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10年目の初対面

12月10日(土)

首都圏のある場所で、カルチャースクールの1日講師をつとめることになった。連続講座の1回分を担当することになったのである。

新幹線と在来線を乗りついで、約4時間かけて目的地に到着する。

首都圏には、星の数ほど同業者がいるだろうに、わざわざ時間とお金をかけて遠くから呼ぶに値する人物か?俺は。…と考え出すと、だんだん落ち込んできた。だが、師匠から頼まれた仕事なので、引き受けないわけにはいかない。

カルチャースクールで講師をつとめることは、嫌いではない。というより、やったらやったで楽しいのだが、自分の親の年齢ほど離れた人生の先輩たちの前で講釈をたれる、というのは、やはりどこか後ろめたい感じがする。

それに私が話すことといえば、まったく地味な内容のものばかりで、集客力が異常に弱いのだ。

会場に着き、事務担当のOさんとご挨拶する。

「今日は何人くらいの方が聞きにいらっしゃるのでしょうか」私はOさんに聞いた。

「20数名、といったところです」

「はあ」

20数名、という数が、多いのか少ないのかわからないので、考えあぐねていると、それを察してか、Oさんが続けた。

「うちの教室では多い方ですよ。最近は、お客さんを集めるのに四苦八苦しているのです。でもこの分野は愛好家の方が多いですから、わざわざ他県から講座を聴きに来る人も多いんです」

「あちこちのカルチャースクールを渡り歩いているというわけですね」

「そうです。ですから、耳が肥えている方が多いです」

「そうでしょうね」そのカルチャースクールは、首都圏に広く展開している老舗なので、常連さんが多いことは容易に予想できた。それだけに、なおさらプレッシャーがかかる。

「そうそう、先ほども、おひとり電話をいただいたんですよ。先生がわざわざ来られるなら、ぜひ講座を聞きに行きたいと」

「私の話をですか?」

「ええ。電話では横浜の方だとおっしゃっていましたが、お心当たりはありませんか?」

「さあ。…そもそも私は、首都圏ではまったく無名な人間ですからねえ」

なにしろ、首都圏のカルチャースクールで講師をつとめるのは、これがはじめてなのだ。

午後3時半、講座開始。

因果なもので、話しはじめると、だんだん調子づいていく。2時間の講座は、あっという間に終わってしまった。

終わったあとも、何人かの方から質問ぜめにあう。やはり、熱心な方たちばかりだ。

質問が終わると、ひとりずつ教室を出ていかれるのだが、お一人、みんなの質問が終わるまで、じっと教室で待っている老紳士がいた。

こぎれいなスーツを着た、まさに「老紳士」というにふさわしい方である。

最後の人の質問に答え、その方が教室を出ると、その老紳士が私のところに近づいてきた。

「先生。今日はありがとうございました」

老紳士は深々と頭を下げたあと、私に名刺をさしだした。

名刺には、「社会保険労務士」の肩書きと、見覚えのある名前が書いてあった。

「Yさん!」私は思わず声をあげた。

「覚えていらっしゃいましたか」

「もちろんです」

いまから10年ほど前、ほとんど目につかないような雑誌に論文を書いたとき、Yさんはどこからか、私の論文の存在を知って、読んだ感想を長い手紙に書いておくってくださった。そこには、過分の褒め言葉が書かれていた。

それから数年ほどして、私はそれまでの研究をまとめた専門書を出した。業界ではあまり相手にされず、なかには冷ややかな批評をする者もいた。

本が出たあと、Yさんは、本の感想を書いて送ってくださった。やはりそこにも、過分の褒め言葉が書かれていた。

自信を失いかけていた私は、そのお手紙にずいぶんと励まされたのである。

「ようやくお会いできました。先生がこちらの講座でお話しなさることを知って、横浜からかけつけました」

横浜…。さっきの電話の主は、Yさんだったのだ。

親子ほど年の離れていると思われる私のことを、Yさんは折り目正しく「先生」と呼んだ。

「先生、この本」

そういうと、Yさんはカバンから1冊の本を取り出した。私が数年前に書いた専門書である。

「この本、もう何度読み返したことか…。私が独学でコツコツ勉強していく上で、この本にどれだけ励まされたことか」

私は面はゆかった。私は本を出してから、自分の本を読み返していない。自分にとっては、未熟で、不本意で、恥ずかしくて、二度と読みたくないものなのだ。

おそらく、私よりYさんの方が、私の本の内容に詳しいのかも知れないな、と思った。

「いえ、励まされたのはこちらの方です。お手紙をいただいて、勇気づけられました」

「今日はお話が聞けて本当によかったです。…このあと時間がございますか?」

「いえ、じつはこのあと、すぐに新幹線で帰らないといけないのです」

「そうですか。少しお話でも、と思ったんですが…。この次においでのときは、ビールでも飲みながらお話をしましょう」

「そうですね。ぜひ、そうしましょう」

「今日は本当にありがとうございました」

老紳士のYさんは、何度も深々と頭を下げて、教室を出ていった。

「お知り合いの方だったんですか?」事務担当のOさんが、教室に入ってきた。

「ええ。10年ほど前にお手紙をもらった方で、今日はじめてお会いしたんです」

「そうでしたか。あの方が横浜の方だったんですね」

「そうです」

「今日はみなさん、とても満足そうな顔で教室を出ていかれてましたよ」

「そうですか」

「また機会がありましたら、ぜひよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

外に出ると、すっかり日は暮れていた。在来線に乗って、東京駅に向かう。

私はじつに久しぶりに、缶ビールを買い込んで、新幹線に乗り込んだ。

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