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鑑識眼

2月29日(水)

用事があって、久しぶりに福岡に住む高校時代の友人、コバヤシに電話した。

たまにこのブログを読んでいるようで、いつものようにダメ出しが始まる。いわく、

「前置きが長すぎる」「長い。くどい。もっと短くしろ」「学生とのやりとりは、当事者は面白いかも知れないが、関係のない人間が読まされても、別にどうということはない」「韓国映画とむかしの歌謡曲の話は、興味がないので読み飛ばしている」「たかだか学生との飲み会の席でいじけるのはみっともない。高校時代から何も変わっていない」等々。

「あんなもの、マジメに読む人の気が知れない」とコバヤシ。「たまにいいことを書いてはいるんだが」

「たまに、かよ!」

「そう、たまに」

「たとえばどんな話?」

「忘れた」

そのていどのものらしい。

長電話が終わり、電話を切ったあと、私の膨大なCDコレクションの中から、矢野顕子のCDを探すことにした。

先日、久しぶりにベスト盤を聴いてからというもの、ふたたび矢野顕子の歌にはまってしまったのである。

だが、実は矢野顕子のCDをそれほど持っているわけではない。「峠のわが家」と、「Super Folk Song」くらいである。

膨大なCDコレクションの中から、ようやくこの2枚を見つけ出した。

そこで、思い出した。

「峠のわが家」は、私の大好きな「David」という曲が入っていたから買ったのだが、「Super Fork Song」は、コバヤシにすすめられて買ったのだった。

大学生のころだったか、コバヤシが私に言った。

「おい、矢野顕子の『Super Folk Song』、そうとういいぞ!」

日本のミュージシャンをめったにほめないコバヤシが言うのだから、これはそうとういいのだろう、と思い、CDを買ったのである。

だがそのときは、まだ「ピアノ弾き語り」というのが、今ひとつピンと来なかった。どちらかといえば、「峠のわが家」的な、つまりYMO的な編曲の方が好きだったのである。

この年齢になって、いまあらためて『Super Folk Song』を聞くと、そうとういい。

もちろん、コバヤシでなくとも、このアルバムがそうとういいことは多くの人が認めていることなのだが、あの時点でのコバヤシの鑑識眼がたしかなものであったことは、間違いないのである。

そして私が、コバヤシにすすめられるがままに買ったということは、音楽に対するコバヤシの鑑識眼に全幅の信頼を置いていたからだろう。

いま私が、妻の韓国映画評に全幅の信頼を置いているがごとく、である。

大事なことは、「鑑識眼のたしかな友人」を持つことだ。これで、人生の大半はなんとかなる。

これが今日の結論。

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