今こそ読め、『櫻守』
4月29日(日)
「大型連休前半」でしたことのひとつは、昨年韓国で公開され、このたびようやく日本で公開された韓国映画「ワンドゥギ」を、劇場で見たことである。
感想については、以前書いたことがあるので書かないが、やはりキム・ユンソクの演技はとてもすばらしい、の一言に尽きる。
もう一つは、水上勉の小説『櫻守』(新潮文庫)を読んだことである。
以前にも読んだことがあったが、もういちど、読んでみることにした。
この小説は、桜の木の保護に生涯を捧げた櫻守・竹部庸太郎(モデルは実在の人物、笹部新太郎)、その竹部の園丁をつとめた北弥吉という人物が主人公であるが、実はこの小説は、弟子の弥吉から見た、師匠・竹部の物語であるともいえる。
この中で竹部は、弥吉により理想的な師として語られている。桜に取り憑かれた男、竹部は、桜のことしか頭にない。だが、桜と向き合うことを通じて、誰よりも人生の本質をつく、魅力的な人物として描かれている。
桜に関するさまざまなエピソードもまた、印象深いものばかりである。
その中でも、岐阜・根尾の薄墨桜のくだりは印象的である。いまでは「日本三大巨桜」のひとつと呼ばれる、樹齢1500年のこのエドヒガンは、かつて、学者も役人も見放した老木であった。それを守りぬいたのは、学者でも役人でもない、地元の人びとであった。
いまこのくだりを読み返すと、老桜を後世に残していこうという人びとの思いが、昨年の震災で損なわれた資料を守り、伝えていこうという、いまの私の仲間たちの思いと、重なって見えてしまうから不思議である。このたびの資料救済活動を通じて痛感したことは、「学者や行政は、ほとんど頼りにならない」ということだった。「守ろうと思う人が守らなければ、守るべきものは守れない」というのが、今回の震災を通じて私たちが学んだことである。それは、根尾の薄墨桜のときと、まったく同じである。
そしてこの小説を貫くテーマも、そこにあるような気がしてならない。滅びゆく自然を、少しでも長らえさせたい、という者たちの思いが、櫻守を通じて、語られるのである。
岐阜の荘川桜のくだりも、いい。
ダムの底に沈む村。そこに二本の桜の老木があった。竹部は地元の人の熱意にほだされ、ダムの底に沈んでしまう前に、その桜の老木を別の場所に移植することを引き受ける。
だが、学者たちはこれに反対した。なにしろ、1つの老木だけで40トンもあるからである。これを、傷つけることなく移植することは、不可能であると考えられていたのである。愚挙である、と批判する者もいた。
「しかし、桜の移植は、それほど愚挙だろうか。むしろ、祖先の土地、幼時から愛着をもってきた村であるからこそ、菩提寺の庭に育った桜を移植したいのである。四百年近くも生きた桜であればこそ、村の魂ではないのか。おそらく、あの二本の巨桜は、いま、水没反対を叫んでいる人たちよりも古く生き、長いあいだ、荘川の流れを眺めてきているはずだった。大事にしなければならないのが生命だとしたら、あの桜こそ大切なのではないか」(『櫻守』)
もちろん、ダムによって失われたものは数多くある。守るべきものは、ほかにもあったのかも知れない。だがいまでも、移植された二本の巨大な老桜を見に訪れる者があとを絶たないのは、「守りたいという強い思いが、この桜を守った」という物語が、桜とともに語り継がれているからである。
以前に読んだときには、考えもしなかったことである。やはり名作は、何度でも読むべきである。
主人公の弥吉は、48歳の若さで死んでしまう。師である竹部よりも早く死んだのである。誰もが、弥吉の死を惜しんだ。そのときの竹部の言葉が、印象的である。
「人間、死んでしまうと、なあんも残らしまへん。灰になるか、土になるかして、この世に何も残しません。けど、いまわたしは、気づいたことがおす。人間はなにも残さんで死ぬようにみえても、じつは一つだけ残すもんがあります。それは徳ですな……人間が死んで、その瞬間から徳が生きはじめます……北さん(弥吉)を桜の根へ埋めたげようという村の人らも、わたしらも、北さんの徳を抱いておるからこそやおへんか。これは大事なこっとすわ」
人間に対するあたたかい眼差しが、美しい京言葉と、誇り高い筆致で綴られている。
くり返していう。何度でも読むべきである。
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