進級やらM(ミヤモト)さんの引越しやら(嘘)、感謝の気持ちや切ない気持ちなど、高校生活の様々な思い出がよみがえる、

そんな素敵なメロディそして編曲でした。

ナベさんの家でマイケルとか何人か集まって明け方まで聞き倒したこともあったよね。

S(自分)はどう転んでもW(ワタナベ)にはなれないけど、同じ時期に張り合ってホルン吹いていたことは自分の誇りです。

いずれにしても、思いきり吹ききってください」

オッサンになっても、こんなことを言い合える友情って、いいなあ。

ちょっと泣けたよ。

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札幌・小樽を食べ歩く

札幌では、ホテルの部屋が乾燥していたのと、思いのほか涼しかったせいで、喉の調子が悪くなり、ただでさえ聞きとりにくい声が、さらに聞きとりにくいものになってしまった。おまけに風邪もちょっとひいてしまった。仕事をする人間としては恥ずかしい限りだが、それでもなんとか仕事をこなした。

体調は最悪だったが、食べることだけは忘れない。

札幌や小樽で食べ歩いたもの。

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(左上)スープカレー

(右上)小樽の寿司屋の海鮮丼

(左下)札幌ラーメン

(右下)ジンギスカン

北海道はまた、スウィーツでも有名だという。

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(上)札幌の大通の地下にあるスウィーツの店で食べたババロア。

(下)小樽で食べたチーズケーキ。私はもともとチーズケーキが得意ではないが、いままで食べたケーキの中でいちばん美味しかったかも知れない。あんまり美味しかったのでその場で2つ食べた。

こんなことばかり書いていると「また食べてばっかりだな」と言われそうだが、ほかに楽しみがないのだから仕方がない。

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ガラスとオルゴール

9月16日(土)

仕事が終わり、妻と合流して、小樽を観光することにした。

小樽は、映画のロケ地としてもしばしば登場する。昔の私なら、そのロケ地を事前に調べあげて、実際に現地に行ってみたのだろうが、いまはそんな時間的余裕も、情熱もなくなってしまった。

というわけで、ガイドブックにある観光名所をまわることにした。

小樽といえば、ガラスとオルゴールである。ふだんの私なら、まったく関心のないものだが、小樽のガラスは、見ているとたしかに素晴らしい。せっかくだから、何か買うことにした。

最近は「醤油差し」が有名だそうだが、家であんまり醤油差しを使うこともないしなあ。

食器やコップ、というものにもあまり関心がない。

いろいろ見ていると、キャンドルグラスに目が行った。

そうだ、これにしよう!

部屋でアロマキャンドルなんてものをしたら、心が落ち着くんじゃなかろうか。もっとも、いままでそんなことをしたことなんぞないのだが。

ということで、キャンドルグラスとグラスホルダー、そしてアロマキャンドルも一緒に買うことにした。

ガラスペンというものも発見。実際に書いてみると、書き心地がとてもいい。ということで、これも購入。

さて、あとはオルゴールである。

いろいろ見ていると、映画「猟奇的な彼女」の主題歌「I believe」のオルゴールがあったので、これを買うことにした。

部屋でアロマキャンドルをしながらオルゴールを聴いたら、さぞ心が落ち着くだろうな。

想像しながらすっかり満足していると、札幌へ帰るバスの中で妻が言った。

「大丈夫かねえ」

「何が?」

「だって、あの散らかっている部屋で、アロマキャンドルをするんでしょう」

妻は私の研究室が散らかっていることをよく知っている。それも書類だの本だの、「燃えやすいもの」ばかりが置いてある部屋である。

「もしあの研究室で火の不始末なんか起こしたら、あっさり全焼するんじゃないの?」

「……」

「全焼した部屋に駆けつけてみると、なぜか黒焦げになった○○の横でオルゴールだけが鳴り続けていた…、なんてことになったりして」

その絵を想像して、少し恐くなった。

というわけで、アロマキャンドルをはじめるかどうか、まだふんぎりがつかない。

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猟奇的な院生

9月13日(火)

北海道といえば、ジンギスカン料理である。

この日の夕方、学生主催でバーベキューによる歓迎会を開いてくれることになっていた。なにしろここは、構内でバーベキューができるほど敷地が広いのだ。

ところが午後から雨が本降りになり、屋外でのバーベキューは中止になってしまった。

(やはり俺は雨男だったか…)。

「すいません。場所が建物内の学生研究室に変更になりました。ジンギスカンも中止です」とT先生。「そのかわり、私が先生にぜひ食べてもらおうと、○○の肉を手に入れました」

「○○の肉?」

「ええ、先日、知り合いの猟師が山で撃ったそうで、その肉を分けてもらったんです」

「私も北海道に長くいますが、○○の肉はまだ食べたことがありません」とS先生。聞いてみると、ほとんどの人がはじめてだという。

Photo 授業が終わり、学生研究室に行くと、すでに最年長のS先生が大きな肉の塊を包丁でスライスしていた。

「ずいぶん量がありますね」

「大きい塊で3つほどあるんですよ。全部切ってしまうと食べきれるかどうかわからないから、とりあえず2つだけスライスしましょう」とS先生。

Photo_2 スライスした肉を、家庭用のホットプレートで焼きはじめる。荒々しい野生の肉を、家庭用のホットプレートで焼くというのが、なんとなく可笑しい。

味付けは、K先生の担当である。

「ビールを入れたら、肉が軟らかくなるかも知れませんね」

たしかに赤身の引き締まった部分なので、固そうな感じである。

何度か味付けを試行錯誤しながら焼いていくうちに、ほどよい味になった。

思ったほどクセがなく、歯ごたえもあり、美味しい。

スライスした肉は、参加した15人くらいの人たちの間で、あっという間に平らげられてしまった。

そのほかに用意していたさまざまな料理も、すべてなくなった。

2次会は場所を移し、近くの居酒屋で夜11時近くまで美味しい日本酒を堪能した。

さて翌日。

気になったのは、最後に残った塊である。たしか昨日は、3つの塊のうち、2つだけをスライスして焼き肉にしたのである。

「残ったもうひとつの塊はどうしたの?」院生のSさんに聞いた。

「T先生があとで家に持って帰って料理するとおっしゃったので、とりあえず昨日は研究室の冷蔵庫に入れておいたんです」

私もそう聞いていた。Sさんが続けた。

「でも私、ビニール袋のジッパーをきちんとしめないまま冷蔵庫に入れてしまったみたいで、今朝、研究室の冷蔵庫をのぞいてみたら、肉からドリップ(肉汁)が大量に出ていて、『これはもうダメだな』と思って、処分してしまいました」

「処分?処分…って、捨てたってこと?」

「ええ」

「どこに?」

「構内のゴミ箱にです」

えええぇぇぇぇっ!!!大きな肉の塊だぞ!

「それ、大丈夫なの?もし他の人にでも発見されたりしたら、『この肉塊はもしや…猟奇的な事件では!?』と大騒ぎになるかも知れないよ」

「そうですね。『大学の構内で、大きな肉の塊が見つかった!』って、ニュースになるかも知れませんね」

「それでなくったって、最近はそんな事件が世間を賑わせたこともあったんだし」

「そうですね…。私、急に不安になってきました。大丈夫でしょうか?」

さてこの肉塊騒動。いまに至るまでニュースになっていないところを見ると、何ごともなくすんだようである。

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テーマは再会・その3

9月11日(日)~18日(日)

仕事で訪れた札幌でも、じつに多くの人と再会した。

私を札幌に呼んでくれたH氏、そして同じ講座のO氏、T氏とは、学生時代からの旧知の間柄である。

とくに大学時代の後輩であるH君が、私のことを覚えていてくれて、ぜひにと呼んでくれたことは、ふだん同業者からあまり相手にされていない私にとっては、とてもありがたかった。

講座のスタッフ6人は、いずれもいい方ばかりで、期間中、とても親切にしていただいた。愚鈍な私がこれほど歓待を受けたことは、これまでになかったことである。講義の合間の昼食や、終わってからの夕食の時も、自然と話がはずんだ。

ほかに、大学時代のサークルの先輩のYさんや、元同僚のNさんとも再会する。はじめて訪れた場所とはとうてい思えないような居心地のよさである。もう、ここのうちの子になっちゃおうかな。

…と、再会した方たちやはじめてお会いした方たちを指折り数えていくと、いまの私の職場よりも、「話のできる仲間」が多いことに気づき、思わず苦笑した。

震災の影響を受けて隣県のM市から札幌に避難したYさんとも再会した。

Yさんが地元のM市から避難を余儀なくされ、未知の土地である北海道で生活を始めてから体験したさまざまな出来事、そしてそこで起こった小さな「奇跡」…。この半年の間に体験したYさんのお話に、私はただただ耳を傾けることしかできなかった。

「いろいろなめぐり合わせで、いまここにいらっしゃるんですねえ」と私。

「ええ、本当にそう思います」

「私がこうして、今年たまたま札幌に来たのも、何かのめぐり合わせかも知れませんよ」

「そうかも知れませんねえ。そうでなければ、こうしてお会いできませんでしたものねえ」

私は、韓国人が好んで使う「因縁」という言葉を思い出した。

そしてもう1人、再会した人がいる。数年前に私の職場の学生だったN君である。

N君は、2年生の時まで私の職場の学生だったが、地元に戻って教師をめざしたいという強い思いから、いまの大学に3年次編入した。私の授業では常に一番前の席に座っていたので、とりわけ印象深い学生だった。

今年の3月で大学は卒業したのだが、大学に在籍したまま教師になるための勉強を続けたいということで、この4月に大学院に進学した。

もし彼が、大学院に進まずにそのまま卒業していたら、今年の私の授業は受けられなかったわけで、やはり人の縁というのは面白いものである。

私の職場の学生だったころは、どことなく鬱屈しているようにみえたが、今の彼はじつに生き生きとしていた。同じ講座の学生たちの中で、中心的な存在となっていた。

「彼は、私のゼミの幹事をやってくれてますよ。なくてはならない存在です」彼のいまの指導教員であるS先生がおっしゃった。

そのN君が、すべての授業が終わったあと、私のところに挨拶にやってきた。

「先生、ありがとうございました。久しぶりに先生の授業が聞けて、とても懐かしかったです」

「こちらにきて、うまくやっているようで安心しました。私のところにいたときよりも、生き生きとしているね」

冗談交じりに私が言うと、N君は苦笑いした。「おかげさまで、みなさんによくしてもらっています」

「やはりあなたの選択は間違ってなかったと思うよ。あなたにとって、最高の環境だと思う。どうか、夢を実現してください」

「ありがとうございます」

この夏は、旅先でじつに多くの人たちと再会した。

ひょっとすると、かつて出会った人とふたたび出会うために、人は生き続けるのかも知れない。

テーマは「再会」。いやこれは、私の後半の人生そのもののテーマである。

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また旅に出ます

映画「男はつらいよ ぼくの伯父さん」をあらためて観た。

それまでのシリーズ作品とは作風がガラリと変わり、この作品から、寅次郎(渥美清)の甥の満男(吉岡秀隆)に焦点をあてた話になっていったことはよく知られている。

見直してみて、気恥ずかしいくらいの青春映画であることを実感する。

浪人生の満男が、高校時代のブラスバンド部の後輩・泉(後藤久美子)に恋をして、勉強が手につかなくなり、バイクに乗って佐賀県に引っ越した泉のところまで会いにいく。そこに、寅次郎が恋の指南役として絡んでいくのである。

公開が1989年ということは、私が大学2年の時にこの映画を劇場で観ていたことになる。高校時代にブラスバンド部に入り、高校卒業後に浪人する、という設定が全く私と同じであり、たぶん当時は、リアルタイムの自分とある程度重ね合わせて観ていたのかも知れない。といっても、私自身は満男のような経験があったわけではない。

いや、思い出したぞ。これと同じ経験をした友人がいたことを。

トランペットを吹いていた「マイケル」だ。マイケル・ジャクソンに雰囲気が似ていたので、当時そう呼ばれていたのである。トランペットに打ち込んでいる、まじめで内気な高校生だった。

以前にも書いたが、高校の吹奏楽部の1年下の後輩に、ミヤモトさんという、それはそれはかわいい女の子がいた。

ところがミヤモトさんは、親の仕事の都合で、高校2年の時に福岡に引っ越してしまった。

しばらくしてマイケルは、驚くべき行動に出る。

たしか高3の時だったと思うが、マイケルは夜行列車に乗って、福岡にいるミヤモトさんに会いにいったのである。

そのことをあとで聞いて、同期の連中はとても驚いた。同期の中でいちばん純情で内気なあのマイケルが、そんな行動をとるとは、誰も思わなかったからである。しかも当時、マイケルとミヤモトさんがつきあっていたわけでもなかったから、なおさらである。

マイケルが実際にミヤモトさんに会えたのか、会ったとして何を話したのか、いまとなっては知るよしもないが、この作品をあらためて見て、「きっとあの時のマイケルは、満男と同じ気持ちだったのかも知れないな」と思った。

だからこの作品を見ると、なおさらリアルに気恥ずかしく思えてくるのである。

当のマイケルは、そんなこと、すっかり忘れていると思うけれど。そういえば、マイケルにはもう20年以上も会っていないなあ。

…というわけで、寅さんではないが、またしばらく旅に出ます。今度は北の方です。

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君ならできるさ

さ、久しぶりに読者にはサッパリわからない韓国の音楽の話。

韓国旅行中、どうしても手に入れたい曲があった。

キム・ジョンミンの「オッパ ヒムネヨ(あんちゃん頑張れ)」という曲である。

韓国KBS放送のバラエティ番組「1泊2日」のレギュラーの1人であるキム・ジョンミンは、番組内では「おバカなキャラ」として定着しているが、本業は歌手で、「コヨーテ」という音楽グループのリーダーである。

番組内で、他のレギュラー陣にからかわれながら、この歌をアカペラで歌っているのを聞いているうちに、耳について離れなくなってしまった。

トロット(演歌)を現代風にアレンジしたような曲である。

そこで、韓国に行ったときに、CDショップでこの曲が入っているCDを買おうと思った。

ところが、ソウルのどの店をさがしてもこの曲が入ったCDが売ってない。釜山の店にもない。

意を決して、釜山のCDショップの店員に聞いてみた。

かなり恥ずかしい。なぜなら、この曲をわざわざ店員に聞いてまで探そうとする人は、たぶんいないからである。

店員が答えた。「その曲なら、CDでは出ていませんね。デジタル販売です」

「デジタル販売?」

「ええ、インターネットからダウンロードして購入するのです」

なるほど、今はそういう時代なのか。

ということで、結局入手できず。

で、そのことを、先日、ミリャンから帰る車の中でナム先生に話すと、買ったばかりだというスマートフォンからダウンロードして、その曲を聴かせてくれた。

「他にも面白い歌がありますよ」と言って聞かせてくれたのが、カン・サネという歌手の「ワグラノ」という歌。

「カン・サネ、いい名前でしょう」とナム先生。

「カン」には「河」という意味があり、「サネ」は「山に」という意味があるので、直訳すると「河と山に」となる。

「『ワグラノ』とはどういう意味ですか?」

「標準語で『ウェ クレヨ?』という意味の、慶尚道訛り(キョンサンド サトゥリ)ですよ」

「ウェ クレヨ」とは、「どうしたの?」という意味なので、「ワグラノ」を日本語訳すれば「なんや?」といったところか。

慶尚道は、とりわけ訛りのきつい地域である。

もっとも、慶尚道の人に言わせると、「全羅道の方が訛りがきつい」というのだが。

「日本では、例えば大阪の人は、東京に住むようになっても、わざと訛りを直さなかったりするんですよ。自負心が強いから。韓国で、もし慶尚道の人がソウルに住むとしたらどうですか」私は質問した。

「男の人は、訛りをそれほど気にしないかも知れませんね。ほら、だってカン・ホドンがそうでしょう」

カン・ホドンとは、慶尚南道出身の人気お笑いタレントである。

「でも私がソウルに住むとしたら…、恥ずかしくて訛りを出さないでしょうね」

「ワグラノ」を聞いてみることにした。

慶尚南道のきつい方言ばかりを歌詞に盛り込んで歌っているが、なんとなく言葉の感じがラテン系である。曲もラテン系の曲調である。

慶尚南道の方言を、ラテン系の言葉っぽく歌っていることに、この歌の面白さがあるのだな、と思った。

「たぶんこれを聴いても、ソウルの人はまったく意味がわからないでしょうね」

「まるでラテン音楽のようですね」

「そうでしょう!他にもこの人の歌を聴いてみますか」

「この人は、どんな歌手なんですか?」

「キムCが尊敬しているという歌手です」

といっても、ますますわからないだろう。本来はロック歌手である。

次に聴いた歌は、「ノン ハルスイッソ」という歌。日本語に訳せば「君ならできるさ」というタイトルである。

一通り聴いてみた。

「さっきの『ワグラノ』を歌ったのと同じ人ですか?」

「そうですよ。違う歌手みたいでしょう」

さきほどとは一転して、バラードである。これが実にいい。

「後悔しているなら きれいに忘れよう。

ハサミで切り取ったように みな過ぎていくことだろう。

後悔していないなら 大事にしまっておこう。

いつか笑って話せる時が来るまで。

君をとりまく そのすべての理由が 

耐えられなくてつらかったとしても

君ならできるさ。

きっとできる。

だってそれが君じゃないか。

決してくじけない宝石のような心があるのだから。

難しく考えるな 心配するな。

どうってことないさ。

ゆっくりと目を閉じてまた考えてみることさ。

世界が君をひざまずかせても

堂々と君の夢を広げて見せてくれよ。

君ならできるさ。

きっとできる。

だってそれが君じゃないか。

決してくじけない宝石のような心があるのだから。

君ならできるさ。

きっとできる。

だってそれが君じゃないか。

決してくじけない宝石のような心があるのだから。

決してくじけない宝石のような心があるのだから」

「いい歌ですねえ。なんだか力をもらえます」

「そうでしょう。前向きな歌でしょう」

「いつごろの歌ですか?」

「もう10年以上前の歌だと思います」

そうか。3人(ナム先生、オンニ、ヒョンブ)にとって、青春時代の歌だったんだな。

このほかに、「川をさかのぼるあの力強いサケのように」という歌も聴いた。こちらもまたいい。

これからもカン・サネに注目していこう。

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心意気

9月7日(水)

夕方、携帯電話が鳴った。同い年のUさんからである。

Uさんから電話がかかってくることは稀だが、かかってくるときは、決まって何かの依頼である。

「一昨日はどうも」Uさんとは一昨日の作業で会ったばかりだった。

「頼みたいこと、あんスけど」

「何でしょう」

「例の作業、オレ、うちの職場とかまわりに一生懸命宣伝してるんスけど、お恥ずかしいことに、あんまり人が来てくんなくて…」

「そんなことありませんよ。いつもみんな来てくれてるじゃないですか」実際、Uさんの職場からは、毎回何人もの方が作業に来ていた。

「イヤ、まだまだ少ないっスよ。せっかくやってるんだから、もっとたくさんの人に来てもらいたい、て思ってるんです」

「はあ」

「幸いオレの家は、いま平穏に暮らしてますけど、やっぱり何かやらないとダメだと思うんです」

あの地震以来、Uさんはいてもたってもいられなくなり、被災地に何度も足を運び、体を張って救済活動を行っている。自分にもっと何かできないだろうか、という、真っ直ぐな性格のUさんらしい言葉である。

「そこでお願いなんスけど」

「ええ」

「オレが呼びかけてもダメなんで、Mさんが直接呼びかけてくれませんかね」

「私がですか?」

「オレが一斉メールで宣伝すると、『またアイツが何か書いてきてるよ』で終わってしまうと思うんです。でもMさんだったら、オレの職場やまわりの人たちがみんな知ってますし、『あのMさんがやってるんだったら…』っていって参加してくれるかも知れません」

「そんなことはありませんよ」

実際、そんな効果があるとはとても思えなかった。それに、私にそんな知名度があるとはとうてい思えない。

「でも、いまンとこ、それくらいしか思いつかないんスよ。Mさんが直接よびかけてくれれば、『じゃあ行ってみっか』って思ってくれる人もいると思うんです」

私はちょっと感動した。私を評価してくれたことに対してではない。この活動をどのように広めていくか、Uさんなりに真剣に考えていたことに対してである。あれこれと考えたあげく、私のところに電話をくれたのだろう。

つくづく、真っ直ぐな人だなあ、と思う。少々風変わりなところもあるが、多くの人が彼に信頼を寄せている理由がよくわかる気がした。

「いいですよ。じゃあメッセージを書きましょう。役に立つかわかりませんけど」

「そうですか!ありがとうございます。じゃあメールを送ってもらったらさっそく周りの人たちに転送します。ただしオレが依頼したってことではなく、あくまでMさんが自主的にメッセージを出したっていう体(てい)でお願いしますよ」

「心得てますよ」

…と言いつつ、ここにその顛末を書いてしまっては元も子もないのだが、私のすぐ近くに、こういう「心意気」の人がいることを、どうしても書き残しておきたかったのである。

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ヒョンブからの便り

9月5日(月)

私は日本のmixiといったものにあまり興味もないし、それ以前に友達もいないのでやれるはずもないのだが、韓国版mixiともいえる「ミニホムピィ」は、留学中から続けている。

といっても、実際に訪問してくれるのは、語学院の先生であるナム先生とか、キム先生とか、クォン先生くらいである。

昨日、名前に心当たりのない男性からメッセージが入っていた。それは、次のようなメッセージだった。

「キョスニム。

日本に無事に到着しましたか?

私はナム先生のヒョンブ(姉の夫)です。 土曜日に密陽(ミリャン)一緒に行った者です。

昨日は、お会いできてとてもうれしかったです。昨年、妻と義妹が日本に行った時、キョスニムとサモニム(奥様)がとてもよくして下さったという話をたくさん聞きましたが、このたびお目にかかって、食事をしたり話しをしたりしながら、私も完全にキョスニムのファンになりました。

それに、思っていたより韓国語もとてもお上手で、外国人ではないみたいでした。

キョスニムとお話をして本当に暖かい方だという感じがしました。 本に関してもいろいろお話しできましたしね。

それで昨日、東大邱(トンデグ)駅でお見送りしたあと、家に帰る途中もずっとキョスニムの朴訥で暖かい笑いを思い起こしていました。

義妹のおかげでよい人にお会いできて、本当によかったと思います。

お会いできて本当にうれしかったです。

ではお元気で」

不思議である。

ここに登場する「キョスニム」はまるで、私とは違う、別の誰かのように思える。

このブログに登場する「キョスニム」は、意外と果報者なのではないか、と、時折思うのである。

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まさかの旅

9月4日(日)

帰国の日である。

釜山港発、午前10時の高速船で、博多港に行くことになっていた。

そういえば行きの博多港で、「週末は台風の影響で、場合によっては欠航の可能性があります」と言われていたことを思い出し、朝、念のため船舶会社のホームページを見た。

すると、「午前中の便はすべて欠航です」とある。

けけっ、欠航?!

「まさかのドタキャン」に続いて「まさかの欠航」である。

(そっちは欠航でも、こっちは結構ではないがな…)

ずっと以前、上岡龍太郎がそんなダジャレを言っていたことを思い出した。

本来の予定は、釜山発午前10時の高速船に乗って、博多港に午後1時に着き、続いて福岡空港4時50分発の飛行機で地元近くの空港まで帰ることになっていた。

もういちどホームページをよく見ると、「午後3時と3時半の便については、お昼12時に、船を出すかどうかを決めます」と書いてある。つまり現時点では、午後の便が出るかどうかもわからないのだ。

仮に午後3時の便に乗ったとしても、博多港に着くのは午後6時。これでは、福岡空港発の飛行機には間に合わない。

この時点で考えた選択肢は3つ。

1.このまま釜山にもう1泊する。

2.今日のうちに福岡に渡って、福岡で1泊して、明日、地元に帰る。

3.船をあきらめて、飛行機で直接日本に帰る。

このうち、1と2は、あまり現実的な選択ではない。そもそも、もう1泊するなどと悠長なことは言ってられない。福岡に泊まるなんぞは、まったく必然性がない。

ということで、飛行機で帰ることにした。

その前に、そのことを連絡しなければならない人間が二人いた。ひとりは私の妻。もう一人は、福岡に住む高校時代の友人のコバヤシである。

船が博多港に着いてから飛行機に乗るまでの間、時間がすこしできるので二人で昼飯でも食べよう、と約束していたのだ。

2人にまずメールを出した。

午前9時にホテルをチェックアウトして、近くにある釜山国際旅客ターミナル(釜山港)に行って、念のため欠航の再確認と、払い戻しの方法を聞く。こういうときにいつも思うのだが、払い戻しの方法って、こちらから聞かないと教えてくれないのね。ホームページをいくら見ても、そういうことって書いていないのだ。

ま、そんな愚痴はともかく、これで船をスッパリあきらめることができた。今度はここから一番近い金海国際空港まで直接行って、日本行きの飛行機の席があるかどうかを確認しなければならない。釜山港の近くでタクシーを拾った。

「金海空港までどのくらいかかりますか?」

「30分」

「じゃあお願いします」

タクシーの運転手の機敏な運転で、30分以内に空港に到着した。

さっそく航空会社のカウンターに行く。

まず考えたのは、福岡に4時すぎ頃までに到着する便があるかどうか、であった。もしあれば、国内線をキャンセルすることなく乗り継ぐことができるからである。

まず日本の航空会社のカウンターに行く。

「福岡に行く便がありますか?」

「ありません。成田だけです」

「ほかの会社はどうでしょう」

「あるとおもいますよ」

そこで、今度は海外の航空会社のカウンターに行く。

「福岡に行く便がありますか?」

「ありますが、午前の便はすべて出てしまいました。あとは夕方5時の便になりますけど、こちらもすでに満席です」

夕方5時では話にならない。

ということで、成田便に決定。ふたたび日本の航空会社のカウンターに行く。

「まだ席がありますか?」

「ありますよ」

「じゃあ、それで片道分お願いします」

「承知しました。14時15分出発の便です」

金海空港発、14時15分…。思い出した。私が韓国留学を終えて帰国するときに乗った飛行機と同じ便である。というか、金海空港からはその便くらいしかないのだが。

これでチケットはおさえた。あとは、福岡空港発の便(国内線)のキャンセルである。

日本の航空会社のカウンターで聞いてみると、

「ここは国際線しかあつかっていないので、国内線のキャンセルはここではできません」という。

仕方がないので、日本にいる妻に電話して、キャンセルしてもらうことにした。

しばらくすると妻から連絡があり、キャンセルが無事うまくいった、料金も手数料を引いた分が払い戻される、ということだった。さすが、仕事が早い。

これで万事手ぬかりなく、手続きがすんだ。

出発までまだ時間があったので、メールをチェックすると、コバヤシからメールが来ていた。

「欠航では仕方ないですね。この旅の最初の目的がドタキャンになったうえに、帰れないとは踏んだり蹴ったりですね。とはいえ、こういう展開になるのも、貴兄らしいような気がしてしまいます。顛末はまたブログで読ませて貰います。では、無事の帰国を祈っております」

ということで、顛末を書かせていただきましたよ。

かくして、約12時間後の夜10時すぎにようやく家に着いたのであった。めでたしめでたし。

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テーマは再会・その2

9月3日(土)

大邱(テグ)2日目。

今日は午前中から、3級の時に習ったナム先生とお会いすることになっていた。

ナム先生は昨年、オンニ(姉)とともに、日本に観光にやってきた。そのとき、私たちが浅草を案内したことは、すでにこの日記に書いた

ずいぶん前に「9月2日に語学院に行きます」と連絡すると、「じゃあ、翌日の土曜日は私たちと一緒に過ごしましょう」とお返事をいただいたのである。

Photo_12 朝10時、大学の北門で待ち合わせると、ナム先生がすでにいらっしゃった。

「オンニと、ヒョンブ(姉の夫)も一緒です」

ナム先生の後ろに、オンニと、見知らぬ男性が立っていた。

「オンニが、昨年12月に結婚したんですよ!」

「それは知らなかった。おめでとうございます」

Photo_5 「今日はヒョンブの車で遊びに行きましょう」

ありがたいことに、ヒョンブは車を出してくれたのである。

4人が車に乗って出発する。ヒョンブは気さくな人で、すぐに親しくなった。「キョスニムのことは、義妹からいつも聞いているので、はじめてお会いした気がしませんよ」とヒョンブ。

「そうでしたか」

「今日はどこに行きましょうか。以前に、大邱市内の名所をまわりたいって、おっしゃってたでしょう」とナム先生。事前に私は、そういう希望を出していた。ナム先生は運転免許を持っていないため、あまり遠くには行けないだろう、と思ったからである。

「ほかにキョスニムが行きたいところはありますか?今日は車があるので、どこへでも行けますよ」

私はしばらく考えて言った。

「市外でもいいですか?」

「いいですよ」

「実は、前から行きたいと思っていたところがあるんです」

「どこですか?」

「ちょっと遠いかも知れませんが…、ミリャン(密陽)です」

「ミリャン!?」

ミリャンは、慶尚南道にある小さな町である。

以前、この町を舞台にした映画が作られた。タイトルは、ずばり「ミリャン(邦題:シークレットサンシャイン)」である。

この映画には、私が大好きな俳優、ソン・ガンホが出ている。そればかりでなく、作品としても素晴らしい。カンヌ映画祭でも賞を取ったことで知られる。韓国映画の底力を見せつけた屈指の名作である。

内容はやや難解だが、それだけに、何度見ても、見るたびに新しい発見がある。

私はそのロケ地を、いちど見てみたかったのである

「遠いでしょうか」私が心配して聞くと、

「大丈夫ですよ。大邱から70キロくらい離れているところなので、1時間半もあれば行けます」とヒョンブ。

「実は私たち、ミリャンに行ったことがないんですよ」3人とも、ミリャンははじめてらしい。「ちょうどいい機会だから、ぜひ行きましょう」

ということで、午前中に大邱の名所をまわったあと、午後にミリャンに行くことになった。

Photo_6 午前中にまわった大邱市内を歴史的名所は、大邱の中心街に位置しながら、これまでほとんど注目されていなかった場所である。ところが1年近く前、韓国KBS放送のバラエティ番組「1泊2日」でとりあげられてから、急激に市民に知られるようになり、いまでは市外からも観光客が訪れるという。ナム先生も、生まれたときから大邱に住んでいながら、この場所を知ったのはつい最近なのだという。

「キョスニムが見てまわりたい、とおっしゃったので、実は何日か前に下見に来たんですよ」とナム先生。私も、ナム先生に浅草をご案内する前に、下見を計画していたことを思い出した

やや遅い昼食をとったあと、いよいよミリャンに向かう。

Photo_8  2時半に大邱を出て、1時間半ほど、田園風景の広がる田舎道を車で走る。そして午後4時、ミリャン駅に着いた。

ミリャン駅もまた、映画のロケ地となった場所である。

駅前は大きな広場になっていて、映画の場面をパネルにした看板があちこちに立っていた。私は興奮して、写真を何枚も撮りまくった。

「私も好きなんですよ。ソン・ガンホ」とヒョンブ。「『ミリャン』も何回も見ました。でもいちばん好きなのは『反則王』です。あれは、ソン・ガンホにしかできない役です」

Photo_9 ヒョンブは、映画「ミリャン」の細かなシーンまでよく覚えていた。私たちは、映画のシーンを思いうかべながら、ロケ地巡りを楽しんだ。といっても、盛り上がっていたのは、もっぱら私とヒョンブの二人だったが。

夕方6時半、大邱に戻り、東大邱駅の近くで夕食を食べる。

そして夜8時、いよいよお別れである。

窓口で釜山駅行きのKTXの切符を買うと、「私たち、ホームまでお見送りしますよ」と言ってくれた。

駅のホームで見送られるなんて、たぶん人生ではじめてである。

「僕たちもいつか日本に行ってみたいです」とヒョンブ。

「ぜひ来てください。今度は私たちが案内しますよ」

「今度は、いつ大邱に来られますか?」

「さあ、わかりません」

「こんどいらっしゃったら、サムギョプサル(豚の三枚肉の焼肉)を食べながら、焼酎を飲みましょう。そのときは、僕の友達も連れてきますよ」

「いいですねえ。そうしましょう」

列車がホームに入ってきた。

「今日は本当に楽しかったです。おかげで私の夢が実現しました」と私。ここでいう「夢」とは、ミリャンに行って映画のロケ地をめぐることである

「私たちもですよ、キョスニムのおかげで、行ったことのないミリャンに行くことができて、ほんとうによかったです。どうか日本までお気をつけて」

列車に乗るとドアが閉まり、ゆっくりと動き出した。3人は見えなくなるまで、私に手を振った。

釜山のホテルに戻ると、さっそくナム先生からメールが来ていた。今日写したばかりの写真を、メールに添付して送ってくれたのである。

「ヒョンブが、キョスニムのことをとてもいい人だといっていました。あまりちゃんとしたおもてなしができなくて残念でしたけど、私たちはとても楽しかったので、キョスニムも楽しまれたのだろうと思うことにします。またお会いする機会もありますよね。今度は○○さん(私の妻)と一緒に、ぜひお会いしましょう」

今回の旅であらためて気づいた。「お別れする」とは、「再会を約束する」ことなのだ、と。

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テーマは再会

9月2日(金)

朝、釜山を出発して、大邱に到着した。

前回の日記で、「目的のない旅」と書いたが、実は今回の旅のテーマは「再会」である。

福岡でのコバヤシとの再会に始まり、ここ大邱では、留学時代の語学院の先生たちと再会することになっていた。

Photo_2 11時すぎ、東大邱(トンテグ)駅を降りると、構内では観光ボランティアの人たちが観光客に丁寧に応対していた。大邱は「世界陸上2011」一色、といった感じである。

(さて、昼ごはんはどこでたべようか…)

留学中によく通った店を思い出しながら、絞りに絞った結果、大学の北門前にあった中華料理屋さんで、ジャジャ麺を食べることにした。私たちによく話しかけてくれたアジュンマ(おかみさん)がいる店である。

Photo ところが店に入ると、店の作りもメニューも同じなのだが、なんとなく雰囲気が違う。それに、よく話しかけてくれたアジュンマもおらず、全然見たことのないアジュンマが店を切り盛りしている。

「店の主人が変わったんですか?」と聞くと、「そうだ」という。

ということで、アジュンマとの再会は、かなわなかった。

続いて、やはりよく通った喫茶店「カフェC」に行くが、ここの店員さんも、みな知らない人ばかりである。ま、前回訪れてから1年たっているので、仕方のないことである。

午後2時過ぎ、大学の語学院に向かう。

語学の先生方に会うのは、とても緊張する。卒業生が教員に会いに行く気持ちは、たぶんこういう感じなのだろうな、と実感した。

意を決して5階の教員室に行くと、私が習った先生が何人もいらっしゃった。2級のときのカン先生(「粗忽者の先生」)とクォン先生(「大柄の先生」)、3級のときのナム先生、特講のときのアン先生である。

「よくいらっしゃったわね。いつ韓国に来たの?」

韓国語でいろいろ説明していると、

「こうやって話していると、まるで韓国人と普通に話しているみたいよ」

と、カン先生がお世辞をおっしゃった。もちろんそんなはずはないのだが、語学院で勉強していたころと比べると、物怖じせずにお話しすることができていることは、たしかである。

そのうちに、妻が語学の授業でお世話になったチェ先生もいらっしゃった。

「お久しぶりですねえ」しばらく話に花が咲く。

「そうそう、あれ、なんだかわかります?」チェ先生がご自身の机の後ろの壁を指差した。

Photo_3 そこには、1枚の葉書サイズの紙が貼ってあった。

「去年、○○さん(私の妻)が語学院に遊びにいらしたときに、私たちほとんど出はらっていていなかったんだけど、そのとき、ハングルでメッセージを書き残してくれたのよ。それがあまりにも完璧で、感動して、今でもこうして壁に貼っているんですよ」

私は、妻がそんなメッセージを書き残していたことも知らなかったが、1年以上も前に、かつての一学生の書き残したささやかなメッセージを、今でも大事にとっておいてくれたことに感動した。

「日本に来る機会があったら、必ず連絡ください。ご案内しますから」

先生方との再会を約束して、私は語学院を後にした。やはり来てよかった、と思った。

さて夕方5時。

Photo_10今度は、4級のときのキム先生と夕食の約束をしていた。キム先生は、私たちが帰国後に語学院の先生をおやめになり、結婚された。今年の初めには男の子も生まれた。今は赤ちゃんを育てながら大学の非常勤講師をつとめている。

「キョスニム!一度ぜひ赤ちゃんを見に来てください!」と言われていたので、この機会にお会いすることにしたのである。

Photo_11 「ナンピョン(夫)もぜひキョスニムにお会いしたい、と言ってます!」ということで、赤ちゃんもまじえた4人で、大邱の近郊にある八公山(パルゴンサン)のふもとの食堂で食事をしながら、キム先生夫妻といろいろと話をした。

気がつくと夜9時近くになっていた。

「キョスニム、お時間大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ」

「じゃあ大学に戻って、少し大学の中を歩きながらお話ししましょう」

私が韓国滞在中、毎日のように大学構内を散歩していたことを、キム先生は知っていた。

かつての散歩コースを20分ほど歩きながら話をする。

といっても、私は思うように韓国語が出てこない。こんな喋りの拙い人間と話をしていてもつまらないだけだろうに、と思った。

そしてお別れである。

「今日は楽しかったです」と私。

「今度は、ご夫婦でぜひうちに泊まりに来てください」とキム先生。「子どもの手がかからなくなったら、キョスニム夫妻と私たちとで、済州島(チェジュド)に行きましょう」

「わかりました」

「必ずですよ」

午後10時、再会を約束して、お別れした。

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目的のないひとり旅

9月1日(水)

朝10時。博多港から高速船に乗って、釜山に渡る。ふたたびの韓国である。

今回の旅は釜山と大邱である。じつは「ある目的」のために今回の旅を計画したのだが、数日前になってその「目的」がまさかのドタキャンとなり、結果的に「目的のない旅」になってしまった。

ドタキャンにうなだれていると、妻が言った。

「ドタキャンなんて、韓国人よりも韓国人らしくなってますな!釜山と大邱を思いっきり楽しめばいいじゃない」

なるほど、そういう考え方もあるか。なにもこっちが必要以上に関わることはないのだ。これからはそういうスタンスでのぞむことにしよう。

釜山の繁華街を歩いていると、靴下を売っている屋台があった。韓国ではよく見かける屋台である。

12 その中に、なんと韓国KBS放送のバラエティ番組「1泊2日」のレギュラー陣の似顔絵を描いた靴下を発見!

実は先週、ソウルの明洞(ミョンドン)を歩きまわりながらずっと探していたのだが、ぜんぜん見つからなかった。以前は結構置いてあったように思うのだが、なぜか見あたらないのである。「KBS放送が肖像権を主張したので、レギュラー陣の似顔絵を描いた靴下は一掃されてしまったのではないか」というのが、私と妻の仮説であった。

ところが釜山で、新レギュラーのオム・テウンの似顔絵の靴下を発見したのだ。似顔絵靴下はまだ健在というところか。残念ながら、メンバー全員の靴下はなかったが、これからも靴下探しを続けよう。

…というわからない話題はさておき。

夕食はチャガルチ市場で、刺身を食べることにする。

このところ、毎日のように刺身を食べているが、釜山に来たからには、チャガルチ市場の近くで魚を食べたい、と思うのが自然な感情である。なにしろ漁港なので、魚が新鮮なのだ。今回の旅でも、一度は食べておきたい。

ところが、である。

ひとりで店に入って、ひとりで刺身料理を食べたのだが、これがぜんぜん美味しくない。というか、味がまったくしないのである!

ここ2週間で、いちばん不味い夕食だった。

たまたま入った店がイマイチだった、ということもあるが、いちばんの理由は、ひとりで食べたからである。あんなもの、ひとりで食べたって、美味しくも何ともない。

やはり料理は、「どこで食べるか」ではなく、「誰と食べるか」なのである。

食は人なり。「おいしいね」と言いあえる環境こそが、最上のソースである。

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コバヤシとの再会

8月31日(水)

3日間のハードな共同調査が終わり、解散後の夕方、福岡市の中心部に向かう。

福岡に住んでいる高校時代の友人、コバヤシに会うためである。

コバヤシについては、このブログにたびたび書いてきた。高校時代、最も長い時間をともに過ごした友人である。高校の後輩であるオオキとフジイさんの結婚披露宴で、二人で漫才スピーチをする予定だったのが、3月11日に震災が起こって、二人とも披露宴自体に出席できなくなってしまった。私が福岡に調査に行くこの機会に、会うことになったのである。

事前に「美味しい魚が食べたい」とだけ書いてメールを送ったら、どうやら店をあれこれと吟味してくれたらしい。

「いろんな人に、おすすめの店を聞いてみたんだぜ。それに下見までしたし。2次会はバーで飲んで、最後はラーメンで締めるぞ」ずいぶんな力の入れようである。

「ずいぶん忙しいな」

「そうだ。だからボヤボヤしていられないぞ」と、1軒目の店に入る。

こじんまりしたその店は、私が地元でよく行った「ひいきの店」の雰囲気に近かった。

席に座るなり、コバヤシが言う。

「悔しいことに、お前のブログをたまに読んでしまうが、相変わらずどーでもいいことをダラダラと書いているな。バーベキューの話とか、夕食の店を探しに行った話とか、読んだあとで『ああ、時間の無駄だった』と後悔するんだ」

「なんだ。結局読んでるんじゃないか」

「いや、面倒くさいんで斜め読みだよ。だいいち長すぎるんだよ。クドいんだ!ごくたまに、いいことは書いているんだが、それよりもどーでもいいことを延々と書いていることが多くて閉口する」

相変わらずひどい言われようである。

「じゃあ、読んでいる人たちはみんなそう思っている、ってことか」

「おそらくそうだろうよ。あれじゃ読む人がかわいそうだ。俺があれを読んで思うことは、『人間てのは、いくつになっても変わらないものだ』ということだ」

私の高校時代をよく知るコバヤシは、このブログに私の人間性のすべてが集約されていることを指摘した。

出てくる料理に舌鼓を打ちながら、いろいろ話をする。たぶん、こうして2人でじっくり話すのは、15年ぶりくらいである。

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(左上)「ごまさば」(福岡の郷土料理)

(右上)呼子のヤリイカの活き造り

(左中)タラバガニ

(右中)鯛のあんかけ

(左下)フグの唐揚げ

(右下)明太子茶漬け

「最近、唐津焼に凝ってるんだ」とコバヤシ。月に一度、唐津に通っているという。「家が近いから、ちょっと寄って見てみるか」

ということで、店を出て、コバヤシのマンションに行き、唐津焼を見せてもらう。

Photo 「ずいぶんあるねえ」

「ついつい買っちゃうんだよ」そう言うと、コバヤシは一つ一つ説明した。「これで車一台くらいは買えるな」

「一口に唐津焼といっても、絵唐津、斑唐津、朝鮮唐津など、いくつか種類がある」という話からはじまって、「焼き物は実際に使ってこそ味が出てくる」という話など、まくし立てるように蘊蓄を語りはじめる。

昔からコバヤシは趣味人だった。ジャズに凝っていたコバヤシから、高校時代はジャズの蘊蓄をひとしきり聞かされたし、大学に入ってから「そば」に凝り、二人で東京のそば屋をまわりながら、そばの蘊蓄をひとしきり聞かされた。

あの頃と変わっていないのは、私よりもむしろコバヤシではないか、と、聞きながら思った。

話がひとしきり終わって、コバヤシは唐津焼の「ぐい飲み」を一つ持ってきた。

「これ、お前にやるよ」

「いいのかい?」

「ああ。衝動買いしたんだけど、どうもあまりしっくりこなくってな。だからあまり使ってなくて、なんとなく後ろめたいんだ。お前に使ってもらえれば、焼き物も喜ぶ」

「そうかい」ということで、ありがたく頂戴した。

「さ、2次会に行こう」コバヤシのマンションを出て、中州に向かう。行きつけのバーに連れていってくれる、というのである。

バーなんてところにはじめて行ったんだが、店に入ると、カウンターがあって、後ろの棚に洋酒のビンがずらっと並んでいて、カウンターの中には、蝶ネクタイを締めてスラッとした益田喜頓みたいなおじいさんが、バーテンダーをやっている。バーテンダーのおじいさんは、カウンターの客の喋りに黙って耳を傾け、ときどき相づちを打っている。店の中では、話のじゃまにならない程度の大きさで、ジャズが流れている。

まるで映画に出てくるようなバーである。

そこでまたコバヤシが、ブランデーに関する蘊蓄を語りはじめたことは言うまでもない。

話しているうちに、聞き覚えのある音楽が流れてきた。

「おい、この曲!」と私。

「ああ、ソニー・ロリンズの『セントトーマス』だろ」とコバヤシが反応する。

「覚えているか?この曲は俺が高1の時にはじめて聞いたジャズのスタンダードだ」

「そうだったのか?」

「しかも、ソニー・ロリンズではなく、お前のテナーサックスで最初に聞いたんだぞ!」

コバヤシは苦笑した。高校1年の時、吹奏楽部の個人練習の時に、彼はいつもこの曲を音出しの代わりに吹いていたからだ。

つまり私はこの名曲「セントトーマス」を、ソニー・ロリンズの演奏ではなく、ド素人のコバヤシの演奏ではじめて知ったのである。

コバヤシは大学に入ってから、吹奏楽では飽きたらず、本格的にジャズの道に進んだ。大学の仲間たちと、ジャズバンドを結成したのである。

「大学時代に組んでいたバンドのメンバーで、プロにならなかったのは俺だけだ」コバヤシは半ば自嘲的に言った。「ま、甲斐性がないんだな」

コバヤシは大学卒業後、民間企業に就職し、バンドとは縁遠い生活が続いた。3年ほど前、福岡に転勤したのを機に、ふたたび、ジャズのアマチュアバンドに入って、楽器を再開した。

「いまは、純粋に楽しんで音楽をやっているよ」とコバヤシ。「自分のやりたいことを、ようやく自分のペースでできるようになったんじゃないかな」その感じは、いまの私にもよくわかることだった。

「福岡を離れたくないな」コバヤシが言う。「会社の命令で、いつかはまた福岡を離れくちゃならないだろうけど、でも、いずれ福岡にはまた戻りたいな」

「福岡で料理屋でも開けよ。お前、料理が好きだろう。料理の腕を磨いて、唐津焼の食器を使って…。そうしたら、唐津焼にも味が出てくるし、一石二鳥だろう」

「そんな簡単に言うけどな。福岡で料理屋をやるなんて、生半可なことではないんだぞ。それに、俺にはそんな甲斐性もないし」

うーむ。やっぱりコバヤシは昔と変わらない。

たぶん、こいつはこんなふうにしてずーっと趣味人として生きていくのだろう。

気がつくと、夜11時45分。「最後は屋台でとんこつラーメンだ!」

那珂川の川の流れを背にして、とんこつラーメンをすすった。

「今度は唐津を案内してやるよ。そのときは、1泊2日くらいは必要だぞ」とコバヤシ。彼が福岡にいるうちに、唐津に行ってみたい、と思った。

深夜12時16分。中洲川端の駅で別れ、最終の地下鉄で博多駅に戻った。

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