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眼福のひととき

9月27日(火)

7月末に発見した「資料」の調査をしていただこうと、東京からT先生をお招きすることになった。

T先生は、その「資料」の研究の第一人者である。「第一人者」とは、文字通り「第一人者」という意味で、世界のどの研究者よりもこの「資料」に精通しておられる、という意味である。

この「資料」を発見したとき、真っ先に頭に浮かんだのが、「これをT先生に調査していただいて、この『資料』の評価をおうかがいしたい」ということだった。だから、T先生をお招きすることは、私の悲願だったのだ。

研究仲間のHさんを通じて、T先生をお招きすることが実現したのである。

11時45分、駅にお迎えに行くと、すでに先生がいらっしゃった。

「はじめまして」と先生。

「いえ、…実は…、約20年ぶりです」と私。

実は大学3年の時、私は先生の講義を受けていた。だが昔から私は「ダメな学生」だったので、T先生の講義にほとんど出席することなく、結局、履修放棄したと記憶している。いまから思うと、考えられないことである。

その後数年たって先生は大学を定年退職された。もうそれから15年くらいたっているから、お歳は喜寿に近いはずである。だがそうは見えないくらい、お元気にお話しされた。

東京から来た研究仲間のHさんとも合流して、午後1時から職場の図書館の一室で資料調査が始まった。

広げられた資料を目の前に、先生はじつによどみなく、そしてわかりやすく、資料の解説をされた。部屋には私のほかにも、関係する同僚や職員、さらには話を聞いてかけつけてくれた同僚など、10人ほどがいたが、専門外の人たちも聞き入っている。さながら、講義を受けているような感じである。

そして適確に「資料」を見るポイントを説明され、理路整然と、この「資料」の評価をされていったのであった。

それは、先生をお招きする前に、私が素人ながら漠然と感じていた評価と同じだったので、私は安堵した。

先生は「資料」を目の前にして、じつにさまざまなお話をされた。それはどれも、興味深いものばかりだった。

目の前にあるのは古びた「資料」である。別に美術的な価値や骨董的な価値があるわけでもない。専門外の人が見たら、いったいこの「資料」のどこに価値があるのだろう、と思うかも知れない。

だが先生は、そこに生命を吹きこもうとしているように、私には思えた。

そしてその古びた「資料」を通して、その「資料」に関わった人間や社会を見つめているように感じた。

それはあたかも、野球選手が野球を通して人生を語るように、陶芸家が焼き物を通して人生を語るように、である。

先生をお招きして、本当によかった、と思った。

午後4時半、調査は終了した。先生を駅までお送りした。

「今日は本当にありがとう」と先生。

「こちらこそ、今日は本当にありがとうございました」と私。

「おかげで、眼福にあずかりました」

「ガンプク、ですか?」

「眼が幸福だった、という意味の『眼福』です」

先生は、別れ際、嬉しそうにそうおっしゃった。

しかし今日、いちばん幸福だったのは、T先生にご覧いただいて生命を吹きこまれた、あの古びた「資料」だったのではあるまいか。なにしろ50年以上もの間、誰の目にもふれずに、書庫の奥でひっそりと眠っていたのだから。

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